人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

食の安全

2008-01-31 10:55:15 | Weblog
 地球温暖化問題と同じように何度かブログに書いてきたことである。
その食に関する問題で、再び大きな問題が発生している。二度も三度も
同じような事を繰り返す背景には、食を取り扱うものが、何の反省も
チェックもしていないと言うことになる。

 日本人は多くの食料品を他国に依存している。国の調査によると
食料自給率はわずかに40%で、他の60%は何らかの形で輸入
食料品を食べていることになる。また、その輸入食料品の半分近くは
廃棄されていると言うから驚くべきことである。

 こうした食料品は自国で生産するより遙かに安い。輸入業者が安く
買いたたいているからだ。と同時に、相手国の生活水準が低く労働力
が安いからに他ならない。

 安く買いたたくと言うことになれば、相手国の農民は少しでも収量
を増やそうと努力する。化学肥料を大量に使い、害虫に食われない
ように大量の農薬を使うことになる。

 今回問題となった農薬と同じような有機リン系の農薬でパラチオン
というものが日本国内で使われたことがある。農民に多くの被害者が
出たことから使用禁止になった農薬である。ホリドールという商品名
で売られていた。

 ある農家はこの農薬を出荷直前のナスビに散布していた。リンは
実肥えと言われているように、ナスビやトマトのように実を食べる
野菜作りには欠かせない肥料成分である。出荷前のナスビに散布する
とナスビの色艶が良くなることを経験的に知っていて使っていた。

 何とか見栄えの良いものをと思う結果であった。今回の事件とは
異なるようだが、安く買いたたくと言うことは、そうしたリスクを
伴うという事である。農家は出来るだけ見栄えの良い野菜を作り
高く買って貰いたいと思っている。(今の国内農家の話ではない)

 さて、今回の事件だが今後の調査を待つ他はないが、いずれにせよ
食の問題に関して大きな警鐘だと受け止めたい。本来はお百姓さんが
苦労して作ったものを安く大量にと考えた消費者側の私たちに責任が
ある。その後押しをしてきたのが輸入業者である。

 その輸入業者は大きなリスクがあると知りながら自らは詳細な検査
もせず、それを国の検査機関に委ねてきた。日々、大量の輸入品が
入ってくる中で、国の検査機関に余裕などなかったはずである。

 美食と飽食を求める消費者、それを助長させてきた輸入業者、生産者
を酷使して買いたたく輸出業者、そんな構図が見えてくる今回の事件
である。

 私たちは植物にせよ、動物にせよ、ものの命を頂いて生きている
ことを、もう一度考え直してみたい。そして、日本の農業の衰退が
何故起きているのかを考え直してみたい。

 より安全なものを食べたいと思うのであれば、それ相応のお金を
払いなさい。それがいやなら自ら鍬やスコップを持って畑を耕し
なさい。そうすればお米一粒がどんなに貴重なものであるかが分かる
はずなのだ。
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叩けよ、さらば開かれん

2008-01-30 22:01:41 | Weblog
 「叩けよ、さらば開かれん」このような言葉を聞いたことはない
だろうか。「待てば海路の日よりあり」こんな言葉もある。いつかは
何らかの形で実現させたい。そう思っていた事が、いま実現しようと
している。

 私たち夫婦が岡山映画祭の要請を受けて活弁を行ったのは昨年の
11月のことだった。そして、その取り組みがNHK岡山放送局の
取材対象となり、県内だけでなく全国放送まで行われた。そして
昨年の暮れ、地元の新聞社である山陽新聞の取材を受けた。これも
夫婦活弁についてであった。

 そうした取材の時、今後はどうしますかという質問を受け、出来れば
福祉施設や高齢者の施設で公演をしたいと答えておいた。しかし、
その裏付けとなるものは何もなかった。と言うのも、肝心なフィルム
を借りる宛がまったくなかったからだ。

 古い映画だから著作権の問題はなかったが、フィルムそのものを
借りる宛がなかった。仮に借りることが出来るとしても金銭の絡む
ことであり、その他の使用制限も少なくなかった。

 何か良い方法はないかというのが、昨年から今年にかけての大きな
課題となっていた。深刻には考えていなかったものの、その内なんとか
なるだろうというほど簡単なものでもなかった。
 
 相手から良い話が飛び込んで来るようなものではなかったから、
人づてに話を聞いたり、これはと思うようなところにはEメールで
問い合わせをしたり、何度も電話をかけてみたりした。

 しかし、いずれも無駄骨に終わっていた。そんな状況の中で偶然
にも見つけたのが「東京国立近代美術館フィルムセンター」であった。
サイト内を検索してみると、探していた「豪傑児雷也」もあり、
その他にも、これから演じてみたいフィルムもあった。

 早速、電話をしてみると好条件で貸し出して貰えるとの事であった。
この日は丁度、家内の誕生日でもあった。家内には絶好のプレゼント
になった。うれしくて、みんなに触れ回って歩きたいような気持ちで
あった。フィルムさえ確保できれば、これから先どんなところでも、
どんな要請にでも答えることが出来るという目処がついたのだ。

 考えてみれば活弁士「佐々木亜希子」さんに来て貰い、第一回目の
児島活弁シネマライブを行ったときも、偶然とは思えないような
出来事が多かったけれど、今回も同じであった。やはり「不思議な縁」
は、今も続いているようだ。

 佐々木さんのEメールだと「私が『豪傑児雷也』を上演したのも
国立近代美術館フィルムセンターでした」との事であった。こんな
偶然があるだろうか。具体的な行動は5月以降になる。しかし、大きな
進展を得たことで、活弁活動も新たなる展開を見せ始めた事になる。

 正しく「叩けよ、さらば開かれん」である。私が行動をしなかったら
何の変化も起こらなかった事である。
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賃上げが急務

2008-01-24 06:28:26 | Weblog
 浜松市で昨年11月、空腹のホームレスの女性が市役所に運ばれ、
福祉担当職員らが取り囲むなか心肺停止状態となり、翌日死亡した。
敷地内の路上で寝かされ、市が与えた非常食も開封できないまま
息絶えた。「すべきことはやった」と市は説明する。だが、なぜ
あと一歩踏み込めなかったのか。女性の死は重い問いを投げかけて
いる。

 一方では日本経済新聞のトップにこんな記事も報じられている。
2005年時点で生活保護を受けている、約55万6000人の
高齢者(65歳以上)のうち、52.9%の29万4000人が
公的年金を受け取れない「無年金者」であることが厚生労働省の
調査で分かった。保険料未納などで空洞化する公的年金の役割を、
生活保護が事実上肩代わりしている実態を浮き彫りにしている。
年金と生活保護の関係を含め、社会の安全網全体を再設計する
社会保障改革が急務になっている。

 無年金者は、保険料の納付期間が最低基準の25年に満たず
年金の受給権のない人や、制度に一度も入ったことがない人は
現行制度では年金は全く受け取ることができない。

 実は私の知り合いにも同じような事情で無年金者がいる。この
人は職人さんだったが、現役時代に国民年金に入った方が良いと
いう話すら知らなかったと言っていた。今になってみれば何故、
加入していなかったのかと悔やまれると言っていた。

 意外に、こんな人が多いのではないだろうか。将来、生活困窮者に
なるかも知れないことが分かっていながら何故、加入促進をして
こなかったのだろうか。社会保険庁の怠慢が悔やまれる。その挙げ句
に未だ該当者不明の約5000万件の年金納付記録があるという話を
聞けばますます腹が立ってくる。

 今年の冬は原油の値上げの影響から物価上昇が相次いでいる。年金
生活者には厳しい冬である。昔、お金のことを「お足」と言っていた。
お金は足が着いているように勝手気ままに歩き回るからであろう。
 
 お金は「お足」と言うように一カ所に止まっていたのでは、意味が
ない。自由奔放に動き回るからこそ経済に潤いが出てくるのだ。しかし、
現状はどうだろう。過保護とも言えるほど大企業や一部のお金持ちの
ところへお金は集まっている。

 こうしたお金は投資や外国で使われることはあっても、国内では
ほとんど使われていない。それどころか外国に投資したお金はどんな
事情で消えてしまうか分からない。それが今回のサブプライムローン
による大損失ではないだろうか。

 かつて日本の主だった銀行はバブル景気で大儲けをし、その後の
バブル崩壊では大損をして企業倒産の憂き目にあった。その時、政府
は莫大なお金を出して支援した。そのお金は国民からかき集めた税金
だった。

 その銀行が事もあろうに、また外国(アメリカ)に投資して大損を
しているのである。いったい投資したお金はどこに消えたのだろうか。
アメリカのロックフェラーなど大富豪の懐に取り込まれたのだろうか。

 一方、国内に目を向けると生活困窮者が溢れている。お金にまつわる
事件も少なくない。これからは年を追う毎に高齢者が増えていく。
そうした人達の半数近くが無年金者だとすると、どのような対応を
取ろうと言うのだろうか。

 バブル崩壊後の10年間は極度のデフレだった事もあって、給料は
ほとんど据え置き状態だった。しかし、ここへ来て評論家達も口を
揃えて企業の怠慢を口にしている。バブルを理由に労働者の給料を
上げてこなかった。

 外国に投資するお金はあっても従業員の給料は据え置きのまま来た
のである。これは企業経営者だけの責任ではなく、労働組合幹部や
連合などの怠慢という他はない。

 お金は自由に走り回ってこそ意味のあるものなのだ。労働者に適正
な賃金を払う。そのお金が購買力を高め、経済が活性化する。経済が
活性化すれば必然的に税金も増える。少子化の問題にも歯止めがかかる
かも知れない。

 働いても働いても給料は据え置かれたままで来た。中には派遣業と
称して労働者の派遣先から受け取る金の法外な上前をはねていた会社
もあった。大企業でさえサービス残業を強いていた。過労死になる人
さえいたのが実状だった。

 こんなにして稼いだお金の多くはアメリカに取られてしまったのだ。
そのアメリカでは日本以上に生活困窮者が増えている。グローバル
経済という疫病神は多くの人を露頭にさまよわせることになっている
のだ。私たちは何がそうさせているのか、私たちにとって何が大切な
事なのか、もっと足元を見直さなければならない。

 お金は住んでいる地域で回って意味あるもの。それがお足のお足たる
所以なのだ。今のように大企業が吸い上げて、不毛の大地に吐き出す
ような経済では、私たちの生活は救えない。
 


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温暖化問題をすり替えるな

2008-01-21 11:37:22 | Weblog
 先の記者会見で町村官房長官からガソリンなど揮発油税の暫定税率
に触れ、地球温暖化防止のためには今のままの方が良いとも受け取れる
ような発言をしている。

 そもそも暫定税率とは昭和30年代から40年代にかけての高度経済
成長著しい時代に道路網整備のため儲けられたガソリンの上乗せ税だと
聞いている。

 いずれにせよガソリンの消費が伸びれば税収は増え、全国各地に
高速道路が作られ、この道路網の整備費用が公共事業として建設業界
に空前の好景気をもたらした。

 政府自民党にとっては大スポンサーである建設業界に公共事業費と
して税金をばらまき、その一部は政治献金として戻ってくる。また、
道路網が整備されれば自動車の台数が格段に増え、産業界が潤う。

 その上、ガソリンの消費量は更にアップするという、いわば「打ち
出の小槌」のようなものであった。暫定と言うからには、ほんの一時期
だけのものであるはずが、今日まで続いてきた背景には、それだけ
手放せないうま味があったに違いない。

 今になって地方振興策のために道路網の拡充は必要だと言っているが
それでは何故、地方にもっと目を向けてこなかったのだろうか。暫定
税率が問題視され初めて急に地方が地方がと言うのは、如何にもとって
つけたような感は免れない。

 地方の問題は単に道路整備だけの問題ではない。もっと大きな視点
で考え直す必要がある。事もあろうに、これほど大きな問題である
ガソリンの暫定税率を地球温暖化問題にすり替えるとは温暖化問題に
対する冒涜としか思えない。

 地球温暖化問題は自民党からも民主党からも聞こえてこない。社民党
だけが環境税のことを言っているようだ。いったいこの国の政治家達
は地球温暖化問題をどのように考えているのだろうか。

 今日の朝日新聞の朝刊には、スウェーデンの記事が掲載されていた。
この国では与野党足並みを揃えて2030年までに石油由来の二酸化
炭素の排出をゼロにすると言っている。しかもこの国では産業の停滞
を見ることなく二酸化炭素の排出を削減している。

 国の人口や産業構造など異なる事は多いが、参考にすべきではない
だろうか。日本の政治が二流、三流と陰口をたたかれても仕方がない。
今、一番急がなければならないのは、むろん生活の問題ではあるが、
それ以上に大事なことは地球温暖化問題である。

 地球温暖化問題は超党派で議論すべき緊急課題である。自民党が何も
しようとしないのであれば、民主党が主導権を握って今国会で議論
すべき事である。

 民主党は単に人気取りや政権を取ることだけ焦点を合わせるのでは
なく、国際的な問題に目を向けるべきである。その事が遠回りのよう
に見えても政権を担う党への近道である。

 今の民主党、特に小沢代表に政権を取ろうという意欲が感じられない
のは私だけであろうか。その心が連立へと傾かせたと見えなくもない。
ともあれ、他国に遅れを取ることなく、産業界を巻き込んで地球温暖化
問題に取り組まなければ、私たちが住むところでさえ失ってしまう
のではないだろうか。
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アイ・アム・レジェンド

2008-01-16 21:46:18 | Weblog
 パンデミックとは爆発感染のことだ。今、このパンデミックが現実
のものとして懸念されている。既にアメリカ合衆国では来るべき日の
ことを想定して、何年も前から着々と準備を整えている。

 パンデミックを想定しているのは鳥インフルエンザの変異ウイルス
による人から人への感染によるものである。日本国内でも毎年のように
鳥インフルエンザが発生し、その都度、大がかりな防疫体制がとられて
きた。

 それでも人から人への感染者が出ていないことは誠に幸いである。
しかし、近隣のアジア諸国では幾人かの感染者が発生している事を
考えれば、いずれ日本国内でも発生しないと言う保障はなく、海外
渡航者が持ち帰ることも十分考えられる。

 感染者が出た場合、今のところ有効な対策はない。唯一、有効な
対策としては発生源の完全隔離だけである。

 「アイ・アム・レジェンド」と言う映画は、感染源の完全隔離に
失敗し、地球全体がウイルスによって汚染され、多くの人命が失われる
という映画である。

 時代は未来ではなく現代である。アメリカでウイルスを利用した
画期的な癌治療薬が開発される。夢のような治療薬だと思っていた。
ところが、その薬はとんでもないものであった。突然変異したウイルス
は多くの人命を奪い、命を落とさなかったものは凶暴な怪物になって
しまうというものであった。

 人間や犬が怪物になってしまうと言う想定は、映画を映画らしく
面白く見せるための演出であろう。爆発感染とはかくも悲惨で冷酷な
ものであると言うことは良く分かる映画であった。

 しかし、かろうじて生き残ったものこそ哀れであった。世界中で
たった一人の生き残りであったとき、孤独感は耐え難いものである。
その上に、いつ怪物達に襲われるかも知れないと言う恐怖がある。

 私たち生物の進化の歴史は長い。その進化に深く関わってきたのが
ウイルスという不思議な生き物であった。通常、私たちの遺伝子は
転写という働きによって遺伝情報を伝えている。

 それはフィルムと印画紙の関係のように、原型となるものがあって、
それが転写されることによって遺伝情報は伝えられていく。DNAと
RNAの関係である。

 しかし、ウイルスはその働きを持たない。フィルムはあっても遺伝
情報を伝えるべき印画紙を持たないのだ。従って、ウイルスは他の
生物(動物や植物)の体に入り、その生物の細胞内でしか増殖する
ことが出来ないのだ。

 ところが、一度細胞の中にウイルスが入り込むと、その生物の遺伝
情報とウイルスの遺伝情報が混ざり合ってしまう。そして、新たに
生じたウイルスは元のウイルスとは異なったものになることが多い。

 こうしてウイルスは生き物の細胞へ出入りを繰り返すたびに、様々
に形を変え、進化を続けている。

 本来、人にも動物にも免疫という働きがある。しかし、この免疫も
新しく誕生したウイルスにはまったく効き目がない。従って、鳥と鳥
の間を行き来していたウイルスが人の体に入り、まったく新しいタイプ
のウイルスと化したとき、パンデミック(爆発感染)の恐れが生じて
くる。誰の体にも免疫がないからだ。非常に恐ろしいことだ。
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いのちの食べ方

2008-01-11 06:23:30 | Weblog
 とにかく形容し難いほどの強烈な印象を与える映画だった。全てが
食の大工場と言うにふさわしい情景ばかりである。孵卵場から始まる
可愛い命が無造作に選別され、管理された鶏小屋で飼われ、やがては、
ほどよく育ったところで機械の中に取り込まれ、吐き出されるように
カゴの中に押し込まれて解体工場へ。
 次々に毛をむしられ、機械にぶら下がって出てくる裸の鶏たち。
やがて頭を飛ばされ、足を切られ、鶏だった元の形は失われていく。
 
 延々と続くオリーブ畑、ほどよく色付いた頃、機械がやってくる。
木の根元を掴むと激しい振動がオリーブの木に伝わり、実はバラバラ
と土の上にこぼれていく。やがて大きな吸引車がやってきて、落ちた
実を吸い取っていき、一カ所に山積みする。

 大量の農薬を空中から飛行機でまき散らす、翼を広げたような機械
で広大な畑に農薬を散布する、ハウスの中をロボットのように農薬を
撒きながら走行するロボットのような機械。

 大量生産という名の下に、機械化された農場で、あるいはハウスの
中で、農薬漬けのひ弱な野菜が作られていく。

 農業のグローバルスタンダードと評された農業のあり方が問われて
いる。牛や豚のような家畜、鶏や魚や野菜等が、大きな農場や工場で、
そして広大なハウスの中で、あるいは養豚場で、流れ作業のように
生まされ、飼育され、やがて無造作に殺されていく。

 そこには命を頂くという謙虚な気持ちは微塵も感じられない。ただ、
工場で物を作るのと同じような単調な繰り返し作業が続いているだけ
である。鶏も豚も牛もただ人間に食を供するだけの目的で飼われている。
野菜は作られている。

 野菜の収穫に喜びはない。徹底的に管理された工場である。定期的
な農薬散布と時が来れば収穫をし、収穫が終われば枯らして撤去する。
その後は徹底的な消毒が行われ次の栽培を待つ。

 映画の中に音楽もなければ解説もない。流れてくるのは従業員達の
会話と動物たちの悲しげな鳴き声だけである。良くもまあこれだけの
映像を収録したものだと思わせるような映画であった。

 アットいう間に見終わっていた。ただただすごいの一語に尽きる
映画であった。
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考え直したい石油依存の生活

2008-01-08 06:18:40 | Weblog
 昨年来、原油の単価が急上昇している。1バレル100ドルを突破
して130ドルに達するのではないかとも予測されている。すでに
色んな生活必需品が値上がりを続けている。

 日本の企業の多くはバブル崩壊後、デフレ経済の中で値下げ競争を
強いられたり、自ら値を下げて安売り競争を続けてきた。その値下げ
分は自社努力としてリストラや設備投資を先延ばしにして対応して
きた。恐らく企業の規模の大小を問わず自社努力は限界に来ていた
のではないだろうか。

 そんな限界が一挙に崩れ、相次ぐ値上げとなっている。実は赤福の
問題もこうした厳しい経済環境の中での自社努力の現れだったと見え
なくもない。価格に転嫁できないものは色んな創意工夫で努力して
きた。

 さて、原油の取引単位である1バレルとはどんな単位なのだろう。
歴史は石油なるものが取り引きされ始めた頃に遡る。当時はワインの
樽のような容器で輸送されていた。1樽が1バレル、バレルとは樽の
ことだそうで、容積はおおよそ149リットルだそうである。

 と言うことは1.49リットルが1ドルという事になる。この価格
でもペットボトル入りの水よりは安い。高い高いと言われながらも
原油は水より安いのである。

 車の燃料であるガソリンは石油精製工場で様々な工程をたどり精製
されている。この精製工程でも大量の熱エネルギーが使われている。
コストがかかっているのだ。

 従って、ガソリン1リットルが150円でもけっして高くはない。
私達は分不相応な贅沢をしていることになる。私も年末に買い物で
家と店の間を車で何度往復しただろう。大量のガソリンを使っている
という罪の意識を感じながらの行き来であった。

 昨今の原油価格の高騰の背景には、ヘッジファンドという大量の金
が原油を先物取引の対象にしていると言われている。これらヘッジ
ファンドは原油が欲しくて買っているのではなく、原油の値上がりを
見越して大量の資金を投じ、値上がりしたとき売り抜けて利ざやを
稼ぐと言った商売をしている。

 こうした資金は世界経済を大きく変動させる要因になっている。
ヘッジファンドを規制しない限り、当面の原油高騰は治まりそうも
ない。

 今や生活必需品となっている原油を投機の対象にするなど、とんでも
ないことであるが、アメリカ自体がこんな資金を許すような国である。
そのために多くのアメリカ人も私達と同じように苦しんでいる。

 しかし、ほんの一握りの金持ちが経済を牛耳っているのが、今の
アメリカの姿である。アメリカ人自身が立ち上がらなければ問題は
解消しない。今年の大統領選挙でアメリカは変わるのだろうか。

 さて、話を戻そう。原油の高騰は当分治まりそうにない。また、
いずれは枯渇する資源である。プールに満たされた原油をたとえ話に
説明されているが、今の状況はプールに入ってくる原油に対し、出て
いく原油の方が多いのが実状だ。従って、プールに満たされた原油は
少しずつ減り続けている。いつかは底をつく事は間違いない。

 私達は原油の値上がりを機会に石油依存の生活を見直してみたい。
不幸を幸いにする良いチャンスではないだろうか。いずれ来る原油の
ない生活とは、どんな生活だろう。

 全てが自然エネルギーや人力や動物に依存する生活を考えてみたい。
船は風力や潮の流れや川の流れを利用して走行する。大量移送は船に
よるものが中心になる。全ては江戸時代に準ずるような生活かも知れ
ないが、当時とは比較にならないくらい科学技術が進歩しているので
同じことにはならないだろう。

 化学製品は全て回収しリサイクルを行う。多くは自然由来の木や
竹製品に置き換わる。その日暮らしの生活は冷蔵庫を必要としない。
大型スーパーは要らない。その代わり昔のように小さな専門店が
地域にあればよい。買い物は地元の店に歩いていく。

 化学製品が少なくなれば大きなゴミ焼却場は必要ない。こうすれば
必然的に二酸化炭素の排出は少なくなる。便利な生活に慣らされて
来ただけに一挙に変えろというわけにはいかないだろう。原油高騰を
チャンスと捉え、脱原油後の将来を考えてみるのも楽しいのではない
だろうか。

 世界中には、ほとんど原油に依存しない人達が今もたくさん居る
のである。そうした人達をも巻き込んで地球温暖化による異常気象
は日々拡大しているのである。
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テレビ朝日の特集番組

2008-01-07 05:27:26 | Weblog
 ここのところ目立って地球温暖化に関するニュースや特集番組が
増えてきたように思えるが気のせいだろうか。それはそれで嬉しい
ことだが、中には本当に危機を伝えようとしている番組なのだろうか
と疑わしいような番組も少なくない。

 そんな中で正月の特集番組として放映されたテレビ朝日の番組は
非常に真面目で地球温暖化問題を真正面から捉えていた番組として
評価できるのではないだろうか。番組の中では従来、見たこともない
国の事や事象を紹介しており、それだけでも十分評価するに値するが、
その掘り下げ方も正統派と言えるような、真正面から切り込んでの
掘り下げ方には非常に好感が持てた。

 これからは、このような番組がもっと増え、全国規模の温暖化防止
への気運が盛り上がることを望んでいる。そもそも地球温暖化防止と
産業発展が両立するものなのだろうか。

 私は危機的状態が目に見えるようになった昨今の取り組みとしては、
私達の生活水準を下げてでも取り組むべき問題だと考えている。むろん、
一企業や一国家だけの取り組みでは当然不公平が生じよう。世界が
一つになり、全産業や地球に住む全てのものが心を一つにして、化石
燃料への異存を軽減すべきだと考えている。

 それを今日からでも実行しなければ、一部の学者が言っているように、
人類は80年以内に滅亡するかも知れない。そんな秒読みに近い段階に
おいても排出権の取引だとか、新しい油田やガス田の開発などと言って
いたのでは話にならない。

 地球上の人口は、地球が供給できる資源の限界を超えている。それは
食料に端的に現れている。先進国と言われる国々の食糧事情が充足して
いる一方で、最低限の食生活さえ保障されない人がたくさん居る。
いわば私達日本人の食生活は、そうした人々の犠牲の上に成り立って
いる。

 高い輸送費を使い、大量の二酸化炭素を排出し、何千キロもの彼方
から野菜が運ばれてくる。その野菜は、その国の貴重な地下水を大量
に消費して生産されている。

 日本へ輸入された食料品の半分以上がゴミとして捨てられている。
この現実をどう考えれば良いのだろう。コンビニの商品の内、賞味期限
切れで廃棄されるものが大量にあるという。これらは食べられないもの
ではない。ただ単に定められた賞味期限を過ぎただけのものである。
コンビニは売れても売れなくても店舗の品揃えとして並べておくのだと
言っている。そして、期限が来たら遠慮なく捨てられていく。

 これだけ大量の廃棄される食品があれば何千万人もの人を飢えから
救うことが出来るはずだ。このような矛盾があって良いものだろうか。

 今年、北海道で開かれる洞爺湖サミットでは地球温暖化問題が大きな
テーマとなっている。ロゴマークも地球の中から新しい芽が出ていると
いう、地球再生を意識したものだ。

 環境問題は今や特別なテーマではなく、私達が避けては通れない
大きなテーマである。そして、こうした会議の度毎に大切なことが
先送りされてきた。これでは対策にならない。難しいことを無理を
してでも確約をする勇気が必要だ。

 今年の正月は長男夫婦と長女夫婦に二歳になる初孫が加わって
大変賑やかだった。しかし、華やいだ雰囲気の一方で、かつて私達が
味わったこともないような暗い未来が横たわって居るのかと考えると、
素直には喜べない。

 前途洋々に思えていた昭和30年代が懐かしい。あの頃は全てが
右肩上がりの中にあり、先の不安などまったく感じなかった。家族が
増え、家が建ち、家の中には家財道具が充足していった。給料も
上がり、ボーナス時期になると街は買い物客で溢れていた。みんなが
浮かれていた時代であった。

 その付けが今になって回ってきている。お隣の中国でもオリンピック
開催を一つの山場として経済問題や社会問題が急浮上してくるのでは
ないだろうか。あれだけ急速な経済発展の背景に歪みがないはずはない。

 アメリカ経済の斜陽化は地球温暖化現象の末期的な症状を象徴して
いるように思えて仕方がない。

 二歳になる孫のあどけない仕草や片言の話し言葉を聞いていると
可愛くてしようがない。何とか、この子達の将来に禍根だけは残し
たくない、そんな思いでいっぱいである。
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新年明けましておめでとう御座います

2008-01-01 16:32:47 | Weblog
 明けましておめでとう御座います。皆様方には新しい年を迎え如何
お過ごしでしょうか。今日の朝日新聞の朝刊には地球温暖化に関する
記事が大きく掲載されていました。我が家の新聞と言えば朝日新聞
なので他紙の扱いが、どのようになっているのか分かりませんが、
朝日新聞には、ここのところ毎日のように地球温暖化に関する記事が
掲載されています。

 このようにマスコミが大きく取り上げてくれる事こそが、地球温暖化
防止の一助になるものと確信しています。私も岡山県の地球温暖化防止
推進員の研修を受けて以来、何とか一人でも多くの方に深刻さを増して
いる温暖化の状態を伝えたいと講演依頼を行ってきました。

 しかしながら世間の認識は私の思いとは裏腹に、意外に無関心であり
他人事のように考えているような気がしてなりません。そんなわけで、
なかなか講演のチャンスがありませんでした。

 もっと国や市町村レベルで私達を活用して貰いたい、そんな思いを
抱いています。そうした状況にありながらも、昨年は地元の公民館や
福祉協議会やライオンズクラブ、小学校などが講演を受け入れてくれ、
それぞれに対応した話をさせて貰いました。

 今年も私の時間の許す限り、多くの場所で講演を続けていきたいと
思っています。よろしくお願いいたします。

 一方、昨年は政治、経済、社会問題と様々に話題の多い年でした。
こうした出来事の全ては地球温暖化と同じように、私達自身が起こして
きた事ばかりです。けっして自然発生的に起きたものではありません。

 地球温暖化防止をどのようにしていくのかと同じように、緊急性を
要する深刻な問題なのです。お金や物に固執するあまり、本当に大事な
事をみんな見失っているような気がしてなりません。

 年が改まった事を機会に、ぜひともみんなが温かい心を取り戻して
貰いたい、そんな思いで日々を送っています。

 今年2月6日には高木善之さんの講演を岡山で予定しています。ぜひ
とも多くの方々に講演を聴いていただき、地球の環境を少しでも良く
することと、私達自身が物やお金ではなく心こそ大切なものであること
に気付いて貰いたいと願っています。
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