人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

ホメオパシーとEM

2010-11-30 21:42:05 | Weblog
 EMは早くから注目を集めながらも、その特性や使用法が十分理解されないまま使われてきた。
その結果、ある人はこれ以上のものはないと言うし、ある人は全く使い物にならないと言っている。
いわば正しい評価がなされないまま良い悪いだけの議論が先行してしまった。

 挙げ句の果てに新興宗教まがいの扱いを受け、あらぬ疑いまで課せられている。EMとはありふれた
微生物を活用した土壌改良材の事である。従って、その他の目的に使用するためには、それなりの
認識が必要である。

 例えば生ゴミの処理に使うときには、それなりの知識を持って使う必要がある。まず、生ゴミ処理に
使う容器は完全密閉が可能なものでなければならない。生ゴミ処理は生ゴミを腐らすのではない。
発酵させるのである。従って、発酵時は出来るだけ酸素を遮断し酸化による腐食を防がなくては
ならない。密閉が良くないとハエが入り生ゴミに卵を産み付けてしまうことがある。こうなると
中にウジ虫が湧いて見た目も良くない。また、生ゴミは出来るだけ隙間なく詰め込む方が良い。
 
 発酵に使うEMボカシは市販品でも良いが、品質の良いものを常に多めに使用しなければならない。
従って、生ゴミを処理する方法としてはコストがかかりすぎる嫌いがある。(私のようにEMボカシ
を大量に作って使えばその心配はないが)

 また、生ゴミには水分が多いので常に水抜きが必要である。生ゴミは水分を出来るだけ減らし
ベト付かない状態が理想的である。私が十数年前に失敗したのは、今まで述べたような注意事項を
守らなかったためである。

 以上をきちんと守れば生ゴミには白いカビが大量に繁殖し、腐食臭ではなく発酵臭がするように
なる。発酵が終わった生ゴミは取り出して畑に埋めておけば急速に酸化され消えていく。

 EMを土壌改良に使うときもEMであれば万全だと言うわけではない。EM発酵液の品質にもよる
のだろうが、効果の現れ方も様々である。著しい効果を確認できることもあれば、使ってみたけれど
大したことはなかったという場合もある。効果は様々である。

 しかし、我が家では確かな効果を確認している。EMを撒き、その上に有機物を大量に入れておくと
土質に確かな変化が見られる。例えば山の畑の風化花崗岩である真砂土は、元々、砂壌土に近い土質で
あったが施用三年目頃から明らかに粘土状の黒い土に変化している。従って、保湿力も幾分かは良く
なっている。また、砂壌土より肥料持ちも良い。

 反面、EMによるものとは言い難いのだが、ブルーベリーやアクラ等には小さな葉が密集するような
傾向が見られる。また、生け垣にしているうばめ樫の古木の中には枯れ死するものが増えている。
反面、一時は枯れるかと思われた松の木が生気を取り戻し青々とした葉を密生させている。良いことも
あれば、そうでない事もあると言う事だろう。

 また、EMを液肥のように考えている人もいるが、EMはあくまでも微生物を使った土壌改良材で
ある。従って、野菜栽培などには肥料を使う方が良い。それも出来るだけ有機肥料の方が土地のため
には良いのではなかろうか。

 我が家の山の畑は果樹畑が基調となっていて、その他に一年に一度、タマネギとジャガイモ、夏場は
サツマイモを作っている。従って、野菜に元肥を入れるだけで年間を通してほとんど無肥料で作って
いる。

 それにも関わらず、病害虫の被害さえ抑えれば見事な果樹が実る。その上、全ての果樹の味が濃厚
である。ほぼ自然農法だと言って良い。下草や笹が密生していて、とても果樹畑とは思えないような
畑である。しかし、これで立派な果樹が出来る。また、何年間も同じ方法で作っている。南向きの丘
の頂上は柑橘類の栽培に適している。


 さて最近、「ホメオパシー」なる医学療法が賛否両論に分かれ争われている。利用したことのない
私には良い悪いを論ずる権利はないのだが、一つだけ言えることがある。

 それは今まで述べてきたEM使用に通じることである。EMで言えば対象とする植物やそこで栽培
している野菜や果物、そして土壌によって、その効果に違いがあると言うことである。ましてや生半可
な理解で使用すると生ゴミ処理で失敗したと同じような哀れな結果に終わってしまう。

 使うからには十分な理解と慎重な使い方が必要だと言うことだろう。その代わり使用法さえ間違わ
なければ児島の小田川の下流域のようにヘドロが消えてしまうという劇的な変化を見せることも確か
である。何事によらず正しい知識と正しい使用法が必要だと言うことではないだろうか。

 そして対象となるべきもの全ては生きものだと言うことである。それぞれに固有な性質(個性)が
あるので、効果のあるなしは、これまた様々である。万人いれば万人に異なる効果(変化)があると
言うことではないだろうか。

 EMをプールに入れるとプールの水が腐りにくく藻の発生も少ない。その結果、翌年のプール掃除
が非常に楽である。という理由からEM発酵液を使用後のプールに入れて管理する方法が広がっている。
塩素系の薬物を入れるより、よほど理にかなった方法だと言えよう。

しかし、この方法を続けていると翌年からEMを減らしても効果が持続していることがあるようだ。
にわかには信じがたいことだが、これが事実だとすると翌年の塩素消毒にも絶えることなくEM効果
が持続していることになる。EMセラミックに見られるような現象なのだろうか。継続的な観察と
学術的な究明が待たれる現象である。

 とにかく、この世の中には未解明な事が多い。全てを頭ごなしに信ずるのも良くないし、反対に
何でも否定してしまうのも良くない。宇宙は謎だらけで、わずかに5パーセントほどしか解明されて
いない。だとすれば、これからもどんな発見があるか分からない。私達の意識を根底から変えてしまう
ような大発見があるかも知れない。従って、信じがたいような医学療法があっても決して不思議では
ない。
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夫婦活弁士取材を受けるの記

2010-11-27 10:54:55 | Weblog
 その一団は大きな車に乗ってやってきた。男性カメラマン一人、その他は取材記者として三人の
女性だった。広島市からやってきた。実はこの一団、夫婦活弁士としての私達夫婦を取材に来た人達
であった。

 次回発行されるという、いきいきシニアの歩き方「さんぽみち」という小冊子に掲載する記事の取材
であった。私達夫婦の定年後の活動として夫婦活弁士というものが、この雑誌の記事としてふさわしい
ものであったのであろう。この小冊子は中国労働金庫が労金友の会の会員宛に発行しているものである。

 11月10日(水)の事であった。実は11月8日(月)は児島活弁シネマライブ、翌9日(火)は
玉島での無声映画活弁ライブであった。本来なら佐々木亜希子弁士等と同じホテルに宿泊する予定だった
が、どう考えてみても翌朝の10時までに家へ帰るには無理があった。従って、急遽予定変更して前日
遅くに家へ帰って来て、午前中の取材を待った。

 取材は10時過ぎに始まって12時近くまで続いた。活弁との出会いから始まって、活弁の魅力
今後の活動予定など矢継ぎ早の質問に答えている内に時間は瞬く間に過ぎていった。せっかくだからと
言うことで「子宝騒動」をテレビ画面に映し出しながら活弁をやってみた。

 取材に来た人は若い人ばかりだったので活弁なるものを初めて見る人ばかりであった。よほど珍し
かったのであろう。カメラマンはインタビューの間も、むろん私達が活弁を行っている間も何枚となく
写真を写していた。

 こうして半日は終わったのである。帰りにぜひともと言うことで今を盛りに庭で咲いているエンゼル
トランペットの前で、おまけのもう一枚を写して貰い全ての撮影は終了。早朝より高速道路を乗り継いで
来てくれた皆さん、ご苦労様でした。この記事は今年最後となる「さんぽみち」に掲載され手元に届く
ことになっている。

 11月19日(金)岡山映画祭のOさんから突然電話があった。11月20日(土)にメトロポリス
という無声映画に音楽を付けて上映するから見に来ないかと言う電話であった。せっかくの招待なので
家内と一緒に行くことにした。

 会場は岡山市の天神山文化プラザであった。舞台にはピアノやコントラバス、アコーディオンのなど
の他に奇妙な設備が並んでいた。これも楽器なのだろうか。

 舞台挨拶があって会場が暗くなり映画が始まった。時代を経たSF映画にふさわしい曲であった。
それらは奇妙な装置から醸し出されるものもあり、アコーディオンやピアノ、コントラバスの音でも
あった。

 映画には時々、字幕が現れ、耳慣れないドイツ語が字幕を読んでいるようにも聞こえる。むろん何を
言っているのか分かりはしない。これも又、無声映画を見せる手法の一つであろう。演奏は4人全て
若い音楽家達によるものであった。それらアーティスト達が醸し出す音が誠にこの映画に良く合って
いた。時代を感じさせないほど、白黒映画がかえってこの映画をSF映画らしく面白く見せていた。
無声映画の上映手法として面白いものを見せてもらった。Oさんに心から感謝している。

 これを機に岡山映画祭とも今回の映画会を企画した人達とも交流の輪が広がることを期待している。
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深まり行く秋・冬はそこまで

2010-11-27 09:25:02 | Weblog
 山が一斉に色付き始めた。近隣の山で松の木が枯れるのを埋めるようにして成長を始めた木にクヌギ
がある。俗に言うドングリの木である。丸く大きな実はドングリゴマやヤジロベエの材料になる。
何よりも山の動物たちにとっては欠かすことの出来ない餌でもある。

 この木が近年「ナラ枯れ」と呼ばれる現象によって枯れ始めている。今のところ近隣の山では見られ
ないのだが、東北から北陸地方の裏日本側で被害がひどいらしい。カシノナガキクイムシという小さな
昆虫の穿孔(せんこう)によるものだ。

 昆虫が空けた穴の中で病原菌が繁殖し、これが原因となって枯れ死に至るようである。小さな昆虫が
なぜ猛威をふるい始めたのか定かではない。しかし、松が枯れ始めたときと同じような原因によるもの
ではないだろうか。

 つまり何かの原因で木が弱り、弱った木に昆虫が巣くうことによって枯れてしまうと言うものである。
木が弱るには様々な原因が考えられるのであろうが、主たる原因は大気汚染、ひいては大気汚染による
土壌汚染が原因ではないかと思っている。

 夏場のオキシダント警報が年毎に増えている。多くは中国大陸からのものである。中国の工業発展は
著しい。日本でもかつてはそうであったように発展途上国に於ける公害対策はほとんど行われていない。
その結果、海や川は汚染され大気も著しく汚染され続けてきた。

 その結果、日本では四日市喘息なるものが生じ、裁判で争われるほど大きな環境問題になった。同じ
ような事が今の中国国内至る所で見られるようである。聞けばレアメタルの輸出規制も単なる政治的な
問題だけではなさそうである。レアメタル抽出時に生ずる環境汚染の問題も輸出規制に大いに関係して
いるようだ。規制をかけなければならないほど環境汚染への影響が大きいのであろう。

 経済発展を最優先にして公害防止を怠ってきた結果によるものである。その被害は自国内だけでなく
国外にも大きな影響を及ぼしている。それが大気汚染となって日本列島に押し寄せている。

 クヌギは日本の里山には欠かすことの出来ない雑木である。そして多くの昆虫の拠り所でもあり
椎茸栽培の原木でもある。その木が次第に失われていくと言うことになれば景観保護の観点からも
ゆゆしき事だと言わざるを得ない。

 さて、ナラ枯れとは関係なく黄葉が進む周辺の山々であるが、我が家の庭でも秋は深まっている。
カラスや鳥たちが通い詰めていた柿の木はすっかり葉を落としてしまった。今は収穫が終わった
あたご柿と富有柿が枝だけになっている。

 そして家の軒には吊し柿となった大きな実のあたご柿がぶら下がっている。これから一ヶ月あまり
こうして乾燥した北風にさらされると甘い干し柿になる。ミカンの木は三本ある。これらが互いに
埋めあって裏年をカバーしている。今年は道縁の一本が豊作である。豊作だが実は小さい。他は裏年で
数は少ないが実は大きい。

 伸び放題に伸びた梅の枝を剪定している。古い木なのに、どうしてこんなに毎年、毎年伸び続ける
のだろう。その割に実は少ない。栄養の大半は枝の方に行っているらしい。枇杷の花が咲き、お茶の
花が咲いている。ミツバチも大きなスズメバチも花の蜜を求めて群がっている。瀬戸内海特有の温かい
冬の日差しを受け枇杷の花の甘い香りが漂っている。変わらぬ自然の営みである。

 虫食いだらけの白菜とその横に大きな葉を広げたキャベツとブロッコリー、そしてニンジンカブ
ダイコン、高菜やチンゲンサイ、ミズナと冬野菜には事欠かない。タマネギも植えた。もうすぐ
エンドウやソラマメの定植もしなければなるまい。

 遠く離れて眺めると秋の日差しを受けて日毎に色増すミカン類が黄色く輝いている。
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旅路の空で・活弁口演勝山編

2010-11-24 14:54:13 | Weblog
Yさん、この度は大変お世話になりました。
まだまだ未熟な私達の活弁を鑑賞していただき誠にありがとう御座いました。
そして、朝早くから会場での準備をしていただき心から感謝しています。
お陰様で楽しく充実した一日を過ごすことが出来ました。

私達夫婦は結婚前から地域に於ける政治活動や平和運動を行っていたため
年を重ねても、その時と同じような感覚で行動しています。
従って、活弁士として行動するようになっても
出来る事なら今回のように若い人達に活弁なるものを見て頂き、
何かを感じて貰いたいと思っていました。
それが思いがけず実現できて、とてもうれしく思っています。

また、Kさんにはお話しをしたのですが、来年の3月20日に
児島文化センターでミュージカル「最後の五匹」を上演する事になっています。
ミュージカルには珍しく、人の生き方を問うメッセージ性の高いストーリーになっています。
その時が来ればご案内をさせていただきたいと思っています。
児島は勝山や湯原から見れば非常に遠いように思われますが
車だと高速を一気に通り抜けますので児島インターで降りて頂ければ
二時間近くで会場へ着くことが可能だと思います。

また、私達は児島商工会議所と一緒に街おこしや地域活性化にも取り組んでいます。
地域活性化に関しては、とても先進的な街である勝山や湯原の皆さんと
知り合いになれた事は大きな成果だったと思っています。
これを機に何かと交流が出来ればと思っています。
また、地元では三白市なるものが開かれています。
そちらの物産を運んでいただき販売していただくのも一興かと思います。

また、山崎さん達の仲間はトマト栽培や酪農を行われているとか、
私も農業や農村での生活にとても興味を持っており
そうした話も今後出来ればと思っています。

私も少しばかりの畑と果樹園を作っています。
もうかれこれ50年近く果樹や野菜を作ってきました。
また、地球温暖化や環境問題で各地での講演活動も行って来ました。

特に食の安全に関しては、微生物活用の方策なども実験や勉強をしていますので
関心を持っておられる方々がおられればお話しをさせていただければと思います。
全てはボランティアで行っていますのでお気遣いなくお呼び下さい。

また、活弁の方はワークショップなども実現出来ればと思っています。
そちらでの行事なども時に応じてお知らせ下さい。

最後になりましたが、会場にチラシまで持っていきながらお渡しできなかった
事をお知らせいたします。

12月11日(土)、12日(日)12時~開場 終了時間は17時30分です。
岡山市NTTクレドビル近くの喫茶店「エックスカフェ」
参加費 1000円(ワンドリンク付き)
「カンタ・ティモール」という映画の上映会が行われます。
会場には映画監督(若い女性)も来られて座談会も行われます。
これはインドネシアから東ティモールという小さな国が誕生するまでの
独立運動を追い続けた記録映画です。
単なる戦争映画ではなく、また平和を願うだけの映画でもなく
我々の生き方そのものを問うようなメッセージ性の高い映画です。

参加可能であれば事前に私の方へご一報下さい。
Kさんにも同じ内容でご案内をしています。
それでは、お名前もお聞きせずに帰ってしまいましたが
お手伝いを頂いた大勢のいスタッフの皆さんに
くれぐれもよろしくお伝え下さい。
ありがとう御座いました。

 これは一昨日、中国勝山で開催された「無声映画と活弁の世界」と称する映画会に活動弁士として
私達夫婦が招待されたことに対するお礼メールを一部に伏せ字や修正を加え掲載したものです。

 私達は岡山映画祭を主催するOさんの紹介で、シネ・マニアという映画活動を行っている団体に
夫婦活弁士として招待されました。

 今までにも数多くの団体や公民館などで活弁を口演させて頂きましたが、今回のように若い世代の
人達が主催するものに呼んで頂いたのは初めての事でした。それだけに私達の期待も大きく、もう何日
も前から、この日が来るのをワクワクしながら待っていました。

 会場はバス停から少し離れた町はずれにある安養寺というお寺のすぐ脇にある勝山文化往来館ひしお
と言うところでした。この建物は、元は醤油蔵だったそうで天井の木組みがむき出しのままのとても
雰囲気があるところでした。

 酒蔵のようなところで演じてみたいとかねがね思っていましたので、思いがけなくその夢が実現しま
した。しかも安養寺の墓地には矢吹家と彫られた墓石が私達を歓迎するかのように建っていました。
他の墓石は全て安養寺の方を向いて建っているのに何故か、このお墓だけは文化往来館の方を向いて
いて、私達が来るのを待っていてくれたかのようでした。私達がこの地を訪れたのも単なる偶然とは
思えない意外な感に打たれました。お聞きすればこの地には意外にも矢吹姓が多いとかで、これまた
驚きでした。私の祖先とこの地との間には何か深い関わり合いでもあるのでしょうか。

 岡山からバスに揺られて二時間余、やっとの思いで勝山に着く頃、空は急に暗くなり小雨が降り始め
ました。今年初めて体験する秋の終わりの時雨です。こんな時は必ず虹が見られるものです。と思って
いたら近くの山懐近くに低い虹の橋が架かっていました。この日は一日、晴れたり曇ったりと山間部
特有の晩秋から初冬にかけてのお天気でした。遠くをカラスが柿をくわえて飛んでいました。

 この町は早くから街おこしに取り組んでこられ、今では県内はもとより全国的にも良く知られた街に
なりました。特に三月に行われる店先の雛飾りや店毎に吊された色とりどりの暖簾は有名です。
草木染めだという様々な模様を染め抜いた暖簾は、それらを見て歩くだけでも楽しいものです。

 私達のエスコート役を一日務めて下さったKさんもこの町が好きになって住み着いたという方です。
多くの若者がこの街に惚れ込んで移住しているようです。そして、地元の方たちと一緒になって地域
の活性化の為に活動されているようです。

 これからの町や地域のあり方を教えてくれる先進的な事例が、この町にはあるようです。町に住む
人は常に変化している方が活気があります。他地域の多くの人材を引き込むことも街の活性化のため
には大切な事だと思います。

 Kさんも話しておられたように街の方々が温かい、非常に住みやすいという言葉の中に何かしら
これからの街づくりのヒントが隠されているような気がします。

 今回は活弁士として招待を受け、活弁との出会いや「月世界旅行」「子宝騒動」を演じさせて頂き
ましたが、それだけに止まらず座談会や喫茶店での会話の中で感じた今後の様々な活動についての
交流の手がかりのようなものを得ることが出来ました。

 それもこれも岡山映画祭のOさん達との出会いから始まったことであり、今までにも様々なチャンス
を頂いたことを心から感謝しています。また、先日は「メトロポリス」という無声映画に若い演奏家達
がアコーディオンやピアノ、ヴァイオリン、コントラバス、メカの固まりのような自作装置を駆使して
の演奏会に招待をしていただきました。この場を借りまして「メトロポリス伴奏付き上映会」の紹介を
させて頂き長いブログを閉めます。

 活弁を通じての更なる人の縁、人の輪は、今も止まることなく更に大きく広がり続けているように
感じています。
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せんごく38の意味するものは

2010-11-21 06:54:56 | Weblog
 「せんごく38」なる意味深な名称のビデオ映像がネット上に流れて久しい。その後、この事件は
どのようになったのであろうか。噂によれば、カットされた部分には中国漁船のあり得ないような
行動の一部始終が収録されていたという。多くの部分は未だ隠されたままである。

 さて、話は変わるが私達は幼い日に虫眼鏡で昆虫や植物を観察して驚いた経験はないだろうか。
そこには裸眼では見えなかった世界が広がっている。更に倍率の高い顕微鏡で見てみよう。顕微鏡
で見えてくるものは、最早、昆虫や植物とはほど遠い映像の世界だ。

 では望遠鏡で見てみよう。倍率の低い望遠鏡で見ると、朧気にしか見えなかった景色がかなり
大写しに見えてくる。更に倍率を上げてみよう。遠くの景色が手に取るように見えてくる。更に
倍率を上げていくと月の表面のあばた模様や土星の輪がはっきりと見えてくる。

 この驚きや感動は今も忘れない。初めて手作りの望遠鏡で月の表面を眺めたときの日のことを
今もはっきりと思い出す。このように顕微鏡や望遠鏡を使うと、そこには見たこともないような
ものが見えているはずだ。このように私達は私達の目で見えるものしか見ていないし、むろん
私達の意志で見ようと思ったものしか見ていない。

 同じように日々目にしている新聞やテレビ報道でも送り手が意図したり、取捨選択したものしか
目にしていない。決して今の世に生じている事の全てを見ているわけではない。中国漁船との衝突事故
にしても、あるいは今進められている様々な捜査報道にしても真実の全てを伝えているわけではない。

 私達は報道機関が取捨選択したもののほんの一部分しか目にしていないし知らされてはいない。
報道は作ろうと思えば幾らでも作れるものである。真実は自分の目で確かめる他はない。事実、自分
の足でその地に立ってみれば今まで疑問に思っていたことや見えなかったものが見えてくるはずだ。

 私達は長く報道機関の報ずるものが真実だと信じて来た。しかし、冤罪事件の数々や一連の検察の
不祥事を見るとき、果たして新聞やテレビ、ラジオの果たしてきた役割が正しかったのか、疑問を
抱かざるを得ない。検察が意図的に流す情報の全てが果たして正しいものであったのか、疑問を
抱かざるを得ない。

 小沢問題は検察審査会の起訴すべきだという結論に基づいて裁判が行われようとしている。この
一連の出来事に対して多くの人が半ば小沢さんには必ず政治資金の問題はあるはずだと頭から決め
つけ裁判は当然だと思っているようだ。

 しかし、ネット上では様々反論が展開されている。事件は検察が仕組んだ小沢失脚のための
ねつ造だと持論を展開している。何が真実か、今後を待つ他はないのだが、小沢さん自身を何度も
検察に呼び、家宅捜索を行い、事務所の女性を拉致まがいに検察に押しとどめてまで捜査を行った
にも関わらず、検察自身が立件は無理だと諦めたものを果たして裁判に持ち込めるのだろうか。

 疑問は残る。そして、全国各地では小規模ながらも小沢さんを擁護するデモが行われ、検察が
行ってきたことや報道のあり方に対する抗議するデモが行われている。過去には政治がらみのデモ
も行われていたが、ここのところ、ついぞそのようなデモが行われた事はなかった。ましてや組織
を持たない一般市民が、自主的に行うようなデモは皆無に等しかった。

 そのこと一つを取ってみても事の重大性を感じるのである。何故、報道機関がこのデモのことを
一切報じようとはしないのであろうか。その姿勢の中に何かしら割り切れない疑問を感じるのは
私だけであろうか。
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政治は人・人の世なれば

2010-11-20 05:53:14 | Weblog
 国会では官房長官の発言や法務大臣の発言を巡り、与党と野党間で国民不在の不毛の論議が行われて
いる。与野党とも全ては党利党略であり、国民のための政治と言うにはほど遠い。

 昨今の政治状況を見るとき、自民党政権時代と何ら変わらない。変わっているのは自民党と民主党
が入れ替わっただけのような気がするのは私だけであろうか。このような政治状況を見るときに
政治とは何だろうかと考えさせられるのである。

 イデオロギーでも主義主張でもなく、政治家そのものの人間性のような気がしてならないのである。
政治家と言う前に人間としての本質が問われているように思うのである。おしなべて表舞台で活動して
いる与野党の政治家の中に、これと言った人物が見えないのは残念で、国民にとっては誠に不幸な
ことであるち言わざるを得ない。

 菅総理の空を泳ぎ見るような虚ろな目から想像していたように、一国の総理たる自覚も自信も何も
ない、どこにでもいるようなありきたりの人物に過ぎなかったようだ。そして政府の要とも言うべき
仙石官房長官の苦虫をかみつぶしたような顔には夢も希望も感じることは出来ない。

 国民が民主党に期待したのは「事業仕分け」でも「子ども手当」でもなかった。要は未来に向けて
の夢や希望であった。夢や希望を思い描くことが出来るようなビジョンであった。

 今の世の何倍もの困難が横たわっていた戦後を乗り切ることが出来たのは、これから始まるという
別の未来に対する希望があったからであった。軍国主義の重苦しいトンネルを抜けた後の明るい未来
を思い描くことが出来たからであった。

 今、問われているのは政治的混乱と社会的混乱と、混沌として先の見えない未来に対する鬱屈した
思いを何とかして欲しいという切実な思いではなかろうか。それらが解消すれば不幸な事件の多くは
消えていくはずである。時あたかも2012年終末などと言う予言めいたことまでささやかれている。

 あの「はやぶさ」は7年もの歳月を要しながらも、この小さな天体である地球に帰ってきた。まさに
奇跡であった。と同時に優れた日本の技術の証でもあった。政治は三流でも技術は一流であることを
世界に立証してみせた偉業でもあった。しかも太陽系の始まりを解明するかも知れないと言う大量の
チリを持ち帰っていた。決して日本人はダメな国民ではない。他民族とは本質的に異なる何かを有して
いることは間違いない。

 あの時、素直にビデオテープを流しておくべきではなかったのか。下手に隠し立てをしたことが
かえって日中関係をこじらせてしまったのではないか。こうした事件は、いつかは何らかの形で表面
にでてくるべき事であった。中国は意識的、戦略的に領土問題を表面化しようとしていたからである。

 中国は日本とは本質的に異なる国であり民族である。長い歴史の中で温室育ちのような日本人とは
異なる歴史を歩んできた。それは血で血を洗うような歴史であった。殺さなければ殺されてしまう
ような体験を幾度となく繰り返している。歴史の本を読めば一目瞭然である。

 したたかに生きてきた国に日本のような控えめな外交は通用しない。もし独自の日本外交を展開
しようと言うのであれば、何度裏切られてもなお日本人の真心を見せ続けるしか、とるべき方法は
ないように思われる。それでも相手国は戦争中の日本を持ち出しては繰り返し攻撃をして来るで
あろう。

 しかし、「目には目を歯には歯を」を繰り返していたのでは中東のように永久に平和も和解も
訪れないであろう。そして戦争屋に漁夫の利を与えるだけである。

 政治とは人間性が強く現れる。単なるイデオロギーや主義主張だけではない。この世は「人の世」
である。人をキーワードにして考えれば如何にあるべきかが見えてくるはずである。
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「滝の白糸」活弁口演終わる

2010-11-10 06:17:32 | Weblog
私の今日のメールから紹介します。以下メールの内容。

正に迫真の演技でした。
完成度から言うと昨晩の玉島口演が児島口演を超えていたように感じました。

映画、語り、演奏の取り合わせを、このまま終わらせてしまうのは実に惜しい気がします。
滝の白糸一座であれば、これを持って地方興行したいような思いです。
再演の口がないか、今後、画策してみたいと思います。

ともかく、ご苦労様でした。
今回の児島口演、玉島口演に関しては色々な気苦労もありましたが、何はともあれ
一応の成功だったと思っています。何とか今後に繋げたいと思っています。

今回の何よりの収穫は玉島でのO君という若いスタッフと知り合った事です。
彼もこの感動を誰かに伝えたいとブログに書き続けているようです。
下に彼のブログのURLを貼り付けておきますので読んでみて下さい。

私達は、11月23日には中国勝山のシネマニア(グループの名前)に行きます。
また、偶然にもエレベータの中で岡山映画祭のNさんに会いました。(正に奇遇でした)
岡山映画祭でも取り上げて貰えないか相談してみます。
その時には相談に乗って下さい。

何かしら地元や玉島では、ひたすら対外的な交渉毎で忙しくしており
さほどの感動を抱く余裕もなかったのですが、
今になってぞくぞくするほどの感動が湧いてきています。

 以上です。一部を伏せ字にしたり、補足で修正をしていますが、これは関係者に送信した
メールです。

 今年で6回になる児島活弁シネマライブも無事に終了しました。入場者の数こそ例年に較べれば
多少少なかったとは言え、熱心な支持者の方々がお越し下さり(お客さんの中には全盲の方も
おられました)、活弁という知名度の少ない芸能がやっと地元に定着し始めたという実感を抱いて
います。

 そして、今回の何よりの収穫は児島だけでなく玉島でも開催が出来たことです。児島の150名の
入場者から始まって、6年後には玉島まで進出するという快挙でした。これも一重に仲間達の支えと
関係者の方々の手篤い支援のお陰だと感謝しています。

 迫真の演技とは、このような事を言うのでしょうか。かつてない感動を今になって味わっています。
メールで書き送ったように、私自身は成功させたいという思いだけで児島も玉島も心落ち着いて
鑑賞することが出来ませんでした。

 疲れも溜まっていて、つい睡魔に襲われ不謹慎にも目をつむってしまい、横から家内につつかれて
目を覚ますというハプニングもありました。

忙しくて断片的にしか見ていない「滝の白糸」でしたが、頭の中ではきちんと最初から最後まで
ストーリーが出来ています。そして、全てが終了し肩の荷を降ろした今になって、その感動が
沸々と湧いてきます。

 映画、活弁士の語り、そしてエレクトーンの素晴らしい演奏、それらが三位一体となって正に
至高の芸術にまで高められています。ありきたりの芸能の多い昨今にあって、決して言いすぎでは
ない最高の芸術、芸能を見せてもらいました。「滝の白糸」と言う往年の名画に活弁士の魂と
演奏者の魂が乗り移ったような迫真の演技でした。素晴らしいの一言に尽きます。

今は多くを語ることなく、その感動の余韻の中に浸っていたいと考えています。

 怒濤のような一週間余が過ぎました。児島市民文化祭もいよいよ終盤を迎えています。
そして、ミュージカル「最後の五匹」の練習も演出者が復帰し、いよいよ本格化しました。
近日中にはスタッフ会議も再会します。

 活弁シネマライブがそうであるように、この中でも多くの出会いが生まれています。人生の
最後に於いて得難い体験をしています。かねてよりの念願であった若い世代との年齢を離れた
交流も始まっています。

 ミュージカル「最後の五匹」をぜひとも成功させたいと思っています。人と人の出会いこそ
人生に於いて約束されたことであり、単なる偶然ではなく出会うべくして出会っているのだと
いう感を強くしています。
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面白い世の中になってきた

2010-11-07 04:55:13 | Weblog
 面白い世の中になってきたからと言って手を叩いて喜んでいるわけではない。それはそれで深刻な
問題には違いないのだが世の中というものは常に流れ流れて変化しているものであるし、何事もなかった
時代というのは皆無だった。

 それは人間の世の中だからである。すべからく人間がしでかしたことであり、人間という存在を抜きに
しては起こり得なかった事ばかりである。それは人間という未完成な動物が我が心の中を様々に吐露して
見せた事に過ぎない。

 私達は我が心を制御できないことが様々にある。そして、心とは裏腹な行動をしてしまうこともある。
善と悪とが心の中に常に共存している。完全な人間など決していないと言っても過言ではない。いわゆる
聖職者と言われている人の中にも多くの悪人がいて様々な事件を起こしている。これも人間であるが
故の事ではなかろうか。

 警視庁の秘密文書がインターネット上に流れて大問題になっている。そして、中国漁船の衝突時
(正確に表現すればわざとぶつけている)の映像がインターネット上に流出している。そして、記憶に
新しいのは検察の一連の不祥事である。

 何も日本国内の問題ばかりではない。アメリカの中間選挙ではあれほどフィーバーしたオバマ大統領
の人気が下がり、中間選挙では大敗を期した。なかなか景気が良くならないとティーパーティなる
おばさん達が大騒ぎしてオバマを引き吊り降ろそうとしている。

 そのアメリカでも重要な軍の機密文書や映像が何ものかによって持ち出されネット上に流れている。
尖閣列島問題でこれよとばかりに攻勢に出た中国政府が国民をあおりにあおっておいて、その結果
とばっちりが自分たちの方向にむき始めたので慌てて沈静化しようとしている。愚かな人間の諸行で
ある。

 悪者を国外に作り、愚政から目を反らそうとするのはいつの時代も時の権力者が取る常套手段である。
今の世の中、何が正義で何が不正義なのか良く分からない世の中である。だからこそ私達は冷静な目で
判断をしなければならないと思うのである。

 あたら新聞やテレビ、ラジオと言った報道機関は騒がない方が良い。報道は事実のみを伝える方が
良い。視聴率を稼ぐワイド番組などはない方が良い。災いの元である。また、時の政府が訳の分からない
世論調査に振り回させるのも良くない。政治家が人気商売に転じてしまっている。

 政治家や時の権力者がまるで役者のように報道に踊らされ、それを大口を開けて笑い転げているのが
私達大衆である。その大衆もいつの間にか我が足下を掬われるようになっていることさえ気付かないで
いる。愚かなもの達の集まりが今の世の中ではないだろうか。

 それは日本だけに止まらない。世界の多くの国々の共通の現象である。「衆愚」という言葉がある。
末世と言われる幾多の歴史の中で繰り返されて来た人間の愚かな姿である。

 インドではカースト制度で虐げられてきた人達の多くが仏教に改宗している。身分制度の厳しい
ヒンズー教に見切りを付けた人達である。長くヒンズー教の中で生きて来た人達にとっては大いなる
決断を要する事であろう。

 仏の前では、人はみな平等であるという思想をひたすら貫く人がいる。日本からインドに渡った
僧侶である。この人の教えによって救われたインド人は少なくないと言われている。仏教発祥の地で
再び仏教が見直されている。

 般若心経の中には、この世の真理の全てが書かれている。描かれている。人はどのように生きるべき
なのか、それは貧者も富めるものも、虐げられたものも権力者も、それぞれが共通に抱く悩みであり
人間であるが故の愚かさでもある。そのことを気付かされるのが般若心経ではないだろうか。

 般若心経が世に出て二千年以上が過ぎている。今なお人間は二千年前と同じような愚かさの中にいる。
これからも変化には目を離せない時代が続くであろう。そして、様々な事件が走馬燈のように現れては
消えていく。その時代に生かされている自分をもう一人の自分が見ている。
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川の流れのように

2010-11-01 06:51:41 | Weblog
 とかく若いときには若さ故に意味のない言動が多い。私も長くそうであった。悔やんではいないが
ずいぶん回り道をしてきたなと思うのである。

 さて話は変わるが、赤ちゃんから幼児期にかけては持てあますほどのエネルギーに満ちあふれている。
その動きについて行けなくて、ついつい大声を上げてしまう親も少なくない。私達夫婦もそうだった。

 ただ、この動きが成長期の特徴だと思えるようになってくると、大変だと思っていたことが実は
大切な事だったのだと客観的に見えてくる。気付いた時には、子育ての大半は終わっている。

 赤ちゃんや成長期の子どもが人形のように動きのない受動的な存在であったら、それこそ異常だと
思わなければならない。

 この頃の子どもというものはエネルギーの固まりのような存在である。それが生きものとしての
人間のあるべき姿ではなかろうか。そして、色んな事に興味を示す。その一つの現れが何でも口に
入れてしまうことだろう。これは人間が成長期に体験する動物的な行動だと思われる。口という
感覚器官で何かを感じ盛んに情報を吸収しているのだと思われる。

 そして、その行動は生きもの全てが体験してきた飢えから逃れるための無意識の行動の現れかも
知れない。人もまた動物だという証拠であろう。

 私達は今、改めて子育てを体験している。子育てサロンプーさんである。この会は子育て中の
お母さんやその子どもと一緒に遊びながら、お母さん達に少しでも息抜きをして貰おうと思い
毎月一回開いている。

 むろん、この会を作った背景には、お母さん達の悩みを聞いたり育児相談に応ずるという主旨もある。
私達世代には稼ぐに忙しくて十分な子育てをしてこなかったという思いがある。そうした未経験で
中途半端な子育てが、私達の子どもである若い世代の様々な問題となっているという多くの反省もある。

 今更ながらと言われるかも知れないが、少しでも償いをしたいという思いもあって開いている。
また、自分たちの子育てを振り返り同じような道を歩いて貰いたくないと言う思いもある。

 子育ては原点に返れと言う思いがある。チンパンジーたちの子育てを見ていて感じたことがある。
彼らの子育ても人間に劣らぬくらい長い。その間、母親は絶対に子どもを叱らない。ひたすら親と
しての愛情を持って子どもに接する。

 チンパンジーの子ども達も人間の子ども達と同じようにエネルギーの固まりである。いたずらも
すれば危ないことも平気でする。そして暇さえあれば母親の胸にすがっている。おっぱいを口に
含んでいる。甘えん坊でいたずら好きなのは人間と同じである。

 チンパンジーに人間のあるべき姿を見たような感じがするのである。私達人間はなまじ知識がある
ばかりに頭で子育てを考えてしまう。反面、人間がまだまだ動物的な部分を残している事を考えれば
チンパンジーに学ぶべき事は多いのではなかろうか。

 いや、だからこそ子育ては教科書や参考書に頼らず、親が子に抱く愛おしいと思う気持ちだけで
接することが必要なのではなかろうか。十分とは言えない智恵や知識で何かとものごとを考えすぎる
のは良くない。

 全ては自然の為すがままに生きることの大切さ、そして、その方が理にかなっていることを悟る
べきではないだろうか。どうあがいてみても、なるようにしかならないのが、人生でありこの世の中
である。

 名声を欲しいままにしながら若くして亡くなった美空ひばりさんが往年に歌った「川の流れのように」
という歌詞の中に生き方の全てが込められているような気がするのである。そして、世に並ぶものなき
大歌手であってみても人の悩みは共通であり、彼女自身もそのことを歌に託したのではないかと思う
のである。

 もっと自分自身に素直に生きる。子どもは智恵や知識で育てるのではなく、子どもを愛おしいものと
思う心で育てることではないだろうか。とりとめのない話になってしまったが、昨今の心境である。
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