人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

基地は必要なのか

2010-04-21 05:29:36 | Weblog
 沖縄の普天間基地の移設問題が5月末を一応の区切りとして大詰め(?)
を迎えている。

 そもそもアメリカの要求は絶対的なものなのだろうか。長く日本は防衛
問題をアメリカに依存してきた。その結果、日本は経済発展にのみ目を
向けていれば良かった。

 その上にアメリカという怪物に生産物を売り、見返りに経済発展を続けて
きた。しかし、本来受け取るべきお金の多くは、アメリカの国債という
紙くず同然のものに化け、おまけに軍事費の援助までさせられてきた。

 アメリカが戦争を起こす度に大量のお金を調達してきた。そのお金は
いったいどこに消えてしまったのだろう。それはアメリカ一国を支配して
いるほど巨大な軍需産業に吸い込まれていったのではなかったか。

 戦争や紛争の背後には紛争地となった国の中に、紛争とは関係のない
一般人の多くの血が流されてきた。それは第二次世界大戦後に始まった
朝鮮戦争、ベトナム戦争、イラク戦争、9.11を口実にしたアフガン紛争
その他、数え上げれば切りがないほどの戦争や紛争に費やされてきた。

 そもそも日本に長く基地問題が定着したのも戦略上の問題と言うより
日本に基地を置いておけばお金がかからないと言う経済上の問題が大き
かったのではないだろうか。

 日本を守ってやるからと言う口実は、その必要性がなくなった後も
続いてきた。東西ドイツが統一し、ソ連が解体し、中国が経済成長に
力点を置き始め現実路線を取り始めた頃から、対共産圏という対立軸は
なくなった。

 そもそも対共産圏という対立軸こそ軍需産業温存のために作られていた
ような気がしてならない。

 今こそ私達は日本に於ける基地問題を真剣に考えて見なければならない。
私達は、鳩山さんとアメリカの対立の傍観者ではない。私達自身が当事者
である。

 鳩山さんは戦略とも思えるほどの優柔不断な態度でよく頑張っていると
見るべきではないだろうか。軍事専門家は、日本に於ける基地の必要性は
非常に薄れていると言っている。

 事実、そうであろう。軍事衛星が空を巡回し、いつどこからでもミサイル
を発射出来るようになっている。前線の基地など実は必要はない。今は
グアムにさえあれば十分である。

 アメリカの落としどころは普天間の代替地ではなく基地移転費ではない
だろうか。財政事情が厳しい日本は「無い袖は振れない」状態にある。
昔のように簡単にお金で解決できない状態にある。

 従って、今は気長にアメリカが諦めるのを待つしかない。基地問題を
解決できなければ鳩山さんは退陣すべきだという論法も筋が通らない。

 無理難題をふっかけているのはアメリカだから、アメリカの言うままに
なる必要は全くない。日本人は非常に律儀で素直な国民性を持っている。
従って、政権交代前の約束でさえ守らなければならないと思い込んでいる。
そもそもNOと言うために政権交代したのだ。

 国際的な交渉ごとというのは、したたかでなければならない。相手が
言うことをハイそうですかと簡単に聞くような国はどこにもない。

 その一例がクジラの捕鯨禁止の問題であろう。現実がどうであろうと
執拗に捕鯨禁止を迫り、中には過激な行動に出るものまでいるのが国際的
な交渉ごとの姿だ。

 日本人も他国に負けないようにしたたかにならなければ、これからは
生きていけない。そのためにも平和憲法を掲げ、これを現実のものとする
ために近隣諸国とのつき合い方が大切になってくる。

 まずは中国であろう。そして韓国、北朝鮮、ロシア、東南アジア諸国と
友好関係を深めていけば、戦争という最悪の事態を回避できるのではない
だろうか。

 そうすれば軍事力も必要ないし、ましてやアメリカ軍の駐屯も必要なく
なると思うのだが。
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不作の年に

2010-04-16 15:55:18 | Weblog
 「花冷」と云って俳句では季語となっている。桜の花が咲く頃に良く
ある冷え込みのことである。「花の雨」と言って桜の花が咲く頃の雨の
ことである。いずれも桜の花が咲く頃の気象状態を言い表した言葉である。

 これだけなら例年通りのことであるはずなのだが、この冷え込みは
ただ事ではないようだ。一昨日、向かいの高松では最高気温が8℃だと
報道されていた。昨日の東京は5.5℃だという。

 花冷えどころか、これでは冬へ逆戻りである。こんな冷え込みが続く中
我が家のストーブは連日大活躍である。例年ならとっくの昔に部屋の
片隅に追いやられているはずなのだが。

 さて、先日は筍が届いた。同じ日に三カ所から届いた。一つは、すぐに
でも料理に使えるように湯がいてあるものが宅急便で届いた。もう一つは
朝から友人が届けてくれた。なかなか立派な筍であった。

 この冷え込みが続く中、春は一度動き始めたら止まることを知らない
ようだ。季節通りの花が開き、山には新緑が目立つようになってきた。
珍しいことに桜の花と新緑が同時進行中である。

 それでも何か、どこかが違う春のお天気である。このまま推移すれば
夏野菜どころか、稲さえも植えることが出来ないのではなかろうか。

 自然は完璧なものである。その完璧に出来たものを壊し続けているのは
他ならぬ私達人間である。今年の気象が異状だとしたら私達人間のした
ことだと言わざるを得ない。

 人間には未知なることが山ほどある。知っていることや分かっている
のは、ほんの一部分に過ぎない。そして新たなる発明も発見も、実は
初めから存在したものの追認や真似事に過ぎない。

 最先端技術だと言われているITだって、人間やその他の動物、昆虫の
働きには遠く及ばない。空を飛ぶ飛行機だって、鳥の飛行には遠く及ばない。
僅かばかりのエネルギーで何千キロという飛行を続けることが出来る。

 蜜蜂は、あの小さな体で効率よくエネルギーを使い、蜜を求めて何キロ
もの飛行をする。カブトムシが、あの小さな体で作る力には、ブルトーザー
も遠く及ばない。カブトムシの体をブルトーザーほどに拡大したら、いったい
どれくらいの力を出すことが出来るのだろう。その上、飛行すら出来る
のである。

 バッタの飛び上がる高さを人間の体に置き換えたとしたら、オリンピック
の記録など比較にならないだろう。しかし、人間は昆虫の構造も良く分かって
いないし、ましてや構造を真似て同じものすら作ることは出来ない。やはり
自然は偉大だとしか言いようがない。

 植物達は何万年、いや何百万年、何千万年という気の遠くなるような
歳月をかけて、自らだけでなく、他のものも共に暮らせるような環境を
作り上げてきた。

 微生物達も微生物しかいなかった何十億年という昔に誕生し、原始地球
の環境を作り替えてきた。偉そうなことを言っているけれど人間は何を
してきたというのであろうか。開発と称して自分たちの都合の良いように
地球環境を壊してきただけではないだろうか。

 繰り返し言うが、今年は深刻な年になりそうである。そんな不安がよぎる
昨今である。昨日も終日朝から止むこともなく冷たい雨が降っていた。
これもまた人間が犯した罪の償いを問う冷たい雨であろうか。
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指が生えてくる

2010-04-15 15:09:29 | Weblog
 トカゲの尻尾が生えてくるとか、カニの爪が取れても生えてくることは
私達の世代であれば何度となく目撃していることである。これら脱皮を
繰り返しながら成長する動物にとって珍しいことではない。

 しかし、これが人間に生じたことであるとしたら話は別である。しかし
目の前でその現実を見せられると、その意外性に驚嘆せざるを得ない。

 いったい、その再生に用いられている薬剤に、どんな秘密が隠されて
いるのだろうか。その謎解きは、これからのようだ。ブタの膀胱から作る
この再生薬は使用が先行し、科学的な裏付けは、これからのようである。

 人間の体の中にある再生を司る働きの何かにこの細胞外マトリックスと
称されている白い粉は作用するようである。この研究が更に進めば、摘出
した内臓の一部さえ残っていれば、元のように修復できる日も遠くない
ような気もするのだが。

 実に医学の進歩は日進月歩である。一方、内面的なもののいっこうに
進歩しない人間というものの一面と、こうした科学技術の進歩の乖離は
激しさを増すばかりである。

 地球温暖化問題は多くの問題を内在している。それは気候変動の異常
に止まらない。多くは私達の生き方の問題として目の前に突きつけられて
いる。

 さて、その温暖化問題がもたらす様々な問題を一挙に解決するかも
知れないと言われているのが「ミドリムシ」だ。葉緑体を持つから植物
とも言えるし、鞭毛をもって動き回るから動物だとも言える。

 いわば生物の進化の狭間に誕生した奇妙な生き物である。実はこの生き物
の存在自体は早くから知られていた。しかし、この生き物に、このような
働きあることが判明し、しかも今日的な問題を解決できる生き物だという
ことが確信されたのは、つい最近のことのようである。

 ミドリムシは葉緑素を体内に持っているので光合成を行う。光合成を行い
ながら栄養素と太陽の光と二酸化炭素があれば猛烈な勢いで細胞分裂し
その数を増やしていく。

 その増殖スピードが速いが故に、他の植物に比較すると炭酸同化作用の
量がすさまじい。二酸化炭素の吸収スピード(固定化)のスピードが速い
のである。

 そして、これ自体が植物と動物の両面を合わせ持っているので、完全食
として活用できるという、まるで夢のような生き物なのである。

 また、ミドリムシからは油も抽出できると言うから、増殖を続ければ
際限なく油を手に入れることさえ出来るのだ。まさに、資源の枯渇時代に
登場した夢のような生き物である。

 私はEMのことを調べていて、行き着いたのは光合成細菌という古細菌
であった。この光合成細菌にもクロロフィルという光合成物質を持って
いて、この細菌が原始地球の二酸化炭素などを分解吸収しつつ、今日の
ような空気組成を作り出したことを知った。

 実は、私達は私達の祖先である、こうした微生物たちの気の遠くなる
ような働きによって、今日の環境を手に入れ、更には微生物たちが作り
貯えてきた地下資源を惜しげもなく使い、挙げ句の果ては地球環境を
壊し続けているのである。
 
 地球温暖化問題は祖先に対する冒涜であり、そのために罰を受けても
仕方のないことである。その微生物によって再び助けてもらおうとして
いる。何という巡り合わせであろうか。運命の皮肉という他はない。
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天変地異

2010-04-15 13:41:59 | Weblog
 中国内陸部でまたもや大地震が発生。決して対岸の火事ではない。
日本の各地に於いても地震の被害は絶えないし、今もって不気味に静まり
かえっているのがプレート上に発生すると言われている東海や東南海
南海地震など名だたる大地震である。

 いわゆる天変地異なるものは、何故か社会的な混乱期に多発している。
これは幾多の過去の事例が物語っていることだ。社会的な混乱が生じて
いるから戒めのように天災が生ずるのか、天災が生じたが故に社会的混乱
が助長されるのか、その辺のところは定かではない。

 しかし、歴史を紐解いてみると奇妙な関係が見られる。中国は大きな
社会的格差を置き去りにしたまま、すさまじいばかりの勢いで経済発展を
続けている。

 なまじ巨大な国家だけに動き始めたら、なかなか制動は効かない。
まるで重戦車のようなこの国は、どこへ向かおうとしているのだろうか。
夥しい地下資源を食い尽くしながら、なおもどん欲に餌を求めている。
まるで怪獣のような国である。

 その国の中で獅子身中の虫のように社会的混乱の火種は幾つもくすぶり
続けている。先の四川大地震も今回の大地震も、実はその警告と見ることは
出来ないだろうか。ハイチやチリ、インドネシアにおいても然りである。


 一方、この国のこの季節のこの寒さは何だろうか。この季節にしては
かつてないほどの寒さである。

 地球温暖化と言えば夏の暑さばかりが強調されるようであるが、実は
温暖化現象は、今年のように大きな温度変化が絶え間なく繰り返される
ような現れ方が特徴であり恐ろしい。

 そう言った観点からすれば、いよいよ来るべきものが来たということ
であろうか。このままでは夏野菜も植えることが出来ないし、私達の主食
である米の出来具合も懸念される。

 山間部や内陸部、そして北の方では比較的田植え時期が早い。植え付け
に支障はないのだろうか。これからの気温上昇は順調に推移するのだろうか。
懸念材料は多い。場合によっては備蓄米の大量放出と言うことになるかも
知れない。

 日本が打ち上げた人工衛星が捉えた温暖化ガスの排出分布が世界地図上
に展開されている。今までベールに包まれていた中国などの実状が次第に
明らかになりつつある。

 突きつけられた課題は大きい。このデータを見る限り、私の国は出して
いないなどと言うことは決して言えない。と同時に地球上に生息するもの
全てが犠牲者でもある。

 人間の場合は被害者であると同時に加害者でもある。今やみんなが一斉
に立ち上がり真剣に考えてみるべき時ではないだろうか。今年の気象異変
を見ていると、最早手遅れではないかという思いもするのであるが。
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気候変動

2010-04-10 06:18:10 | Weblog
 ここのところ寒暖の差が激しく5℃もの乱高下も当たり前のように
なっている。私が「この寒さでは地球温暖化などと言っても説得力が
ないですよね」と言ったら、ある人が「私は温暖化とは言わず気候変動
と言っています」と答えた。

 確かに温暖化という表現は適当ではない。正しくは気候変動であろう。
今年のように安定しない天気は気候変動の典型的な現れであろう。

 今年の夏は寒いかも知れない。雨の日が多いかも知れない。この予測が
当たっていたら明らかに異常気象の年であり、気候変動の顕著なる現れと
言えよう。果たして今年の夏は、どんな夏になるのだろうか。

 気象条件に大きく左右されるのが農作物の出来、不出来であろう。
如何に科学技術が進歩したとは言え、農作物の出来高だけは、工場製品
の生産量のように計画的にはいかない。

 既に冬から春にかけての野菜には大きな影響が出ている。春先に出回る
はずの葉もの野菜が軒並み高騰している。これからは夏野菜の植え付け
時期なのだが、苗を買うのもためらわれるほどの寒さであった。

 今日(4月10日)から気温が上がりますと言っていた。一挙に5℃位
上がるようである。長い間、野菜を作っているが、こんなことは初めての
ことであった。ジャガイモの芽が霜にやられて枯れてしまったのだ。

 幸いに一時は枯れてしまったのだが、植物の生命力は素晴らしく再び
芽を吹き始めている。しかし、この気温である。このまま順調に成長するか
どうか予測はつかない。

 気温が低いだけでなく雨の日が多い。日照不足も懸念される。過去に
お米の緊急輸入をした年があったが、あの年と同じような事にならなければ
良いのだが。

 かつての文明は森を失ったことによって消えていったと言われている。
気候変動は温暖化ガスだけの問題ではなく、色んな原因が複雑に絡んで
いる。

 その一つが地球を覆っている緑地の面積でもあろう。密林は高温多湿
である。多湿なのは木々が吐き出す水分によるものだが、この水分は
やがて上空で冷やされ雲になる。そして雨になって降ってくる。

 森と雨は密接に関わり合っている。また、森は巨大なダムでもある。
木々が蓄えた水は長い時間をかけて吐き出される。それがアマゾン川
であり、イグアスの滝の膨大な水となっている。

 背後に豊かな森林がなければ川の流れも滝も枯れてしまう。そして
大事なのは氷河の存在である。この氷河がものすごい勢いで消えている。
気温の上昇による影響が大きい。

 氷河が消えることは下流域の人達にとって計り知れない影響を持って
いる。


 さて、目を国内の動きに転じよう。かつてないほどのスピードで大きな
変化が生じている。民主党のマニフェストに基づいた政治改革である。
かつての政権に、このような変化を実感することがあったであろうか。

 これは私達が投じた一票による変化である。性急に成果のみを望むべき
ではなかろう。しかし、常に注目だけはしておきたい。

 自民党の崩壊が始まった。最早、この党の未来はない。変化を生むだけ
の若さもエネルギーも感じられない。解党して新しい党として出直すべき
時ではないだろうか。健全で新しい理念に基づいた新鮮な党が望まれる。

 また、マスコミの報道にも新鮮さが感じられない。視聴率を稼ぐだけの
まるで三流紙のような低級な報道しか行われていない。もっと本質的な
ものは何なのか、国民の視点に基づいた報道が望まれる。

 テレビ番組と言えば大食い競争のような番組ばかりである。この国の
自給率が僅かに40%だというのに、食べることをまるで面白がるような
番組は慎むべきであろう。

 番組政策者の低級さ加減には辟易とさせられている昨今である。これでは
良識ある視聴者はますます離れて行くばかりではなかろうか。
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公共の宿

2010-04-06 06:21:34 | Weblog
 倉敷周辺、ことに瀬戸内海沿岸は日本有数の風光明媚な土地である。
雲仙、霧島国立公園などと並んで日本初の国立公園に指定された場所
である。

 特に鷲羽山からの展望は素晴らしく、山頂に立つと沖に散らばる大小
様々な島と、時間を追って変化する潮の流れが、海面に様々な模様を
描く。

 その模様が時々刻々と変化する。太陽の光に照らし出されて光り輝く
縞模様は筆舌に尽くしがたい美しさである。かつて文壇で活躍した
有名人達も多数この地を訪れて様々な感想を書き残している。

 こんな美しい瀬戸内海地方なのに何故か訪れる人は少なく、その上
公共の宿まで相次いで閉鎖されてしまった。今はユースホステルや
国民宿舎を含め、大きな宿舎は僅かに7カ所残っているだけである。

 かつては国民宿舎を初め、公共の宿は三カ所あった。その一つが国民
年金センター「しもつい」であった。私が招待する行事の団体の宿泊先と
言えば「しもつい」であった。

 何しろ風光明媚なところに建っていた。この当たり一帯は日本夕日百景
の一つに数えられる場所でもあり展望が素晴らしい。

 また、鷲羽山にも瀬戸大橋にも近い。いつ行っても大勢の人が宿泊して
いるような、決して公共の宿にありがちな閑散としているような施設では
なかった。地の利を得ていたことと、それなりの経営努力も行われていた
ように見受けられた。

 もう一つは王子ヶ岳の国民宿舎近くにあった「ホールサムイン」という
施設であった。比較的、新しい施設で自前の温泉が自慢の宿舎であった。
ここも人の出入りは多かったようである。ここも売りに出されたが買い手
が付かず、今も閉鎖されたままのようである。

 ホテル業界はけっこう浮き沈みの激しい業界のようである。何度も売り
に出されたと言うホテルが多いようで、どのホテルも手入れが十分とは
言い難い。人件費と祝祭日以外の維持管理費に多くが費やされ、採算が
とれないらしい。

 しかし、集客力さえあれば採算はとれるわけで、私達のような素人の
目から見ても、こうした努力が足りないのではないかと思うことが多々
ある。

 例えば自分のホテルだけでなく、地域全体への観光客を呼び込むために
どんな努力をしているのだろうか。多くは市町村の観光窓口に依存した
ままなのではないだろうか。

 自らが、観光地としての素晴らしさを発信しているだろうか。リピーター
を増やすような努力をしているだろうか。旅は人の心に残るような出会いが
必要だ。それは景色であり人との出会いである。

 そのための演出方法は少なくない。もっと努力をしなければ、全国
津々浦々すべてが観光地化を目指している昨今にあって、生き残れる
とは思えない。

 私が色んなところを旅してみて思うのは、強欲にも自分のホテルのみに
客をとどめおくようなことをしていたり、観光客はこのようなことを喜ぶ
のに、何故そのようなことをしないのだろうと思うようなことが多い。
勉強不足も甚だしいと言わざるを得ない。

 特に私が住んでいる児島という町は本気で観光を考えているのかと思う
ほど工夫も努力も足りないように見える。今、児島は特産品の繊維製品
やジーンズなどを主体とした街づくりを目指している。

 これとても、あれもこれもと思う日本人に対しては、ジーンズだけでは
客は集まらないように思われる。来ても一部の人だけであろう。観光資源
と資源を繋ぐ努力と町全体の活性化がなければ人は来ないように思われる。
閑散とした商店街では寂しすぎる。

 日本人の感覚は、東京で言えばお年寄りの銀座と呼ばれている巣鴨など
の賑わいである。また、若者にしてみれば秋葉原のような街の賑わいでは
なかろうか。全国を巡り歩いて思うのは、肩と肩が擦れ合うような街で
なければ人は集まって来ないように思われる。

 それは店でも同じことである。狭いカウンターで体を小さくして座ら
なければならないような小さな酒場に人は集まってくる。あまりにも
手狭なので店を大きくしてしまうと、今度は閑散としすぎて人は遠ざかる。

 変なものである。やはり人間は賑やかな方が好きな動物のようである。
倉敷美観地区の何が良いのだろう。あの倉町の大半は意識的に作られた
ものである。それでも人は集まってくる。

 最近の土産物店の数は二十数年前に比較すると格段に多くなった。
それだけ町全体の売上は伸びているのだろう。こんな店はこの町に
ふさわしくないなと思われるようなものまで出来ている。

 公共の宿がなくなる背景には色んな問題があるようだが、採算のとれて
いるものまで一様に閉鎖してしまう必要があったのであろうか。ちなみに
国民年金センター「しもつい」は民間に買い取られて再会の準備が進め
られているようだが、いつのことになるのだろうか。また、以前のように
低価格で宿泊出来るのだろうか。あまりにも展望が良い場所なので、この
ままにしておくのはもったいないと思うのである。

 ともあれ観光地として素晴らしい街は、そこに住んでいる人にも住み
やすい街である。多くの人に誇れるような街である。
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郵政民営化

2010-04-04 05:59:33 | Weblog
 いったい郵政民営化とは何だったのだろう。国民こぞって踊らされてきた
感のある民営化問題ではあるが、その後に見えてきたものを考えてみれば
決して手放しでは喜べない。

 事実、民営化後の国内の様相はどのように変わってきたであろうか。
決して以前の郵便局のあり方が良かったとは言わないが、金融機関らしい
ものが皆無となった地方は困っているのではないだろうか。

 自家用車やバイクと言った自前の交通手段を持たない人にとって、町の
郵便局や金融機関まで出向くには大変な不便さを感じている。また、今後
の高齢化を考えれば、地方に於けるサービスは欠かせない。

 金融機関だけでなく、個人商店が姿を消し、買い物さえ遠くまで足を
運ばなければならなくなった。グローバル化等という一種のまやかしにも
似た経済政策の中で私達は多くのものを失ってきた。その一つが郵政の
民営化だったかも知れない。

 しかし、皮肉にもこの莫大な郵便貯金が財政赤字に苦しむ国家予算を
支えている。このお金が民営化の中で株式会社にでもなれば、他国の
金融機関になりかねない危険性を孕んでいる。

 いわば際どいところで民主党に政権交代し踏みとどまったものだと安堵
の胸をなで下ろしているのは私だけであろうか。民業を圧迫すると言われて
いるが具体的にどのような弊害が出ているのであろうか。

 採算や効率を重んじる民間の金融機関が地域に支店など置くはずがない
のである。地域に住むものは預金はしていても、その預金さえ引き出せない
のが実状ではなかろうか。

 また、地方の活性化に重点を置く政策を実現しようと思えば金融機関は
欠かせない存在である。今後の日本は都会と田舎がバランス良く協調を
取っていけるような社会でなければならない。

 その時に様々なことで不便さを感じるようでは良くない。預金限度額を
上げてでも地方に郵便局を置けるようなシステムが必要なのではなかろうか。

 かつて私達は自分たちの便宜を図るため各種の組織を作ってきた。信用
組合であり、農協であり、労働金庫などであった。一般の市中銀行が手を
付けない分野を狙ってのことであった。

 いわば昔の講のような互助会組織であった。この組織に助けられた人も
少なくないはずである。今でも市中銀行から一般人がお金を借りるのは
難しい。それを助けたのが先のような組織であった。

 郵便局には単なる金融業務だけでなく、町の中にあるべきものとしての
日本らしい精神的な支えでもあった。効率的な運用は必要であろうが、もう
一度、何らかの再建策が必要なのではないだろうか。

 私達はとかくマスコミの宣伝には踊らされやすい。しかし、私達にとって
必要なものは何か、今、私達は何を選択すべきなのか、冷静に考えて行動
する時代である。

 必ずしもマスコミの報道が全てではない。そのことを後になって自覚
させられたのが小泉劇場と揶揄された小泉内閣誕生後の一連の動きで
あった。反省すべきことは多い。
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