人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

二つの話題

2014-04-24 05:20:48 | Weblog
 太陽活動の周期的な変化に変化が見られると言うニュースは、すでに多くの人の間で周知の事実だが、ここにきて
驚くべきニュースがネット上に掲載されている。あまりに唐突であり得ない出来事だけに報道はネット上の一部に
止まっている。

 そのニュースとは太陽系に現惑星とは別に新しい惑星が誕生したと言うニュースである。そして、その惑星は文字通り
太陽が生んだものであって太陽の直近にへその緒のようなもので繋がっていると言う摩訶不思議なものである。まさに
へその緒で繋がった母と子のような形をしている。

 その物体はネット上でも見ることが出来るので関心を持たれた方はぜひ見ていただきたい。私はかつてのブログで人間を
初め、この地球上に存在するありとあらゆるものは太陽の子供だと書いたことがあった。しかしありとあらゆるものと
言っても対象となるものはあくまで生物であった。しかし今は生物ではなく惑星そのものの誕生である。

 この新しい惑星の誕生はロシアで活動している佐野千遥博士が黄金比と言う難しい学問から導き出し2011年に
予言していたものであった。この辺の経緯もネット上に掲載されているし、佐野千遥博士自身の講演も今ならネット上で
見ることが出来るので参考にしてほしい。

 佐野博士の論によると、この宇宙は真空ではなく、ただ空気のような存在がないだけでエネルギーに満ち溢れていると
言うのである。この論は近年の宇宙科学の中で広く事実として受け止められているから間違いのないことであろう。
ダークマターなどと呼ばれているものの存在である。さて佐野博士によると宇宙にはN極とS極が対極にあるのではなく
フリーな形で存在していると言うのだ。

 太陽が激しく噴き上げるフレアーはS極から出てN極へと落ち込んでいくことは良く知られた事実だ。また地球も
巨大な磁石のようになっていてS極から出た磁気はN極へ向かうことは子供の頃の理科の勉強でも学んだことである。
この磁気というものが宇宙では単極で無限に存在すると言うものである。もしそれが事実だとすればこうした磁気を
利用した永久機関のようなものを手に入れることが出来るのかもしれないし、地球からの燃料を積まなくても宇宙旅行が
可能になるかもしれない。

 更には未だ謎に包まれている常温核融合の可能性や生物的核変換などと言うことも事実かもしれないのである。
佐野博士の論によると今の惑星系は全て太陽によって誕生したもので太陽に一番近い水星の誕生後は月が誕生したと
言うのである。月は金星にぶつかってその後に地球の引力につかまって地球の衛星になったというこれまた驚くような
話である。

 そういえば月は地球に不似合いなほど大きな衛星である。地球も太陽が生んだ惑星であり太陽はこの宇宙に誕生して以来
次々に様々な惑星を生み続けていることになる。太陽は元々もっと大きな天体であった。惑星を生み出すたびに縮んで
小さくなっている。しかし縮んだからと言って質量が落ちているわけではない。それは宇宙からの無限のエネルギーが
注ぎ込まれているのだとのことである。

佐野博士の理論によると母なる太陽は、これからも子供を生み続けていることになる。さてその真偽のほどは・・・。

 さて確認不可能なほど遠い太陽での話はそれくらいにして、摩訶不思議なことは我が家の畑でも始まっている。
EMなるものを非定期的に撒き始めて数年が経過した。特に昨年は何度となく熱心に散布した。トータル量そのものは
大したことはないが熱心に撒きつづけたことは事実である。積年の努力が実り昨年、更に今年と目を見張るほどの
変化を見せている。

 それは果樹や野菜のでき方である。特に果樹については実の付き方が尋常ではない。今まではほんの数個、数える
ほどの実しか付けなかった梅が今年になって実に数多く付くようになったこと、隣の梅の木もびっしりと実を付けている。
これから柑橘類が花を開き始めるが昨年同様に我が家では消費出来ないほどの収穫につながるのであろうか。

 そして何よりも驚くのは野草の成長である。ここ数日来の雨と急速な気温上昇によって除草が追いつかないほどの
成長である。いささか恐ろしさを感じるほどの伸びようで、これには閉口している。果樹の実がたくさん付くほどであ
るから当然のことながら野生のものはもっと成長が著しいのであろう。全てが都合よく行くことばかりではない。
これが自然と言うものであろう。

 それにしても土の中でどのような変化が生じているのであろう。ミクロの世界でのことである。私たち人間は現れた
現象を見て判断するしかないが、きっと土の中では革命的な変化が生じているに違いない。EMの力恐るべしである。
もっと積極的に日本の農業に使われるようになれば食糧難など考えなくても良いほどの収穫量が得られるに違いない。

 そういえばアフリカの旅行中に感じたことがある。マサイマラ自然保護区でのことである。いくら広いとは言え、
これほど多くの動物を養いうる力がこの大陸のどこにあるのかと疑うほどの動物の数である。これら草食動物の餌となる
草原の草の再生力には驚くべき力があると言うことではないだろうか。そして、その底辺にいるのが土中の微生物である。

 アフリカの大地は微生物たちの働きによって雨さえ降れば大量の草を再生しうる力を有している。化学物質などで
汚されていない大地には驚くほどの草食動物を養いうるだけの力を持っていると言う事実である。自然は自然のままで
ありさえすれば人間が想像しうる以上の力を有していると言う事実だ。

 今日のように化学肥料を与え続けなければ植物を栽培しえないと言うのはどこか何か間違っていると言うことでは
ないだろうか。海も川も自然のあるべき状態に戻しさえすれば有り余るほどのものを与えてくれる。それは太陽と
この大地と水が作り出すものだ。それを阻害し出来なくしてきたのは他ならぬ人間だと言うことを考えざるを得ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小保方問題を考える

2014-04-17 05:34:46 | Weblog
 この事件(?)は一転して天国から地獄へ。まるでドラマを見るような事件であった。いったい何故このような事件に
発展したのか。門外漢の私には全く理解しがたい。事件の背景には何かがあるような気がしてならない。この事件は
小保方さんと言う一女性の問題ではない。理研という国を代表する巨大な研究機関の問題である。

 そして背後には、おどろおどろしい部外者には窺い知ることの出来ない人間関係が垣間見られる。いったいこの組織の
中で、あるいは背後で何が起きているのか。そこのところを明らかにしなければ、この事件の解決にはならない。そして
一連の事件の核心部分は、そこにあるような気がしてならない。しかしこの事件はうやむやのうちに闇から闇へと葬り
去られるのではないだろうか。

 大勢のマスコミを集めての記者会見は恐らく事件の核心部分を覆い隠すためのジェスチャーに違いない。しかし報道各社
は表面的なところは伝えても核心部分に迫るような報道は一切していない。しようと言う努力も見られない。理研は古くから
存在する国の巨大研究機関である。ちなみに岡山県出身の仁科博士は戦前、ここで原子力に関する研究をしていた。

ネット上で理化学研究所を調べると下記のように紹介されている。

 独立行政法人理化学研究所は、日本で唯一の自然科学の総合研究所として、物理学、工学、化学、生物学、医科学などに
及ぶ広い分野で研究を進めています。当研究所は、1917年(大正6年)に財団法人として創設されました。戦後、株式会社
「科学研究所」、特殊法人時代を経て2003年(平成15年)10月に文部科学省所轄の独立行政法人理化学研究所として再発足
しました。

 研究成果を社会に普及させるため、大学や企業との連携による共同研究、受託研究等を実施しているほか、知的財産等の
産業界への技術移転を積極的に進めています。そして歴代の所長は日本を代表するような科学者が勤めています。歴史的な
変遷はあるものの一貫して文部科学省傘下の有力な国の研究機関であったことが分かります。

特に岡山県の誇る仁科芳雄博士は次のような研究を行ったと紹介されています。

 わが国初のサイクロトロン(26インチ 28トン)を作製。太平洋戦争終結後にサイクロトロンは東京湾に投棄された。
サイクロトロンは、帝国陸軍から受託したウランに関する「ニ号研究」(仁科の頭文字のニを取って命名された)において
原爆の開発に使用された烙印を押され、GHQにより破壊され投棄された。『ニューヨーク・タイムズ』によるこのニュースに
米国科学界は「馬鹿げており、愚か」と激怒。さらに、『ニューヨーク・タイムズ』は「米国の科学者らは…サイクロトロン
は研究機器であって、原爆製造機械ではなく…この略奪行為に責任のある公務員は懲罰を受けるべきである」と報じた。
と書かれています。

 いずれにせよ太平洋戦争下における不幸な事件であったと言う他はありません。様々な輝かしい発見や研究は理化学研究所の
歴史であって、おどろおどろしい今回の事件とは裏腹に栄光の歴史でもあったと言うべきでしょう。しかし一方では今回の
ような事件を起こし得るような背景もあったことは否めないようです。

 酸の刺激によって簡単にSTAP細胞なるものが作れる。科学と言うものは恐らくこのようなものなのかもしれません。
簡単に作れると言うところが味噌なのです。歴史に残るような発明も発見も実はこんな事だったのかと意外にも思えるような
事から成されています。実のところ証明や裏付けが難しいことであって、何故そうなるのかと言う理論づけが成されないと
学問ではないと言うところに私たち素人が成しえない壁があるのだと思います。

 今、科学なるものを根底から見直さなければならないようなことが次々と起きています。しかし、その事実は科学的な
論拠に基づいていないと言うことだけで無視され続けています。例えば「食べなくても生きておられる人」の存在です。
食事とも言えないような小食や青汁だけで生きている人の存在です。そうした生き方を実践している人は一人や二人の
単位ではありません。そして栄養学的には完全に足りない食事でも一般人と変わらないくらい、いや、ある人はそれ以上に
元気で日々を過ごしておられます。私の友人にもそんな人がいます。

 戦後の栄養失調症と言われた時代から、ひたすら牛乳や肉に頼る生活へと日本人の食生活は大きく舵をきってきました。
そのことが、どれくらい日本人の心と体を蝕んできたかを全く考えずに行ってきました。その結果、社会構造の根幹に至る
ような問題を生じ、更には私たちの体を蝕んできました。そしてそれは今も徐々に進行しつつあります。

 アメリカ輸入の思想の多くは私たち日本人の体質に合わないものであり、そのこと自体が私たちの心や体を蝕んできました。
いま密かに進行しつつある郵政民営化の一番大きな目標であった郵貯銀行の株式が一般公開されようとしています。

 アメリカを初め世界の経済を牛耳っている巨大な金融組織が狙っていたのは日本の唯一の虎の子とも言われた郵便貯金の
莫大な隠し財産でした。世界を支配している金融の背後にいるのはロックフェラーとかロスチャイルドとかと言う巨大金融
資本です。お金で世界支配をたくらんできた者たちです。「ブルータスお前もか」という事件が密かに進行しつつあります。
何故、小泉政権時代に国論を二分してまで郵政の民営化に反対してきたのか、そのことを私たちは忘れています。安倍政権に
なって何でもやりたい放題のことがいとも簡単に次々と実行されています。

 ともあれ小保方問題は小保方さん一人の問題ではなく理研と言う国家の中枢に根差す大研究機関の中にこそメスを入れる
べき問題なのです。背後で何が行われているのか、何をしてこのような茶番劇を演じさせているのか、そこのところをきちんと
見極めない限り事件の核心部分は見えてこないような気がします。

 そして小保方さん自身が述べているSTAP現象が明らかな事実であることが証明される日が来ることを心から願って
います。小保方さんは「コツ」だと表現していました。その「コツ」だと言う表現に何か重要なヒントが隠されているような
気がしてなりません。

 今、EMなるものの効果が密かに、しかし着実に成果を上げています。しかし、その成果も実績も使ったものでなければ
感じることの出来ないものです。そのようなものが、この世の中にはいっぱいあるはずです。やっと「木村秋則」さんの
実績が世に出て映画にもなるようになりました。福岡正信さんがそれを世に問うた時には顧みられることもなかったような
ことが、やっと日の目を見たのです。これからはまだまだ不思議なことがたくさん発見され、私たちの考えがいかに狭いもので
あるか思い知らされる日が来るものと思われます。学問としては確たる証明が必要かも知れませんが事実は事実として存在する
のです。なぜそのようなことが起きるのかを立証する前に起きた事実を認めることも必要です。そして今の科学も発展途上で
あることを謙虚に認めるべきだと思うのですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

がんばらない生き方1

2014-04-08 14:11:58 | Weblog
 終戦後の廃墟の中から日本は奇跡とも言われるほどの復興を遂げてきた。ひとえに日本人の生真面目さと勤勉さが
復興を成し遂げた。と同時に日本人は他国に比べ特徴的とも思えるほどチームプレーに優れていた。仲間に迷惑を
かけたくないと言う思いは集団で仕事をするときに発揮される。これはオリンピック競技の体操やスキーのジャンプ
競技などの際に発揮されてきた。

 ちなみに隣国の中国では正反対の個人主義の国だ。幾多の政争や国家の混乱にも関わりなく中国人はたくましく
生き抜いてきた。ちなみに中国人は秦の始皇帝に始まって幾多の皇帝に仕えてきた。その中には異民族による支配も
少なくなかった。一口に中国と言っても国土は広い。様々な民族の融合国家だ。それだけに統制も難しい。常に内紛を
伴ってきた。中央政権に腐敗や弱体化が進むと地方勢力によって破壊され、破壊の中から新たな支配勢力が生まれてきた。

 従って、国家に対する帰属意識は生まれにくかった。自分たちは自分たちで生きていくと言う国家に頼らない生き方が
当たり前であった。それ故に国を守ると言う意識は日本人とはまるで異なる。全ては自分の利害関係によってことは運ぶ。
自分に利があると思えば国の体制とは関係なく時の政府を応援する。従って今は利がある共産党政府を支援している。

 中国の富裕層の資金がどんどん国外に流出していると言われている。利にさとい中国人特有の経済観の表れであろう。
そして共産党幹部の子弟までもが海外移住を考え行動しているようだ。不思議に思うのは共産主義とは正反対の国家である
アメリカ合衆国に幹部の子弟がたくさん留学していることである。共産党国家を守るべき国の幹部が子弟の勉強の場を
敵対国であるアメリカに行かせているのである。これも歴史的な中国人の気質を考えれば不思議なことではない。

 日本人の目から見ればまるで矛盾だらけの行動も中国人の長い歴史から見てくると何ら矛盾ではない。彼らにとって
利のある方になびくと言う単純な行動なのだ。やがて成熟しきった時、共産党国家はどこへ向かうのであろうか。
経済とて今のまま成長を続けるとはとても考えられない。

 中国の経済発展は日本の技術などを多く取り込むことによって発展してきた。その技術は技術供与もあったかもしれないが
労働市場を提供すると言う名のもとに日本から掠め取ったものが少なくない。きちんとした契約を結んでいても一年もたたない
内に技術を供与した会社とは全く別の会社にその技術が渡っていたと言う事例も少なくない。

 今は中国から引き上げたいと思っている会社も少なくないと聞いている。現に早々に撤退しベトナムやインドネシアに
拠点を移した日本企業も少なくない。市場が巨大なだけに魅力も多いが、それだけにリスクも多い。

 こうした中国と付き合うにはそれ相応の覚悟が必要だ。今は尖閣問題で注目を集めているように見えるが、実のところ
中国人の多くの関心事は自分の資産をどのように増やすか。時の政府をどのように利用して自分の資産を増やすか。全ては
それだけである。従って尖閣問題は政治的な腐敗や失敗を覆い隠すために時の政府が大衆の目を逸らすために利用している
手段に過ぎない。そして同じような事情は日本側の政府にもある。中国人と日本人同士が敵対しているわけではない。
政治が利用しているだけのことである。そこのところを理解していないと国際問題は判断を誤る。

 日本人は戦前、国を挙げて太平洋戦争へのめりこんでいった。日本人は中国人に比べれば滅私奉公という言葉に代表される
ように、わが身を犠牲にしてでも国を守ると言う尊い精神がある。国を捨てて逃げていくなど考えられない国民である。
しかし、その考え方が災いを及ぼす場合がある。それが太平洋戦争突入の前後の姿ではなかろうか。国民もマスコミに
あおられるままに戦争は必然だと考えるようになっていた。マスコミが世論操作し、その世論操作によって国民が湧きたち、
更にマスコミを煽ると言う連鎖の構造が出来ていた。最早、国家の指導者の誰が頂点に立っても国民を抑えることは
出来ないまでになっていた。

 こうして抜き差しならない、そして一分の利もない破滅的な戦争へと突入していった。日本人と言う世界に類のない集団が
国をして自己破滅へと突入していったと言う他はない。日本人と中国人、まるで似て非なる隣人同士が海を隔てて対峙している。
戦争に意味が見いだせない。国民の見ている方向がまるで異なる国家である。憲法をないがしろにしてまでも有事の際の出動が
必要な状況なのだろうか。

 ハンガリーへ旅行した時のエピソードを一つ紹介しておこう。東ヨーロッパにありながらハンガリーは古くから遊牧民の
血を引く民族である。従って東洋人にはことのほか親密感を抱いている国民である。このハンガリーの人が言うには日本人は
好きだが中国人や朝鮮人は嫌いだと言うのである。日本人であれば誰かれなく肩を抱くように親密の情を現すが中国人に
対しては唾を吐きたくなるような嫌悪感を感じると言うのである。あながち日本人の旅行者に対してだけのお世辞とも思え
なかった。ハンガリー人の目から見て同じ東洋人でありながら何らかの違いを感じているのであろう。

 さて話は大きく横道へ逸れてしまった。「頑張らない生き方」を書こうと思っていたところである。もし日本人が中国人の
ような考え方をしていたら国はどうなっていただろう。恐らくは古くからそうであったように国家にとらわれないもっと自由
闊達な行動ができるような国民になっていたに違いない。あるいは日本と言う国家も存在しなかったかも知れない。

 今遠く離れた島や大陸の各所で縄文土器らしきものが次々に発見されている。果たして縄文人たちは海と言う世界各地へ
通じている交通路を巧みに利用して世界中へ進出していたのかも知れないのだ。海にさえぎるものは何もない。海を渡る
技術さえ持っていれば陸地をゆくよりはるかに楽だ。

 恐らく日本人の遺伝子が各所に点在しているに違いない。倭寇の伝統以前から日本人は船を巧みに操って東南アジア方面
まで進出していた。当時の日本人の世界観は現代人とはまるで異なっていたのではないだろうか。それらは縄文の時代から
連綿と受け継がれてきたものに違いない。だからこそ、その後も中国へ渡り、また朝鮮半島からも多くの渡来人が海を渡って
やってきた。と言うより渡来人と言う表現すら誤った見方かもしれない。日本国と言う国が出来て間もなく百済人を救うために
大船団を組み海を渡っている。それだけの造船技術を有し航海術にも長けていた。それは縄文時代から培われたものだと
思われる。

 海を利用して縦横無尽に世界を駆け回る、そんな時代の日本人は狭い国土の中で鬱々として晴れない日々を過ごしている
現代人とはまるで異なる民である。そんな大らかだったはずの民が何で今のような姿になってしまったのであろうか。
戦後復興と言う大事業を成し遂げ成熟した国になった今、日本人は進むべき方向を見失っている。それが心晴れない今日の
生き方になっている。そうした政治や社会状況を次のブログでは考えてみたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寛平大宝

2014-04-06 05:33:30 | Weblog
 私の手元には小さな古銭がある。寛平大宝という名前の古銭である。この古銭とは不思議な縁で結ばれている。
そのいきさつは私が小学生だった頃に遡る。当時、子供たちの間では切手の収集が大ブームであった。雑誌には
「見返り美人」だの「月と雁」だのと、大型の珍しい切手が掲載され高額で売られていた。

 私も御多分に漏れずせっせと切手を収集していた。収集に熱が入ると、どこからそのような情報が入ってくる
のか不思議なように色んな切手が手に入るようになる。交換に必要な切手が我が家にあったわけではない。今は
思い出せないが何らかの方法で手に入れていたものだと思われる。むろん、わずかなお小遣いで外国の古切手を
まとめて買った事もある。またグリコのおまけで貰ったものもあった。色んな方法をフルに活用して欲しいものを
手に入れていたようだ。子供なりに色んな知恵を働かせて手に入れていたものと思われる。

 しかし切手を収集しながらも私の心は冷めていた。切手だけにのめりこむことが出来なかった。理由は定かでは
ない。古銭の方により興味があったと言うことであろう。古銭には興味のない友達と切手と交換したりしながら
古銭の方も収集品を増やしていた。

 その頃、学校の掲示板に皇朝十二銭という写真入りの記事が掲載されていた。その中に今日のお話の寛平大宝も
掲載されていたのである。日本で最初に製造さ発行されたのは和同開珎という銅貨であった。和同開珎以降
次々に十一種類の銅貨が鋳造された。これらは、もともと製造した枚数が少なかったのか、その後に回収され
鋳つぶされたのか、今では貴重品ともいえるほど残っている数は少ない。

 幼少の頃の日課の一つは父の晩酌用の酒を買いに行くことであった。その当時、八百屋でありながら酒の計り売り
をしている店が家から少し離れたところにあった。ここへお使いに行くのが日課のようになっていた。買ったお酒を
入れて持ち帰る一升瓶と、片手には代金を握りしめて通ったものであった。

 その日も同じような繰り返しの一コマであった。お金を支払い店の人がレジを閉めようとしていた時、通常の硬貨
とは異なるものが一個だけ混じっていた。その硬貨がよもや皇朝十二銭の一つである寛平大宝だとは思いもよらぬ
ことであった。おずおずと、しかしはっきりと、この硬貨を指さして貰えないかと尋ねた。すると以外にも良いよ
持ってお帰りと言ってもらえた。

 顔なじみの子でもあったし、夕時で店も忙しい時であったから気安く出た返事かもしれなかった。意外な言葉に喜び
勇み踊るような心境で家に帰った。そして、その日から私の貴重な収集品の一つになったのである。早速、翌日は学校の
掲示板の写真と貰って帰った硬貨を照らし合わせてみた。それは間違いなく皇朝十二銭の一つである寛平大宝であった。

 この硬貨とは実に不思議な出会いであった。まず学校の掲示板にポスターがどのような経緯で掲示されていたものか
そして、そのポスターに誰も見たことも聞いたこともないような古銭である皇朝十二銭が掲載されていたのか、考えて
みれば実物の一つに出会うための予告の様な出来事であった。そして、そのポスターを見て間もなく本物に出会い
私の手に入ったのであった。

 「願えば通じる」と言う言葉があるけれど、まさしく昨今でいう引き寄せに他ならなかった。先に書いた鉱石類の
収集を通じても感じていたことであるが、自分自身の人生も何かしら不思議な力に導かれて今日があるような気がして
ならない。収集と言う単純なことであるから余計にシンプルに引き寄せなるものが見えるのかもしれない。

 これが人と人との出会いのような引き寄せであれば、その過程には複雑な経緯もあって、一口に出会いと言っても
偶然だと言ってしまえば言えなくもないようなことになり、実に曖昧模糊としてしまうので、そのことが引き寄せとは
思えないことも多いのではないだろうかと思っている。ともあれ偶然と言ってしまえばそれまでのことだが、私は
全ての出来事が引き寄せだと思っている。

 「叩けよさらば開かれん」門戸は叩かなければ何も始まらない。行動を起こし自分の目で確かめてこそ全ての事実が
明らかになる。話は横道に逸れるが昨今の報道は真実とは程遠い。いや、今までも気付かなかっただけのことで
ずっと以前からそうだったのかも知れない。今やマスコミの報道は、作為的な報道を流すことはあっても真実を
報道していないと思われることが少なくない。特に政治に関する報道は意図的とも思えるような報道が多いようだ。
全ての真実は自分の目で確かめてみなければ分からない。

 さて、「花咲か爺さん」の話をして古銭との出会い、引き寄せの話を終わろう。収集熱は止まるところを知らなかった。
考えてみれば私の収集癖は幼児のころに始まっていた。幼児の頃は母から貰ったお菓子などをマッチ箱(当時は大箱と
呼んでいた)の中に溜めていた。まるで冬を乗り切るために夏の間、せっせと餌を集める蟻のように。むろん弟はすぐに
食べてしまい兄のマッチ箱の中のものをねだっていた。しかし、これは幼い私の宝箱であった。

 そして、切手の収集、古銭の収集、鉱石の収集、土器の収集と収集癖は発展していった。土器は神辺周辺に多数
点在していた。元々、備前、備中、備後と言う広域にわたる文化圏にあり神辺には古墳なども多かった。そして当然の
ように土器のかけらも無数に点在していた。しかし私たち子供には大人が発掘した場所など知る由もなく、もっぱら
自分たちの遊び場である高屋川周辺に限られていた。

 ところがこの高屋川、暴れ川と言われるほど過去には何度も大きな氾濫を繰り返していた。そのため上流から夥しい
土器類を押し流し、それらが土の中に埋まっていたのだ。そのような場所の一つを偶然のように発見した。何故、広い
広い河川敷のほんの小さな場所に引き寄せられたのか定かではない。いつの間にか、そこを一生懸命に掘っていた。
来る日も来る日も掘っていた。時間は幾らでもあった。そして、ある日ついに完全無欠な土師器式のツボを掘り当てた
のである。興味がない人には汚らしいただの器にしか見えないだろう。しかし私にとっては貴重な一品でああった。

 ここ掘れワンワン、まさに「花咲か爺さん」の心境であった。それは小判でも大判でもなく、ただの古い器でしか
ないけれど。引き寄せって何だろう。それは私の経験から必ずあると確信を持っている。そして私の収集癖を介して
見えてくるものは、その人の人生は誕生した時から運命づけられているのではないかと言うことである。それは幼少の
頃から垣間見える「癖」の中にある。人生に複雑に見える紆余曲折はあっても流れるべくして流れていると思うのである。
そして引き寄せと言う壮大な力によって人生は様々に変化しているように見える。引き寄せには良い引き寄せもあれば
悪い引き寄せもある。良い引き寄せでなければ輝かしい人生を引き寄せることは出来ない。それには心のあり様を
ほんの少しだけ変えることである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

収集癖

2014-04-02 06:14:14 | Weblog
 「へき」とか「くせ」と呼ばれるものは誰でも持っている。特に男性に多いのは収集癖だ。何故、男性に多い
のだろうか。私の考察によると男性にそのような癖が備わったのは遠く古代に遡る。幾日も幾日も食べるものを
求めて荒野を彷徨うような日々。それこそ食べ物にありつけたらその場で食べ、残ったものは待っている家族に
持ち帰る。食べたり、食べられなかったりする日々を過ごすうちに蓄えると言うことを覚えた人類は様々な方法で
保存し収集するようななった。これこそが生き残りの究極の手段であったと考えているのである。その役目の
多くは狩りに行く男性が担うようになった。

 この推測が当たっているかどうかは分からないが、今もって人間の行動の多くが原始時代と言われる人類進化の
気が遠くなるような日々の中で培われてきたことが多い。それは近代と言われるほど人類が進化した今日でもまるで
尻尾のように持っている多くの行動やものの考え方や遺伝子の中に色濃く残っている。人類がたどってきた長い長い
進化の記憶ではあるまいか。

 さて難しい話はそれくらいにして私の収集癖の話に移ろう。中学校の修学旅行は北九州であった。記憶に残っている
もので一番に思い出すのは阿蘇山に登った時の事だ。草千里の雄大な眺め、小さな町の事しか知らなかった私にとって
日本にもこんなに雄大な場所があることを知った初めての旅であった。そして数年後、再びこの地を訪れるようになろう
とは思いもよらなかった旅でもあった。余談になるが人間は縁ある土地については幾年か前に体験することがあるようだ。
また人との出会いも幾年か前に何らかのことで体験していると言うのが私の実感だ。

 そして阿蘇に登った頃、私の収集癖は頂点に達していた。持って帰りたい珍しい石が無尽蔵に転がっていたからだ。
周辺の景色もそこそこに坂道に転がっている火山から噴き出した石を夢中になって拾っていた。とにかく持っていた
旅行鞄の中には重たくなるほどに石が詰まっていた。持ち帰ったものを見て家族はいささかあきれていた。何と言う
ことだろうお土産はお菓子でもなく饅頭でもなく食べることも齧ることも出来ない固い石だったのである。今もって
変わり者の私のエピソードの一つになっている。

 山口県の秋吉台を旅行したころは化石に凝っていた。点在する露頭の石灰岩を見るとフズリナという原始の生き物たちの
そのままの姿が閉じ込められていた。まさか露頭の石灰岩を割って持ち帰るわけにもいかないので周辺を捜していると
小さな石にも様々にフズリナの姿を確認することが出来た。これらはお土産に買ったフズリナが地模様になった灰皿と
一緒に持ち帰った。このときの鞄も石で重かった。

 岡山県に住むようになって友人に誘われるままに成羽町に行った。その友人も収集癖の塊のような人であった。私と
異なるのは収集が学術的な域にまで達した人であったことだ。陸生の貝殻の中に新酒を発見したり、会社周辺で海底から
上がった土砂の中から新種の貝を発見し学会で認定されたりと、その道では名の知れた人であった。その人の誘いで
成羽町まで化石の採取に出かけたのであった。ごく普通の畑のそばの崩れかけた崖からそれこそ無尽蔵とも思えるような
化石が露出していた。

 子供の頃住んでいた神辺にも思い出の場所があった。竹尋とか竹田とか呼んでいた土地であった。ここには鉱山跡が
あり鉱石の残骸がたくさん転がっていた。それこそ私たちにとって宝の山であった。何かに夢中になっているとこんな
情報も誰からともなく入ってくる。子供の足だと数時間はかかるようなところまで自転車と徒歩とで友人たち数人と
一緒になって探しに行ったことがある。それが黄銅鉱だったのか黄鉄鉱だったのか、塊の中にキラキラ光るものがあった。
私たちにとっては宝の様なものであった。

 このころ、そう小学生の頃、石の収集に凝っていた頃があった。中二階の天上部屋には色んな石が箱に入れて保管
されていた。収集に熱中すると不思議なことに次々と珍しい石が手に入る。この体験は経験したものでないと分からない。
さすがに今は当時ほどの収集癖は残っていないが、今でも旅行先の石を拾って帰ることが習慣になっている。家の外や
内には色んなところに石が保管されている。今や多くの石はどこで拾ってきたのかも分からないそんな石ころである。
いい加減に捨てなさいとか、またそんなものを持ち帰ってと、常に妻に揶揄させるのだが容易にその「癖」は終わり
そうにない。次回は古銭収集の話をしたい。

 外は春爛漫である。我が家の周辺も花盛り。そんな花の一つを紹介したい。一つはクリスマスローズ、更に一つは
ボケの花である。今を盛りに咲いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする