人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

地球一周の旅から10年(1)旅立ち

2014-10-27 05:44:40 | Weblog
 私にとって2004年は非常に記憶に残る年となりました。それは人生の節目とも言うべき定年退職を迎えたことから始まりました。
以前から図書館で本を借りて読んでいた家内が、5月の連休に岡山でピースボートの説明会があるそうなので行って見ないかと
誘ってくれました。

 会場では今まで想像したこともなかった地球一周の旅についての説明があり、その後に個別の勧誘がありました。私たち夫婦に
個別に付いた担当者(この担当者G君とは、その後、劇的な再開を果たすことになるのですが)からの誘いに促されるまま旅の
契約をしたのが全ての始まりでした。

 特に何ということもなかったのですが、その場の雰囲気と時の勢いとでも言ううのでしょうか、いつでも解約できると言う
安易な気持ちのまま契約をしてしまいました。その後、気に留めることもなく定年後の数か月が瞬く間に過ぎて行きました。
断ると言う確たる断る理由もなく、夫婦ともどもその年の健康診断も何ら問題もなかったのでいつの間にか乗船の日を迎える
ことになりました。

 その日が2004年10月21日でした。2004年という年は温暖化による影響のためなのか殊の外、大型の台風が多い年
でした。しかし、私たち夫婦は巨大台風のことも、相次ぐ大きな被害のことも意に留めることもなく、ただただ淡々と地球一周の
旅の乗船の日を迎えました。

 実は、10月21日の前日や前々日は巨大台風がもたらした大雨で西日本各地では大洪水でバスの上に被害者が取り残されるなど
多くの交通機関が完全にマヒしてしまいました。遠方から来る人の多くは途中で足止めを食らい駅のベンチで一夜を過ごしたとか
娘さんの車で交通止めになった道を何度も何度も迂回してやっとの思いで神戸港にたどり着いたとか、ともかくすさまじいまでの
経験をしながら神戸港へたどり着いた人が少なくありませんでした。

 私たち夫婦は幸いなことに神戸に住んでいた娘夫婦のところへ二日間泊めて貰いました。そして相次いで報道される台風情報を
テレビでずっと眺めていました。本当にこれで出港できるのだろうか、少しばかりの不安がよぎりましたが、何とかなるだろう
くらいの何と言うか妙に楽観的な気分でした。

 何となくこの日を迎えることが出来たと言う充足感のようなものだったのでしょうか。いま考えても不思議の感はぬぐえません。
特に計画していた旅でもなく、また特別楽しみにしていたことでもなかったのに、導かれるようにしてこの日を迎えたことは
いま振り返ってみても不思議な事でした。

 参加者の執念だったのでしょうか。台風が過ぎ去った翌日の神戸港には必死の思いでたどり着いた人たちが続々と集まってきました。
重い大きなスーツケースを持て余しているような高齢者もいました。高齢者やシニア世代だけでなく多くは若い世代の人達でした。
見知らぬ同士がこの地に集まったのです。

 本来ならば、神戸港から乗船するはずでしたが、前の航海が荒れ帰港が遅れてしまい、神戸港まで回航できなかったようです。
私達は仕方なく神戸港から何台ものバスのチャーター便を連ねて東京晴海ふ頭へ向かいました。地球一周の旅は思いがけなく
国内のバス旅行から始まったのです。

 しかし考えてみれば、このバス旅行が幸いしました。長い長いバスの旅の中で、これからの航海中寝食を共にする多くの友人が
出来たのです。このバスの中でのい出会いが、その後の船旅での大きな心の支えになったのです。夕方も遅くなって晴海ふ頭に
到着しました。トパーズ号専属のバンドが演奏をしながら私たちを迎え入れてくれました。

 乗船した船は見るからに古い船でした。私たち夫婦の部屋は低い階層にありました。古びた古い部屋でしたが寝具は整えられ
先に届けられた私達の荷物が山ほど積まれていました。中身を確認しながら荷を解き、たちまち必要なものだけを取り出して
長い一日を終了しました。

 港に停泊した船の中を歩くと閑散としていて薄暗く、この船で明日からの101日間ここで過ごすのかと思うと感慨無量のものが
ありました。窓からは東京のビルの明かりが遠くに見えていました。まるで異国の地を眺めているような気持でした。

 次回に続く・・・・。
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あの世とこの世

2014-10-26 06:32:01 | Weblog
 人はあの世とこの世を何度も何度も行き来していると言われています。むろん信じる信じないはその人の自由です。
こうした研究が最近になって急速に進み、それは超近代科学の「量子」と言うものからも論じられています。

 この世とは、むろん今生きているこの世界のことです。物質と言うものを介して見たり体験できる素晴らしい世界です。
苦労や苦しみはなくても、変化の少ないあの世と違い、この世はスリルと冒険に満ちています。それも自分の意識の
あり様によって様々に姿を変えると言う摩訶不思議な世界です。まさにバーチャルリアリティの世界なのです。

 だから人間は、この世の魅力に取りつかれて何度も生まれてくるのです。この世での悪人は悪人だけでは物足りず
今度生まれて来るときは善人体験がしたくて生まれてきます。その気にさえなれば何度でも、そしてどんな体験でも
思いのままに出来るのです。

 しかし、残念なことに(?)自分がなぜこの人生を選択したのかはこの世に誕生した時に忘れています。と言うか
この世に生を受けるときの交換条件のように過去生は捨てさることになっているのです。だからこの世に生まれた時には
過去に出会った人でも全く記憶にないのです。

 それはその方が良いのです。過去の人間関係をそのままにこの世に生まれてくると様々なトラブルが生じてしまいます。
男は女に、女は男に、そして過去には親だった人が今度は逆に子供になって生まれてくることもあるのです。

 こうしたことは何のために行われているのでしょう。宗教関係者は学びのためだと言うかもしれません。その辺の
事情は良く分かりませんが、何かしら深い理由があるような気がします。あるいは単純に退屈しのぎの遊び(プレイ)
かも知れません。

 いずれにせよ、この世は冒険と不思議に満ちています。その気にさえなれば、どんなことだって体験できるのです。
大金持ちになって自由気ままに世界旅行でもしようと思えば、その通りになるのです。

 さて、人生は自分が主役の舞台だと言います。人それぞれが主役ですから、千人いれば千の舞台(ストーリー)が
あると言えます。仏教でいうところの曼荼羅とは、そのようなことを指しているのかもしれませんね。

 70億人近い人の人生が様々に重なって、それぞれが主役の物語を演じています。当然のことながら、その人にとって
善人ばかりでは芝居になりません。芝居を面白くしようと思えば悪役も必要になってきます。その人にとって毛嫌いする
ほどの悪役が演じられるのは、相手も相当の役者だと言うことが出来ます。

 舞台にせよ、テレビドラマにせよ、悪役が居てこそ見応えのあるものになります。それと同じように個々の人生においても
悪役は絶対に必要なものです。悪役が居なければ芝居は実に平凡で面白くないものになってしまいます。

 人生はこのように敵役(かたき)など様々な人がいて初めて成り立つものです。しかし現実に於いてはなかなか受け入れ
がたいものです。そのことに気付くのは、そうした嫌な思い出が過去のものとなってしまったとき、そういえばあの時
そんなことがあったなあと懐かしく思い出されるものかも知れません。恩讐の彼方にという言葉が胸に響きます。

 人生を達観出来るようになると、こんなに魅力的なものはありません。退屈で仕方のないあの世と比べると何とこの世は
魅力にあふれているのでしょうか。美人もいれば善人もいる。それが自分の意識のあり様によって実現するという不思議さ。
これこそが、この世の魅力なのです。

 従って、この世で生きていくための最大の手法はマイナスイメージを払拭(ぬぐいさる)することです。捨て去ることです。
いつも明るく楽しいことばかりを考えているとそれは早晩実現します。

 あのディズニーの雪の女王のように、ありのままに生きていくことこそ幸せを掴むことが出来るのかも知れません。
人生は深く悩まない方が良い。それがバーチャルな世界に生きている私たちの幸せな生き方だと言えるかも知れません。
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こじまマルシェ

2014-10-23 04:53:31 | Weblog
 10月も残すところわずかとなった。まさに光陰矢のごとし。月日の過ぎ去るのは早い。さて、満を持して11月9日(日)に
「こじまマルシェ」が児島市民交流センターで開催される。

 児島市民交流センター、元は瀬戸大橋架橋記念館だったドーム型の大きな建物。この建物の天井には巨大な天井画が描かれている。
描いた人の名は不明だが、描かれた時代は中世だろうか。鎌倉時代か室町時代か。時代はともかく解説によると橋の下に集う人たちの
姿だとのことである。このドーム型の建物は古の太鼓橋を模している。

 そのむかし、橋は交通上の重要な施設であった。橋がなければ川を泳いで渡らなければならなかった。ここ地元にも橋を寄付した
人のエピソードが残っているが、それほど橋を架けることは技術を要することであり、お金のかかることであった。

 京都には鴨川に架かる有名な橋が幾つかある。こうした橋の下には大勢の人が集まった。どの道をたどってきたとしても、その橋の
たもとまで行かなければ川を越すことは出来なかったからである。こうして人が集まる場所には自然に市が出来、ますます人は
たくさん集まってきた。多くの人の中には物乞いをするものも集まってくる。大道芸人もやって来る。僧侶も大工も石工もと様々な
職人も集まってくる。こうした人達の姿が天井一面に生き生きと描かれている。

 この絵を見ていると人々が発する熱いエネルギーのようなものを感じる。市井に住まうごく普通の人々の営みの原点がここにある。
ここにはグローバル化した経済もインフレもデフレも何もない。物は元々交換するものであり、お金は必要なかった。銀行もなく
貯蓄と言う思想もなかった。日々の生活に追われていた民衆は宵越しの金を持つほどの余裕もなかった。

 こうした人々の営みが、ごく普通に終戦直後まであった。お金は地域で循環するものであった。それだけで日々生きていくには
何の不自由もなかった。盗まれるようなものもなかったから家の戸に鍵なども必要なかった。夏の事なら窓を開け放ち蚊帳をつって
寝れば涼しく快適に寝ることが出来た。蛍の季節には捕まえてきた蛍などを蚊帳の中に放って風流を楽しんだ。

 さて、マルシェ(市場)は人々の生活の原点である。私は旅先で朝市などを散策するのを最高の楽しみとしている。そこでは
巨大なショッピングセンターでは感じられない人々の温かさと息吹が感じられるからである。私たちにショッピングセンターは
必要ない。酒は酒屋で醤油は醤油屋で油は油屋で野菜は八百屋で魚は魚屋で肉は肉屋で買えばいい。

 こうしてお金は人と人の間を巡ることになる。お金のことを昔の人は「お足」と言ったつまりお金は足が付いているように
人と人の間、店と店の間を駆け巡る、そのようなことから「お足」とあだ名されるようになった。

 今回、私が勤務した三年間の集大成として児島市民交流センターでは「こじまマルシェ」と称して様々な人々の集まりを開催する。
稼ぎを目的とするのではなく、人と人の交流を目的としたものである。誰でもがチャンスがあれば、こんな企画もこんなイベントも
立ち上げることが出来るのだと言うきっかけ作りにしたいと思っている。そんな目的や希望を持っている人を応援したいと言うのが
勤務当初からの私の考えであった。そして過去二年間の試行錯誤、紆余曲折の中から今回の「こじまマルシェ」にたどり着いた。

 これもある若い主婦の取り組みにヒントを得たものであった。人の繋がりは不思議なものである。そして際限がない。人は人を呼び
更に人は人を呼ぶ。そして人は更なる繋がりを求めている。殺伐とした世の中なればこそ人は人の温もりを求めている。そうした
人の集まりが「こじまマルシェ」だと思っている。

 どうか11月9日(日)には児島市民交流センターに来てみて欲しい。この日が晴天であることを望んでいます。しかし雨天決行です。
ホットな人の温もりを感じに来てください。そしてその温もりを感じたら次はあなた自身で人の集まりを企画してみてください。
児島市民交流センターは、あなたの夢を応援します。そしてお手伝いをします。
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実りの秋

2014-10-18 05:50:14 | Weblog
 黄色く色付き始めた田んぼが広がっている。県南における瀬戸大橋線沿線の風景である。昨年は至る所で見られたウンカによる被害も
ほとんど見当たらない。先日の台風で少しだけ倒れかけた田んぼも少しだけ見受けられるが、総じて実り豊かな秋を迎えている。

 我が家の果樹畑でも柿が色付き始め柑橘類もほんの少し濃い緑からの変化が見られる。さすがに今年は一個もならないだろうと半ば
諦めていた大木のハッサクにも、最近になって大きな実が点々と見受けられるようになってきた。これでいけばもう一本の八朔と合わせ
家族で食べるには十分な収穫となりそうだ。

 さて、ヒマラヤでは猛烈な吹雪で多くの行方不明者が出ているとか。台風一過、北海道では雪になったとか、御嶽山では本格的な
積雪で捜索は中止になったとか、冬の色んな情報が寄せられている。

 何かしら今年の冬は大雪や寒さによる被害が続出しそうな予感がする。そう言えば昨年の冬も豪雪で多くの集落が孤立した等と報じられて
いたことを思いだす。温暖化の一方で太陽の活動がかつてないほど弱まっているとも言われている。太陽活動が弱まると地球は寒冷化に
向かうのではないか。温暖化と寒冷化、相矛盾する二つの出来事が同時進行のように生じている。果たして地球の気候は、そして私達の生活は・・・。

 我が家の玄関口に植わっている大きなエンゼルトランペット、とても清新な香りを漂わせる花だが今年は何故か花の付き具合が良くない。
このまま行けば最盛期を迎えぬままに終わるのではないか。そんな気がしている。日照不足なのか、夏が短かったためか。

 最大の収穫をもたらせてくれたブルーベリーの収穫も終わり、長い間、鬱陶しかった防虫ネットも外してしまい、すっきりとした庭になった。
そのブルーベリーに小さな芽が見られるようになった。これらの芽は小さくて今のところ花芽か葉芽か定かではないが、来年に向けての準備が
すでに始まっている。

 自然の移ろいは早い。そして変わることなく時を刻んでいる。これからは山の木々も日毎に色付き、そして、やがて落ち葉の季節を迎える
ことになる。秋から冬へと季節は足早に通り過ぎて行く。

 自然の静かな移ろいとは裏腹に人の営みは喧騒に満ちている。やれエボラだ。やれデング熱だと。連日のように大騒ぎだったデング熱は
一体その後どうなったのだろう。今はエボラの方に報道はシフトしている。とかく私達の生活はマスコミによる様々な報道で混乱させられて
いる。これが良いのか悪いのか。なまじ不確実な情報によって混乱を助長させているだけではないのか。イスラム国などと不可思議な名前を
付けて戦争の恐怖を助長させているのは誰なのか。目的は何なのか、理解出来ないようなことが多すぎる。

 私たちは情報の混乱の中から真実は何なのかを見出す目を養わなければならない。そして情報を流すものにも節操が必要だと感じている
のは私だけであろうか。ともかく世の中は明るくありたいと切実に願う日々である。
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運命(さだめ)

2014-10-06 06:41:28 | Weblog
 「まことに、この小さき島国はその昔より天災と言うもの多く、この列島に暮らす限り人々は、繰り返し襲ってくるこれら天災と
共生しなければ生きてはいけなかった」司馬遼太郎の「坂の上の雲」流に書けば、このような表現になるのだろうか。

 3年前の3月11日に東日本各地を襲った大地震と、それに伴う大津波、その後の相次ぐ集中豪雨とそれに伴う土砂災害、突然の
御嶽山の噴火、そして休みなく襲ってくる台風、この国はまさに天災の国だと言っても過言ではなさそうだ。それがこの小さき列島に
住まうものの運命(さだめ)でもある。打ちのめされては立ち上がり、立ち上がっては打ちのめされる。この国の歴史はその繰り返しで
あった。

 そして、それは今も、またこれから先も続くことになるだろう。私達日本人はその繰り返しの中で命を紡ぎ繋いできた。そもそも
日本列島と言う地理的な位置づけも誠に奇妙である。奇妙な形の列島が大陸の端にちょこんと鎮座ましましている。そしてその形は
昔からタツノオトシゴに例えられるような形をしている。日本列島の島それぞれを地球に配置すれば諸大陸となると言っている人がいる。
さながら本州はユーラシア大陸であろうか。そして九州は北海道は四国はどの大陸になるのだろうか。考えてみるのも面白い。

 江戸末期から明治初頭にかけて日本を訪れた外国人たちの誰もが、人なつっこい日本人についてそれぞれの旅行記に書き残している。
夏の事なら裸同然の姿で人々は屈託なく、いつもニコニコと笑顔を向けてくれる。そして、そうした身なりとは裏腹にやさしく礼儀
正しいと書いている。

 ある旅行好きな西洋の女性などは、お供も付けず東北地方を旅している。それほど治安の面での心配もなかったと言うことであろう。
そして彼らが旅してきた東南アジアのどの国よりも清潔で居心地が良かったと書いている。

 繰り返す天災、それにもくじけることなく立ち上がり復興への槌(つち)を握る。こうした中から日本人特有の死生観が生まれ
我慢強さが培われてきたのかも知れない。なのに今の日本人にはなぜこうも我慢が足りないのだろうか。そして何かあれば他に
責任を転嫁し、援助を求めようとする。そして自分勝手で他人のことを思いやると言うかつての美徳を忘れてかけている。自分さえ
良ければそれで良いと言う間違った個人主義に取りつかれている。

 さて、私たち夫婦は久々に旅をしてきた。まさに18号台風と19号台風の狭間に於ける3泊4日の北海道旅行であった。
早くから計画していても計画倒れになることが多く、今回は思いついたが吉日とばかりに、そさくさと大まかな旅の予定を立て
函館から小樽、そして札幌と回ってきた。

 道南の黄葉は始まったばかりであった。しかし暑くもなく、さりとて寒くもなく丁度良いくらいの気温であった。着いた日に訪れた
トラピスト修道院、そして五稜郭、函館山からの夜景、そして裾野の教会などの古い建物は夜になるとライトアップされ、それはそれは
美しかった。

 そして翌日の小樽運河での夕景と夜景、ここでも伝統的な建物はみなライトアップされていた。江戸時代から栄えた港町であった。
翌日は勧められるままにニシン御殿を訪ねてみた。かつてニシンがどれほどの富をもたらしたかを今に伝える壮大な建物であった。
古をたどればここのニシンは波頭を越えて私達の故郷である下津井にももたらされたものに違いない。何かしら不思議な縁を感じる
建物であった。むろん、この浜に昔のような賑わいもなくうらぶれた港町であった。

 札幌は時計台から大通公園、旧北海道庁の建物、翌日の北海道大学構内散策と全てのスケジュールは前倒しで最終日の時間を
もてあますくらい順調な旅であった。幾枚ものデジタル写真が手元にある。これからはこれからの写真展の出展には事欠かない
ものとなりそうだ。それにしても持参した二台のデジタルカメラの威力はすごく、いずれも多機能でありこれらをフル動員すれば
どんな写真でも取れそうだ。

 それにしても中国や韓国をはじめとするアジア系の旅行者が多い。日本人観光客より多いくらいだ。各国の言葉がどこの街でも
飛び交っている。彼らの目に今の日本はどのように映っているのだろうか。
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見えぬものが見えてくる

2014-10-03 04:56:16 | Weblog
 一段と秋らしくなってきたと思っていたら夏のような蒸し暑さ。こんなことを繰り返しながら秋は深まっていくのだろうか。
我が家の果樹畑では栗が収穫期を終えようとしている。毎朝、落ちている栗を拾うのがここのところ日課になっている。
とても我が家では使いきれないので、欲しい人には配っている。

 しかし、栗も一時に集中して落ちてしまうと後はわずかばかりが残っている状態だ。どうやら今年の収穫期は終えたようだ。
それにしても昨年に引き続き今年も大豊作だった。その上、虫が入ったものもほどんどなく収穫量も多かった。本当に
ありがたい話である。自然の恵みに感謝の日々である。

 栗は収穫下ばかりの時はあまり甘くない。しかし冷蔵庫に入れて一か月か二か月すると甘くなってくる。試してみて欲しい。
また、栗の皮は固くて剥ぐのが大変だ。その上、渋皮まで付いている。だから食べたくても敬遠されるのかもしれない。
しかし、ネット上には様々な方法が掲載されているので参考にしてほしい。とにかく季節の味覚だから大切に味わいたい。

 さて、今日は人の意識について考えてみた。人はあることに集中すると、とても不可能だと思えるようなことを可能に
してしまう。そうした力、能力が幾多の発見や発明を生み出し、更には素晴らしい芸術作品を生み出してきた。夢幻だった
ものを現実のものにしてしまうという素晴らしい能力を有している。

 どうやら、こうしたことを現実のものとしてしまうのは、体の働きと言うよりは脳の働きによるものらしいと言うことが
明らかになってきた。そして、それを可能にするのがくじけることなく続けていく努力。そして計り知れない集中力である。
これら全て体の機能と言うよりは脳の働きによるものだ。従って、スポーツと言えども脳の働き、つまり脳のプレイなしには
成しえない。優れたスポーツマンは優れた脳力者だとも言える。

 日ごろの練習では素晴らしい記録を残せるスポーツマンもオリンピックなどの大舞台では惨敗と言うことも少なくない。
これも気持ちが委縮し筋肉がうまく機能しないことによるものだ。従って、いかにして平常心を保ち精神を集中させるかで
勝負は決まる。苦手意識は必ず敗退に通じる。かく言う私も様々な苦手意識で出来ることが出来なかったと言う苦い経験を
幾つも味わっている。

 人間は誰でも一様に優れた能力を有している。それなのに優劣が生じるのは結局、精神的なものに左右されているからに
他ならない。そして優れた能力は一様ではない。勉強は嫌いだがこれなら誰にも負けないと言う人は少なくない。実は、
能力にはその人の思考が関係している。人の思いが不可能なものを可能にする。だから勉強が出来ないからと言って卑下する
ことはない。人は人それぞれに役割を担って生きている。

 昨日は所用があって丸亀に行ってきた。丸亀は児島と古くは江戸時代から深い関係のあった土地である。その昔、金刀比羅と
児島の瑜伽の間には信仰を通じての深い結びつきがあった。瑜伽を出たものは舟で海向こうの丸亀に向かった。丸亀を出たものは
瑜伽に向かった。金毘羅大権現と瑜伽大権現の両参りと言う信仰からであった。

 しかし、両地の行き来は絶えて久しい。信仰が薄れてしまったからだ。また、交通手段も海上から瀬戸大橋へと移って
しまった。今は琴平行の直通電車に乗ればわずかに18分で行けるところだ。私の家から電車で岡山へ行くよりは近い
と言うことになる。

 その丸亀だが以前に訪れた時より寂れていた。駅前から丸亀城方面に向かう商店街のどの通りもいわゆるシャッター街に
なっていた。ある通りはアーケードを撤去中であった。むき出しになった通りの空を見上げると太い高圧線が通りに沿って伸び
遠目には鉄道の高架橋が走っているようにも見える光景であった。実はシャッター街のこの景色、地方の街では良く見る光景で
ある。

 地方を立て直すのが安倍政権の次の目標になっているようだが、かくも寂れた地方を立て直すのは容易なことではない。
ましてや都会に出た若者たちをどのような手段で呼び戻そうと言うのだろうか。街の駅に立ち寄ったところ、集まってくるのは
高齢者ばかりである。これが地方の現実ではないだろうか。
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