人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

混沌の中へ

2016-06-25 06:24:52 | Weblog
 イギリスのEU離脱という衝撃的なニュース。イギリス国民が選択したことだから、この先どのようになろうと
それはそれで仕方のないことかも知れない。ある意味、世界規模の壮大な実験が始まろうとしているようにも見える。

 そんな混乱の中でも、私たちの変わらぬ日々は続く。また、一寸先は闇とも言うが、先の読めない状況が続く
ことになるのだろう。今回の問題だけでなく、私たち人間は先の見えない時代をいつも過ごしてきた。それにしても
ヨーロッパ経済に及ぼす影響は?、世界経済に及ぼす影響は?。イギリスのEU離脱によって、EUの他の国でも
不満分子が行動を起こすのではないだろうか等々、あれこれと取りざたされている。誰が得して誰が損するのか。

 EU離脱がヨーロッパ全体に広がることにでもなれば、混乱は、シリア難民の流入どころの話ではなくなって
しまうだろう。いずれにせよ混沌とした時代が始まった。多額の負債を抱えたままのギリシャはどうなるのだろうか。
これから次々に生ずるであろう影響に興味は尽きない。

 投票という一見、民主的に見える意思表示のため単純な行為が、良きにつけ悪しきにつけ、これだけ大きな
影響を及ぼすことになろうとは、投票したものも、投票で決着を付けようと考えたものも気付かなかった。

 日本企業の中には、イギリスを基地を置いてヨーロッパ各国と取引をしてきた企業も多いようだ。これらの
企業も一様に大きな影響を受けることになるようだ。イギリスとの関係を見直すと共に、ヨーロッパでの経済
活動の見直しを迫られることになるのだろう。

 何しろイギリスと言えば日本からは遠い国である。もどかしいほどに対応は難しく、はかばかしくは行かない
ように思われる。そして全ては、これから始まる。考えてみれば、実に長い時間をかけてEUは作られてきた。
それだけに国民投票で結果は出たとは言いながらも全ての作業はこれからだ。

 離脱に投票した人も。これからは思いがけない不便さを味わうことになるだろう。それらはEU加盟時の不満と
なっていたこととは比較にならないほど大きくて、数が多い。それらを我慢できるのか。辛抱強く解消して
いけるのか。こんなはずではなかったのにと思うようなことはないのか・・・。

 今、参院選が行われている。表には出ていないが憲法問題も大きな争点だ。戦争を知らない世代が増えている。
彼らは一様に中国や北朝鮮などの挑発的な行動を取り上げて、武力行使を当然のことと考え始めている。それが
改憲論者達を勢いづかせている。イギリスと同じように、憲法を変えてしまうと失ったものの大きさや多さに
驚くに違いない。

 イギリスでの出来事を遠い国のことだと片付けてしまわず、今回の教訓を元に良く考えてみたい。失ってからでは
遅すぎる。
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私の帯状疱疹

2016-06-23 06:27:50 | Weblog
 発症したのは、昨年の12月。正月も間近に迫ったある日のことだった。年の瀬も近く、回船問屋での
年内最後のイベントとなる活弁の準備に何かと気ぜわしい日々を過ごしていた。活弁を演ずる映画が
「瞼の母」、一時間にも及ぶ長い映画だ。

 そして、映画の中の主人公「番場の忠太郎」の台詞はむろんのこと、場面と場面を繋ぐ映画解説も
私自身が行わなければならないと言う私にとってはハードな映画であった。その上にチケットの販売と
何もかもが私の精神的な負担になっていた。相当のストレスがかかっていた。

 この日は年末を迎え、気がかりになっていた倉庫の中の整理と事務所内の整理をしていた。年末の
大掃除だった。こちらも二日がかりの大仕事だった。

 大掃除をしながら、何となく体に違和感を感じていた。数日前からの事だった。風邪を引いたのかな。
疲れかな。それとも熱が出る前なのかな。胸の当たりに鈍痛のような違和感があり、それは、熱が出る
前の関節痛にも似ていた。それにしても平熱だった。

 こうした状況が続いていたある日、夜中に目を覚ましてみると、左胸の乳首の上辺りに何かしら盛り
上がって膨らんだ部分が出来ていた。見ると真っ赤な発疹が塊となって赤黒く盛り上がっていた。

 咄嗟に、これは帯状疱疹ではないかと思った。帯状疱疹を見たこともなければ、以前体験したことも
なかったが、何となく直感的にそう感じたのだった。発疹は左胸だけでなく、ちょうど裏側の肩甲骨辺り
にも出ていた。

 帯状疱疹と言うだけあって、よく見ると表側の胸だけでなく脇にも少しと背中にかけて点々と出ていた
のだ。早速、皮膚科に行って診察を受けると、間違いなく帯状疱疹(ヘルペス)だとのことであった。

 この病気は、幼少の頃に水疱瘡に罹ったものなら、誰でも発症しうる病気のようだ。つまり水疱瘡の
ウイルスは、罹患した幼少期から発症するまでの長い期間、体内に潜んでいて、高齢化や免疫力が低下
すると発症するらしい。

 私の場合は、年齢だけでなく、精神的ストレスや体力的な疲れから免疫力が低下し、一気に発症した
らしい。こうして正月を挟んで一月の初めまで、寝たり起きたりの日々が続いた。私にとってかつて
経験したことのない大病であった。

 薬は帯状疱疹専用の抗生物質。一度に出してくれるのではなく、三日に一度と、二回に分けて出して
くれた。しかし、この薬はヘルペスウイルスを駆逐するだけのものなのだろうか。表面に現れた発疹も
まして痛さや違和感までを解消してくれるものではなかった。

 こうして長く、実に長い間、半年以上もの期間、この痛みや痛がゆさ、何とも表現のつかない症状に
悩まされ続けることになった。あまりの痛さに、一度だけバンテリンという薬と成分は寸分違わない
塗り薬を貰ったが、ほとんど効かなかった。どうやら有効な手段はなさそうだ。

 ヘルペスウイルスは、強く神経を傷つけたらしい。この違和感や痛みの全ては、神経から発している。
それだけに、なかなかすっきりしない。そして、体の表面からは薄皮をはがすように発疹の跡が薄らいで
いる。発疹の跡が完全に跡形もなく消えてしまわなければ、神経の痛みもなくならないらしい。

 小学生の頃から中学、高校と一度も学校を休んだことがなく、皆勤賞という表彰状まで貰った私だったが
この年になってとんだつまずきであった。本当に人生何があるか分からない。まあ、ものは考えようで
これくらいで済んで良かったと思わなければ罰が当たるかも知れない。

 また、疲れを知らぬかのごとく、馬車馬のように日々を過ごしていた私への警告だったのかも知れない。
今回の定期健康診断は体調も回復していないので、先送りをしようと思っていたが、かかりつけの医師の
勧めもあって、通常通り受けることにした。と言うのも医者の忠告だと、体の免疫力が落ちているので
癌に罹るリスクも高いからとのことであった。

 幸い健康診断の結果、何ら異常はなかった。胃の検診は、相変わらずひどく荒れていた。医師の勧めも
あって、ピロリ菌検査を行った。やはりピロリ菌が生息していた。と言うわけで、先のブログにも書いた
ように、ピロリ菌退治を行った。怪我の功名とでも言おうか、決断の付かなかったピロリ菌による胃がんの
リスクが、少しばかり少なくなったようだ。

 半年以上が過ぎた今も、背中から胸にかけて違和感がある。肩甲骨のところには薄黒い斑点が残っている。
これが消えるのは、いつの日のことだろう。今も仕事はセーブしている。
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何かしら思うことが実現する不思議さ

2016-06-17 06:19:23 | Weblog
 さて、私が今も体験している、これらの事象について書き表すためには、どのような
表現を用いて書けば良いのか、迷いに迷い続けて、いつか書こうと思いながらも、ついに
今まで書くことが出来なかったことである。いつも書きかけて途中で止めてしまうのは
私的な体験であり、誠に表現しがたいことが原因であった。

 この世の中で生ずることの全ては、偶然に見えて全ては必然であること。そのことが
理解できるようになると、自分の身の周りに起きていることが、起こるべくして起きて
いることだと言うことに気付くようになる。

 こうしたことは、書けば書くほどオカルト的にとられかねない一面がある。また誰でもが
体験している事でありながら、あまり取り上げられてこなかったのには何か理由がある。
その理由とは、体験していても、また日常ごく当たり前なことでありながらも気がつかない
ままに過ごしていることが多い。

 私は、今まで自分の身の回りに生ずることに驚きながらも、全ては偶然の出来事だと
思っていた。そうした出来事は、時間を置かずに生ずることもあれば、何日か過ぎて
生ずることもある。

 たとえば、この人に電話しなければとか、一度会って話をしておかなければと思っていた
ようなことがあったとき、偶然のように、その人が現れるようなことも少なくない。
こうした出来事について最初の頃は、偶然くらいに思っていた。そうしたことが生じても
「ああ良かった。電話しないでも来てくれた」くらいに考えていた。

 それがごく当たり前のように度重なるようになると、偶然も偶然ではなくなってくる。
今のような仕事をしていると、計画がなかなか実現しなくて困ってしまう事も少なくない。
そんなとき、思いもしなかったような人が現れて、具体的な提案をしてくれることがある。

 こうしたことで何度助けられたことか分からない。今では当たり前のようになっている。
従って、思い悩むようなことも少なくなった。今では、その内、何とかなるのではない
だろうかと構えている。むろん、私自身もずいぶんと我慢強くなったし、実現できなかった
ことは、今はその時期ではないのだと諦めるようになっている。いつまでも実現できなかった
ことにこだわらなくなった。

 そんな見方や考え方が出来るようになって、私自身の過去を振り返ってみると、全ては
今のためにあったのだと理解できる。あの時、貧乏で進学を諦めたことも、諦めていた
試験に合格して、思わぬ展開が待っていたことも、実は今日現在の自分が、ここに存在する
ために、そうなっていたのではないだろうかと思っている。人は敷かれたレールの上を
走っているだけなのかも知れない。

 近年、引き寄せだとか、「ありがとう」という感謝の心を持っていれば、必ず願うことが
実現するなどと言うことを良く聞くし、現に、その成功事例を著書にしたり語っておられる。
それら全ては事実であろう。

 ただ、心に迷いや疑いの気持ちがあると、決して、これらの現実は見えてこない。事実
私自身もそうであった。あることがきっかけで、耐えがたい現実を受け入れるようになった。
それから次第に私の運命が劇的な変化を始めた。

 そして、あるとき振り返って見ると、全ての過去が今の自分に繋がっていることに気付く
ようになった。過去の全ては今のためにあったのだと理解できるようになった。今まで障害と
なっていたものも、今の自分自身のためにあったのではないかと思えるようになってきた。

 人生は思い悩むほど複雑なものではないのかも知れない。複雑にしているのも、見えなく
しているのも、原因の全ては自分自身にあるのではないだろうか。

 いつも般若心経を持ち出して恐縮だが、全ては自分が作り出した幻想の中にあるような
気がしている。喜ばしい事も打ちひしがれるような苦しみも、自分自身が作り出した幻想なの
ではないのだろうか。

 いやだ、いやだと思えば思うほど悪い方へ流れていく。もうどうにでもなれと諦めたときに
一筋の光が見えてきて、全てが解消される。そんな話を聞く度に、そう思うのである。解決策は
目の前にありながら「いやだ」という気持ちが、自分の心を閉ざしていた。そして、もうどうに
でもなれと開き直った時に、暗雲が一瞬に吹き飛ばされて新しい道に光が差し始める。

 人間は、生まれたときは純真無垢な姿、それから自我に目覚め、幾多の経験が人格を作り
心を形作っていく。その過程で、生まれたままの純真無垢な姿は次第に消えてしまい、思い悩み
恐れや怒りなど、あってはならない気持ちが心の中を支配するようになる。

 そうなると、行動は自ずと手かせ足かせがはめられたようになってしまい、心も体も自由を
失ってしまう。子どもの頃は、あれほどおおらかで自由闊達に出来ていたことが出来なくなって
しまう。こうして大人になればなるほど心も体も自由度を失っていく。

 心が晴れ晴れとすることがなくなってしまう。この心の自由さを取り戻すためには何が必要か。
この世の中は、自分がコントロール出来るほど単純なものではない。まずは目の前の事実を
事実として認める。その上で出来ない事は出来ない事なので、いつまでも固執しない。
また出来ないと思っていることも見方や考え方を変えれば、意外に簡単に解決することも
少なくない。

 また、身の回りに生ずることの全てに意味がある。意味もなく生じていることは何もない。
人と人の出会いも、良い人も悪い人も含めて何か意味がある。そう考えるようになると
全ての出来事が興味深く見えるようになってくる。

 また、他人と比較してはいけない。他人は他人、全ての人は自分だけの人生を生きている。
初めから線路が異なっている。他人を見て、羨ましがることも嫉妬する必要もない。嫉妬する
事など、もっとも愚かなことなのだ。比較するから見えるものが見えなくなってしまう。
全ての人がそれぞれの人生を生きている。それこそが曼荼羅の世界なのではないだろうか。

 そうしたことも、般若心経の一説に書かれている「色即是空」を理解すれば分かってくる。
全ては泡沫(うたかた)のごとく、瞬時に消えてしまうものなのだ。人間は誰しも長く生きても
たかだか百年、宇宙の輪廻を考えれば一瞬の出来事に過ぎない。また人間一個の存在も宇宙の
チリにも満たない存在だ。何も大袈裟に考えることはない。淡々と生き、淡々と死んでいけば
良いことなのだ。

 私たちは、輪廻転生の中で、必ず次の世界に生きることになる。人間という宇宙服を着ての
この世の人生は、たかだか百年だけのもの。次の世界では、どこでどんな人生が待っているか
分からない。

 おまけに私の体験から一言。行動を起こす前に良く考えなさいと言う。確かに思慮深いことは
大切なことだ。しかし、考えすぎて次の行動が起こせなくなると、次の展開は見られない。
そういう時は、たいてい失敗か、中途半端に終わることが少なくない。

 直感を信ずる方が良い。と言うのが私の体験から言えることだ。直感は猪突猛進ではない。
背景には、過去の自分の体験の裏付けがある。そして、ある程度まで努力したら、その後は
天に任せる。成り行きに任せる。そして、必ず全ては旨く行くと信ずることが大切だ。

 この世は不思議なことで満たされている。その証拠に宇宙のことについては何も分かっていない。
自然の有り様についても何も分かっていない。分かっているような気がしているだけの事なのだ。
誰もが分かっていないことだらけなので、自分自身を卑下することもないし、むろん思い上がる
必要もない。偉そうな顔をしている人もみんな同じなのだ。

 みんな宇宙のチリから作られたものであり、ほんの一瞬を生きている小さな小さな存在に
過ぎない。この世を去れば肉体という宇宙服は土に帰り、また宇宙のチリに帰って行く。
人は、裸で生まれ裸でこの世を去って行く。

追加

 こんな体験はないだろうか。失敗した後で気がつくことなのだが、そう言えばあの時
何かしらひっかかるものがあって、スムーズに事が進まなくて、失敗してしまった。
うまく行かなかった。それは予感というもので、このまま進まない方が良いですよと
注意を促されている事なのです。

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参議院選挙

2016-06-16 05:46:17 | Weblog
 ある意味、頂点を極めた人が不本意ながらも退任せざるを得なくなった。東京都知事の桝添さんだ。
先には猪瀬さんが収賄容疑で退任せざるを得なくなった経緯がある。好事魔多しと言うけれど、人は
何故こうも自分自身を見失ってしまうのか。身を慎んで生きることが出来ないのか。

 社会的な地位の高い人も、また成功者と言われる人も、一皮むけばただの人間だった。そんな人が
何故か多いようだ。先に日本を訪れた元ウルグアイ大統領は、現役の時から中古の車に乗り、更には
名言を残して現役を去った。

 同じトップでありながら、この大きな差は、いったい何なのだろう。マスコミが先行して大騒ぎし
ことの真相を明らかにする事なく幕引きが行われようとしている。これでは何度首をすげ替えても
同じ事の繰り返しではなかろうか。

 罪を憎んで人を憎まずということわざがある。やはり、何が問題だったのかを明らかにする必要が
あるのではないだろうか。罪は罪として明らかにしなければならない。桝添氏にとっては悔しさの
残る退任であったろう。本来なら名誉あるリオデジャネイロオリンピックで次の開催都市の首長と
して大会旗を受け取るべき立場にあった人である。不名誉な結果に終わって、さぞかし悔しい思いで
あろう。

 さて、猪瀬さんを選んだのも、桝添さんを選んだのも、選挙民である東京都民だ。如何に都知事本人
の問題だとは言え、都民にも選んだものとしての一端の責任はある。そして批判されるべきは桝添氏を
候補者として担ぎ出した自民、公明の両党である。

 いよいよ参議院選挙が始まる。誰を選ぶのかは国民の責任だ。安部さんは着々と改憲を目指している。
改憲ともなれば戦争への第一歩となることは、火を見るより明らかだ。それと平行して言論の自由や
思想統制が増していくことは間違いない。人権の抑圧も増していくことであろう。戦争荷担より
むしろ、その方が恐ろしい。戦前を思い出して欲しい。そして、厳しく言論統制が行われている
隣国中国や北朝鮮を見て欲しい。平和憲法のありがたさを忘れてはならない。

 自公が参議院の過半数を占めるようになると、全ては自分たちのやりやすい方へと舵を切るだろうし、
そのためには手段を選ばなくなることも明らかだ。そうしたことを肝に銘じて投票したいものである。
今回からは18歳以上にも選挙権が与えられた。自分たちの将来の問題として、真剣に考えて投票所へ
足を運んで欲しい。
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