人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

日々変わりなく

2014-06-29 06:11:22 | Weblog
 ここのところ決して気分の良い天気とは言えないけれど、雨の降らない比較的爽やかな天気が続いています。そして心なしか
朝夕は気温の低い日が続いています。吹く風が少し冷たく感じられます。

 街路樹のヤマモモが熟して大量に落ちています。民家の軒先の改良種のヤマモモの実が赤黒く色付いて道端に落ちています。
収穫する人もいないようです。私たちの子供の頃のように競って食べる子もいないようです。

 どうも中四国地方のこの辺だけを雨が避けて通っているようです。少し畑が乾燥気味です。これは偏西風が大きく蛇行している
からでしょうか。関東地方では突然の集中豪雨や大量の雹が降るなど異変が続いていると言うのに。こうしてみると日本も広い
ですよね。

 さて、一昨日の土曜日、久々に山の畑に行ってみました。この前に耕しておいたところへサツマイモの苗を植えました。自家製の
苗です。刈り残していた草も刈りました。見上げるとスモモがきれいに色付いていました。赤紫の濃いスモモです。目ざといカナブン
などが少しかじった跡があります。ヒヨが甲高い声を上げながら近くに来ています。どうやらスモモが熟すのを待っていたようです。

 例年であればそろそろビワも熟す時期なのですが昨年バッサリと枝を切り落としたので今年は何もありません。ビワはカラスたちに
とっても大好物です。熟す時期になるとカラス対策のネットを張るのが恒例になっていますが今年はその必要がありません。

 久々にスモモの木に登ってみました。徒長枝という真っ直ぐな枝が競うように何本も伸びています。この枝を選定しながら登って
みました。諦めていたスモモがたくさん熟していました。大粒の実です。手近な一個を取って口に入れてみました。とても新鮮で
甘酸っぱい味が口の中に広がります。私はスモモの味も好きですが口の中に広がる香りも好きです。

 ヒヨ達がすぐ近くまで来て羨ましげな声を出して鳴いています。先端を飛ばした木の頂上で鳥になった気分でスモモを捥いでは
口に運んでいます。眼下には私の住んでいる小さな谷あいの集落が一望できます。遠くには瀬戸内海が少しだけ見えています。
持ってきたナイロン袋が収穫したスモモではちきれそうになってしまい竹かごを持ってくることにしました。結局、竹かごまでも
いっぱいになりました。孫が久々に神戸から来ます。喜ぶ顔を見るのが楽しみです。

 この時期、雨が降ることが多く今年のような雨が少ない年でなければとても収穫は難しいのです。と言うのも長雨が降ると傷ついた
スモモはすぐに腐って落ちてしまうからです。とても残念ですが今年のようなことに収穫出来る年は稀なことなのです。とにかく
畑で出来る野菜や果樹は口に入るまで何があるか分かりません。それが農薬を使わない農業です。

 私の農業は収穫の喜びもさることながら作る喜びの方を重んじています。すくすくと伸び花を咲かせ実が付く、そこまでが楽しみ
なのです。そして実が付いたら袋掛け、そして収穫が近くなったらネットをかける。専業農家のように良いものは収穫できません。
それでも作る喜びを味わっているので文句は言いません。

 ただ、収穫を直前に控え鳥などに食べられてしまった時にはがっかりしたり溜息は出ますが仕方ありません。これも自然の成り行き
です。それでも今年のスモモのように奇跡のように収穫できることがあるのです。どうして残ったのか、他はチョッキリゾウムシに
やられてしまったと思っていたら奇跡のように津軽と言う品種にリンゴが一個だけ残っているようなことがあるのです。

 自然と言うものはとても不思議です。その昔、何が何でも収穫をと朝早くから重い農薬の入った圧力容器を肩にして農薬を全身に
被りながら撒いていた時もありました。愚かでもあり、未熟でもあり、欲もありした。懐かしい思い出です。それほどの苦労をしても
出来の良い時ばかりではありませんでした。

 このように色んなことをしてみた結果、何もしない方が良いと言う結論に達しました。最低限のことをして後は天に任せる。その結果
出来の良い年もあれば出来の悪い年もある。今年は大木のハッサクの木とネーブルオレンジが全く実を付けていません。昨年、大量の実を
付けたからです。隔年結果という現象なのです。これも自然のあり様なのです。たくさん出来れば出来たで収穫に困ります。農業ばかりは
幾ら機械化したからと言って、やはり人間の手が必要です。収穫まで機械でと言うわけには行きませんから。
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笑えない隣国のこと

2014-06-22 04:23:46 | Weblog
 ここのところ梅雨らしさを感じさせる薄曇りの日が続いている。こんな日でも雲間から薄日が差し始めると花に群がる
アゲハチョウ、何とも優雅で美しい眺めだ。一瞬に過ぎない眺めだが、何かしら遠い日のことが思い出され、懐かしく
感じるのは何故だろう。

 やっと降った本格的な雨で畑は何とか潤ったようだ。先日からジャガイモの後を耕している。掘り返すと土はからからに
乾いていて一雨欲しいと思っていたところだった。耕した後にサツマイモを植えていく。はてさて今年の出来はどうなる
ことやら。

 東京都議会に於いて女性議員に対し自民党議員席から下品なヤジが飛んだことが大きな話題になっている。韓国の旅客船
沈没事故の時には、マスコミだけでなく、少なくとも日本国民の多くが事故の背景にあったものや韓国社会のあり様や経済
先進国とは思えない部分を見て、いささか蔑視に近いような感覚で眺めていたことは否めない。

 しかし、今の日本に他国に対し、そんな目で見たり出来るような状態なのだろうか。先の石原環境大臣の発言や今回の
東京都議会での出来事を見るにつけ、日本国民にも韓国同様、大いなる後進性が見られるのである。政治家と言えば国会議員
であろうが地方議員であろうが国民が一票を投じて選んだ人である。いわば日本国民を代表する人だと言っても過言ではない。
その議員がこの体たらくでは日本のお国柄が知れると言うものである。議員はもっと襟を正すべきではなかろうか。

 同じことは議員ではない私たち自身にも言えることである。江戸末期から明治初期に日本に来た外国人が一様に抱いた
日本人の印象は、それまで旅してきた東洋の各国とは何かしら異なる印象であったようだ。生活は貧しく着ているものも
住む家も粗末ではあったが武士から末端の駕籠かきに至るまで、みんな明るく笑顔を絶やさず、その上、礼儀正しかった
ことが旅行記に記されている。

 こうした旅行記の中には、女性が一人で東北地方を訪ねた記録さえ残されている。日本に犯罪が少なく女性一人の旅行、
それも見知らぬ土地での女性一人旅、それほど親切で安全な国であったと言うべきだろう。誰にでも人懐こく親切であった
ことが日本人の印象だったようである。

 本当の事かどうか、今となっては確かめようもないのだが、こんな日本人を見てこの国は東洋の各国のように植民地化する
のは容易なことではないと感じたとも聞いている。江戸の町は当時では珍しい百万都市であった。しかしながら人であふれる
この街にゴミらしきものが全くなかったとも言われている。紙などは言うに及ばず人の排便に至るまで再利用されていたからだ。
江戸の街にはそのようなシステムが整っていた。当時の日本は貧しくとも美しい国であったようだ。

 それもこれも日本人が節度を守り礼儀正しかったことと底辺は繋がっている。日本人の心が全うで穢れてなかった証拠である。
しかるに現代に生きる私たちはどうであろうか。江戸末期に生きてきた人たちの精神性を全く失っている。大事なことを置き
去りにして物質的なものばかり目を向けている。そして生きる目標を見失い人と人の繋がりすら忘れ去っている。

 先の東日本大震災の悲劇は、そのことを思い出させようとした大事件ではなかったのか。そのことをみんなが自覚しなければ
多くの犠牲者の霊は浮かばれない。


 今は真実を伝達することが使命であるマスコミまでもが大事なことを隠し、政治は政治で本当に必要な国民の事や将来のことを
考えようとはしていない。その上、あろうことか女性蔑視とも言えるような発言をする議員がいたのでは、先進国などとは言えない。
お手本となるべき大人がこんな状態なのだから子供たちに教え諭すことすら出来はしない。

 今の子供たちを見ていると、子供たちが大人を馬鹿にしているとしか思えないことが多々ある。それは何がそうさせているのか、
インターネットやテレビなどを通じて大人たちがしていることが子供たちに全て見えているからだ。私たち大人が自らの姿勢を
正さない限りこの国は良くならない。悪のスパイラルの中に落ち込んでいるからだ。

 そうした出来事の多くは日本だけでなく、同時進行形で暴力や戦争や殺人と言った事件が世界各国で発生し、その報道が一瞬の内に
世界中を駆け巡るようになっているからだ。時代の変化の方が遥かに先を走り、私たち自身の成長が追いついていないことに起因
している。

 今日は引き寄せの続きを書こうと思っていたのだが、緊急性を要することが起きたので話題を転じた。こんな国で東京オリンピック
などと言って外国人を受け入れることが出来るのだろうか。サッカーで沸き返っているブラジルでのデモや略奪を笑って見ていられる
のだろうか。他人事ではない。もっと私たち自身が真剣に考えてみたいことである。
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引き寄せ

2014-06-19 13:34:09 | Weblog
 引き寄せとは言いえて妙である。この年になったのだからもう書いても良いだろう。とかくこのようなことを書くとオカルトの類だと
受け取られ、初めから取り合おうとしない人も多い。その反面、妙な神頼みに走る人が少なくないのも事実である。矛盾している。

 さて、引き寄せには良い引き寄せもあれば悪い引き寄せもある。悪い引き寄せに陥ると止めどもなく悪いことが連鎖反応のように続く。
俗に言う「貧すりゃ鈍する」というやつである。こんな言葉が今日まで伝わっているというのも昔からあったことだからであろう。

 毒のある言葉は、その言葉を聞かされた人だけでなく、その言葉を発した人も傷ついてしまう。言葉は俗に言霊と言われるように
生き物と同じである。単なる言葉と侮るなかれ。悪い言葉は必ず自分に跳ね返って来るから使わない方が良い。言葉は木霊(こだま)の
ようなものかも知れない。だから言霊(ことだま)なのだろうか。

 悪い言葉は必ず悪いことを引き寄せる。悪の道に走った人は負の連鎖を繰り返し、我とわが身で災いを引き寄せている。従って、幸せに
なろうと思えば他人にも優しく自分にも優しくなければならない。しかし、人間はとかく愚痴や妬みを抱きやすい。愚痴や妬みは我と
わが心を腐らせてしまう。

 この世に誕生したものは誰でも幸せになるように生まれている。それなのに何故幸せになる人と不幸せになる人が出来るのだろう。それは
先ほどから述べていることに他ならない。幸せになれる人はくよくよと考えず常に前向きな人が多い。心の中に不平や不満を溜めないこと。
他人は他人、自分は自分と言う確たるものを持ちたい。みんなそれぞれの人生を生きているのだ。

 それは前世からの約束事かもしれない。あるいは何度かブログにも書いたように幾つかある人生を自分なりの選択によって、この人生を
生きてみたいと生まれてきたからかもしれない。それにしては何故不幸な人は不幸な人生を送らなければならないのか。幼くして命を失って
しまうのか、疑問は尽きない。ともあれ今は解き明かすことの出来ない謎のようなものが残る。いずれ明らかになる日が来るに違いない。

 仏教では輪廻転生が当たり前になっている。そして様々に転生し、人にもなれば馬や牛にもなる。従って、馬や牛に生まれたくなければ
この世にあっては善行を積まなければならない。お金持ちは盛んにお寺に寄進をした。貧乏人はひたすら善行を積むように努力をし神仏に
手を合わせてきた。昔の人は心から神仏を頼り生きてきた。

 今は科学が最優先の世の中である。そして精神より物質が重んじられている。しかし、ほんの百数十年前は物質より精神面が重んじられた。
人類の歴史の中で科学だ物質だと言う時代は、ほんの百数十年に過ぎない。それはひたすら消費するだけの時代であり、消費によって物質浴を
満たしてきた。果たしてそれで満足できたのだろうか。物質にもお金にも心満たされるという限度がない。

 心は物質やお金では満たされないのだ。今や自然回帰の時ではないのだろうか。もっと精神面での充足によって社会を変えていきたい。
そして科学が万能ではないことを早く気付くべきではないだろうか。この宇宙は科学だけでは論ずることの出来ない深遠なものである。
それをうまく解き明かしているのが般若心経だ。般若心経を読み返すたびに、その奥行の深さに驚かされるのである。そして現代科学が
求めているその先にあるのが般若心経の世界ではなかろうかと思うのである。究極の科学がたどり着く先にあるのが般若心経に書かれた
世界ではなかろうか。

 引き寄せは人の引き寄せばかりでなく物も引き寄せる。物にも心があるという人もいる。真偽のほどは定かではないが、この世の全ては
電磁気力を初めとする様々なエネルギーによって構成されている。人が肉体と言う乗り物を借りて生存しているのも宇宙が持っている
ごく当たり前のエネルギーによるものである。肉体を構成している原子は人間だけが特別なものではない。そのことを考えると人も物も
区別はない。

 ともあれ目先の事だけでなく、もっと心の目を開いてみてみると、全く異なった世界が見えてくるから不思議である。
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生きていること

2014-06-12 05:24:21 | Weblog
 何気なく窓の外を眺めていると、心はいつしか遠い昔へと戻って行きます。ぼんやりと眺めている景色が遠い昔や、いつか
訪ねたことのある景色に何となく似ていたりと言った経験が皆さんにはないでしょうか。私の場合、多くは旅行先で感じた
何とも懐かしい風景であったり、あるいは日本ではめったに経験することのなくなった澄んだ青空と、その下に広がる景色
だったりするのです。

 そして、その記憶は目にしたものや音だけでなく鼻で感じた匂いだったりするのです。その代表的なものが野ばらの匂いです。
かぐわしく爽やかな野ばらの匂いは幼いころの遊び場であったり、川の堤防やその周辺に広がる田舎道だったりするのです。
むせ返るような日差しの中でミツバチたちが群れ飛びながらせっせと蜜を巣に運んでいく。そんな何とも穏やかでのんびりした
何気ない田舎の景色なのです。

 先日もテレビを見ていたらブータンの田舎を尋ねたNHKの若いアナウンサーが懐かしい景色だと言った言葉が妙に印象に
残っています。恐らく、若い世代の人達が感じようにも、そのような景色に出くわすことがないはずなのに何故そのような
言葉が出たのでしょうか。不思議に思いました。恐らく、その若者自身の経験にはなくても私たち日本人の、いや世界中の人も
同じかも知れませんが、私たちの遠い祖先が野山を駆け回り生活の糧を探していた頃の記憶がDNAとして残っているからかも
知れません。でなければ私たちの世代でさえ幼いころの印象にしかなかったような田舎の記憶などないと思われるからです。

 現代人は日々の慌ただしさの中で一日中のんびり過ごすなどと言うことが少なくなりました。特に都会などに住んでいると
皆無に近いのではないでしょうか。さほど忙しくしなくても良いはずの環境にいても何かしら気ぜわしく過ごすことが多く
なりました。

 何故なのでしょう。生活をすると言うことだけを考えてみると、食べて寝るだけで一日を過ごすことが出来ます。しかし、
私たちは何となく忙しく感じ、事実忙しくしています。まるで幼いころの時間と今の時間には同じ一時間でも大きな差がある
ようにさえ感じます。

 豊かな生活を求めるあまり私たちは私たちが持っている時間の大半をその生活のために使うようになってしまいました。
一方の豊かさを求めるあまり一方のかけがえのない貴重な時間を削らなければならなくなっています。何と言う皮肉な事でしょう。

 かのアマゾンの奥地に住んでいる裸族であるヤノマミ族の人達は一日の大半をおしゃべりや昼寝や儀式などのために使って
います。その間に食べるものを得るために時間を使うと言う、私達の生活とは全く逆のパターンです。私たちは蔑むような目で
彼らを眺めますが、果たしてどちらが本物の生き方なのでしょうか。彼らの間での争い事は少なく、ましてや日常茶飯事のように
報道される殺人などは皆無です。明るくなれば起き出して一日が始まり、暗くなれば寝ると言った生活のパターンに無駄は
ありません。私達のように必要以上に無駄なエネルギーを使うことはありません。

 私たちの生活がそうであるように、私たちの生活の基盤となっている経済と言うものは本当に必要なものなのでしょうか。
今の経済は発展が当たり前になっています。会社であれば前期の実績が基盤になって、その実績に上積みが常に求められます。
売り上げも利益も右肩上がりが前提になっています。

 しかし、全ての経済活動の基礎となっているエネルギーや資源は有限です。無尽蔵ではないのです。それを考えると永久
エネルギーのようなものが登場しない限り、どこかで破たんすることは間違いありません。実は気が付いていないだけで
すでに随分と以前から破たんしているのです。それが資源を獲得するためになりふり構わぬ行動をとっている中国の姿では
ないでしょうか。

 日本の何倍と言う国民に消費と言う経済の根底にあるものを満たすために躍起になっています。しかし、その消費の基盤に
なっている資源は有限なのです。いつまで今のままの経済発展を続けることが出来るのか多分に疑問が残ります。そして、
インドやインドネシア等が後に続いています。これらの国々の首長は政権基盤を維持するには資源獲得が至上命令となっています。
経済発展のために猛り狂う国民を如何になだめるかは一重に資源を獲得し経済発展を停滞させないようにするかを問われている
のです。大変しんどい話です。そして一つかじ取りを誤れば地獄を見ることになりかねません。

 もっと早く、世界中がこの悪のスパイラルのような経済のあり方を考え直すべき時に来ています。人間が自然の一部として
生きていた頃は八百万の神々を敬い、人間も自然の一部として生きてきました。この世に生まれてくることも生きていくことも
やがてこの世を去ることも途切れることのない時の流れとして受け止め、神や仏を敬うと言う精神世界に生きてきました。

 そして19世紀、ヨーロッパに始まった産業革命は止まることのない物質世界、科学万能の世界を浸透させ、開発と称して
地球を破壊し汚し続けてきました。私の思い出に残る田舎の澄んだ空気や土や水は失われてしまったのです。どんな山中も
田舎も一緒です。汚れた雨は場所を選ぶことなく降って来るからです。汚れた空気も風となって世界中を駆け巡っています。
例外など、この地球上のどこにもなくなっています。

 今や「ノアの洪水」のように全てを消して禊(みそぎ)をしなければならなくなってしまいました。物質万能の世から
再び精神世界に重きを置くような時代へと回帰が求められているのです。子供の頃の穏やかに時が流れ、澄んだ空気と
澄んだ水、豊かな大地。そして、かぐわしい匂いの野ばらが咲き乱れる原っぱへ、心はいつしか遠い過ぎ去った子供の頃へと
飛躍していくのです。
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憂い

2014-06-10 09:03:44 | Weblog
 一国や会社を預かる立場にあるものは当面のことだけではなく国家百年の計と言われるように長いスパンでの国の在り様や
会社の行く末を考えるべきである。しかるに多くは在任中のことだけに終始し自分だけが卒なく終わればそれでいいと言った
人が少なくない。本当にそれで良いのだろうか。

 さて、今国会では国家百年の計どころか、わが国民を戦争の恐怖にさらすかもしれないようなことを、それも国権の最高機関
である国会ではなく内閣で勝手に決めようとしている。幾ら歯止めをかけたからと言って、いったん法に定めてしまえば解釈は
幾らでも変更できる。それが分かったうえでの議論だけに性質が悪い。

 どう考えてみても集団的自衛権などというものは認められるようなものではない。ましてや日本には憲法九条と言うものが
厳然としてあるからだ。しかるに憲法を変えるのは面倒くさいので憲法を骨抜きにしてしまおうという話である。実に乱暴な
やり方である。

 日本の同盟国はアメリカである。この国は太平洋戦争以来、自らを世界の憲兵と称し色んな国の争いに介入してきた。それは
アメリカという国家を牛耳っている産軍複合体という政府を超える権力の意志に他ならなかった。大統領が何といおうと自らの
腹を肥やすためなら時の政府を自分たちの思うようにコントロールして戦争へ介入するという実に強い意志を持った力であった。
目的のためなら大統領すら暗殺しかねない闇の力だと言った方が良いかもしれない。そんなものに同盟国だからといったこと
だけで協力体制に持っていけば、ともに戦地で死を賭して戦わなければならない。

 その意思があろうとなかろうと銃を握らされ戦地へ行かなければならない。銃を握って人を殺せば殺人である。戦地だからと
言うだけで殺人が許されることなのだろうか。あなたに銃を握って恨みも憎しみもない人を殺すことが出来るのだろうか。

 ましてやその任をこれからの若者や自衛隊員に課そうと言うのである。たかが一国のそれも一党の党首というだけで首相になった
人に許されることなのだろうか。そこまでの権限を誰も与えてはいない。まして憲法という国のあるべき姿を定めたものがあるにも
関わらずである。

 私たちは真剣に国の行く末を考えなくてはならない待ったなしの状況にある。高齢者の中には生活できないような困窮者が増えて
いる。高齢化はますます加速している。地方では目に見える形で過疎化が進んでいる。そんな中で貴重な戦力である若者を戦地に
送り込むようなことが果たして可能なのだろうか。とても一国のかじ取りをしている人の考えとは思えない。

 残念ながら私たちは先の選挙で自民党に大量得票を与えてしまった。その結果、思いがけないことに遭遇している。そう自民党に
票を投じた人の多くは景気回復を何とかと考えたに他ならない。戦地に若者を送り込もうなどと考えて票を投じたわけではない。
秘密保護法に始まって密かにもくろんでいたことの全てを自分の任期中にやってしまおうと言う考えのようだ。

 そしてTPP交渉で足かせとなった農協まで解体させられようとしている。まさに独裁国家のような状態である。また野党も
何も手が出せないような状況が情けない。頼りとなるのは公明党だけと言うのも情けない。この国はいったいどちらへ向かって
進もうとしているのだろうか。今は外に向かうのではなく内々のことを何とかしなくてはならない。待ったなしの状況なのだが。


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人工知能

2014-06-08 06:00:14 | Weblog
ここのところはっきりしないお天気が続いている。そして寒暖の差も大きい。どうも自律神経の失調によるアレルギーと言うものがあるらしい。
季節の変わり目になると鼻づまりが生じたり全身のあちらこちらがかゆくなる。かゆくなり始めのころは熱が出始めることのように何となく
ゾクゾクとする。初めは花粉症などを疑ってみたのだが気温差によるアレルギーだと知ってその症状を比較するといくつもの似たところがある。
自衛策として急に気温が下がった時は多少暑くても厚着をする方が良いようだ。

私の場合、体の調子は夏場の方が快調だ。そして長い夏が終わり急に冷え込む日が多くなり始めると急に体調が悪くなる。寒暖差アレルギーの
始まりだ。何とも厄介なことである。ともあれ自らのことは自ら処すことにして早めの予防以外に対処の方法はない。出来るだけ医者に頼ること
なく自分のことは自分が一番よくわかっているので自分で治すように心がけている。風邪などの軽い病気も然りである。私たちの体は自律神経が
支配している。肺や心臓が機能しているのも自律神経の働きに他ならない。自律神経が機能しているからこそ生きていける。

 さて、先日の新聞に人工知能が人間を超える日が来るかもしれないと書いていた。既に囲碁や将棋やチェスなどと言ったものに人工知能が関わり
タイトルの保持者や段の所有者などと対戦している。しかし、これはあくまで人間がコンピュータにプログラムを組み込んでの勝負である。
人工知能自らが人間のように勝負の行方を判断しながら石や駒を進めているわけではない。過去の膨大なデータを組み込んでいるに過ぎない。
そして相手の出方に対しあらゆるケースを素早く検索し次の一手を打ち出す。と言ったようなことだが本物の人工知能となると遭遇する全てのことに
対し自己判断によって駒を動かすことになる。文字通り人間と同じような判断や行動がとれるようになることだ。

 「2001年宇宙の旅」の映画では宇宙船に搭載された「ハル」という人工知能が長い宇宙線での航海を見守る役割を担っている。その「ハル」が
旅の途中で謀反を起こす。宇宙船の乗組員と「ハル」の熾烈な戦いが展開される。とうとう人間は「ハル」の電源を切り機能を停止させてしまう。
「ハル」は宇宙船の全機能を掌握しコントロールしていた。時には乗組員の話し相手もする。手足こそ持たなかったが目の代わりとなるレンズがあり
相手を認識することが出来た。これに手足が付けばまさしく人間を超えるようなロボットとなる。

 そんな日が遠くない。私たちの生活はどのように変わっていくのであろうか。ロボットたちが大船団を組んで宇宙のかなたまで探索する日が来る
のだろうか。夢は尽きない。しかし「ハル」のように馬鹿で愚かな人間どもだと判断し、人間を抹殺するようになるかもしれない。人工知能がやがて
人間を超えようかと言う今もくだらないことで相争ってお互いに傷つけあっている人間をどのように思うのだろうか。人工知能を作りだした人間自身が
もっと自覚をしなければならない時代がすぐそこまで来ている。まずは高度な人工知能が登場する前に人間自身がわが身を処すことから始めなければ
ならない。

 雨が小康状態になり一気にさんさんと日が降り注ぎ海の方を眺めると巨大な入道雲が立っていた。もう梅雨空の厚い雲の上は夏なのだ。これから
長い長い夏が続くことになる。こうして季節は巡り去っていく。私の人生で幾たびの夏を過ごし冬を迎えたことであろう。こうした日々は年輪の様に
わが心と体に時を刻みつけてきた。

 昨日は作っていた野菜の苗を畑に植えた。この中で幾本の苗が実を結ぶのであろうか。苗を買って植えたトマトは既に小さな実を付けていた。
そしてキュウリもナスビも花が開き始めた。やっと畑にも本格的な夏が来たようだ。周辺の竹藪からのタケノコがいつの間にか林立していた。
これからはイノシシの活動が始まる。電撃防止器を動かす時期を見定めている。
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過ぎ行く季節の中で

2014-06-06 10:01:42 | Weblog
 何という寒暖差だろう。私だけでなく多くの方がこの寒暖差に悩まされておられるのではないでしょうか。とうとう今日は
出勤の際、春先に着用していた軽めの上着をハンガーから外して外出しました。

 さて、過ぎ行く季節の中でいつも思い出すのは幼いころに遊んだ故郷の山や川です。何故、急に故郷だったのかは、実は
ネット上でこんなことを発見したからです。それは土中の鉄分が葦など水辺の草の茎の周りに固着して外目は人形のように
見えることから「高師小僧」と呼ばれていることを発見したからです。そう言えば朝から夕方まで遊び場だった高屋川の
河原でも良く似たものを見つけたことがあったような気がしたのです。

 幼かった私は出会うもの全てが新鮮で何んにでも興味を抱くような少年でした。そうしたもの全てが今も鮮明な思い出と
して心の中に残っています。更に今も何の脈絡もなく思い出されるのは見たことも体験したこともない街の景色なのです。
それが私の思い過ごしなのか、単なる空想が心の中に定着してしまったものなのかは定かではありません。

 思い出話はそのくらいにしてEMについてもう少し書いてみようと思っています。世間ではEMをテーマにして様々な議論が
なされています。その一つがEMは環境の汚濁物質だという説です。そして更には効果のないものをあたかも効果があるものの
如く宣伝しているというものです。そうした批判の中でも誹謗中傷に近いようなものとしてEMは宗教だと言ったものまで
見受けられます。

 そうした批判があるのを承知の上で、私がブログに書くときには出来るだけ自分が体験し、この目で見たことだけを書く
ように心がけています。その一つが杏子の実が成らなくなったこと。桃の木が弱って枯れたこと。古いウバメガシの生け垣の
一部が枯れたことやクチナシの木の一本が枯れたことなどでした。反面、柿の木やブルーベリーやかんきつ類が大いに活性化して
たくさんの実を付けるようになったこと、野菜の成長が良くなったことなどです。そして笑えないことして雑草が著しく
勢いづいて成長が良くなったことです。

 大阪の淀川の事例は確認していませんが、東京の日本橋川や奈良の東大寺には足を運んで事実関係を確認してきました。
何よりも地元の小田川の事例は何度も紹介した通りです。そして地元の小学校に於いてはプールの溜め置き水が何校も著しく
水質が改善し、シーズン前のプール掃除が実に簡単になったことを、この目で確認しています。そして、こうしたEMの
活用の過程で生じた副作用のようなものは何ら確認していません。

 ただ全ては自然を相手のことですから、その効果の表われ方は決して一様ではありません。ある時点だけを捉えて効果が
あったとか、なかったとかという議論はしない方が良いと思います。概ね傾向としてこのような効果が数か月後から現れ始めた
という程度のことははっきり言えるようです。

 現代科学はあたかも万能のように思えていて決して万能ではありません。残念なことにそのように科学を過信するあまり
科学を人質にとって大儲けをたくらむような輩や業界がなきにしも非ずといったのが現状です。それは進歩というものを経済に
置き換えて、本来の目的である人のために役立たせるという使命を忘れているからに他なりません。それが現代の癌治療では
ないでしょうか。常に効果のほどが疑問視されながらもなおも使い続けられています。

 そしてSTAP細胞事件の一連の経緯に見られますようにきちんとした裏付けがなければ、そのような事実はないのだと
頭から否定し葬り去られることです。STAP細胞が果たして事実かどうかは分かりませんが、科学が万能で無い以上は
一方的に否定してしまうのも行きすぎではないでしょうか。いずれ事実は明らかになっていくものと考えられます。

 一方、安全だ、万全だと言い続けてきた原発が大地震と津波によってもろくも破壊されてしまいました。さして強固とは
言えないような地盤の上にとんでもなく危険なものを設置してそれが安全だと言えるのでしょうか。大量の放射能によって
国土の多くが失われてしまいました。その価値は計り知れないものがあります。

 さて、EMも使用効果の方が先行し理論的な裏付けが十分でないまま今日に至っていることが少なくありません。その点を
突いてEMを否定する人たちはEMは全く効果のないものだと決めつけています。しかし事実は事実、数限りない使用事例が
その効果を立証し役に立っていることは否定できません。

 そして反論を唱える多くの人が実際には使用したこともなく理論的にありえないことだとして反対論を唱えています。
科学者として論ずるならば実際にあらゆる角度から検証し、その効果がないことを立証すべきです。事実を見たものでしか
語れない事実が厳然としてあり、汚染された自然が立派に回復しています。

 EMに関しては誰しもが半分疑いながら使い始めています。そして使い続けているうちにその効果を実感するように
なります。たとえば錆びた鋏があります。この鋏をEMの中に漬けたとします。しばらくすると鋏の周辺に小さな泡粒が
付き始めます。そのまま一昼夜ないし二昼夜漬けておくと錆びは驚くほど簡単に落ちます。そして鋼(はがね)本来の
黒光りがするようになります。これをEMの還元力だと言っています。つまり錆びの中の酸素が取り除かれ酸化から還元
に変わった瞬間です。

 福山市の内海町に兼田水産という海苔を製造販売している工場があります。海苔は非常に栄養価の高い食品です。それだけに
海苔を洗浄した排水は栄養価に富んだものであり、腐ると異臭を発するようになり海を著しく汚染します。兼田水産周辺にも
幾つかの海苔工場があり排水対策に悩んでいました。そこで使用したのがEMでした。EMを排水に流し始めて三か月後位から
排水溝のヘドロが消え異臭が消えたのです。私たちが訪れたのはシーズンが終わって間もなくのことでした。驚くべきことに
今はあえてEMを流さなくても良くなったとのことでした。その上、周辺の海水はもちろんのこと排水溝の花崗岩岸壁も
昨日切り出してきた石のようにきれいだったのです。

 また兼田邸を公開して下さいましたが、驚いたことに汲み取り式のトイレであったにも関わらず、トイレ特有の目を刺す
ようなアンモニア臭もなく糞尿の匂いさえしなかったのです。更に古いタイル張りのお風呂でしたが、カビなどはどこにもなく
驚くほどきれいでした。せっせと日々惜しげもなくEMを使っているとのことでした。そして、何よりも驚いたのは植えて以来
数十年になるという鉢植えの松が何とも生き生きとしていたことでした。毎日のようにEMの発酵液を薄めることなく株もとに
撒いているとのことでした。兼田さんは全てに自信を持ってEMの計り知れない効果を強調しておられました。その顔はとても
温和で自信に満ちた顔でした。

 兼田水産の海苔は特定の業者が一手に引き受けて販売しています。海苔の洗浄に薬物を使用しないということで有名な海苔です。
それにも関わらず海苔は通常販売の海苔のように変色しないという評判です。従って容易に手に入れることは出来ないようです。
味もいい、色落ちがない、そんな特別な海苔のようです。

 数々のこうした事実をEMはまやかしだと言う人たちは、どのように否定するのでしょうか。科学の進歩が追い付かず事実だけが
先行していることは少なくありません。いずれ近い将来、こうした事実が論理的に明らかになる日が来ると思います。その日まで
私が生きておられるかどうか分かりませんが、出来ることならその事実を確認した上で、頭から否定した人たちに反論を聞いてみたい
ものです。この広い宇宙は謎に満ちています。そして私達の想像の域を遥かに超える不思議な世界なのです。学問と言う小さな領域で
言い争っているときではないと思うのですが。
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出会いの不思議

2014-06-04 05:49:19 | Weblog
 北海道で37度を超えるような異常高温が連日続いたかと思えば、西の方では気温が急低下、その上の梅雨前線の停滞
による大雨など、日本各地は異常気象現象に見舞われている。この異常気象現象は何も日本だけの問題ではない。ボスニア
などヨーロッパ大陸やアジア各地でも大雨や洪水による被害が相次いでいる。果たして温暖化によるものなのか定かではない。
しかし、気象異変がかつてないほど多発しつつあることは間違いないようだ。アメリカではソフトボールのような雹が降ったと
報じられている。日本の場合の気象異変は偏西風が大きく蛇行していることが原因のようだ。

 さて、EM効果なのだろうか。いやEM効果に違いない。そう思わせるほど異常な草木の伸びようだ。比較的雨の降る量が
少なかった割には草や笹の伸びようが尋常ではない。そして密度が高い。明らかに土に変化が現れているようだ。

 但し、良いことばかりではない。EMのせいにしてしまうには早計かもしれないが、桃やアンズに大きな変化が現れている。
桃は二本のうち一本は枯れてしまった。そして古い方のもう一本も弱っている。アンズは二年とも同じような現象で花が咲き
終わったあと小枝が枯れ実が成らなかった。何が原因か分からない。反面、柑橘類は極めて好調。花もたくさん付き、実も
たくさん成る。むろん葉も茂り枝の成長は極めていい。

 このすさまじいまでの成長を促しているものが何なのか分からない。成長を促している作用が木の種類によって異なるのかも
しれない。また、野菜類には総じて良い効果を発揮しているようだ。今まで枯れたものを列記しておこう。まずは生垣にしている
ウバメガシが数本枯れた。次は昨年の秋に害虫に葉を全て食われてしまったクチナシが一本枯れた。そして今回の桃が一本。

 話は変わるが、今日は出会いの不思議について書いてみようと思う。出会いは人との出会いだけではない。物や場所との
出会いもある。全てを含めての出会いに付いてである。幼いころから何となく気付いていたことなのだが、今の勤務を始めて
人との出会いが圧倒的に増えたことから確信に変わり始めたことである。それまでのような単なる感覚の問題ではなく、実感と
して、この現象は必ずだれにでもあることだと感じるようになったことである。但し、誰にでもあることなのだが誰もが自覚して
いることではない。

 誰もが自覚するようになれば世の中はもっともっと良くなっていくことは間違いがない。しかし、今は残念ながら自覚すると
言うよりは、そのような感覚が後退しているような気がしてならない。このような状況を魂が彷徨っていると表現したことがある。
多くの人が自覚するようになると自殺も少なくなり他人を傷つけるような事件もなくなる。自分自身のことを大切にし、他人の
ことを思いやることが出来るようになるのではないかと思う。

 ある人は、こうした現象を「引き寄せ」だと称している。果たして「引き寄せ」なのかどうなのかは定かではない。確かに
「引き寄せ」のような事も数限りなく体験してきたし、今もその真っただ中にある。ところで、人にはどうやら人それぞれの
人生プランのようなものがこの世に誕生するときに準備されていて、それらはその人の学びによってどのような形にもなり得る
のではないかと言うことである。様々に枝分かれしたケースを選ぶことによって人生が形作られていくのではないだろうか。
そうした幾つもの組み合わせの中で様々な人との出会いも準備されている。そのように考えているのである。どんな時にどんな
人と出会うのか、それは、そのようにデザインされているのではないかと思うのである。私の場合は、多くの人との出会いや友人
知人になっていく過程の中で姓や名前に一つの傾向があるようにも思えるのだが・・・。

 人との出会いの中で一番最たるものは結婚と言う出会いであろう。古人はこの出会いの不思議を赤い糸で結ばれていると表現した。
その出会いが見合いであろうと恋愛であろうと同じである。出会いのきっかけが異なるだけである。選択に間違いはなかったはずだが
その後うまく行かないのはお互いに選ぶべき道筋を誤っているのではなかろうか。その上に努力や思いやると言う心を忘れてしまった
が故ではないだろうか。そこにはそれ以外にも様々な要因が絡んでいる。

 また、物との出会いの一つが先ほどのEMとの出会いである。EMとの出会いは、もう二十年近くも昔のことになろうか。比嘉教授が
一冊の本を発刊した時のことである。非常に興味を持ちEM-1なる原液を二度も購入し、使い方も良くわからないままに畑で使った
ことがあった。むろんその時は理解不足で原液のまま使って何の効果も得られないまま、これはダメだと使用を諦めていた。そして長い
時間を隔てたのち偶然にも再び出会うことになった。

 その出会いが地元の有志の人達や子供たちと一緒にEMの発酵液たEM団子を地元の小田川に投じたことに始まる。三か月、半年と
過ぎるうちにあれほどまでに腐臭とヘドロに覆われていた川底が見事なまでに変化したことであった。改めてEMなるものの力を感じた
瞬間であった。川底は見事なまでに回復し夥しいシオマネキが生息できる環境に変化していたのだ。そして上げ潮に乗ってフグやチヌの
稚魚が群になって遡上していたのである。まさにEMとは劇的な変化を目前にすることで再開したことになる。

 あるべき姿に戻ればわざわざ放流のようなことをしなくてもそこに住むべき生き物が戻ってくると言う証拠であった。まさにEMとの
劇的な再開であった。恐らくは長い時間を隔てて再開するように準備されていたものと思われる。そして最初の失敗があったからこそ
その感動が大きかったのではないだろうか。以来、私は私の認識不足を恥じ、EMや光合成細菌、酵母、乳酸菌に付いて深く知りたいと
思うようになった。これら在来の微生物たちの何がこうした働きをするのか調べれば調べるほど興味は尽きない。そして到達した結論は
地球上の生き物たちの進化の歴史と深くかかわりのあることだと分かってきたのである。

 地球上にどんな微生物が誕生し、その微生物たちが繁殖し進化していく過程で地球環境が大きく変化し、その変化に伴って微生物たちも
進化と言う変化をたどっていくことになった。生物の進化と地球環境の変化の繰り返しであった。むろん、その間に小惑星との衝突など
生物の絶滅に近いような劇的な変化もあった。そして長い時間をかけて地球環境を整え、今日、人間社会がここにある。それはまるで
ドラマのように、あるいは地球と言うものが意志あるものの如く変化していった過程でもある。

 しかし、残念ながら最後に到達しえたと思える進化の頂点にある人間自身が育ての親である地球を破壊し汚染し続けている。その結果
人間自らも住めないような地球へと変化し続けていることは実に残念なことである。

 出会いに関する興味は尽きない。そして今も現在進行形である。全てが明らかになったわけではないが、そして明らかになったとしても
私の体感としての出来事を他の人に旨く説明できるかどうか分からない。また私のつたない文章力で表現できるかどうか分からない。
いつの日かもう少し深いところがのぞき見られるようになったら書いてみたいと思っている。

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