人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

みんながいて自分がある

2016-04-18 05:28:11 | Weblog
 かつて二度訪れた温泉地が三カ所ある。一つは玉造温泉であり、一つは湯村温泉、更に一つは
城崎温泉である。いずれも日本を代表する有名な温泉地だ。

 こうした温泉地を訪れて驚くのは、その変貌振りだ。特に玉造温泉と湯村温泉には驚かされた。
その理由は、ビルディング状の温泉ホテルが林立していたことだ。都会のホテルかと思うような
巨大なビルが立ち並んでいた。看板がなかったら温泉旅館とは思えない。

 かつて就職して間もない頃、慰安旅行で訪れたのが玉造温泉だった。その頃は、一年に
一回は慰安旅行と称するものを行っていた。留守番要員を残し、所属する課のもの全員が
出かけていた。親睦を兼ねての旅行であった。古き良き時代の話しである。確か会社からも
幾らかの補助金が出ていたように記憶している。

 貸し切りバスでの旅もあったし、旅行会社が企画する旅行もあったとは思われるが、その頃の
我々の旅行と言えば大抵は旅行会社にコースを組んで貰い、渡された時刻表を見ながら、鉄道や
地域を走るバスを乗り継いでの旅であった。北陸へ旅したときは、夜行列車の中で仮眠を取り
翌朝になって目的地へ着いた。

 そうした慰安旅行の一つに玉造温泉があった。訪れた玉造温泉は、それまで旅行というもの
の経験が、ほとんどなかった私にとって、かつて見たこともないような華やかで賑やかな
温泉地だった。

 川を挟んで両岸に和風の温泉旅館が軒を接するように建ち並んでいた。そして、温泉旅館の
他に、土産物店や遊技場もたくさんあった。スナックがあり、路地を一歩入れば、温泉地には
つきものの怪しげな店やストリップ劇場もあった。

 まるで大人のワンダーランドの様相を呈していた。温泉地に着くなり温泉に入り、その後は
恒例の宴会、どんちゃん騒ぎの宴会だった。その頃は、上司も部下もさしたる年齢差もなく
みんな二十代、三十代の元気盛りの若者だった。

 この頃の温泉地はと言うと、大抵のところが男性向けの温泉地だった。風俗関係の規制も緩く
売春防止法施行下にあったとは言え、そのような施設が完全に消えていたわけではなかった。
それを売りにしなければ、集客が出来なかったという事情もある。また、それが目的での男達の
旅行でもあった。

 こうした温泉地が少なくなったのは、家族旅行なるものが旅行の主体を占めるようになって
からの事であった。家族客を呼び込むために風俗と呼ばれるものは、片隅に追いやられていき
健全な温泉地に、いつしか変貌を遂げていた。

 でも、今もそれを売りにしている温泉地が全てなくなったわけではない。それはそれで
需要があり、今も残っているようだ。人間界と風俗は切っても切れない関係にあるようだ。
こうした風俗と縁を切りながら、うまく乗り切った温泉地もあれば、次第に衰退していった
温泉地もある。

 そういう場所を利用する年齢ではなくなったが、何となく全てが消えてしまうのは惜しい
ような気がしてならない。こうした場所は、こうした場所で温泉地にはなくてはならない
ものだと思うのは昭和の古き良き時代を思うノスタルジーであろうか。

 そして宴会がお開きになると、徒党を組んで三々五々、街に繰り出す。ほとんどのものは
そのまま寝てしまうのではなく、街に繰り出すのが恒例であった。土産物屋に入り、遊技場に入る。
立ち並ぶ土産物屋で店員をひやかして歩くのが楽しみだった。むろん相手も心得ていてお客との
会話を楽しんでいた。本当に素朴でゆったりとした時間が流れていた。

 土産物の中にはその地方でしか作れないものや採れないものもあった。玉造温泉は名前の通り
メノウの「まが玉」などの加工品が主たる土産物であった。この地は古くからメノウの産地で
あった。

 この懐かしい玉造温泉を本当に久々に訪れた。最初に来たときは独身時代だった。そして
次の時は三十年以上を経て家内を伴っての旅であった。しかし、その変貌振りに驚いた。

 川の流れも下流の桜並木も昔のままだったが、街が異常に寂しかった。色あせたカーテンの
小売店は店を閉めて久しい感じだった。そして、周辺には見上げるような温泉旅館が建ち並んで
いた。

 私たちは星野リゾートが開発したという和風の建物が特徴の旅館にした。早速、町歩きを
したのだが、それらしい土産物店は皆無だった。実に寂しい街の風情であった。昔の街を
知っているだけに、がっかりさせられた。

 巨大な温泉ホテルが全てを取り込んでしまった結果である。宴会が済めば、館内のカラオケや
スナックに。ゲームを楽しみたいものはゲームコーナーへ。そして土産物は館内の売店でどうぞ
と言うわけである。かつてのような温泉地らしい楽しみは何もなかった。

 これでは街が寂れるはずである。かつての街の賑わいはどこへ消えたのだろう。こうした姿を
一将なって番卒枯れるという。巨大旅館の一人勝ちである。恐らくは生き残りをかけて競って
巨大旅館にしていったのであろう。その結果、かつての土産物店も街の賑わいも次々に消えて
しまった。

 この逆をと言うか、伝統を守り続けているのが城崎温泉ではないだろうか。ここには温泉地
らしい、かつての賑わいがあった。むしろ、私たちが慰安旅行で訪れた時より賑わっていた。
若い男女、家族連れ、老夫婦、老若男女が外湯を大勢行き来していた。この温泉地もかつては
大人のための温泉地だった時もあったようであるが、うまく外湯を活用し、健全な家族向けの
温泉地へと変貌を遂げたようだ。

 本来の温泉地は、これでなければならないと思うのは私だけであろうか。奇しくも紹介した
玉造温泉、湯村温泉、そして城崎温泉は、ともに温泉街の中心を川が流れている風情のある街
なのだが。

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相次ぐ地震そして地殻変動

2016-04-17 05:11:30 | Weblog
 それにしても驚かされたのは熊本での地震だった。まさか熊本でと言うのが私の正直な
感想である。地元に住んでいる人でさえ、まさか自分の住んでいるところがと言っている。
そして、私にとって社会人としての第一歩が熊本県だっただけに他人事とは思えない。

 専門家でさえ意外に思ったのではないだろうか。二本の大きな断層はあるようだが
ここ百数十年、そのような地震が生じたというような記録がない。熊本城も築城依頼の
石垣が無残にも崩れてしまった。

 忘れられようとしているが、近年には八代海を挟んで向かいの雲仙では普賢岳の大噴火が
あり、過去には、この地で山塊の大崩落があって、それが原因で対岸の熊本地方に津波が
押し寄せ大きな被害もあったことはあった。しかし、まさか直下での地震など想像もして
いなかったのではないだろうか。

 さて、先の東日本大震災では大きな地殻変動があり、陸地が東に動くと同時に大きく
沈み込んだ。その沈み込んだ陸地が、すごいスピードで年毎に盛り上がっていると言われて
いる。原因は良く分からない。再び大地震が発生する予兆なのか、それとも、かつて経験した
ことのないような異常現象なのか。

 実は、今回の大地震を通じて知ったことだが、日本列島に沿うような形で中央構造線なる
ものが存在し、その構造線の西の端が九州のほぼ真ん中当たりを横切っている。どうやら
今回は、その構造線に沿うような形で地震が群発しているように見える。その構造線上には
阿蘇山もある。

 こうした地震を通じて今一番懸念されているのが、南海地震や東南海地震と言った歴史にも
残るような大地震だ。かねてより大分県沖合の地震が生ずると、南海トラフ地震が誘発される
のではないかと懸念されている。

 更には東南海、東海地震へと連動する可能性もある。こうなると、まさに日本列島は壊滅的な
被害を受けることになり、まさに国難とも言うべき事態となることは間違いない。

 中央構造線は四国の北岸を横切り、紀伊半島に達する。そして紀伊半島を分断するように
横切ると、フォッサマグナに達する。フォッサマグナは糸魚川沿いに南北に延びる太い帯状の
地殻構造である。実は日本列島を海老反りのようにさせているのもフォッサマグナだ。

 日本列島は、太平洋側から常に強い力で押され、大陸の皺のような存在で形作られたもので
ある。大陸の前に出来た皺そのものが、日本列島だと言っても良いだろう。それだけに複雑な
地殻が多数の断層を作り、それらが常に地震を引き起こしてきた。地震列島と言われる所以で
ある。

 複雑な地形と断層、そして火山噴火は歴史上にも多くの悲惨な天災をもたらした。私たちの
祖先は現代のような知識のないままに、これらの天災を天罰だと言って恐れてきた。それだけに
自然を敬う信仰心も厚かった。

 今、日本や諸外国の人間世界を考えるときに、こうした自然が、私たちに何かを分からせたい
知らせたい、悟らせたいと思っているような気がしてならないのである。一部の人だけが富の
大部分を握るようなことがあってはならない。今こそ目覚めるべき時ではないだろうか。

 もっと人間は、謙虚でなければならない。恐れを知らなければならない。生活が自然から
遠くなればなるほど、人間は不遜になり、おごり高ぶっている。旧約聖書に書かれている
バベルの塔のことを思い出す。そして、宮崎駿監督作品に共通するメッセージのように
自然に寄り添う形での謙虚な生活が望まれる。

 話しは横道に逸れてしまった。ともあれ、これからも、どこで、どのような事が起こるか
分からない。そんな時代に突入したようだ。被災地に温かい手が差し伸べられ、一時も早い
収束を願っている。被災地の皆さん、助け合ってがんばって下さい。
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共に栄える社会を作る

2016-04-14 05:42:10 | Weblog
 以前にも書いたことがあると思うが、独りよがりが、どれほど罪で罰当たりな
ことか書いてみたい。時にパナマ文書なるものが明らかになり、大きなニュース
になっている。

 ほんの一握りの人が世界の富の大部分を握っていることは、以前からも明らかに
なっていた。しかし、その実態は定かではなく、何となく想像の世界で語られるに
過ぎなかった。

 しかし、この度、税金逃れのタックスヘイブンなるお金が、ある国に横流し
されており、悪用されていることが明らかになった。それがパナマ文書である。
タックスヘイブンなるものはパナマにペーパーカンパニーを作り、そこへお金を
横流しにする仕組みである。パナマは税金が安い。明らかに税金逃れの仕組みだ。

 従って、ある国というのはパナマという国のことになる。税金逃れをした
莫大なお金は、パナマの法律事務所を通じて、この国の金庫に保管されている。
スイスという小さな国も永世中立国という立場を利用してマネーロンダリング
という犯罪に関わるようなことをしてきた。

 こうしたこと自体は、即法律違反とは言えないようなケースもあるようだが、
税金逃れという点において法律を逸脱しているし、ましてや明日の生活さえ
ままならない人にとっては、あるいは、きちんと法律に基づいて税金を納入
している人にとっては、モラル上も許しがたいことだ。

 国や地方自治体は国民や企業から集めた税によって運営されている。税金の
納入は、企業なり個人の義務でもある。私のような年金受給者でさえ税金は
所得税という形で徴収されている。年金が支払われる際、天引きされている。
個人年金も同様である。

 しかるに有り余るお金を持ちながら、それらの収入から税金は支払われて
いない。そんな不平等があって良いのだろうか。どうやらお金持ちになることは
如何にして税を逃れるかの工夫にあるらしい。

 今、大騒ぎになっているのは、単なる大金持ちの税逃れの話しだけではない。
実は各国の首脳と言われている人たちの中にも、本人が行っているケースもあれば
自分の近しい親族にやらせている場合もあって、これらが大きな問題となって
いるのだ。

 パナマ文書なるものが暴露された背景には謀略説もあるようだ。たとえ謀略に
よって、わざと情報が流されている場合があったとしても、事実は事実として
受け止める必要がある。何万件にも上るような情報を、その目的のためにだけ
ねつ造できるわけがない。

 結果、世界の首脳陣は、暴露記事がいつ我が身に降りかかって来るかと、実は
戦々恐々としている。

 つい先日、世界で一番貧しい大統領として前のウルグアイ大統領が来日した
ばかりである。金、金、金と日々お金に追い回されている私たちに、あなたは
本当に幸せですかと問いかけている。

 今、田舎も地方都市も過疎化の一途を辿っている。この現象は日本だけでなく
開発地上国も同じ状況にある。つまり現金を持っていなければ、生活していく
ことが出来なくなっている。

 従って、現金を得るために人が都会へ集中するようになっていく。田舎に居た
のでは現金収入を得るチャンスがないからだ。そして、いったん便利で快適な
生活を体験してしまうと、更に良い生活をしてみたいと思うようになってくる。
人間の欲がそうさせる。

 かつて現金収入を当てにしなくても生きて行く手段はあった。どんな田舎でも
塩と土地さえあれば、生活できるだけの基盤があった。自給自足という生活だ。

 田畑で野菜や米や麦、大豆を作り、塩で漬け物を作り、味噌や醤油を作る。
タンパク源は川で魚を獲り、山でウサギやイノシシやシカを獲る。たまには
物々交換で海の幸を手に入れる。

 実は、石器時代から縄文時代を通じ、日本人は1万数千年もの長きにわたって、
こうした生活をしてきた。文明社会という、わずか数千年の何倍もの長い時代を
同じ生活を繰り返しながら生きてきたことが発掘によって明らかになっている。

 文明の中にどっぷりつかってお金に追い回されている生活と、価値観は異なるが
原始とは言え食べるに事欠くこともなく、平和に安穏として生きて行く生活と
どちらが良いだろうか。

 今や社会の仕組みは、富めるものは更に富み、貧しいものは更に貧しくなって
いくというシステムの中にある。このシステムと決別しない限り、全ては解決
しない。個人だけでなく、国と国の関係も良く似ている。貧しい国は必死に
なっているが、グローバル化という先進国に都合の良いようなシステムの中で
貧しさの中で必死に抜け出そうとしている。

 私たちの生活は、それぞれの種族や国によって異なるもので良い。自然を相手に
生きているものもいれば、機械に囲まれた生活環境の中で生きて行くものもいて
トータルが地球人となる。

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ピロリ菌始末記

2016-04-13 05:19:44 | Weblog
 かれこれ、もう十数年前になるだろうか。ピロリ菌なる細菌が猛烈な酸の中でも
生息が可能なことを知ったのは。

 それまでの医学的常識は胃の中の強い酸の中では、どのような細菌も生きて存在
することは難しいとされていました。しかし、実はそのような環境でも生きていける
ものがいたのです。

 ピロリ菌なるものは、胃酸から身を守り、胃の中で生息し、胃壁を壊して癌などの
原因を作っているらしいことが明らかになりました。それまでの常識の常識を覆す
ような大発見でした。

 ピロリ菌なる微生物は、ウレアーゼという酵素をはき出し、これによって胃壁を
強烈な酸から保護するための尿素をアンモニアと二酸化炭素に分解し、分解した
アンモニアによって菌自らの身を守っているらしいことが明らかになりました。
実に巧みなシステムを作り出していたのです。

 一方、人間の体は、このウレアーゼという酵素を含むピロリ菌のはき出す毒素に
よって、著しく胃壁を傷つけられるらしいのです。本当にやっかいな微生物です。

 さて、このピロリ菌ですが、衛生状態が良くない環境で生活していると感染率は
高まるらしく、私のように戦後の貧しく、また上水といわれる水道水の普及して
いない時代に成長したものは、非常に感染している率が高いらしいのです。

 幼少期の私の生活環境は井戸水でしたから、こうした環境から感染したものと
思われます。とすれば既に何十年という長い歳月を共生してきたことになります。

 振り返って見れば、私は子どもの頃から激しい胸焼けに悩まされてきました。
また、長じて胃の検診などを受けると、必ず指摘されていたのが慢性胃炎でした。
バリウムを飲んだ後で撮ったX線写真では、胃壁が著しく縮んでいる様子が確認
できました。

 相当、荒れて胃が萎縮している状態が、X線写真でもはっきりと現れていました。
一昨年の定期検診時に担当医からピロリ菌退治の提案を受けました。しかし、何だか
踏み切れず、参考文献などを読むと、薬によるピロリ菌退治も完璧なものではない
ようなことが書かれていました。

 何もきつい抗生物質を飲んでまでピロリ菌退治をすることはないと考え、一年間は
ピロリ菌抑制に有効だという乳酸菌を飲み続けました。

 しかし、今年の検診で、またまた胃壁の損傷の指摘を受け、担当医からピロリ菌退治を
再び勧められました。胃壁の損傷は胃がんになりやすい、その要因を作ると言われたのです。
もう癌年齢はとっくに過ぎています。

 リスクの多い胃がんを防ぐという観点から、ピロリ菌退治と言う重い腰を上げたのです。
実は病気でないとピロリ菌治療を受けることが出来ません。保険の適用が効かないのです。
従って治療が必要との医者の判断を受けるために内視鏡検査が必要だったのです。

 喉に麻酔をしていても、吐き出しそうになるのを必死に我慢して内視鏡検査を受けました。
実は昨年もピロリ菌退治を勧められながら、避けていたのは、この内視鏡検査がいやだから
でもありました。

 こうして、まずは胃の内視鏡検査を受け、その際に切り取った胃壁からピロリ菌の生息を
確認しました。そして、その結果を見て一週間分の薬の処方を受けました。もっと副作用が
あるものと覚悟していましたが、さしたる自覚症状もなく、普段より便通も良く快適な
一週間でした。

 排泄する便の中に大量に死んだピロリ菌たちのことを意識していました。こうして薬を
飲み終えて一ヶ月くらい後に、結果を見るための検査を受けました。

 胃が空の状態で吐く息の中にアンモニアが検出されないかという検査です。ピロリ菌が
残っていれば、ピロリ菌が尿素を分解し、アンモニアが検出されるはずだからです。

 その結果の数値は約0.1パーセントと記録されていました。基準値の範囲内で見事に
ピロリ菌退治は成功したという結果でした。

 こうして長らくの間、私と苦楽を共にしてきたピロリ菌とは決別しました。思えば実に長い
つきあいでした。そして、ある意味、私の暴飲暴食を抑制してくれたピロリ菌でした。

 しかし、この年齢になって、もう暴飲暴食は体力的にも出来なくなりました。ピロリ菌の
抑制力を借りなくても肉体年齢が、それを許さなくなったのです。

 晴れてピロリ菌とも別れ、今はひたすら胃の修復を待つばかりです。来年のX線検査は
どのようになっているでしょうか。

 検査結果を伝えてくれた担当医からは、これで胃がんのリスクは下がりましたが、他の癌の
こともありますから、必ず定期検診は続けて下さいねと言い渡されました。

 むろん検診は毎年受けるつもりでいます。受けたからと言って癌に罹る率が下がるわけでは
ありませんが、いわゆる早期発見です。望むべくは、癌などに罹ることなく、誰にも迷惑を
かけることなく、あの世へ旅立つことが私の希望です。ピロリ菌さようなら。
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偶然に見えて必然

2016-04-08 05:36:04 | Weblog
 私たちは、実に変化の激しい時代に生きています。誰かが言っていましたが、先の見えない
この時代を不確実な時代(本当の意味は違うかも知れませんが)と言っています。

 しかし、私にはそうは思いません。私たちの歴史は、過去から今日まで途切れることなく
続いています。つまり過去の事績の積み重ねの上に、今日があるからです。

 その一例が、地球温暖化による様々な気象異変です。先の福島の原発事故にしても、原子力
という非常に危険で、コントロールが難しいものを使い始めたことに起因しています。

 生じたことも偶然ではありません。見通しがきかなかっただけで、全ては必然なのです。
そうした偶然に見えて必然なるものは、私たちの身の回りにいくらでもあります。

 それが、人と人の関係ではないでしょうか。70億人もの人が地球上にいても、生涯に
巡り会うことの出来る人は、ほんの一握りに過ぎません。

 生まれて初めて巡り会うのは両親です。特に母親とは、密接不可分な関係にあります。
だから子どもにとっても、母親にとっても、母子の関係は特別なものだと思うのです。

 残念ながら、こうした母子の関係や近親者との関係に罅(ひび)が入り、様々な事件が
起きています。何かが崩れ始めているとしか思えません。不幸な戦争という時代には
親子や兄弟、親族と言った関係は、格別なものでした。誰もがいとおしいものと思って
いました。

 ところが、時代が良くなり、生活が安定し、成熟社会と言われるようになると急速に
親子の関係までもが、ぎくしゃくするようになってきました。何故なのでしょうか。
命というものを愛おしく思う心が失われてしまったのでしょうか。

 私は定年後、様々な体験をしていく中で、この世の中で、偶然などあり得ないと
確信するようになりました。それは不可思議な体験の積み重ねの中から、そう感じる
ようになったのです。

 まさに、その一つが人との出会いです。特に児島市民交流センターと言うところへ
勤務し始めて、そのことを強く意識するようになりました。出会う人の中に圧倒的に
特定な姓の人が多いのです。

 姓に関して言えば、この地域に特定な姓が多いと言うこともあるでしょう。しかし
その数が半端ではないのです。これほど大勢の人が居ながら、数えてみると意外にも
それ以外の姓の人は極端に少ないのです。

 そもそも出会いからして唐突な出会いも少なくありません。その出会いが、実に
フレンドリーで、しかも、ずっと以前からお互いが旧知の間柄だったような気がする
のです。それは私だけの事ではなく、後々に話し合っていて分かったことですが
相手の人も同じように感じていたようです。

 そして、それらの人は誰か知り合いを介して繋がっていたとか、自分のよく知っている
地域や人との繋がりがあったという人が少なくありません。そうだったのかと思い当たる
事が少なくないのです。

 いつかどこかで巡り会った人、過去にどこかで出会ったことのある人、必ず、こうした
人とは巡り会うようになっているような気がするのです。舞台に例えて言えば第三幕の
どの辺に、この人が登場してくる。何か、そのような感じがするのです。

 相手の人にとっても同じ事でしょう。私という登場人物が、やはり彼にとって、あるいは
あるいは彼女にとっては、第二幕目に登場してくる人物だったのかも知れません。

 この地球上では、更に言えば、この日本の岡山県という狭い土地で、様々な人の舞台が
錯綜しています。主人公は自分で、それぞれ脇を固める役者が周辺の人。そんな感じを
想像してみると、理解しやすいかも知れません。

 一人一人が、自分という人生を生きているのです。その人生という長い舞台に様々な
人が登場してくる。しかし、どう考えても70億人という地球上の全ての人が登場して
くるわけではない。おのずと限られた人になってきます。

 そうした限られた人の中には、エキストラのように、単に通り過ぎるだけの人も居れば
舞台に深く関わって来る人も居る。そんな気がするのです。そして、こうした人は、
あらかじめ自分の人生が始まった時から準備されていて、ドラマが進むにつれて登場する。

 全ては、初めから自分の人生という脚本に書かれていた登場人物のような気がして
ならないのです。そうして時代設定も、また、様々な物との出会いも、更には時間、空間
の全てが、役者が着る舞台衣装のように準備されているものなのではないでしょうか。

 
 ただ、不確実なのは自分の演じ方いかんによって、良い舞台にもなれば悪い舞台にも
なると言うことです。役者は自分です。どうか良い舞台を演じて下さい。

 私の舞台には、他の人にはないほど数多くの人が登場してきました。反対に私もまた
それぞれの人の脇役として登場していることになります。こうして曼荼羅のように
私たちの人生は複雑に絡み合って、この世に存在しているのではないでしょうか。
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変化の時代を生きる

2016-04-03 05:55:47 | Weblog
 先日は、むかし懐かしい時代の事を「向こう三軒両隣」として書きました。むろん今は
懐かしく思うだけで、二度と再び同じ時代を生きることはないでしょう。

 それどころか、私たちは変化の激しい時代を生きています。世界は、第三次世界大戦に
突入したと言う人もいるくらい、中東での戦争は激しく、ヨーロッパ各国ではテロが頻発
しています。そして、パナマ文書という存在が明らかになり、世界中は騒然としています。
何がこうさせているのか、誰が糸を引いて操っているのか。ずっと後の時代になってみれば
全ては明らかになる事でしょう。しかし今は行く末すら定かではありません。

 私たちは、こんな時代に生を受けました。むろん何の理由もなく生を受けたわけではない
と思っています。生を受けたからには、何か理由がある。その何かの一つは、他人(ひと)
のために生きることだと思います。

 最初は、生んだ子のために、愛する家族のために、老いた両親のために。そして、そうした
役目を終えたら、今度は社会のために、つまり他人(ひと)のために尽くすことにあると思い
ます。政治の世界に生きる人こそ、そうあるべきです。しかし、残念ながら、そう考えている
人が何人いるでしょうか。

 いくら莫大な財産を持っていたとしても、これらは、あの世にまでは持っていけません。
ましてや家や土地もしかりです。土地は地球からの借り物です。そう考えてみると裸一貫で
生まれてきた意味が良く分かります。

 この世での出来事の全ては、仮の世界の出来ごとなのです。いわば今と言う時代に地球と
いう星に仮住まいをしていると思えば理解しやすいと思います。だから生まれてきた時も
裸なら、死ぬときも裸で死んでいくのです。何もあの世へは持って行けません。

 人の運命に、これだという定めはありません。しかし、自覚を持って生きれば、それは
それで身の丈にあった生涯を送ることが出来ます。決して他人の人生を羨む必要はないのです。
人にはそれぞれ持って生まれたものがあるようで、ただ自分自身の人生を淡々と生きるだけ
なのです。

 すぐ隣で一緒に生活している人がいたとしても、それは、それぞれの人生を生きている
のです。だから生まれて来る時も別々なら、死ぬときも別々だと言うことになります。
寂しいようですが、これが現実なのだと思います。

 それでは死んだらいったいどうなるのだろう。誰もが恐れていることの一つです。その
回答は、経験していても記憶から一切を削除されているので良く分かりません。しかし
数多くの事例や仏教の経典など、書き残されたものからの想像は出来ます。やはり、あの世
とやらに行くに違いありません。

 私たちは、母体から離れるときの記憶を持っていません。どんなに難産で苦しい思いをして
いても記憶に残っていないのです。私も難産の末、仮死状態で生まれてきました。しかし、全く
記憶はありません。恐らく、この世を去るときも、きっと同じ体験をしながら死んでいくのだと
思います。

 肉体は、この世で生きるための宇宙服のようなものではないでしょうか。酸素という毒性の
強い物質の中で生きて行くのです。よほど精密に頑丈に出来ていなければ生きていけません。
また、この世を去るときは、この世に脱いでいくことになります。残った宇宙服は有機物で
出来ていますので、何も燃やさなくても自然に土に帰って行きます。

 この世で作られた肉体は、全てお母さんが食べたものが形を変えたものです。食べたものが
肉体という赤ちゃんに着せるための宇宙服を作ったと考えれば理解しやすいと思います。

 顔や体が似ているのは、お母さんやお父さん、更には、そのまた祖先の遺伝子が受け継がれて
います。つまり、宇宙服を作るための金型が同じなので、顔つきや体が良く似ているのは当たり
前のことなのです。

 しかし、着ている宇宙服は良く似ていても、その宇宙服を着るもの自体は、まるで異なる
ことが少なくありません。生き方も考え方も異なりますが、それは、何よりも生まれて来て
から体験する数多くの出来事で、全ては決まってきます。

 人間も動物も体験することによって大きく変わっていくのです。我が子でありながら、我が子
とは思えないようなことも少なくありません。それは宇宙服を纏った精神とか、魂とか言われて
いるものが、生きて行く過程で体験することが、人それぞれ、まるで異なることにあります。
人間も他の動物も環境によって大きく変化するのです。

 それは家庭環境もあるでしょうし、社会環境も大きく影響していると思います。むかし狼に
育てられた狼少年が話題になりました。彼は何もかもが人間離れしていました。狼の中で育った
からです。育つ環境が彼を変えた事例の一つです。

 親は我が子をコントロールしようとします。たとえ意識していなくても自然誘導のような形で
自分の思うようにしようとしているのです。しかし、子どもは子どもで、そのコントロールから
逃れようと必死であがいています。また、自我が強くなり始めると、親の呪縛から離れたいと
必要以外の事は、親と言葉も交わさないようになってきます。

 その変化が成長だと思います。また、肉体は精神の有り様によってもコントロールされています。
病気と書いて気の病と読むことが出来ます。確かに細菌やウイルスに冒されるような病もあります。
こうした病気も全ての人が冒されるわけではありません。中には、しぶとく生き残る人もいます。
エボラ出血熱やペストなどと言った恐怖の伝染病の中でも生き残った人はいるのです。何がそう
させるののでしょうか。単なる偶然なのでしょうか。それは進化というものがこの世に生み出した
不思議なのですが、それ以上の何かがあるような気がしてなりません。

 そして今の世は病原菌による病だけでなく、精神的に病むことによって生ずる病気も少なく
ありません。こうした病こそ精神や魂の有り様を問われる病気なのだと思います。心を如何に
健全に保つか、それは自分自身にしか出来ない事なのです。

 こうして見ていくと人間や動物は、精神とか魂と呼ばれているものが、やはり深く関わって
いるような気がしてなりません。人は漫然と生きているのではなく、生かされているのだと
思います。

 偶然だと思えるようなことが、実は、そうではなかったと言うことが少なからずこの世には
あります。全ては偶然に見えても必然のことなのです。次回は、そのことについて書いて
みたいと思います。
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向こう三軒両隣

2016-04-01 05:18:51 | Weblog
 「向こう三軒両隣」こんな言葉を知っている人も少なくなった。古きよき時代を
表した言葉だ。また、こんな言葉を知らない世代も増えている。地方都市にも
巨大なショッピングモールが次々と出来、その度毎に旧商店街は活気を失い
シャッター街が増えていく。太平洋戦争後から始まったあの元気だった街は
いったいどこへ消えてしまったのだろう。

 長屋住まいには、ねたみもあり悪口も日常茶飯事だったけれど、反面、お互いの
ことを気遣い、いったん事あれば長屋中の者が駆けつけてくれ何かと世話をしてくれる。
それが古き良き時代のごく当たり前の姿だった。

 魚の行商の千さんと言うおじさんは、毎日のように福山の鞆から魚を運んで
来てくれた。千さんは重荷用という普通の自転車より荷台が大きくて、頑丈な
自転車の荷台に、木で作った平たくて大きな箱を二段に積んで、福山からはるばる
大峠(おおたお)の坂を越えてやってきた。

 当時は冷凍庫などない時代なので、箱の中には氷が敷き詰められていた。
その氷も神辺に着く頃には、溶けて水となって箱の隅から流れ出ていた。
それでも魚は新鮮だった。その日の朝に市場に揚がった魚であった。

 千さんが来ると、近所の人が集まってきて、思い思いに注文し、その場で
捌いて貰って帰る。誰が何を買ったか一目瞭然であった。それぞれの家の
この日のおかずは、みんな分かっていた。

 そんな生活だったから隣近所で起きたことは、みんな知っていた。その上
主婦たちは、おしゃべり好きだから噂話は瞬く間に伝染し、どんなに離れていても
どこそこの誰それさんは等と噂し合っていた。良くも悪くも、そんな時代だった
から隠し事など出来なかった。

 子ども達もこうしたネットワークに守られて成長した。誘拐など起こりようが
なかった。学校の行き帰りに合うおじさんやおばさんもみんな馴染みであった。

 あるときなどは、道上の旧家の庭に80年に一度しか咲かないという竜舌蘭
(リュウゼツラン)の花が咲いたという噂話が飛び込んできて、真夏の盛りに
母や母の友達一家と歩いて見学に出かけた。あまりにも遠くて、たんぼ道で何度も
休んだ。その度毎に道ばたを流れている小川で足を冷やした。その水は格別に
冷たく澄んでいた。

 時間の流れも実に悠長であった。旧家近くまで行き、リュウゼツランの花を
少し離れたところから見て帰った。その日は、それで終わりだった。あれを見て
これをして等という贅沢はなかった。

 全ては質素で、それだけにシンプルだった。アイロンを使えばヒューズが
飛んでしまうような生活だった。電気の使用制限があったからだ。メートル器を
付けて自由気ままに電気が使えるようになったのは、ずいぶんと後のことであった。

 家の中には、裸電球一個と、唯一の娯楽設備であるラジオが一台、裸電球は
たった二部屋だけの家の中を移動させながら使っていた。食事の時は台所で使い
食事が終われば寝室兼居間に移動させた。

 冬になると、ご詠歌を詠うおばさんたちの一行が窓の外に来る。何と、もの悲しい
詠であろうか。炬燵一つの布団の中でご詠歌を聞きながらいつしかまどろんでいた。
目が覚めれば、すでに翌朝となっていた。

 街には八百屋、醤油屋、酒屋、魚屋、肉屋、米屋、呉服屋、洋品店、雑貨屋
文房具屋など実に様々な店が軒を連ねていた。これらの店は、互いに物の売り
買いをしながら生計を立てていた。

 主たる収入源は、地場産業であった機屋(はたや=布を織る工場)、染工場
糊付け工場、撚りこと呼ばれた撚糸工場だった。町には一枚の布を織るのに様々な
工場があった。

 こうして街はシンプルにまとまっており、互いを必要としながら生計を立てて
いた。お金は全て地域で回っていた。決して中央に吸い上げられて行くような
ことはなかったのである。

 私たちが生きて行く上で必要なシステムは全て整っていた。亡くなれば、近所の
人が寄ってきて葬式を出してくれた。みんなで悲しみ、野辺送りをしてくれた。
シンプルで分かりやすい人情あふれる生活がそこにあった。

 振り返って今の私たちに、そのような日常が残っているのだろうか。私は今
かつて北前船で栄えたという下津井地区で働いている。変化したとは言え
この地区には古き良き時代の人情が残っている。

 隣の出来事さえ分からないような時代に生きている私たちに、本当の幸せは
あるのだろうか。子育てをしていく上で最も大切だと思われるのは、人情あふれる
向こう三軒両隣なのだ。私は児島市民交流センター時代、それを目指していた。
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