人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

異常気象

2009-07-29 20:10:58 | Weblog
 竜巻だ集中豪雨だと、ここのところ異常気象に関するニュースが
続いている。原因は、太平洋高気圧が弱く、梅雨前線がなかなか消滅
しないことにあるようだ。

 その遠因は、遠くペルー沖に生じているエルニーニョ現象による
ものだと聞けば、エルニーニョ現象の影響の大きさと、地球も比較的
小さなものだと思わざるを得ない。

 一方、人の世の変化が自然現象にも現れるようなことが過去の歴史
にも残っている。不思議なことである。アメリカ発のバブル経済の破綻と
世界的な経済混乱、自民党から民主党へと歴史的な政治転換の予測
等々と人心を揺るがせかねないような大きな出来事が起きている。

 過去にも政治経済など大きな節目に当たる時には、良く似た現象
が起きている。まさに時代の変化は、自然現象に映し出されている
ような気がしてならない。

 その集中豪雨であるが、過去にも記録がないような1時間に100ミリ
を超えるような大雨である。100ミリと言えば平均で10センチと言う
ことであり、降ってくる雨の量に対し排水が追いつかない。

 このような大雨になると10メートル先でさえ見えないくらいだと
言い、雨音によって地域放送でさえ聞き取れなかったとのことである。
息苦しさを覚えるような降り方だと言うから恐怖感さえ覚えるのでは
ないだろうか。水に閉じこめられているような感じだったのではない
だろうか。

 しかし、被災地の映像を見て思うのは、土砂崩れの地域は何らかの
人為的なものが関与しているように思えてならない。例えば産廃を
埋めているところだとか、本来は谷であったところを埋め立てている
場所だとかである。

 谷になっている場所は、本来、自然に水が流れるようになっている
場所であり、こうしたところに家を建てるのは非常に危険である。
通常はは何の変化もないように見えても地下には水路があり、その上
を土が覆っているだけである。いったん、大雨が降れば地下深くには
水路が出来、上に乗っている土砂は水で軽くなり簡単に流されてしまう
ようなことになりかねない。

 また、気になるのは土砂と共に押し流されている材木の種類である。
杉であろうか檜であろうか。いずれにせよ広葉樹以外の木であり人工林
である。日本の場合、こうした杉や檜の人工林が民家近くに迫っている。
こうした山林は非常に崩れやすいと言うことではないだろうか。

 今までにも何度も同じ事を経験し、同じ災害を繰り返している。
もっと家を建てる人も過去の事例を教訓に生かしたいものである。
これからは地球温暖化問題と相まって、益々このような事例が増える
のではないだろうか。

 また、今年懸念されているのは食糧問題である。このまま長雨と
冷夏が続けば1993年の不作の年と同じような事になりかねない。
あの時はまずくて食べられないような外米まで輸入して緊急事態を
乗り切ったという苦い経験がある。

 昨今は世界的な異常気象が続いている。緊急輸入が可能かどうか
さえも分からない。中国など大量消費国と輸入を巡って争うような
ことになりかねない。ことは食糧問題である。私達も個人レベルで
心づもりしておく方が良いのではないだろうか。

 また、この地方も明日からは再び雨が降り始めると言われている。
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夏休み活弁シアター

2009-07-27 05:27:05 | Weblog
 26日も雨であった。その雨の中を広島市へ向かった。まさしく
豪雨の中へ突入するかの如き覚悟であった。

 しかし、意外にも私達が屋外を移動中の時には、激しい雨に遭遇
することはなかった。雨が降り始める前に駅に着き、雨が上がって
から電車を降りて家に向かった。行きも帰りも傘を開いたのはほんの
少しだった。帰りの電車の窓から見る景色は暗い雲が低く垂れ込め、
川は濁流であった。

 今年も青春十八切符を買い普通電車を乗り継いで広島へ向かった。
行きは良かったが、さすがに帰りは少しきつかった。しかし、懸念
していた電車の遅れは山口と広島間だけで、広島駅からの快速電車
は定刻通りの発車であった。ラッキーであった。

 私達が向かった広島映像文化ライブラリーでは特別企画として
佐々木亜希子さんの活弁公演と子ども達を対象にした活弁のワーク
ショップを開いていた。

 今年は昨年に引き続き二度目の広島訪問であった。今回はピース
ボートで一緒だった友人も福山から来ると言うことで、会うのが楽しみ
であった。

 子供向けのワークショップでは、今年で三度目だという子供さんも
いて、素晴らしい出来映えであった。リハーサルでは色々と注意されて
いたようだが、いざ本番ともなると、そつなくこなし堂に入ったもので
あった。

 子ども達の活弁発表に続いて師匠である佐々木亜希子さんの公演が
行われた。今回はキネマ旬報ベストテンで三年連続ベストワンに選ばれた
という小津安二郎監督作品の一つ「浮草物語」であった。

 旅芸人一座を題材にした人情もので音楽と弁士の語りがとても良く
合っていて、ほろりとさせられるような活弁であった。

 翌27日は私達の番であった。この日は岡山の光南台公民館主催の
子供向け活弁ワークショップ初日であった。ところが当てにしていた
地元の小学校は生徒数も少なく、その上、学校行事と重なっていた
ため参加者はゼロであった。

 当日、来てくれたのはお年寄りの女性が大半であり、おばあちゃん
に着いてきたという子供も私達の活弁が終わると帰ってしまった。

 残ってくれた人も、これから活弁のワークショップを始めますと
言うと、みんな後込みしてしまい、それでは28日から仕切直しで
参加者を集めましょうと言うことになった。

 この日の私達の活弁は「突貫小僧」であった。インドネシアから
の研修生だという若い男性数人も来てくれ、なかなか賑やかであった。
笑い声も聞こえ一応の成功だったと言えよう。
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天体ショー

2009-07-23 05:29:27 | Weblog
 日本における久々の皆既日食と言うことで、私達の目は空に釘付け
になった。しかし、梅雨明け宣言の未だ出ていない、ここ瀬戸内海
地方は厚い雲に覆われていた。

 この日、私は久々に雨が上がったので、先日のバーベキューの片付け
や今年最後となる桃のを収穫に忙しかった。桃を収穫し終わって何気
なく空を見上げると薄い雲の間から、既に相当部分が欠けた太陽が
見えていた。

 とりあえず大急ぎで家に帰り、買って置いた観測用の眼鏡で覗いて
みると三日月状になった太陽が見えた。午前11時頃のことであった。
太陽は、わずかに左の部分を残すのみであった。

 天体観測が趣味である私にとって久々に大空を見上げた。大人に
なって日食をこんなに熱心に見た記憶がない。この日の月(新月)は
太陽の前面を少し下寄りに通過して、いつしか日食は終わった。

 実は、この日使った観測用の眼鏡も事前準備したものだが、しまい
込んでいた反射望遠鏡も事前に組み立てて待っていた。前日から晴れて
いたら望遠鏡で見てみたいと思っていたからだ。しかし、前日までは
災害を伴うほどの激しい雨であった。そんなわけで、この日は観測用
の眼鏡だけで終わってしまった。

 山口県の防府では大きな被害が出ており、岡山県でも美作地方では
大雨前の竜巻で大きな被害が出ていた。被災地の皆さん方にとって
日食を眺める余裕などなかったことであろう。心からお見舞い申し
上げたい。

 さて、この日食、色んな形で報道されているのでご存じの方も多い
だろうが、太陽の前面を月が通過することから起きる現象だ。しかし、
太陽と月との距離や太陽の大きさと月の大きさなど、とても偶然とは
思えないようなことがなければ、このような事にはならない。

 地球にとって衛星の月は異常すぎるほど大きい。資料によると月より
400倍大きい太陽が月の400倍遠くにあるために起きると書かれて
いる。こうした大きさや位置関係は偶然だと言っても出来すぎている
感がある。

 日本ではトカラ列島の悪石島が最良の観測ポイントだとされたが、
残念ながら厚い雲に覆われて観測できなかったようである。一方、
洋上での観測や硫黄島での観測は可能だったようで、皆既日食の状態
やダイヤモンドリングなどがテレビ画面に映し出されていた。実に
素晴らしい光景であった。

 今はテレビというものがあり、その映像も格段に進歩しているので
望遠鏡を設置しなくても、こうして間近に見ることが出来る。日本は
昔から一番東にあって日出る国と称していた。その国での皆既日食は
久々のことであった。
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いよいよ総選挙

2009-07-21 05:40:52 | Weblog
 何と、ここまでこぎ着ける事の長かったことか。やっと麻生総理
の決断により衆議院の解散総選挙となった。本日21日解散である。

 既に前哨戦とも言うべき東京都議選は民主党が圧勝している。歴史
の歯車はギシギシと音を立てながらも、確実に回転を始めたようで
ある。

 今のところ余程の事がない限り、民主党が第一党になることは間違
いなさそうである。この間、小沢さんと西松建設間の政治資金問題、
鳩山さんの政治資金処理問題が取りざたされ、小沢さんが無念の涙を
飲んで党の代表を去るという一幕もあった。自民党にこそ政治資金
問題は多々あるにも関わらず、何故、民主党にだけという疑問は
大いに残るが、とにもかくにも歴史は確実に動いているようだ。

 それもこれも国民自身が何を選択するかにかかっている。戦後、
経済が復興し、未曾有の経済大国になり、バブル経済を経験し、
そのバブルが崩壊したと思ったら、またまたアメリカ発のバブルで
経済混乱に巻き込まれ、そうした経験から、やっとグローバル経済
の大きな問題点が明らかになってきた。

 経済発展は豊かさだけでなく、人間関係のゆがみ、会社と人の
繋がり、環境問題等、あだ花のように大きな問題を人間社会に
もたらしてきた。もっと自然に寄り添った人間らしい生き方が
いま問われている。

 そうした負の部分は将来を担う子ども達に大きなしわ寄せとなって
押し寄せている。また、社会的な弱者と言われる人達に暗い影を落と
している。加えて新型インフルエンザやエイズと言ったウイルスに
よる病気が私達をじわじわと襲っている。

 何かしら時代の変わり目を暗示するような出来事が次々と生じて
いる。このような状況の中で何も感じないという人はいないだろう。
明治維新前に伊勢神宮のお札が空から降ってきたと大騒ぎした事件
があったようだ。オタマジャクシが空から降ってきたという話と、
どこか似てはいないだろうか。

 いずれ過ぎ去ってしまえばそのような事など忘れ去られてしまう
のだろう。何しろ私達が生きて体験できる年数は、たかだか八十年
あまりである。人が入れ替われば、また、その時代の新たな問題や
事件が始まるに違いない。それが繰り返されてきたのが人間の歴史
である。

 いつか私達もこの時代から消えていく日がやってくる。そう考える
と世の中の出来事が不思議な事のように思えてくる。私達は一種の
幻想を見ているのではないだろうか。マトリックスのように自分の
脳に描き出される幻想世界に生きているように思えることもある。

 そんな戯言はともかく、ここのところ激しい雨が降っている。今朝も
また降り始めた。こんなお天気の晴れ間を利用して桃の収穫を行った。
種類は白鳳と清水白桃である。実に不思議な事ではあるが我が家の
枇杷も白桃も収穫期が他の畑より早い。品種の問題ではない。これも
大きな疑問の一つである。本格的に白桃が店頭に出始めるのは八月に
入ってからである。

さあ、みんな投票に行こう。そこから何かが始まるに違いない。
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乱世、「すべては人のために」

2009-07-10 15:44:58 | Weblog
 今は乱世である。そして互いに明日をも知れない世の中である。
インフルエンザの報道は一時ほどではなくなったが、決して消えて
しまったわけでも終息したわけでもない。依然として感染は私達の
首を真綿で絞めるように続いている。

 そして感染を続ける内にいつ強毒性のものに変貌するかも分からない。
今年の冬には、とんでもない事が生ずるかも分からない。些細な事で、
もめているときではない。死んでしまえばそれまでである。

 権勢を誇っているものも、いつ足下を掬われるか分からない時代
である。そして誰がいつどんな死に方をしても不思議ではない時代
でもある。私達はいさぎよく死ねる覚悟をしておく方が良いのかも
知れない。

 マスコミが作り上げた有名人が総理候補にせよと言い、その発言が
世論の批判を浴びている。人には分相応ということがある。行き過ぎ
た行動や発言は必ず反感を買うものである。

 かくゆう私にも苦い経験は幾つもある。人は決して甘くはない。
時には追い風になることもあれば、突然の如く逆風にさらされる事も
ある。自戒の念を込めてこんな事を書いていても良いのだろうかと
思うこともある。

 特にマスコミは報道のネタ探しに躍起となっており、時には話題
さえも作り上げてしまうことがある。そうした報道や騒がれ方が、
あたかも自分の実力だと見誤ると、とんでもないことになる。大阪府
知事もまた然りである。

 時にはマスコミを見方に付けることはあっても、決してその甘い
誘いに乗ってはいけない。また、権力に要求を突きつけるときには
必ず同士を募り、大衆を味方に付けなければならない。これが鉄則
である。

 そして優しく見える大衆も時には牙を剥くことがあることをも
忘れてはいけない。

 自民党は悪あがきをしすぎている。昨今の言動には節操が感じられ
ない。少なくとも今は政権与党である。小沢問題にせよ、この度の
鳩山問題にせよ、そのようなことでしか相手を攻めることは出来ない
のであろうか。もっと与党らしく政策やビジョンで相手を攻めること
は出来ないのだろうか。それほど今の自民党には人物がいないという
事でもあろう。

 国民の目を一時的に騙せても長くは続かない。人心が離れてしまった
政府与党は最早国民のためのものではない。

 「グローバル化」と言う言葉が世界を駆けめぐり、その言葉が
虚構に過ぎなかった。日本だけでなくグローバル化を後押しして
きた世界のシステムや秩序が、そのあり方を問われている。

 グローバル化を後押ししてきた従来の政府や与党が責任を問われて
いるのである。そのことに気付かないで、目先だけを変革しても何も
良くはならない。推進してきたものは責任をとって野に下るべきでは
なかろうか。

 先日も私と同時代を生きてきた人の中に私と同じようなことを述べる
人がいた。心ある人であれば過去を懐かしむ気持ではなく、グローバル
化でもたらされたものに少なからぬ違和感を感じていたに違いない。

 この世の中はお金のためにあるのでもなければ有り余る物のために
あるのでもない。すべては人のためにあるものだ。その人のためにある
社会や会社や政府が人のためにならないものであったら変えればよい。
今は人のための世の中に変えるべき時である。
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時代の流れ

2009-07-08 23:14:18 | Weblog
アメリカのカリフォルニア州では膨大な財政赤字解消のための話し
合いの合意が得られず、やむを得ず「財政非常事態宣言}なるものを
発動したようだ。

 実は日本国も財政破綻の状況にある。また、地方財政も同じような
状態だ。今はかろうじて信用で取り付け騒ぎが起きていないだけの
ことである。一銀行であれば忽ち噂は噂を呼び窓口には預金者が預金
の引き出しに殺到するに違いない。

 アメリカ合衆国もまた然りである。 アメリカは世界の基軸通貨なる
ドルを発行している。だから財政赤字だとは言いながらも多少事情は
異なるようだ。アメリカが倒産と言うことにでもなれば忽ち世界規模
の経済的な大混乱が生じ、収拾が着かないことになるに違いない。

 また、日本国の場合は多額の赤字財政であるにも関わらず、なおも
アメリカの国家財政を支え続けている。借金国が借金国の肩代わりを
しているという奇妙な構図となっている。アメリカの財政支援のために
多額のドル建て債権を購入しているからだ。

 しかも、そのお金の大半はアメリカの軍事費に費やされている。
戦争で流されている多くの血は日本のお金で行われていると言うこと
になる。こうした日米関係を断ち切らなければ世界平和はとうてい
望めない。

 私達は国家の倒産などと言うものを想像したことがあるだろうか。
しかし、今の時代はそのような事が生じても不思議ではない時代なの
である。明日をも知れない不確実な時代なのである。私達には自らの
手で明日を選ぶ権利がある。確かな未来の選択をしたいものである。

 先日、旅行先で維新の街、山口県の萩を訪ねた。この地が長州と
言われていた時代に、この地から多くの傑出した人材が輩出した。
その地である。

 この地を訪ねたとき、「人が時代を作る」と言うけれど「時代が
人を作る」のではないかという感を強く抱いた。確かに徳川三百年
の根幹を揺るがせかねない黒船来航という衝撃的な事件があった。
しかし、こうした人物が輩出しなければ時代は変わらなかった。

 吉田松陰先生は今でも地域の人にとっては神様に等しい人である。
彼は幼少期より卓抜した頭脳の持ち主であったようだ。岡山県でも
山田方谷という天才が同じ時代に生まれている。時代は必要に応じて
逸材をこの世に送り出しているように思えてならない。

 最早、いくら目先を変えて国民の目を誤魔化そうとしても時代の
流れを変えることは出来ない。今の自民党は崩壊寸前だった徳川幕府
と同じである。自民党は少しでも命を長らえるために「私を総裁候補
にしなさい、そうすれば出てあげる」という脅しとも取れるような
発言を続けている宮崎県知事を担ぎ出そうとしている。生き残りの
ためならなりふり構わぬ姿が垣間見える。全く見苦しいとしか言い
ようがない。

 また、自らの党にこそ政治資金がらみの多くの問題を抱えているにも
関わらず、それらには頬被りをしたまま民主党に矛先を向けている。
まさに天唾ものである。エリを正すべきは自民党それ自体である。

 幕末には、もっと血生臭い事件が多々ありながらも時代は確実に
変化していった。目先を変えるくらいでは、流れを変えることは
出来なかったからだ。

 自民党は一度「野に下る」方が良い。 それが自民党のためでもある
と思うのだが。
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美瑛そして富良野

2009-07-04 05:42:38 | Weblog
 私達は稚内から特急列車に乗って北海道を旭川まで南下した。稚内
の駅は最北端の主要な駅だというのに何とわびしい駅であろうか。

 そもそも日本国有鉄道を分社化したとき主要幹線であるJR東日本
やJR西日本やJR東海等という会社は何ら問題はなかった。しかし
日本の末端に位置するJR九州やJR四国、JR北海道と言う路線は
採算面ではなかなか厳しいところであった。

 その現れが、この路線ではないだろうか。未だに電化されていない。
走っているのは蒸気機関車ではなくディーゼルカーであった。まるで
広野のようなところをひたすら走り続ける。急勾配であったのか、
そのスピードはじれったいほど遅い。これが特急かと思われるような
スピードであった。しかし、旭川が近くなるに連れスピードは増して
きた。

 さすがに旭川は大都会である。北海道第二の都市と言われるだけ
あって若者が多い。街の中心に歩行者天国があり、この日は色んな
イベントが行われていた。夜もたいへん賑わっていた。夜の賑わい
を見ればその街の繁栄ぶりもだいたい見当がつく。

 私達は駅から歩いて十数分のところにある旭川グランドホテルに
一泊した。なかなか立派なホテルであった。しかし、その日の夕食が
お粗末であった。今まで新鮮な海産物料理を食べてきたものにとって
天国と地獄のような様変わりでがっかりしたり嘆いたり。

 多少の不満を残しつつ、この日の夕食は終わった。明日からは慣れぬ
レンタカーでの旅が始まる。早めにお休みなさい。

 翌朝は荷物をガラガラと引いてレンタカーの会社へ。そこで注意事項
を聞き、契約書にサインをして手続きを終わる。これからはカーナビが
頼りである。

 いささか他人の車ともなると走り慣れていない土地でもあり緊張が
高まる。隣に乗っている奥さんの緊張感が否が応でも伝わってくる。
横から何度も注意が飛んでくる。いやな雰囲気である。いつもの事
ながら夫婦喧嘩は、車の運転から始まる。

 レンタカーはカーナビの指示に従って最初の目的地へと向かった。
美瑛の観光案内所である「四季の情情報館」に向かった。明日は富良野
から美瑛に入ってくることになるので富良野へ向かう前に明日の予定
を立てておこうと言うわけである。

 観光案内の勧めに従って、このまま富良野へ行くのではなく美瑛の
パノラマロードを経由して富良野へ向かうことにした。何しろ広い。
畑一枚が一町(1㌶)を超えるようなものばかりである。

 それにしてもこの地へ入植して以来、わずか百数十年の間に良く
ここまで開拓したものだと感心せざるを得ない。人間の力の偉大さ
を感じる光景である。もう少し、もう少しという思いがここまで
広大な田畑を作ってきたのであろう。

 美瑛は、どちらかと言えば起伏に富んだ広大な田畑の美しさと
ラベンダー畑、そして背後に広がる十勝岳を中心とした山岳地帯が
見どころの一つ。どの位置に立っても見飽きることはない。

 一方、宿泊地の富良野は人口の美とでも言おうか、季節の花が
咲き乱れる広大なお花畑が見どころの一つである。一泊した宿は
最悪の宿であった。こんなホテルもあるのだろうかと思うような
ホテルであった。

 家内が気を利かせてホテル近くのレストランを予約していた。
ホテルから歩いて十五分だと聞いて、運転の気疲れをしていた
私は外へ出ていくことで機嫌を損ねていた。

 風呂に入り疲れがとれてから多少気持も変わり、では行こうかと
言うことになった。一般の十五分は私達の十分であった。周辺の
物珍しい景色を眺めながらであったから、もう着いたのと言った
感じの距離だった。

 途中の民家の庭先には、色付き始めたサクランボがたわわに
実を付けていた。気温が低く梅雨のない北海道だから作れる果樹
である。

 予約していたレストランはお客で一杯だった。やはり良い店は
口コミ等で広がるのだろうか。何よりもここのところ野菜らしい
野菜を口にしていなかったので新鮮な野菜サラダが何よりのご馳走
であった。

 翌日は、テレビドラマ「北の国から」で有名になった「五郎の家」
を見学に行った。こうした家は実際にロケに使われたもので、今も
観光客が次々に見学に訪れていた。

 建物の周辺は森である。原作者の倉本総さんの理想郷が、この地で
あったのだろうか。彼の夢のようなものを都会生活になじめなかった
男「五郎」を主人公にする事によって描きたかったのではなかろうか。
時代背景や決して豊ではなかった北海道の田舎暮らしが描かれていた。

 貧しい生活の親子三人が身を寄せ合いながら生きていく。その姿と
美しく雄大な北海道の自然が織りなす映像美が多くのファンを魅了
して止まなかったドラマである。

 今も変わらぬ姿が、その地には残されていた。しかし、あれから
日本は大きく変わってしまった。

 富良野は北海道の臍だと言われている。しかし景色の雄大さから
すれば臍ではなく大きなお腹に見える景観である。

 北海道での最後の観光は美瑛のパッチワークの路であった。恐らく
起伏に富んだ丘に広がる様々な畑が、まるでパッチワークのように
見えることから名付けられたのではなかろうか。確かに写真に写して
みれば緑のパッチワークに見えなくもない。

 この日、美瑛のペンションに一泊した。有名写真家の写真のように
二日間とも抜けるような青空ではなかったが、雨に遭うこともなく
遠くの山々も綺麗に見えていた。

 若い夫婦が経営するペンション「トムテ ルム」は、広大な田畑が
続く道沿いにあった。横浜から移り住んだという夫婦が経営していた。
隣の家は、ペンションで食べたパンを作っている「小麦畑」という
パン屋さん、一方の反対側には、ペンションで使われている有機栽培
だという野菜を作っている「ファーム雨読舎」であった。

 みんな北海道に夢を抱いて移り住んだ人のようである。そう言えば
昼食のベーグルを食べた喫茶店「ランドカフェ」も手作りハウスの
喫茶店であった。店のオーナーが、こつこつと自分の手で建てたもの
らしい。北海道という土地は、今もなを多くの人々が夢を求めて
やってくる土地柄のようである。

 老いた私にも何かしらこんな広大なところで農作物を作ることが
出来たらなあと、夢のような事を考えさせてしまうような大地であった。
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土砂降りの雨

2009-07-04 05:19:54 | Weblog
 岡山空港は土砂降りの雨であった。いよいよ本格的な梅雨に入った
ようである。帰りの高速道路は土砂降りの雨と大型トラックが巻き
上げていくしぶきで前が見えないような状況であった。

農 業をするものにとっては、例えそれが小さな畑であろうとも
恵みの雨である。つくづく雨の偉大さを感じる昨今である。

 実はいつもの事ながら長期旅行の際、一番気がかりなことは畑や
植木鉢のことである。植木鉢は試しに自動散水器をを付けてみた。
これがなかなか具合がいい。

 ところが畑の方は一台だけの散水器ではどうにもならない。そこで
何台かの散水設備を移動しながら使うことになる。従って、夏場の
長期旅行ともなれば空からの雨が頼みの綱となる。

 この雨だと畑も十分するほど潤っているであろう。帰って見ると
周辺の様相が何となく変わっていた。この季節の一週間の変化は
大きい。庭木の緑も濃さを増し、葉の茂りようがまるで異なるのだ。

 畑の方はトウモロコシがずいぶん大きくなっていた。家を出るとき
には雄花が盛んに花粉を散らせている時だった。あれから一週間過ぎ
ずいぶんと成長したものである。

 私達の留守中、キュウリやインゲン豆は何度か収穫をされたようだ。
それでもいっこうに枯れる様子もなく成長を続けている。やはりEM
効果であろうか。どうもそのようである。何かが例年とは異なっている。

 果樹畑に行ってみた。ここも果樹の勢いが違う。何ともうれしかった
ことは一週間も過ぎたのにスモモが残っていたことである。私達が
旅行していた間、カンカン照りの日もあり、雨の日もあったというのに
一部は腐りもせずに残っていた。早速、完熟したものを食べてみた。
甘い。早速、手近にあったバケツに収穫したものを入れて持ち帰った。

 ハッサクもあらかたは落果したようだ。自然落果である。生理的な
ものであろうか。受粉した実のすべてが大きくなるわけではない。
摘果しなくても粗方は落ちてくれる。粗方落ちてしまったところで
摘果を始めればよい。

 それにしても雑草というものの成長は早い。そして、そばの竹藪
から根を伸ばしてきた筍は、まるで周辺の景観を一変するような勢い
である。やれやれ、これだけは手で刈るしか方法がない。毎年のこと
だが一雨降ると、その翌日から筍が限りなく顔を出す。

 こうして休んでいた一週間分の農作業が始まった。その他の行事と
時間調整をしながらの日々が続くことになるであろう。

 その上、今月末から活弁のワークショップが始まる。どうやら演ずる
活弁は「月世界旅行」に決まりそうだ。早速、練習を始めた。

 ここでEM効果と思われるものについて記しておこう。まず土が
柔らかくなったこと。そのせいかオオバコが簡単に抜けてしまう。
(オオバコは最も抜けにくい雑草の一つである)

 また、EM発酵液そのものは酸性なのに酸性土壌を好むカタバミ類
が枯れやすくなっていること。特徴的なのはユキノシタが粗方枯れて
しまったこと。原因は良く分からない。EM発酵液を大量に撒いて
から始まった現象だ。

 大型のミミズが増え始めたこと。一方、テンマルムシが大量に発生
している。昨年まで必ず発生していたサルスベリのカイガラムシの
被害が今のところ全く見られない。また、ウドンコ病の発生がキュウリ
にもサルスベリにも見られない。

 トウモロコシのズイムシによる被害も皆無、土が変われば病害虫の
被害も変化するという証拠が見られる。やはり悪い土には悪い微生物
が繁殖し、目に見える病害虫の発生に連動するというのは事実のよう
である。

 良くないと思われる現象も生じている。アジサイの鉢植えにEM
発酵液を注入したせいかアジサイの元気がない。花も申し訳程度に
しか咲かなかった。

 しかし、相対的には良いことの方が多いようである。今後も使って
いく価値はありそうだ。
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風の島、霧の島

2009-07-02 04:50:00 | Weblog
 先日の朝日新聞によると読者が決める日本一の夏山に何と礼文島の
礼文岳が選ばれていた。ちなみに第二位は立山・雄山、第三位は乗鞍岳
だ。こうした超有名な山をもしのぐほどの山が北海道の最果てにある。

 私達夫婦は五年越しの夢を実現するために北海道旅行へ旅立った。
そして、6月24日の午後に利尻島へ着いた。岡山空港から羽田へ
羽田から千歳へ、千歳から利尻島へと航空機三機を乗り継いでの旅で
あった。

 この日は非常に風が強く利尻空港へは着陸が出来ないかも知れない
との機内放送があった。吹き飛ばされそうなくらいの強風下、何とか
着陸出来て胸をなで下ろした。

 この島の人に言わせれば、この日くらいの風だったら稚内空港へ
着陸できなくても利尻には着陸出来るとのこと。島の人が言うくらい
だから間違いはないのであろう。台風でもないのに風が強い島である。

 空港へ降り立つと島の中央に聳え立つ利尻富士には不思議な形をした
雲が懸かっていた。そして風下に当たる空にもまるでUFOのような
形の雲が浮かんでいた。この雲は、この日の夕方まで様々に姿を変え
ながらも消えることはなかった。高い山と強風とが作り出す天然の妙だ。
実に珍しいものを見た。

 この島へは花の季節を選んでやって来た。翌日は前もって頼んで
おいた島のガイドが迎えに来てくれた。若い男性だ。聞けば島の出身者
で札幌からのUターン組だとの事。ガイド歴二年目だと言っていたが
島の若者らしい素朴で親切な若者であった。

 午前中、私達は彼のガイドでポン山と言う小高い山に登った。この日
も前の日に負けないくらいの強風だった。数多くの山野草や高山植物
を見ながらの登山であった。さして標高は高くない山だが、北の島なので
高山植物が多い。

 ポン山の山頂は非常に見晴らしが良く、利尻富士が目の前に聳えて
いた。利尻富士は火山であり急峻な山である。そして形の整った山で
ある。ちなみにあの有名な「白い恋人」というお菓子の包装に使われ
ている図柄は利尻富士なのだそうである。

 さすがにポン山の山頂は風が強く長くはとどまれなかった。じっと
立っておくことさえ難しかった。この山を下りた頃、昼近くになって
いた。

 ガイドのYさんが早朝より探してくれたという風のない場所に案内
してくれた。折り畳み式のテーブルと椅子を出し、ビールやお湯を
沸かして昼食の準備をしてくれた。思いがけないサービスであった。
私達はウッシュアイアのトレッキングでの昼食を思い出していた。

 彼の勤め先がトレッキングガイドなどの他に食堂や民宿を経営して
いるとのことで、今売り出し中だというウニの炊き込み弁当を準備
してくれた。けっこう人気があるとのことで本当に美味しかった。
シーズンオフには全国に出向きデパートなどでキャンペーンを行って
いると話していた。

 昼食を済ませ次に案内をしてくれたのは急峻な谷であった。ここ
には砂防ダムが作られているため工事用の砂利道が山中深くまで
あった。かなりな急坂であった。

 この谷を登り切ったところに根雪があった。強風下にも関わらず
盛んに濃い霧が沸き立っていた。湿気を含んだ空気が根雪に冷やされ
霧になったものであった。もう少し登れば見晴らしが良いところへ
行けるようであったが、何しろ数日前まで豪雨だったというこの谷は
増水をしていて川を渡ることが出来なかった。

 それでもここからは十分すぎるほど間近に利尻富士の山頂を見る
ことが出来た。始終、雲に包まれた山頂ではあったが、ほんのわずかな
瞬間だけ切り立った山頂を見せてくれた。 

 次に、この谷を下り車で少し走って湿原に案内してくれた。南浜湿原
である。この頃になると利尻富士山頂の雲は切れ、湿原の入り口にある
大きな池の彼方に形の良い姿を見せていた。

 この池の周辺にはアヤメが群咲き池にその美しい姿を映していた。
この湿原にも数多くの山野草が花開いていた。私は鑑賞もそこそこに
旅の目的の一つであった写真を写すのに忙しかった。

 こうして半日と少し、利尻の短い夏を咲き競う山野草を十分すぎる
ほど楽しんで午後三時半頃に島を後にした。

 その日の夕方早く礼文島に着いた。礼文島は海の彼方に島影が見える
くらい近かった。遠ざかる利尻島には象徴的な利尻富士という高い山が
あるが、礼文島にはさして高い山はない。島の成り立ちが異なるとの
事であった。

 また、この島には利尻島のように島全体を覆うほどの森林がない。
連なるなだらかのな丘(山)は、大半をチシマザサが覆っている。
かつてこの島も北の島特有の針葉樹に覆われていたとの事であるが、
大規模な山林火災で皆無に近い状態となったらしい。

 今は土砂崩れを防ぐためと、昆布などの海洋資源保護のため植林が
進んでいる。やはり森林は海にとっても欠かせないものらしい。

 利尻もそうであったが礼文も花の季節である。特に港から宿泊地の
船泊に行くまでの間、山の斜面はエゾカンゾウという黄色の花が咲き
乱れていた。昨年より花数が圧倒的に多いとの事であった。

 船泊というところに「プチホテル・コリンシア」はあった。コリント
様式の建築を模したという本館の白い柱が特徴あるホテルである。別館
に通されて驚いた。その部屋の豪華さである。まるで王侯か貴族が寝起き
するような装飾のばかでかいベッドが広い部屋にドンと二つ据えられて
いた。

 家具調度品も同じように豪華な作りであった。その上、部屋に備え
付けられた風呂も豪華でテレビまで設置されていた。何となく趣味の
悪さを一瞬感じたのではあるが、その誤解は追々解けていくことに
なった。

 最近、掘り当てたという島で唯一の温泉を利用しての浴場が設置
されていた。わざわざ泉源から運んできた湯であった。摂氏52度と
言うから立派な天然温泉である。

 この島は大陸から切り離された陸地の一部だとの事であるが、島の
地質から推測すると元は火山帯のようであった。この島の彼方には
ロシアに占領されたままの北方領土がある。

 そして本土では時々話題になっている「ゴマフアザラシ」が島の
周辺にたくさん生息している。まさしく日本列島最北端の島であった。

 話をホテルに戻そう。私達はこのホテルに二泊した。その二泊ともに
夕食、朝食が超豪華であった。数多くの旅行をしてきたが後にも先にも、
これほど新鮮な海の幸を口にしたことがない。

 そして何よりもホテルの女将さんの持てなし方が良い。押しつけ
がましくもなく、さりげない心配りと、お客さん一人一人に話しかけて
くれる優しい心遣いが旅の疲れを癒してくれる。

 連泊をする人も多いらしいし、何度も訪れるカップルも多いと聞けば、
それもそうだろうと頷けるのである。一泊目の夕方、夕日の鑑賞タイム
があった。食事中のお客さんに夕日が綺麗だとの誘いがあったのである。

 みんな取るものもとりあえずホテルの裏の丘に登ってみた。今まさに
西の海の彼方に沈もうとしている夕日であった。澄んだ空気の中で見る
夕日はただただ美しい。その夕空をウミネコたちが悠然と舞っていた。
最果ての地の夕焼けであった。女将さんがみんなのカメラで、それぞれ
の写真を写してくれた。これも小さな心配りであった。

 再びテーブルに戻ると次に現れたのは若い女性であった。何となく
隣の部屋から歌声が聞こえてきたのは、彼女が歌っていたようだ。
その彼女が明日の花ガイドをしてくれるとの事であった。天候と言い
ガイドと言い、私達は非常に恵まれていた。

 数日違いの事で私達は大雨に遭っていたかも知れないし、むろん
彼女との巡り会いもなかったかも知れない。彼女は札幌育ちだとの
事であったが、ツアーの添乗員としてこの島に来ていて、バス会社
からバスガイドとして引き抜かれた。そして今はシーズン中のホテル
でコンシェルジュとして働きつつ、頼まれれば花ガイドもしている
との事であった。

 ゆくゆくは島の男性と結婚するのだと話していた。このホテルには
シーズン中のアルバイトだという若い女性達が何名か働いていた。
京都から来たという女性は10月頃まで働いて、その後は北海道の
観光をして帰るのだとの事であった。そんな人を受け入れてくれるのも
この島の魅力ではないだろうか。

 レブンアツモリソウの開花時期は終わっていた。レブンアツモリソウ
の多くは白い花である。この花の開花時期は五月下旬から六月中旬で
ある。

 そして多くは心ない人々によって持ち去られ壊滅的な被害を受けて
いた。今は絶滅危惧種として厳重な管理下に置かれている。わずかに
一カ所だけだという紫色の花株が咲き残っていた。

 私達の花巡りは小高い丘の麓から始まった。チシマザサが生い茂る
坂道を歩いていくと道の辺には山野草が咲き乱れていた。礼文島では
実に地味な花が多かったが、ここの花は色とりどりで華やかである。
多くは礼文島の固有種である。

 私は何度も家内に先を急を急ぐように促されつつ写真を撮り続けて
いた。いくら良い写真を写そうと思っても目に入ってくる花の美しさ
にはかなわない。この美しさは自然のみが作り出すことの出来る美しさ
であり、目に焼き付けておく以外に方法はない。そんな美しさである。

 このコースを帰る途中にとんでもないアクシデントに出くわして
しまった。一人の男性が血を流しながらふらふらになって山を下って
いたのである。こちらへ向かってくる人は気になりつつも先を急ぐ
人ばかりであった。下山者と言えば私達三人だけであり知らぬ振りを
するわけにもいかなかった。限られた日程の中での貴重な時間では
あったが、彼の後を追うことにした。

 こうして何度も転びつつ下山しようとする男性に麓まで付き添い
救急車に引き渡した。ホテルの女将さんも消防隊の人達と一緒に
駆けつけてくれた。島の人はみんな親切だ。聞けばシーズン中に
一、二件はこのような事があるのだという。私達旅行者は親切に
甘えることなく注意しなくてはいけない。

 私達は彼女の知り合いだという売店で昼食にした。花ガイドの
彼女は何年もこの島でバスガイドをしていたと言うだけあって、
顔なじみの人も多く、こんな緊急時にも頼もしい限りであった。
彼女が居なかったらどうしようもなかったろう。

 花巡りは午後の部となった。このコースは連絡船の港に近く、
最も観光客の多いコースであった。桃岩展望台コースである。
ここへ着いた頃から急に霧が濃くなってきた。すごい霧で、ほんの
十数メートル先も見えないくらいだった。その霧の中に色鮮やかな
花が咲いていた。

 晴天の元での花も良いが、負け惜しみではなくこうした霧の中の
花も幻想的でよい。霧が切れるとコースの脇は切り立った崖であった。
その遙か下には海が見えた。きっと素晴らしい展望なのだろうが
遠景は想像するしかない。

 私達は尾根筋を歩き続けた。そして、ガイドのHさんと途中で別れ、
このコースの終点である知床まで歩いた。彼女は桃岩展望台の駐車場
まで引き返し自動車をここまで回送してくれたのだ。

 こうして一日の花巡りは終了した。心地よい疲労であった。ホテル
に帰り早速、温泉で疲れをほぐした。この日の夕焼けも素晴らしかった。
せっかくこの島へ来ても雨に降られ花を見ることが出来なかったという
人も少なくないらしい。それくらい天候には左右されやすい。

 その点、半日は霧の中であったとは言え、雨に遭うこともなく十分
すぎるほどの花の美しさを味わうことが出来た。私達は幸せであった。
地球一周の旅の幸運は5年を経た今も続いているらしい。

 女将さんの心温まる計らいで、翌朝は少し早めにホテルを出て
最北端の岬であるスコトン岬へ案内して貰った。案内してくれたのは
土木関係の公共事業に携わっていたという男性であった。私と同年輩
の人であった。

 岬に向かう途中、ゴマフアザラシを見るために海岸へ立ち寄った。
昨日よりは頭数が増えていた。年々増えているとの事であった。
すごい頭数であった。島の周辺は豊かな海なのである。

 昆布漁はこれから始まる。今は養殖昆布だというものが干されていた。
利尻、礼文と言えば高級な昆布で知られている。そして利尻や礼文の
ホテルでたくさん食べさせて貰ったウニもこの地の特産品である。

 これでも昔の何分の一かになってしまったというウニが作業小屋の
中に山ほど積まれていた。食べてみろと言う漁師さんの勧めで二個
ほど食べさせて貰った。ウニは殻を割られてもまだ生きていた。少し
塩味が効いた新鮮な味であった。

 スコトン岬には早朝だと言うのに多くの観光客が来ていた。この地
の果てに北方領土があり、ロシアとの国境線が引かれている。

 今も利尻、礼文ともに人口は減少し続けている。島の産業は昆布や
ウニ、ニシンやホッケ、ボタンエビと言った漁業である。農業と言える
ほどのものはない。多くのものは北海道本島からの移入品である。

 観光には良いが住むには向かない土地となりつつある。それもこれも
時代というものであろうか。

 この日の午前、私達は連絡船に乗って稚内に向かった。途中、再び
利尻島に立ち寄った。沖からの利尻富士は雲一つなく、海面近くには
靄が立ちこめ、おとぎの島のようであった。

 一転して雄大な美瑛と富良野の旅は次回のブログへ続く。
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