人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

エコツアー梼原町

2009-09-28 04:46:35 | Weblog
 今回、思いがけなく高知県の梼原町を訪ねることになった。岡山市
にある「エネルギーの未来を考える会」略称「エネミラ」の主催に
よるエコツアーでの訪問であった。

 実は数年前、この町にある四国カルストという石灰岩台地を友人の
車で訪れたことがあった。ちなみにカルストという地形で良く知られて
いるのは山口県の秋吉台である。

 最初の訪問時、倉敷から四国カルストまで、ずいぶん時間を要した
記憶がある。その時は、友人の奥さんが梼原町主催のマラソンに
出場すると言うことで、応援方々同行させて貰った。

 ここは標高1500メートル近い高原である。車から降り立つと
目の前に巨大な風力発電用の風車が立っていた。初めて目にする
景色であった。風車は二基設置されていた。

 このカルスト台地は大半が牧場となっており、道縁は鉄条網で
囲まれ、この中で牛が草を食べていた。高原特有の爽やかな風が
吹き抜け、野草が花開き、その上で風車がゆっくりと回転していた。
まるで異国の地を訪れたような第一印象であった。

 その梼原町を今回はエコツアーで訪問した。実は風車のある高原
から標高で100㍍近く降りたところに梼原町の町並みがある。
古くは坂本龍馬が脱藩の際、抜け道として使ったという道がある。
町には龍馬の脱藩の手助けしたという地元の若者達の立派な銅像が
建てられている。

 この町の誇りでもあろうか。この銅像は未来に向かって今にも
駆け出しそうなほどに生き生きとしている。こんな立派な、しかも
芸術性の高い銅像を見たことがない。この抜け道、今もなお一部が
保存されている。

 この山深い町に維新の風が流れ込んだのは何故だろう。地元の人の
説明では四国を行脚していたお遍路さん達から情報を仕入れていた
のではないかという事であった。情報収集は、その気にさえなれば
地理的なハンディ等関係ないものと思われる。要は意識の持ちよう
である。

 そうした先見性に富んだ気質が今も脈々と受け継がれていることを
思わせるのが、梼原町を上げての取り組みである。実は異様とも
感じたあの風車は梼原町が建設したものであった。

 町長の先見性ある着想と、その実現を許した町民の気質は今も
維新時に活躍した若者達に通ずるものがあるのではなかろうか。
この町は、まさに時代の最先端を行くエコと新エネルギーの町で
ある。

 この町では、様々な工夫で新しいエネルギーを生む取り組みと省エネ
が行われている。百聞は一見に如かずであるが、まずは簡単に取り組み
事例を紹介してみよう。

 風車二基の建設後、それが生み出す電力代は基金として貯蓄され
次々に新しい施設に投資されている。その一つが中学生達の寮の
冷暖房施設である。ここでは地元で産する木材の廃材となったものを
加工した木質ペレットを燃料にした吸収式ヒートポンプが設置されて
いる。

 また町は、こうした施設で使うペレットの製造販売と今後の普及を
考慮して大きなペレット工場を造ってしまった。

 町の温水プールは地中の熱を利用したものである。地中の熱を
ヒートポンプで圧縮加熱する方法で昇温し使っている。年間を通じて
使用可能な温水プールである。

 つい最近、小水力発電所を稼働させた。エネルギーに変わるもの
なら何でも使ってしまおうという考えである。むろん太陽光発電は
言うまでもない。町の中心に建てられている近代的な総合庁舎の
屋上には大きな太陽光発電パネルが設置されている。

 この町では個人の住宅に太陽光発電を設置した場合、1kw当たり
20万円という破格の補助金を支給している。投資金額が100万円を
超えるようなものであるだけに本格的な二酸化炭素の削減を行おう
と思えば、これくらいの補助金は当たり前なのかも知れない。

 梼原町の人口はわずかに4600人、この小さな町が目指しているのは
2030年には温室効果ガスの排出量を50%削減し、更に2070年には70%
削減しようと言う意欲的なものである。

 また、森林面積を更に拡充し二酸化炭素吸収量を2030年には3.5倍
2050年には4.3倍にしようというものである。もってエネルギー自給率
を100%にしようと考えている。

 森林を守り育てるには、多くの人手が必要となる。都会に遠く
仕事の少ない山間部での雇用を林業で守ろうと言う一石二鳥を
狙っての事ではないだろうか。

 町の施設は山間部の町とは思えないほど近代的な建物が多い。施設
の全ては地元産の杉や檜を使っている。鉄骨や鉄筋コンクリートの
使用は必要最小限に止められている。これも循環型社会を目指しての
事ではなかろうか。

 町のメインストリートは二車線の道路が整備されて統一感ある
町並みになっている。この道路を整備する時、住民参加の意見交換会
を開き、道路拡充の論議をしたとの事である。そして住民賛同の上で
町並み整備が行われ、今も進行中である。ちなみに通りには電柱が
一本もない。また、町の中心部にはやがてホテルも建設されるとの
事である。

 過疎化に悩む山間地域のお手本にすべき街づくりがここにはある。
これからの地方が生き残っていくためのヒントがこの町にはある
のではなかろうか。
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出前授業終わる

2009-09-28 04:16:59 | Weblog
 9月3日の児島小学校から始まった地区内での出前授業が9月25日
の琴浦北小学校で終わった。都合、8校の授業を行った。対象学年は
小学校によって異なるが4年生か5年生であった。最後になった琴浦
北小学校の場合は特例で全校生徒19人であったため全学年が対象で
あった。。今回は父兄や地元の環境衛生協議会の人達も何名か話を
聞いて下さった。

 今まで全校生徒を対象にした授業を行ったことがなかったので
資料作りには工夫を要した。授業終了後、校長先生から大変分かり
やすく子ども達も真剣に聞いていたというお礼の言葉があった。
こんな言葉を頂くと苦労のし甲斐があったと言うものである。

 それにしても5年も過ぎた過去の旅行の写真が、このような形で
生かされようとは思いもしなかった事である。102日間にも及ぶ
地球一周(南半球)という大旅行の帰国後、この感動を何とか大勢の
人にも分かちたいと膨大な時間を費やしてホームページへ掲載して
きた。

 しかし、それだけでは何とも物足りなく、出来ることならスライド
を持って講演をして歩きたいという強い思いを抱き続けていた。
しかし、個人の旅行を宣伝する手だてもなく、いささか満たされない
思いを抱きつつ数年が過ぎてしまった。

 今でも行く先々で味わった感動が鮮やかに甦ってくるほど旅行の
日々の思い出は深い。この年齢になって、このように強く印象に残る
旅行とはいったい何だったのだろうかと、今更ながら自分の精神年齢
を図りかねている。

 それくらい私にとっての地球一周の旅は思い出深く、その後の人生
にまで大きな影響を及ぼしている。ある意味、定年後の生き方を決した
大旅行であった。しかし、旅の写真が表に出ることはなかった。訪問者
も少ないホームページの片隅を縮小版の写真で飾る程度の事であった。

 ところが思いがけなく地球温暖化防止活動推進員という活動が
始まって以来、ことあるごとに、この写真の出番が来るようになった。
講演内容の構成にもよるのだが、氷河の写真やマサイマラ自然保護区
の写真は地球の今を伝える上で欠かせないものになっている。何度も
何度も使用され今日に至っている。

 特に今回の琴浦北小学校の出前授業では、対象年齢が1年生から
6年生までと幅広く、理屈っぽい話をしても聞いて貰えないことは
初めから分かっていた。従って、子ども達の興味を引くように出来る
だけ写真を多くした。この写真の大半は南半球一周時に撮った写真で
あった。

 子ども達の想像の域を超えるような異国の写真は、きっとインパクト
があったに違いない。それが校長先生の言葉であったように思う。
ヨーロッパ方面を旅行する機会は多くても南半球の国々を訪れる
ことは、まだまだ少ない。それだけに子ども達の想像の中では
まるで夢の中の話のように思えたに違いない。

 このようにして出前授業は終わり、私の南半球の旅の写真は満を
持していたように出番を迎えたのであった。
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八ッ場ダム(やんばダム)に思う

2009-09-24 06:16:41 | Weblog
 岡山県を流れる三大河川の一つ吉井川上流に苫田ダムという大きな
ダムがある。完成したのは近年のことだ。以下、「苫田ダム水源地域
ビジョンオフィシャルサイト」に掲載されていたものから転記する。

 このダムは昭和32年に山陽新聞に苫田ダム建設構想の記事が掲載
されると同時に、地元でダム建設反対の声が一斉にあがり、地元の
住民と自治体:奥津町を巻き込んだ38年間にわたるダム建設反対
運動が行われた。長期にわたるダム反対運動の間に、村・町を挙げての
反対運動から、反対と容認で町政を二分する時代を経て、水没者の
方々の同意・移転が進むなかダム建設を活かした地域活性化の方向へと
徐々に流れが変わり、平成7年3月21日に阻止同盟が立ち入り調査
に同意することで、反対運動の歴史に終止符が打たれた。このような
長い反対運動のなかで翻弄され水没移転を余儀なくされた方々の多大
な協力によって苫田ダムの建設は進められ、13地区の集落、500戸を
越える家屋が湖底に沈んだ。苫田ダム建設に関しては、地元の地域
社会と水没移転された方々に大きな影響と変化をもたらして建設事業
を進めてきた経緯があり、その歴史を踏まえることが求めらる。

 当初、このダムは吉井川下流域の治水と水利用が主たる目的であった。
しかし、長い反対運動の末、完工時には水利用の事情も変わってしまい、
本当に必要なダムであったのかどうか分からないままに完成し今日に
至っている。

 水没集落のみなさんにとっては思い出深い土地が湖底に沈んで
しまった。私も湖底に沈んだ川の畔を何度か行き来したことがあるが、
それは美しい川の流れであった。

 余談になるが私の母の故郷である旧三瀬谷(今は大台町)にも大きな
ダムが建設された。私が小学生だったこる何度か母の実家に行き、その
都度遊びに連れて行って貰った事のある思い出多い清流であった。

 宮川という川の上流域の一部が湖底に沈んでしまった。屏風岩という
とてつもなく大きな岩が河原にあった。当時、この川は魚の宝庫で
あった。清流を好む魚たちが群れていた。

 叔父や私の従兄弟が川に潜り鮎を引っ掛けという独特の漁法で捕って
いた。今ではほとんど見かけることもなくなった美しく大きな鮎で
あった。こうした鮎やその他の魚もすべて湖底に沈んでしまった。

 実は、日本にはこうしたダムが少なくない。ダムの中には上流から
の土砂が大量に流入しダムの役目を果たせなくなったものも少なくない。
下流の流れは堰き止められた水のため流れは細くなってしまった。
その分だけ河川の浄化能力は落ち汚染が進んでいる。

 また、ダムによって土砂が堰き止められ海の砂の補給が少なくなり
海そのものの環境も大きく損なわれてきた。川砂の採取が不可能になり
建設には海砂が使われるようになった。そのため瀬戸内海では砂の中に
生息するイカナゴが消えてしまった。イカナゴを餌とする漁業資源に
大きな影響を及ぼしている。

 確かにダムには治水や発電、用水確保という大切な役目がある。
しかし苫田ダムのように反対運動と建設工期が大幅に延長されたため、
計画当初と大きく事情が異なったダムも少なくないのではなかろうか。
その一つが八ッ場ダムであり、他の建設途上のダムである。

 地域住民の人にとって、いやいやながら協力をしてきたのに、建設
途中で止める事には大いなる不満があるであろう。しかし、本来は
必要のなかったものを前の政権は協力に推し進めてきたのである。

 その背景にはゼネコンと政府自民党の利権に絡む思惑があったに
違いない。こうして国民の貴重な財産は不必要なものに湯水のように
使われてきた。その結果が目もくらむほどの大きな借金として残された。

 私達は新しい政権を選んだ。選んだ以上は新しい政策で行かざるを
得ないのではなかろうか。そうでなければ前の政権と同じ道を歩む
ことになってしまう。それではいけないだろう。「新しい酒は新しい
革袋に」である。
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サンセットフェスタinこじま

2009-09-23 05:49:23 | Weblog
 私の住んでいる瀬戸内海に面した児島湾一帯は日本でも有数の
風光明媚な土地である。そして日本の夕日百景にも選ばれている
夕日の美しいところでもある。

 この地で一年に二回、夕日の美しさを鑑賞し音楽を楽しもうと言う
集いが開かれている。題して「夕日のコンサート」と「サンセット
フェスタinこじま」である。

 「夕日のコンサート」は、毎年初夏に王子ヶ岳の山頂を舞台に開催
されている。音楽はお琴や尺八、和太鼓と言った和楽器演奏である。
また「サンセットフェスタinこじま」は初秋に鷲羽山で開かれている。
つい先日の9月19日(土)に開かれたばかりである。

 今回は地元の音楽愛好家達が作っているアコースティックバンド
「HAB」とブラスバンド「児島ライトミュージックオーケストラ」が出演
した。その他、岡山を拠点に活動しているプロの2グループが出演
した。

 この季節、日没はだいたい18時頃である。日中は晴天であっても
夕方になると太陽が沈む当たりに雲が出て、美しい夕焼けを見ることが
出来ないことも多い。しかし、今年は晴天に恵まれ最後まで日没を
鑑賞することが出来た。

 何とも素晴らしい夕焼けであった。空は赤と灰色のグラデーションが
とても美しく、沈み行く夕日の逆光の中で瀬戸大橋が黒いシルエットに
なって筆舌に尽くしがたい美しさであった。

 この日も多くのカメラマン達が夕日を撮ろうと大勢詰めかけていた。
むろん私も、また私の友人達二人もカメラを持って、今や遅しと待って
いた。

 実は、私はこの催しの実行委員の一人である。そして、今年はチラシ
の写真を変えたいとのことで私の写真が採用された。チラシの隅には
小さな字で私の名前が印刷されていた。

 打ち合わせの席で何年か前に写した写真が東京の美術展で選に
入ったという話をしたことがきっかけで、企画会社の人が、ぜひ採用
させて欲しいと言うでトントン拍子に決まった経緯がある。私自身も
十分に自信のある写真で、つい先日まで玄関に飾っていた一枚である。

 この催し物が行われた鷲羽山は、私にとって縁の深い土地である。
広島県の神辺に住んでいた私が親戚の会社の社員旅行で鷲羽山に
来たとき、一緒に連れてきて貰ったことがある。私が小学校の低学年
だった頃のことであった。

 その時は松も今ほど大きくなっておらず、戦争中の後遺症が残る
禿げ山状態であった。私の住んでいた神辺の山々と比較して、貧弱な
山の姿が妙に印象的であった。しかし、その方がこの山にとっては
瀬戸内海の美しさを鑑賞するためには良いのだと言うことを、こちらに
来て知った。

 その後、パークボランティアとして深く関わるようになった。地元有数の
観光地でもあり、それだけに思い入れも深く、家内と一緒に何度かこの地
へ出向き観光ガイドをしていたことがある。

 鷲羽山の頂上から瀬戸内海を見下ろすと多島美の美しさと大小様々の
島を縫うようにして流れる潮の流れが複雑な縞模様を描きとても美しい。
そして、その潮の流れが時間とともに太陽の位置が変化する事によって
様々な表情を見せる。逆光の時には逆光の美しさがある。

 ここが日本の国立公園の先駆けとして認定されたことも頷けるので
ある。鷲羽山は海抜133㍍である。この高さから見下ろすと島と島
の重なりが少ない。まるで箱庭のように見える。

 そして今は、すっかり瀬戸内海の景色の一部になった瀬戸大橋が
沖の島を縫うように四国の坂出まで続く。そして、ほぼ真正面には
四国の五色台や讃岐富士と呼ばれている飯野山が美しい姿を見せて
いる。

 更に、こうした島や山の姿が薄い靄の中で、墨絵のような濃淡の
グラデーションを見せている。その美しさは例えようがない。

 実は一昨日、ピースボートで一緒に旅をした娘さんが遊びに来た。
児島へ着いたその日に時間があったので王子ヶ岳を案内した。この日は
お天気が少し下り坂だというので湿度が高く空気は少し靄っていた。
それでも瀬戸内海の景色は美しかった。

 この王子ヶ岳から眺める景色は鷲羽山とは趣を異にしている。前面
には広い広い児島湾があり、児島湾を囲むように児島の町並みが続いて
いる。そして、その長い海岸線の先端が鷲羽山になっている。

 実は、瀬戸大橋は世界でも数少ない道路と鉄道の併用橋である。
それら往復四本の路線が鷲羽山の山腹に掘られた四つ目トンネルで
一つになっている。道路往復四車線が上に、鉄道往復二車線が下に
なっている。このトンネル工事は鷲羽山が脆い風化花崗岩であり
困難を極めたらしい。しかし、鷲羽山の風光を損なうことのないよう
にとの理由からトンネルにしたという話である。

 また、橋の形も様々であり、普通の吊り橋もあれば、鶴が羽を広げた
ような形をした斜張橋もある。また、トラス橋など瀬戸内海の多島美に
華を添えている。

 私は人一倍、鷲羽山への思い入れが強く、何とかこの美しさを多くの
人に知って欲しいと、私達夫婦を訪ねてくる多くの友人達には鷲羽山と
王子ヶ岳には必ず案内するようにしている。

 いつの日かこの景色が世界遺産に登録されることを願っている。
多くの国々を旅してきた私が世界に誇るべき美しい景色だと自負して
いるからである。
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歴史に残る時代

2009-09-18 15:43:53 | Weblog
 2009年9月18日、月一回の子育てサロン「プーさん」が終了した。
今日も予想以上の大勢のお母さんたちと子ども達で会場として使用
している児島憩いの家は大にぎわいであった。

 それにしても、ここへ来る子ども達は圧倒的な比率で女の子が多い。
単なる偶然なのだろうか、それとも昨今ささやかれている遺伝学上の
問題を反映しての事なのであろうか。

 いよいよ今週から民主党による政治が始まった。私達は歴史に残る
特異な時代を生きている。地球温暖化問題、各種の環境問題、政治
経済的な問題、社会問題、私達人間を含む自然科学面での問題等
どれ一つを取ってみても過去の事例など参考には出来ない難問に
直面している。

 しかも地球温暖化問題などは、タイタニック号に例えられるように
氷山にぶつかってしまい沈没は時間の問題となっている。それにも
関わらず今もなお現実を見ようとしない人や現実を認識しない人が
多すぎる。果たして現代科学や政治的な解決が可能なのだろうか。

 そんな状況の中で二つの政治的な大きな変化があった。その一つが
アメリカでの黒人系の大統領の誕生である。そして、もう一つは、あり
得ないことと信じて疑わなかった日本での歴史的な変化である。

 当の日本人の中にどれくらいの人が重大な変化だと認識している
のだろうか。自分たちの起こした行動がどれくらい重大な事であった
かと言うことを認識しているであろうか。

 オバマ大統領は早くも困難に直面している。大きな変革であるにも
関わらず、反対勢力と変化に惑わされている人達が手を組んで頑強に
抵抗している医療制度の改革問題である。背景には黒人系大統領に
対する根強い偏見もあるように思われる。アメリカは一見、先進的に
見えるが意外に保守的な国である。

 しかし彼の経歴を考えるならば既成の考え方に囚われない行動が
感じられる。それはブッシュ政権では大きく後退した地球温暖化問題
への取り組みであり核兵器廃絶への第一歩である。

 これが軍縮へと続けば良いのだが、その先は長そうだ。ただ懸念
されるのは、今もなお対テロ対策としてアフガニスタンで続いている
戦争である。暴力の先にあるものは暴力に他ならない。泥沼化する
アフガン問題は第二のベトナム戦争にならなければ良いのだが。

 さて、日本の新政権の船出はどうなのであろうか。多くの人が
第二の維新として見ている。そして多くの評論家が好意的な目で
見ている。早急な成果を望むのは止めておこう。新政権は船出した
ばかりである。

 それにしても新大臣たちの颯爽とした姿と揺るぎない発言は新鮮さ
を感ずるとともに頼もしい限りである。時代は満を持して待っていた
と言えようか。

 私はこの一ヶ月間、かつてないほどの忙しさであった。と言うのも
環境衛生協議会の意欲的な取り組みにつきあっていたからだ。先にも
書いたが地元の小学校のプールにEMを投入することに積極的に取り
組んできた。

 その成果は言うまでもないが、私としては地球温暖化問題が引き
起こしている様々な問題を訴える絶好のチャンスとして各小学校で
環境教育を意欲的に行ってきた。

 小学の4年生や5年生が対象なので、どの程度理解してくれたか
定かではない。私の話のほんの一部でも子ども達の記憶に残って
くれれば、それはそれで良いと思っている。いつかは分かる日が来る
と思っているからだ。

 こうした活動の延長線上で子育てサロンに来てくれている若い
お母さん達の間にもこの話が伝わり、小さな集会への招待を受けて
いる。

 最近、数多くの偶然に遭遇することが増えてきた。それは果たして
本当に偶然なのだろうか。それとも次元の異なる現象の一つの現れ
なのだろうか。

 私の周辺では、私が望んでいるようなことが早い遅いの違いは
あるにしても次々に生じていることである。人は一生懸命に望めば
それが実現するのかも知れないし、私の人生の第三ステージに
準備されたものなのかも知れない。

 ともかく、そうなるべくして実現したような事があまりにも多くて
一つ一つ数え上げることが出来ないくらい多い。

 何か想像も出来ないような大きな変化が生じない限り極限に達した
人間社会の様々な状況を変えることは出来ないように思えている。
それが天地をも揺るがすような大変な出来事なのか、それとも誰も
それと気付かないようなスローな変化なのか予測は付かない。

 しかし、このままではなく何かが変わらなければならないような気が
している。その変化の現れの一つが政治的な変化ではなかろうか。
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麗しの雨

2009-09-12 17:41:12 | Weblog
 はっきりしない梅雨明け宣言があって以来、雨らしい雨は昨日まで
ほとんど降らなかった。いくら冷夏だったとは言え夏は夏だ。こんなに
長く降らなければ灌水設備のない畑は、乾燥しきっていたのではない
だろうか。

 何日かおきに散水をしていた我が家の畑でさえ、レモンはしおれて
力無く枝を垂れるくらいになっていた。一昨年植えた大師堂の桜の木
には、びっしりとカイガラムシが着いて枯れ死寸前であった。

 相当部分を手でこすって落としたが完全ではない。石灰硫黄合剤を
使うか、マシン油乳剤ででも何とかしなくてはならないようだ。これも
長い間、雨が降らなかったことや日中の気温が高かったことと無縁では
ないように思われる。

 一昨日、白菜やキャベツなど葉もの野菜の定植と、ダイコンやカブ
ニンジンと言った根菜類の種を蒔いた。9月に入ってしばらくは雨を
待っていたのだが降りそうになく、やむなく見切り発車となった。

 すると翌日(実は昨日の事だが)待望のまとまった雨が降った。
これこそ干天の慈雨であった。これでダイコンなど種物は何もかも
一度に芽を出すことだろう。何よりも喜んでいるのは山畑にある果樹
ではないだろうか。

 特に、柑橘類の多い我が家の畑では待望の雨であった。今までにも
何度も書いているように、いくら散水しても雨にはかなわない。雨の
ありがたさをつくづく感じている。

 雨が止んだ翌日の畑を観るのが楽しみである。全てのものが急に
大きくなっているから不思議である。地球上における全てのものに
とって太陽と雨は何ものにも代え難いものである。

 そんな太陽と水について、今日は勉強をしてきた。今日から7ヶ月間
に亘って毎月一回講義が行われる。その中には、今日の話のように
私が興味を持っている話が盛りだくさんにある。実に楽しみである。

 その初めが岡山大学学長の千葉喬三氏による総論「環境とは何か」
という話であった。私は今、児島環境衛生協議会が取り組んでいる
お手伝いで、EM活性液を地域の小学校のプールに入れている。

 EMを使えば水が腐らなくなり藻の発生も抑えられるからである。
この投入作業に先立って児童たちに環境教育を行っている。主として
4年生や5年生の生徒達である。話のテーマの一つが生きものの共生
であり、EMを初めとする微生物の働きに付いてである。

 私が小学生に理解しやすいようにと言う思いから創った資料と千葉
教授の今日の話が実に良く似ていて驚いた。むろん千葉教授の資料は
専門家としてのしっかりとした理論に裏付けられたものであって私の
話と同次元での比較は出来ない。

 しかし、私の考えていることと千葉教授の話とは、表現の違いは
あるものの多くのところで似ており、私の話している事に確信を与え
裏付けとなるものであった。

 しかも環境問題は全人類が倫理に基づき考えなければならないと
言う教授の締めくくりの言葉は、まさに私が経済問題も環境問題も
根は同じで人間の生き方の問題だと言っていることと同じ事であった。

 私が今まで話してきた事に間違いはなかったわけで大変うれしく
思っている。久々に降る雨を愛おしいものと思いつつ、岡山まで足を
運んで本当に良かったと思っている。引き続き第二回、第三回と聞いて
みたい話が目白押しである。

 先日も総理大臣に就任する鳩山さんからCO2の削減25%を目指して
取り組むという力強いメッセージが発せられた。その発言に対し新日鉄
のトップや昭和電工の社長がインタビューに答えていた。それら経済界
のトップの意見は、一様にそんなこと出来るものかという冷たいもので
あった。

 かつて新日鉄など鉄鋼産業は日本の基幹産業だとして公害垂れ流し
で今の地位を築いてきた。昭和電工もメチル水銀汚染問題で大きな
社会問題を起こしてきた会社である。そのような過去のある会社の
幹部が事もあろうに、このような発言を平気でするとはあきれて
ものが言えない。

 その上に日本で規制が強まれば外国へ出て行かざるを得ないと脅し
文句まで言っている。このような時代に果たして受け入れてくれる
国があるのだろうか。本性現れたりとしか言いようがないお粗末な
幹部達である。

 初めから温暖化防止に取り組む意志などないような発言である。
悲しいことに私の後輩達である労働組合の幹部達も経営者達と同じ
ような発言をしている。労働組合は経営者に先駆けて革新的な事に
取り組む組織ではなかったのか。

 経営者にせよ組合幹部にせよ未だ太平の夢をむさぼっているように
思えてならない。既にタイタニック号の機関室には大量の海水が流れ
込んでいるというのに。
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怒濤のごとく

2009-09-09 16:15:22 | Weblog
 とにかく私自身も驚いている。まさか昨年の今頃、このような事に
なろうとは思っても見なかったことである。望んでいなかったと言えば
嘘になる。しかし、このように多くの出来事が、一度に、このような
形で展開しようとは・・・。

 その一つが環境問題である。これは地元の環境衛生協議会の
人達と知り合いになったことから始まった。その当時、環境衛生
協議会の人達は、生ゴミの減量化と水の浄化に取り組もうとして
いた。

 さい先良いスタートであったにも関わらず、思わぬ横槍が入り
その取り組みは、一度だけの取り組みでとん挫してしまった。それにも
くじけることなく、ねばり強い努力が実を結び、今年は地元の小学校
の多くがEMを受け入れてくれるようになった。

 EMは有用微生物群と言って、このブログでも何度か紹介してきた
ものである。あの大阪湾に注ぐ淀川をきれいにしようとEMを使って
大々的な取り組みが行われている。

 また、一部には根強い偏見があるにも関わらず、その実績に見る
べきものがあるとして、今も多くの地方で使い続けられている。

 私は、地元の小学校の環境教育のお手伝いをさせて貰ったことが
きっかけで、本年度になってその他の小学校でも環境教育を引き受け
ることになった。そのきっかけを作ってくれたのは環境衛生協議会の
人達の取り組みであった。

 単にEMをプールに入れるだけでは塩素系の薬剤を入れるのと
大差はない。EMという生きものを使う以上、その意義を知って
おく必要がある。そうした事から私の苦心の学習資料が完成した。

 自然からの収奪一本槍の従来の生き方に未来はない。今こそ江戸
時代以前のような自然との共生が望まれている。地球上では人間だけ
が特別な存在ではない。地球上に存在する全てのものとの共存関係が
あってこその人間社会である。

 自然は開発と称する人間の勝手な行いによって大きく破壊されて
きた。その結果、破壊した人間だけでなく、関係のない地球上の
多くの生きもの達にまで被害は及んでいる。

 私はEMという微生物群について勉強することによって、対立では
なく共生という事の大切さを学ぶことが出来た。自然は一見、不要と
思われるようなものでさえ、この地上に残してきた。それは人間に
とって不要だと思えるだけであって、実はもっと奥深いところに
存在意義があって残されているのだ。

 人間社会もまた然りである。人間に不必要なものなど生まれては
いない。何かの意味があってこの世に誕生しているはずである。草鞋
を作る人も居なければ駕籠に乗る人だけでは、この世は成り立たない。

 私はEMを通じて、こうしたメッセージを子ども達に送り続けて
いる。このメッセージが思わぬ事から父兄にも伝わり、新たに二つの
地域で新たなる取り組みが始まろうとしている。一度、私の話を
聞かせて欲しいという動きである。これこそ私が望んでいたことで
ある。喜んで引き受けることにした。

 また、私が副代表をしている子育てサロンにも新しい動きがあった。
この子育てグループのユニークさは、私と同世代の男子が子育てに
関わっていることである。そのユニークさが故に新聞記事にもなり
この度、倉敷市の男女共同参画フォーラムで私達グループが活動発表
を行い、その後、参加者によるワークショップを行うことになって
いる。

 全ての動きはここ数ヶ月の事である。まさに新政権のように怒濤の
如く、多くのことが動き始めている。
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求められる発想の転換

2009-09-09 06:04:10 | Weblog
 私達は好むと好まざるに関わらず新しい政権を選択してしまった。
その結果、予期せぬことが今後次々に起きてくるだろう。それは
私達の予想を大きく超えるようなもので、当の民主党議員でさえ、
当初予想のつかなかったようなことであるに違いない。権力の移行
とは、そのようなものであろう。

 その一つが環境問題であろう。民主党の鳩山代表は早くも、地球
温暖化防止のために二酸化炭素の削減を2020年までに1990年度比
25%削減すると宣告した。

 早速、賛否両論、多くの意見が出始めている。当然のことながら
経済界、産業界はそんなことはとうてい無理だと猛反発である。
こうした業界から莫大な政治献金を貰っていた自民党政権下では
とうてい発言できなかったことである。新政権だからこそ出来た
ことである。

 高速道路の通行料金の無料化が、民主党のマニフェストに書かれて
いた。実現すれば交通の流れが大きく変化するであろうことが予想
されている。

 国土交通省は無料化した場合の経済効果まで検討していたようだが
自民党政権時代にはひた隠しに隠していた。民主党政権になったから
こそ明るみに出てきたことである。経済効果だけでなく、ぜひとも
二酸化炭素の排出量が、どのように変化するかも検討して貰いたい。

 二酸化炭素の25%削減を行おうとすれば、従来からの常識とされた
考え方を根底から変えない限り達成できない。それを承知の上での
鳩山代表の発言に違いない。だからこそ新政権の力強いメッセージ
として受け取ることが出来るのだ。

 先進国のいずれかの国が、先進的な取り組みをしない限り温暖化を
くい止めることなど出来はしない。核兵器の廃絶への取り組みも同様
である。

 こうした勇気ある発言を行い、実行に移すことこそが価値ある行動
ではないだろうか。経済界も産業界も従来の発想を改めるべきである。
従来の考え方の延長線上に進歩はない。そして、どのようにしたら
目標を達成できるか真剣に考えるべきであろう。

 諸外国との関係もまた然りである。鳩山さんの外交に関する考え方
に対し、アメリカの一部の人からは盛んに牽制球が投げられている。
そうした発言の多くは日本から甘い汁をむさぼってきた一部の人達
であろう。そんな人達の発言など気にしていては日米間の新しい関係
など出来はしない。これからはお互いに主張すべきことは主張すれば
よい。

 また、いつまでもアメリカの軍事力を頼みにするのではなく、軍事力
を強化しなくても日本の安全が確保できるような平和外交を展開すべき
である。軍事力に頼るなど時代遅れである。

 そうした外交が可能なのは唯一の被爆国であり平和憲法を有する
日本だから出来ることである。これからの日本の果たすべき役割は
大きい。

 こうした改革は従来の発想の延長線上では解決できない問題である。
民主党政権を選んだ私達こそ発想の転換が必要な時である。今までの
ように環境から何かを奪い取ったり、環境を自分たちの都合の良い
ように作り変えるのではなく、環境との共存こそ大切なことである。

 そのためには何をすべきかは考えれば回答は簡単に出てくることだ。
今までの消費偏重の考え方の延長線上に回答はない。軍事費を削減し
地球温暖化問題とどう向き合うか、そのために予算を使うことこそ
21世紀のあるべき姿ではないだろうか。また、脱石油も然りである。

 民主党を中心とする与党にお願いしたいのは、予算のバラ巻きでは
なく、制度改革など私達の未来が展望できるような諸制度の改革を
して貰いたい。

 また、私達自身も従来の考え方を捨て、新しい時代にふさわしい
発想で未来に向き合うことではないだろうか。
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いよいよ始まった民主党政治

2009-09-05 15:44:48 | Weblog
 民主党圧勝の内に総選挙は終わった。直後からマスコミの取材は
民主党に殺到している。これが与党と野党の違いではなかろうか。
自民党は今更ながら野党の惨めさを味わっているに違いない。

 しかし、本当の惨めさを味わうのは、実はこれからかも知れない。
その一つが選挙後の次期総裁を誰にするのかさえ決まっていない
ことだ。みんな「火中の栗」を拾うことを敬遠しているのだ。

 調子が良いときには吾も吾もと名乗りを上げるのに、こんな状態
になってしまうと、誰もワシが何とかしようなどと手を上げる人が
いないのだ。実に情けないことである。こんな時こそ汗をかいて
我が党の建て直しに立ち上がるべきではなかろうか。

 既に自民党には、そんな腹の座った人さえいなくなってしまった
のだろうか。二世、三世が多い自民党の弱さの一面でもあるだろう。

 さて、野党から一挙に与党となった民主党、その民主党には政治の
未経験者が多い。丁度、維新後の誕生したばかりの新政権のような
ものだろう。

 この党の課題はもう一つある。それは寄って立つ基盤の弱さである。
地方組織が出来ていない。この際、若手議員を中心に地方組織を
強固なものにして欲しい。良し悪しを判断するのは、こうした党らしい
組織がきちんと出来てからでも遅くはないだろう。

 また新人議員にはベテラン議員には見えないものが見えているに
違いない。そんな新人議員らしい新鮮な目でこれからの政治を改革
して貰いたい。あなた達、若手議員は小沢チルドレンではなく国民が
選んだ人達である。

 そうした観点から言えば民主党のマニフェストが良かったわけでも
小沢さんの選挙戦略が卓抜していたわけでもない。みんな自民党政治
に飽き飽きしていたから民主党に一票を投じたに過ぎない。

 全ては国民が考え選択したことである。そんなことはお構いなしに
評論家やマスコミは勝手なことばかり言っている。かえって新政権内
の混乱を来すことになりはしないのか。

 小沢さんが何もしていないのに小沢支配だとか、権力の二重構造
だとか、小泉チルドレンならぬ小沢チルドレンだとか、マスコミは本当に
かしましい。

 また、民主党に変わっても何も変わりはしないと冷めたことを言う
人がいるけれど、これだけの大きな変革である。何かが変わるに違い
ない。政治は人がやるものだからである。従って、人が変われば考え
も変わる。考えが変われば行動も変わる。

 今、国民が一番望んでいるのは手当などと言うお金の施しを受ける
ことではない。自分たちの未来が希望の持てる社会であることを
望んでいる。そのためならば多少の苦しさも辛抱強く待つことが
出来るだろう。

 そして、世間知らずの中央官庁の人達に庶民が味わっている世間の
風の厳しさを多少なりとも理解させることではなかろうか。国民のための
政治とは何かを理解させることではなかろうか。

 それにしても民主政治とは、かくも劇的なものであることを国民は
初めて身をもって体験した。この体験は非常に大切な体験であった。
主権在民が初めて行使された瞬間でもあった。

 当の日本人より外国の有識者の方が驚いているようだ。その証拠に
早くもアメリカからは幾つかの懸念が投げかけられている。戦後一貫
してアメリカに追随してきた日本が大きく方向を転じ始めたからだ。
自分たちの思うようにならなくなるのではないかと懸念しているのだ。
それほど日本という国はアメリカにとって与しやすい国であった。

 そして裁判員制度も時を同じくしてスタートした。一部の特権階級
にしか与えられていなかった権力が国民の手に戻されたのだ。色々
問題は残っているが、二度と再び特権階級の手に渡してはいけない。

 最高裁判事の国民審査ももっと実効性のある審査に改善したい
ものである。今の最高裁は国民の思いから遠くかけ離れたもので
ある。あのような人達が司法の最高峰にいたのでは三権分立の
価値が薄れてしまう。これを機会にもっと司法も手近なものに取り
戻したいものである。
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