人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

多くの人に支えられて活弁公演

2008-06-24 22:29:49 | Weblog
 下記は昨日の活弁公演後に二人の方に書き送った電子メールの一部
です。一通は今回の公演を企画して下さった岡山市内の公民館長の
Yさんに宛てたものです。

Yさん、本日は大変お世話になりました。今日までの段取り、大変
だったろうと思います。全く、人の縁というものはどこでどのように
繋がっているものか分かりません。公演に先立っての話の中でも少し
だけ触れましたが、前もって準備されていたかのような今日までの
道のりでした。むろん努力もしましたし苦労もしましたが、それも
これもみんなこの日のための事ではなかったろうかと思うような事
ばかりです。最近では人の目には見えない糸のようなもので結ばれて
いるのではないか、そんなありもしないようなことをふと考える
こともあります。今後ともよろしくお願いいたします。

そして、下記のもう一通は取材をしてくれた山陽放送のH.Yさんに
宛てたものです。

 H.Yさん、本日の取材ありがとうございました。急な取材で大変
だったのではないでしょうか。活弁を見ての感想は如何でしたで
しょうか。取材を受ける身でありながらH.Yさん達にも質問して
みたいことがたくさんありました。また、急な取材でしたのでご希望
に添えるような応答であったのか反省をしています。ただ、この放送
を通じてより一層多くの方々に活弁なるものの存在を知っていただけ
たのではないかと思っています。早速、放送を見て一件の公演に関する
問い合わせが参りました。
 活弁は一つの文化だと思っています。それも往年の活弁ではなく
今の時代に生まれ変わった「語りの文化」だと思っています。音楽と
語り、そしてシンプルな映画の三者が作り出す不思議世界がもっと
広く知れ渡ることが私たち夫婦の使命だと思っています。
 また、この活動を通じて少しでも高齢者のみなさんの励みや子ども達
の健やかな成長の一助になればと願っています。

 実は今回の活弁公演は多くの方々のご厚意や友情に支えられこの日
を迎えることが出来た。昨日は岡山市の光南台公民館での活弁公演の
日だった。
 岡山映画祭2007では思わぬ事から私たちのつたない活弁が実現し、
その活弁がNHKや山陽新聞で大きく報じられた。その延長線上で
公民館での講座の一つに取り上げられ実現可能となった。夢のまた夢
と思っていたことが現実のものとなったのである。
 その上、不思議な縁で知り合ったNさんという市井の音楽家の作曲
でよりいっそう充実したものとなって、みなさんに見ていただくこと
になった。
 岡山市が生んだ往年の名優「尾上松之助」氏と映画を敬愛して止ま
なかった故松田完一さんの二人は、どのような思いで見て下さった
であろうか。

 この公演に引き続き7月2日、3日には地元児島の高齢者福祉施設
での公演が待っている。お年寄りのみなさんが、この公演をきっかけに
元気を取り戻していただけたらと願っている。健康生きがいづくり
アドバイザーの末席を汚す私としては、家内と一緒に何かお役に立て
ればと願いつつ今日も練習に励んでいる。
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夫婦活弁いよいよスタート

2008-06-22 08:28:16 | Weblog
毎年の事ながらこの時期になると家の中がじめじめして気持ちが悪い。
つい先日までは肌寒くさえ感じるような日もあって、何となくさらりと
した空気だったのが嘘のようである。
 昨日今日の天気図を見ていると沖縄周辺に停滞していた梅雨前線が
今は九州から中四国地方にかけて横たわっている。この前線のわずか
ばかりの移動によって雨が降ったり止んだりしている。典型的な梅雨
時期の天気図となっている。

 一時、ニュースにもなった原油価格の上昇による烏賊釣り漁船の
休漁はどうなったのだろう。急激な原油価格の上昇は色んなところに
影を落としている。その影響は日本ばかりではない。しかし、容易に
解決しそうにない問題である。

 こうした変化は私たちの生活を根底から変えてしまうのではない
だろうか。その一番大きな変化が今回のような地震によるものだ。
今回、被害を受けられた方々の中には戦後、開拓団として山間部を
切り開き、やっと今のような生活の基盤を作られた方々もおられた
ようである。その方々の生活基盤が失われようとしている。
 年齢的に若ければ再起と言うこともあるのだろうが、私たちの年齢
になっての再起は難しい。また、一人住まいの高齢者の方々も少なく
ないようで、こうした人達の今後も心配である。
 阪神大震災でも多くの方々の生活や運命を変えてしまった。四川
大地震、今回の岩手、宮城内陸地震でもこうした方々が多数おられる
のではないだろうか。高齢者の域にさしかかりつつある私としては
他人ごととは思えない。

 さて、私たちの活弁ボランティアがいよいよ現実のものとなろうと
している。第一回目の公演を岡山市の光南台公民館で行う。岡山映画祭
の時、私たちの公演を見て下さった館長さんの好意によるものだ。
 その後、7月2日、3日と、ここ児島の高齢者の福祉施設で行う。
これも施設の責任者の方の好意によるものだ。また、懸案だった映画
フィルムは東京国立近代美術館フィルムセンターの好意により貸し
出していただける。

 こうして、多くの方々に支えられつつ活動の第一歩を踏み出すこと
になった。いよいよ私たち夫婦の二人三脚によるボランティア活動が
始まるのだ。夫婦活弁は恐らく日本全国でも初の試みではないだろうか。
 先日、音楽を担当して下さる野原さんとも合同演習を行った。映画
だけでもだめ、活弁だけでも物足りない、音楽を付けて初めて映像は
生き生きしたものになってくることを実感した。

 映像、活弁、音楽というそれぞれが相乗効果となって素晴らしい
ものに仕上がった。演ずる私たち夫婦も演奏してくれるNさんも
ともにうきうきとした気分でリハーサルを終わった。
 何という素晴らしいことであろうか。人は一人では生きられない。
こうして多くが集まってこそ意味あるものになる。そんな事を考え
ながら本番当日を心待ちしている。
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地震と水問題

2008-06-17 17:22:58 | Weblog
 中国における四川大地震の報道が続く中、日本でも大地震が発生した。
岩手、宮城内陸地震だ。震度6強、マグニチュード7.2という近来
まれにみる大型の地震だったようだ。
 被災地は山間部であったことが幸いして最小限の人的被害であった
ことは幸いであった。とは言え被災者のみなさんには心からお見舞い
申し上げたい。
 雪解け水で地盤が緩んでいたとは言え、映像で見る地滑りの様子は
ただ事ではない。地滑り現場のすぐ下流にあるダムの決壊がなかった
のは不幸中の幸いと言うべきであろう。自然の力の恐ろしさをまざまざ
と感じる地震であった。

 日本は世界有数の地震国であり、大地震に繋がるような活断層が
各地にあると言われている。その上、東海や東南海、南海地震と
巨大地震の活動周期に入っているようである。ゆめゆめ油断のない
ようにしたいものである。

 天災も恐ろしいが地球温暖化も恐ろしい。こちらは急に起きるもの
ではないが、その影響は年を追うごとに様相を新たにしている。異常
気象である。
 異常気象は人的、物質的被害をもたらすだけでなく、食糧問題など
大きな問題を孕んでいる。そして、それ以上に恐ろしいのは水不足の
問題である。

 水問題は異常気象問題と水資源の確保や管理、給水と言った人為的
な問題が絡んでいる。ただでさえ少ない水資源が金儲けの手段に使われ、
一部の企業が独占することによって水の質が悪化したり、水を使うこと
が出来ない人も出ている。
 また、アフリカや東南アジアの発展途上国では水を川や池に依存する
しか確保できない人もたくさんいる。量だけでなく水の質が問われて
いる。地下水さえ汚染されているところも少なくないと聞いている。
 幸いに日本は島国である。他国と国境を接することもなく、年間の
降雨量も少なくない。しかし、大陸の多くは国境を越えて河が流れて
いる。上流でダムを作ったり水を使い切ってしまえば下流に水は来ない。
こんな問題も現実には起きているようだ。こうなれば国家間の戦争に
なりかねない。

 水は油と違って私たち人間の命に関わる資源である。この水が今
深刻な資源問題と化しつつある。今一度、水に対する思いを新たに
し、限られた資源を無駄にすることなく使いたい。

 我が家では枇杷の季節が終わった。かつて私の家の近くでは枇杷を
作っている人は少なかった。少なくとも私が植えた頃には山枇杷の木
はあっても畑や庭に枇杷の木を見ることは少なかった。ところが
比較的作りやすいこともあってたくさん見かけるようになってきた。
特に今年は気候の関係もあってか豊作のようである。

 これからはスモモの季節である。カラスたちは果樹の熟す時期を
どのようにして察知するのだろう。早くも近くの山に来てガアガアと
騒いでいる。どれほどの効果があるのか分からないが、早速、ネット
を張って見た。
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悲惨な事件

2008-06-12 07:05:30 | Weblog
 いよいよ、ここ岡山県も本格的な梅雨期に入ったようだ。昨晩から
激しい雨が降っている。九州では既に300ミリを超えたところも
あるとか。毎年の事ながら梅雨末期には大きな被害で出ている。そんな
事のないように願うばかりだ。

 アメリカでは大きな気象異変が生じているとか、一方では熱波、
一方では寒波とか、この季節にしては何れも異常としか言いようが
ない気象異変だ。日本でも雹が降ってリンゴに被害が出ているとか。
いくら科学が進歩したからと言って地球規模の大きな変動には為す
すべもないのが現実だ。

 そんな気象の不安定さは政治にも社会にも現れているようだ。国会
も後期高齢者の問題で紛糾を続けている。数にものをいわせてやりたい
放題の事をやってきた政府与党、一方、我慢に我慢を重ね、やっと
参議院で多数派になった野党、攻防は激しさを増している。
 これからも野党の攻勢は続くのではないだろうか。ここに来て守勢
に回っている政府与党は、今まで自分達がやってきたことを棚に上げて
野党の攻勢を批判している。その言葉は天唾ものだ。

 さて、あってはならない事件がまた起きてしまった。秋葉原の通り魔
事件、七人もの人が殺害され、十人もの人が傷つけられた。何という
凄惨な事件であろうか。
 亡くなられた方や入院されている方々には、心からお見舞い申し
上げたい。亡くなられた方にはご冥福を。傷つけられた方々には一日も
早い回復を願っている。

 事件の背景には、投げやりな気持ちになる事が勤務先であったと
報じられている。犯人は派遣社員であったようだ。首になるかも
知れないと言う心理的な不安が犯行に走らせたと言われている。
 だからと言って人を殺傷し、すべてを精算したいという考えは
いかにも短絡的過ぎる。冷静になって考えてみれば何でそんな事を
したのだろうと思っているに違いない。
 しかし、犯行前にはこの方法しかないと思い詰めていたようだ。
ここに人の心の闇の部分があるような気がしてならない。昨今の
殺人事件の背景には同様な心理状態が見て取れる。
 本当にその方法しかないのか、犯行に走る前に人に相談するとか、
悩みをうち明けるとか、もう一度、自分自身の心に問いかけてみる
ような心の余裕はなかったのか。

 現代人は物質的な豊かさを享受している反面、心の中は非常に貧困
である。そして、親子であっても心の中をうち明けることが出来ず、
心の内を聞いて貰えるような親しい人間関係もない。実に孤独である。
その傾向は、年を追うごとにひどくなっているようだ。
 その上、政治や経済の問題もあり、四川大地震やミャンマーの
サイクロン被害なども心理的な大きな影を落としているに違いない。
生きていても仕方ない、いっそ命を絶ってしまえと自殺に走る人、
自殺に踏み切れない人間は他人の手を借りて何とかと、今回のような
犯行に走る。昔のような大家族であったら、こんな事は起きなかった
かも知れない。孤独であるが故の犯行も少なくないだろう。

 また、現代の雇用制度にも問題があるような気がしてならない。
企業は儲けのために正規社員を少なくし、嘱託だとか臨時雇用だとか、
派遣社員で穴埋めをしている。
 この派遣社員制度が色んな形で多くの問題を生んできた、。その一つ
が保険制度の問題であろう。本来、企業を指導すべき国が企業の後押し
をしてきた感は拭えない。
 その結果、正規社員は少なくなり、保険の滞納や制度に加入しない、
加入出来ない人が増えている。これでは医療保険制度も年金保険制度
も破綻するのは当たり前である。ただでさえ出生率が低下し、破綻
寸前なのに、これに拍車をかけるようなものではないのか。

 犯人を犯行に走らせた動機の一つに、いつ解雇されるか分からない
と言う心理的な不安があったようだ。そもそも派遣社員の身分は
浮き草のようなものである。将来設計を持とうにも不安定な雇用や
収入では出来もしない。みんな将来に漠然とした不安を抱えて生活
している。
 そんな企業のやり方を見過ごし助長してきたのは政府与党である。
そして、更に怠慢だったのは労働者の立場でものを考えるべき労組の
集まりである連合ではなかったか。
 もっと雇用という面で傘下にいる正規労働者だけでなく非正規労働者
の待遇や雇用安定に目を向けて来るべきではなかったか。

 そして、政府は保険制度のことを考えるのであれば企業に負担を
強いるべきであった。企業に対しては一般市民とは比較にならない
ぐらい優遇をしている面が少なくない。
 端的な例は道路だろう。道路は一般市民の通行のためだけではない。
この道路を使って企業活動を行っている搬送業者や、多くの企業だ。
こうした企業は一般の私たちとは比較にならないくらい多くの恩恵を
受けている。それは道路だけではない。
 二酸化炭素の排出はどうなのか。一般家庭の何十倍もの二酸化炭素
を排出している。社会に多くの負担を強いて企業だけがまるまると
太っていくという、このあり方が問題だと思うのは私だけであろうか。
 企業からは、もっと税や社会保障の負担という形で取っていけば良い。
企業は世のため人のためにある組織なのだから。

 ともあれ、今回の事件は特別な人間が引き起こした特殊な事件として
片付けてしまうのではなく、今の社会が持つ病的な部分としてとらえ
今後の対策を講じていくべきではなかろうか。
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父の戦争

2008-06-06 06:24:44 | Weblog
 今年はノモンハン事件から70年と聞いている。私の父はノモンハン
事件の数少ない生き残りである。その父もわずかに53才の時、交通
事故で亡くなった。生きていれば89歳だろうか。

 父は生前、酒が入るとノモンハン事件に参戦したときのことをよく
語っていた。私はそんな事からノモンハンやハルハ川という言葉を聞く
たびに生前の父のことを思い出す。

 父は生還した戦友の集まりには欠かさず出席していた。その生存者
は200名近い部隊の中で、わずかに数名に過ぎないと言う、実に
すさまじい戦争であったようだ。

 父は大正6年生まれである。ノモンハン事変のあったのが昭和14年
だと言うから参戦したのは22歳の頃であったのではなかろうか。
広島県の神辺町生まれであったから徴兵検査は福山の連隊で受けた。
五体満足な体は甲種合格であった。

 入隊後まもなく満州に送られた。満州とは今の中華人民共和国の
東北部およびロシア沿海州を含めた北東アジア一帯のことである。
父は満州でノモンハン事件に参戦した。

 ソ連軍の圧倒的な機動力に対し日本軍はわずかな装備だけの肉弾戦
であったようだ。父はソ連軍の戦車部隊を目の前にして首まで蛸壺に
埋まってしまい体の自由が利かなくなってしまった。敵の戦車は目前
に迫っていた。どのようにして這い出したか分からないが気が付いたら
抜け出していたと話していた。

 また、塹壕の中で次々に戦友が倒れていく。敵の機銃掃射による
ねらい打ちであった。戦友の体を踏み越えながら必死で逃げたと
話していた。その時、腕に銃創を負ったと話していた。

 九死に一生を幾度か経験し、奇跡的に生きて帰った。また、敵の
捕虜を将校達が処刑と称して惨殺するのも見たと話していた。まさに
戦争は狂気である。

 こんな悲惨な戦争を誰が計画したのか。それは若い作戦参謀であった
辻正信であった。彼は敵の機動部隊の戦力を考えもせず兵隊を肉弾戦
で向かわせた。その結果、致死率75パーセントというかつてない
犠牲者を出すことになってしまった。

 その辻はあろう事か戦後も生き残り国会議員にまでなった男である。
全く無能としか言いようのない男のために、あたら若い命が多数奪われ
たのであった。

 私の父は奇跡としか言いようのない死線を何度もかいくぐって生還
した。しかし、帰ってみれば戦争に行く前に蓄えていた私財は、すべて
叔父夫婦に奪われ無一文になっていた。叔父夫婦は激戦と聞いて父は
死んだものと決めていたようだ。それ位、国内では激しい戦争だと
報じられていたようである。

 父が戦地で肌身離さず身につけていたお守り札が半分に割れていた
そうである。身代わりになってくれたのだと話していた。

 作戦参謀の辻正信が属していた関東軍は独断専行が多かった。この
ノモンハン事件が、その後の日本を暗示していた。この戦争を契機に
日本軍は太平洋戦争へと続く愚かな道をまるで坂道を転がるように
落ちていくことになる。その見本のような戦争がノモンハン事件で
あった。

 しかし、父は自らを死地に追いやるような戦争であったにも関わらず、
その真の意味も知らずにこの世を去ってしまった。今、あの世で真実を
知ることになったであろうか。戦争とは愚かなるものによって遂行
された狂気と生き地獄である。
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楽しかった鹿児島旅行

2008-06-04 06:35:32 | Weblog
 5月30日から6月2日の予定で鹿児島へ旅行した。目的は特攻基地
であった鹿屋(かのや)や知覧へ行くことだった。憲法が改悪の方向
に向かって久しい。私の地元でも憲法九条を守ろうという会が出来て
いる。会では戦争体験者の話を聞いたり、こうした戦跡地を訪ねている。

 知覧は陸軍の特攻基地があったところだ。戦争末期、あろう事か
日本軍は戦闘機に片道切符の燃料しか積み込まず、爆弾を持たせて
敵艦隊に体当たり戦術をとった。愛国心に燃える若い兵士達が次々と
知覧を飛び立ち敵艦隊に突っ込んでいった。敵艦隊からは神風と言って
恐れられた。

 特攻隊の悲劇は色んな形で取り上げられ、中でも幾つかの映画を
見られた方も多いのではないだろうか。知覧の特攻平和会館には
多くの展示物が残されている。亡くなった兵士の写真と共に彼らが
書き残した遺書や寄せ書きもある。時代が違えばこんな死に方をする
こともなかったであろうと思うと思わず涙がこみ上げてくる。

 戦争遂行者の責任は重い。二度と再び戦争をするような事があっては
ならない。

 さて、ここ知覧には多くの武家屋敷が昔さながらに残されている。
どのような階級の人達の屋敷かはよく分からないが、小さいながらも
各屋敷内には手入れの行き届いた庭がある。
 私たちが訪れたのは五月末から6月初め頃であったから、サツキの
花や庭の木々の新緑が大変きれいだった。また、町並みの先にある山が
借景となり小京都と呼ばれるにふさわしい眺めであった。

 私たちは着いた日に桜島を目の前にした磯邸に行き、指宿に一泊した。
翌日、一部のものは開聞岳に登った。私たち夫婦は別行動の予定も
あったので体力の消耗を避け、登山は断念した。その代わり長崎鼻へ
行き、少し離れた場所から開聞岳(薩摩富士)の素晴らしい景観を
楽しんだ。
 登山組と合流した後、知覧から鹿児島市内へ入った。鹿児島の山々は
緑一色であった。緑にもこんなに幾種類もあるのかというほどの色の
多さであった。

 鹿児島市内で更に一泊し、翌日は城山へ行き、そこで一行と別れた。
私たちはピースボートで知り合った若い女性Yちゃんと久々に再会した。
霧島へ行き市内へ戻って夕食を一緒した。ピースボートでの旅行中、
親しい間柄だったとは言え、こんなに親密に話したことはなかった。
彼女の結婚生活や子育て、仕事の事など色々と話すことは多かった。
 むろん私たち夫婦の近況も話した。また、そう遠くない将来再会する
ことを約束をして別れた。

 翌日は雨であった。思えばこの季節一滴の雨にも遭うことなく三日間
が過ごせた事は奇跡であった。天が味方したとしか言いようのない
お天気であった。さすがに帰る日の朝は雨であった。ホテルの前には
桜島があったが、残念ながら裾野の方しか見えなかった。
 ホテルを10時頃出て、熊本に向かった。再会を約束しながら、
なかなか会えなかったMちゃんに会うためであった。彼女は大学を
卒業後、新聞記者となり熊本に赴任していた。
 熊本は私が社会人となって初めて就職した宇土という町に隣接する
町であった。彼女が熊本に赴任すると聞いて何かしら不思議な縁を
感じていた。

 こうしてMちゃんとの再会も果たし、熊本を後にして一路岡山に
向かった。振り返ってみれば鹿児島を訪れたのは何年ぶりであった
ろう。新婚旅行の時以来である。その時の記憶はほとんど残っていない
が何となく居心地の良い町であったという印象は残っている。
 その印象は今回も変わらなかった。観光地「指宿」に行ったのは
更にそれ以前の事であったから、すべてにおいて変わっていたのだろう
と思われる。変わらなかったのは開聞岳の勇姿だけであったのでは
ないだろうか。その開聞岳も何か木々の生い茂るおとなしい山に変貌
していたように思えるのだが。あれから40年以上の歳月が過ぎている。
何もかも変わっていても不思議ではない。
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