ちょっと貴重な写真を手に入れた。
吉野の山林王だった土倉庄三郎のものである。彼こそ、吉野を日本に並ぶもののない林業地とし、明治の元勲とも懇意で時代を動かしたとも言える人物である。
手に入ったものは、かなり大きな集合写真(100人くらい写っている)なので、そのままだと人物の顔がわからないため、トリミングして拡大した。真ん中当たりに位置するのが土倉とその妻だ。
注目してほしいのは、前列に座っている一群。わかるかなあ。ちょっと日本人離れした人々を見つけてほしい。7人くらい、和服でなくて、チャイナ服のような、ポンチョのような洋装である。女性もいるようだ。
彼らは、台湾の先住民。いわゆる高砂族だ。その通訳もいるらしい。
この写真は、明治33年、土倉の還暦祝のものである。その記念に高砂族の頭目を日本に招いた時のものだ。ちょうど、台湾で2万ヘクタールの植林を始めていたから、吉野で造林技術を教える意味もあったのかもしれない。吉野では、踊りなども披露したと伝えられる。
土倉家が、もっとも興隆していた時代だったのかもしれない。
優秀な人材が揃っていた土倉家の「今」が不思議です。
龍次郎さん、富子さん、政さんと立派なお子さん達のその後は?等々。
田中様のご研究の成果が楽しみです。
一日も早く発表して下さい。首を長くしてお待ちしております。
http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2007/06/post_9d98.html
2.私は(社)日本花き生産協会の「カーネーション生産100周年記念誌」の編纂をお手伝いしています。
3.土倉龍次郎は、1936年(昭和11年)に、名著「カーネーションの研究」を著すとともに、品種改良に尽力したカーネーション業界の偉人です。
4.土倉龍次郎の功績を紹介するに当たって、1910年(明治43年)以前の行動と、土倉家についてはまったく花業界では不明です。
5.妹が駐米全権大使夫人との本人の記載から、相当な家柄とは推測していました。
6.土倉家は台湾での林業家だったのですか。
土倉龍次郎は育成した品種に、ドクラス・スカーレットなどと命名していることから、「どくら」と呼んでいますが、正しいのでしょうか。
7.土倉家、土倉龍次郎の前半生をお教え下さい。
彼の人生を語ると、実に波瀾万丈でとてもコメント欄では語りきれないのですが……父・土倉庄三郎に関しては、このブログのほか表ブログにもいろいろ書いているように、吉野の山林王でした。その次男である彼は、台湾で造林事業のほか樟脳事業や発電事業などを手がけました。台湾では「発電の父」ですね。
しかし本家が傾き、すべての財産を処分して借金の品埋めに回して帰国しました。そこで花卉栽培を始めるんですが、たしか最初は目黒ではなかったかな。日本でほとんど最初の温室栽培を始めたと聞きました。
しかしそこも本家の借金のために手放し、中野に移ったと聞いています。
妹の一人政子は、アメリカ留学後後の外務大臣内田康哉と結婚し、中国赴任中は西太后と親しかったことで有名です。
……私の方こそ、カーネーションの父としての龍次郎について教えてほしいですね。
早速に貴重な情報をありがとうございました。
土倉龍次郎の1910年(明治43年)以前の活動がわかるにつれ、驚きの連続です。
他の花栽培の先駆者、特に玉川温室村の生産者同様、龍次郎も米国帰り程度にしか考えていませんでした。
質問
カルピス株式会社の社史に、創業者三島海雲が、土倉龍次郎(国内屈指の山林業)と親交があったと記載されています。
三島の略歴には、1903年10月 土倉五郎と北京で雑貨貿易商「日華洋行」設立、1904年12月 土倉四郎の依頼を受け、軍馬調達のためモンゴルに入る。
と記載されています。
この、土倉五郎、四郎と龍次郎との関係をお教え下さい。
ちなみに四郎は、その後正金銀行のシアトル支店長となり、彼がカーネーションを日本に持ち込んだのだと聞いています。
また、戸籍上の表記は「龍治郎」です。
次はメールにしましょう。
土倉家の係累の方ですか。祖母が泰子というのは、長男・鶴松の一統でしょうか。
よろしければ、メールをいただけると有り難いのですが。お願いします。
QZB00524@nifty.ne.jp