人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

ワークショップ始動開始

2009-01-25 16:59:52 | Weblog
 さあ、いよいよ活弁のワークショップが始まった。苦しさも楽しさ
も、この活動の中に全て凝縮されている。そもそも活弁に難しいルール
なんてものは何もない。みんなの自由な発想で自由に作れば良い。

 誰でもそうだと思うのだが、出来上がった作品をみんなに見て貰い、
見た人から笑いなり、ため息の洩れるのが聞こえたら、やみつきに
なってしまうのではないだろうか。作品を作り上げる苦しみの果てに
ある喜びを、ぜひ、みんなに味わって欲しい。

 さて、光南台公民館での第二回目の講座が始まった。今日から
いよいよ無声映画の画面を見ながらの脚本作りである。今回の講座で
使っているのは三本ともチャップリン映画の初期の作品である。

 今日の講座を含め、あと二回の講座で脚本を完成させ、声を出して
の練習が必要となる。むろん、公民館の講座時間だけでは完成しそう
もない。従って、自宅に帰っても画面を見ながらの格闘が始まる。

 どうやら今日の講座で大まかな方向だけは決まったようである。
あるグループの中には、今朝まで脚本作りをして持ち込んだ人がいた。
脚本にはシーンごとの写真まで貼ってあり、睡眠時間はたったの
一時間だったとのこと。実に熱心で頭が下がる。おまけに私が書いた
ブログまで印刷して持ってきてくれた。

 また、作品で使いたいと、自動車のクラクションを擬音で出したり、
その他の小道具で箱の中はぎっしり。ただただ頭が下がる思いだ。

 無声映画は、そのままで完成された作品だ。音楽とわずかばかりの
字幕でストーリーは分かるようになっている。特にチャップリンの
作品は、そのことを充分に意識して作られているように思う。

 だから画面の動きだけを見ていても充分に笑えるように作られて
いる。さすがの演出という他はない。それに擬音を入れるとか、劇中
人物だけでなく、本来は脇役であるワンちゃん達にも語らせたら更に
面白いものになるに違いない。

 例えば映画に出てくるチャップリンの愛犬に何か語らせてみたら
どうだろう。主人のやることにため息をつかせて見たり、そうかと
思えば本気で主人の事を心配させてみると話に奥行きが出来て面白い
ものになるのではないだろうか。こんな工夫が無声映画を今風に甦ら
せるのではないだろうか。

 さあ、3月1日(日曜日)の発表会が大変楽しみである。公民館
では大勢のお客さんに見て貰うことを計画している。むろん、私たち
夫婦も、もう一度「突貫小僧」で出演する。

 私たち夫婦の願いは一人でも多くの活弁ファンが増えることである。
そして、地元での活弁が現代の文化として定着することにある。今回
の講座の中で第二、第三の活弁愛好家、活弁士が誕生することを願って
いる。みんなガンバレ!!
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やはり温暖化

2009-01-23 11:14:59 | Weblog
 大寒だというのに雨が降っている。ここのところ雨が多い。冬にも
そこそこ雨か雪が降らないと畑も植木鉢もからからである。冬に何回も
水やりをするなんて珍しい事だと思っていたら、先週末ぐらいから
降っては止み、降っては止みを繰り返している。
 
 昨日は久々に太陽も見えて清々しいお天気だと思っていたら、午後
からは一転して曇り空となった。やはり瀬戸内海に似合うのは、晴天
だ。でも今は大寒である。普通なら雨ではなく雪だろう。雪が雨にと
いうのは変だ。やはり温暖化の影響なのだろうか。

 このままだと雪をほとんど見ることなく春になってしまうのでは
ないだろうか。私が子供だった頃には良く雪が降っていた。むろん
私が育った神辺平野での事だ。海に近いこの周辺とは異なるかも
知れない。

 そんな温暖化の現象は陸上だけの事ではなさそうだ。先日も笠岡の
沖合の島に住む人が、海の中にも大きな異変が起きていると話していた。
気候変動と何か関係があるのかも知れない。

 先日の朝日新聞に南極大陸の温暖化の記事が掲載されていた。南極
の温暖化は部分的なものであろうと言われていたが、逆に、ほんの一部
の地域を除いて、ほぼ全体に温暖化の兆候が見られるとの事である。

 これは過去50年間の観測結果をNASA等の関係機関が解析した
結果だと報じられている。近くイギリスの科学雑誌「ネイチャー」に
掲載されるようだ。

 南極大陸上を覆う巨大な棚氷が大陸を離れるようになって久しい。
南極は大陸全体を分厚い氷の層が覆っている。その重さは地面をも
押しつぶしてしまうほどの重さだと言われている。その氷が溶け始め
たら海面の上昇は避けられない。海水の温度上昇による膨張と棚氷の
融解による二重の海面上昇が始まっている。

 昨今の著しい科学の進歩は生物の進化の謎や人間自身のことや
宇宙のことなど、様々な分野で長い間、謎とされてきたことを解き
明かそうとしている。そうした事柄が明らかになればなるほど、
地球の終末が近いかも知れないという妙な予感がしてならない。

 あの有名な「2001年宇宙の旅」という小説や映画に描かれた
様々なシーンが思い出される。モノリスに導かれるように進化した
人類は、大いなる謎の正体を突き止めるかに見えたとき、コンピュータ
の思いがけない反乱によって、その道を閉ざされる。

 私たちも、そのような運命を辿るのであろうか。私たちが私たち自身
の存在の謎が明らかになったとき、この世は消えてしまうのだろうか。
そんな気がしてならない昨今である。私は、手つかずの大自然である
南極大陸の分厚い氷の下に「大いなる謎」が隠されているような気が
してならない。

 私が幼少より考えていたことがある。その時、自分とともに存在する
この世(この世は60億人いれば60億人それぞれの世界が存在する)
も一緒に消えるのではないかと考えている。私の荒唐無稽な妄想なので
あろうか。私がこの世を去るときも、そう遠くない年齢になった。

 これから旅立つあの世には、どんな謎が隠されているのだろうか。
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漢字一文字「変」

2009-01-20 06:45:33 | Weblog
 いよいよアメリカ合衆国は新しい時代に突入したようだ。平和を
掲げての新大統領に対する期待は大きい。破壊する事だけの8年間
であった前ブッシュ大統領、その後始末は並大抵な事ではない。

 アメリカ合衆国だけでなく、これからは世界に新しい時代が始まった
と言っても過言ではないだろう。挫折することなく、ケネディ大統領
のように暗殺されることなく任務を全うして貰いたい。

 その新大統領バラク・オバマ氏の掲げた旗印が「チェンジ」「変革」
だ。そして、昨年の暮れに清水寺で書かれた文字が「変」であった。
実は、私もその発表に先駆けて「変」という文字を選んでいた。

 私たちが主催する「私たちのまるごと新聞展」での事であった。
そして先日、私の予測した一文字「変」が見事に当たっていたので
景品を貰った。実は、景品を貰うまで自分のが応募した一文字が
何だったのか記憶も少しあやふやになっていたのだが、景品を受け
取って「やはり、そうだったのか」と、かすかな記憶が甦ってきた。

 ただ、記憶の中に残っていた「変」は、いつもになく元気のない
文字だった。その形が清水寺で書かれた「変」と、あまりにも良く
似ていたので、ニュースで見たとき何となく記憶が呼び戻されたのだ。
墨黒々と書かれた「変」は少し肩を落とした人の姿のように見えた。
私の書いた「変」も少し元気のない文字だったので気になっていた。

 実は、この文字を思いついたのには理由があった。私の場合は
決して変革の「変」だけではなかった。ここ数年、日本だけでなく
世界中でとても常識では考えられないような事ばかりが生じている。
そうした国内外の出来事から「何か世の中が変」と感じていたからだ。

 そして、その後にバラク・オバマさんが「変革」を掲げ、それが
ニュースとなって大きく報道された。今となってはどちらでも良い
ことだが、とにかく「変な世の中」が、少しでも「変革で」まともな
世の中になることを望んでいる。

 今も国会では不毛に近い議論が続いている。おおよそ国民感情とは
ほど遠いところにいるのが麻生さんと、麻生さんを今も支持すると
言ってはばからない自民党や公明党だ。これがまともな政権と言える
のだろうか。

 こんな状態が長引けば長引くほど国民の大切な時間や生活は失われて
いくのだ。その罪は大きい。この国に「人物」はいないのだろうか。

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すべては脳に帰す

2009-01-18 15:56:24 | Weblog
 今、生じている周辺の出来事の全ては過去の何かに繋がっている。
そう感じ始めて久しい。若かった頃は目先の事だけしか見えなくて
気付かなかった事が多い。会社と言う日々何かに負われるような生活
を離れ一個人に戻ってみると、今まで気付かなかったことがたくさん
見えてきた。

 今、人生の締めくくりである時期に生じていることの多くが過去に
始まっている。たぐり寄せれば幼少期の記憶に繋がるものが多い。
無類の植物が好きだったことは、集大成として植物について他の人に
講義するようになってきた。

 その具体的な現れは趣味としての農園芸であり、環境問題である。
そうしたいと考えてやって来たことではない。自然に水が低きに流れる
ように、いつの間にか望むことが実現するようになってきた。

 最近では、この人に会いたいと思っていると、その人が目前にいると
言ったことも珍しいことではなくなった。人との繋がりも同じではない
だろうか。恐らくは、出会うべくして出会った人ばかりだと思うので
ある。また、多くの出会いの中には、偶然とは思えないような出会いも
少なくない。

 人間はこうあらねばならないとか、こうしなければと思わない方が
良いのかも知れない。何かを強く意識すればするほど現実は遠のいて
いくように思えてならない。全ての出来事は過去からの約束事では
ないかというのが、私の経験を通して感じられる事である。

 ある人は、こうしたことを、このように話している。忘れている人が
大半なのだが、みんなこの世に生を受けるとき自ら選んで生を受けて
いる。自分の人生は自分で選択し、この世に生まれてきたと言うので
ある。

 従って、我が身に生じる出来事の全ては誰の責任でもなく、自らが
選択したことであり、この世に生を受けたときから始まっていると言う
のである。そう言われてみればなるほどと思われる方も多いのでは
ないだろうか。

 だから、人の上下や職業の貴賤はない。全ては比較の中から生じて
くる迷いごとであって、人をうらやむことも、ましてや我が人生を悔やむ
ことも恨むこともないのである。

 また、人と人との結びつきも、この世に生を受ける時の約束事では
ないだろうか。昨今の悲しむべき事件を見ていると、とても実の親子
とは思えないような出来事も少なくない。反対に血縁関係はなくても、
かけがえのない親友がいるものである。

 DNAレベルでは親子であっても、この世における仮の結びつきでは
ないかとも思える。縁あってこの世に誕生し、共にこの世を生きている
もっとも近しい関係が親子であり、兄弟であり、夫婦ではないだろうか。
例え親子であっても仲の良い友人であっても魂は個々のものである。
とは言え、親が子の行く末を心配するのは人情である。

 怒り、喜び、悲しみ、寂しさ、いずれも人間なら誰でも感じる感情
であるが、これら全ては他人から強制されたものではない。自分の感情
である。自分の心の中にあるものである。人間は五感を持っている。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚である。

 赤ちゃんは味覚から目覚める。何でも口に持っていき、それが何で
あるのか確かめようとしている。私は動物が獲得した最初の感覚では
ないかと思っている。動物は口から餌になるものを取り入れてエネルギー
源としている。動物が動物として生きていくためには欠かせない営み
である。未熟なまま生まれてくる人間は、その原始的形態を受け継いで
いるのではないだろうか。成長するに連れ、そのような行為はなく
なっていく。他の感覚器官による情報に置き換わるからだろう。

 人間は五感から取り込んだ様々な情報を電気信号に換え脳に伝えて
いる。電気信号を伝えているのが神経である。人間の脳は微弱な電流
がめまぐるしく交差している。取り込んだ情報を処理し、しかるべき
指示を下すためである。指示されたことは言葉になり行動になっている。

 人間に恐怖や重圧という感情がなくなれば、驚異的な運動能力が
発揮されるに違いない。スポーツ選手は常に重圧や恐怖と闘っている。
その感情がある限り、記録は限定されたものとなるのはやむを得ない。
実に不思議なものである。

 かくゆう私も今まで様々な軋轢や苦しみの中で生きてきた。しかし、
昨今、全ての事柄が自分の感情という脳の働きから始まっているもの
だと気付くようになった。そして今は、自分の頭上にある厚い雲が
切れたような気分になっている。実は神も仏も自分自身なのである。
如何に自分の感情をコントロールするかに尽きるのではないだろうか。

 脳は電気とは全く縁のない臓器に見える。しかし、外見とは裏腹に
その中身はコンピュータに勝るとも劣らない精巧な電気回路である。
微弱とは言え電気が常に脳の中を行き来している。

 この宇宙を作っているのが原子核や電子であることを考えると、人と
宇宙は一体のものだと見ることが出来る。光を介して見ている形ある
物体もミクロの目で見ると境のない一体のものとしか見えない。

 最近、人の魂は宇宙のどこかに繋がっているという話を本で読んだ
ことがある。宇宙のどこかに繋がっているのではなく、私たち自身が
宇宙の一部だと考えれば、魂のよりどころはこの宇宙そのものなのかも
知れないと思うのである。

 私たちの喜びや悲しみは脳が感じている事である。美味しいと思う
ことも美しいと思うことも、快楽や苦痛も全ては脳が感じていること
である。当たり前だと言ってしまえばそれまでだが何だか不思議な
ことである。

 何だかまとまりのない文章になってしまった。やむを得ない。全ては
現在進行形であり結論を得ていない。未完成の事ばかりである。機会
があれば続きを書きたいと思う。
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何となく落ち着かない日々

2009-01-15 22:32:06 | Weblog
 何事もなかったのが不思議、そんな気さえするような昨年の台風
シーズンであった。一個の台風の上陸もなかったというのは珍しい
ことではないだろうか。

 その代わり局地的な集中豪雨の多発した年でもあった。まさしく
温暖化によって熱帯のスコール並の豪雨傾向にあるようだ。一方、
本来なら活発な周期であるべき太陽の活動が低調で黒点が少ないと
いうのも何となく気になるところである。

 ところで昨年の暮れ近くの夜空を見られたであろうか。お月さんと
宵の明星(金星)と木星が形作る、それぞれの位置によって笑って
いるように見えたり、少し寂しそうに見えたりと、なかなか意味深な
それぞれの位置関係であった。


 さて、世界各地で蜜蜂が突然消えてしまうと言う奇妙な現象が続いて
いるようだ。最初に報じられたのはアメリカの果樹園での事であった。
果樹の受粉用に飼っていた蜜蜂が突然消えてしまったというのだ。

 その後の報道がないので、今はどのようになっているのか分から
ない。また、ヨーロッパでも同じような事が確認され、最近では日本
でも確認されているようだ。これが人間であれば大騒ぎになるところ
であろうが、相手は限定された場所でしか見ることが出来ない蜜蜂の
事なのであまり話題にはならないようだ。

 蜜蜂は生物としては珍しく集団で生活する生き物だ。女王蜂を中心
にコロニーを作っている。大半の蜂は働き蜂で生殖能力を持たない。
働き蜂はただひたすら蜜を集め、女王蜂が生んだ次世代の働き蜂を
育てる。そして、決まったように別の女王蜂を作って新しいコロニー
を作る。こうして集団は次々に誕生するのである。

 私たちは蜜蜂がせっせと集めた蜜の一部を頂戴する。蜜蜂達は怒る
こともなく、人間に横取りされた分を取り戻すかの如く、新たに巣を
作り、その中に蜜を貯めていく。人間とのつきあいは長く紀元前から
人間は蜂蜜を横取りしていたようだ。

 今は家畜のように蜜蜂を飼って蜂蜜の収集をしている。驚くことに
大都会の屋上などで蜜蜂を飼育している人もいるようだ。

 さて、私たちに馴染みの深い蜜蜂が、ある日突然消えてしまったら
どのように感じるだろうか。私なら驚きを隠せないし、それ以上に
不気味ささえ感じてしまうだろう。

 それも一集団だけでなく、多くの集団が消えているようだ。死骸も
なく消えてしまうというような事が考えられるであろうか。専門家達
にも原因が分からないようだ。

 ある人に言わせれば地球全体が次元上昇期に入っているため、人間
のようにカルマを持たないものの方が次元上昇が早いのだと言って
いる。


 では、次元上昇とは何だろう。少しオカルト的な話になるので信じる
気にならない人は納得できるように調べて貰いたい。私たちは三次元と
いう次元に住んでいる。しかし、この宇宙には三次元以外にも多次元が
存在すると言われている。アメリカの有名なリサ・ランドール博士は
私たちの住んでいる三次元世界の隣に五次元世界があると主張している。
むろん、存在するからと言って通常行き来は出来ない。

 私たちのいる太陽系は、アンドロメダ星雲のような横から見ると
レンズ型をした星雲の一部である。そして、星雲は激しいスピードで
渦巻いていると言われている。あの白っぽく見える天の川は、太陽系
から見たレンズ型の星雲の一部である。太陽系は渦巻く星雲の限りなく
外縁に近いところに存在している。

 渦巻きながら回転する星雲は、地球の自転と同じように長い周期で
一周している。従って、2012年に太陽系はフォトンベルトという
特殊な場所にすっぽりと入ってしまうと言われていて、この時が次元
上昇と密接な関係があるらしい。

 これからは太陽系にも、むろん地球にも予測しがたい大きな出来事
が起きるかも知れない。私たちは未曾有の天災による壊滅的な被害を
被るかも知れない。あるいは、さしたる変化もなく新しい次元に突入
するかも知れない。その当たりの事は、誰も経験したことがないし、
予測しがたい事である。今はただ、その時を待つしかない。

 しかし、予測しがたい天変地異は別にして、資源問題、経済問題、
社会問題、民族問題、宗教問題、種の存続の問題(男のY染色体の
消滅と精子の激減、奇形化)そして、温暖化と言われる気候変動の
問題等々、私たちは八方ふさがりの状況の中にある。また、私たち
自身どの問題も解決出来る段階に達していない。

 最早、天の力を借りて何かを行う以外に解決の方法はないように
思われるのである。2012年12月21日でマヤ歴は終わると
言われている。実に不気味な予言である。この他にも幾つかの古代
伝承が同じような事を今に伝えている。
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戦争

2009-01-14 11:27:20 | Weblog
 ここのところ裏日本や山間部では大雪だと言うのに、瀬戸内海に
面した我が町は穏やかな日々が続いている。乾燥が激しく雨不足なのが
気になるところだが、冬だから農作物にさしたる影響はなさそうである。

 さて、庭のロウバイの花が咲き始めた。この木は友人から3年ほど
前に貰ったものだ。昨年の夏はイラガの幼虫に葉が食べられてしまい
さんざんであったが、何事もなかったかのようにたくさん蕾を付けて
いる。

 これからは果樹の剪定を始める。本数が多いので大変な作業だが、
冬の作業としては欠かせない。これから柑橘類の剪定が終わる3月頃
まで続くことになる。果樹畑では枇杷の花が咲いている。目立たない
小さな白い花だが香りは良い。柑橘類は生長がよく、毎年のように
切り戻しをしているのだが、瞬く間に枝を伸ばしてしまう。

 冬野菜は買う必要がないくらい出来ている。必要なのはサラダにする
季節はずれの野菜とキノコやモヤシであろうか。大根、葱、ブロッコリー、
白菜、キャベツと毎日順番に食べている。冬野菜はいずれも甘い。特に
冬の大根は太くて甘い。白菜は芯が黄色のものを植えている。味が良い
代わりに虫が付きやすい。

 この冬からは化学肥料を使わないことにして、最低限の肥料として
油粕と米ぬかを使っている。EMボカシを入れてみたのだが、効果は
如何であろうか。キャベツは少し小ぶりであるが、ブロッコリーには
影響なさそうである。巨大なブロッコリーが出来ている。

 我が家の果樹は寒肥として油粕だけを撒いていたが、今年からは
無肥料栽培にしてみようと考えている。果たして実は大きくなるので
あろうか。


 止むことのない戦いは今日も世界中のどこかで続いている。今は
パレスチナ半島のガザ地区での戦闘が激化している。イスラエル軍は
地上と空からの執拗な攻撃を続けている。

 戦争とは無関係の多くの民間人に犠牲者が出ているようだ。戦争は
どんな理由があろうとも絶対にしてはならない。何故かというと戦争
状態に入ってしまうと人間の思考を狂わせてしまうからだ。

 イスラエル軍は白リン爆弾という恐ろしい爆弾を使っているらしい。
この爆弾は爆発だけでなく、体に付着して皮膚や皮膚の下の組織まで
焼き尽くすと言われている。非常に非人道的な爆弾だ。

 ハマスにもイスラエルにも言い分はあるだろう。しかし、戦争は
憎しみを増やすばかりで解決策にはならない。場合によっては双方に
大きな犠牲を強いることになる。先の第二次世界大戦がそうであった。

 政府はソマリア沖の海賊対策に自衛隊を派遣しようかという言って
いる。果たして自衛隊を派遣することだけが解決の道なのだろうか。
彼らが海賊となった背景は何か。地域紛争の背景には宗教的な対立の
他に資源の問題や貧困の問題がある。特にアフリカ諸国では貧困の
問題と就学率の低さが戦争の遠因となっている。

 もっと南北間の経済格差を縮小し、彼らの自立の道を模索する必要
がある。そのためには武器援助でなく教育の援助が必要だと思う。
今までにも何度かブログやホームページに書いてきたが、単なる経済
援助では、その国を自立させることは出来ない。

 その国の将来を担う子供達に教育を受けさせ、身につけた知識で
自分たちの国を作っていく以外に解決の道はない。そのための経済
援助であれば大いに賛成である。急がば回れである。

 とうとう、ゴリ押しで補正予算を通してしまった。あれほど国民は
反対だと言っているのに、政治家達は何を考えているのだろう。内閣
の支持率が20パーセントを割ったと報じられている。当然だろう。

 2兆円という金を国民にばらまくだけが経済対策であろうか。2兆円
と言うお金の有効な使い道はないのか。今は穂を刈る時期ではなく稲を
育てる時期ではないかと思うのである。大量の失業者に次のステップの
準備をして貰う、そんな事に使うべき金ではないだろうか。

 貰ったとして、使うか使わないか分からないようなわずかばかりの
金を配って本当に景気が良くなると考えているのだろうか。自民党や
公明党の議員に、あなた達の目はどこを向いているのかと問いたい。
もはや、この国の与党は完全に常識を失っているとしか思えない。
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活弁講座

2009-01-12 14:34:54 | Weblog
 総勢9名の受講者で活弁講座が始まった。場所は岡山市の光南台
公民館である。受講者の中にはお母さんと一緒に参加したという
小学一年生もいる。そして六年生も。山崎バニラちゃんにあこがれて
参加したという若い女性も。

 これから3月の初めまで、残り4回の講座の中でチャップリンの映画
三本に、それぞれ活弁を付けて演じて貰うことになっている。受講者は
9名なので三班に分かれて台本を作り、練習をして貰うことになる。
そして3月の最後の講座の日にはお客さんにも来て貰い、鑑賞して貰う
ことに。実に楽しみである。受講生のみなさんにはがんばって欲しい。

 考えてみれば、私達の活弁との出会いがこのような形で展開しようとは
思っても見ないことだった。今回の受講者は一様に活弁に興味を持って
参加してくれた人が多いようで、それだけでも大変うれしいことだ。

 振り返ってみれば活弁は数々の出会いと偶然とは思えないような
出来事の連続であった。実現しそうもない活弁公演を児島という地で
始めたとき、古くからの親友に無類の映画好きがいたこと。東京に
出向いたときに宿泊したホテルが活弁士「佐々木亜希子」さん達が
最初に公演した映画館の真ん前だったこと。そして、泊まったホテル
のロビーが公演の度毎の打ち合わせの場所だったこと。

 何らかの連携が出来ないかと申し入れた岡山映画祭の方から松田完一
さんの追悼のため活弁を依頼されたこと。児島で何とか活弁をしたい
と奔走していた頃、松田完一さんのことを教えてくれた人がいて、
いつかはお会いしたいと思っていたこと。

 まさか、その人の追悼のために活弁をしようとは、人の縁(えにし)
とは、このようなものであろうか。どうしても入手したいと思っていた
無声映画の「豪傑児雷也」がついに見つかったこと。初めての公演が
決まった高齢者の施設の理事が、子供達が通っていたスイミングスクール
の元コーチだったこと。等々、数え上げれば幾らでも出てきそうな程の
偶然が次々にあって今日に至っている。

 そして、前回の公演に引き続いて今回も呼んでいただいた館長さん
との出会い。まだ、気心が知れるところまでには至っていないが受講
して下さるみなさんも恐らくは出会うべくして出会った人のような気が
してならないのである。

 今回は講座開催にに先だって、家内の講演と、私達にとって第二作目
となる無声映画「突貫小僧」の活弁を演じた。音楽はむろんNさんの
ものを使用した。考えてみればNさんとの出会いも不思議と言えば
不思議。求めていた人が、偶然のように簡単に見つかったのである。
むろん、ある人の紹介があっての事ではあるが。今更ながら出会いの
不思議さを感じている。

 あまりにも多くの出来事があって良くは覚えていないし、偶然が
多すぎて今は偶然とは思えなくなっている。全ては、なるべくして
なっている。そんな気がする昨今である。
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孫の成長

2009-01-12 06:35:52 | Weblog
 年明け後、何となく過ぎていく日々です。さしたる変化もないと言う
ことは、幸せな事なのかも知れません。現代に生きる私達は慌ただしさの
中で、いつも何となく変化を求め続けています。本当は淡々とした日々
こそ、かけがえのないものものなのに、それに満足できないと言う人間
の性とは何と贅沢なのでしょうか。

 また、変化が自分にとって良いことばかりとは限りません。天災も
あります。交通事故だってあります。むろん病気だってあります。昨今
の経済状況の中で突然の解雇だってあります。今年は勤め先の倒産など
あるかも知れません。新型インフルエンザの大流行も懸念されています。
とにかく日々を安らかに心穏やかに過ごしたいものです。

 さて、先日は神戸に行って来ました。所用のためお正月には帰って
こられなかった娘夫婦や孫に会うためです。この寒空の下で30分近く
待っていた娘と孫が駅近くの信号向こうに立っていました。

 こちらから「玄ちゃん」と呼びかけると飛び上がって喜んでいました。
こんな無邪気な孫の姿を見ているとホッとします。会いに来て良かった。
そんな思いです。

 その孫もつい先日、三歳になりました。電話での会話もはきはきと
出来るようになりました。そして少し生意気になりました。反抗期で
しょうか。自己主張が激しくなったのです。何でも自分の意志を通そう
とします。順調に成長している孫の姿を垣間見る感じです。

 今回も孫と私が一緒に遊ぶというパターンの二日間でした。娘と家内
は尽きることのないおしゃべりで一生懸命でした。そんな姿を横目で
見ながら孫の遊び相手をしていました。

 今回は木のレールの玩具を買って貰いそれに夢中でした。手で動かさ
なければ動かない機関車ですがレールの上を滑らせて喜んでいました。
三歳の子供の頭の中には、どんな世界が展開しているのでしょうか。
大変興味深い事です。

 また、翌日は家内と娘が買い物に行くというので三ノ宮に出ました。
さんざん迷ったあげくの結論が、私達夫婦と娘と孫が一緒に出掛ける
と言うことでした。家内の買い物に娘がつきあうと言うことで、孫の
守は私の役目でした。

 さあ、二時間以上もどのように過ごしたらよいのかと思案をしていた
ところ、食事に入ったレストランの地下には子供が自由に遊ぶことが
出来るような場所があったのです。入場料は要りますが、事欠かない
ほどの玩具がたくさんあって思いっきり遊べる場所です。

 けがをしないような工夫が随所に見られ、これなら安心して子供を
遊ばせておく事が出来ます。私のようなおじいちゃんに連れてきて
貰った子供もいましたし、若いお母さんと一緒の子もたくさんいました。
中には何度も利用している親子も少なくないようです。小さいスペース
ながら玩具は充実していました。

 玄はもう夢中でした。また、物怖じしないこの子は誰とでも仲良く
なれるらしく、少し大きな子供とも仲良く遊んでいました。また、遊び
方を見て同じようにしていました。これなら三月からの幼稚園も心配は
なさそうです。

 実はこの日の朝、玄は私の布団に潜り込んできました。そして宇宙船
ごっこをしました。私にとっては久々の宇宙船ごっこです。子供達二人
が小さかった頃、二段ベッドが置いてあった子供部屋で良くやっていた
ことなのです。

 ベッドが宇宙船で果てしない旅に出るのです。「モモタウロ」と言う
のが主人公です。むろん「モモタウロ」と言うのは桃太郎をもじった
ものです。宇宙の旅に出たモモタウロは、様々な事件に遭遇します。
全ては私の作り話でした。子供達は目を輝かせて、宇宙船の乗組員に
なったつもりでいました。目指すのは悪い鬼達が住んでいる星なのです。

 玄は宇宙船という言葉を理解していたらしく、スペースシャトルの事も
ロケットのことも知っていました。聞けば、お父さんに教えて貰った
らしいのです。

 だから私が言う宇宙船2号にも簡単に乗ってくることが出来たのかも
知れません。途中から機長を代わりました。玄が機長です。地球基地
との交信をします。「こちら宇宙船2号、どうぞ」「はい、こちら地球
基地です。宇宙船2号、どうぞ」玄は夢中です。この小さな頭の中には
どんな想像の世界が広がっているのでしょうか。

 今回は、びっくりするような事がありました。いつもおじいちゃんの
背中が遊び場所となっている玄は、玩具遊びが飽いたようで、座って
いた私の背中に飛び乗っては前のめりになって下へ降りることを続けて
いました。私も頭から落ちることだけは避けようと注意していました。

 何度か繰り返したとき、危うく頭から落ちそうになったので体を横に
交わしました。その時、どうも少し体をひねったようです。そのまま
クッションの上にうつぶせになったまま動かなくなってしまいました。
「玄、玄」と呼ぶと顔を少し上げるのですが、すぐに又、うつぶせに
なってしまいます。

 何かしら、ただ事ではないように見えました。心なしか呼吸が少し
荒いような気もします。このまま息が絶えるような事になりはしないか
と気が気ではありませんでした。さあ、救急車を呼ぼうと娘が「救急車」
と言った時でした。いきなり立ち上がり娘に抱きついて行きました。
どうやら「救急車」という言葉に反応したようです。救急車がどんな
自動車なのか自動車好きの玄は知っているのです。

 三人ともホッと胸をなで下ろしました。玄の好きな蜜柑を食べるかと
尋ねるとうんと応えました。これで安心です。聞けば自分の都合が悪く
なった時など、時々とるポーズなんだそうです。あまりにじいちゃんが
真剣になったもので引っ込みがつかなくなったようです。最初は本当に
痛くて伏せていたのかも知れません。その後は少し演技も入っていた
ようです。やれやれ・・・。

 聞けば同じような事が時々あるようです。じいちゃんは涙が出るほど
心配をしました。これも成長の証なのでしょうか。何かと変化の多い
二日間でした。それもこれも孫の玄だから楽しいのです。
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あけましておめでとう御座います

2009-01-01 06:43:47 | Weblog
 新年とは言いながら、いつもと変わらない一日の始まりです。会社
へ勤めていた頃は、年末年始というメリハリをもっと感じていたように
思うのですが、定年後4年にもなると、そのような感覚も次第に薄れて
くるようです。

 ただ、日頃は離れて暮らしている子ども達が、それぞれに家族を
連れて帰るので日常とは異なる生活パターンが続いています。従来は
年末、年始には飲むもの食べるものとして腹一杯食べていましたが、
そんな生活も一日がやっとの事で二日目からは、はや簡単なものが
良くなってきます。それだけ年をとったと言うことなのでしょうか。

 今年は長男夫婦が帰ってきただけでした。その夫婦も正月二日目
には東京へUターンします。元気で夫婦仲良く暮らしている姿を見れば
それで安心です。30日には柑橘類の収穫を手伝って貰いました。
やはり一人よりは二人、二人より三人です。息子夫婦に手伝って貰い
楽しくわいわいと大騒ぎをしながら一日かかって収穫しました。


 昨年の暮れになって不幸な記事ばかりを目にするようになりました。
金融危機による大量のリストラです。何かしら待ってましたと言わん
ばかりの大量解雇が次々と行われてきました。こうした解雇者の中には
仕事だけでなく住む家さえ追われた人が少なくありません。

 解雇した企業は雇用主としての責任をどのように考えているので
しょうか。企業トップの常識を疑いたくなるような昨今です。そもそも
企業は利益を上げる事だけが使命ではありません。人を雇用し、雇用
した人の生活保障することも、もう一方の大切な使命です。

 儲けるためには手段を選ばないと言う企業の姿勢に大いなる疑問を
感じています。この度の金融危機により企業が受けた打撃がどのような
ものかは知る由もありませんが、あまりにも安易に解雇に流れている
ような気がして仕方がありません。

 また、非正規労働者が組合員ではないとしても広義に解釈すれば
本来は自分たちの雇用の場であったものを失うようなものです。労働
組合も声を大にして雇用安定を企業に迫るべきではないでしょうか。

 さて、経済問題の背景には環境問題があります。豊かさや快適さを
追求するあまり、私達はもっと大切な何かを見失っているような気が
してなりません。今回の経済危機は私達の欲望の果てにある心の荒廃
と重なって見えています。

 心の荒廃は環境問題、とりわけ気候変動の問題に大きく現れています。
経済危機を考えるときに心して環境問題も一緒に考えてみたいものです。
人間にとって大切なものはお金や物ではありません。もっと大事なもの
があるはずなのです。

 2009年を出発点として、よりよい21世紀にしていくための
環境問題について思いを新たにしたいものです。
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