人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

事件の真相

2014-03-30 05:48:03 | Weblog
 先に袴田事件の被告であった袴田さんが仮釈放されたと言う報道があった。この報道の中で、事件後初めて袴田さんに
裁判結果を言い渡した元裁判官のインタビューがあった。自分は「白」だと思っていたが、先輩の裁判官二人に意見を
聞いたら「黒」だとの主張だったので、心ならずも死刑の判決を言い渡してしまったと当時の心境を語りながら涙を
流していた。良心の呵責に責められての涙であった。

 この元裁判官は、自分の下した判決を非常に悔いている。そして、それが原因だったのかどうか定かではないが
その後に裁判官を辞めている。人間が人間を裁くことの難しさ、ましてや科学的な捜査が十分に行われなかった戦前や
戦後のある時期には多くの冤罪事件が生じている。罪なき人が無残にも犯罪者として闇に葬られてきた。

 こうした冤罪事件について考えるとき司法当局は二重の間違いを犯している。まず真犯人を取り逃がしていること
そして真犯人でもない人を死刑にしたり無期懲役などで牢獄へ閉じ込め人の自由を奪っていることである。これを法に
名を借りた組織犯罪と言わずして何と表現すればいいのだろうか。

 そして、先の小沢さんの金の出所を巡って長期に争われた裁判などは、初めから小沢さんの追い落としをはかっての
作為的な行為であった。罪に陥れるために、真実をねじ曲げた調書を作り、罪人扱いをするなどと言うようなことが
あっていいのだろうか。これから司法畑を目指す若者たちは、もっと正義のあり方を考えて貰いたいと切に願うばかり
である。

 袴田さんに最初の判決文を読み上げた先の裁判官のように先輩に逆らうことは組織と言う中にあってなかなか難しい
ことかもしれない。ましてやそれが自分の出世に関わることであれば尚更の事かも知れない。しかし良心と言う心を
捨ててまで行う行為であろうか。正義のために行うことが正義に反しているとしたら、それは自分が目指すべきもの
なのだろうか。

 裁判員裁判が行われるようになって久しい。多くの裁判が裁判員の採決によって決せられてきた。しかし、改めて
今回の袴田事件の結果を考えるとき、簡単に裁判員になって人の罪を裁くことには慎重になるべきだと考えるのである。
ましてや捜査の全ては当局が行ったものを参考にしての裁決である。自分が自分の目で調べたものではない。

 真実は、その現場を調べたものでしか分かりえないものがいっぱいある。捜査の過程で直感的に不審に思われるような
ことがあるはずだ。しかし、それは捜査に当たった者しか知り得ない。そこに裁判員裁判の難しさや判決を下すことの
難しさがある。

 袴田さんの仮釈放に関し裁判所の下した判断は、このまま死刑囚として袴田さんを監獄にとどめ置くことは正義に反する
として仮釈放を決めると言う異例の結果となった。裁判は後日再開される。事件発生から今日まで長期にわたって犯人扱いされ
いつ死刑が執行されるか分からない恐怖におびえながらの長い歳月はどのような心境だったのだろうか。その心境を思うとき
思わず涙が湧いてくるのを抑えられない。

 一日も早く無罪放免の判決を待っている。そして数少ない親族の一人として袴田さんを支え続けてこられた姉上の底知れぬ
弟を思う優しさを考えるとき、このお姉さんがおられたからこそ今日があったのだろうと思う。袴田さんにとって、どんなにか
力強い存在であったことだろう。それにしても若い時から老いた今までの膨大な時間を獄中で過ごさなければならなかった
この貴重な時間を誰が保障するのだろうか。犯した司法当局の罪は重い。
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終わってみれば春

2014-03-26 06:25:17 | Weblog
 二日間にわたる「ヤオヨロズ」の公演が終わった。終わってみれば「あっと」言う間の二日間であった。公演は二日間だったが
実は長い長い練習期間があった。特に主役や準主役の若者達には特別な練習日があり、通常の練習日も夜遅くまで練習に次ぐ
練習だった。

 私のようなものにさえ、終わってみればぽっかりと穴が開いたような空虚さを感じるのだから、彼らの心の中に去来する思いは
どのようなものなのだろう。終わって「ほっと」した反面、その虚しさは格別なものではなかろうか。つい今日も練習会場へと
そんな日々ではないだろうか。

 巷の評判は上々であった。会う人ごとに「良かったよ」「あんな舞台が児島で見られるとは思ってもみなかった」等々。実に
うれしく誇らしく思う日々である。続けられるものなら劇団を組んでツアーにでも出たい気分である。それくらい出演したものも
観てくれた人も感慨深いものがある。

 ただ一点「長かった」と言うのも特に高齢者から聞かれる言葉である。長時間、固い椅子に座っている苦痛は楽しい舞台だった
反面、実に気の毒なくらい多くの人から聞かれる言葉である。三時間は長い。その三時間を二日間に四回も行った。リハーサル
と本番である。

 ともあれ多くの人に特別な印象を残して「ヤオヨロズ」は終わった。練習の集大成が二日間に凝縮されていた。毎度のことながら
前日のリハーサルの時まで何度もダメだしがあって遅々として劇は前に進まなかった。これで公演当日は大丈夫なのだろうかと
危ぶまれたが、その不安をかき消すように当日の朝に行ったゲネプロでは見事な出来栄えであった。

 出演者と舞台裏をしてくれた大道具係りの心が一つになった瞬間であった。演出家に言わせれば舞台は一度限りのはかないものだと
言うけれど「うたかた」のように見えて、実は出演者は無論のこと、このミュージカルに関わった多くの人の心に強く印象に残る
ものを生んだのではないだろうか。

 そして人と人の出会いがあって、別れがある。それぞれが日常に戻り、あるものは就職先へ、あるものは進学へ、あるものは
次の人生への旅立ちんの準備にと夢の世界と現実とが交錯する春となった。

 実は、同じことが3年前にもあった。この年は東日本大震災と言う格別な事件があった年でもあった。様々な人の人生を大きく
狂わせるような事件でもあった。この年に甘えっこの幼稚園児だった子は「ヤオヨロズで」では三年生。やがて四年生になろうと
している。子供たちの成長は早い。次回があるのかどうか分からないが、あるとすれば三年先か四年先か、そしてわが身の明日も
定かではない。

 さて、我に返って見ると周辺はまさに春であった。クリスマスローズが既に満開となり、早かったサクランボの花は終わっていた。
そして沈丁花が咲き、レンギョウが咲き、早咲きの桜がピンク色の花びらをのぞかせている。何もかもが一気に春に向かって走り
始めた。長く冷たい冬を忍んできたエンドウやソラマメが一気に茎を伸ばし、玉ねぎが勢いを増している。

 ここのところ日一日と気温が上昇し、寒さを感じさせない。つい先週まではダウンジャケットが必要だったのに。現実に戻って
見れば多くの仕事が山積みになっている。どれから手を付けようか、現実は待ってくれない。こうして今年も去っていくのだろうか。
ともあれ一日一日を大切にしながら心赴くままに行動し過ごせていけたらいいなと思っている。

 「ヤオヨロズ」のみなさんご苦労さん、そして観に来てくれた多くの皆さん本当にありがとう。
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ヤオヨロズ

2014-03-22 04:57:45 | Weblog
 3月21日はリハーサル。これだけの人間が集まって一つのことをやるとなると、なかなか全員が
何事もなくそろううのは難しい。アクシデントは付き物のようだ。ともあれ本番を今日に控え、昨日は
リハーサル。何もかも今日のために短時間で準備されたものが多く調整や準備が大変だ。

 照明、音響、そしてプロジェクターによる映像など。こうして昨日一日のリハーサルは終わった。
大人から幼い子供まで全員が一緒になって舞台に取り組む。こんな事が他にあるだろうか。恐らく
無いと言っても良いだろう。それだけに、集まったもの全員が舞台と言うその瞬間に立ち会っている。
感動ものである。

 ヤオヨロズは古代史を下敷きにしているが、物語そのものはオリジナルなものだ。そして民族の
融合を説いている。実に壮大なテーマであり物語だ。詳しくは見てのお楽しみとしておこう。

 入場チケットの売れ行きも今一つと言うところであったが、みなさんの最後の努力と応援で何とか
二日間の公演の席が埋まりそうである。約束できることは必ず期待に応え得るミュージカルだと言う
ことだ。三年前のミュージカル「最後の五匹を」超える素晴らしい出来栄えである。

 今回のミュージカルは演出や音楽、そして脚本も素晴らしい上に、衣装や照明などにも見るべきものが
盛りだくさんで、それもまた、みなさんを驚かせます。

 みなさんから背中を押されるままに私もほんのワンシーンのつもりで出演することになりました。
ほんの短期間の練習なので、出演者の足を引っ張らぬように思っています。しかし、根は好きな
方なので今ははまりそうになっています。

 舞台でみんなと一緒に演じていると、幾たびかの幼いころの学芸会を思い出します。その頃から何故か
主役でした。台詞を忘れ友達に助けられたことや喜劇にも似た演劇で会場の爆笑を誘ったこともありました。
それらが全て今に繋がっているような気がしています。さあ、今日は本番です。チケットを買っていない
人も当日券があります。ぜひ観に来てください。お待ちしています。
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赤い月

2014-03-19 06:38:22 | Weblog
 ここのところ気のせいか「赤い月」が目に焼き付いて離れません。何か不吉な現象の前触れではないかと気がかりです。
日々、様々な事件が報道を賑わせています。これらの事件を通じて感じることは、私たち人間サイドにも様々な変化が
急速に進展しつつあるように思われます。

 自然現象における変化の一つに地磁気の減少があります。日ごろは全く感じない地磁気ですが、この地磁気は私たちの
生存には欠かせない大きな役割を担っています。もし地磁気が失われたら私たちの地球は裸のまま大量の太陽風や宇宙線が
降り注ぐ中へ放り出されてしまいます。

 現に地磁気は減少の一途にあります。気象庁が出しているデータを見ていただければ良くわかりますが、目に見えて減少
しています。この変化は私たちの生きている時代だけでなく、過去に何度も起きていることなのです。そして、その変化は
人間の歴史にはなかった極小期に向かっています。

 私たちが当たり前のように呼吸している空気でさえ何十億年か昔の組成とは変化しています。このように当たり前だと
思っていることの多くは、実は変化し続けているのです。

 さて、この地磁気が変化すると、どのようなことになるのか、私たちが初めて経験することなので良くわかってはいません。
一説によると宇宙から降り注ぐ宇宙線の量が増え、それによって雲の出来る量に変化が生ずると言うのです。雲の量が増える
と地上に降り注ぐ太陽光が減少し、地球は寒冷化に向かうと言うのです。

 今は化石燃料の消費によって二酸化炭素の量が増え温暖化を心配していますが、全く反対の減少が生ずることになります。
温暖化と寒冷化が同時進行と言うことになるのでしょうか。

 そして地磁気の変化とともに進行しているのではないかと言われているのがポールシフトと言う現象です。地球は大きな
電磁石の様なものです。当然のことながらN極がありS極があります。このNとSが入れ替わるかもしれないと言う現象です。
既にS極が大きく移動しつつあることが報じられています。どうやら一気に入れ替わるのではなく、徐々に移動しながら
入れ替わるように見えています。

 しかし、これはほんの始まりであって一気に地殻変動とともに進行するのではないかと言う極めて恐ろしい説もあるようです。
極が入れ替わる。それはどんな現象でしょうか。人間の様な探究心の強い生物がこの世に誕生して以来、初めての経験です。
また、地磁気の減少やポールシフトなどが人間の生理的なものにどのような作用を及ぼすのでしょうか。

 今日の様々な事件や現象と関連付けて考えてみる必要があるのかもしれません。あるいはもっと神秘的な表現をするならば
人間の心の変化が大きな気象異変や地球規模の変化を生じさせる現象になっているのかもしれません。

 いずれにせよ太陽は大きな変化を終えました。太陽でもポールシフトがあったのです。その変化は、ほぼ終了したと報じられて
います。太陽も極を持つ天体だったのです。太陽と地球、そして地球には不似合いなほど大きな天体である月の存在を考えるときに
絶妙とも思える離隔距離やそれぞれの天体の大きさなど偶然とは思えません。それぞれの存在はいったい何なのでしょう。

 この大きさや離隔距離のバランスがなければ日食も月食も、ましてや金環食などは起こりえないのです。そして月の巡りは
地球の海に大きな影響を及ぼし一日二回の干満をもたらしています。そして人間の生理にも大きな影響を及ぼしています。
わずかな地軸の傾きも季節の変化をもたらす大きな要因になっています。こうした諸現象の全てが偶然とは思えない作為的な
何かに思えるのは私だけでしょうか。

 ともあれ今は春です。今日は大荒れの天気になるそうです。我が家では沈丁花、サクランボの花、そして鉢の中では
クリスマスローズが殊の外たくさんの花をつけ、それはそれは見事です。季節の巡りの中で感じることは生かされている
と言う実感です。そう私たちは何がなしに生きているのではなく生かされているのです。喧騒さからそっと抜け出して
季節の変化を感じてみてください。
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春が来た

2014-03-17 06:12:33 | Weblog
 先日の未明の地震には驚いたが、ここのところ実に穏やかな朝だ。窓の外からは時々鶯の鳴き声さえ聞こえてくる。
一昨日は鷲羽山で瀬戸内海国立公園指定80周年の記念イベントが行われた。私も午後からのパネルディスカッションに
パネラーの一人として招待を受け、観光地としての現状と今後について意見を求められ、私なりの意見を述べてきた。

 10年ほど前、旅客船に乗って多くの国々を回ってきた私としては、他国の良いところもたくさん見てきたけれど
この瀬戸内海の優美さは決して他国に勝るとも劣らないと思っている。海から陸側を眺めるのも良いし、鷲羽山の様な
適した高さから眺める瀬戸内海の景色も良い。また鷲羽山からの多島美とは対照的な児島湾を囲むようにして隣接する
王子ヶ岳からの雄大な眺めも良い。

 いずれにしても自然が作り出した美しさである。近場にありながら意外にもこの観光地を知らない人も多い。
また、せっかく鷲羽山まで来たのに山頂からの景色を楽しむ人が少ないのも残念である。瀬戸内海国立公園は実に広い。
瀬戸内海を囲むように向かいの四国から果ては九州近くまで広範囲な国立公園である。

 しかし、国立公園としての指定のきっかけとなったのは、実は鷲羽山から見下ろす海と多島美にあった。このことを
考えると観光スポットとして向かいの屋島や小豆島など様々にあるが、何と言っても群を抜いているのは鷲羽山の
133メートルと言う高さから眺める景色であろう。

 海は四季を通じて様々に表情を変える。また潮の流れが速いこの海域一帯は時間によって様々に表情を変化させる。
それは太陽の光と島々の間を縫うように流れる潮の流れが作り出す模様による。このことは観光に来た人に説明して
あげないと分からない。地元にいるものだけが知っているとっておきの情報である。

 そして見下ろす海域に点在する大小様々の島々にもそれぞれの歴史がある。それは本島の塩飽海軍の話であったり
藤原の純友の乱であったりする。また源平合戦もこの周辺海域一帯で行われた戦であった。

 古くは北前船が大船団を組んで下津井港に錨を下ろしたこともある。船団が入港すると近郷近在から女子衆がかき
集められ、紅白粉のにわか芸者や酌婦に仕立て上げられたと言う伝説まで残っている。今は土に埋められてしまった
「まだかな橋」と言う場所も荷卸しのまだ済まぬ船乗りたちに早く降りて遊びに来いと誘った場所だと言われている。
「まだかいな」「まだかいな」と遊女達の声が聞かれた場所である。

 下津井こそは単なる漁村ではなく商人が算盤片手に商いに明け暮れた街であった。荷揚げされた大量のニシンを
乾燥させたものは近郷近在の豪農に引き取られていった。全ては綿作の肥料であった。

 このように遠く北海道と裏日本各地の港、そして下津井港は結びついていたのである。後には豪商たち自らも船を
建造し遠くカムチャッカ半島にまで商売に出かけたのである。

 このように鷲羽山とその麓に広がる港は人々の生活の息遣いが分かる街として発展し、更には陸運の発展とともに
衰退していった。今は家並みだけが往時を偲ばせるように幾つも残っている。これらを一方の観光の柱としながら
これからの観光を考えていきたい。

 庭では沈丁花の匂いでむせ返るようである。そしていち早くサクランボの白い花が開き一挙に季節は春に突入する。
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深夜の地震

2014-03-14 05:35:06 | Weblog
 夜中の二時ごろ突然に地震が襲ってきた。かなり長時間の揺れだった。岡山県では震度4、震源地は伊予灘であった。
この周辺は地震の巣窟であって昔から何度も地震の発生源になっている。

 今朝ほどこんなサイトを見たのでお知らせしておきたい。三連動大地震「春までに起きる可能性」測量学権威が警告
「今後、日向灘周辺で震度4、5が起きたら、引き金となって南海地震を引き起こす可能性がある」不気味である。
今回の地震は日向灘に近いところで起きている。

 三連動地震とは東海、東南海、南海地震のことである。東海地方から九州に至る広範囲な太平洋側で発生されると
されている大地震のことである。これらの地震は同時に発生することもあれば、若干の時差で発生することもある。
時差と言っても地球規模の時間で考えれば瞬時のことである。くれぐれも注意が必要だ。

 地震が発生した時、個々人に於いて運命は決まっている。誰が不幸な目に遭い誰が助かるかは予測がつかない。
津波が来たらとにかく近場の高台に逃げる。それしか助かる道はない。30メートルを超えるような津波も
想定されている。とにかく高いところをめざし這いながらでも登っていく。

 そして備蓄が必要だ。当面の食糧と水、塩、防寒具、懐中電灯、ラジオなどである。様々なサイトで紹介しているから
参考にすると良い。

 まずは自助、そして近隣同士の助け合いの共助、そして公助だ。地震発生当初や津波被災直後の公助は期待できない。
従って自力で危機を逃れる。そして余力があれば助けを要する人に援助の手を差し伸べる。

とにかく不気味だ。これが杞憂であれば良いのだが。先日来、何とはなく気になっていただけに予測が的中したようで
何とも言えない気持ちだ。参考にすべきサイトはこちら。詳しく書いてある。

http://eien.mie1.net/e490471.html



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あれから三年

2014-03-12 04:07:09 | Weblog
 早いもので東日本大震災から三年の歳月が流れた。被災者の皆さんにとっては忘れようとしても忘れることの
出来ない長い時間だったことと思う。日本列島の形が変わるほどのひどい地殻変動。そして繰り返し襲ってくる
大災害。この奇妙な形をした列島の宿命かも知れない。

 今までにも幾度ども体験してきた大規模災害ではあるが、人の活動が最も盛んな時間帯に目の前で起こり、
それはリアルタイムに報道された。このような災害を映像で見ることが出来たのは人類史上初めての体験であった。
その映像は国内だけでなく瞬く間に世界中に広がった。あの月世界着陸の中継と同じように、世界中の人が
大規模災害の恐ろしさを同時に体験をしたことになる。

 日本人はともかく他国の人はどのように感じたのであろうか。大震災に続く福島第一原発の連続爆発事故、
あり得ないことが相次いで生じ、多くの外国人は急いで日本を後にした。放射能被害を恐れての退去であった。

 あれから三年、今も復興は続いている。現地の人たちにとってはかばかしく進まない復興にいら立ちは隠せない。
また、半ばあきらめたような言葉も聞かれる。被災者の中には若い人ばかりではない。多くの高齢者も少なくない。
こうした人達にとって再建の道は更に遠い。わが身に置き換えて考えてみた時に、体力、気力がないと、もう一度
人生をやり直すことなど大変なことだと思う。どうか頑張ってほしい。必ず次の展開が待っている。

 あの阪神淡路大震災の時でさえ七年以上の歳月を要している。焦らず気落ちすることなく頑張ってほしい。そして
自分の人生は自分で切り開いていくしかない。みんな様々な人生を背負って生きている。

 亡くなった人、生き残った人の人生を分けたものは何だったのだろう。大津波が後を追いかけてくる。それから
逃れようと自家用車のハンドルを切った人、その後は波が覆いかぶさって視覚から消えてしまった人。そうした人の
中にも幾人もの人が生還している。そして、その時の体験を生々しく語っている。お互いの生死を分けたものは
何だったのだろう。運命としか言いようのない出来事が様々なところで起きていた。

 私たちは何かの力によって生かされている。そのような気がしてならない。生き残った者は災害の体験者であろうが
なかろうが生きることに徹しなければならない。命を粗末にしてはならない。生かされていることに感謝し自分の人生を
正しく生き抜かなければならないと思うのである。

 復興への道は遠い。今やるべきは将来に備えての大土木工事を行うことより、私たち自身の心の中に強固な堤防を築く
ことだ。その堤防は地域の絆と言う堤防だ。

 自助、共助、公助という言葉がある。防災上の言葉である。自助とは自ら自分の命を救うために起こす行動である。
共助はお互いに助け合うことである。阪神淡路大震災の時に公助は大きく遅れた。公務員の多くが被災者であり
公共交通機関が機能しなかったことによる。待っていても来てくれない消防より近所の人たちがいち早く下敷きに
なった人たちを助け出す。

 共助は日ごろからの連携がなければ出来ない。どこにどんな人が住んでいて、その人はどんな暮らしをしているか
一人住まいなのか家族はいるのか等々、古き良き時代の「向こう三軒両隣」の様な人間関係が日ごろから出来て
いること。それこそが人と人の絆である。絆こそどんな堤防より強い。これは今回の被災者の方の重い言葉である。
今こそもっと人と人の繋がりを密にしていかなければならない時代だと実感している。

 次にどこが被災地になるか分からない。そして世は国内外を問わず騒然としている。人類史上における大きな転換点に
あることを実感せざるを得ない。何かが変わろうとしている。その何かに向かって好むと好まざるとに関わらず突入して
いる。人生は糾える(あざなえる)縄の如し、一喜一憂することなく自分は自分に宛がわれた人生を生きることに徹したい。

禍福は糾える縄の如しの解説・・・・ネット上に、このことわざにふさわしい回答があったので掲載してみます。

幸せと不幸せは常に隣り合わせ。
幸福が来たと思っていても、それは不幸のきっかけで、不幸がやってきたり、
不幸が来たと思っていてもそれは実は幸せの前兆であって、幸せがやってきたり・・・、
人生には幸せと不幸が隣り合わせでやってくるものだから、幸運が来たと言っては大いにはしゃいだりせず、
その後に来る不幸に備えて身を慎み、不幸が来たと言って激しく落ち込んで自暴自棄になったりせずに、
風向きが来るのを待てと言ったような意味。

同じようなことわざに「人間万事塞翁が馬」があります。
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発酵を楽しむ

2014-03-08 06:08:34 | Weblog
 甘酒を作る時になると、いつも思い出すことがある。小学校時代の思い出だ。その頃は学科に家庭科と言う時間があった。
男の子でもミシンぐらいは使えなくてはだめだと言うことでミシンを使ったり、手縫いで雑巾を作ったり、ボタン付けの
練習をしたりと結構、細かい作業もやっていた。

 また料理の時間もあってカレーライスを作ったこともあった。むろん当時、カレールーなどと言う便利なものはなく
カレー粉を使い小麦粉を炒めて作った記憶がある。包丁は旨く使えていたのだろうか。記憶にない。

 そんな調理実習の一環だったと記憶しているが、甘酒を作る時間があった。とにかくお米を炊いて、それを木のおひつに
入れて、麹を混ぜて保温をする。ただそれだけのことだった。確か加温は炬燵だったと記憶している。そして翌朝、布団を
めくってみて驚いた。何とおひつが加温のために収縮しタガがはずれてしまっていたのだ。

 せっかくできた甘酒は隙間からこぼれてしまい、その周辺には透明な水あめが出来ていたのだ。僕らの班だけが
そうだったのか、まるで記憶がないがとにかく大失敗でがっかりしたことを思い出す。ふとんにへばりついた飴なので
舐めるわけにもいかなかった。泣く泣く捨てたのではないだろうか。とにかく甘酒から水あめが出来ることを知ったのだ。
それは失敗から得た学びだったかもしれない。

 そして何十年ぶりかで家内の指導の下に甘酒を作った。それはおひつを使う方法でもなければ、加温に炬燵を使う方法
でもなかった。電気釜で作る方法で、作り方はいたって簡単なものであった。

 まずはお米三合を四合分の水で炊く。少し緩めのご飯が炊きあがる。それを約55度くらいまで冷まして温度を下げる。
その中に米麹を混ぜ込む。後は再び電気がまに収めてスイッチを保温にする。蓋を閉めずに布巾などをかぶせ電気がまの
蓋の開き具合で温度管理する。適温は55度くらい。

 時々、かき混ぜながら発酵を待つ。発酵は保温を始めるとすぐに始まる。そして時間経過とともに、どんどん進む。
その変化は早い。発酵が進むにつれ米粒も米麹も形が消えておかゆ状態になってくる。完成するまで温度管理をしながら
2時間か2時間半ごとに良くかき混ぜる。

 数時間もすると甘い良い香りがするようになる。そして発酵が更に進む。コウジカビという微生物の繁殖力に驚かされる。
子供の頃、この観察が出来ていたらもっと素晴らしい経験だったことだろう。ちなみにコウジカビは菌糸の先端から酵素を
出す。この酵素の働きによってデンプンが糖化するのだ。

 こうして7時間から8時間、発酵は頂点に達する。完成である。とても上品な甘さだ。砂糖などとは全く異なる甘さで、
このままでも食べられる。無理に水で溶いて甘酒にする必要もない。このままでおやつにしてもなる。一度、経験すると
作り方は実に簡単、温度管理さえきちんとすれば必ずできる。

 甘酒と並行で酵素ジュースも仕込んだ。こちらはヨーグルトを作るときに使用する帯状の加温器を使っている。この話は
また、後ほど。
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あなたの祖先は誰

2014-03-02 05:44:25 | Weblog
 人の縁と言うものは実に不思議なものです。知らなかったけれどごく身近に、こんな繋がりで親戚関係にあったんだと言う
ことがありはしないでしょうか。現代に生きる私たちは身近にあって親戚だと言う人をあまり知らない。知らないと言うより
関心が薄いと言った方が適切だろうか。

 昔は結婚となると誰それの家には、こんな親戚や人が居てと誠にうるさかった。また中には血統がどうだとかこうだとか
言うおじさんやおばさんまでいてなかなかに口うるさかった。

 それと言うのも本人同士の結婚と言うより戦前のような家と家の結びつきを重んじていたからだ。しかし、恋愛結婚が
当たり前になり、そんなことを口にするような人は少なくなった。それでも密かに差別問題などは残っている。

 私は随分前に家系図を作るべく母方の戸籍謄本を取り寄せたことがあった。ところが戸籍の取り扱いをしている役場の
窓口から丁重なお断りの手紙が来た。明治維新前の戸籍については発行できないというのだ。明治維新のとき被差別撤廃と
言う法が定められ、それによってそれ以前の戸籍は公開できなくなっているとのことであった。

 従って、今は明治以降のものしか入手できない。それでも知らない情報がいっぱいあった。「ほう」自分の家系には
こんな人もいたのかと言うような情報である。私たちは身近なことなのに意外にも知らないことが多い。

 名家には家系図があり、その家系図によって江戸時代までさかのぼることも出来た。また、菩提寺には過去帳があり
過去帳からも情報を得ることが出来た。しかし多くは口伝によって語り継がれてきた。私も父方の叔母から様々な情報を
得ていた。それでも圧倒的に情報量としては少なかった。

 そんなことに深く関心を持つほどの年齢でなかったことにもよる。今ならもっと色んなことを聞いておけばよかったと
後悔している。家族間でこのような話をする機会がほとんどなくなった今では、伝わるべきものはほとんど何もない。

 かつて彷徨う魂のことを書いた。拠り所を失った魂が様々な事件を起こし、生きる希望を失ったものは自殺に走る。
そして高齢化は私たちから否応なしに記憶を奪っていく。こんなわけで自分のルーツなど問題にならない時代になって
しまったようだ。

 さて、自分のルーツはともかく自分が今日あるのは誰かの遺伝子を受け継いでいるからだ。相次ぐ天災や不幸に見舞われ
ながらも生き続けてきた遺伝子が脈々と体の中には受け継がれている。この世に生を受けるチャンスは遺伝子的に考えると
きわめて少ない。

 そして明治から江戸時代、戦国時代から室町時代、更に鎌倉時代から平安時代と時代を遡ると、私たちの遺伝子は誰かの
血脈を通じて受け継がれてきた。その膨大な祖先の中にどんなドラマが隠されていたのだろう。そして今は対立している
相手こそはごく近い血脈のものかも知れないのだ。

 そう考えてみると争い事や奪い合う心は実に愚かなことだと言うことに気付かされる。まして今は日本人としての遺伝子
血脈のことを語っているが、そう遠くない過去には大陸のどこかへつながっており、更には人類発祥の地とされるアフリカ大陸
へと繋がっているにのだ。

 人類は80億にも達する膨大な数に増えたが、ゆえに自分と言う存在を見失っている。そして、すぐ隣の人間でさえ敵だと
して銃口を向けている。私たちの祖先だった人達がそれを見たら何というであろうか。そんなことのために私はあなたを
子孫として残したのではないと言うに違いない。

 シリアにエジプトに、あるいはウクライナに戦火は及ぼうとしている。そして多くの人々が明日の希望もなく、その日
食べるものさえなく飢えている。そんなくだらない争い事をしているときであろうか。馬鹿なことを言ううなと言う人が
いるかもしれない。誰が海の上や陸上に国境を定めたのか。時の権力者が自分の欲望に赴くままに戦争を仕掛け、その結果
越えてはならない鉄条網を張り巡らせただけではないのだろうか。

 私たちは、いい加減に目をさまし欲望や権力欲におぼれた人の支配下から抜け出さなければならない。私たちはもっと自由で
あるべきだ。もっと大きな視野でものを見るべき時代に突入しているのではないだろうか。戦争のない真に平和な時代は
誰かに委ねていたのでは実現しない。
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