人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

タミフル

2007-02-27 10:54:37 | Weblog
 またまたショッキングな事件が起きてしまった。新薬として注目されて
いる「タミフル」というインフルエンザの特効薬を服用した男子中学生が
自宅マンションのベランダから飛び降り自殺を図ったというのだ。
(薬物による幻覚などが原因だとすれば自殺と言う表現が正しいのか)

 このケースと同じような事件が各地で発生しているという事を聞いた
のは、つい最近の事である。いずれの事件も自殺に至るようないじめ等は
なかったという話である。ただ、共通点としては「タミフル」という
インフルエンザの特効薬を服用していたと言うことである。

 いずれにせよ、特効薬には特効薬なりの副作用があるのは、今までにも
何度か指摘されている。特にインフルエンザのような強烈なウイルスをも
殺す薬であるからには、何の副作用もないと言うことは考えにくい。
 また、生物は実に多様であり、ある人には副作用がなくても、ある人には
副作用が出る場合も少なくない。それが個というものの特徴なのであろう。

 いずれにせよ、近々大発生する事が予測されている新型インフルエンザ
の特効薬として備蓄準備が進められてきた薬だけにショックは隠せない。
と同時に、早くその対応策が望まれる。
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町の活性化

2007-02-24 22:31:53 | Weblog
 いま、町の活性化と称して各地で色んな試みが行われている。中でも
良く知られているいるものの一つに「お雛祭り」がある。岡山県内だけ
でも幾つかの市町村で取り組まれているものの代表的なものである。

 その「お雛祭り」の草分け的な存在であるのが勝山町の「お雛祭り」
である。勝山町は城下町でもあり、古くから陸路と水路の要衝であった。
旭川の上流にあるこの町は、江戸時代から高瀬舟が発着する町であった。
従って、小さな城下町でありながら財政的には豊かな町であったようだ。

 そんな町だからこそ、古くからの商家には立派なお雛飾りがあったに
違いない。短い町並みの各商店には、色んな「お雛飾り」が展示され、
この季節になると多くの観光客が訪れる。

 私も数年前に一度訪ねたことがある。多くの商家の「お雛飾り」は
御殿飾りという立派なものであった。また、各商店の入り口には洒落た
暖簾が下がっていて、これもこの町の観光資源になっているようだ。

 実は私の地元、倉敷でも旧倉敷を始め、児島、玉島、水島と「お雛祭り」
が行われている。果たして勝山町のように町の活性化に繋がっているの
だろうか。
 確かに美観地区と呼ばれている一帯は、観光客も多く一定の成果を上げ
ているようにも見えるが、その他の地域では、いささか苦戦しているように
見えなくもない。

 この種の取り組みは、最初の意気込みとは裏腹に維持していくことが
非常に難しい。先日も日本の棚田百選に選ばれている地域が後継者不足の
ために、再び元の荒れ地に戻りつつあるという話があった。

 田舎暮らしがしたいと言って、UターンやIターンの人がいる一方で
仕事がなく、田舎を離れていく若者が少なくない。
 私の知り合いの人も、かつて自分の住んでいた村が消滅しかかっている
と話していた。
 また、朝日新聞の調査によると「全国の過疎地域にある約6万2000
の集落のうち、4%強にあたる2641集落が高齢化などで消滅する可能
性があることが、国土交通省と総務省の調査でわかった。うち422集落
は、10年以内になくなる可能性があるという。地域別では中国、四国
地方が多く、いずれも500近くの集落が消滅の危機を迎えている」と
言うことのようだ。

 倉敷市でも美観地区はともかく駅前の商店街では空き家が目立つように
なった。平日などは閑散としている事もある。また、美観地区は誇るべき
文化遺産であるが、この貴重な観光資源が地元住民や広くは倉敷市民に
どれだけの恩恵を与えているか考えた事があるだろうか。

 一部地域住民にとっては利益であっても広く倉敷住民の事を考えると、
もっと財源の使い方を考え直してみる必要があるのではないだろうか。
殊に急速に進行しつつある少子高齢化や核家族化を考えると、行政の谷間
で日の当たらない生活をしている人が少なくない。
 広く地域全体が活性化することを考えなければ、倉敷の駅前という立地
条件の良いところでさえ閑散としているような状態なのだから水島商店街
や児島商店街などは、それ以上の状態である。

何はともあれ、住んでいる住民本位の生活環境を良くすることを最優先に
考えるべきであろう。その観点からすればチボリ公園に市の財源を使わない
と言う倉敷市の選択は正しいと言うべきであろう。

 それと同時に、市に頼らなくても住民の創意と工夫で町の活性化は出来る
はずである。あの山間部の勝山町を見習う必要があるのではないだろうか。
そのためには、地域に住む人が一丸となって取り組む必要があるだろう。

 場合によっては、別な視点を持った人の意見を聞いてみる必要もある
のではないだろうか。聞けば勝山町には他の町から移り住んだ人が地域の
人と一緒になって、今日ある町を作り上げたとも聞いている。
 ともあれ、若い世代の人達が移り住んでみたいと思うような町にして
いかなければ地域活性化の持続性は望めない。
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経済回復

2007-02-23 07:46:15 | Weblog
 窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえる。どうやら一つがいのメジロがいる
ようだ。ここのところ毎日、我が家の庭に来ては餌を探している。今の
時期が餌になるようなものが一番少ない頃だ。従って、この頃になると
必ずやってくる。今日は残っていた蜜柑を半切りにして木の枝に挟んで
おいた。

 昨日も今日もまるで春のような陽気だ。夜に降った雨も上がり、気温は
ぐんぐん高くなっている。本来なら喜ばしいことなのだろうが、何かしら
気色が悪いほど温かい。山の畑ではウグイスの鳴き声を聞いた。まだ、
ケキョ程度のつたない鳴き声だが確かにウグイスの声だった。

 日銀が短期金利の引き上げに踏みきり、株価の方は久々に18000円
台に乗せた。確かに経済は立ち直ったように見える昨今である。昨年末
くらいには20000円台に達するのではないかという予想だったが、
やっとここに来て株価は本格的な上昇に転じているようだ。

 バブル後に咲いたあだ花のようなライブドア問題や村上ファンド問題が
一段落したのも株価を上げる要因となっているのだろうか。

 しかし、私達の周辺にバブル期やバブル期以前のような活気は見られ
ないようだ。何故なのだろう。原因の多くは国民の購買力にありそうだ。
少子高齢化や長く据え置かれたままの賃金、ニートやアルバイトや派遣
社員と言った正規労働者の減少がある。
 団塊の世代の退職後の購買力に期待する向きもあるが、厳しい経済状態
を経験してきたこの世代に大量消費の期待が持てるだろうか。

 私達が社会人となった昭和38年頃の日本は、戦後の疲弊しきった経済
復興と工業立国を目指しての設備投資が相次いだ。箱ものと陰口を叩かれた
公共事業の投資も多かった。
 そして、多くの若者が田舎から都会周辺や工業地帯へ動員されてきた。
彼らの大半は将来ある若い労働者だった。彼らは結婚し家庭を持ち、借家
や社宅住まいの労働者達は相次いで自分の家を建てた。こうしたことが
全て消費拡大へと繋がっていった。

 しかし、昨今の状態はどうだろう。こうした世代はリタイヤの時期を
迎え、大口の消費者としての賞味期限は切れかかっている。彼らに多くを
期待するのは無理ではないだろうか。また、消費の志向も一様ではない。
こうした状況を考え合わせると単純に喜んではいられない。

 また、何もかも右肩上がりでなければならなかった時代と異なり、現状
維持でも国民が幸せならば、それはそれで良いのではないだろうか。今更、
GDPだけを追い求めて何になるのだろう。もっと大切なものがあるような
気がしてならないのである。

 
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二つの話

2007-02-22 09:27:24 | Weblog
 何しろ忙しい一週間だった。果樹園の方はお天気でなければ出来ない
仕事ばかりであり、この時期にしなければならない仕事もたくさんある。
その上、外出する用事も多かったので、落ち着いてパソコンに向かう時間
もなかった。

 どんなに忙しくても全ては自分が計画し、自分で処理すべき用事なので、
誰に文句の言いようもない。ただ、感謝すべきは家族も私も健康である
ことと、比較的この間お天気に恵まれていたことである。

 そんな訳で、果樹園の方は大仕事がやっと終わった。果樹の剪定が終わり、
寒肥が終わった。残っているのは石灰硫黄合剤の散布だけである。これが
終われば冬の仕事はやっと一段落と言うことになる。

 ところが数日前から鼻の奥が痛く咳が止まらない。どうやら発熱までには
至らないまでも風邪を引いてしまったようだ。今年は風邪を引かずに済み
そうだと思っていた矢先の事だった。何事によらず、こんなものかも知れ
ない。ゆめゆめ油断は大敵である。

 この一週間の間に印象に残る二つの話を聞いた。一つは枝廣さんの環境
に関する話、もう一つは塩見さんの半農半Xの話であった。何処か共通点
があるようで、私にとっては私がこれからやっていきたいと思っている
ことについてポンと背中を押してくれるような話であった。

 枝廣さんの話は、通訳をしている内に環境問題に興味を抱くようになった
とかで、今まで聞いてきた数値だけを並べた声高な環境問題とはひと味違う
観点からの話であった。
 塩見さんは京都市の綾部と言うところに住んでいて、半農半Xという
農業をしながら他方では他の仕事を持っているという、他の人が聞けば
羨ましくなるような生き方をしている人である。また、自らが実践して
きた半農半Xなる生き方を他の人にも勧めている。

 いずれも高度成長一本槍でやってきた日本人にちょっと考えて見ようよ。
そんなにGDPばかり追いかけてどうするの。それで貴方の周辺や貴方
自身の生活が良くなったの。そうじゃあないでしょう。廻りを見てご覧。
日に日に凶悪犯罪は増え、ささくれだった人間関係ばかりが目に付くで
しょう。

 田舎には勤め先がないと若者は都会へ出ていき、そのために核家族化が
すすみ一人暮らしの老人が増え、子育て中の若いお父さんやお母さんは
子育て相談をしようにも相手がいなくて、そのストレスが幼児や子供に向け
られていないですか。家に帰っても話し相手のいない学生達は町のたまり場
でうろうろしているではないですか。こんな状態が昨今の日本の姿ではない
でしょうか。

 その上に環境汚染は凄まじく、中でも日に日に大量に吐き出されている
二酸化炭素は地球を厚く包み込み熱が逃げられなくなっています。今や
地球は高熱に苦しむ病人のようになっています。こうして地球が病み、
そこに住む人間自身が病んでいるのが今日の姿です。

 そんな話を続けて二つも聞いたので、私のやっていこうと思っている
ことに確信が持て、ますます拍車をかけたような感じになっています。
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木を植えた男

2007-02-15 11:18:38 | Weblog
 男はもくもくと木を植えていた。やがて荒れ地は森に変わっていった。
それでも男は植え続けた。それは広大な森林地帯となり、枯れ果てていた
川には水が流れ始め、その水は畑を潤すようにまでなった。

 また、森になったところには、町から人々が移り住むようになった。
また、荒れ地に住んでいた人達は、住んでいるところが荒れ地であった
ばかりでなく、自らの心にも潤いがなく他人の悪口を言ったり、妬んだり
と、とげとげしい心になった人達だった。
 一人の男が、もくもくと植え続けた木は森を蘇らせたばかりでなく、
こうした荒んだ人々の心にも潤いを取り戻したのである。

 これは、努力の積み重ねが如何に素晴らしいことかと言うことと、木を
植えることの素晴らしさを教えてくれる本でもあった。
 
 折しも今は地球温暖化問題が危機的状態にあると聞くとき、何でも良い
から、みんなが何かをしなければと思うのである。その小さな行動の積み
重ねこそが、「木を植えた男」に通じるのではないだろうか。

 昨晩は台風並の風が吹き荒れていた。春一番だそうで、異常に早い春の
訪れである。この調子だと夏には異常高温の日々が続き、大型の台風の
襲来が懸念される。
 先日、山の畑にいると蚊が顔の廻りを飛んでいた。驚きである。真冬
だというのに屋外で蚊に出会おうとは。

 今こそ「木を植える男」が一人でもたくさん必要だと痛感している昨今で
ある。

「木を植えた男」
ジャン・ジオノ 作  フレデリック・バック 絵   寺岡嚢 訳
 
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残業ゼロ法案を切る

2007-02-10 22:22:53 | Weblog
 ホワイトカラーエグゼプションなるものが、名前を変えて再び国会に
提出されようとしている。どうやら今回は見送られるようだが、参議院
選挙後には再び提案されるのは必至だ。

 提案の後押しをしている経営者側は「ホワイトカラーの仕事は時間では
なく成果ではかるべきだ。残業代がゼロになると言われているが、高度
専門職年俸制といったほうがわかりやすい」と言っている。つまり、成果
は残業代を付けるのではなく、年俸で評価すれば良いと言う考えのようだ。

 年俸の高い管理職前の人には、残業代を付けないという考えは、実際に
その場にいたことのあるものならば、おおよそ現実とかけ離れた発想だと
思うはずである。
 昔から残業代を付けなくても遅くまで残業をしている人はたくさんいる。
日本人の多くは、労働と賃金は対価であるという考えを持っていない。
会社のためなら無償でも残業をするという人が少なくない。私は労組の
役員時代に、こうした人達にどうしたらサービス残業を止めさせようかと
苦労したことがある。出世のためなら無償で残業しても頑張る。意外に
そんな人は多いようだ。
 従って、残業代を出しても出さなくても実状は変わらない。むしろ会社
人間を助長する事になって体を壊すような人が増えるのではないだろうか。

 この法案はアメリカをモデルにしているようだが、アメリカ人の思想と
日本人の思想はまるで異なる。アメリカでは命じられたり、マニュアルに
書かれていること以外はやらない。また、自分の管理は自分でやるという
思想が根付いている。日本人の多くは自分の体や心が傷付いていても
義務だけはまっとうするという自己管理の出来ない律儀(?)な人が少なく
ない。

 一方では労働者自身にも問題が多い。自己管理と同じように、さして
効率も上がらないのに残業をしてさえいれば上司に良く見られるのでは
ないかとか、家に帰ってもする事がないし残業をしていれば残業代には
なるしと言った考えの人が少なくない。

 仕事の出来る人は所定の労働の中で、それ相応の成果を上げている。
むしろ、それが出来ない人が残業をしている。しかし、その見極めは
極めて難しく、管理職としては、それを見抜くだけのしっかりとした目
を持っていなくてはならない。しかし、日本の管理職の中に、そのような
目を持った人がどれくらいいるだろうか。私に言わせれば、はなはだ少数
だと言わざるを得ない。

 経営者サイドが、この法案を強く要望しているようだが、不正を不正
とも感じないような経営者が多い中で、そのような管理職が育っている
とはとても思えない。むしろ、管理職の中には、下の者を見るよりも上司
の顔色ばかりを見て仕事をしている人が多いのではないだろうか。その
ような中で部下の成果を適正に判断することが出来るのだろうか。

 このような環境の中で、こんな法案を導入したらどうなるだろう、自己
管理の出来ない人の多くは、ノイローゼや体を壊すようになるのは火を見る
より明らかなことである。仕事は所定の労働時間内に済ます。この習慣を
付けなければ日本の労働環境は良くならない。

 むしろ、残業代を増やして会社をして残業を抑制するようにすることこそ、
今の時代には必要なことではないだろうか。労働組合の弱体化と組織率の
低下は如何ともし難い。私からは組織労働者よしっかりせよと言いたい。
連合などは烏合の衆の集まりではないのだから何故もっと強く発言しない
のだろうか。単なる残業問題ではなく労働者の権利の問題として捉える
べき問題である。
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女性は子供を産む機械?

2007-02-08 06:02:06 | Weblog
 先日来、柳沢厚生労働大臣の発言が問題になっている。女性のことを
子供を産む機械に例えて話をしたことが、女性蔑視に繋がるとして野党を
中心に厚生労働大臣の退任を迫っている。
 しかし、当の本人も任命した安倍総理も聞き入れる様子はない。与党
多数の状況の中では、野党がいくら騒いでも為す術もないのが実状だ。

 太平洋戦争以前から日本は富国強兵とともに産めよ増やせよの政策を
とってきた。社会としては、子だくさんを助長するような風潮があった。
「貧乏人の子だくさん」と言われるように、貧困生活にありながら子供
だけは多かった。
 それは労働力としての多産ばかりでなく、避妊という方法も、また
考えも薄く、男が女性に多くの負担を押しつけるのが当たり前と言った
ような風潮があったからではないだろうか。いずれにせよ、産むことと
育てることに関する女性の肉体的負担は大変だったに違いない。
 その風潮は戦争が更に拍車をかけた。戦力としての兵士を必要とした
からだ。苦労して育てても召集令状一枚で男の子は戦地へ動員されて
行った。その結果、実に多くの若い命が失われてしまった。

 柳沢厚生労働大臣という人が、どのような考えを持っている人かは
知らないが、「女性を産む機械」だと発言した背景には、あるいは戦前の
ような考えがあったかも知れない。とすれば非常に女性蔑視的な考え方
であり、許し難い発言だと言わざるを得ない。

 ともあれ、産む産まないの判断は個人の問題であり、簡単に良いとか
悪いとか決めつける訳にはいかない。産んでも育てなければならないこと
を考えれば、まず、そのための環境を整えることが先決問題ではない
だろうか。

 低賃金、高家賃、夫婦共稼ぎと言った都会生活では、ましてや残業を
しなければ食べていけないような実態であれば、子だくさんを望むのは
無理な話である。一方、産科医や小児科医が少ないとか、環境問題など
社会不安を抱えているような状況では、産みたくないと考えても不思議
ではない。離島や僻地等では不安を抱えながらお産をしなければならない。
女性としては大変決意の要ることではないだろうか。

 まず、産めよ増やせよと言うのであれば、こうした経済的や物理的、
社会的環境を整えることが先決問題ではないだろうか。柳沢厚生労働大臣
や安倍総理は、こうした実態をどの程度把握し、自分のものとして考えて
いるのだろうか。口では大変だと言いながら他人事と思っているのでは
ないだろうか。

 先日、娘と話していて、こんな話が出た。子供が出来るまで娘夫婦は
共働きをしていた。生活の事もあって、結婚後もなかなか子供を産もう
とはしなかった。その娘が「子供を産んでやっと夫婦になれたような
気がする」と言ったのである。子供が出来るまでは一緒に暮らしていても
何かしら同棲のような感じがしていたとも話していた。

 私はこの話を聞いて娘夫婦も成長したなと感じて非常に嬉しかった。
子育てを通じて子供の可愛さや子育ての楽しさが分かり、子供を通じて
より娘夫婦の絆が強くなったように感じたのである。
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激変する季節感

2007-02-07 08:17:40 | Weblog
 2007年2月6日、朝起きてカーテンを開けてみて驚いた。つい先日
まで霜に覆われていた景色が一変していた。山には薄い靄のようなものが
懸かり、開けた窓から流れ込む空気は心なしか、なま暖かい感じさえした。
見た感じで言えば三月中旬から三月下旬頃の景色であろうか。

 俳句には「悴む」という季語がある。快適な今日の生活の中で悴むと
いう感覚に理解が得られるのであろうか。確かに、北海道や東北、北陸、
岡山県でも県北一帯では感じられる事かも知れないが、岡山県の県南地方
や快適な都会生活の中では死語に近い季節感ではないだろうか。

 新聞配達の少年が真冬の早朝に新聞配達をする。凍えるような寒さと
厳しい生活苦が相まって「悴む」という感覚がぴったりだった。主婦が
暖房のない薄暗い台所に立つ、貧しい生活と暖房のない冷え切った部屋
とが「悴む」という言葉にぴったりだった。

 俳句の季語は生活に根ざしたものが多い。しかし、今日のような快適な
生活の中では死語に近いようなものが少なくない。それほど生活も大きく
変化をし、地球温暖化の中で季節感そのものが大きく変わってきてしまった。
こうした現象はどこまでエスカレートして行くのだろうか。

 私は時々、今の快適な生活は幻を見ているのではないかと思うことが
ある。それほど、私達の幼少期とは大きく変わってしまった。生活様式の
変化は人の心(意識)まで替えてしまうようだ。あの厳しく苦しかった
時代のことは、もう誰もが忘れてしまったようだ。

 ましてやバブル期の物の溢れた時代に生まれて成長した者の意識変化は
大きい。私から言わせれば、おごり高ぶっているようにしか見えない。
しかし、彼らには今の生活が当たり前なのである。それを叱ってみても
仕方がない。しかし、この反動はいずれ近い将来やってくる。その反動と
言うのが地球温暖化による気象変化ではないだろうか。

 私達は地球最後の日を核戦争によるものに例えることがある。しかし、
核戦争でなくても、じわじわと細菌によって蝕まれていく肉体のように、
私達の環境は冒されているのではないだろうか。核戦争によって壊滅する
より、この方が恐ろしい。

 快楽に限りがなく、快楽の果てにあるものは地獄のような感じがして
ならないのである。可愛い子供達の将来を壊したままにしておいて良い
のだろうか。
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鳥インフルエンザの脅威

2007-02-05 14:44:30 | Weblog
 宮崎県に次いで、ここ岡山県でも鳥インフルエンザが発生した。感染経路
については良く分からないとは言え、この季節、野鳥の渡りがあることから、
あるいはこうした渡り鳥が持ち込んだのではないかと言われている。

 実に、感染症に国境はないわけで、人感染症である新型インフルエンザ
もどこから入ってくるか分からない状態にある。この新型ウイルスが流行
すると10万人から60万人近くの人が死ぬのではないかと言われている。

 一方、エイズは相変わらずアフリカやアジアで猛威を振るっている。
本来、ジャングル奥深くに生息していたサル固有の感染症であったという
エイズが、開発によって人にまで感染するような変異を遂げたとも言われ
ている。
 その感染は人から人へと瞬く間に広がり、広く世界に展開してしまった。
特にアフリカや開発途上国と言われる国では、人の移動と貧困が感染を
更に拡大しているようだ。

 また、ペットブームによって持ち込まれたカエルが感染すると死亡率
100パーセントに近いというツボカビ病という伝染病も恐ろしい。
 国内のカエルは、都市部では開発が進んだために生息地が失われた
ばかりでなく、農村部ではきつい農薬の使用によって激減してしまった。
私達が子供だった頃には、あれほど多くのカエルを見かけたのに最近では
ほとんど目にすることはなくなってしまった。特に、都市近郊では激減
しているのではないだろうか。

 カエルは害虫と言われている夥しい量の虫を食べて生きている。この
カエルが少なくなると言うことは、害虫と言われている虫を増やすことに
なり、今以上に農薬を必要とする事になる。私達が農薬を使って害虫と
共にカエルまで殺してきたことは、結局、悪循環の始まりであった。
 そして、今度はツボカビ病である。この細菌は水中を自力で移動すると
言うから始末が悪い。はっきりしたことは分からないが、輸入した観賞用
のカエルなどから広まったのではないかと言われている。

 しかし、いずれにせよ人間が何らかの形で持ち込んだに違いない。この
ように、色んな病原性のものが国境を越えて次々に入ってくる時代である。
今や動植物に国境はなくなってしまった。今も外来種と言われている動植物
が国内の動植物を駆逐するように繁殖を続けているが、これも人間がした
ことである。動植物の世界は地球環境と同じように微妙なバランスによって
保たれている。このバランスを壊すことに、私達人間が深く関わっている。
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地球SOS第二弾

2007-02-04 09:39:20 | Weblog
 時々、思うことがある。この地球上に人間が生きていること自体、地球
にとって大変迷惑な事なのではないのだろうかと。膨大なエネルギーを
欲しいままに浪費し、開拓と称して、ところ構わず自然を破壊し、その上、
多くの動植物を死に追いやってきた。

 そして、当の人間同士も実に下らないことで争い、傷つけ合い死に追い
やっている。どうしようもない動物だと言わざるを得ない。人間さえ居な
かったら、この地球に地球温暖化などと言うこともなかったであろうし、
そのために絶滅していく動植物もいなかったのではないだろうか。少なく
とも、当面は豊で穏やかな地球であったと思うのだが。

 さて、その地球温暖化問題は、実に深刻であることを伺わせるニュース
が朝日新聞のトップに掲載されていた。私の知る限り、大手のマスコミが
一面トップで取り上げたのは、これが初めてではないだろうか。NHK
などでは再三にわたって特集番組として扱われて来たが、なかなかニュース
番組とはならなかった。

 恐らく、マスコミとしては、CO2との因果関係がはっきりするまで
発表をためらっていたのではないだろうか。IPCCと称する「気候変動
に関する政府間パネル」の第一作業部会がフランスのパリで開かれ第4次
評価報告書なるものを発表した。

 その中に実に深刻な状況が記されており、地球温暖化問題のCO2との
因果関係がより鮮明になったことだ。これは明らかに人間活動がもたらした
ものであり、何の対策もしなかったら4度C(予測)、直ちに手を打った
としても1.8度C(予測)の温度上昇は避けられないとの見解である。

 既に1度Cにも満たないような微弱な温度上昇でさえも昨今のように
大きな気象変動をもたらしており、これが今後も続くとなると容易ならざる
事態だと言わざるを得ない。人間が有史以来、営々として築いてきた文明
自体が崩壊することも避けられないのではないだろうか。

 自然界は全てが複雑に絡んだ微妙なバランスの上に出来ている。この
一角が壊れたらどうなるのだろうか。想像することさえためらわれるような
恐ろしさを感じている。

 昨年、集中豪雨や竜巻被害はあったものの比較的穏やかな一年であった。
今年はどうであろうか。二年前のような激しい台風の襲来があるのでは
ないだろうか。今は誰も知る由もない。

 今回のIPCCの発表は、今までのように遠慮がちなものではない。
はっきりと「人の活動」によるものだと断定をしている。私は知り合いの
政治家にも働きかけている。今は市民に対する啓蒙活動の段階ではなく、
政治の第一課題として取り組むべき状況にあると思っている。
 そうでなければ天災によって壊されたものを繕って回るだけの後追いの
政治に終わってしまうからだ。
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