断捨離(だんしゃり)とは、不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと。
基本的にはヨーガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して
人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという
考え方、生き方、処世術である。単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を画している。
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる
ウイッキペディアによると、以上のように解説されている。
私も断捨離とは程遠いが何年かぶりに大掃除を行った。その結果、廃棄物処理場へ何度も通わなければならないほど大量の
廃棄物が出来た。
恐らく、その時には何か必要性があって残したものに違いない。それらは使われることなく何年もの間、押し入れの中や
物置に仕舞い込まれたままのものであった。書類もあったし本もあった。パソコンもあったしパソコン関連の電子機器もあった。
全ては、ここ数十年のすさまじいほどの身辺の変化と機械類の進歩によって無用の長物となってしまったものであった。
これら夥しい廃棄物を後生大事と仕舞い込んだ頃に、こんな日が来ようとは思いもしなかったことである。その一つに私の
年齢があった。これらをいつかは使うことがあるだろうと仕舞い込んだ若い頃なら無限とも思えるほどの時間があった。
無限の時間とは今となっては勘違いだったのだが、その頃はあると信じていた。
今の私にそのような時間が残されているだろうか。否、残された時間は秒読み段階に来ていることは間違いない。過ぎて見れば
全ては泡沫(うたかた)のようなものであった。そして残された時間を思うと、心の中に大きな変化が出てきた。
人間は、生まれてくるときも、この世を去る時も裸一貫である。何も持たずに誕生し、何も持つことは出来ないままに
あの世へと旅立つことになる。この世に存在するもの全ては、この世で生きていくためには必要なものであっても、あの世なる
ところでは全く必要のないものばかりである。
自分の肉体も然り(しかり)である。肉体もこの世に存在するために必要なものであって、あの世へ旅立つときは全てを
脱ぎ捨てていく。この世で生きていくために必要な上着や下着のようなものである。従って脱ぎ捨てたものは全て燃やされて
灰燼に帰すことになる。そのままにしておけば微生物たちによって分解されてしまう。それが世の習いである。
心の変化と言うものは恐ろしいものだ。あれほど強かった物に対する執着心が徐々に薄れつつある。私達のような年齢に
なって、なおもお金に執着している人を見る時に、実に愚かしいことだと思わざるを得ない。そうした心にあるものは何なの
だろうか。
また、人を激しい行動に駆り立てるものは何なのだろう。それは心だ。恐ろしいまでの心の動きに左右されながら人は生きている。
従って、今回の断捨離の真似事も私の心の変化から生まれたものだ。生き方を変えようと思えば、心の見方や考え方の方向を
ほんの少し舵を切って帰れば良い。そうすれば暗く悲しい現実も妙に明るく楽しいものへと変わってくる。それが人生と言うもの
だろう。
「夢と冒険」とは朝ドラの「マッサン」に出てくるテーマだが、私達がこの世に生を受けた理由ははっきりしている。私達は
この変化に富んだ実に面白い今の世に生まれ「夢と冒険」を楽しむために生きているのだ。
基本的にはヨーガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して
人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという
考え方、生き方、処世術である。単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を画している。
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる
ウイッキペディアによると、以上のように解説されている。
私も断捨離とは程遠いが何年かぶりに大掃除を行った。その結果、廃棄物処理場へ何度も通わなければならないほど大量の
廃棄物が出来た。
恐らく、その時には何か必要性があって残したものに違いない。それらは使われることなく何年もの間、押し入れの中や
物置に仕舞い込まれたままのものであった。書類もあったし本もあった。パソコンもあったしパソコン関連の電子機器もあった。
全ては、ここ数十年のすさまじいほどの身辺の変化と機械類の進歩によって無用の長物となってしまったものであった。
これら夥しい廃棄物を後生大事と仕舞い込んだ頃に、こんな日が来ようとは思いもしなかったことである。その一つに私の
年齢があった。これらをいつかは使うことがあるだろうと仕舞い込んだ若い頃なら無限とも思えるほどの時間があった。
無限の時間とは今となっては勘違いだったのだが、その頃はあると信じていた。
今の私にそのような時間が残されているだろうか。否、残された時間は秒読み段階に来ていることは間違いない。過ぎて見れば
全ては泡沫(うたかた)のようなものであった。そして残された時間を思うと、心の中に大きな変化が出てきた。
人間は、生まれてくるときも、この世を去る時も裸一貫である。何も持たずに誕生し、何も持つことは出来ないままに
あの世へと旅立つことになる。この世に存在するもの全ては、この世で生きていくためには必要なものであっても、あの世なる
ところでは全く必要のないものばかりである。
自分の肉体も然り(しかり)である。肉体もこの世に存在するために必要なものであって、あの世へ旅立つときは全てを
脱ぎ捨てていく。この世で生きていくために必要な上着や下着のようなものである。従って脱ぎ捨てたものは全て燃やされて
灰燼に帰すことになる。そのままにしておけば微生物たちによって分解されてしまう。それが世の習いである。
心の変化と言うものは恐ろしいものだ。あれほど強かった物に対する執着心が徐々に薄れつつある。私達のような年齢に
なって、なおもお金に執着している人を見る時に、実に愚かしいことだと思わざるを得ない。そうした心にあるものは何なの
だろうか。
また、人を激しい行動に駆り立てるものは何なのだろう。それは心だ。恐ろしいまでの心の動きに左右されながら人は生きている。
従って、今回の断捨離の真似事も私の心の変化から生まれたものだ。生き方を変えようと思えば、心の見方や考え方の方向を
ほんの少し舵を切って帰れば良い。そうすれば暗く悲しい現実も妙に明るく楽しいものへと変わってくる。それが人生と言うもの
だろう。
「夢と冒険」とは朝ドラの「マッサン」に出てくるテーマだが、私達がこの世に生を受けた理由ははっきりしている。私達は
この変化に富んだ実に面白い今の世に生まれ「夢と冒険」を楽しむために生きているのだ。