人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

政治には世界的な視点を

2006-08-30 15:32:21 | Weblog
 今日の朝日新聞に前民主党代表の岡田さんの記事が出ていた。アフリカ
を訪問しての感想であった。いまアフリカは政治的混迷と、その混迷から
生じた内戦、アメリカなど地下資源を確保したい大国の思惑による紛争、
そして先の見えない貧困とHIV(エイズ)の蔓延にに喘いでいる。

 ヨーロッパの列強が争って進めてきた植民地政策と、アメリカ等が行って
きた奴隷政策のため、アフリカは豊かな自然と資源を有しながら自らの
手では何も出来ず、人も物もこうした先進国の収奪に委ねてきた。その
悲しい歴史は今もなお続いている。
 多くの成人がHIV(エイズ)に感染し亡くなっている。貧困であるが
故に特効薬も買うことが出来ない。国としての機能を失ってしまうような
深刻な事態に立ち至っている国も少なくない。
 教育が遅れているために迷信がはびこり、無知蒙昧は容易に扇動され
易い。ルワンダの大虐殺のように同じ国民同士が凄惨な殺し合いを行った
ことも少なくない。

 民主党の岡田さんの報告を待つまでもなく、アフリカには今の世界が
抱えているありとあらゆる矛盾が山ほど集まっている。アフリカを救済
することが、今の世界が克服しなければならない様々な問題解決のため
の糸口になるのではないだろうか。
 政治は変なナショナリズムを煽ることではなく、世界の将来を見据えた
政治でなければならない。

 先に自民党の加藤紘一さんの実家が放火され全焼してしまった。人命に
被害が及ばなかったのは不幸中の幸いであった。犯人は右翼の幹部のよう
だが、小泉さんや安倍さんが語るまでもなく、言論の自由を暴力で封じる
ような事は絶対にあってはならない。言論を封ずるとは、どういうことか。
それは自らに唾する事であり、実行犯自らが自分の顔に唾を吐きかけた
ようなものである。自由にものが言えることこそ最大の幸せであると
認識すべきである。

 また、最近の世論調査では韓国、中国、日本、それぞれの国の若者の間
では自国こそ正しいという風潮と、日本の若者のように、いつまでも自虐
的な態度はとるべきではないという考えが浸透しているようだ。それは、
とりもなおさず政治家達が意図的に靖国参拝を政治に利用したからでは
ないだろうか。たとえ意図的ではないにしても、小泉さんのように頑なに
靖国参拝を行ってきた歴代の自民党国会議員の責任である。小泉さんは
自分の信念で靖国参拝をするのだと言っているが、この参拝がそれぞれの
国の若者達に必要以上のナショナリズムを煽ってきたことは間違いない。
その行く末がどんなものであるかは戦前の姿を見れば歴然としている。

 日本の若者には自虐ではなく、冷静な目で見た歴史観が望まれる。また、
中国にせよ韓国にせよ、日本を単なる侵略国として見るのではなく、そこ
に至るまでの中国や韓国の歴史がどうであったのか、その前の日本との
関係はどうだったのか、植民地化を進めてきたヨーロッパ列強やアメリカ
との関係はどうだったのか、もっとアジアという大きな視点から歴史を
見ていく必要があるのではないだろうか。その中にこそ、これからの日本
と中国、韓国、ひいてはアジアの姿が見えてくるのではないだろうか。

 今、アメリカ発のグローバル化が世界を席巻している。ヨーロッパ諸国
は、いち早くその危険性に気付きヨーロッパ連合を進めてきた。取り残され
ているのは、アジア、アフリカ諸国である。アメリカの打ち込む戦略的な
くさびの中で、形こそ異なるが新たなる植民地化が進んでいるのではない
だろうか。

 今、アフリカ諸国に目を向けることは、自ら気が付かなかった事を知る
ことであり、アフリカの中にこそ、これからの政治が目を向けるべき課題
が隠されているように思う。
 小さなナショナリズムに捕らわれることなく、本当の意味でのグローバル
な視点を持った政治が望まれるのである。それが戦前の過ちを再び繰り
返さないことであり、戦前の罪を償うことではないのだろうか。

 戦前、日本にも立派な政治家は居た。それは岡山が生んだ偉大な政治家
犬養木堂翁だ。犬養さんは日本に逃げてきた中国の革命家「孫文」を匿い
支援した。アジアは一つという壮大な構想の下に、日本からアジアの植民
地解放運動を起こそうとしていた。今こそ、犬養木堂翁の壮大な思想に戻る
べきではないかと思うのである。
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地球一周旅日記

2006-08-28 10:23:44 | Weblog
 ピースボートによる「地球一周の旅」から2005年1月30日に
神戸港へ帰ってきた。船の中で毎日書き溜めていた日記を家に帰って
再チェックして「地球一周旅日記」と言うタイトルでアップロードした
のが2005年の3月頃だった。
 これは私と家内のピースボートによる旅行記である。ピースボートに
よる旅がどんなものなのか興味本位で行った説明会で、ある若者との
出会いがきっかけで、何とはなしに契約書にサインをしてしまった。同じ
倉敷市出身という気安さと、いつでも契約解除出来るという気軽さから
仮契約をしてしまったのだ。
 仮契約後、5月、6月、7月、8月、9月、10月と定年後の月日は
アットいう間に過ぎてしまい、気が付いてみれば乗船の日は直前に迫って
いた。前もって計画していたわけでもないのに軽い気持ちでコンベアに
乗ってしまったら、いつの間にかもう船の近くまで来ていたような旅の
始まりだった。
 こうして百余日間、船に揺られて地球を一周し、又してもいつの間にか
神戸港に着いていた。誠に浦島太郎の竜宮城への行き帰りのように月日の
経つのは夢の内のことであった。
 その大旅行記がついに二年近くかかって、やっと完成したのである。
興味ある方、また、私達と同じような旅行体験をされた方には是非読んで、
写真を見て楽しんでいただけたらと思う。

 写したいと思う被写体がとても多くて、デジカメと高速のインターネット
時代でなければ、とても掲載など出来なかったに違いない。私は乗船前に
買った一眼レフのカメラ一台と前から持っていたコンパクトデジカメ一台
を持って乗船した。両方のカメラをフルに活用し、撮りまくった写真の
データ量は膨大な量で700MBのCDにして13枚にも及んだ。
 この旅行で良かったのは一眼レフのデジカメを携行したことであった。
このカメラには18ミリから135ミリまでのレンズが付いていた。
ケニアの動物たちを写すには、どうしても望遠レンズが必要であった。
また、時には広角レンズも必要だった。十分とは言えないまでも、この
レンズは両方に対応していた。シャッターチャンスを逃すことなく動物を
写すことが出来たのは、このカメラのお陰であった。

 写してみたものの、この膨大な写真をどのように活用するかが問題で
あった。そこで各国別に何枚かをピックアップしてCD二枚分にまとめ
報告会用のCDを作成した。そしてホームページには報告会用を補足する
意味からも出来るだけ多くの写真を掲載することにした。
 ホームページに掲載するためには、一枚毎の縮小加工が必要である。
一旅行先で400枚というページもあり、全行程を網羅することは大変な
事であった。そのために写真掲載だけで約一年間を要したわけである。
いやと言うほど写真を掲載しているのでお楽しみ頂ければと思う。

 さて、ピースボートの旅、つい先日も第54回が出発したばかりだが、
私達47回のものが船を降りてから既に7度目の船が今航海中と言うこと
になる。聞くところによると今回の船には、私達のクルーズで一緒だった
人が20人近くも乗っていると言うから、その他のクルーズの人も入れる
と、かなりの人がリピーターになっているのではないだろうか。
 何度も乗ることが出来る人は、それなりに裕福な人であり、健康に問題
がなく、家の方にも気遣うような事がないハッピーな人だと言えるであろう。
 百余日というと如何にも長いように感じられるかも知れないが、過ぎて
みればアットという間のことである。船の速度は遅いようにも感じられるが
24時間走り続けている。時速30キロと言えども24時間後には実に
720キロも航海していることになる。途中、幾つかの寄港地はあるが、
百余日もすれば出発地へ戻ってくるのである。

 私は自分の旅行記の中で何度も書いているが、この旅で何が良かった
のかと問われれば人と人の出会いだと答えている。むろん、私達が乗った
南回りコースには行きたくても遠すぎて行けないような所が少なくない。
ケニア、南アフリカ、ナミビア、ブラジル、アルゼンチン、ウッシュアイア、
パタゴニアフィヨルド、チリ、イースター島、タヒチ、パプアニューギニア
等だ。これらは通常のツアーで行くとしてもとても遠い国だ。そんな場所
が船に揺られている間に着いてしまうのである。これほど楽で便利な旅は
ない。
 さて、話を戻そう。そんな出会い旅の延長が今も続いている。仲良く
なった人との個人的な交流、また、船の中での自主活動を通じて知り合った
同好の士などとの交流である。わけても、ある人との出会いが次の出会い
を呼び、そうした人と人の繋がりの中で、あることが実現しようとしている。
それが今年で第二回目の開催となる「活弁シネマライブ児島公演」である。
 まったく孤立無援の中で、どうなることかと固唾を呑みながら実施した
第一回目と異なり、新たなる組織が出来、その組織の中には、ある資格を
取得するための講習会で知り合った力強い仲間が幾人か出来た。かくして
孤立無援状態から脱することが出来たのである。

 人の繋がりや支援の輪等と言うようなものは、このようにして出来る
ものなのであろうか。大旅行から始まり、船の中で知り合った仲間と一人
の活弁士、更には帰国後の講習会での新たなる出会い、これらは前もって
私のために準備されていた定年後の登場人物のようであった。
 定年までが長い長い一幕だとすれば、定年後は未知数の第二幕と言う
ことになるだろう。その第二幕目の登場人物が早くも現れたのである。
果たして完結へ向けてのストーリーは如何相成るのであろうか。

 ともあれ、何もかも「地球一周の旅」がきっかけであった事は間違い
なく、その「旅日記」が完成したことは、個人的な大いなる喜びである。
この下に「地球一周旅日記」のURLを記しておく。
http://kannabe.hp.infoseek.co.jp/public_html/pi-subo-to/e1tikyuuissyuufunenotabi.html
これをコピー&ペーストしてアクセスして貰いたい。
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孫の帰郷

2006-08-23 05:20:23 | Weblog
 久々に娘(長女)夫婦が孫を連れて帰ってきた。今回は息子(長男)の
帰郷に合わせたものだった。実は、娘夫婦の帰郷に関しては、息子には
内緒にしているつもりだった。ところが、どこからかリークしてしまった
ようで息子は知っていた。息子にしてみれば久々に自分一人で親に甘えら
れると思っていたようだ。ところが孫が帰ってきたら孫が主役になって
しまう。少し不満だったようだ。どんなに大きくなっても家に帰れば
甘えん坊の息子である。

 その孫もハイハイが出来るようになった。ハイハイが出来るようになる
と自分の興味あるものまで自分の意志でたどり着くことだ出来る。寝返り
していたときでさえ、寝返りをしながら興味あるものの側まで行っていた
のだから、ハイハイが出来るようになると行動範囲は大きく広がる。
 興味あるものを手にするとその場所でコロンと仰向けになって手首を
クルクル動かしては飽かずに眺めている。そして時には舐めたり口に入れ
て味わっている。こんな小さな子供でも好き嫌いはあるらしく、特定の
玩具を好むようだ。
 孫が我が家に帰ると聞いてから、口に入れては困るようなものは全て
手の届かないところへ移動した。そして、掃き掃除だけでなく、拭き掃除
までして帰りを待った。赤ちゃんの口は目と同じようにセンサーの役割を
している。これは私達の祖先が未だサルだった頃の名残ではないだろうか。

 最近ではお母さんのオッパイではなく離乳食を好むようになったようだ。
離乳食と言っても決して私達が食しているような甘いとか辛いとかという
ような味の濃いものではない。御飯を柔らかくしたもの、カボチャ、ニン
ジン、ジャガイモ等野菜をすりつぶして柔らかくしたものを食べさせて
いる。
 オッパイは食べさせることが間に合わないような緊急の時とか、添い寝
をするときだけ与えているのだと娘が話していた。次第に乳離れしていく
のが嬉しいようでもあり、少し寂しいと笑いながら話していた。
 そんなものを食べるようになったことと、胃や腸が次第に形あるものに
なってきたのであろうか、ウンチも固いものになってきたようだ。たった
八ヶ月ほどの間の進歩である。
 
 誰が聞いても分かるほど泣き声による意思表示もしっかりしてきた。
それに応じて泣き声自体も変化してきたようだ。生まれて三、四ヶ月ころ
の弱々しい泣き声とはまるで異なるような大声を出してみたり、そんな時、
あわてて側に行くと、自分の側に来てくれた事だけで安心するらしく、
また、それまでと同じように玩具の方に向いてしまうのだと話していた。
 これなどは甘えの行動ではないだろうか。赤ちゃんは、赤ちゃんなりの
方法で自己主張や意思表示をしているようだ。

 私達自身が子育ての頃は、ただただ夢中で泣けばだっこをし、気分転換
を図るため別の何かに興味の目を向けさすようにしたりと、それら全ては
当面を何とかしたいという思いで必死だった。
 しかし、改めて余裕ある目で赤ちゃんの行動を見てみると非常に興味
深い思いがする。赤ちゃんは、物言えぬだけに何かを伝えようとしても
伝わらないし、思うように動けないだけに不自由な思いをしている。
それらを泣きわめくことで知らせようとしているようだ。また、本能的な
甘えの行動もあるようだ。それらを見誤らないようにするのは周辺にいる
大人の責任ではないだろうか。
 泣きやまないからと殴ったりけったりするのはもっての他である。
赤ちゃんは痛さと恐怖で余計大声で泣くだけだ。ただ、新米のパパやママ
には客観的に見るだけの余裕がない。余裕がなくてイライラするから手が
出たりするのである。
 私達が子育ての頃も余裕はなかったが、赤ちゃんとは、そう言うものだ
と一生懸命泣きやむようにおしめを替えてみたり、外へ連れ出して気分
転換を図ったものであった。新米の親の場合はそれで良いのだと思う。
 これが二人目三人目になってくると余裕も出来、経験も豊富になって
オロオロする事もなくなって来るのではないだろうか。ともあれ、フランク
永井の歌にもあったように「赤ちゃんは王様」なのである。
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天の恵み

2006-08-17 22:01:18 | Weblog
 不安定な中東情勢、中国など開発途上国の需要増等が重なって石油資源
の高騰が続いている。ガソリンなど石油関連製品は、すでに湾岸戦争当時
の価格を上回っている。運輸業や化学産業ならずとも悲鳴を上げている
のが実状ではないだろうか。
 ところが、この高騰は容易に治まりそうもない。と言うのもイラクを
初め中東情勢はますます混迷の度を深めているからだ。その上、開発途上
国を初めとする需要増はますます加速しているからだ。中国の六億人を
越えるような人が、いまの日本並みに車を乗り回すようになったときの事
を考えてみよう。恐ろしいまでの需要量であることは間違いない。
 石油資源は枯渇しているとは言わないまでも、新しい油田が開発されて
いるとは言いながら需要増に較べればわずかな量である。新しい油田が
開発されたとしても、とても需要増に追いつくような量ではない。

 その上、石油など天然資源は炭酸ガスを大気中に放出し続けている。
石油資源を使えば使うほど炭酸ガスは増え、地球温暖化現象に繋がって
いる。
 昨晩もNHKの特集番組で放映していたが、今まで南方でしか観察され
なかった大型の蝶が日本列島をどんどん北上している。カメムシなどの
害虫も暖冬のためか冬越しをするものがいて、本来ならいないはずの季節
にも果樹などに害を及ぼしている。
 海にも異変が生じているようだ。本来は南方の海にしか生息しないはず
の魚が瀬戸内海に住み着いている。中でもトビエイはアサリなどを大量に
食べるので、ただでさえ減少している上に更に追い打ちをかけている。

 それに引き替え、今年も我が家の庭ではブルーベリーが大量に収穫できた。
さして大きくはないたった二本の木から約七キロばかりの実が収穫できた
のだ。本当にありがたいことである。
 春先には潅水不足で出来たばかりの小さな実に皺が寄っていた木の方も
その後の水やりや多雨のお陰もあって見事に立ち直り大きな実を付けた。
これら農産物は、人間が手間暇を惜しまなければ、その努力にきちんと
応えてくれる。
 今年は隣家にも少しだけ分けてあげ、その他はジャムにした。ジャムに
したものは、私の実家に届け娘に持って帰らせた。それでもしばらくは
我が家でも楽しむほどのものは残ったようだ。
 今年は初めてブルーベリー酒なるものも作ってみた。三ヶ月後に開いて
みるのが楽しみだ。

 さて、過去に例を見ないほどの今年の長雨は、やはり畑に大きな被害を
もたらした。梅雨が明けてみるとトマトは半分近くが割れて傷んでいた。
梅雨明け後はトマトもナスビもピーマンもキュウリも大半のものが満足な
実を付けることなく終わってしまいそうだ。
 今はかろうじて遅く植えたオクラやトウモロコシや枝豆が成長を続けて
いる。雨は多すぎても少なすぎても困る。しかし、越冬害虫と同じように
農作物を作る環境としては悪化しているような気がしてならない。

 夏野菜の十分な収穫がないままに、白菜やキャベツブロッコリーなどの
冬野菜の種蒔きの季節となった。ぼつぼつ畑も耕して冬物野菜の種蒔きや
苗の定植の準備を始めなければならない。

 今日は台風十号が不気味な動きを見せている。いったんは日本列島に
沿って南下するかに見えたが、九州上陸かと言う頃から大きくUターンを
するような気配だ。風も時折強く吹いている。一雨欲しいけれど被害は
御免被りたい。何事によらず、そうは上手くいかない事ばかりだ。
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終戦記念日

2006-08-15 14:59:47 | Weblog
 今日は8月15日、お盆でもあり終戦記念日でもある。先の太平洋戦争
が終わって61年が過ぎた。その間、日本は平和憲法に守られ空襲で破壊
された街を復興し、産業を立て直し、未曾有の経済発展を遂げてきた。
これは一重に平和憲法のたまものだと言えるのではないだろうか。
 一方、世界第一位と言われるほどの経済発展は、金さえあれば何でも
出来るという風潮を生み、拝金主義を助長し、家の中にはないものがない
と言うほどの物が満ちあふれ、その反面、物は満たされても心の中は逆に
空虚になっていくという心の荒廃が進んできた。

 最近の調査によると、青少年の40数%は「戦争が起きたらどうするか」
という質問に対し、「率先して戦う」という結果が出たと報じられていた。
これは中国や韓国に比較すると群を抜いて高い数字だと報じられている。
アンケートの取り方がどうだったのか詳しく調べてみないと分からないが
実に驚くべき数字である。
 今もなお、世界中至るところで戦争や地域紛争があり、その悲惨さを
知らぬわけでもあるまいが、この数字をどう考えれば良いのだろうか。
彼らが大勢を占めるような世の中になったとき、憲法九条を変える事は
難しいことではあるまい。

 いま、NHKの連続ドラマ「純情きらり」では、先の太平洋戦争最中を
背景にした場面が放送されている。テレビドラマだから、その悲惨さや
悲しみの描き方には限界があるだろう。それでも当時の苦しみや理不尽さ
などは良く描かれている。
 個人の夢や希望は国家の戦争という前に微塵にうち砕かれ、多くの若者
が戦場に駆り出されていった。そして銃後にいた母や恋人、幼い妹や弟も
また空襲に追われ、食うや食わずの生活を長く強いられてきた。

 先日もイラクの現実を知ろうという番組の中で、あたかもウオーゲーム
のようにミサイル攻撃の標的が爆破されるシーンが映されていた。あの
映像だけを見ていると、その下での凄惨な出来事は見えてこない。しかし、
現実は多くの子供達が傷付き、お父さんやお母さんが亡くなっている。
現実の戦争とはこのようなものであり、この現実を見ても若者達は戦争と
いうものを肯定するのだろうか。
 アンケートにYESと答えた青少年達は現実を直視した上での回答では
なかったはずだ。ただ格好良いだけでは論じられない悲惨さを秘めたもの
であることを今一度考え直して貰いたい。

 明治維新以来、日本は富国強兵政策を前面に押し立てて軍備を強化して
きた。「ああ野麦峠」という映画の中では、舞踏会で華やかに着飾った
男女が外国高官達と踊っている間も、数少ない輸出品であった絹糸を紡ぐ
ための担い手として多くの娘が駆り出され紡績工場へ送り込まれていった。
 当初は百円工女とともてはやされた娘達も劣悪な環境と厳しい労働の中
で体を蝕まれ、使い捨ての道具のように時代の片隅にうち捨てられていった。
そうした女工達の血と汗で紡がれた絹糸が日本の軍事力を支えたのであった。
すべては軍事最優先の中にあって、地方の道路も橋も昔のままであった。
国民の生活は二の次であった。
 そんな貧しい生活もアメリカ軍の空襲によって、ことごとく焼かれて
しまい、その上、多くの働き手は戦地に駆り出され、殺されていった。
残ったのは荒廃した街だけで、多くの有能な産業の担い手や働き盛りの
男達は戦場に消えていったのであった。

 こうした悲惨であった過去を振り返ってみるのが終戦記念日であり、
公約だからと頑強に自分の意志だけを貫き、靖国神社参拝をするのが終戦
記念日ではない。
 若者達が二度と再び銃を手にすることのないような国や国際社会にする
ためにはどのようにしたらよいのか、そのことを最優先に考えるべきでは
ないだろうか。それこそ未来を担う若者達のやりがいのある仕事だと思う
のだが。
コメント (2)
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負けるが勝ち

2006-08-08 16:57:22 | Weblog
 こんなつまらないことで目くじらを立てることもないのだが、いっこう
におさまりそうもない論争なので、私も私なりの考え方を書いておこうと
一度は没にしかけた原稿を取り出して書いている。
 あのライトフライ級のタイトルマッチが終わった翌日、私が加入して
いるML(メーリングリスト)にこんな書き込みがあったので紹介したい。
「今晩ストレス解消に亀田こうきのボクシングの試合を見ていて、当然
素人目にも負けていたのにインチキで勝ちになったので、これが又おおい
に、ストレスになりました!スポンサーが金だしているからしたんか?
日本がここまで腐っていたとは!この国は信用できない。あれだけの拉致
問題があってもなんら解決できない政治家、国民。政府に文句も言えない
国民。どこに民主主義がある?なんでもかんでも隠すばっかりする。
フェアーでなく、都合で、気分で決める。ボクシングもスポーツだと思う
方がおかしいのか?インチキ判定でイケシャーシャーとテレビに出る亀田。
それにおもねるマスコミ。この国はつくづく信用できない。 こんなイン
チキをしておいて。だったら、シンクロの判定、WBSのジャッジに文句つけ
ることはできないでしょう?世界一のトヨタだってリコール隠しするん
だから。何が先進国なもんか?本当にこの国は悪くなっている。文句を
言わないわたしたちが一番悪いのでしょう。今だに自我の確立なんかない
んですから。」
 この人の思いが痛いほど分かる書き込みでした。私も同感です。確かに
あのタイトルマッチの判定は誰が見ても変だった。私は素人なので詳しい
判定基準は分からない。しかし、どう見ても亀田選手の分が悪いように
思われた。

 彼は試合前の記者会見の時、サングラスのままで相手選手を挑発する
ような仕草を見せたり終始落ち着かなかった。これはファイトを見せる
ためのジェスチャーだったのかも知れない。しかし、対戦相手である
ベネズエラのランダタエ選手が終始笑顔であったのと対照的であった。
 両者の姿を見比べた時「ひょっとすると亀田選手が負けるのではないか」
ふとそんな思いが頭をよぎった。ジェスチャーはジェスチャーとしても
一定程度のマナーというものはあるだろう。それは世界タイトルという
名誉がかかっていれば尚更のことである。プロボクシングとは言えれっき
としたスポーツである。スポーツはスポーツらしく、紳士的な記者会見
であっても良かったのではないだろうか。

 試合会場でも派手な演出がなされていた。試合が始まって一ラウンドの
終了間際、ふと油断した隙にパンチを浴びて亀田選手はマウンドに転倒
してしまった。さすがに、すぐ起きあがってファイトポーズをしたけれど
ゴングに救われたと言っても過言ではないだろう。
 しかし、少なからぬダメージは隠せなかった。セコンドのお父さんが
「しっかりせんか」と言うように亀田選手の頬を二、三発叩いていた。
この時のダウンは試合終了まで亀田選手の脳裏を離れなかったのではない
だろうか。試合終了まで肉体的なダメージが尾を引いたとは思えないが
少なくとも精神的なダメージは大きかったと思われる。
 二ラウンド以降の試合運びも精彩を欠いていた。さすが相手選手は百戦
錬磨と言われるだけあって、非常に打たれ強く試合巧者だった。巧みに
亀田選手のパンチをかわし、ロープ際に追い込まれても上手く逃げていた。

 ずっと試合を見ていて、この試合は亀田選手の負けだと感じていた。
と同時に、たとえ彼の経歴に傷が付いたとしても後々のためには負けた方
が彼のためになるのではないかと感じていた。
 ところが判定は一対二で亀田選手の勝利だった。何かしらリング上の
喜びが空々しいものに感じられた。MLの筆者ならずとも後味の悪さを
多くの人が感じたのではないだろうか。この先、タイトル防衛戦は完璧
なる勝利でないとファンは納得しないのではないだろうか。
 とくにプロボクシングに限って言うならば判定勝ちなどは、実につまら
ない。ボクシングファンは少なからず、どちらかがリングにダウンする
ことを期待しながら見ているからだ。それだけにいっそう後味の悪さを
禁じ得ない試合であった。
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こんなおじさん

2006-08-07 21:38:24 | Weblog
 夏になると思い出すことがあります。それは近所に住んでいたおじさん
やおばさん達のことです。あるおじさんは、朝のラジオ体操の時間になる
と、子供達が集まってくる小さな広場に植えてあった朝顔に、毎日欠かさ
ず水やりをしていました。また、あるおじさんは夕方になると、家の前に
洗面器を持ち出して水虫になった足を硫黄の入ったお湯で消毒していました。
あるおばさんは夏のことなら夕方になると家の前に打ち水をしていました。
また、あるおじさん達は一畳台で床几をするのが、夕御飯の後の日課の
ようになっていました。
 私は、こんなおじさんやおばさん達の姿を見ると妙に安心したものでした。
何かしら子供心にも一日が静かに始まり、終わっていくような感じがした
からでした。これら日々変わらぬ営みを続けていたおじさんやおばさんは
平和で平穏な日々の象徴のような姿でした。
 そんな大人達の姿を横目で見ながら、私達子供は夜のひとときを近所の
子供達とはしゃぎまわって遊んでいました。
 おじさんやおばさん達にとっては、来る日も来る日も変わらない平凡な
日常の繰り返しであったかも知れません。しかし、この変化のない繰り返し
の日々こそが、かけがえのない平和と平穏の日々の象徴だったのではない
でしょうか。
 テレビが世の中に登場した当座、電気屋の前は黒山の人だかりでした。
しかし、テレビが各家庭に数多く入り込んでくる頃になると、こんな大人
達の姿も子供達の姿も家の前や路地裏から消えてしまいました。各家庭は
戸を早々と閉ざし、隣は隣、内は内と言うようになってしまいました。
 あの平和で平穏な日々の象徴のようだったおじさんやおばさん達、そして
子供達の姿はどこに消えてしまったのでしょうか。

 さて、今年も61年前の忌まわしい思い出の季節がやってきました。
八月六日は広島に、八月九日は長崎にと、アメリカ軍による原子爆弾が
投下されました。そして一瞬にして両都市を焦土と化してしまいました。
何万という人の命を奪っただけでなく、生き残った人達にも地獄の苦しみ
を味あわせました。
 私も子供の頃、「原爆の子」という映画を観たときに強烈なショックを
受けたことを記憶しています。映画でさえそうだったのですから、現実は
これの何十倍も凄まじいものだったのではないでしょうか。

 今、靖国神社に合祀されているA級戦犯の事が問題になっていますが、
先の太平洋戦争で亡くなった多くの犠牲者や私のおじさんの塗炭の苦しみ
を考えると、たとえ他国に裁かれなくとも私達自身が裁いたとしても厳罰
を持って臨んだと思います。戦争責任者の犯した罪は重いと思います。
 私のおじさんはニューギニア奥地で戦死したと聞いています。当時、
日本軍は、アメリカ軍に制海権を握られ武器の輸送すら難しくなっていた
と聞いています。それにも関わらず、正しい戦況すら聞かされていない
多くの兵士が送り込まれたのです。
 食料の補給もなく医薬品もなく、多くの兵士が酷暑の中でマラリアに
冒され、食べるものもなく飢えで倒れていきました。作戦遂行どころか
銃さえ握れないような状態だったのです。みすみす死地に行くようなもの
だったと聞いています。
 結婚したばかりの人生最大の華の時代を死地に赴き、苦しみながら亡く
なっていったおじさんの心情を考えるとき、当時、軍の中枢にいて兵隊達
をまるで虫けらのように死地に追いやった人達を許すわけにはいきません。

 日本人は、この過ちを繰り返しかねない民族です。だからこそ憲法九条
はどんな事があっても放棄するわけには行かないのです。あれだけ大きな
犠牲者を出し、近隣諸国に迷惑をかけながら、なおも政府自民党は憲法を
変えようと言うのでしょうか。

 今、戦争の記憶が薄れ、戦争体験が遠くへ追いやられようとしています。
戦争体験者が少なくなり、戦争の悲惨さや惨めさを語る人が少なくなって
きました。しかし、私達の世代以上の人は大なり小なり戦争の愚かさを
知っている人達です。どうか声を大にして若い世代に語り次いで頂きたい。
あなた達にしか出来ないことなのです。黙して語らないことが決して良い
ことではないのです。心の内に秘めて置きたいその体験こそ、貴重な教訓
なのです。

 若い世代の人の中には先の大戦でどこの国と戦ったかすら知らない人が
増えていると聞いています。風化と言うことは実に恐ろしいことです。
社会科や歴史教育の中で、さして問題にするに当たらない鎌倉時代や平安
時代の事を教えて何になるのでしょうか。歴史年表の時代毎の出来事を
覚えて何になるのでしょうか。それは試験の便宜さだけのものです。
 必ず教えなければならないのは明治以降の近代史です。近代史こそ私達
の今の生活に直接関わるものなのです。他国、特に被害国である中国や
韓国では近代史を中心に教育をしていると聞いています。何故、日本だけ
が、この時代の教育に力を入れないのでしょうか。この時代の反省あって
こそ、これからの日本がどうあるべきかという議論になるのではないで
しょうか。文部科学省は、あえてこの時代の教育を避けてと通っている
ような気がしてならないのです。むろん、この時代には反省しなければ
ならないことばかりではなく、良いこともたくさんあったことを付け加え
ておきたいと思います。近代史は面白く決して遠い時代のことではない
のです。
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梅雨明け十日

2006-08-02 06:56:40 | Weblog
 梅雨明け宣言から十日間ほどを昔から「梅雨明け十日」と言っていた。
今年の場合、梅雨明け宣言が出る前から晴天続きで透き通るような青空
だった。太平洋高気圧が日本列島の西半分を覆ったためだった。
 太平洋高気圧の勢力が強くなって青空に覆われる、この時期を「梅雨
明け十日」だと、気象庁の解説には書いてあった。そして、この頃は
最も紫外線が強い時期でもある。先日も畑仕事をした翌日は目やにが出て
困ったことを考えると、雪目と同じように紫外線によって目が傷んでいた
に違いない。
 今日も早朝から蝉の鳴き声に包まれている。梅雨明け宣言が出る数日前
から急に蝉の鳴き声が耳につくようになった。自然のものは季節の移り
変わりを敏感に感じ取っているようだ。

 さて、中東情勢はどうなっていくのだろう。イスラエルはヒズボラが
悪いといい、ヒズボラや攻撃を受けているレバノンは、イスラエルが
一方的に攻撃を仕掛けていると言っている。どちらにも言い分はある
だろう。
 イスラエルとパレスチナ間の長い小さな小競り合いだった紛争は、
この地方を巻き込むような全面戦争の様相を呈してきた。もともと国を
持たなかったユダヤ人は、アメリカなどの後押しで強制的にこの地へ
入植してきた。ユダヤ人の国イスラエルは、アメリカなどの後押しが
なければ出来なかった国である。この地に住んでいた人達にとってみれば
寝耳に水のような話だったに違いない。
 こうしてイスラエルという国は建国以来、中東諸国を敵に回して戦わ
ざるを得ないような宿命を背負っていた。相次ぐ紛争の歴史は長い。また、
いつまで続くか分からない。
 一方、国と国の紛争とは言いながら、背景には宗教問題も絡んでいる。
中東諸国はすべてイスラム教、かたやイスラエルはユダヤ教、根はキリスト
教などと同じでありながら、お互いに相容れない関係にある。

 レバノンの一般住民は、イスラエル軍の容赦のない攻撃によって逃げ
まどっている。イスラエル軍はヒズボラが一般住民を盾にして、市民に
紛れ込んでロケット弾を発射していると、一般住宅や国連の施設まで
攻撃をしている。
 こうして紛争に関係のない人までもが、大勢傷付き亡くなっている。
本来ならアメリカが仲裁に入るべき立場にある。今までの紛争では、その
ようにしてきた。しかし、ブッシュ政権は仲裁どころか、イスラエルの
後押しさえしているように見える。
 ブッシュに言わせれば、ヒズボラはテロ集団だから徹底的にやっつけろ
と言うことかも知れない。だから、ライス国務長官を派遣しながらも仲裁
をしようとはしない。ヒズボラを許すわけにはいかないからだ。

 気の毒なのは一般住民だ。そして、ただでさえ不安定要因を幾つも抱え
ている中東諸国だ。このまま行けば第三次世界大戦にさえなりかねない。
現に、これら一連の戦争を第三次世界大戦だと言っている人もいる。

 一方、石油価格がどんどん高騰を続けている。要因の一つは不安定な
中東情勢だと言われている。イラクなどもまだまだ安定して石油を供給
できる状況にはない。フセイン政権が転覆して以来、国内は紛争状態が
続いている。イランには核疑惑が持ち上がり、国連も警告を発している。
 その上、中国やインドと言った超大国の経済成長が著しく、需要が
増して供給が追いつかない状態にある。どう考えても石油の値下がりは
ありそうにない。
 せっかく立ち直りかけた日本経済にも黒い影が覆い始めている。ガソリン
代が140円を突破した。湾岸戦争以来のことだ。その他の石油製品も
値上げは避けられない状態のようだ。
 この際、本腰を入れて脱石油を考えるべき時ではないだろうか。少なく
とも火力発電だけでも原油依存をやめるようにすべきではないだろうか。
 1キロリットルの原油とはいえ、そのすべてがガソリンに変わるのでは
ない。ほんの一部がガソリンになるだけだ。従って、ガソリンの供給には
自ずと限界がある。ディーゼルエンジンの軽油だって同じことだ。

 このように、今の社会は大きな行き詰まりを生じているような気がして
ならない。この状況を変えなければ何も改善しない。脱石油、これが大きな
鍵を握っている。石油依存さえなくなれば多くの紛争はなくなっていく。
多くはエネルギー資源を巡っての紛争だからだ。
 その上、化石燃料の使用制限は、地球温暖化にストップをかけることが
出来る。便利さや豊かさを追求するあまり、生活が足元から崩れようと
していることを見失ってはいないだろうか。
 今こそ本腰を入れて、新しい社会の構築を始めるべきではないだろうか。
宇宙船地球号は温暖化の中で沈没しようとしている。
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