人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

真実はどこに

2009-12-27 06:02:46 | Weblog
 民主党と連立政権による新予算案が決定した。とは言え、まだまだ
自民党時代の精算が済んだわけではない。と言うより自民党が作って
きた借金体質は引き継いだままであり、民主党色を出すにはあまりにも
制約が多すぎる。

 マスコミは何事によらず辛口でなければならないが、独自色が出せる
ようになるまで、もう少し時間を置くべきではないだろうか。

また、政治献金に関する官憲の取り調べには一応のピリオドが打たれた
ようだ。鳩山さんも党首になったとは言え総選挙前に始まった取り調べ
については、喉の奥に刺さった魚の骨のように鬱陶しいものであったに
違いない。

 そして、民主党の実質的なドンと呼ばれている小沢さんについても
西松建設からの政治献金を巡る秘書の公判中である。これも自民党
時代に始まった政治資金問題である。

 自民党が政権を握っていた時代には幾多もの汚職問題が取りざた
されたにも関わらず、ほとんどのものは事件になることなく闇から闇へ
と葬り去られてきた。これらを問題にせず、何故、自民党政権末期に
なって敵対する民主党の首脳陣の政治資金が問題視されたので
あろうか。

 事件に重いとか軽いとかの差はないとは言え、あまりにも不公正な
官憲の取り調べではあった。今後、民主党が安定政権になり権力が
集中するようになると、かつての自民党時代のように権力にすり寄って
くる輩が大勢現れて来るに違いない。こうした輩どもの利権に惑わされる
ことのないように公明正大な政治を行って貰いたい。


 さて、自民党時代にはタブーであったアメリカとの密約問題が次々に
明らかになっている。特に核兵器の持ち込みに関しては、民主党の
調査の先を越すように小出しに関係方面から公式、非公式を問わず
重要な書類が明らかになっている。

 日本人は比較的済んでしまったことを問題視しないが、これら全ては
時の権力者が国民の同意なく行ってきたことである。ましてや当の本人
がノーベル平和賞まで受賞した人であってみれば、その欺瞞の罪は深い。

 確かに時の政権やトップとして、やむを得ない選択だったとしても
何故、早い時期にこの問題を解消しようとしなかったのか。こうした
重要事項が明らかになるに連れ、自民党がアメリカの占領時代の
尻尾を切り離せないまま冷戦時代に突入し、今日までなお暗い陰を
落としていることを考えると、なにはともあれ民主党を選択したことに
安堵の胸をなで下ろしている。

 鳩山さんは普天間問題を決断力がないが故に先送りしたと言うが
それではどのような解決方法があるというのであろうか。私には
鳩山さんや民主党の苦悩が十分理解できるのである。

 アメリカにノーと言えれば、こんなに簡単な事はない。しかし自民党
政権時代にかなり踏み込んだ約束をしている。あちらを立てればこちら
が立たず、鳩山さんに限らず誰でも先送りしたい問題である。

 オバマさんにしても米軍内部の事について簡単には踏み込めない
ところがあるらしい。それが外交を更に難しくしている。これは日中
関係など近隣諸国との関係改善進めていく中から気長く交渉を続けて
いく以外に方法はないであろう。それが外交である。

 そのお手本となるような事例が北朝鮮外交の在り方である。中身の
ない軍事力や核兵器をちらつかせながら中国やロシアをも取り込み
巧みな外交でアメリカを弄んでいる。そのしたたかさは、新生日本の
外交としても見習う必要があるのではなかろうか。
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吾亦紅

2009-12-21 05:21:11 | Weblog
 私の母が亡くなった。倉敷市内のM病院へ二度目の入院をした
12月15日の午後9時半過ぎの事であった。私達夫婦が駆けつけ
病室のドアを開けたとき医者から臨終を告げられた。

 母は今年の2月ころ一度体調を崩し寝込んでいた。母から電話が
あって弟の家に行くと、お腹が痛いと言って寝込んでいた。家には
誰もいないようだったので市販の薬を渡して家を後にした。

 母は病弱であり、この時もきっと風邪でもこじらせているのだろう
とぐらいに簡単に考えていた。しかし、顔色が極端に悪く死人のよう
だった。何となく、これはあまり長くないのではないかと思っていた。

 ところが温かくなるに従って、床を離れることが出来、点滴を毎日
のように受けながら元気を回復した。弟夫婦の再三の忠告も聞かず、
健康なものでも目もくらむような暑さの中で畑や庭の草取りを続けた。
食欲も少しは回復したようであった。
 
 ところが突然のように、かかりつけの町医者から、私がこれ以上
看ることは出来ないので別の病院に行ってくれないかと告げられた。
7月末の事であった。母の腹には大きな胃癌が出来ていたのだった。
手術を受けるには、すでに手遅れの状態だった。

 このまま点滴や痛み止めを続けながら、かかりつけの医院で面倒を
見て貰えるとばかり思っていたのに、唐突に突き放されたような話で
あった。

 紹介されたM病院へ行くと、やはり町医者の見立て通り大きな癌が
胃に出来ていた。大きく膨らんだ場所が小腸へ近くであり、消化された
ものが流れにくくなっていた。

 高齢なので手術をしても回復が思わしくないかも知れないことや
手術中に亡くなるかも知れないこと、そして、手術後に苦しんだり
麻酔が効きすぎて惚けてしまうのではないかなどを考えて、手術は
しないで終末医療を選んだ。

 本人には告げにくいことであったが、私から話をして納得させた。
ところが同室の人達が食事をする度に絶食に耐えきれず、とうとう
主治医に直訴して手術を受けることになってしまった。余程ひもじく
感じていたのであろう。

 それから再度検査が行われ手術はお盆少し前に決まった。入院した
ときから手術日までに数週間が経過していた。この間、ただただ死を
待つだけの母に、色んな事を手紙に書いて届けた。

 それは自分の死を出来るだけ心安らかに受け入れて欲しいという
私の思いからであった。手紙には、私自身が日頃から死というものに
ついて考えている事や、般若心経にかかれていることや、ハワイに
伝わる不思議なおまじない「ホ・オポノポノ」などに付いてであった。

 手術は思いの外、簡単に終わった。手術それ自体も難しくはなかった
ようであった。術後の回復も良かった。惚けることもなく日々順調に
回復していった。こんな事なら何故もっと早く受けさせてやらなかった
のかと後悔をしたほどであった。

 こうして一度は諦めていた命を繋ぐことが出来、待望の食事も出来た。
そして12月に入るまで家での療養が続いた。しかし、あれほど強く
望んでいた食事も固形物は何ほどの量も喉を通らなかった。

 体調の良い日は外を散歩したり、また、入院前に植えていた枝豆の
収穫なども出来た。私と一緒に枝豆を収穫したのが母と屋外で過ごした
最後であった。胃の他にも内臓の他の場所にも転移が見られ、癌の
成長との時間勝負であった。

 母はよく頑張った。最後まで自分でトイレに行き、痛み止めの座薬
さえ自分で入れていた。こうして、いよいよ自分ではどうにもならなく
なって再入院した。

 後は如何に苦痛を和らげてやるかだけの医療が続いた。約2週間して
息を引き取った。私達夫婦が懸念していたのは、4回にも及ぶ活弁の
口演のことであった。岡山の公民館が二つ、地元の公民館が一つ、もう
一つは私の所属している協議会での口演だった。これら全て何ヶ月も
前から約束していたものであり、断るに断れないものばかりであった。
それら全てが終了するのを待っていてくれたかのような死であった。

 母は一見ひ弱そうに見えたが、その意志の強さは並のものではなく
いわゆる「ゴッドマザー」であった。家族思いの強い人であった。
その思いが強いだけに、弟などは時に疎ましく思っていたようである。

 しかし、良い母であった。遠く伊勢の方から京都に居た父のところに
嫁いできて、鍋釜一つないような一間住まいで私を産み、京都の空襲
を避け幼子を連れて父の出身地である神辺に疎開してきた。

 以来、二十数年間を神辺で暮らし、その後は弟とともに笠岡に住まい
を移し、更には倉敷へと移り住むことになった。母の人生を思うとき
杉本真人の「吾亦紅」の第二節を思い出す。故郷を遠く離れ卒寿を
目前にして他界するまでの60数年間を他国の空の下で過ごしたこと
になる。

 今は父と会っているだろうか。昔、懐かしい人達と再会している
だろうか。それとも慌ただしく次の出生場所を探しているだろうか。
母の人生の幸多き事を祈っている。いつかは自分自身にも、その日が
来ることを思いつつ。
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活弁口演終わる

2009-12-14 06:28:08 | Weblog
 12月に入って活弁口演が4回もあった。何かとハプニングの多い
活弁口演ではあるが、何とか無事に終わって良かった。

 私達にとって最大の懸案事項は私の母の容態であった。私の母は
今年の夏以来、入退院を繰り返している。一時、医師からは余命の
短いことを告げられ私達家族もそれなりの覚悟を決めていた。

 ところが入院中、当の本人からのたっての願いだと言うことで
一時は諦めていた手術を受けることになった。そして手術は成功し
退院して自宅養生を続けてきた。

 しかし、11月の末になって再び入院せざるを得なくなった。
日に日に衰弱している母を見ていると、いつお迎えが来ても不思議
ではない状態が続いている。

 丁度、そのような次期に公民館関係で三カ所もの活弁口演の日が
迫ってきた。これらの口演は母の容態が顕著になり始めるより
ずっと前から依頼を受けていたものである。

 また、私達にとっては、より多くの人達に活弁を知って貰える
またとないチャンスでもあった。それだけにぜひ実現させたかった。

 また、公民館という公の場所での口演なので、ぎりぎりになって
お断り出来るような状況ではなかった。12月に入って以来、私達に
とっては落ち着かない薄氷を踏むような日々が続いた。

 そして、やっと先週の土曜日を最後に全ての口演が終了した。活弁
口演と言えば代替の効かない企画であった。私達夫婦しか出来ない
話芸であり、それだけに母の容態だけでなく、私達夫婦のいずれかが
欠けても出来ない事である。

 それだけに新型のインフルエンザにも最大の注意を払ってきた。
外に出かけたら必ず手洗いとうがいは欠かさないようにしてきた。
私達もVIP並の注意を払ってきたわけである。

 今回の活弁口演は岡山市の一の宮公民館を皮切りに始まった。
続いて地元の琴浦公民館、更には岡山市の興除公民館、そして最後が
私の属している健康生きがいづくりアドバイザー協議会の交流会での
発表であった。

 岡山市の二つの公民館は岡山市の光南台公民館でのワークショップ
などが縁となって取り上げていただいたものである。そして、地元の
琴浦公民館では倉敷市内の他の公民館長さんも鑑賞してくださった
ようで、来年に向けての広がりが期待される。

 私達も当然の事ながら新しい作品に取り組むべく準備中である。
私にとっては環境問題への取り組みと活弁という二足の草鞋を履く
ような状態が当分続くことになるのではなかろうか。
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基地問題は他人事ではない

2009-12-14 05:12:06 | Weblog
 私が初めて沖縄を訪れたのは、沖縄が日本に返還される前であった。
沖縄返還要求をする総評議会が企画した船での訪問であった。当然の
事ながら、当時の沖縄はアメリカの支配下にあり、パスポートを持って
の渡航であった。

 その当時、基地近くの街では、基地の中に沖縄があると言ったような
雰囲気であった。いたる所に軍事施設があり、貸し切りバスの窓から
軍事施設方向にカメラを向けていると、どこで監視していたのかMP
(米軍の軍事警察)のジープがバスの傍まで来て撮影を阻止した。

 夜の裏町へは近づかないように注意されていたが、那覇市内の国際
通りから少しだけ裏町へ入ると、そこは英語だらけの酒場が建ち並び、
アメリカ兵達が大騒ぎをしていた。いつ拳銃の音がしても不思議では
ないような殺伐とした雰囲気であった。今の沖縄からは想像も付かない
姿であった。

 当時、沖縄県民の生活は貧しく、屋根の低い藁葺きの家も建ち並んで
いて、女性が頭の上に荷物を載せて歩いていた。当時の沖縄は米軍基地
に多くを依存していた。

 あれから40数年が過ぎたが、今も沖縄は基地の街である。そして
沖縄返還後もベトナム戦争時にはB52など戦略爆撃機がベトナムへ
向けて飛び立った。まさに前線基地であった。

 そして今、普天間基地の移転を巡って政府の方針ははっきりしない
まま推移している。それもこれも、かつての自公民政府が米軍に約束
した事が尾を引いているからだ。

 一部の週刊誌などは面白可笑しくこの問題を論じているようだが
そんな問題ではないだろう。自らの問題としてしっかり捉えるべき
問題ではなかろうか。

 これは沖縄の問題と言うより日本自身の問題である。日本が名実
ともにアメリカから独立しようかどうしようかという瀬戸際の問題
である。政府の中で多少のごたごたがあっても無理はない。

 折しも民主党は小沢さんを団長として中国に大訪問団を派遣している。
一部マスコミなどは意味のない大名行列だと揶揄しているようだが
そんな事はない。大いなる戦略を秘めているはずである。

 また、次世代を担う中国の主要人物だと言われている人の招待を
巡って、天皇の政治利用だと言われているようだが、国賓として迎える
のであれば、それ相応の待遇はあってしかるべきだ。これも長い目で
見れば歴史的に意義のある事だったと評価されるときが来るのでは
なかろうか。

 米軍の沖縄撤去を巡っては米軍内部では着々とグアム集結で動いて
いるようだ。米軍としては当然の事であろう。かつての東西の冷戦時代
は終わった。その時点から米軍は新時代に向けた戦略を考え、計画を
進めてきたに違いない。

 対テロ戦争は、どこに敵がいるか分からない戦いである。当然の事
ながら従来のように共産圏に銃口を向けていただけでは意味がない。
極端に言えば全方位に向けた戦略が必要になってくる。

 また、アメリカ政府は膨大な軍事費に苦しんでいるはずだ。だから
日本には何かと口実を付けて直接的に間接的に軍事費を要求してきたし
今も要求し続けている。

 今回の普天間基地の移設も、実は移転が必要なのではなく、何とか
日本に軍事費を出させたいという思いが見え見えである。

 米軍は極東において巨大な軍事施設二カ所は必要なく、維持費が
かさむばかりである。内実はグアム一局に集中しようとしているはず
である。今更、世界自然遺産にも匹敵するような辺野古の美しい海を
埋め立てる必要はない。

 繰り返し言うようだが私達は新しい政党を選び、新しい時代を選択
した。国民が一丸となってアメリカからの真の独立を考えてみたい。
今は、そのための千載一遇のチャンスである。

 日本の安全保障には米軍の存在が欠かせなかった。それは東西冷戦
時代までの事である。アメリカにとって今は中国が最大の仮想敵国だと
言われている。

 しかし、中国も決して好んで戦争をしようとは思っていないはずで
ある。それどころか中国は日本と同じようにアメリカの債権を大量に
買っている。そんな国と戦争をするはずがない。

 そのような国際情勢の中で、最も近い国である中国と友好関係を
築くことこそ急務だと言えよう。そうすれば敵対国はなくなるはずで
ある。米軍に依存しなくても軍事的な安定は保てるはずである。

 アメリカとは軍事面だけではなく、別な観点からの友好国として
従来通りの関係を続ければよい。
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これで良いのかCOP15

2009-12-10 06:34:24 | Weblog
 各国の思惑が複雑に絡み合ったCOP15が、前向きな取り組みを
何も決めることなく終わろうとしている。

 開発途上国には開発途上国の言い分があり、先進国には先進国の
国内事情がある。しかし、そんな各国の思惑ばかりを主張していて
良いのだろうか。

 今や温暖化問題は破局的な局面が目前に迫っているとまで言われて
いる。そうした局面がどのような状態になるのか想像も付かないが
地球規模で展開する気象異変は私達の貧弱な想像を遙かに超えるような
ものなのではないだろうか。

 それが何年先なのかも検討が着かない。すぐそこに来ているのかも
知れない。みんなが勝手放題にやっている内にも、その時は時々刻々
と近づいているような気がしてならない。

 この冬、ロシアは記録的な暖冬だと言われている。北極海の夏の氷は
年を追う毎に急速に小さくなっている。前々から言われていることだが、
シベリアやアラスカの永久凍土が解けている。

 また、ヒマラヤなど世界の氷河が消えている。ネパールでは、その
深刻さを世界にアピールするため、閣僚会議をエベレストBC近くで
開催した。

 また、今まで洪水など経験したこともないサウジアラビアで大洪水
が発生し、メッカへの巡礼者達の道を阻んだと報じられている。これを
神からの啓示だと受け止めたい。

 人間は神からの啓示も耳を貸さないほど愚かで傲慢な生きものなの
だろうか。繰り返し何度も言われてきた事だが、この地球は氷山に
ぶつかって沈んでしまったタイタニック号と同じだ。いくら安全で頑丈に
作られているとは言っても操船を誤れば海の藻屑となってしまう。

 そして、安全だ安心だと浮かれている間に宇宙船地球号はどんどん
傾いている。横倒しになるのは時間の問題である。今は議論を重ねて
いるときではない。具体的に何をどのように取り組むかを話し合うべき
時である。

 そして、世界各地で争い事に使われている莫大な戦費を宇宙船地球号
救済のために使うべき時である。人は愚かさを克服できぬまま滅んで
いくのであろうか。
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冬近し

2009-12-08 05:36:10 | Weblog
 久々に我が家の畑のことについて書いてみたい。周辺や山の木々が
葉を落とすと景色は一気に冬へと姿を変えてしまう。今年の秋は殊の
外、紅葉が美しかった。

 山の木々の大半はクヌギだが、雑木と呼ばれているこの木も全山
色付くと、微妙な色の違いもあって、ことさら美しく見える。初冬の
明るい日射しと澄んだ青空の下で、それはそれは美しい眺めである。

 ここのところ再び、松枯れが目立つようになり、山に松らしい緑が
ほとんど見られなくなってしまった。その代わりに山を覆うように
なったのが、このクヌギである。

 この木は強い。そして過去には私達の生活にとって欠かせない木で
あった。マキや炭に加工され、家庭の貴重な燃料源となってきた。
また、椎茸栽培の貴重な原木でもあった。

 私が作っている山の畑の側にも数本のクヌギがある。実に巨木である。
これらが一斉に葉を散らし始めると、辺り一面が落ち葉に覆い尽く
される。毎日のように掃き集めても追いつかないくらいだ。これらを
かき集めて畑に入れるのが、ここ一ヶ月近くの日課となっている。

 それでは山の畑のことから書いてみよう。大豆や小豆やカボチャの
収穫の後、見るべき野菜は何もなくなってしまった。つい先日には
タマネギの苗を植えたばかりである。

 その代わり柑橘類が収穫の時期を迎えている。これから約三週間後
年末にはハッサクや夏みかんの収穫を始めることになる。蜜柑は既に
何度か収穫を行った。やっと完熟となり、甘みと酸味の頃合いが良く
なってきた。これから寒くなるとますます甘みを増すことだろう。
我が家の蜜柑は小ぶりだが、すこぶる味は良い。

 ハッサクの木は二本あるが枝に支柱をしている。一本は裏年だと思い
もう一本は相当数、間引いたと思っていたのだが、思いがけなく大量に
実を付けていることが色付き初めて明らかになってきた。間違いなく
実の付けすぎである。

 と言うわけで支柱をしなければ枝が折れそうである。急遽、何本もの
支柱をして枝が折れるのを防いでいる。そして、夏みかんも同じような
状況である。

 他に柑橘類と言えば、ネーブルオレンジ、伊予柑、デコポン、安政柑
がある。水不足の夏を乗り切って見事なまでに大量の実を付けてくれた。

 これもみなEM効果だと考えている。具体的に立証するのは難しいが
確かに土に何らかの変化が生じている。これは長年、この畑と向き合って
きたものでしか分からないことである。今年も何もかも大豊作である。

 さて、野菜畑の方だが、ここもEM効果の現れであろうか。フル活用
している畑だが、土に疲れが見えない。それどころか益々活性化して
いるようだ。

 今は収穫期を迎えた大根、カブラ、ブロッコリー、カリフラワー
白菜、春菊が日々我が家の食卓を賑わせている。知人に分けてあげる
ほどの大量の野菜があるわけではない。限られた場所に所狭しと多種
多様な野菜を植えているだけである。これが私流の栽培方法である。

 従って、日当たりや風通しを考えないと収穫がゼロとなりかねない。
一番困るのは連作障害の避けようがないと言うことである。特に夏野菜
に多いナス科の野菜類とエンドウ類などである。これらは極端に連作を
嫌う。これを乗り切るために、EMの効果に期待をしているのである。

 これから収穫が始まる予定のものがキャベツである。まだ、収穫する
には玉が小さすぎるようである。白菜が粗方終わった頃から収穫期と
なるであろうか。

 今年は二度目に植えたミニトマトが思いの外、良かった。皮も固く
ならず、大半の夏野菜が終わった頃、しばらくは食卓を飾ってくれた。

 また、特筆すべきは山芋である。しゃべり場の仲間と山中湖に行った
とき、道縁の畑になっていた零余子(むかご)を貰ってきて植えたのが
始まりである。掘り出すと見事なまでの山芋が出来ていた。

 先日も里芋と一緒に焚いてみると、里芋とほとんど変化のない食感と
見た目で大変おいしかった。

 これからしばらくは果樹の剪定が続く。そして消毒や寒肥を入れる。
冬と言えども畑に休みはない。日々忙しい毎日である。
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今為すべき事は

2009-12-05 05:12:00 | Weblog
 民主党政権が誕生し、矢継ぎ早に色んな改革が進められてきた。
しかし改革の道は遠く難しい。それは長い長い自民党政権時代の
問題が澱(おり)のように溜まっているからだ。

 臨時国会も終わり、進めてきた多くの改革の見直しも始まるのでは
ないだろうか。鳩山総理や閣僚の方々の労を心からねぎらいたい。
ご苦労様。

 さて、マスコミでは相も変わらず、小沢さんに始まった民主党の
主要人物の政治資金管理についての報道が行われている。

 そもそも、これらは自民党政権時代に民主党つぶしとして始まった
ものではなかったのか。まさか一度、公にされたものをうやむやの
内に終わらせるというわけには行かないのだろうが、いったい何を
どのようにしようと言うのであろうか。

 政治資金の問題は古くて新しい問題である。最も注意しなければ
ならないことは収賄である。政治権力を利用して、あるいは相手の
便宜を図るために、お金で裏取引をすることである。また、これは
政治家だけの問題ではない。

 かつて、刑務所の塀を綱渡りしていると揶揄された自民党議員が
いた。今日は逮捕かと言われた日、メディアが自宅前に陣取って
いたらしいが何事もなく終わってしまったという話を聞いたことが
ある。

 過去に何度も同じような事を繰り返しながら、なかなか立件まで
には至らなかった。何故そうなったのか私達には知る由もなかった。

 今、大事なことは初めての民主政治がこの日本で行われるように
なったという事実である。この極めて貴重な民主政治のことを忘れては
いけない。

 民主的な手続きによって選んだ民主党政権だからこそ、アメリカも
下手な政治介入が出来ないで困っているのだ。だから裏から、あの手
この手を労して揺さぶりをかけているのかも知れない。

 戦後一貫して、あるいは歴史を遡ればペリーが浦賀沖に現れて以来
と言った方が良いだろうか。日本国はアメリカに翻弄され、あるいは
アメリカの顔色を見ながら政治を行ってきた。それは国民の総意に
よって作られた国ではなかったからではないだろうか。

 それが民主的な手続きにより、いとも簡単に国民による国民のための
民主国家が誕生したのである。その自覚を持っていないのが当の日本
国民だと言えよう。

 民主党が嫌いな評論家も国民目線に立つならば、国民が民主党を
選んだと言う事実を正しく評価すべきではないだろうか。

 これから先、注意すべきことは、かつての自民党のように単独で
衆参両院の絶対多数を民主党が掌握したときではないだろうか。
きっと煩わしい社民党や国民新党との決別を図るに違いない。

 その時に自民党時代とは違う形で独裁的な政治が行われることである。
小沢さんはそれを考えているかも知れない。真の独立国を目指して憲法
を変え、自前の軍事力を増強しようと考えているかも知れない。

 注意しなければならないのは、そのことだけである。国内的には
大いに政治改革を進め、良い意味でのアメリカとのパートナーシップ
を築いて貰いたい。また、当のアメリカも変わらなければならない。

 ほんの一部の権力者達が政治も経済も牛耳るような体制では真の
民主主義国家とは言えない。日本の憲法作りを指導したアメリカが
今のような政治体制で良いのだろうか。

 私達日本人は自分自身の事がよく見えていない。他から指摘されて
初めて自分の国の良さが分かるという鈍感なところがある。日本は
素晴らしい国である。そのことを再認識しつつ、みんなでこの国の
将来を考え続けていきたいものである。

追記

 普天間問題も他人事ではなく我々自身の事である。外野席であれこれ
言うのはたやすい。民主党に全てを任せるだけでなく、日本国民が共に
考えていくべき事である。
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報道は真実をどこまで伝えているのか

2009-12-04 07:04:06 | Weblog
 オバマ大統領はフガニスタン問題を如何に解消すべきかで悩んで
いる。このまま放置すれば混乱に乗じてパキスタンにある核兵器が
アルカイダ等に奪われかねないと言う懸念を抱いての事ではない
だろうか。

 確かに、今のアフガニスタンやパキスタンの国内状況を考えれば
そのような危険性はないとは言えないようだ。

 反面、アフガンへの兵力を増強し治安の回復を目指そうとすれば
ますます戦争は激しくなりベトナム戦争の時のように泥沼化しかね
ない。

 基本的な解決方法としては、その国のことはその国に任せる方が
良い。それがベトナム戦争で学んだ教訓であるはずだ。ベトナムは
社会主義国になったが、今は中国と同じように開放経済政策を取り
入れて平和国家になっている。懸念したようなアメリカの敵対国には
ならなかった。

 そもそもアメリカはアフガニスタンに侵攻すべき何か理由があった
のだろうか。侵攻のきっかけになったあの9.11事件はいったい
何だったのだろうか。今、改めてあの事件の真実が問われようとして
いる。

 2001年9月11日に、ニューヨークのマンハッタンにあった
ツインタワービルと呼ばれていた世界貿易センタービルにジェット
旅客機が突っ込むという前代未聞の事件が発生した。ビルの上層部の
炎上中、実に唐突に激しい粉塵を巻き上げて巨大なビルが木っ端微塵
に砕け崩れ落ちてしまった。巨大ビルの見たこともないような倒壊
シーンであった。

 そもそも頑丈な鉄骨構造のビルが木っ端微塵に砕けるような事が
あるのだろうか。一般的な鉄筋コンクリート製のビルを爆薬で倒す
方法でも、あのような膨大な粉塵が舞い上がることはない。

 明らかに人為的な、それもありきたりの爆薬ではなく、もっと破壊力
の大きな爆薬による破壊のように思えてならない。そして、この事件を
きっかけにアメリカ政府はアルカイダやオサマ・ビン・ラディンらの
テロだとして、その本拠地とされたアフガニスタンへの侵攻が始まった。

 アルカイダの掃討が終わった頃、今度はイラクへとアメリカ軍の
矛先は向けられた。大量破壊兵器を隠し持っているというのが、その
理由であった。

 しかし、当のイラク国内は長引く経済封鎖の中で疲弊しきっており
大量破壊兵器など、どこにもなかった。

 アメリカの情報機関は、初めからそのようなものはないと分かって
いながら侵攻計画を立てていたのではないだろうか。国内でどのような
政治が行われていたにせよ、これは明らかにアメリカの軍事介入であり
侵略行為であった。

 こうした一連の事件に関して、名だたるアメリカや日本のメディアは
何を報道してきたのだろうか。真実を伝える努力をしてきただろうか。
結局、ブッシュの片棒を担いだだけなのではないだろうか。

 今、世界のメディアの大半は巨大資本の介入を受け、真実の報道が
出来なくなっていると聞いている。中立であるべき報道が、このような
事で良いのだろうか。最早、世界に真実を伝えうるメディアは残って
いないのではないかという懸念さえ抱いている。

 報道に携わる者は、その気概と勇気を持って立ち上がるべきでは
なかろうか。今のままでは政治の道具として使われるだけではないのか。
記者とは、無冠の帝王と呼ばれ、そのように自らも戒め生きてきた。
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