人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

ブルーベリーの収穫本格化

2014-07-23 16:04:39 | Weblog
 早生のブルーベリーの収穫が終わるころから一斉に他の種類のブルーベリーについても収穫が始まる。簡単に収穫とは
言ってもこれが大変な作業だ。何しろ夏真っ盛りである。炎天下での作業はきつい。

 実は同じ穂先でも一斉に熟すわけではなく、従って小さな実を一個一個もがなければならない。ともすれば指先から
こぼれそうになる。これがなかなか難しい。

 幸い今年は早くからネットをかけていたのでイラガの幼虫が付いておらず、刺されることはない。例年ならおっかな
びっくりの状態で収穫している。イラガの毒による痛さは表現のしようがないほどの激痛である。これにやられると
刺されたところが見る見るうちに熱を帯び周辺まで赤くはれ上がる。

 出来るだけ早く毒を消すために近くにあるドクダミを揉んで患部にすり込む。早ければ早いほど良い。先日も何かに
刺され痛かったのでドクダミを揉んですり込んでおいた。すると痛みもほどなく感じなくなり、その上、その日のうちに
跡形もなく消えてしまった。

 ドクダミとはおどろおどろしい名前とは裏腹に特異な薬草である。万能薬と言っても過言ではない。アロエとともに
家庭にはなくてはならない薬草だ。ドクダミの独特のにおいはあまり好ましいものではない。しかし、切り傷でも
虫刺されでもドクダミさえすり込んでおけば短時間で治ってしまう。ドクダミは陰干しをしてせんじ薬として飲んでも良い。

 さて、話は横道にそれたが我が家ではここのところブルーベリーの収穫量が年を追う毎にうなぎ登りに増えている。
種類も多種多様である。今年はジャムだけでなくブルーベリーの酵素ジュースも作ろうと考えている。また、家内は干し
ブドウのように干してみようと提案している。我が家では初の試みである。ブドウの粒より小さい実である。果たして
どのようになるのだろうか。


 ここのところベトナムから輸入したシシャモに汚物が混ざっていたとか、殺鼠剤が混ざっていたと言う報道があった。
そして上海から輸入した鶏肉が消費期限切れの古い肉だったとか食に関する報道が相次いであった。輸入食品ばかりでなく
国内でも何度も類似の報道があり、関係者が逮捕されたり会社が倒産したりした。

 食の問題は古くて新しい問題である。特に日本のように大量の食品を諸外国に頼っている国ではリスクは付き物だ。
そして大量の輸入食料品の半分近くが何らかの形で廃棄されている。廃棄物として処理されている。もったいない以前の
問題である。これらは生ごみとして処分され地方自治体の焼却炉の大きな負担になっている。

 輸入時にお金を払い、そして食べられないまま廃棄物として焼却するときにも焼却のために大量の燃料を使いお金が
必要になっている。何と言う無駄であろうか。浪費であろうか。

 また、輸入食料品の多くはトウモロコシなど穀物であり家畜の飼料となっている。肉を食べるために貴重な食料品が
消費されているのである。肉になるには家畜が食べた物のほんの一部が肉に変わるだけで大半は家畜の排せつ物になって
いる。実に効率が悪い。その上、家畜には命がある。この命を奪い、その肉を食べているのである。罪なことだと言えば
罪なことである。

 そして大量の穀物などを食べさせ、病気にならないように抗生物質を与えて育てた家畜の肉が健全な肉と言えるのだろうか。
テレビをつけると次から次へと、これでもかこれでもかと食べ物に関する番組が目白押しである。食と言うものが命をつなぐ
ものから単に楽しむもの、欲望を満たすものへと変貌して久しい。

 世界には飢えて死ぬ人が後を絶たない。先進国の浪費と開発途上国の飢え、これを比較した時に何も感じないのだろうか。
食の乱れは心の乱れ。昨今の様々な事件を考えるときに何かしら一抹の疑問と不安を感じるのは私だけであろうか。
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移りゆく季節の中で

2014-07-17 04:55:45 | Weblog
 蝉の鳴き声が聞こえ始めました。もう梅雨明け宣言も近いのではないでしょうか。そして一昨日は終業式。
いよいよ学校は夏休みです。梅雨が明け夏休みが始まるころになると必ず聞こえ初めるのが蝉の声です。
いつに変わらぬ季節の移ろいです。今年の梅雨はどうやら集中型の梅雨だったようです。我が家の山の畑
では雨不足です。これで長い長い夏が乗り切れるのでしょうか。少し心配です。今年も連日のような散水が
必要かも知れません。

 さて私の場合、農作業は大抵が早朝です。早朝が涼しく気持ちが良いからです。庭に出てみると子育てを
終えたツバメ達の親子が盛んに飛ぶ練習を繰り返しています。子ツバメ達の体格も飛ぶ力も大人顔負けの
ようです。スイスイとまるで空中を流れるように飛んでいます。春の初めに来たツバメ達に較べ、今の季節に
飛んでいるツバメは体も一回りほど大きく飛翔力も勝るようです。

 畑にいると鳥たちの鳴き声に包まれているようです。優しいさえずり、そして俗にいう鶯の谷渡り
そしてひときわ甲高い鳴き声はヒヨの声のようです。キーキーと甲高い声は餌のありかを知らせている
のでしょうか。ヒヨは夫婦仲がいい鳥です。大抵つがいで飛んできます。今の季節、山にはヤマモモ
里にも色んな果実があります。せっせと来てはついばんで行きます。そういえば今ホトトギスが鳴いて
います。この鳥の鳴き声にも特徴があります。

 さて、畑はいよいよ夏本番と言ったところです。トマトが最盛期。茂った葉の陰に真っ赤に色付いた
姿が見えています。大きなトマト、ミニチュアのトマト。どれも色鮮やかです。そしてキュウリ、キュウリは
日々収穫をしないとすぐに大きくなってしまいます。

 そして食べきれないほどのピーマンやナスビ、ありがたいことです。全ては畑の恵み、自然の恵みです。
インゲン豆も大きくなりました。遅まきだったモロヘイヤも少しずつ成長しています。この野菜は
原産国がエジプトだそうです。刻むと独特の粘りが出てきます。夏には欠かせない栄養豊かな野菜です。
今はどんな野菜も出来るだけ種を収穫して翌年に使うようにしています。植えてみたい方は残った種が
ありますのでお分けします。撒いてみてください。

 今日は変わったタイトルの本を紹介したいと思います。「寄生虫なき病」と言う本です。新聞の新刊書を
紹介したページに簡単な紹介記事が掲載されていました。何とも興味深いタイトルだったので早速、児島
図書館に頼んで取り寄せて貰いました。

 実に驚くべきことが書いてありました。私たちが清潔を求めれば求めるほど、ある種の病気からは逃れる
ことが出来るけれど、反面今まで経験したことのない新しい病気と遭遇することになったようです。それが
抗体の異状反応による様々なアレルギー関連の病気や以上です。花粉症もリウマチもそうだというのです。
著者もその一人で病気を克服するためにわざわざメキシコまで出かけある種の寄生虫を手に入れて病気治療を
試みています。

 強酸の胃の中で生き続けているピロリ菌、発見されて以来、胃癌の原因になるのではないかと除菌治療なる
ものが行われていますが、このピロリ菌でさえ何かの働きをしているのではないかと言われています。人間の
進化とともに長く共生関係にあった菌や寄生虫などとの上手な付き合い方が求められています。そして進化
したとはいえ人間の体自身はまだまだ未開であった時代のままの姿をとどめていると言うことをも一度考え
直してみたいものです。

 そして近年盛んに除菌や抗生物質の開発による治療が行われていますが、何でもかんでも抗生物質に頼る
治療が良いのか考え直してみるべきではないでしょうか。私は一昨年予防注射をしていたにも関わらず
インフルエンザにかかってしまいました。このときは抗生物質も飲まず、ひたすら我慢して治しました。
こうすることによって病後は免疫力が高まりました。病気に打ち勝ったと言う心の自信と体の抵抗力が
高まったようです。

 人間や動物が進化の過程で得た免疫力、これこそがいかなる薬物や治療をも超越する強力な武器なのです。
そして過剰なまでの除菌やあふれる菌や寄生虫から遠ざかる生活を見直してみるべきではないでしょうか。
季節になると必ず多くの人が苦しむ花粉症、これも寄生虫なき生活から来る免疫疾患だとしたら人類は
進化と言うより新たなる病を得るための後退をしているのではないかと思うのですが・・・。

 さて、梅雨が明ければいよいよ本格的な夏、しかし今年の夏は例年の夏と異なるようです。どうやら冷夏の
ように思えます。少なくとも今までのところは冷夏でした。太陽ね劇的な変化がありました。そして太陽活動が
停滞しています。これから寒冷化に向かうのではないかと言われています。それはともかく暑い夏は暑いままに
過ごしましょう。それが野生としての本来あるべき姿です。そして電力やエネルギーの消費を出来るだけ
抑えましょう。それが原発を再稼働することなく済ませることに繋がります。
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ありがとうと感謝の心

2014-07-08 15:16:41 | Weblog
 日本では昔から言葉のことを言霊などと言って、とても大切にしてきた。口から発せられる言葉は
その人の人となりを表すからだ。しかし昨今、子供たちの言葉を聞いているととても聞くに堪えない
ような言葉を使っている。

 私たち世代が子供だった頃は、男子は男子、女子は女子らしい言葉遣いだった。相手を呼ぶときに
呼び捨てなどはしなかった。女子から男子へ呼びかけるときは何々君とか何々さん、男子から女子に
呼びかけるときは何々さんが普通だった。

 今の子供たちはお互いに呼び捨てだ。そして、いつの間に女生徒が胡坐をかいて座るようになった
のだろう。多くの女生徒が平気で胡坐をかいている。世の乱れは言葉や生活態度にも表れ、生活態度は
世の乱れに通じているような気がしてならない。

 如何に自由な世の中とはいえ一定程度の規制や生活指導は必要なのではないだろうか。そう思って
いるのは私だけであろうか。親や学校は何をしているのだろうか。

 さて、五日市剛さんと言う方の名前を聞かれたことはあるだろうか。五日市さんは学生の頃に旅行で
訪れたイスラエルで不思議体験をされている。そのことを友人たちに話したところ、聞いた友人の一人
が録音をしていて、その録音が次第に広まって、いつしか講演依頼まで来るようになったとのことである。

 その不思議体験は下記のサイトに今も掲載されているので興味を持たれた方はぜひとも読んで頂きたい。
これを馬鹿げた話だと受け取るか、いやいやそういうこともあるかもしれないと受け取るかは詠んだ人の
自由であるが、似たようなことは確実にある。

ユダヤ人のおばあさんが教えてくれたツキを呼ぶ魔法の言葉 – 五日市剛

上の文字をコピー&ペーストしてみてください。


 実はこの話とよく似た話がハワイ島に古くから伝わる「ホ・オポノポノ」という話に似通った部分が
あるので簡単に触れてみたい。

 人間は赤ん坊から成長して大人になるまでの間に様々な経験をする。そして両親を初めとする多くの
人と巡り合うことになる。それはその人にとって成長するのに欠かせない、とても貴重な経験の数々であ
る。

 また、生まれたばかりの赤ちゃんはとても自由奔放でわがままだ。おっぱいが欲しいと言って泣き、
おむつが気持ち悪いと言って泣く。実は泣きわめくことによって自らの意志を伝えている。お母さんや
お父さんのことなど一向にお構いなしで泣きたいときに泣いている。

 いくら母親だって忙しい時などに泣かれると、ついついイライラしてしまう。それでも止めることは
ない。こうした状態が三歳ころまでは続く。この間に育児ノイローゼになる母親も少なくない。色んな
育児書を読んでもこれが決定的なものだと言うようなことは何も書いてない。

 俗に親は子に育てられると言う。何故か。実はこうした経験を通して自分と言うものを見つめなおす
チャンスを与えられているからだ。確たる羅針盤のないままに子育てを続けていく中で、自分を育てて
くれた両親のことなどを思い出し感謝の心が生まれてくる。

 子どもが生まれてくるまでは自分と伴侶だけだった中に赤ん坊と言う存在が割り込んでくることで
世の中は自分の思うようには決して行かないものだと悟るようになる。こうして未完成だった人間は
少しずつ成長していく。全ては気付きのチャンスなのだ。

 こうしたことを考えるだけでも自分が何何の意味もなしにこの世に生を受けたのではないことが良く
分かる。この世に生を受けたことは全てに意味があることなのだ。むろん多くの人の中にはそのことに
気付かないままにあの世に旅立ち、再びこの世に舞い戻ってくる人も少なくない。

 チベットの仏教書の中には、この辺の事情を輪廻転生として詳しく書かれている。関心を持たれた
方は是非読んでみて貰いたい。

 話は少し横道に逸れてしまった。こうしたこの世に生を受け赤ちゃんから大人になるまでの記憶は
様々な形で心の中に深い澱(おり)のようになってたまっている。この澱のようなものをインナー
チャイルドと呼んでいる。直訳すれば内なる幼子と言うことにでもなるのだろうか。

 内なる幼子とは何だろう。この解説はさておき、このインナーチャイルドがともすれば頭を持ち
上げてくる。そしてそれが日ごろの行動に表れてくる。時には心を曇らせ見えるものを見えなくして
いる。

 人間が本来持っている素直さが失われてくる。天衣無縫な赤ちゃんを真っ白とすると何度も汚された
状態が今の私たちだと言うことになる。このインナーチャイルドを何とかなだめすかしてやると、それまで
見えなかったものが見えてくるようになる。素直な心を取り戻すことが出来る。

 腹立たしいことがあっても、これも気づきのチャンスだと感謝する心が持てるようになる。それが
気付きであり、その次のステップにも繋がってくる。全てのことにありがとうと素直に言えるように
なると怒っていた相手もその怒りの矛先の持っていく場がなくなってしまう。

 五日市さんは、その言葉を感謝の言葉とありがとうだと伝えている。そして絶対に汚い言葉を
使ってはいけないと戒めている。汚い言葉は相手を傷付けるだけでなく自分にも跳ね返って来るからだ。

 ホ・オポノポノでは「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」と繰り返し
心の中で呟くように言っています。意味など考える必要はないようです。ただ呪文のように「ありがとう
ごめんなさい、許してください、愛しています」と言えば良いようです。

 そうすることが幼いころから溜りに溜まってきた心の中の幼子を優しく包むことになるようです。
幼いころからの体験が過酷であればあるほどインナーチャイルドは強い反抗心を持っています。
その幼子の心を慰めてやることによって頑なだった自分の心が解きほぐされていくのではないでしょうか。

 「ぼくは、わたしは本当はあの時、母さんに優しくしてほしかったんだ」その思いが深い澱となって
心の中に溜まっているのです。今はただ優しくごめんなさい、許してくださいね。今も変わらず愛して
いるよ。ありがとう。そう心の中に声をかけてやってください。そうすればいつしか穏やかな自分に戻って
行きます。そして五日市さんのように思うことが必ず実現するようになるという不思議が待っています。

 それは私自身の体験の中ではっきりと言えることです。そしてもう一つ、私自身が感じている
ことなのですが、思いついたら吉日、迷わずに行動することです。つまり直観力、この直観力の中に
秘めたる力があるような気がします。どうやら気付かないだけで人間は優れた能力を持っている
ようです。しかもその能力は全ての人が共通に有しているもののようです。神は平等にこの世の中を
作り給うたと言うべきでしょうか。

 そしてもう一つ、肉体の繋がりは遺伝子と言う原始から連綿と続くものの中にありますが、肉体は
あくまでも精神、心、魂と言うものの乗り物に過ぎません。しかし、乗り物は似通ったものに見えて
魂は個々それぞれのもの、例え親兄弟と言えども関係はありません。

 肉体は魂にとって仮の拠り所、夫婦がそうであるように互いに異なる一個の独立した者同士が互いに
寄り添って生きているのです。そう考えると親が子を思うように出来ないことも、全く異なる生活を
してきた夫婦が新しい二人の関係を築いていくことが出来ることも理解できるような気がします。
私はそのように考えていますが皆さんは如何でしょうか。

 ありがとうと感謝の心。心の平穏を取り戻すために・・・。
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我が家の畑は夏真っ盛り

2014-07-08 13:33:16 | Weblog
 我が家の畑は夏真っ盛りです。ここのところ蒸し暑くやっと夏らしくなってきたようです。昼間はともかく今までは
夜の気温が低すぎたような気がします。そんなわけで果樹畑の方ではスモモの収穫。雨が降らなかったことが幸いして
腐って落ちるものも少なく、ほどほどの収穫でした。食べ残したものは砂糖と一緒に漬けこんで酵素ジュースにしました。
一昨日の夜、一時間ほどで仕込みを終えました。

 野菜畑では所狭しと色んな野菜が枝を広げています。中でも今年はピーマンが当たり年のようです。少し長めの皮の
柔らかいピーマンです。それこそ次から次へと我が家だけでは食べきらないほどの収穫です。インゲン豆も本格的な
収穫期に入りました。こちらも家で食べるには十分すぎるほど。そしてナスビ、ナスビも何度収穫したことでしょう。
キュウリも毎日のように収穫しています。そして次の苗が既に待機中です。でも、まだまだ、これからも収穫できそうに
元気です。

 トマトがそろそろ色づき始めました。昨日はミニトマトと大きなトマト二個を収穫しました。我が家の野菜は買った
ものよりも、他から頂いたものよりも何故か甘いのです。きっとEMによるものだと思っています。この雨で一段と
勢いづいた野菜たちが、今を盛りに成長を続け次から次へと実を付けています。

 この旺盛な成長力、目に見えてのEM効果を実感しています。ここ一二年で畑が確かに変わりました。そして今日は
目から鱗のような話をもう一つ。実は先日、海に行って海藻を拾ってきました。大半は海岸に打ち上げられたアマモです。
渋川の海岸にはたくさん打ち上げられています。これを拾ってきて畑に敷いています。

 昔から島や海辺に住んでいた人たちは山の斜面や海辺の畑でサツマイモ等を作ってきました。そして海藻を肥料として
畑の土にすきこんで来ました。甘いトマトで有名な高知県の専業農家では塩の力を利用しています。私も漠然とは見聞き
していたことですが、すべては理屈あってしてきたことのようです。

 当たり前のことながら、このように畑にもミネラル塩が必要だということを改めて知りました。塩と言っても塩分だけが
必要なのではなく、塩と一緒のにがり成分、つまりミネラルが必要なのです。EM活性液やEM発酵液を作るときにも塩を
少しだけ加えます。イオン交換樹脂で作った純粋な塩ではなく、にがり成分を含んだ天然塩が良いのです。つまりカリウムや
マグネシウムなどミネラル成分が必要なのです。農業用資材として販売しています。このことも初めて知りました。

 そして更に必要なのは鉄分、イオン化した鉄分が必要なのです。これも使い捨てカイロとクエン酸で作れます。こう考えて
くると生物が自然発生したと言われている原始の海にあふれるほど存在していたもの全てが必要なものだということが分かり
ます。考えてみれば至極当たり前のことなのですが。

 人間の血液に含まれているヘモグロビンも鉄が主成分です。微生物や動植物の体は原始の海に有り余るほどあったものを
使って体(細胞)の組織を作っていったという進化の歴史を知ることが出来るのです。そして、あまりにも当たり前で忘れては
いるけれど、そうしたものが微生物や動植物の成長や生きていく上では今も必要なのだと言うことが良く分かります。

 自然に目を向けること、そして進化の過程をたどれば今の私たちに決定的に欠けていることは何なのかが見えてきます。
沖縄県はどうやら特別警戒が解除されたようです。どうかこれ以上の台風被害が及ばないことを願っています。
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戦争への一里塚

2014-07-03 06:21:34 | Weblog
 何日ぶりかの本格的な雨。いつも感じることだが雨に勝るものはない。連日の灌水にも関わらず畑が潤うことはほとんどない。
灌水と同じくらい蒸発していくからだ。そして水道で散水するくらいでは、畑にとって十分とは言えない。長時間散水をした
場所でも掘り返してみると底の方はからからに乾いていることも少なくない。ましてや植木鉢ともなると表面は潤っているように
見えてもいったん乾燥してしまうと水は簡単には浸透していかない。大半は表面を流れてしまう。

 雨のあと畑に行ってみると見事なほどにキュウリやナスが大きくなっていた。たった半日ほどの雨の力によるものだ。本当に
雨はありがたい。そして自然は偉大である。それにしても人間は何と愚かなる動物であろうか。

 本来なら国会で審議すべきことが閣議決定と言うルールー違反でまかり通ってしまった。たった二党間の合意によるものだ。
他党は蚊帳の外であった。集団的自衛権に関してはそれらしい報道を避けてきたNHKが豹変したように報道を開始した。
何かしら二党間の合意が成立するのを待っていたかのように。他の新聞の報道は定かではないが、終始一貫報道を続けてきたのは
朝日新聞、論調は集団的自衛権反対であった。
 
 安倍首相がどのような言葉を選ぼうとも、これで戦争の危険は、より強まったと言わざるを得ない。多くの日本人は戦争の悲惨さを
知らない。しかし、知れば知るほどいかなる戦争であろうとも悲惨である。自らが傷つくこともあれば相手を傷付けることもある。
戦地へ行けば殺すか殺されるかである。国内であれば法を犯すことになる武器を携えて、時には誰彼となく銃を向けることになる。
それが戦争と言うものであろう。ゲームではない。自分の血も流れれば相手の血が流れることもある。苦しみながら死んでいくことも
あるだろう。

 二十世紀は戦争の世紀であった。西欧列強は相次いでアジアに進出し、多くの国を支配下に置き植民地化していった。アジアで
唯一と言って良い日本は、かろうじて植民地化を免れた。その代り明治維新以降、欧米に追いつけ追い抜けと軍備力を強化し戦争への
道をひた走った。その結果、日清、日露の戦争から更には朝鮮や台湾を支配下に置き、満州を領有化し大陸への進出を図った。
そして支那事変を経て、やがて米英と正面から向き合うような太平洋戦争へと突入していった。

 ヨーロッパでは第一次世界大戦から第二次世界大戦へと突入し、多くの都市が破壊され多くの人命が失われた。日本は自国民だけで
なくアジア各国の人達を巻き添えにしていった。人類が行ったもっとも悲惨な出来事が集中した時代であった。日本国憲法の精神も
そのような世界の歴史を終わらせたいと言う強いメッセージを込めたものであったと解釈している。世界の人々が戦争の恐怖や悲惨さを
体験し平和のありがたさを噛みしめた時代であった。

 その平和憲法をしり目に解釈をねじ曲げて内閣と言う行政のトップが戦争への道を再び切り開こうとしているのである。冷静に考えれば
狂気の沙汰と言わざるを得ない。行政は行政であって司法でも立法府でもない。法を定めるのも法の持つ意味を解釈するのも司法や国民の
代表が集まる国会の仕事である。行政府は定められた法を粛々として履行していく立場である。その立場のものが国家の規範たる憲法の
精神を曲げて何かを行うなど言語道断と言わざるを得ない。これでは行政も立法も司法も全権を掌握した独裁国家と言わざるを得ない。

 私たちは先の選挙で安倍政権に、あるいは自民党にそのような権限を与えるべく選んできたのであろうか。自民党に票を投じた多くの人は
今の経済状況を何とかしてほしいと、ただそれだけの理由で一票を投じて来たのではないだろうか。表現は悪いがこれでは火事場泥棒の
ようなものである。

 そもそも同盟国であるアメリカは得体の知れない国である。かの太平洋戦争突入時、既に真珠湾攻撃があることを知りながら迎え撃つ
べきなのに何の手も打たなかった。理由は厭戦気分の高かった国民を鼓舞するため、わざと真珠湾攻撃を攻撃させたと言うことが戦後に
なって明らかにされた。公文書の公開によるものであった。

 また、アフガン侵攻のきっかけとなった9・11のツインタワービル破壊など同時多発テロも未だやらせであったと言う噂が絶えない。
イラク戦争の時にはイラクが大量破壊兵器を隠し持っていると言う難癖を付けて攻撃を始めた。今のオバマ大統領がそうだと言うのではない。
もっと大きな力が背景にあって、そうさせているとしか思えないようなことがたくさんある。それらは闇の中なので誰も知らないし、
報道もなされない。アメリカは表面こそ民主国家に見えるけれど、その本質は軍需産業が国を動かしている国である。

 そんなアメリカと同盟を結んでいながら直接戦争に巻き込まれなかったのは、ひとえに憲法九条があったからだ。アメリカは朝鮮戦争の
とき日本に平和憲法を押し付けたことを後悔した。何故か?、日本を朝鮮戦争に動員することが出来なかったからである。そしてベトナム戦争
当時、沖縄や本土内の米軍基地を拠点にしながらベトナム戦争は遂行された。同盟国と言ううだけで韓国兵は戦地へ動員された。日本の
自衛隊はベトナムへ行くことはなかった。憲法九条があったからである。日本人の命をくだらない戦争屋が仕掛けた戦争に動員されなかった
のは、ただただ憲法九条のお蔭である。

 私たちは私たちの子供や孫たち、あるいは自らも再び戦地に足を踏み入れるような悲しい思いを繰り返してはならない。そうすることが
私たち大人の責務であろう。そう思いながらうっとうしい梅雨空を見上げている。戦時中に、この世に生を受けた爺の心からの思いである。
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