人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

錆びるということ

2013-10-31 05:55:05 | Weblog
 鉄は著しく酸化しやすい。従って古代の遺物である青銅器はたくさん発見されて
いるのに鉄器の発見は少ない。発見されても元の形が判別できないくらい錆びている。

 酸化とはものが腐ることであり、錆びることである。ものが腐るとおびただしい
腐臭を発する。形が崩れてしまう。人間の体も年を取るごとに酸化している。老化は
ある種の酸化でもある。

 生物は酸素を活用するようになって著しく活動的になった。ブドウ糖と言う
炭化物質を燃焼させ、熱エネルギーを獲得することに成功したからだ。人間の
体温も酸素によってブドウ糖が燃焼しているからだ。その代り体の老化と言う
高い代償を払うことになった。生まれて以来、人間の体は酸素によって老化している。
老化はどうしようもないことである。

 今の先進国と言われている国々は成熟した社会だと言われている。しかし、反面
酸化した社会だと言えよう。政治をはじめとして社会全体が修復不可能なくらい
機能不全を起こしている。いわば錆びて腐臭を発している状態だ。

 この状態を修復するには酸化から還元型の社会へと変革しなければならない。
ちなみに原発事故による放射能被害は放射能物質が発する電磁波による酸化である。
α、β、γと名付けられた各種の電磁波によって生物界全体が著しく酸化している。
体が酸化すると免疫力が落ちてくる。免疫力は生物が悠久の時の流れを得て獲得して
きた体を守るための機能である。そう簡単に壊れるものではない。従って免疫力を
維持し高めるためには自らの努力も必要になってくる。

 免疫力は、どうやら気力とも大いに関係しているらしい。心の持ちようで大きく
変化するものだということが医学的にも証明されている。西洋医学を学んだ
お医者さんでさえも同じようなことを言っているのだから間違いはないだろう。

 さて話は変わるが現代に生きる私たちは豊富な情報に囲まれて生きている。
どれが正しくて有用な情報か消化しきれていない。むしろ情報に振り回されている
と言っても過言ではない。しかし、情報の良し悪しの判断ばかりは他人に頼る
ことは出来ない。自らの考えに基づいて判断を下すしか方法がない。

 その一つの解決策として私が考えたのは、太古の昔を想像してみよと言うことである。
全ての原点は、私たちが飢えを癒すために食べ物を求めて山野を駆け巡っていた頃にある。
たった百数十年前のことではなく、何万年と言う人類が誕生してからの歴史の中にある。

 畑を作っていてつくづく考えるのは畑ほどそれを管理する人の思想により変化する
ものはないということである。たとえば雑草のことについて考えてみよう。雑草と
呼ばれるものはことごとく悪いと考えている人は、畑に草が生えているとたまらなくなる。
中には一本の草もなくきれいな畑もある。

 しかし自然農を目指す人は草も自然の一部だから癇性に抜く必要はないという
考えである。むしろ季節外れの雑草は生やしたままで、やがては枯れて肥料になる
と考えている。こうしてみると両者の考えには月とスッポンほどの開きがある。
ことほど人の考え方には違いがある。その違いが肉体と言うものに大きな影響を
与えている。

 昔から畑に草を生やさないのが篤農家だと言われてきた。今も日本人の心を支配して
いる。その自縛から逃れられない人が多い。私もどちらかと言うとその一人である。
畑を維持管理するには余分な労力を必要とする。しかし我が家の果樹畑では維持管理が
出来なくて仕方なく笹も草も生えるがままにしている。このままの状態で何年が過ぎた
であろう。

 今は、ほとんど気にならなくなってしまった。しかし、どの果樹も比較的良く出来て
いる。特に柑橘類にとって雑草は全く問題にはならないようである。栗も柿も同じ畑で
作っている。今年、栗は従来になく豊作であった。

 そして農薬も使わなくなった。あれほど癇性にあれこれと使っていた農薬は、今は
ほとんど使っていない。それでも一部の種類を除けば良く出来ている。出来ればよし
出来なくても諦めて来年を待つ。そんな考えで作っている。

 こうした考えになって五、六年が過ぎた。変化は数年前から現れ始めた。蜘蛛が著しく
繁殖し始めたのだ。その蜘蛛も今年は少しばかり少なくなった。餌になる虫(害虫)が
少なくなったからだろうか。不思議な現象である。

 ものの本に書かれていたが自然農に近くなれば近くなるほどミミズもいなくなるという。
我が家の畑では自然農には今少し時間がかかるようである。ミミズもいるし、蜘蛛もいる。
まだまだ私自身の修行が足りないのかも知れない。

 このように畑を作ると、その人の性格やものの考え方が如実に反映される。自然界に
手を加えれば手を加えるほど手が掛かるようになる。何もせずにそのままにしておく方が
良い。そんなことを教えてくれる畑である。

 体には免疫力と言うものが備わっている。その免疫力を生かし切れないまま熱を
下げる薬を飲んでしまう。それによって免疫力が失われる。実は悪循環なのだ。
体温が上がると(38度5分くらい)になるとマクロファージの働きが活性化する。
体の免疫機能は体温を上げてマクロファージの働きを活性化するように出来ている。
38度5分くらいの体温が最もマクロファージの働きが活性化すると言われている。
そのように人間を進化させてきた悠久の時の流れが体の機能を作っている。

 こうした体についても畑と同じように、その人のものの考え方が深く影を落としている。
清潔にするということはコマーシャルで盛んに宣伝され様々な製品が販売されている。
しかし、ほんのわずか昔、西洋では馬小屋に子供を連れて行き、わざと馬小屋の藁で
子供を汚していた。むろん子供に免疫力を付けるためである。今は清潔に清潔にし過ぎて
全く反対のことをしている。

 その昔、私たちの祖先は風呂に入る習慣もなく、洗剤や石鹸などと言うものも
知らなかった。それでも生きてきた。生きてきたどころか今日の大繁殖の基礎を
作ってきた。本当にそれほどまでにして清潔にすることが必要なのだろうか。

 私たちは今こそ過去を学ぶ必要があるのではないだろうか。発想を変えて今に生きる
術を身に着ける必要に迫られているような気がしてならない。何気なく習慣的に
続けてきたことに思わぬ落とし穴はないのか。マスコミや他人の考えに振り回されない
自分自身を作りたい。そう思うのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2013-10-30 05:39:23 | Weblog
 長く暑い夏のうだるような暑さもいつの間にか過去のものとなってしまった。
まこと時の流れ、季節の移ろいは早い。そして厳しい冬が目の前まで来ている。
今年はことのほか厳しい冬になるそうである。地球温暖化だと言うのに何故にと
思う人も少なくないのではなかろうか。

 温暖化現象はまことに奇妙なもので、北極のような極寒の影響を受けにくいと
思うような場所のほうが実は温度上昇が激しいなど、気圧配置や偏西風の蛇行や
海水の温度や潮の流れなど様々なファクターが複雑に絡み合って、このような
ことになるらしい。

 それにしても集中豪雨だとか台風だとか竜巻だとか予測のつかない気候変動に
振り回された一年であった。そして、こうした影響を受けているのは日本だけでは
ない。報道されないだけで様々な国や地域で大きな変動と災害を経験している。
そして、それが定常化しているのも昨今の特徴的なことである。

 さて、水は私たちが生活していく上でどうしても欠かすことの出来ないものである。
多少食事を取らないことがあっても体にとって水だけはどうしても必要なものだ。

 日本国内では、その水はいとも簡単に手に入る。水道の蛇口をひねれば大量の水が
出てくるようになっている。しかも衛生的な水である。街に出てもいたるところに
自販機があって簡単に買うことが出来る。

 しかし、世界中を見回すとこんなところは非常に少ない。水道施設はあっても
病原菌に汚染されているような不衛生な水道も少なくない。メンテナンスが十分で
なかったり水圧が低すぎて周辺の不衛生なものが水道の中へ流れ込んだりするからだ。

 私たち日本人もつい戦後の一時期までは水道のない生活をしていた。水道があるのは
ほんの一部の都会に限られていた。大半は掘った井戸からくみ上げた水を使っていた。
汲み上げる方法にも色んな方法があった。一番原始的で簡単な方法は釣瓶というものを
井戸の中に沈め掬い取った水を汲み上げて使っていた。その後に手押しのポンプが普及した。
しかしこれも人力を必要とした。

 そして電化製品が普及し始めてモーターの動力で汲み上げる井戸ポンプが普及した。
モーターによる井戸ポンプが普及してから水道によって家の中まで水を引き込むことが
出来るようになった。お風呂の水も釣瓶からバケツに移し替え運ぶ必要もなくなった。
多くは子供たちの仕事でもあったから子供たちは水汲みと言う重労働から解放された。

 今もアフリカなどでは遠く二キロも三キロも先の水汲み場へ毎日通わなければならない
子供たちがたくさんいる。そんな映像を見ると私たちの幼いころを思い出させる。

 このようについ最近まで水を手に入れることは簡単なことではなかった。水は生活用水
ばかりでなく農業に欠くことのできないものである。何を栽培するにしても水は絶対に
必要なものだ。それは畑を作ってみると良くわかる。

 その水は天から降ってくるものが全てである。雨や雪が降らなければ農作物は作れない。
インドやアメリカでは地下水を汲み上げてお米や野菜や穀物を栽培している。アメリカ
では水を動力で汲み上げ大掛かりな灌水設備で散水している。その水も化石水と言って
遠い過去に降った雨や雪である。

 しかし、こうした地下水を汲み上げて農作物を作っている国は、ほんの一部であり
地域に過ぎない。大半は季節ごとに降る雨を頼りに農業をしている。ここ岡山県の
瀬戸内沿岸や海を挟んで向かい側の香川県は、大きな河川もなく昔から年間の降雨量が
少なかった。そのため農業は大規模な灌漑用水が出来るまで池に頼っていた。池に
水を溜めておき必要に応じて使っていた。従って水はまことに貴重なものであった。
香川県には満濃池と言う有名な池がある。

 昔から水をめぐるトラブルは堪えなかった。田植え時期になると下流のものは
上流のものに手土産持参で水を分けてくれるように挨拶に行くのが恒例であった。
従って、今も水の権益を握っているのはお百姓さん達である。地元を流れる一級河川
「高梁川」の水利権の筆頭は農業となっている。

 この高梁川も何度か渇水の危機があった。その都度、渇水対策会議が開かれ水の
使用制限があった。私も役目がら会社の代表として何度かこの会議に出席したことがある。
その席で初めて知ったのが水利権の優先順位のことであった。お百姓さんが首を
縦に振らなければ工業地帯に水を分けて貰えなかった。

 今は、ほとんど使われなくなった池が私の周辺各所にある。昔はそれぞれの池に
頼る農地が下流域にあった。そんな田んぼも畑に変わり果ては住宅地に変わっていき
今やほとんど田んぼは消えてしまった。

 それでも池は残っている。残されている。一部には半分埋め立てたとかいうところも
あるが多くは昔のまま残っている。農業が盛んだった頃、年に一度は池を干して点検や
掃除が行われていた。水路も整備していた。そうしたことをやめてしまい何年になるだろう。

 つい先日も山奥の池を見る機会があった。その池は山間地にありきれいな水で有名な
池であった。子供たちが保育園に通っていた頃、この池まで遠足に行き、帰ってきて
きれいに池に行ったんだと一番に話してくれたことがある。子供たちの目にもその美しさが
印象的だったのであろう。それほどきれいだった池が薄汚れ見るも無残な状態であった。

 その池だけでなく、昔はどの池もきれいな水であった。池の上流に民家がなかった
こともあるが、生活用水の流入は厳しく制限されていた。水は農業に欠くことの出来ない
もので、しかもお米と言う神聖なものを作るということから最も大切にされてきたもので
あった。その池が無残にも汚れ、夏場には腐臭が漂うようなものになっている。中には
上流に出来た住宅から生活排水が流れ込んでいるような池もある。

 水を大切にするという心が失われている。実に嘆かわしいことである。先祖は井戸に
神をまつり、川や池に感謝の心を捧げてきた。今もう一度水について考えてみたい。
水を粗末にすると天罰が当たる。きれいな水は鏡でもあった。水鏡と言う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キングコーン

2013-10-25 05:56:53 | Weblog
 二度咲きの金木犀が爽やかな香りを庭一面に漂わせています。我が家の庭には
良い匂いを放つ植物をたくさん植えています。その代表ともいえるのが金木犀です。

心配された27号と28号のダブル台風も列島の沖合を過ぎ去っていくようで
岡山県も大きな被害を受けることもなかったようで良かったですね。他地域への
被害も少なければ良いのですが。

 
 さて、キングコーンなどと書くと、なにこれ「キング・コング」の間違い
じゃあないのと言われそうだが間違いなく「キング・コーン」なのです。
そしてアメリカ映画のタイトルなのです。

 この映画はアメリカの食糧事情と遺伝子組み換え作物、更には農業政策に
ついて余すところなく描いています。何よりこの映画の良いのは真っ向から
批判するのではなく茶化すところはちゃんと茶化しているので重く感じません。

 しかし、内容は実に重い映画です。重い映画を重く見せないための工夫が
とぼけた感じの二人の青年の言動と行動かもしれません。ぜひ一度観ていただきたい。

 ところで先日、日本のビールメーカーにアンケートを取った結果が
出ていました。質問はただ一つ、コーンスターチ使用と表示されている
ビールの原料は遺伝子組み換えのものですか、それとも従来型のトウモロコシ
ですかと言う質問でした。

 むろん全てのメーカーの回答は従来型のもので遺伝子組み換えのものでは
ないとのことでした。ビール愛飲家の私としては一安心でした。しかし現実は
どこまで真実かわかりません。あの牛肉のBSE問題の時だって検査済みのもの
だと言って送ってよこしたアメリカです。ただただビールメーカーの回答を
信じるしかありません。

 遺伝子組み換え農作物の種子は、なんと化学会社が作っています。アメリカで
有名なのはモンサントという会社です。あの枯葉剤などを開発した会社です。
枯葉剤は発がん物質と言われているダイオキシンなどと同系列のとても危険な
化学薬品です。

 先ごろベトナムへ行った際、ベトナム戦争当時のものを陳列した博物館を
見学する機会がありました。拷問の道具や拷問部屋などと、とても恐ろしいものが
陳列されている傍らに、大きな瓶に入ったホルマリン漬けのものがありました。
これがベトちゃんやドクちゃんと同じ奇形の子供のものだったのです。戦争当時、
密林に逃げ込む北ベトナムの兵士に業を煮やしたアメリカ軍が撒いた枯葉剤による
奇形児の標本だったのです。何にでも興味を持っている私でも正視に堪えないほど
グロテスクなものでした。

 これほど枯葉剤やダイオキシンなどと言った薬物は恐ろしいものなのです。
放射能と同じように長く土中にとどまって動植物をむしばんでいきます。
同じ系統の薬物に雑草を根こそぎやっつけるという除草剤があります。
そもそも抜いても抜いても後を絶つことが出来ないほど生命力の強い雑草などを
除草剤のごときもので枯らすことは出来ません。必ず数か月を待たずに
他の草が生えてきます。それが自然と言うものなのです。それより恐ろしいのは
人間や動物に及ぼす影響です。宣伝文句には、土中ではすぐに分解されて
しまいますなどと書かれていますが、それでは分解されて何になるのかまでは
書かれていません。諸外国では使用制限されているものが日本では堂々と
店頭に並んでいます。しかもコマーシャル入りで販売されています。

 私は除草剤を使わないことにしています。使ったことはありますが、使用後が
非常に心配でした。何よりも先ほど書いたように草はすぐに生えてきます。
今は面倒でも草刈り機や鎌で刈って、刈った草はそのまま寝かせて枯らしています。
こうしておくと草はいつかは土に帰っていきます。

 その除草剤に負けないようにと開発されたのが遺伝子組み換えのコーンであり
大豆なのです。今や世界中に色んな形で遺伝子組み換えのトウモロコシや大豆が
出回っています。雑草を枯らせてしまうほどの除草剤に打ち勝つような農作物とは
どのようなものなのでしょうか。

 こうしてアメリカでは補助金付きで栽培された大量の伝子組み換え
トウモロコシは処分に困り、産地では野積みされています。遠くから見ると
石炭のぼた山のようにも見えます。農家は作れば作るほど補助金が出ますので
使われようが使われまいが作り続けます。処分に困って開発されたのが
コーンシロップなのです。この技術、もともとは日本の研究者が開発した
ものだそうですが、今やアメリカの一大産業になっています。

 そしてコーンシロップは様々なネーミングでカムフラージュされ加工品に
添加され市場に出回っています。砂糖よりはるかに価格が安く、今や使われて
いない加工食品を探すのが難しいくらい大量に使われています。

 今、コーンシロップによる健康被害が心配されています。砂糖などは胃腸で
消化されブドウ糖に変わって体に吸収されていきますが、コーンシロップは
そのような行程をおたどることなくダイレクトに肝臓に運ばれて行くそうです。
そうして脂肪肝などの原因になると言われています。特に夏場の清涼飲料水は
冷やして飲みますので甘さを感じられるように、たくさん入れられています。
子供には清涼飲料水はお勧めできません。

 ましてやファーストフードとしてのハンバーガーとコーラと言う組み合わせに
なると健康被害は間違いなく増します。現に南太平洋のある島国ではアメリカ
ナイズされた食生活のため島民の多くが成人病に苦しんでいると言われています。
当のアメリカでもこうした食生活が大問題になりましたが、何故か日本では
ほとんど報道されませんでした。スポンサー付きの報道などと言うものは
信用できません。

 さてキング・コーンのお話は、これだけにとどまりません。日本やアメリカの
牧畜にも深刻な問題を投げかけています。それは飼料として輸入している
遺伝子組み換えのトウモロコシです。飼育されている牛や豚は一世代で
ト殺され肉として販売されます。従って遺伝子組み換えの農作物による影響を
確認することが出来ません。

 しかし、人間は長くそうしたものを色んな形で体に取り込んでいます。
一世代だけでなく幾世代にもわたる影響を追跡してみなければ分からないことが
たくさんあります。ただでさえ脂肪分が異常に多い肉を食べ続けています。
その上、遺伝子組み換えのコーンが入った飼料を食べさせた食肉を食べて
いるのです。様々な影響が考えられます。

 さて「世界が食べられなくなる日」という映画が話題になっています。
早くから食に関する警告めいた映画は何本か作られてきました。現代人は
食に関して満たされているようで意外にも多くの問題を抱えているような
気がしてなりません。キングコングならぬ「キング・コーン」についても
一度考えてみてはどうでしょう。現代人が抱えている様々な肉体的、精神的な
病気も原因はこうした食生活にあるのではないでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

太陽の子

2013-10-23 05:39:47 | Weblog
 先日、小学校へ省エネ出前授業に行った際、君たちは太陽の子だよと言ったら
子供たちはみんなきょとんとしていた。

 実は私たちの生活の全てが太陽に依存している。そもそも太陽の存在がなければ
地球上の生物は、ここまで進化していなかったかも知れない。

 私たちの体は太陽が育てたものを食べて作られている。いわば太陽エネルギーが
形を変えて、この地球上の動植物になっている。むろん他の動物や植物を食べ物
にしている私たち自身も同じことである。

 伝説的な話になっているが、学校給食を食べるとき、ある母親が「いただきます」は
自分の子には言わせないで下さいと言ったとか。本当にあった話かどうかは定かでないが
この場合の「いただきます」は、学校給食のお金を支払っているからと言うわけではなく
自然の恵みに対しての感謝の言葉である。決して給食を作ってくれている学校に対して
言っているわけではない。勘違いも甚だしい。私たちは自然の恵みなしでは生きていけない。
多くの動植物の命を頂いて生きている。

 さて、地球上のエネルギーの全ては太陽が作り出したものだ。過去の遺産である
石炭も石油も天然ガスも全ては太陽エネルギーが姿を変えたものだ。太陽エネルギーを
得て動植物達が気の遠くなるような歳月をかけて作り上げてきたものだ。それが姿形を
変えて地中深く閉じ込められてきた。それを掘り出して使っている。遠い昔に太陽から
来た光と熱エネルギーが姿を変えたものである。

 しかし問題なのはエネルギーとして閉じ込められたのは電気や熱や光そのものでは
なかった。全ては炭素との化合物という形で閉じ込められてきた。当然のことながら
使えば使うほど炭素は二酸化炭素と言う酸素との化合物として大気中に放出される。
放出されたものは温暖化ガスとなり地球温暖化の原因となっている。

 産業革命以来、大気中の二酸化炭素は増え続けている。気候変動は複雑なメカニズム
なので全ての原因を二酸化炭素など温暖化ガスに転化するわけにはいかないが、大きな
原因の一つとして考えても間違いはないだろう。

 実は風も波も海水以外の水も太陽エネルギーが姿を変えたものである。風力発電
太陽光発電、水力発電、全ては太陽エネルギーによるものである。ところがエネルギー源
として一つだけ異質なものがある。それは太陽に依存しないエネルギー源である。

 それがウランの崩壊熱による原子力である。太陽エネルギーとは全く異なるものが
今私たちを悩ませている。最終処分もできず、いわば垂れ流しの状態で使い続けている。
原発はパンドラの箱のようなもので一度ウラン235が崩壊を始めるとおびただしい
物質を作り始める。それらがプルトニウムやセシウムと言った放射性物質である。

 放射性物質は自ら崩壊をし続けながら安定するまで放射能と言う電磁波を出し続ける。
この電磁波が人間や他の動植物の遺伝子を壊していく。実に厄介で恐ろしいものだ。

 原子炉はいわば開けてはいけない「パンドラの箱」のようなもので、いったん開けて
しまうと魑魅魍魎(ちみもうりょう)が次々と飛び出してくる。決して地球温暖化防止
の切り札などではない。

 私たちは残念ながら騙されてパンドラの箱を開けてしまった。今や取り留めのない
放射能と共存していかなければならない時代に生きている。罪科のない幼子たちまで
巻き込んでしまった。その責任は重い。私たちはどのように将来に対し責任を取れば
良いのだろうか。知らなかったで済むことなのだろうか。深く反省したい。

 私たちは間違いなく太陽の子として生まれてきた。私たちを生んでくれた親たちも
太陽の分身だ。いずれ太陽のもとへ帰っていく運命にある。もっと生きることの本当の
意味を考えてみたい。そして明日からと言わず今から生き方を考えてみたい。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウンカの被害

2013-10-21 04:54:14 | Weblog
 瀬戸大橋線の児島から岡山までの沿線には広大な水田地帯が広がっている。
かつて干拓によって海が広大な田園地帯となったところだ。田植えが終わり
夏の盛りの頃になると成長した稲が風になびく様は清々しく美しい。

 ところがこの水田地帯に異変が起きている。ツボ枯れと言う現象だ。まさに
ツボ枯れと表現されているようにサークル状になって刈れたところが目につく。
その数は並みの数ではない。ひどい田んぼでは半分以上が茶色く枯れて倒れている。
これから稲刈りが始まろうかと言う田んぼである。

 どうやらウンカと言う小さな昆虫によるものらしい。昔は稲作に重点を置いた
生活だったので幼少のころからウンカの被害については聞いていたこともある。
昔から稲作農家にとっては深刻な被害であった。

 このウンカと言う昆虫は検索してみると実に種類が多い。そして近縁には
ウスバハゴロモという少し大型の昆虫もいる。このウスバハゴロモという昆虫も
今年は異常発生していた。

 この昆虫、小さいころは真っ白な粉のようなものに覆われていて体型を見る
ことは難しい。しかし捕まえて体を覆っている白い粉を取ってみると成虫の形に
似ているのでウスバハゴロモの幼虫だということが確認できる。

 しかし幼虫時代はまるで別物のように見えることもある。この昆虫は蝉の形に
似ている。と言うか蝉を小型にしたような形をしている。我が家では芙蓉の木や
かんきつ類に好んで住みついている。これらの幹にたかり木の汁を吸っているのだ。
これも蝉と似たような生態をしている。もう少し調べてみるとカメムシなども
近縁だと書かれているので、いずれ同じ祖先から枝分かれしたものであろう。

 夏になると開け放した窓の網戸に白いものが点々と付いている。ウスバハゴロモの
幼虫を覆っている白い粉だ。まことに厄介な昆虫である。
 
 これらいずれも植物にとっては天敵のようなものである。茶色いカメムシは
ピーマンや大豆を好んで取りつき、時にはピーマンの枝ごと枯らせてしまう
ことがある。我が家では毎年このカメムシの被害で困っている。

 少し横道に逸れてしまったが、このウンカの被害は日本だけのものではないらしい。
東南アジアの稲作地帯一帯に徐々に広がりを見せているようだ。どうやら日本では
見られなかったようなウンカまでもが被害をもたらすようになっている。これらは
強い風によって中国大陸から運ばれてきたものだと言われている。空には国境が
ないから厄介なことだ。日本に及ぼす被害はPM2.5によるものだけではなさそうだ。

 しかし不思議なのは隣接している田んぼでも全く被害のないところもある。
これは単なる偶然なのだろうか。それとも何か理由があるのだろうか。私の親戚では
全く被害を受けていないそうで、しかもその田圃は農薬の散布など十分な手入れも
していないとのことなので不思議なことである。稲の種類によるものか、それとも
栽培方法によるものか、はたまた農薬などの違いによるものであろうか。親戚の
自然農法に近い何もしていないということに何かヒントがありそうだ。

 今年はことのほか高温の日が多かった。人間ばかりでなく農作物も相当なダメージを
受けたに違いない。自然界では丈夫なものは滅多に被害を受けない。百獣の王ライオン
でさえ元気の良い成獣は狙わない。たいていの場合は弱っている個体や幼獣が餌になる。
植物でも同じだ。弱り目に祟り目と言うように弱っているものに害虫が取りつき枯らせて
しまう。これが自然界の掟と言うものであろう。弱ったものから淘汰されていくのは
自然のあるべき姿だ。どうも今年の場合は地球温暖化による異常高温によって稲が弱り
弱ったものからウンカにやられていったのではなかろうか。

 ウンカが大発生する好条件が幾日か続いたに違いない。害虫も発生する時期と条件が
整わなければ年がら年中発生しているわけではない。我が家のウスバハゴロモも毎年
見られるが、ことのほか今年の数が多かったのは最適条件があったのではなかろうか。
ともあれ農家にとっては実に深刻な被害である。

 こうした異変は海にも陸にも起きている。そして人間界にも同じような異変が起きている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

食べ物

2013-10-20 06:12:30 | Weblog
 日本は多くの食料品を諸外国から輸入している。輸入先を調べてみると面白い。
オマーンのような砂漠の国からレタスを空輸しているようなケースもある。
何で水の少ない砂漠の国から輸入しているのだろうか。こんな事例もある。
商社が指導して南太平洋の島国でカボチャを栽培させて輸入している。

 実は農作物の輸入に関しては水を輸入しているという考え方もある。
つまり輸入している農作物を栽培するには莫大な水を必要とするからだ。
従って、そのような表現となるわけだ。

 野菜など鮮度を保つために空輸となると莫大な燃料を使っている。空輸の
度に大量の二酸化炭素を放出している。従って、こうした輸入農作物に関しては
フードマイレージという表現が使われる。食糧の輸送距離と言う意味である。
輸送距離が長ければ長いほど二酸化炭素の放出量は多くなる。

 野菜の栽培でさえ形を変えて化石燃料が使われている。川のない国では
地下水をくみ上げるときに動力を必要とする。化石燃料の使用によって
膨大な二酸化炭素が大気中に放出されている。これが地球温暖化の原因だと
すれば、輸入によって食糧を確保している罪は重い。なので健康のため
ばかりでなく地球環境のためにも、そのような無駄なことは出来るだけ
止めるようにしていきたい。とは言いながら産地表示が必要のないところで
使われていたら対策のしようがない。お弁当やサンドイッチなどに加工されて
いるものだ。

 日本の食糧自給率は約40パーセントくらいだと言われている。残りの
60パーセントは輸入に頼っている。多くはブタや牛や鶏の飼料として輸入されて
いるコーン(トウモロコシ)などだが、直接口に入るものも少なくない。
それらの多くは日本人が好んで食べる魚介類だ。おなじみのサバなどは北欧から
輸入しているし、何と日本のオリジナルかと思っていた鮭までも南米のチリから
輸入している。チリからの輸入品はワインだけではない。むろん南米に鮭がいる
わけはなく日本の技術によって養殖されている。ケンサキイカもベトナム産と
表示されたものが多い。

 それにしても食糧自給率が40パーセントとは由々しき事態である。もし日本の
円の価値が大きく下落でもしたら輸入できなくなってしまう。だから以前から食糧の
自給率を高めようと言われてきた。これを食糧安保と呼んでいる。食糧の安全保障と
言う意味である。しかしTPPなどと言う国際条約が取り交わされるとますます
難しいことになってくる。日本の生産者価格は高い。それは狭い国土の中で生産
しなければならないという大きな制約があるからだ。

 私は少しでも食糧自給率を上げるために自家菜園を勧めている。微々たるものだが
老夫婦が食べていくだけの量であれば野菜や果樹程度のものは作ることが出来る。
また農家の応援も必要だ。輸入品を避け少し高くても国産品を購入し農家を応援したい。
農作物を栽培してみて感じることであるが曲がったキュウリならたくさんできる。
農家はまっすぐなキュウリを作るために過剰なまでの努力をしているし、曲がった
キュウリは市場に出てこない。消費者は少し曲がったキュウリでも調理してしまえば
関係ないことなので買って食べるようにしたい。先年、多くの国を回って感じたことだが
日本ほど果物や野菜の選別が厳しい国はない。外国では傷のついた果樹なども店先に
たくさん出ている。

 ともあれほんの少し日本の食糧事情について触れてみたが、やっと包装技術の
改善などで食料品の一部に賞味期限の延長が始まるらしい。輸入食料品の多くが
廃棄物などとして捨てられている。その量が膨大であり、お金に換算しても莫大な
お金が焼却場に消えていることになる。その廃棄物もお金をかけて処分している
わけで、私たち日本人は随分浪費をし環境を汚していることになる。

 もっと食べるものを大切にしたいし、少し贅沢を控えるようにしたい。
その努力を一人一人がするだけで温暖化防止につながっていく。私たちは
色んな形で生き物の命を食べて生きている。と言うよりは生かされている。
そのことを考えれば感謝せずにはいられないし、贅沢を控えるようにしたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏が終われば一気に冬か

2013-10-19 05:55:39 | Weblog
 夏が終われば一気に冬だ。我が家では一昨晩、石油ファンヒーターを出した。
家内がいかにも早すぎるだろうと言って笑っていた。しかし点火した途端に一気に
室温が上がり暖かくなった。酷暑と厳寒はどうやら隣り合わせているようだ。

 さて我が家の畑はと言うと栗の収穫が終わった。昨年は実りを前にして葉が
たくさん落ち、その上、実は害虫に食われてしまい収穫はゼロに近かった。
それまでの出来が良かっただけに残念でならなかった。水不足だったのだろうか。
それを反省し今年は入念に散水を行った。その結果、実はたわわに実り害虫の被害
も少なかった。冷蔵庫に入りきらなくて家内に苦情を言われたものだ。かつて
経験したことのない大収穫だったと言えよう。

 山の畑の富有柿は、この夏へた虫にやられて散々であった。それでも家から
眺めると全体がオレンジ色に見えるほど残っている。台風が次々にやって
くるのでカラス対策のネットがかけられなくて困っている。台風26号の
次は27号が猛烈な勢力で近づいている。

 かんきつ類は大豊作である。まだ緑のほうが勝っている宮川早生と言う
品種だが皮をむいてみると結構甘い。今は少し酸味が強いが日を重ねる毎に
甘くなり逆にこの酸味がコクとなっておいしさを増してくる。

 裏年を感じさせないのが八朔や夏ミカンである。これらは間引きもほとんど
していないのに実をたくさんつけてくれる。ここのところ裏年を感じさせない。
木の成長も良い。すでに二本とも見上げるような大木になっている。実を間引か
なくても裏年がなくなっていうるのはEM効果によるものだろうか。効果が
持続するように夏場も撒きつづけてきた。

 昨年は何もかもイノシシにやられて散々なとしであったが、イノシシ対策の
効果があったのだろうか、今年は今のところ被害は出ていないようだ。近所でも
被害に遭ったという話を聞かない。隣近所が申し合わせたように一斉に対策を
とったのが良かったようだ。対策は一軒だけしても効果はない。

 近くの水島コンビナートではシカが現れたと言って大騒ぎになっている。
とうとうコンビナートのようなところにまで現れたようだ。実は昨年、私の
家の近くにも出ている。同じシカかどうかは分からないが、コンビナートに
まで現れたとなると相当広範囲で行動しているのか、あるいは群れになるほどの
数がいるということだろうか。キツネやタヌキの話を聞くことや見かけたことは
あったがシカとなると珍しい。人のエリアと野生動物のエリアの区別が
なくなっている。

 野生と市街地の区別がつかなくなっている。近年、山へ入る人がいなくなった。
その昔は薪を取りに誰でも足しげく山に入っていた。そうしたことが全く
なくなってしまった。子供たちも山で遊ぶことはなくなった。そうしたことが
野生のものたちに人間の怖さを忘れさせたのかも知れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心と体

2013-10-17 05:45:35 | Weblog
 「オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある」とは
かのオリンピックを提唱したクーベルタン男爵の言葉だが、とかく昨今の
オリンピックでは記録を争うことに重点が置かれているような気がしてならない。
そしてオリンピックの誘致合戦も過熱し政治的な思惑が絡んでいるような気が
してならない。

 人間の肉体には自ずと限界がある。これを大きく超えての記録などと言うものは
あり得ない。確かに水泳でコンマ何秒と言う記録を短縮しただとか、水着の素材を
改良したら新しい記録が出たとか言っているが、これは果たして記録更新と言える
のだろうか。そうした記録を追求することより鍛え上げられた体で最高の演技をする。
最高の走りを見せる。耐久力の限界を感じさせる走りを見せる。最高の演技を見せる。
そうしたことに力点を置くべきではないだろうか。とは言え選手には記録を更新する
という目的がなければ励みにはならないのだろうか。

 さて2020年の東京オリンピックはどのような年になり、どのような協議が
展開されるのであろうか。

 健全なる心は健全なる身体に宿るとはローマの詩人ユベナリスの詩の中に出てくる
一節だが、私たちのように高齢者の域に達しようかと言うものの中には病んでいる
人が実に多い。多くは多分に生活習慣から来る病気のようだ。私の場合は年相応以上
に歯状が悪い。これなども多分に私の生活習慣からなったものだと自覚している。
もっと時間をかけて丁寧に磨くべきものを生来の気ぜわしさから簡単に済ませてしまう
癖がある。分かっていながらなかなか改善できない。

 甘いものが好きだとか、塩辛いものが好きだとかと言うのも生活習慣から来るものだ。
多分に自分の心がけ次第で変えることが出来る問題だ。私の知り合いに幾度となく
パソコントラブルを起こすものがいた。見ているとキー操作が早い。早すぎる。
どうやら当時のパソコンの動作が彼のキー操作についていけなかったらしい。パソコン
操作以外にも彼の日常行動の多くにそれが見て取れた。

 これは相手がパソコンの場合のことである。ことほど自分の性格やものの考え方を
考えるだけで改善できる病気も少なくない。むろん心の持ちようだけでなく、生まれ
ついての体の構造が一人一人異なるのだから、この人の場合は良くてこの人の場合は
良くないことも少なくないだろう。しかし心がけ次第や心の持ちようで良くなる病気も
少なくない。

 MK細胞と言うものがある。キラー細胞とも言われている。体にとって良くないものが
侵入してくると、すぐさま攻撃して無害化してくれる細胞である。人間にとって最大の
防御機能である。年を重ねるとこの防御機能が衰える。そこで体に出来た癌細胞を取り
込んで無害にすることが出来なくなる。従って、いかにこの防御機能を活性化させるかが
癌との戦いには必要だ。そのためには食べ物が大切だと言われている。肉食に偏ることなく
多くの野菜を食べることによって腸の働きを高め、とかく酸化しやすい腸内の状況を
変えなければならない。肉食に偏りすぎると酸化しやすくなってくる。

 そして更に大切なのは心の持ちようであろう。悔んだり悩んだりしていたのでは
免疫機能は著しく低下する。笑いヨガと言うのがあるそうだが、うわべだけの笑い
でも良いと言われている。癌患者が漫才や落語で癒され免疫力が高まったという
話を聞くことがある。気の持ちようで体は劇的に変化するという良い事例ではなかろうか。

 常に何かに不満をぶつけているような人に良い人生はない。心穏やかに、物事に
固執せず、心おおらかに生きることこそ健康で長生きの秘訣ではないだろうか。
腹を立てる、他人を悪く言う、人を恨む、自己中心的な生き方しかできない人、
こんな人は穏やかな死に方は出来ない。断言できる。自己を捨て他人にやさしくして
こそ人生である。そうした人の心は常に穏やかで長寿を全うしている。悟りを開いた
高僧などである。偉大な芸術家もそうかもしれない。中には自分で勝手に芸術家だと
言っている人もいるにはいるけど・・・。

 ものの本によれば汚い言葉も良くないらしい。言葉は言霊(ことだま)ともいう。
言葉には霊的なものがあると言うことだろうか。それくらい言葉の持つ意味は大きい。
そして口から発した言葉は相手にだけでなく自分にも跳ね返ってくる。木霊(こだま)
のようなものである。汚い言葉を投げかければ汚い言葉が跳ね返ってくる。まさしく
言葉と言葉の応酬である。

 汚い言葉は相手を傷付けるだけでなく自分にも”ぐさり”とくる。言い負かしたと
思っていても、その言葉は幾重にも自分の心を傷付けている。常日頃から心したい
ものである。やさしい言葉、慈愛に満ちた言葉を投げかけてみよう。きっと自分にも
良いことがあるはずだ。

 人間は非常に自己中心的である。それはある種の生きる力にもなっている。しかし
行き過ぎると大変なことになる。できるだけ自分と言うものを抑え、相手のことを思い
やるように心がける。何も神様や仏様のようになる必要はない。なれと言われても
なれない。しかし、ほんの少し考えを変えるだけで良い。それだけで心は軽くなるはずだ。

 人間は苦しむためにこの世に生を受けたわけではない。人生は楽しむためにある。
そのためにはまずは心を変えなければならない。「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
言い換えれば健全なる肉体を得ようとすれば、まずは精神のありようを変えなければ
ならないと言うことではないだろうか。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸せはお金では買えない

2013-10-15 06:33:05 | Weblog
 どうやら台風26号はやや南寄りに通り過ぎて行くようで
岡山県への直接の影響は少ないようだ。とはいえ今だ雨は
降っているし、窓をがたがた揺らしている。各地での被害が
ないことを祈る。

 さて今日はお金で幸せが買えるのかと言うことを考えてみたい。
お金は生活をしていく上でなくてはならないものですが、それが
全てかと言うとそうではありません。

 先進国に追いつけ追い越せと必死になって頑張ってきた中国でも
やっとそのことに気付き始めたようです。地溝油などと聞くと
まるで地下から掘り出したかのような油について話題になった
ことがありました。この地溝油なるものは石油のように地下から
掘り出したものではなく、排水溝に流れ込んだ食用油を掬い取って
薬物で精製したものでした。使う薬物も対象となる廃油もとても
食用になるものではありません。これが広く市場に出回っていた
ものですから大問題になりました。

 儲けのためには手段を選ばないという中国人らしい商売気質が
如実に表れた事件でした。他にも塩だと称して食用にはならない
工業塩を売っていたことがありました。被害も出ています。

 自分さえ良ければそれで良いという考えが行き過ぎるとこのような
ことになるのです。飲料水も場所によってはとても使えないほど
薬物に汚染されているそうです。

 全ては拝金主義の行き過ぎによるものです。使いきれないほどの
お金を貯めて何になるのでしょうか。お金は生きている時には価値が
ありますが、もてあますほどのものを稼いでも死んでしまえば自分に
とって全く価値のないものです。

 般若心経では生きている世界は全て泡沫(うたかた)のようなもの
だと言っています。姿があってないものとはどのようなことなのでしょうか。
周辺に存在する家も着物もむろんお金も、そして私たちの体さえも極小の
単位は光と同じようなものです。波動であり極小の粒子です。

 それが私たちの目には物の形をなし物の形に見えているだけです。
金や銀やダイヤモンドとて同じことです。お札に至ってはただの紙切れです。
一喜一憂することさえばからしくなってきます。

 中国ではバブル期の日本のようになりふり構わず豊かになることを
目指してきました。今もそうかもしれません。戦後の日本のように
貧しさから抜け出そうと必死でした。

 その結果、日本では家族間の断絶が始まり親子で骨肉の争いになる
ことも少なくありませんでした。そして今は無気力が氾濫し自暴自棄となり
そのための事件が後を絶ちません。

 全てが経済最優先で来た結果です。豊かになった先に何かがあった
のでしょうか。家族のきずなや知人友人のきずなは深まったのでしょうか。
中国では大金持ちだったときの友人は落ちぶれたとたんに潮が引くように
離れていったと言っています。そうした友人はうわべだけのお金に群がる
飢えたオオカミのようなものだったのです。

 そうしたことに気付き始めた人々の中に、急速に禁じられていた信仰が
浸透し始めているようです。キリスト教、そして孔子の教え儒教などです。
長く共産党独裁政治の中では厳しく禁じられてきたことです。しかし、今や
中国政府もそうしたことを黙認したり認めざるを得なくなっています。

 人は物やお金では救われない。ましてや資本主義だの共産主義だのと言った
イデオロギーだけでは統率できないということではないでしょうか。人の心は
複雑です。理論理屈を超えたところに心のよりどころがあるのではないでしょうか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

季節は二分化

2013-10-12 06:10:44 | Weblog
 私たちは何とも不思議な時代に生きている。一時は破滅かと思えた福島の
原発事故。2011年3月11日から始まった一週間、私たちは「最後の五匹」
と言うミュージカルに向けて猛練習をしていた。そして震災、それに続く
福島第一原発の爆発と言う最悪の事態、あの時は心冷え冷えとして
たとえようのない恐怖感と諦めにも似た感情が交錯していた。今もって
あの時の感情を適切に表現できない。

 最悪の場合は、外出禁止命令が出て数日間か、いや一週間は外を出歩くことは
出来なくなるのではないかと思っていた。従って公演間近だったミュージカルも
中止せざるを得ないかもしれないと思っていた。

 福島第一原発は地震と大津波によって完全に電源が失われ、予備電源も残り
わずかだと聞いたとき冷却機能が完全に失われた、もうこれ以上、爆発や
メルトダウンを防ぐ手段はなく、後は爆発がいつ生ずるのか、メルトダウンが
いつ始まるのか、他に救う手段はないのか、海水注入は、ホウ素は注入できない
のか、現場の関係者でもないのにやきもきしていた。

 そして数日後、圧抜きのためのベントの開放も出来ずに水素爆発とメルトダウンと
言う最悪の事態に陥った。爆発後の放射能を含んだプルームは東京上空にまで達していた。
その時には偏西風などのことは考えていなかったので、日本列島が完全に放射能汚染
されてしまうことを考えていた。

 私は昆布を買い、それを毎日噛んでいた。放射能を帯びたヨウ素による被爆を考えて
いたからだ。東京のことが大変気がかりだった。どう考えても東京都周辺の住民を
全て避難させることは困難だった。それこそ大パニックになって、そのための死者が
続出するかも知れなかった。第二、第三の悲劇が起こりかねなかった。

 あれから三年近くの歳月が過ぎようとしている。今は被災地もここ岡山も一見
何事もないような日々を過ごしている。とてもあのような大惨事を経験した国とは
思えないような状況だ。

 しかし事件はとても暗い影を落としている。それは私たちの潜在意識となって
ある種の自暴自棄に陥れているのではないだろうか。自暴自棄とも思えるような
不幸な事件が後を絶たない。私たちはしっかりと今を生きているという自覚を
持たなければならない。自暴自棄に陥る前に現実を直視しなければならない。
いつの時代にも困難はある。それに惑わされていてはいけない。今を生きる
気持ちが大切だと思う。

 さて困難な時代と言えばじわじわと進行しつつある地球温暖化の問題がある。
まるで季節を二分するような昨今である。真夏のように暑い日々が十月の半ばまで
続いた。こんなことがかつてあっただろうか。このまま一気に気温が下がるのか
どうかは分からないが過ごしやすい秋が短くなったことだけは確かだ。
秋にちなんだ童謡の数々を思い出すとき、子供のころのような満ち足りた
穏やかな秋はどこへ行ってしまったのだろうと思う。

 気象の変化が激しくなっている。荒々しくなっていると言ったほうが良い
のだろうか。穏やかな日々は長続きせず、突然にとてつもない大雨になったりと
温暖化の特徴だと言われている現象が頻々と起きている。暑すぎる夏、寒すぎる冬
気温の乱高下が激しい。

 人間の心は実に弱く脆い。周辺の変化に惑わされやすい。そしてマスコミと
言うものの報道にも何かと心惑わされることが多い。何が真実か見極めにくい。
正義の味方だと信じていた検察がマスコミと共謀して事件をでっち上げる。
実は戦前にも多々あったことだが、一般の私たちの目には何を信じれば良いのか
分からなくなってくる。

 結局のところ真実は事件の渦中にあるものにしか分からない。その国に行って
見なければ分からない。様々な情報の中から何が真実かを見極める力を養わなければ
ならない。それには自分と言うものがしっかりしていなければならない。
全ての出来事は自分の周辺に生じていることであり自分の目で見てどのように
感じるかと言うことである。そのためには自己と言うものが浮草のようにふらついて
いたのでは見えているものも見えなくなってしまう。焦点がぼやけてしまう。

 しっかりと生きていこう。どんな時代にもその時代その時代の困難はあった。
しかし人類はたくましく生きて命をつないできた。どんなに困難な時代でも
何事もなく平和に幸せに生きてきた人もいる。少なくとも自分で自分を不幸に
することだけはやめたい。人は心で生きている。その心をしっかりと自分に
つなぎとめておこう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする