人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

ケーブルテレビ初出演

2009-10-29 21:56:27 | Weblog
 今まで活弁を通じてNHKの取材を受け、その後、地元紙である
山陽新聞の取材を受け、更にはRSKのラジマルが自宅にまで来て
インタビューをしてくれた。

 この間、岡山の光南台公民館では活弁の実演が取材対象となって
RSKや地元ケーブルテレビoniビジョンが取材報道してくれた。

 そして今回は、倉敷のケーブルテレビに生出演する事になった。
これは私から児島活弁シネマライブの宣伝を兼ねた取材依頼をした
ことに始まる。

 実は、その前日に思いがけない電話があった。昨晩KCT(倉敷
ケーブルテレビ)から電話があり、児島市民文化祭の作品展の取材
に行きたいので、誰か立ち会って貰えないだろうかと言うもので
あった。

 直接電話を受けた人も他の人も、あいにくこの時間帯には所用が
あり、急遽、私に応対して欲しいとの要望であった。既に会場へ
来ているとのことで、取るものもとりあえず展示会場へ駆けつけた。

 そこで簡単なインタビューを受け、展示品の撮影を終えて取材班は
帰っていった。

 そして、その翌日である10月27日がスタジオ入りの日であった。
16時にKCTに着き、台本の確認とリハーサルが行われた。そして
本番となった。

 インタビューの内容は作品展や舞台発表の他に、活弁についてで
あった。家内と私が交互に答えた。活弁とはいかなるものかという
簡単な質問の後、映像無しで活弁の一こまをやって欲しいという要望
に応えて、ほんの少しばかりやってみた。

 こうした事がお知らせとして流れ、その後、ケーブルテレビで見たよ
と幾人かの人から電話があったり、声をかけられた。二人とも失敗なく
スタジオ生出演は終了した。

 実は、このような初体験以上に大きな出来事があった。この番組の
担当ディレクターが長男の高校時代の親友だったことである。

 親友だった事と、聞けば我が家にも来たことがあるとの事であった。
長男にメールすると本当に懐かしいと言っていた。もう十数年以上
会っていないようだ。

 お互いに紆余曲折があって今を生きているとの事であった。活弁を
通じての偶然とは思えないような出来事は今も続いているらしい。
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国会論戦始まる

2009-10-29 05:30:25 | Weblog
 鳩山総理大臣の所信表明演説が終わり、いよいよ国会における論戦
が始まった。しかし、大方の予想通り白熱した論戦にはならなかった。
その理由は明らかだ。自民党から政府与党に投げかけられた質問の
全ては、自民党政権時代に行ってきたことの蒸し返しであったからだ。

 質問の多くは、自民党自体が過去に行ってきたものであり、天に
向かって唾を吐いているようなものであった。例えて言えば崩壊した
徳川幕府が維新後に出来た新政府に対し噛みついているようなもので
あるからだ。

 今日の国の危機的な状況を招いたのは、誰が見ても明らかなように
前政権である自公連立政権によるものだ。その一つが予算案に関わる
多くの問題ではなかろうか。民主党がマニフェストの中に掲げたものを
実行しようとすれば大きな赤字予算になってしまう。

 しかし、赤字予算になろうがどうしようが急を要するような問題
ばかりである。むろん、中には高速道路料金の無料化など再検討を
要するような事も少なくない。しかし、基本的には生活困窮者の救済
や子育て支援など急がなければならない事が多すぎる。

 これら全て小泉改革と称し、小泉、竹中コンビが格差社会を助長し
弱者を切り捨てるような事をしてきたからに他ならない。

 そして最大の問題は、経営合理化と称して断行してきた郵政民営化
の問題ではなかろうか。郵政民営化は早くからアメリカ側の要求事項
だったと聞いている。何故、アメリカは日本の国内問題にまで口出し
を行ってきたのだろうか。その最大の目的は日本の資産を狙っての
事ではなかったろうか。

 太平洋戦争後、アメリカは一貫して日本を植民地同様に扱ってきた。
その一つが、アメリカ軍人が日本国内で犯罪を犯してもアメリカ側の
了解がなければ取り調べさえ出来なかったことである。

 日米地位協定はアメリカ側の都合が良いように定め運用をしてきた。
沖縄は返還されたにも関わらず、返還前と何ら変わることなく米軍の
基地として使われ、今もなお移転問題がくすぶり続けている。

 独立国でありながら、こんな国が他にあるだろうか。日本だけである。
その上、郵政を民営化させ、340兆円とも言われる簡保や郵貯である
国民の資産を根こそぎアメリカに取り込もうと考えていた。

 日本はアメリカの莫大な国債を買わされている。つい最近になって
中国が日本の国債残高を追い越したばかりである。それまではダントツ
に日本の保有額が多かった。

 こうしたお金はアメリカの国家予算に組み込まれアメリカの軍事費
として使われてきた。いわば多くの人を殺傷してきた劣化ウラン弾や
クラスター爆弾は、日本が資金援助してイラクやアフガニスタンに
打ち込まれてきたようなものである。

 その上、今も執拗にインド洋上での給油を強いられている。これ
以上の支援を何故、続けなければならないのだろうか。その支援は
表向きアメリカ国家の支援となっているが、決してアメリカ国民の
支援や救済ではない。産軍複合体という軍事産業へつぎ込まれている。
国家を超えた巨大な軍事産業に飲み込まれているのだ。

 戦後一貫して自民党政権下で、まるで湯水のように日本の国家予算
が様々な形でアメリカの軍事産業へ飲み込まれていった。

 民間のお金も幾度となくアメリカに流入し、あぶくのように消えて
いった。その最大のものが仕組まれた住宅バブルであった。投資という
形で日本から莫大なお金が金利の高いアメリカへと流れていった。

 これはFRBを元凶とするアメリカ金融界の巧妙な罠に他ならない。
その罠に欲深い日本人達がはめられたと言っても過言ではない。自ら
の愚かさと欲深さを他人の「せい」にばかりするわけにはいかない
だろう。

 私達は、この度の総選挙では、さして深く考えて民主党に一票を
投じたわけではなかった。しかし、自民党政権が続く限り、一連の
流れに変化はなかった。事態は益々深刻なものになっていたのでは
なかろうか。その意味合いに於いて、この度の総選挙では非常に良い
選択をしたと言えよう。

 そして、最大の焦点であった郵政民営化は再び大きな方向転換を
しようとしている。元大蔵官僚の斉藤氏などの起用を巡ってマスコミ
や一部評論家の間では異論もあるようであるが、人事の良し悪しの
評価は、なおも時間を要するであろう。

 しかし、一方の経営陣には曾野綾子のような民間人の登用も為されて
いるわけで、民意に対するささやかな配慮も見られるようだ。

 さて来年度の予算に付いてであるが、国債の発行はやむを得ない
事ではなかろうか。確かに将来に「多額の付け」を回すことであり、
決して良いことではない。しかし、問題なのは今をどう乗り切るかと
いう事である。

 今までの膨大な財政赤字は国民が等しく責任を負わなければならない
事である。なぜなら、それを許してきたのは自民党に政治を委ねてきた
私達自身の責任でもあるからだ。

 むろん、自民党に対しての責任追及も忘れてはならない。彼らは
日本という国を経済的な破綻に追い込んだ張本人である。そして莫大
な郵貯や簡保をアメリカに売り渡そうとした張本人である。旧経営陣
の責任は問われなければならない。民間の会社であれば特別背任容疑
を問われるような重大犯罪である。
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四国EMフェスタ2009

2009-10-26 21:52:31 | Weblog
 「善循環の輪」と称する四国EMフェスタ2009が先日の10月24日
香川県の三豊市で開催された。来賓祝辞の中で地元三豊市の市長
から地元開催の歓迎の挨拶があった。

 三豊市では増え続けるゴミを何とかしようとガス化溶融炉の建設を
考えていたようだ。しかし、大量のCO2を出すゴミ焼却炉は時代に
逆行する事だとして建設をあきらめた。

 その代わりにゴミ減量化の一つとして、生ゴミの減量化に取り
組んでいる。その手段の一つとして注目しているのがEMボカシに
よる生ゴミの処理である。EMとは有用微生物群のことである。

 もう一つ解決しなければならないのが紙おむつだと言っておられた。
高齢化社会になればなるほど紙おむつの需要は増え続ける。高齢化
社会の象徴とも言えるゴミ問題である。

 意外に生ゴミの焼却炉に対する負担は大きい。それは大量の水分を
含んでいるため、ダイオキシンを出さないように炉内の温度を高温に
保つためには通常の燃えるゴミだけでは十分ではない。助燃剤としての
石油が必要となり、これが地方財政にも大きな負担を強いている。

 そして、ゴミは燃やせば燃やすほど大量のCO2を増やすことになる。
ゴミ問題は他人事ではない。私たちの生活スタイルから見直さなければ
解決しない問題である。

 畑や空き地さえあればEMボカシによる生ゴミ処理はゴミの減量化
と畑の肥料として活用できるので土壌改良にもなる。今後、私達が
目指すべきはEMを初めとする微生物による生ゴミ処理であり、ゴミ
の減量化ではないだろうか。

 四国四県には、それぞれに「EM普及協会」なるものがある。実は
EM先進地なのだ。その向かいの岡山県には、このような協会はない。
岡山県の場合、EMに関しては未だ後進地域なのである。

 実は十数年ほど前、岡山県でもEMなるものが注目された時代が
あった。しかし、どのような経緯があったのか知らないが、水質保全
の観点からEMは効果がなく、効果がないだけでなく水系の汚濁源に
なりかねないと言う見解が出され、以来、EMに関しての関心は急激
に薄らいでしまった。

 何故その時、そのような見解が出されたのであろうか。今回、地元
児島の小田川下流域ではEMの大量投入による顕著なる効果が現れて
いる。大量に溜まっていたヘドロが跡形もなく消えてしまったのである。

 ここへEM団子とEM発酵液が大量に投入されたのは、昨年のこと
であった。その結果、数ヶ月後には砂の色が見え始めるほどヘドロは
消滅したのである。そして秋に、この川底に降り立った時には革靴でも
何ら問題がないほどヘドロは消滅していた。

 このままこれを継続していれば、あるいは東京の日本橋川下流域と
同じように海まで広がる効果が期待できたかも知れない。小田川の
下流域にシジミやアサリが戻ってくることさえ夢ではなかったはずで
ある。誠に残念としか言いようがない。

 心ない人の一言でこの計画は中途半端のままに終わってしまった。
EMはとかく、このような誹謗中傷の中で土壌改良や水浄化という
多くのチャンスを失ってきた。しかし、今も諸外国や国内で少しずつ
広がりを見せているという事は、それなりの実績が見られるからでは
なかろうか。

 十数年前と異なり、微生物に関する研究も盛んになり、様々な観点
から微生物の活用が見られるようになってきた。今や微生物を隠れた
存在として見るのではなく、共生という観点から見直すべき時では
なかろうか。

 私たちはこの度、大いなる期待を抱いてEMフェスタに臨んだ。その
期待通り色んな話が聞けて大いに満足している。地元香川県からは
様々な活動事例が紹介された。

 また、比嘉先生からは自らの経験を通しての不起耕栽培の実例が
紹介された。また、エジプトやタイ、マレーシアと言ったところでの
国家的なプロジェクトとしての取り組みが紹介され、その実例の多さに
驚かされた。諸外国の方が素直にEMの効果を評価しているようだ。

 日本国内でも東京の日本橋川下流域や神田川、大阪湾と言ったところ
だけでなく、古都奈良の東大寺境内に存在する池や堀の水質浄化に
多大な貢献をしたと言うことで、他の寺社への広がりを見せている。

 奈良という世界的にも知名度の高いところで実績を証明したという
宣伝効果は少なくない。こうしてEMは着実にその実績を上げている。

 既に海域まで達した水浄化は海に大量のアサリを甦らせたり、川には
鮎などが遡上してくると言った効果も現れている。私はEMの持つ力に
耳を貸すことなく頑なに瀬戸内海の水質や海底浄化やアマモの定着を
試みている人に目を開いて貰いたいと思っている。

 また、児島胡の底にたまったヘドロなどを大型船を入れて浄化を
試みる前に、一度EMで効果を確かめてみてはどうだろう。壮大な
テストケースになるが、既に大阪湾では地元漁協が大々的に取り組んで
いる。そして顕著な効果も現れていると聞いている。
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荒れて行く過疎地域

2009-10-24 05:36:47 | Weblog
 最近、私の住んでいる地域でも鹿が出たとか、猪を見たという話を
良く聞くようになった。私自身も私の家の近くで雉を見たことがあり
近所の人からは、狸が出て困るという話を聞いたこともある。

 しかし、幸いなことに今のところ猪などの被害は出ていないようで
ある。しかし、そう言っているのも時間の問題かも知れない。すぐ近く
まで被害は広がっているからである。

 私は一昨日、ホタルの里と言われている由加山の奥に行ってみた。
久々のことであった。実は数年前、珍しいものを発見していたからだ。
それは木と木がくっついて十字架のような形になっているものであった。

 いつか写真に写して残しておきたいと思いつつ年月は過ぎてしまった。
そして、出来ればテレビ朝日の人気番組「ナニコレ珍百景」に応募して
みたいと思うようになっていた。

 しかし、山深い遠い場所なので、なかなか行くことが出来なかった。
そして、とうとう一昨日、意を決して行ってみた。

 数年前とすっかり景色が変わっていた。荒れ果てて雑草に覆われた
田畑が一段と多くなっていた。最早、ホタルの里として整備された頃
の面影は失われていた。かろうじてホタルの幼虫が住んでいるという
川の周辺だけは草が刈られ整備されていた。

 そして何よりも驚いたのは、荒れ果てた田畑以外は厳重に垣根で
囲まれた畑が多かったことである。田畑を作ることを止めた理由も
猪などの被害がひどくなったからかも知れない。

 もともと民家は、あまり多い地域ではなかった。住んでいる人達が
少ないことを良いことにして、今や猪たちは勝手気ままに行動をして
いるようである。

 山から駆け下りて一般道に出るための出入り口が至るところにあった。
そうしたところでは山の土が崩れ落ち、アスファルト道路に点々と足跡
が残っていた。

 また、放置された田んぼの中には、泥浴びをしたと思われるような
大きな穴が空いていた。猪たちが餌を漁って掘り返したようなところは
至る所にあった。猪たちが残した夥しい痕跡であった。

 これだけ勝手気ままに動き回るようになってしまうと、こうした行動
を食い止めるのは容易な事ではない。

 猪たちは何故、このようになったのであろうか。恐らく数が増えた
とか、山に餌が少なくなったと言った単純なものではなく、人との
関わりの変化ではなかろうか。

 集落に人がたくさんいて、日頃から人の姿を見ていると、猪たちも
容易に出てくることが出来なかったに違いない。しかし、私が訪れた
日も人影は見えず閑散としていた。時折通り過ぎる車の姿だけである。

 子ども達が多く、日がな喚声で賑やかだった頃、山の獣たちは遠く
から、その姿や声を聞いて容易に降りては来られなかったであろう。
今は全くの過疎の地域になってしまったのである。そして、人の姿と
言えば年老いた人達だけである。生気を失った過疎地域の今日的な
姿である。

 そんな訳で山の中にも大きな変化があって、過去に見付けたものも
再発見できず、かろうじて今も営業を続けている椎茸栽培農家に寄って
生椎茸と干し椎茸を買って帰った。
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男女共同参画フォーラム

2009-10-24 05:00:40 | Weblog
 安易な気持で引き受けた事が大変な事になってしまった。そもそも
男女共同参画事業なるものの何かさえ知らなかった私のところへ講演は
出来ないだろうかという話があった。

 どんな内容のことを話せば良いのかさえ分からないまま二言返事で
引き受けてしまった。さあ、それからが大変だった。

 実はこの企画、話が具体化していく内に、私たちが毎月一回開いて
いる子育てサロン「プーさん」の方で全面的に引き受けて欲しいという
事になった。

 おまけに講演だけだと思っていたら、私の役目は実行委員として
男女共同参画フォーラム全体にも関わって欲しいと言うことであった。

 幸にもAさんという心強いサポーターがいてくれたので、何とか役目
を果たすことが出来た。

 そもそも男女共同参画なるもの、圧倒的に女性が多く、男性で企画に
携わっていたのは、ほんの数人であった。大半のことは女性が仕切って
いた。これで男女共同参画と言えるのだろうか。はなはだ疑問である。

 男女共同参画事業なるものを調べると、このように書かれていた。
「男女共同参画社会とは、男女が互いにその人権を尊重しつつ責任も
分かち合い、性別にかかわりなく、その個性と能力を十分に発揮する
ことができる社会のこと」と書かれていた。

 まあ、女性の地位向上のためというのであれば分からないこともない。
しかし、文字通り「男女共同参画」が狙いなのである。

 私たちが主催している子育てサロン「プーさん」は男女共同参画で
ある。私と同世代のおじさんが4人も関わっている。

 この子育てサロンは会長であるOさんの発案である。その発案に
乗ったのが副会長である私である。

 私は、かねてより子育てを放棄した若い親の世代や家族間の意志疎通
が上手く行かず悩んでいる若者世代やDVなどで苦しんでいる人達など
今日的な社会問題に大いなる関心を寄せていた。

 しかし、そうした悩みを聞いてあげるチャンスは少なかった。何か
講座でも開いてと思っていたのだが、子育て中の若い世代に子連れで
参加せよというのは無理な話であった。そんな思いを持っていたとき
0さんの構想を聞き、この話に乗ったのだ。

 以来、友人の男性達に参加を呼びかけ、今まで子育てには一切関わった
事のないものが、一生懸命赤ちゃんの世話をしているのである。我が子
の子育てすら関わったことのないものも少なくない。私たちの子育て
時代は、そのような時代であった。

 男女共同参画フォーラムは10月20日(火)に開かれた。何故
開催日が平日だったのか、この時期、日曜、祭日は他行事が多かった
からであろうか。夥しいチラシを配布したにも関わらず、実際に来て
くれた人は40数人であった。

 午前中に開かれたもう一つのワークショップは予定人員の半分だった
と聞いている。さすがに午後は家田荘子さんという特別ゲストを迎えて
の講演であっただけに、ほぼ満席の状態であった。

 私たちのAワークショップは私の基調講演の後、何グループかに
分かれて貰い、私から提起した幾つかのテーマを元に話し合いをして
貰った。

 初めて顔を合わすもの同士が一同に会してのディスカッションなので
果たして話し合いになるのだろうかと懸念していたのだが、そんな心配
は全くなかった。

 さすがに参加者は女性が圧倒的に多かっただけに、日頃の不満を含め
各テーブルの議論は大いに盛り上がった。参加人員こそ少なかったが
Bワークショップの人形劇にはいかず、この企画に参加してくれた人達
だけあって話し合いは大いに盛り上がったようである。

 と言うような訳で午前中の1時間半はあっという間に過ぎてしまった。
そして、予定していた11時半をオーバーすることもなく終了できた。
何とか子育てサロン「プーさん」としての面目を保った次第である。

 何とか成功裏に終わらせたいという責任者としての立場と、短時間の
講演で如何に私の思いを伝えるかと言うことに全力を集中し、大いに
疲れてしまった。講演だけと簡単に安請け合いをしてしまったのが
そもそもの間違いであった。

 反面、思いがけない経験が出来、それも地球温暖化問題などとは
異なる、人そのものに関する企画に参加させて貰い、私にとっては
かけがえのない良い経験だったと心から感謝している。
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ケニアの大旱魃

2009-10-20 04:45:25 | Weblog
 ケニアを訪れたのは、もう5年も前のことになる。そのケニアが
大旱魃の被害に苦しんでいる。私たちはピースボートの第47回
クルーズで5番目の訪問国としてケニアのモンバサ港に朝早く着いた。

 港までの航路の両岸は出勤時の人々であろうか、渡し船を待つ人で
溢れていた。私たちは如何にも南の国らしい景色を周辺に見ながら
これから訪れることになっていたマサイマラというところに想いを
馳せていた。

 あの森の向こうにあるのだろうか。そこには密林はあるのだろうか
どんな動物たちがいるのだろうか。この想いは遠く幼い頃に遡る。

 私は子供の頃、当時、産経新聞に連載されていた山川惣治氏による
「少年ケニア」の熱心な読者であった。物語の主人公であるワタルは
何故か日本人であり巨大な大蛇が師であり友であった。大蛇の背に
跨り様々な冒険に挑戦するという勇敢な少年が描かれていた。

 その物語の舞台となっていたのがケニアであった。その当時、ケニア
どころか国内旅行でさえままならないほどの貧しい時代であった。
それだけに描かれた挿し絵と物語だけが無限の夢を膨らませてくれた。

 そのケニアに今まさに降り立とうとしていた。興奮するなと言う方が
無理な話であった。着岸すると賑やかな歓迎が待っていた。ジャンベ等
の打楽器による演奏が、いやが上にも興奮をかき立てた。

 私たちはモンバサの港からモンバサ空港までバスで移動した。路線
の両側にはトタン葺きの貧しい民家が密集していた。道路脇で営業して
いるのは散髪屋さんであった。

 私たちは空港から小型機に乗っていよいよアフリカの空へ飛び立った。
マサイマラへの一泊二日の旅であった。眼下には行けども尽きない木も
まばらな赤茶けた大地が広がっているだけであった。さしたる山のような
ものは、ほとんど見あたらない荒涼たる大地が広がっていた。

 車で走れば砂塵がもうもうと舞い立つようなアフリカの大地である。
決して「少年ケニア」に描かれていたような密林ではなかった。

 飛行機はケニアと隣国タンザニアの国境付近を飛んでいた。遠くに
キリマンジャロ山が見えていた。しかし、山頂に見えるのはほんの
わずかばかりの白いものであった。山頂の氷河は、ここ数年間で急速
に消えているとのことであった。

 そして次に目にしたものは、今も活動を続けている大地の裂け目
アフリカの大地溝帯であった。アフリカ大陸を東西に分断し、今の
乾燥した気候を作り出したと言われている巨大な大地の裂け目で
あった。

 そこを通り過ぎると、いよいよ目指すマサイマラであった。空港とは
とても呼べないような滑走路もない大草原の一角に飛行機は砂埃を
巻き上げながら着陸した。ただただ見渡す限りの大草原であった。

 マサイマラは雨期を迎えていた。数日前に一雨降ったと言うことで
大地は緑に覆われていた。ティッシュフラワーという、その名の通り
遠目にはティッシュペーパーを捨て散らかしたような白い花が点々と
咲いていた。

 待ち望んでいた雨であった。サファリカーに乗って空港を後にすると
すぐにヌーの大群に出会った。草を求めて遠い移動先から続々と、この
地へ戻ってくるところであった。ヌーは一群だけではなかった。

 マサイマラは雨期であったが、ここ数年、雨が少なく干魃の傾向に
あるとのことであった。雨が降らなければ草食動物は生きていけない。
草食動物が少なくなれば肉食動物も生きてはいけない。

 カバの住んでいる河も水が少なく黒くよどんで異臭を放っていた。
こんな水であってもカバたちにはかけがえのない水であった。全ては
気まぐれな天からの授かりものに依存している大地であった。

 この地にいるマサイ族の人達は、こうした野生動物たちのど真ん中で
生活している。彼らは、ほんの一昔前までは定住することなく、動物を
追って草原を移動しながら生きてきた。しかし、野生動物の保護が国の
政策となり動物を追うことをやめ、今は定住し動物保護をしている。

 生活の手段は牧畜である。牛や羊を飼っている。これら家畜も野生
動物と同じ場所で草を食べている。こうした家畜も野生動物も雨が
降らなければ飢えて死ぬ他はない。今、深刻な干魃に苦しんでいる。
家畜の餌になる草木が生えてこないからである。

 これも地球規模の気候変動によるものであることは間違いがない。
私たちのような経済活動とは、おおよそ縁のない人々が一番に温暖化
問題に直面し、その被害者になっている。実に気の毒なことである。

 死んだ家畜の写真が新聞に掲載されていたり、テレビで報道されて
いる。わずかばかりの食料援助に長い人の列が出来ている。私たちと
交流したマサイ族の人達は今どうしているだろう。あのつぶらな瞳の
少年少女達はどうしているだろう。そして、群れなす動物たちは十分
な餌にありつけているのだろうか。

 なまじ、その姿を間近に見てきただけに心配で仕方がない昨今である。
私たちに出来ることは一日も早く温暖化ガスの削減を行い、気候変動を
くい止めることである。とは言いながら人々の関心は薄く、遅々として
進んでいないのが実状である。
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日々移ろいやすく

2009-10-19 05:51:33 | Weblog
 時の過ぎゆくのは早い。はや10月も半ばを過ぎ、秋の深まりを
一段と感じる季節になった。今、庭ではキンモクセイが一斉に花開き
爽やかな香りを漂わせている。

 ほんの少し前までは、エンゼルトランペットが庭の主役であった。
この花は夜になると一段と強い香りを放つ。遠く離れた場所からでも
香りを感じることがある。

 今年は、昨年に較べて一段と大きくなり花数も増えた。その分だけ
匂いも強くなったようである。

 キンモクセイは日本人好みの上品な香りだ。一方、エンゼルトラン
ペットは如何にも外国から入ってきた花らしい強烈な香りである。
強烈な香りだがいやな匂いではない。

 ちなみに、この花はチョウセンアサガオと同じ仲間らしい。そう言えば
チョウセンアサガオに花の形も良く似ている。ナス科の植物である。
大きさこそ異なるがナスの花の形に良く似ている。

 植物の勉強をしているようで恐縮だが、もう少し書かせて欲しい。
ナス科の植物は実に多い。先ほどのナスビもそうだが、トマトも
ジャガイモもナス科の植物である。よく見れば花の形はみんな良く
似ている。


 さて、秋祭りも終わった。地元では鴻八幡宮の秋祭りが有名である。
岸和田のダンジリには及びもつかないが、地元にもダンジリがある。
各地域ごとにダンジリを有しており、これらが鴻八幡宮の境内に集結
する。笛、太鼓、締太鼓、鉦などによるお囃子に、この祭の特徴が
ある。

 お宮の境内の手前には斜度16度という急な宮坂がある。この宮坂
を大勢の人が力を合わせて綱を引く。しかし、一度には登り切って
しまわずに、上り下りを何度か繰り返す。これが面白いと大勢の見物客
がはやし立てる。

 いったん境内に集まった後、再び順番に下っていく。この時にも
登りの時と同じようなことを繰り返す。あらかじめ割り当てられた
時間もオーバーしてしまうようなこともしばしばある。

 こうしてお宮を降りたダンジリは町内を練り歩く。太陽が大きく
西に傾く頃になって祭はお開きとなる。

 とは言っても、これは午前中に境内に登った組だけの話であり
午後からの組は日も落ちて周辺が暗くなり始めても、なお宮坂を
下っているものもある。ダンジリの数はそれくらい多い。


 さて、話を政治の方に移そう。明治維新後もかくやと思うほどの
変化である。各大臣の緊張に満ちた顔が眩しいくらいである。満を
持しての民主党による政治がスタートしたという感じである。

 来年度の予算の見直しも急ピッチで進められている。だがマニフェストは
マニフェストとして実行のため無理をしない方が良い。確かに約束は
約束だが、国民は自民党時代にさんざん裏切られ、待たされて来たこと
ばかりであり、性急に多くを期待している訳ではない。

 急がれるのは生活支援と雇用対策であろう。他は、しっかりと将来
を見据えた上で取り組んで貰えれば良いことばかりである。しかし
政治が正しく機能すると言うことは、このように全てが整然と流れ
始めると言うことなのだろうか。

 それに引き替え、自民党時代の政治はいったい何だったのだろうかと
その無策ぶりを思わざるを得ない。

 こうした一連の政治の動きを見ていると、せっかく歴史上、他に例を
見ないほどの大きな変革をしたというのに、私たち自身や経済界など
旧態依然たるものの考え方や姿が目について仕方がない。

 これからは日本の全てが変わらなければならない。それは単なる
社会体制の変革だけではなく、思想そのものも変わる必要があるように
思う。

 アメリカ一辺倒だった政治も経済も然りである。そして何よりも世界を
視野に入れての変革でなければならない。核廃絶も絶好の機会であるし
世界中の戦争や地域紛争も終わらせなければならない。

 そうした戦争や紛争で無駄に使われているお金を友好に活用すれば
地球温暖化防止にも十分対処していけるのではないだろうか。

 私が5年前に訪れたケニア一帯が未曾有の大旱魃だという。ただで
さえ乾燥し赤茶けた大地が更に乾燥し、多くの動物たちが死に直面して
いることを考えると、私たち先進国の責任を感じないわけにはいかない。

 こと中国、日本、韓国は歴史上においても他に比較しようもないほど
結びつきの強い国々である。そして、経済的にも大きな注目を集める
地域になっている。通貨統合も夢ではない。この地域が一丸となって
動き出せば世界を動かすことも出来る。

 そんな夢が実現しようとしているのも民主党に政権が移ったから
である。私たちは自ら選択した政権を通じて、今まで夢見ても実現
できなかったことをやっていかなければならないと思う。
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いい爺いライダー

2009-10-07 05:43:20 | Weblog
 10月3日、いつもお世話になっている岡山市の光南台公民館で
中高年男性のグループ・クラブ交流会、題して「がんばろうぜオヤジ
たち2」という催し物があった。「創る、観る、語る、映画に魅せられた
男たち」が副題であり、文字通り映画に関する催しものであった。

 この企画に私達夫婦の他、県内で映画に関わる活動をしている人
二人が招待され、それぞれの取り組みについて紹介があった。私達
二人は「夫婦活弁」という一風変わった活動をしていると言うことで
招待されたようだ。

 公民館側の要望では、活弁のさわりの部分と少しだけ話をして
欲しいと言うことであったが、活弁も講演も少しだけの時間では
中途半端になってしまうと思い、考慮した結果「突貫小僧」を全編
通して口演した。従って、活弁についての話は、ほんの少しだけで
後ほどの質問時間で答えることにした。

 トップバッターは岡山市内で映画作りをしている「京山公民館の
ムービー京山」の代表の方であり、もう一人は長く映画を観る会を
主催している岡山映画鑑賞会の代表の方であった。

 それぞれの講演や活弁が終わった後で会場との意見交換が行われ
その後で今日のメインイベントである「いい爺いライダー」の上映会
が行われた。

 この映画は、既に何度かテレビ等で取り上げられ話題を提供して
いるものである。映画を制作した人も映画に出演している人も、脚本
を書いた人も監督もみんな素人である。

 そして、この映画を完成させるまでは絶対に死んでは行けないと
言うほどの高齢者が中心になって制作している。だから決して出来の
良し悪しだけでは判断できない映画である。また、高齢の素人集団が
創った映画だけに、その素朴さがかえって見る人の共感を呼ぶのかも
知れない。

 昨今、高齢者に関しては様々な事が社会問題になっている。ある
意味、高齢者は社会の大きな負担にさえなっている。高齢者問題は
高い医療費や高齢者施設の維持管理と介護者の問題、果ては高齢者
が引き起こす交通事故の問題など無視できないことが多い。

 高齢者が社会に出きるだけ負担をかけないようにと、実は様々な
試みが成されている。手前味噌ながら私もその一翼を担っている。
4年前に資格取得した「健康生きがいづくりアドバイザー」であり
昨年取得した「初級演芸設備士」の資格である。

 こうした資格を取得したことにより、高齢者や定年退職した人に
少しでも健康に生き生きと過ごして欲しいという思いから活動を
しているのだが、いっこうに出番のないのが実状である。

 実は、これらの制度も資格も国が後押ししたものなのだが、国は
ほとんど活用していない。私達自身が何かないかと仕事を探すような
有様である。

 そして、もう一つの資格である地球温暖化防止活動推進員も同じ
ようなものである。今までの自民党政府下では制度を作り、資格を
取らせてもほとんど活用することなく、資格を授与しただけと言う
ものが少なくない。

 私達は高いお金を払い、二次試験まで受けて資格を取得したが
利用すべき場がないのである。これでは仏を作って魂を入れないのと
同じ事である。

 寝たきりの人や心身に不自由を来すような老人を作る前に、何故
もっと前向きに生きようとする高齢者を作ってこなかったのか。
それはある意味、社会の責任でもあり、政治の責任でもある。

 実は高齢者の問題ばかりではない。むしろ働き盛りの若い世代にも
共通の問題がある。そうした問題が若い世代にも様々な形で病を
引き起こし、家庭問題にもなり、殺人や自殺の問題になっている。

 私達は「いい爺いライダー」という映画を観るまでもなく、人は
何かに情熱を傾けることが出来れば、どんな困難でも克服できるし
生きることに積極的になれると言うことを、この映画は実証している
ように思える。

 先のブログで紹介した高知県の梼原町の事を考えるとき、条件が
悪いから何も出来ないのではなく、何かをしようと思わないから何も
出来ないのではなかろうか。

 克服すべき道は決して一つだけではない。これからの世界を考える
とき、決して安閑とはしておられないが、克服できないことではない。
まずは動き出さなければ何も見えてこない。
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しのびよる貧困の影

2009-10-05 16:07:02 | Weblog
 セーフティーネット・クライシスしのびよる貧困 子どもを救えるか。
この番組は2009年10月4日午後9時からNHKで放映された。
時間帯が時間帯であっただけに多くの方が見られたのではないだろうか。

 一般的に私達は、日本は豊かな国だと信じてきた。また、日本が
今日あるのは高い教育水準を維持してきたからだと思っている。

 貧困で授業料が払えないとか、食事も満足に出来ないとか、病気に
なっても診察代が払えないので病院に連れて行けないなどと言うことは
この豊かだと言われる日本ではあり得ないことだと思っていた。

 また、仮にあったとしても特殊な事例だと思っていた。ところが
そうではなかったことに驚きと、それを許してきた自民党政治に怒りを
覚えざるを得ない。この日本は社会システムそのものが急速に劣化
しているような気がしてならない。

 何が経済大国だ、何が先進国だと言いたい。こんな国にしてしまった
のはいったい誰だ。考えてみればバブルが崩壊して以来、私達は私達とは
遠い存在であった金融機関の方にばかり気を取られていた。銀行の救済
だとか郵政改革だとか、そんなどうでも良いこと目を奪われてきた。

 そうした状況の中で私達は国の窮状を救うためには多少の犠牲は
やむを得ないと思っていた。その一例が年金問題であった。年金が
破綻状態にあると聞かされ、65歳までは働かざるを得ないと考え
本来ならバトンタッチすべき若者達の労働の場を奪ってきた。

 一方、若者世代の働き方にも大きな変化が生じていた。フリーター
だとか派遣とかという日雇い労働者のような雇用形態であった。一見
自由な気風に見える働き方も仕事が有り余るほどある時は良かった。

 働きたいときに働き、それなりの生活を送ることが出来ればその方が
気楽で良いと考える若者も少なくなかった。しかし、デフレスパイラル
と言われた長く厳しい経済状況の中で就職浪人が多発し、それは結果的
に雇用の不安要因となって、国民保険や雇用保険の弱体化を招いてきた。

 折しも年金問題では社会保険庁の杜撰な年金管理の状態が明らかに
なり、どうせ貰えないのなら、そんなものに金を払う必要はないといった
若者達の風潮を生む結果になってしまった。

 一方、企業にとっては年金の半額負担がなくなることであり、終身
雇用の保障義務がなくなる事でもあり、ある意味歓迎すべき事であった。
こうして社会保障という国家の財政基盤まで揺るがしかねない状況に
陥ってしまった。

 これ全てかつての自民党政府と小泉改革と称する構造改革によるもの
であった。私達は、まんまと小泉、竹中の術に陥れられ、なくしては
ならないものまでなくしてしまった。小泉を悪く言う前に自分の愚かさ
に気付くべきだったかも知れない。

 しかし、不幸中の幸であったのは、この衆議院選挙で民主党政権に
変わったことである。今後の財源をどうするか、議論になっている。
私は消費税も必要なら上げればよいと思っている。

 しかし、その前に富の偏りを正すべきであると考えている。あまり
にも富は一方に偏りすぎている。所得税や法人税をもっと上げて富の
平等を正すべきではなかろうか。

 金は天下の回りものである。偏った状態は経済の回復にはならない。
もっと広く国民全体に行き渡るようにすべきだ。国の礎は言うまでも
なく人である。その中でも子供は将来を託すべき礎である。その礎が
今、危機的な状態にあることを考えると無視できないことである。
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景観保護裁判

2009-10-02 17:17:20 | Weblog
 開発オンリーだった日本列島に異変が起きている。日本列島改造論
を言い始めたのは建設業をしていた田中角栄氏だった。

 以来、日本列島には大型投資が相次ぎ、瞬く間に日本列島は今日の
ような姿に変貌していった。こうなった背景には、それなりの理由が
あり、国民自身もそれを許してきたことは否定できない。

 現に、こうした大型投資は国の資産を増やし、国民自身もその恩恵
に預かってきた事は否めない。しかし、ものごとには限度というもの
がある。その限度をわきまえることもなく、湯水のように使いもしない
箱ものやダム建設を続けてきた結果、国も地方も莫大な負債を抱える
ことになってしまった。

 また、日本らしい美しさを壊してきた。壊したものは再び元の姿には
戻らない。私達は、ほんのひととき、この地球に住まわせて貰っている
だけの存在だ。そんな私達が、誰の許しもなく必要以上に自然や景観を
壊すような権利を有しているのだろうか。

 美しい自然や町並みは、私達が祖先から受け継ぎ、次世代に引き継ぐ
べきものである。その意味合いに於いて「鞆の浦の景観保護裁判」は
画期的であった。

 福山市の「鞆の浦」は、古くからの由緒ある港であった。歴史を
紐解くと多くの歴史上の人物がこの町を通り過ぎていった。その昔
交通手段と言えば海が中心であった。むろん、海岸線をゆく陸路も
あるにはあったが、海の方が遙かに速く、ある意味安全でもあった。

 遙か中国へ遣わされた遣唐使も遣隋使もこの港に立ち寄って、遠く
日本海へこぎ出して行った。帆船であった頃、船は潮の干満と風を
利用しての走行であった。そのための潮待ち風待ちの港として、大きく
湾曲した浜は天然の良港であった。

 町の中には古い神社や仏閣、商家がたくさん立ち並んでいる。ここを
訪れると、古き良き時代にタイムスリップしたような感じがする。また
町にはこうした古い建物を利用したおしゃれな店も少なくない。

 こうした店では、大抵、若い人が働いている。景観を守っているから
こそ出来る商売であり若者も集まってくる。多くの観光客もこうした
町並みを楽しむためにやってくる。倉敷の美観地区と同じである。

 どうか、一時的な利便性のみを追求するのではなく長く後生に美しい
景観を残すような事を考えて欲しい。確かに、この町の交通の利便性は
良くないのだが、生活の事だけを考えるのであれば、取るべき方法は
海岸の埋め立てや橋を架けるなどと言う方法ではなく、他に方法も
あると思うのだが。
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