森林ジャーナリストの裏ブログ

表ブログに書けない、書く必要もないドーデモ話をつらつらと。

土倉庄三郎還暦記念写真

2007-04-02 00:26:24 | 幻の写真・図

ちょっと貴重な写真を手に入れた。

吉野の山林王だった土倉庄三郎のものである。彼こそ、吉野を日本に並ぶもののない林業地とし、明治の元勲とも懇意で時代を動かしたとも言える人物である。

手に入ったものは、かなり大きな集合写真(100人くらい写っている)なので、そのままだと人物の顔がわからないため、トリミングして拡大した。真ん中当たりに位置するのが土倉とその妻だ。

注目してほしいのは、前列に座っている一群。わかるかなあ。ちょっと日本人離れした人々を見つけてほしい。7人くらい、和服でなくて、チャイナ服のような、ポンチョのような洋装である。女性もいるようだ。

彼らは、台湾の先住民。いわゆる高砂族だ。その通訳もいるらしい。
この写真は、明治33年、土倉の還暦祝のものである。その記念に高砂族の頭目を日本に招いた時のものだ。ちょうど、台湾で2万ヘクタールの植林を始めていたから、吉野で造林技術を教える意味もあったのかもしれない。吉野では、踊りなども披露したと伝えられる。

土倉家が、もっとも興隆していた時代だったのかもしれない。


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28 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2007-04-29 08:44:33
衰退していった過程を知りたいです。
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 (田中淳夫)
2007-04-29 22:37:42
土倉家逼塞の理由は、土倉研究者にとって、最大の謎です。って、土倉研究者は何人いるんだ?
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私も知りたいです。 (高木 幸子)
2007-06-20 00:40:25
 あれだけスケールの大きい偉業を為し、ご子息達も
優秀な人材が揃っていた土倉家の「今」が不思議です。

 龍次郎さん、富子さん、政さんと立派なお子さん達のその後は?等々。

田中様のご研究の成果が楽しみです。

一日も早く発表して下さい。首を長くしてお待ちしております。
 
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子孫 (田中淳夫)
2007-06-20 11:28:04
土倉龍次郎の子孫については、面会することができました。その話は、表プログ?のコチラに。

http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2007/06/post_9d98.html
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カーネーション先駆者土倉龍次郎 (宇田 明)
2008-08-30 00:51:32
1.日本のカーネーション生産は、1909年(明治42年)に始まり100年になります。実質的な第1号は土倉龍次郎です。
2.私は(社)日本花き生産協会の「カーネーション生産100周年記念誌」の編纂をお手伝いしています。
3.土倉龍次郎は、1936年(昭和11年)に、名著「カーネーションの研究」を著すとともに、品種改良に尽力したカーネーション業界の偉人です。
4.土倉龍次郎の功績を紹介するに当たって、1910年(明治43年)以前の行動と、土倉家についてはまったく花業界では不明です。
5.妹が駐米全権大使夫人との本人の記載から、相当な家柄とは推測していました。
6.土倉家は台湾での林業家だったのですか。
 土倉龍次郎は育成した品種に、ドクラス・スカーレットなどと命名していることから、「どくら」と呼んでいますが、正しいのでしょうか。
7.土倉家、土倉龍次郎の前半生をお教え下さい。
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土倉龍次郎の生涯 (田中淳夫)
2008-08-30 09:55:03
来年がカーネーション栽培100周年ですか。「カーネーションの父」土倉龍次郎さんの顕彰は、ぜひやってほしいと思います。
彼の人生を語ると、実に波瀾万丈でとてもコメント欄では語りきれないのですが……父・土倉庄三郎に関しては、このブログのほか表ブログにもいろいろ書いているように、吉野の山林王でした。その次男である彼は、台湾で造林事業のほか樟脳事業や発電事業などを手がけました。台湾では「発電の父」ですね。
しかし本家が傾き、すべての財産を処分して借金の品埋めに回して帰国しました。そこで花卉栽培を始めるんですが、たしか最初は目黒ではなかったかな。日本でほとんど最初の温室栽培を始めたと聞きました。
しかしそこも本家の借金のために手放し、中野に移ったと聞いています。
妹の一人政子は、アメリカ留学後後の外務大臣内田康哉と結婚し、中国赴任中は西太后と親しかったことで有名です。
……私の方こそ、カーネーションの父としての龍次郎について教えてほしいですね。
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カーネーションの父土倉龍次郎 (宇田 明)
2008-08-30 14:09:25
田中様

早速に貴重な情報をありがとうございました。
土倉龍次郎の1910年(明治43年)以前の活動がわかるにつれ、驚きの連続です。
他の花栽培の先駆者、特に玉川温室村の生産者同様、龍次郎も米国帰り程度にしか考えていませんでした。

質問
カルピス株式会社の社史に、創業者三島海雲が、土倉龍次郎(国内屈指の山林業)と親交があったと記載されています。
三島の略歴には、1903年10月 土倉五郎と北京で雑貨貿易商「日華洋行」設立、1904年12月 土倉四郎の依頼を受け、軍馬調達のためモンゴルに入る。
と記載されています。
この、土倉五郎、四郎と龍次郎との関係をお教え下さい。
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土倉兄弟 (田中淳夫)
2008-08-30 15:14:01
土倉四郎、五郎は、龍次郎の弟ですよ。三島海雲は彼らと大陸で商売をするのですが失敗。ところが蒙古で覚えたヨーグルトや馬乳酒をヒントにカルピスを発明するのですが、それを事業化する際に龍次郎に支援者を紹介してもらうなどお世話になっています。
ちなみに四郎は、その後正金銀行のシアトル支店長となり、彼がカーネーションを日本に持ち込んだのだと聞いています。
また、戸籍上の表記は「龍治郎」です。

次はメールにしましょう。
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祖母、泰子 (土倉の末裔は、、、)
2009-04-03 15:35:36
私の祖母は庄三郎の孫娘で、政子にとてかわいがられていました。赤ん坊のころ西太后と一緒に写真をとったとか聞かされました。わたしより 兄の方がもっと詳しい話を知っていると思いますが、、、、
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ご連絡ください (田中淳夫)
2009-04-03 16:03:13
メールありがとうございます。
土倉家の係累の方ですか。祖母が泰子というのは、長男・鶴松の一統でしょうか。
よろしければ、メールをいただけると有り難いのですが。お願いします。
QZB00524@nifty.ne.jp
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