人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

因果応報

2011-07-31 05:04:39 | Weblog
 何事によらず、ことの原因は必ずどこかにあるものです。因果応報という言葉、確かどこかで聞いた
ような言葉ですが、ネットで調べてみると、こう書かれています。「よい行いをした人には良い報い、
悪い行いをした人には悪い報いがある。過去および前世の因業に応じて果報があるという意味」。
「もとは仏教語で、過去・前世の行ないに応じて果報があるという意味。善因善果、悪因悪果のどちらも
含まれるが、現在、悪いほうの意味で使われることが多い。」

 どうやら仏教の教えから来ている言葉のようで、こうしてみると人間界では、このような言葉を
使ってまでも戒めなければならないことが、過去にもたくさんあったようです。そして、今も使われて
いるところを見ると、未だ同じような愚かな行いを繰り返しているようです。

 中国では高速鉄道が操業開始間もなく大きな事故を起こしてしまいました。日本やフランスから最新
技術を導入しながら、あたかも中国独自で技術開発したかのような言い方をしていました。偽物や
ブランド品のコピーなどが平気でまかり通るような国ですから、こんな言い方をしても誰も驚かなく
なってしまいましたが、アメリカで特許申請をしたというのですから、これは驚きでした。

 そんな恥も外聞もなく有頂天になっていたときの出来事だっただけに、当の中国にとってもショック
だったに違いありません。聞けば高速鉄道網を急拡大してきた背景には汚職などの噂が絶えなかった
ようです。

 中国という国は過去にも官僚達による汚職が尽きず、歴代の王朝は内部から崩壊していきました。
そのように中国は汚職の絶えない国でした。袖の下を渡さなければ何も進まないような国だったのです。
今も全く変わっていないようです。

 しかし、あまり他国の悪口ばかりは言えないようです。我が国においても事の大小の差はあっても
似たり寄ったりのことがないわけではありません。

 因果応報は中国だけの事ではないのです。実は福島の原発事故以降、様々な問題が露呈しつつあります。
そして、こうした問題は大変根が深く、これからも更に続きそうです。こそこそと隠密理に進められて
きた原発帝国の実態が、福島第一原発事故を契機に明らかになりつつあります。

 日本の電力会社は法律で厳重に保護された独占企業です。売電価格も国で管理され絶対に損はしない
ように出来ています。自由主義経済下なのに各社間での価格競争がなく、国民は安い電力を買う方法が
ないです。

 その中でも特に原発はあらゆる手段で保護されてきました。その一つが一卵性双生児のように言われて
いる原子力保安院と省エネルギー庁の関係です。原発を取り締まる立場にあるものと省エネの名の下に
原子力行政を進めるものが同じ経済産業省の中にあるという奇妙な形になっています。

 本来ならマッチとポンプの関係にあるものが同じ経済産業省にあるのです。取り締まる立場のものと
取り締まられる立場の関係にあるものが同居しているのです。

 その上、電力会社からは莫大なお金がコマーシャル代としてマスコミに流れていました。本来、中立的
な立場で報道すべきものが、お金を貰っていたのです。これで正しい報道が出来るのでしょうか。
マスコミはタブーのように原発行政に関しては口をつぐんできたのです。

 日本は中国のことを悪く言えません。同じ穴の狢(むじな)のようなものです。因果応報、結果には
必ず原因がある。この世の中の出来事の全ては一見関係のない様な事に見えて、必ずどこかで繋がって
いるものです。

 それが中国の高速鉄道の事故であるし、日本の原発事故ではないでしょうか。これら全て人間が行って
来た所行によるものです。因果応報とは良く言ったものです。これが自分だけの事であれば自分が罰さえ
受ければそれで済みます。しかし、国家的な問題となると、そうは行きません。

 それが中国の高速鉄道の事故であり、福島の原発事故なのだと思います。根は深く罪は果てしなく
重いと思います。そして広く言えば、それを許してきたのは私達一人一人なのです。因果が巡り巡って
私達みんなに降りかかってきたのです。

 今、東アフリカでは未曾有の干魃と内戦により多くの餓死者が出始めています。ソマリアに始まった
飢餓の問題は多くの難民を生み、それはケニアにまで及ぼうとしています。この原因を作ったのも人間
の所行によるものです。

 日本では新潟や福島県で大雨による大きな被害が出ています。地球温暖化が原因だと言われていますが、
もはや手遅れだと言われ始めています。何しろ地球規模の異常です。原因を特定するのは容易なことでは
ありません。しかし、人の世に生ずることで、おおよそ原因のないものはありません。そして、全ての
原因は人間の行いによって生じているものばかりなのです。
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ミツバチの羽音と地球の回転

2011-07-24 05:54:29 | Weblog
 上映会に来てみないかとあちらこちらからお誘いを受けながら、何故か観に行く気になれなかった
映画である。

 その理由は、原発などと言う社会的な問題を扱った映画にありがちな、反対の立場からだけと言う
偏ったものが多くて、この手の映画を見飽きていたからである。

 私は長く原発反対の立場に立ちながら、単なる反対運動だけの映画は見たいとは思わなかった。その
考えは私自身の偏見であったことが、この映画を見て分かった。

 鎌仲ひとみ監督は山口県に建設途上の上関原発の反対運動の拠点になっている祝島にカメラを据え、
島民の日々変わらぬ生活をカメラで追いながら、今では島民の生活の一部となっている反対行動を
ドキュメンタリータッチで撮っている。

 島民の上関原発反対運動は20数年間にも及ぶ。むろん島民の中にも賛成派も少なくない。そうした
賛成派との軋轢もあって長く続いてきた島特有のお祭り「神舞」にも支障を来すこともあったようだ。

 島は他の瀬戸内海の島々と同じように高齢化と過疎化が進んでいる。その中でもUターン組の若者
夫婦もいる。彼は確たる人生観を持ち島に帰ってきた。そして父親と共に反対運動の先頭に立っている。

 この映画は福島の原発事故の前に作られた。映画の中で中国電力の関係者から「あなた達島民の将来
のために建設する」のだという言葉が繰り返されるが、福島の原発事故後の今となってみれば、その
言葉は実に空々しく聞こえてくる。何という皮肉であろう。

 上関周辺は豊かな漁場である。そして瀬戸内海ではほとんど失われてしまった豊かな生態系が残って
いる。いわば生物のホットスポットである。ここを原発のために埋め立ててしまおうというのである。
そうなれば永久に生態系は失われ、豊かな漁場は二度と戻ってこない。

 祝島と上関は海をはさんでわずかに3キロほどの距離である。今回の福島原発の事故を考えれば完全
な被災地になることは間違いない。島根原発と言い上関原発と言い日本の原発は一般の居住地に近すぎる。

 さて、この映画は原発反対運動と島民の日常生活を追いながらも持続可能社会とは何かをテーマに
している。この映画の狙いは原発反対だけではなく、あるいはこの持続可能社会の方にあったのかも
知れない。

 便利で豊かな生活を望むあまり、私達は持続可能と言うことを見落としていたのではないだろうか。
資源は使ってしまえば、それで終わりである。リサイクルにも限界がある。また、ゴミとして燃やせば
大気を汚し地球温暖化の原因になる。

 地球上のあらゆる資源が乱開発され減少傾向にある。地球温暖化や資源問題だけでなく、そうした
社会の在り方について、人間本来の生き方の問題として警鐘が鳴らされている。

 実は北欧の決して自然条件が良くないある村で画期的な試みがなされている。この村の資源と言えば
再生可能な森林資源と有り余る風力である。風を使って巨大風車を回し、森林資源を活用して熱を作り
各家庭に配っている。

 そして酪農で発生した家畜の糞尿や家庭の生ゴミを使ってメタンガスを作り燃料にしている。村の
住民にしてみれば有り余るほどのエネルギーを手にしている。酪農もロボットを導入し給餌から搾乳
まで全て自動化している。こうして時間的なゆとりも出来ている。

 実は、これが未来に向けての持続可能な社会の在り方なのかも知れない。生活の質を落とすことなく
気候変動に対応できる生き方である。

 これと同じようなことを実行して成功した事例が日本にもある。それは高知県と愛媛県の県境にある
梼原町という山間部の小さな町である。

 町の主たる産業はわずかばかりの棚田と牧畜、そして林業である。この町のカルスト台地に大きな
風車を二基建設したことから持続可能社会へ向けての取り組みが始まった。

 映画の中の祝島でも持続可能社会への試みが行われている。豚の力を借りて生ゴミや商品にならない
農産物の処理をしている。その上、豚たちは、かつて農地であったところに放し飼いにされている。
豚たちは与えられるエサだけでは満足せず荒れ地の草を食べ、せっせと根まで掘り返してくれるのだ。
やがて荒れ地はきれいな農地に戻っていく。見事なまでの労力を要しない無動力による農地の再開発で
ある。

 「ミツバチの羽音と地球の回転」は、声高に反原発を叫ぶ映画ではなく、坦々として実に説得力の
ある素晴らしい映画であった。この映画を観た故松田優作氏婦人の美由紀さんも絶賛している。
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がんばらない生き方を

2011-07-22 14:48:44 | Weblog
 こんな事を書くと、一部の人からは馬鹿だなあと言われそうだが、それを承知で書いてみたいと
思っている。

 3月11日の大地震と、それに伴う大津波は様々な教訓を私達に残した。そして、大地震と大津波
に伴う原発事故、普通の火事なら水をかけて消せば済むし、火が消えてしまえば後に残るものはない。
どんなに大きな台風でも時がたてば勢力は衰え消えていく。

 ところが原発事故だけは、どんな方法を用いようとも簡単に収拾というわけには行かない。それは
十数年前に生じたチェルノブイリの原発事故が、その事を今に伝えている。

 さて、現代と言う時代は様々な不安材料が私達の身の回りを取り囲んでいる。その一つが、この扱い
にくい原発をどのようにしていくかであろう。事故のあった原発は言うに及ばず、稼働しているものも
運転停止しているものも、そして点検整備中のものも、いずれ全てを停止し廃棄するには莫大な費用
と解体のための長い歳月を要する。

 また、運転を続けていくとなると、いつかは今回のような事故を生ずることは明かである。引くも
地獄、進むも地獄なのが原発である。人類は大変なものを作ったものである。

 現在、地球上では宗教的な対立、民族対立、資源の争奪戦争、独裁政権、社会的なモラルの低下
テロ、精神の荒廃、食の問題、拝金主義、国家経済の崩壊等々、数え上げれば切りがないほど様々な
問題が私達の前に横たわっている。

 これらの多くの問題は経済問題と密接不可分の関係にある。これら全てが拝金主義や際限のない
経済競争がもたらしたものだ。ギリシャに始まった経済破綻は他国にも深刻な影響を与えている。
ヨーロッパには他にもギリシャに次ぐような経済的に不安定な国があるからだ。EUはギリシャに
12兆円もの資金援助をすると決めたが、果たしてこれでギリシャ経済は救えるのだろうか。

 アメリカ経済も日本経済も一皮剥けば、これらと大差のない大きな問題を抱えている。一人優等生
のように経済成長を続けている中国も深刻なインフレと経済格差に国民の不満は高まっている。

 その上、官僚達の数限りない汚職は、中国の体質のようなもので昔も今も変わらない。民族問題と
相まって人民の不満は限界に達しており大暴動に発展しかねない。

 そして、もはや元に戻すには時期を失したのではないかと言われ始めた地球温暖化による気候変動
の問題。また、地球の磁気が年を追う毎に弱くなっており、いつポールチェンジが生ずるか分からない。
太陽活動が沈滞期に入り、地球の寒冷化が始まっているのではないかとも言われている。

 はたまたオリオン座のベテルギウスの大爆発だとか、未だ日本列島は地震による恐怖が去っていない。
いつ東海、東南海、南海地震など巨大地震が発生するか分からない。

 このように四面楚歌の状態にあって、私達はどのように生きていけば良いのだろうか。誰しもが
考えることである。それがまた人々の不安を助長している。

 こうした出来事が二十一世紀の始まりに集中しているのは単なる偶然なのだろうか。それとも私達
には知り得ない何か大きな力が働いているのだろうか。太陽と月が重なり金環食が見えるという太陽
月、地球の大きさと、それぞれの距離は単なる偶然なのだろうか。こんな関係の天体が他の惑星系に
あるのだろうか。

 地球上の膨大な海水に干満の差をもたらす月のように巨大な衛星を持つ惑星は他にあるのだろうか。
そもそも地球のような水の惑星は存在するのだろうか。生命はどのようにして誕生したのだろうか。

 地球上の生命の頂点に立つものが人間だとすれば、自らの手で地球環境を変えてしまうようなもの
を何故、地球は誕生させ進化させてきたのだろうか。数千年前も今も変わらぬ人間の愚かさは、何に
起因しているのだろうか。愚かさを克服できる時代は来るのだろうか。

 私達の生き方を見直し意識が変わったときに今まで見えなかったものが見えてくるものなのだろうか。
そんな気がしてならない昨今である。
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おめでとう「なでしこジャパン」

2011-07-19 06:23:52 | Weblog
 日本代表の女子サッカーチーム「なでしこジャパン」の優勝は、まさに女性時代の到来を予測する
ような快挙でした。あれよあれよと言う間に勝ち進み、ついには実力ナンバー1と言われたアメリカ
を倒し第一位に輝きました。とかく華やかな男子サッカーの陰に隠れ地味な存在だった日本の女子の
サッカー、満を持して花開いた感じです。

 選手達へのインタビューの中でも聞かれましたが、彼女たちの胸の中には東北地方の被災地のこと
があったようです。その強い思いは人間であれば当たり前の事だと思います。一日も早い被災地の
復興を願う気持と被災者の皆さんへの少しでも励みになればという優しい思いが選手達の背中を強く
押していたのではないでしょうか。

 監督さんの言葉にもあったように、外国人選手に較べ小さな日本女性が大きな外人女性と互角に闘う
姿は感動ものでした。日本人のサムライ魂を彼女たちに見たような気がしました。

 東北の被災地ではあまりにも被害地域が広いのと被災状況がひどいのとで、なかなか復旧が進まない
ようですが、それでも日を追う毎に少しずつ変化しているように見えます。

 何と言っても被災地の沿岸地域は海産物の宝庫です。海から受けてた被害は海から取り返す位の
意気込みでがんばって貰いたいと思っています。今回の大地震と大津波では海も山も私達に様々な
教訓を与えてくれました。私達は少しだけ感謝の気持ちを忘れていたのではないでしょうか。

 天にも地にも海にも神様はいるのです。今も神様は私達の周辺に様々な形で存在します。当たり前
のような恵みの全ては神様が私達に与えてくれたものです。その全ては根元的な神である太陽の恵み
によるものです。

 先日、「真福(まさきく)」の藤澤好恵先生にお話しを聞く機会がありました、万葉集を今風に
読み解くと言った感じの講座でした。先生の話を聞いて実に心洗われる様な思いを致しました。
万葉人が如何に自然を大切に思い、敬ってきたかを改めて再認識させられました。

その一節を紹介しておきます。
万葉集二番歌 天皇、香具山に登りて望国(くにみ)したまふ時の御製歌(おほみうた)

「山常には群山有りと取よろふ 天の香具山登り立ち 国見をすれば国原は 煙立龍海原は 鴎立ち
たつ 美し国そ 蜻嶋大和の国は」

「やまとには むらやまありととりよろふ あまのかぐやまのぼりたち くにみをすればくにはらは
けぶりたちたつうなばらは かもめたちたつ うましくにそ あきつしまやまとのくには」

 これは国を治めるものが天地の神々を褒め称えた歌だと言われています。化学肥料も農薬もまして
除草剤もなかった時代、そして灌漑設備さえ十分ではなかった時代、稲の豊作を願うとすれば天地の
神々や精霊に祈るしかなかった。

 人々が自然に対し謙虚に生きてきた時代の何となくほのぼのとするような歌です。そして国を治める
ものは常に何事に対しても謙虚でなければならないと言う思いが万葉人の歌を通じて伝わってくるの
です。

 「元始、女性は太陽だった」と女性解放運動の祖となった「平塚らいてう」先生は語っています。
天の岩戸にお隠れになった天照大御神(あまてらすおおみかみ)も女性でした。女性の感性と母性
こそは、今の世にもっとも必要なものだと思っています。

 私達はもう一度、生まれたままの裸の人間に立ち返り自然との共生を考えなければ、ますます底なし
沼のような滅びの世界に落ち込んでいくことは間違いないでしょう。
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誰かが言わなければ

2011-07-15 06:17:52 | Weblog
 浜岡原発の運転停止要請をした菅総理が今度は脱原発宣言を行った。菅総理得意のパフォーマンス
だとか、延命工作だとか、さては解散総選挙の布石だとか言われているが、私は素直にこの発言を
歓迎したい。少なからずソフトバンクの孫さんなどとの交流の中で影響を受けた発言ではないだろうか。

 いくらパフォーマンスだと言われても、現に今も原発推進派はいるわけだし、アメリカや原発大国
フランスなどとの関係を考えれば、そう簡単に発言できることではない。大いなる決断が必要だったに
違いない。また、この機を逃してはなかなか発言できることではない。

 これで原発事故が終息にでも向かったら、またぞろ原発推進派が勢いを増して来るに違いないからだ。
原発推進派は地球温暖化防止という錦の御旗の元に更に原発の増設をもくろんできた。それどころか
自国の技術を他国にも輸出しようとして算盤をはじいていた。

 そうした動きを封じるにはあまりにも大きな犠牲だったが、このような事でもない限り原発を止める
ことは出来なかったであろう。マスコミにも莫大な金が流れ、地元は言うに及ばず県や市町村にも莫大
なお金が注入されていた。いわば札束で横面を叩くようなやり方をしてきたのが原発推進派のやり方
であった。

 このタイミングで自民党から民主党に政権が渡っていたのも天の采配だったかも知れない。自民党
政権の元であれば原発事故は今以上に隠蔽され悲惨なものになっていたかも知れないことが容易に
想像出来るからである。

 私達も反省しなければならないことがたくさんある。その一つは口では原発反対を唱えながらも
決定的な反対闘争をしてこなかった事である。あまつさえ地球温暖化防止のためには仕方ないかと
心の片隅で冷めた見方をしていたことである。

 何よりも反省しなければならないのは電気の選別使用は無理だとしても原発が作り出した電気の
一部を使い続けていたことである。

 今更ながら電力不足だとか省エネをしなければと言われているが遅すぎる感は拭い得ない。もっと
早く大々的な省エネを行い、原発や火力発電に頼らない生活にしておかなければならなかった。

 連日35度を超えるような蒸し暑い日々が続いている。この中で幼子や高齢者にどのように過ごせと
言うのであろうか。精神論だけではどうにもならない現実がある。少なくとも脱原発へと舵を切った
のだから真剣に再生可能エネルギーへのシフトを考えるべきであろう。

 先日もある小学校に省エネ教育に出向いた。蒸し暑い体育館での授業であった。あまりにもの蒸し
暑さに子ども達の意識は散漫であった。その上、使用した資料は誠に中途半端で端切れの悪いもの
であった。

 これは省エネルギー財団が作成したものであったからだ。産業を振興する立場のものが作ったものは
いくら省エネだと言っても表現に限界がある。はっきり言って経済発展と省エネは相容れないものだから
である。

 私達は、ことここに及んでは何かを捨て、何かを選択しなければならないのではないだろうか。あれも
これもというのは強欲すぎるような気がしてならない。今は産業発展と省エネを秤に掛けたとき目前に
迫った壊滅的な気候変動を止めるには省エネなどと生やさしいことを言っているときではないことは
明かな事である。

 九州電力のようにコンプライアンスを標榜する大企業が一皮剥けば自社の利益のみを考える体質に
あって、脱原発は容易ではないことが想像できるのである。
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奈良

2011-07-14 05:20:17 | Weblog
 「あおによし奈良の都は咲く花の匂うが如き今盛りなり」万葉歌人は平城京時代の奈良をこのように
歌いました。古き良き時代の麗しき奈良の都が目に浮かぶようです。

 昨年は平城京から1300年祭がこの地で営まれました。そして今年、私は満を持して奈良に向かい
ました。目的の一つが平城京跡地に再現された朱雀門と大極殿を見学するためでした。特に大極殿の
再建には以前から多大の期待を寄せていました。そして見学をとても楽しみにしていました。

 そして更にもう一つ、それは東大寺の池の浄化と枯れかけた松の再生への取り組み状況を知ること
でした。EMを使うことによって、それらが見事に成功したという事例がネット上に紹介されていた
からです。

 昨年の同じ頃、東京の日本橋川流域の環境浄化について現地で取り組んでおられる方の案内で見学
させて貰いました。今回は早くからEMの素晴らしい効果に着目し普及活動に取り組んでこられた
後藤さんという方に案内をお願いしました。

 午前10時過ぎにJR奈良駅に着き後藤さんの出迎えを受けた後、すぐに東大寺境内を案内して頂き
ました。東大寺は何しろ広い境内です。そして、たくさんある池も小川も昨晩までの強い雨で濁って
いました。後藤さんはきれいな池を見せられないのが残念だと言っておられました。

 確かに山水でうす茶色に濁ってはいましたが、取り組み前のようなどぶ臭い匂いもなく、よどんだ
ような黒い水でもありませんでした。見事にEM効果が現れているようでした。水がきれいになると
色んな生きものが住み着くようになったと言われていました。今では境内で蛍見学が出来るそうです。

 そして、効果のほどが写真では十分に伝わらないと言っておられた松の再生状況が印象的でした。
取り組み前のような赤茶けた松の木は全く見られなくなり、松本来の勢いのある青々とした姿が甦って
いました。

 こうした取り組みは境内の維持管理をしておられる十名ばかりのスタッフの皆さんが行っておられる
ようです。作業場の一角にはEMの培養タンクが設置され、隣接建家の中には発酵を終えたボカシが
大量に貯蔵されていました。

 松は全て見上げるような巨木ですから葉面散布することは容易ではなく、動力ポンプ等を使用されて
いるようです。また、根元近くにはEMセラミックが塗布されていました。

 東大寺周辺には野生の鹿がたくさん群れています。これらが排泄する尿や糞などにもEMの消臭効果
が利用されているようです。また、EMによる芝生や下草の再生なども期待されています。こうした
取り組みは今も継続的に行われているようです。

 今回は時間の都合で期待していた大極殿などを見ることが出来ませんでした。その代わり奈良市内
や周辺部に点在する薬師寺や法隆寺などを時間をかけてゆっくりと見ることが出来ました。特に法隆寺
では専属のボランティアガイドの方がおられ、この方の案内で法隆寺の隅から隅まで丁寧に説明して
頂きました。このページからお礼を述べさせて頂きます。ありがとう御座いました。

 しかし奈良はなかなか奥深い街です。特に古い家並みなど今回の時間では廻りきれなかったところも
たくさんあります。いずれ日を改めて訪問したいと思っています。

 訪問第一日目だった7月7日は残念ながら一日中雨でした。ところが翌日はからりと晴天に代わり
ました。どうやら梅雨明けとなったようです。前の夜は歩き疲れていて早めにベッドにもぐり込んだ
ので、翌朝には体力が回復し、気持ちよく目覚めることが出来ました。

 ガイドブックを参考に今日一日の計画を立て、朝の散歩を兼ねて早朝の奈良見学に出かけました。
三条通を抜け、そのまま春日大社の長い長い参道を歩きました。途中松並木の向こうに広い芝生広場
がありました。眩しいばかりの朝の光の中で芝生の緑が新鮮でした。

 大勢のカメラマンが鹿の群を取り囲み写真を写していました。私もその一人になって鹿を写しました。
参道を歩いて行きますと昨晩まで降り続いていた雨が水蒸気となって立ち上り、木洩れ日を受け幾筋
もの光の帯となって実に幻想的な景色を作り出していました。何回もカメラのシャッターを切りました。

 春日大社から若草山、そして昨日、後藤さんの案内で行った二月堂、そして東大寺大仏殿横を通って
長時間に及ぶ朝の散歩は終わりました。

 早朝とは言え、さすがに夏の日差しは強く汗びっしょりになっていました。部屋でシャワーをし
着替えを済ませてホテルをチェックアウトしました。これからの行き先は法隆寺と決めていました。
こうして約半日の旅は終わりました。

 梅雨明け宣言したばかりの空はどこまでも青く澄んでいました。次回こそは十分に下調べをした上で
大極殿の見学に行こうと思っています。帰りは久々に大阪の鶴橋界隈を見て歩き、夕方近くになって
孫の待つ神戸に向かいました。一泊二日の短い奈良の旅でした。
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サムシング・グレート

2011-07-02 06:56:41 | Weblog
 「サムシング・グレート」これは筑波大学の名誉教授であり、遺伝子研究に関する第一人者である
村上和雄さんの書かれた本のサブタイトルである。

 ところで人間の脳内細胞の多くは未だ何に使われているのか不明な部分が多い。そして、日常の
働きには必要ないほどの容積を占める脳内細胞の多くは使われていないのではないかとさえ言われて
いる。

 一方、脳内細胞とは比較にならないほど膨大な数の私達人間の遺伝子の中にも普段は使われて
いないものもあるらしい。その一つが食事を制限すると今まで活動していなかった長寿遺伝子なる
ものが活性化されるということが猿や人間の実験で確かめられ話題になっている。

 人間に限らず動植物の全てが生きていくための熾烈な生存競争にさらされている。実は地球上に
於ける動植物の中で、ほんの一握りの人間だけが飽食であり、今も地球上では多くの人が飢えに
苦しんでいる。そして野生の動物たちも食うか食われるかの熾烈な闘いを強いられている。

 人間もかつては飢えに苦しんできた。野生動物を追って狩りをしていた時代の事であった。そうした
時代の「生き残るための手段の一つが、長寿遺伝子を発現させる事ではなかったのだろうか。

 飽食の時代だと言われている日本では多くの人が難病に苦しんでいる。その一つが高血脂症や
高血圧、糖尿病など生活習慣病や成人病と言われている病気であろう。食糧事情が悪かった時代
では考えられなかった肥満等に伴う様々な病気である。

 娘がアメリカへ留学していた時の事になるが、娘と一緒にアメリカを旅していて気付いた事がある。
それは異常とも思えるほどの肥満の人が多かった事である。

 通りに面した家の前に椅子を出し、椅子からはみ出すほど太った体の人が終日、通りを行き交う人を
眺めている姿が印象的であった。また、明らかに肥満と思えるような人に限ってコーヒーに大量の砂糖
を入れて飲んでいた。

 ファーストフードの多くが必要以上にボリュームあるもので、ベトナム料理だと出された料理の皿の
底には分厚く食用油が溜まっていた。また、娘の下宿先で出されたアイスクリームは甘過ぎて食べられ
なかった。

 経済的に豊かなアメリカならではの事なのだろうが、今ではこうした食生活に気付いたアメリカ人の
中でも特権階級と言われる人達は、こうした濃厚な食事を避けベジタリアンであったり日本食を常食に
していると聞いている。

 さて、話を「サムシング・グレート」に戻そう。村上さんは、人の運命は個々人が持つ遺伝子情報に
左右されているのではないかと述べられている。そう言われて見ればそのように思われることも少なく
ない。

 例えば病気がちな人についてである。病気とは気が病むと書く。どうやら人間の病気はかなり気の
持ちようによって左右されるものらしい。

 病気にはウイルスなど病原菌によるものも少なくない。かつてヨーロッパでは全人口の三割が死亡し
黒死病と恐れられたペストが大流行したときでさえ生き残った人はいる。亡くなった人と生き残った人
の違いは何だったのだろうか。単なる偶然だろうか。

 これも病原菌から体を守ろうとする免疫力に差があったように思えるのである。その差は何だった
のか、我が身を守ろうとする思いが免疫力を高めたとは考えられないだろうか。ここで死んでなるものか
という強い思いが生き残りを可能にしたとは言えないだろうか。「ああ、もうダメだ」と降参した途端
に病原菌に犯された人も少なくなかったのではないだろうか。

 事故や災害に遭遇したときにさえ、今ここで死んでなるものかという強い思いがあれば、遺伝子に
隠された強い衝動のようなものが生きる事への強い力となって発現するのではないだろうか。昔から
「火事場の馬鹿力」などと言うではないか。

 何かで成功する成功しないと言う事も意外に遺伝子に関係することかも知れない。こうしたことを
私達は長い間、運命という言葉に置き換えてきた。しかし、何とかしなければ、何とかしたいと言う
強い思いがあれば、今まで隠れていた遺伝子の中の意外な部分が力を発揮するのではないだろうか。

 村上さんは偉業とも言える自分の研究過程の中で、何度かこのような経験をされているらしい。
それが「サムシング・グレート」の中に書かれている。そうのように考えていくと思い当たることは
たくさんある。

 運命という不確実なものでさえ、科学の最先端にいる科学者の言葉であってみれば説得力を持つ。
第六感等というものも、ある種そのような遺伝子の働きによるものかも知れない。私達祖先は他の
動物たちと同じように進化の過程の中で自然や天敵の脅威にさらされてきた。それは長い長い進化の
歴史からすればほんの数秒前の事であった。

 今ではほとんど使われなくなって眠っている遺伝子の中に自分の身を守る手段としての第六感なる
予知能力のようなものが重要な働きをしていたのかも知れない。退化したと思われる遺伝子の中に
日々厳しさを増す現代社会を生きていく手段が隠されているかも知れない。
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