人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

春はそこまで

2015-01-29 04:48:11 | Weblog
 「冬来たりなば春遠からじ」とは昔から良く使われてきた言葉です。しかしながら厳寒期の昨今、とても春は感じられないと
思われている方も多いのではないでしょうか。暦の上では今の季節が一番寒い季節だとされています。

 しかし、一昨日、昨日の気温はどうだったのでしょう。寒暖計を見ていないので日中の温度は分かりませんでしたが、確かに
外で作業をしていても寒さは感じませんでした。しかし今日からは急に寒くなるそうです。この寒暖の差の大きさが人間の
体には堪えるんですよね。何かしらこれでもかこれでもかと揺さぶられているような気がします。

 ところで私はここのところ少し暇になったので3年数か月の間、忙しくて出来なかったことを少しずつですが片づけています。
一つは書斎として使っている二階の部屋の整理、不要になった夥しい資料を捨てて少しは身軽くなった感じがします。もう
一つは物置の整理、EMや生ごみ処理の実験で使ったものを廃棄したり必要なものは一か所にまとめたり、使うであろうと
思って保管していたものも思い切って捨てています。

 そして何よりも手つかずだったのは畑の方です。伸び放題になった果樹の選定や太い枝をばっさばっさと切り落としています。
そして不要なものは焼却処分しています。灰は畑に使います。こうして畑はかなりすっきりしてきました。この作業を3月頃
まで続けるつもりです。

 庭では春を予感させる木々の芽が膨らみ始めました。目に見えて大きくなり始めました。ブルーベリーの赤い芽、ジューン
ベリーの花芽、そして沈丁花の花芽です。温室の中ではシンビジュームが花開きました。馥郁とした香りが庭に漂っています。
ロウバイの香りです。もう少しで満開です。今年は見事なほどに花を付けました。

 自然はいち早く春を告げているようです。私達の日々の営みの中にどのような事件や出来事が起きようとも、それとは関係なく
自然の営みは連綿として続いて行くもののようです。このような自然の営みを見ていると、人間の日々の行いの愚かさくだらなさを
感じざるを得ません。自然の偉大さとその偉大さに溶け込めない異質な人間と言う存在、いったい人間とは何なのでしょうか。

 インフルエンザが猛威をふるっているようです。どうかお大事に。霜焼けで手も足もごわごわにしていた幼いころを思い出します。
そんな貧しい日の体験も遠い日の思い出になってしまいました。春よ来い、早く来い・・・・。

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穏やかな日々は

2015-01-25 05:16:08 | Weblog
 人間とは実に勝手なものだ。平穏で穏やかな日々が続くとつい退屈になって刺激を求めるようになる。そうなると
もうブレーキが利かなくなり、結局は後で後悔するようなことが少なくない。

 それが仮想空間のゲームならまだ良い。しかし現実となると全く別物だ。それが現実の「戦争ごっこ」ではないだろうか。
子供の「ごっこ遊び」は仮想空間の遊びだ。従って、撃たれても死ぬことはない。傷つくこともない。もちろん血も流れなければ
痛みも感じない。

 しかし、若者が考えている「ごっこ遊び」ならぬ先の太平洋戦争はどうだったのだろう。敗戦が近くなって南方に派兵
された兵士の多くがマラリアと飢えに苦しみ、銃声に怯えながら、ついには息絶えた人が何万人といた事実を考えると
決してやってはいけなかった。「戦争ごっこ」に見える遠い異国の地での戦争とは言え、私たち戦争を知っている世代
としては簡単に見過ごすことは出来ない。

 ましてや私のように血の繋がった叔父が南方のニューギニアで哀れな死に方をしたかと思うと、決して他人ごとではない。
戦争は決して格好の良いものではない。スポーツのように勝ったからと言ってヒーローにはなれない。ましてや戦地とは
言え人を傷付け殺したとなると平静ではいられない。自分と言うものの人間性を殺して狂気に走らなければ人は殺せない。

 軍隊の中にはサディスティックな人もいて、そうした人たちは更に狂気に走る。閉鎖された軍隊の中では何が起きるか
分からない。それはベトナム戦争をテーマにした映画「プラトーン」にも描かれている。まさに狂気の世界なのだ。
そこには秩序も何もない。「戦争ごっこ」に対する憧れとは大きな差がある全くの別世界だと言うことをよくよく考えて
おく必要があるのではないだろうか。

 戦争と言うものの現実を知らない今の若い世代の人には読んで貰いたい本がある。大岡昇平氏が自らの体験を元に書いた
「野火」(のび)と言う小説である。また先に紹介したアメリカ映画「プラトーン」や「地獄の黙示録」なども目を逸らさないで
見て貰いた。しかし、これらも所詮は小説であり映画である。リアリティには事欠く。現実とは、このように生易しいもの
ではないだろう。

 私達日本人にもかつては政府の宣伝に踊らされ、マスコミの宣伝に煽られて戦地へ追いやられた狂気の時代があったことを
振り返って欲しい。学校でも教えて欲しい。特に現実の戦争をゲームと取り違えている子供や若い世代の人に。
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児島活弁シネマライブ10年

2015-01-22 06:09:33 | Weblog
 10年と言う長きわたって児島活弁シネマライブが行われて来ました。これも一重に多くの方々のサポートが
あったればこそのシネマライブでした。そもそも活弁なるものが何なのかも分からないところへいきなりライブ
などと言って持ち込むのも乱暴な話でありました。

 ただの映画と活弁は全く異なります。映画は映像と音声の組み合わせ。しかし、活弁は音のない映像と弁士と
楽士、そして会場の皆さんが一体となって醸し出す不思議な世界です。諸外国では、音の入っていない時代の映画は
字幕と楽器の演奏との組み合わせで見せていたようです。映画説明などはありませんから映画のストーリーは
もっぱら字幕から読み取っていたようです。

 従って、活弁は日本独自のもの、浄瑠璃だとか浪曲だとか講談などと言った様々な話芸が伝統的にあったから
こそ芽生えた独自の文化だったようです。従って、一人一芸、落語のように師匠や弟子などと言った関係も希薄
だったようです。と言うか、伝統文化として継承されていく間もなく、実に短期間に消えていった文化でした。

 活弁等と言うと、他人は怪訝そうな顔で「カツベン」と問い返します。それほど後世に残らなかった文化なのです。
しかし、この古き文化が子供たちには意外にも受けるのです。何故か理由は分かりません。アニメ全盛の時代に
白黒の上に画面がちらつくような映像、それなのに子供たちは食い入るように見つめ、たった一度きりなのに
翌年に会った時には活弁のおばちゃんやおじちゃんのことを覚えていて、映画の一シーンに出てくる言葉さえも
覚えているのです。

 子どもたちに活弁のワークショップをさせてみたことがあります。今の子供たちですから落ち着いて何かに集中
することは出来ないのですが、それでも二日間と言う短期間の間に見事に活弁が出来るようになるのです。どうやら
大人とは異なり、子供の頭の柔軟さが活弁に向いているような気がします。

 私達は10年前、ピースボートに乗って旅をしている途中で活弁士「佐々木亜希子」さんに出会いました。
その活弁を聞いて、すっかり魅了されてしまいました。画面から言葉が出てくる。終わってみれば男の声も女の声も
みんな活弁士一人で演じていたことに気付くのです。それぐらい違和感なく聞くことが出来るのは何故でしょうか。
むろん活弁士の語りが上手だからと言うのは言うまでもありませんが、ここに活弁の活弁たる面白さの所以があると
考えています。

 上手、下手は別にして誰でもが出来るし、下手は下手なりに聞くことが出来るのです。それが活弁の面白い
ところではないでしょうか。むろん素材である映画の面白さも重要な要素です。しかし、それ以上のものが
活弁には何かある。それが私の感想です。

 さて今回、私達夫婦活弁士は「子宝騒動」を演じました。この映画の面白さは、主人公を演じている俳優が
チャップリン気取りで演ずる面白さ、そして、普通ではあり得ないことをふんだんに盛り込んだ演出の面白さと
相まって、この映画の底抜けの明るさと面白さが人々を笑いに誘うようです。

 私もこの映画が大好きです。古き良き時代の日本の庶民の姿が描かれているからです。おしめが五月の空に
たなびき、明日食べる米すらない生活。水道を止められ、ガスを止められ、電気を止められ、その上、産気づいた
女房の出産費用もないと言う貧乏暮らし。大家さんが来て、近所の店子が心配げに集まってきて、そうした人が
みんな産気づいた奥さんの咲子さんのことを心配する。

 ほのぼのとして人情味あふれる人の温もりを感じます。金、金、金、ことあるごとにお金にまつわる事件が後を
絶たない世知辛い現代に較べ、何と言う大らかな時代なのでしょうか。のんびりとしたこの時代に、親が子を殺したり
子が親を傷付ける等と言ったようなことがあったのでしょうか。仮にあったとしても昨今のように日常茶飯事では
なかったはずです。

 世界経済だ、グローバル化だ、何だかんだと言い始めた頃から、ますます世の中は変になってきました。本当は
楽にならなければならないはずなのに、一向に良くなった気がしないのは何故でしょうか。登校拒否だ、うつ病だと
言うようになったのは、いつの頃からだったのでしょうか。社会がぎくしゃくしている影響はあってはならない
学校にまで及んでいます。うつ病などと映画の中の福田さんのような生活が主流だった時代(私達の子供の頃までは
そうだった)には、聞いたこともなかった病気です。

 近所の工場で働き、夕方は明るい内に早じまい。近くの銭湯へ行って汗を流し、夕食を澄ませば早速、近所の仲間と
将棋や碁に興ずる。たまには晩酌でほろ酔い機嫌、そんな生活にノイローゼなど入り込む余地はなかったはずです。
贅沢さえ言わなければ生活に必要なものは街の中で揃いました。肉屋は八百屋で八百屋は魚屋で魚屋は地殻の酒屋で
買い物を済ませました。お金は小さな町の中で回っていた時代でした。今は地方のお金の大半は中央に吸い上げられ
地域にはおこぼれほどのものしか残らないようになっています。

 地方の街はシャッター街、地方で生活できなくなった若者は都会へ出てしまい地方には私達のような高齢者ばかりが
取り残されています。限界集落は何も山深い地域だけの問題ではありません。児島のようなところでも、裏通りに
一歩入ると点々と空き家が目立ちます。子供の歓声など絶えて久しく聞いたことがありません。

 昔より良くなったと言って何が良くなったのでしょうか。今の幸せは何かを犠牲にして手に入れた幸せではないで
しょうか。本当に良くなったと言えるのは何の犠牲も代償もなく、良くなったら良くなったと言うことです。見た目
だけの便利さや豊かさが本当の幸せと言えるのでしょうか。人生は個々バラバラです。従って、ある人は本当に幸せかも
しれませんが、軋んで悲鳴を上げている社会の中で、多くの人は自らもその犠牲になりながら喘いでいるのが実態では
ないでしょうか。

 もう一度、真の幸せとは何なのかを考えてみたい。「子宝騒動」は、そのことを今に伝えようとしている映画に
思えてなりません。第10回のシネマライブを終えて感謝を述べるとともに、私達の幸せとは何なのかを問い直して
みたいと思っています。長らくのご愛顧ありがとうございました。またいつの日か再開できる日が来ることを願って
います。
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春はそこまで

2015-01-16 04:46:02 | Weblog
 連日のように大雪のニュースや荒れた天気の予報が流されているが、我が家の庭ではロウバイが咲き始めた。この花は
ロウバイと呼ばれているが決して梅の仲間ではない。全く異なる別の品種である。この花の特徴は、何よりも他の花に
先駆けて花開く。淡い黄色の花びらが蝋細工のように見えることからロウバイと呼ばれている。実に良い香りの花だ。

 その他に小さな鉢植えの三色スミレ、水仙、山茶花等も花開いている。さすがにピンクの美しいバラは枯れかけている。
正月頃までは風に揺られながら一輪だけ可憐な花を咲かせていたのだが。

 時の移り変わりは早い、遅くまで葉を付けていた栗の木も先日来の冷え込みと強風で一気に葉を散らしてしまった。
山の畑には寒々しい景色が広がっている。12月に入ってから少しずつ果樹の剪定を行っている。特に落葉果樹を優先的に
行っていて、つい先日は大木となっていた梅の木を一気に小さくした。せっかく実を付けても収穫が出来なくなっていた
からだ。

 こうして一冬かけて果樹の選定を行う。何しろその数が多いものでとても一日や二日では終わらない。何日もかけて
行っていく。ビワが大きな実を付けている。こんな真冬にと思われるかもしれないが、11月の末から12月にかけて
花開いたビワは大方が受粉を終わり、大なり小なり実を付けている。これらが既に大きくなりかけているのだ。早く袋を
掛けてやらなければと思っている。

 これからはヒヨドリの渡りのシーズンに入る。こうなると渡りの途中で餌になるようなものは、ことごとくついばんで
いく。今までも何度も被害に遭っている。特にエンドウなどは惨憺たる有様だ。そして二度三度と収穫が出来るブロッコリーも
ネットで保護しなければ葉が食われてしまう。

 冬の間にもしておかなければならないことが山ほどある。むろん、しなければしないで済むことだが、その結果は
見えている。こうしてせっせと冬の間にすべきことをしておくと翌年の収穫に希望が持てる。農業とはこのような
地味な努力の積み重ねによるものである。世話をしてやればしてやるほど良い結果が付いてくる。

 岡山県の笠岡で鳥インフルエンザが見つかったと報じられている。今年に入って既に他県で幾つもの報道がなされ
その度に何万羽という鶏が処分されてきたが、岡山県内での発生事例はほとんどなかった。ついに岡山県までと言う
感じである。どうか他地域への拡大がなく、一日も早い終息が望まれる。

 さて、インフルエンザは鳥だけのものではない。今や人間社会に於いても急速に患者数が増えている。まさに全国的な
流行だ。手洗い、うがいなどやるべきことはやり、後は運を天に任せるしかない。しかし、どんなに猛威を振るう感染症
でも感染しない人はいる。あの大流行でヨーロッパ中の人口が激減したと言うペストでも感染せずに生き残った人がいる
のである。これが運命の不思議さと言うものであろう。

 今の世の中は論理的、科学的に説明出来なければ納得できない社会になっている。それは私達が子供の頃から科学は
絶対的なもので唯物的に立証できるものでなければ、ことごとく迷信やオカルトだとされてきた。しかし、唯物的に
立証できることは意外に少ない。この宇宙と言う広大な世界の中では、ほとんどが未知なることで、ほんの一部しか
解明されていない。そもそも分かっている範囲の宇宙のことだって想像を絶することばかりである。

 現に、私達の足元にある地球のことさえ分からないことばかりである。一番身近な地震でさえも具体的に解明され
始めたのは、つい最近のことである。大地が揺れることは分かっていても、それでは何で大地が揺れるのか分からなかった。
ましてや最深部の地球のことなど想像で話してはみても全く解明されていない。

 当の私達自身のことでさえ分からないことばかりである。分からないことばかりだから少し体調が悪くなると不安になる。
私は魂と肉体とは全く別物だと考えているが、多くの人は肉体の働きの延長線上に精神的な働きがあると考えている。
従って、肉体が失われると魂までもが失われてしまうと考えている。だから死は日本人にとって最大の恐怖である。
本当にそれが正しいのであろうか。何も立証されていないから、どんなことだって推測で話すことは出来る。

 少し横道に逸れるが考え抜いた末に行動したことが意外にも失敗することが多く、とっさに思いついて行動を起こした
ことで、成功したと言う事例は少なくない。こうしたことは他人の体験話ではなく自分自身が体験できることなので
良く分かる。また、怪我をしていて復帰した直後の試合で意外にも優勝した等とスポーツ選手の体験が語られている。
どういうことなのだろうか。本来なら練習に練習を積み重ね、完ぺきだと思われている方が良い成績であっても当然
なのに、その結果はまるで逆転している。

 論理的に説明できないような現象は少なくない。いや論理的に説明しようとする方が無理なのかも知れない。だから
世の中は面白いのだと言える。数奇な運命を辿った人の体験記が紹介されている。そうした人の運命的とも言える
体験記を聞いていると、多少の誇張はあったにしても誰しもが滅多に体験できないような事ばかりである。何でそうなる
のかと思うようなことがたくさんある。

 これらは運命と言う自分では予測しがたいことの積み重ねから発している。しかし、選んでこの人生に生まれてきたと
思えば不思議でも何でもない。私達はこの世に生を受け、現世と言うこの世の体験を望んで得るために、この世に生まれて
来た。その人生は実に様々である。一つとして同じ人生はない。全て個々ばらばらである。70億近い人口であれば
70億の異なる人生がある。まるで曼荼羅模様の様である。

 人は何を考え何を思おうが勝手である。その思いや考えの延長線上に行動があって、その行動こそが現世での
あらゆる出来事を演出している。地球と言う舞台は、いわば70億人がそれぞれに独り舞台を演じている地球劇場なのだ。
そこでは泣き笑い、怒り悲しみ、それらが壮大なドラマを演出している。

 そして、それこそが、他人がどうした、こうしたと言うことではなく、自分自身から全ては始まっていることなのだ。
自分と言う存在がこの地球上になかったら喜びも悲しみも現れなかった。存在しなかった。全ては自分自身と言う存在があって
初めて、そこに現出するものなのだ。そう、あなた自身が主役の世界なのだ。従って、人生と言う大舞台を面白くしようと
思えば自分自身が変わるしかない。他人に押し付けても、あるいは望んでもどうにもならないことなのである。

 それは最も身近なものにして然り(いかり)である。昨今、親子で殺し合ったり、傷つけあう事件が多発している。
しかし、自分の身内だと考えるから腹も立つ。どうしてオレの言うことを理解してくれないのだろうか、聞いてくれない
のだろうかと腹だ立つ。身近なものだから分かるはずだと思うのは間違いであって、初めから別の人格と一緒に生活して
いるのだと考えれば納得できることばかりである。他人だと思えば遠慮もあるし、思いやりや気に入って欲しいと言う
思いも浮かんでくるはずだ。

 結婚した当初は遠慮もあって優しい言葉の連続であったものが、いつの間にかお互いに自分の一部になってしまい
遠慮する心は失われ、お互いにわがままの言いたい放題になってくる。ましてや兄弟姉妹のように幼い時から一緒に
育った間柄であってみれば、お互いのことは全て理解している、理解してくれているはずだと思い込んでいるのは
大間違いである。如何に一緒の屋根の下で生きてきたからと言って、自我が芽生えてきてからのお互いは全くの別の
人間に育っている。

 こうして、あらぬ争いが生じた挙句、簡単に殺してしまう。動物たちに、このような思い違いと言うものはない。
だから餌を巡って争うことはあっても殺し合いまではしない。同じ種同士の殺し合いは、人間だけが有している特徴的な
ものである。

 魂があるかないか、あるいは偶然生まれたと考えるか否かは、それぞれの考え方の違いなので、そうではないと
強制することは出来ない。しかし、人生と言う不思議な出来事の数々を繋ぎ合わせていくと、偶然ではあり得ない
と思えるものが見えてくる。それこそが生まれてきた真の姿なのだと考えている。
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地球一周の旅から10年(26) パプアニューギニア(英連邦に属する立憲君主国)

2015-01-11 06:25:16 | Weblog
 10年と言う歳月は記憶をも風化させてしまうもののようだ。先のオーストラリア旅行の時に私達は何の買い物もしなかったと
書いたが、妻の記憶では次のパプアニューギニアで土産物を買うことは出来ないので、ここでクッキーなどを買って帰ろうと言う
ことになっていたらしい。そして、下船のことも考えて、そろそろ荷造りもしておかなければならないと言うことで段ボール箱も
捜し歩いたとのことで、これらは私の記憶からは完全に欠落していたことだった。

 さて、トパーズ号は、いよいよ最後の寄港地であるパプアニューギニアに向かい一気に北上していた。長い航海も終わってみれば
あっけないほど短かったような気がする。そんな毎日だった。下船に向けて様々な行事が予定されていた。その前に立ち寄る
パプアニューギニアは、かの太平洋戦争時に於ける激戦地であった。この地で多くの日本人が命を落としている。

 その一人が私の叔父であった。漠然とした情報なので詳しくは分からない。ただ激戦地から生還した人の話によると、この地域で
叔父の姿を見たのが最後だったと言うことを聞いていた。あの「野火」という小説を読む限り、食べるものもなく、ただ密林の中を
彷徨うだけだったと言うことで、長く叔父の姿が小説の中の人物にダブって見えていた。

 私はその思いを作文に綴り、みんなの前で読むことになった。途中から叔父への思いがこみ上げてきて言葉にならなかった。
乗船客の中には戦争体験をした人も少なくなかった。むろん私のように家族がこの地で亡くなったと言う人もいた。そうした人の
代表が、それぞれの思いをメッセージにして読み、後甲板に出て慰霊祭を行った。花束を投げ入れ紙テープが海上を舞った。

 こうした洋上行事を行った後にパプアニューギニアのラバウルに到着した。沖合からは火山からの噴煙が見えていた。どうやら
ここも火山活動が多い地域らしい。港は整備されているようであったが驚くほど静かだった。港湾関係の役人らしき人が来て
入港手続きが終わり下船した。現地の子ども達が、もの珍しそうにカヌーを漕いで私達の船に近寄ってきたが、港湾役人に追い
払われてしまった。海水は澄んでいて小さな魚が群れていた。

 私達夫婦は戦績地めぐりのオプショナルツアーを申し込んでいた。マイクロバスと言うにはあまりにもおんぼろの小型バスが来て
何グループ化に分かれて、それらの車に乗り込んだ。行先は戦跡地であり、慰霊塔のある場所であった。島内はサトウキビなどが
主たる農産物のようであったが、何年か前に大規模な火山噴火があって火山灰に埋め尽くされたようだ。

 そう言えば島内の至る所に黒い火山灰が積もっていた。むろん噴火から何年か過ぎているのでた枯れ残ったサトウキビだとか
雑草が生い茂り、かつてどこが畑だったのか分からないようになっていた。

 集落近くの入り口には地元の人達が歓迎の花飾りを作り、それらが道のあちこちにぶら下がっていた。そして集落近くに戦跡地の
一つはあった。ゼロ戦だろうか、偵察機だったのであろうか、半ば火山灰に埋まったものを掘り返したように飛行機の残骸が残って
いた。どうやらラバウル周辺には、まだまだ色んなものが残骸として残されているようだ。

 早速、現地の人達による歓迎の踊りが始まり、パフォーマンスとして手近なヤシの木にするすると素手で登り、ヤシの実を
投げ落としてくれた。その場で穴をあけ、私達一行に飲みなさいと勧めてくれた。

 慰霊碑は港が見下ろせる高台にあった。途中の道はうず高く積もった火山灰が雨に削られ深い溝を作っていた。とても道とは
呼べないような凸凹の山道であった。

 登りきった高台の一角は整備され、大きな慰霊施設が作られていた。ラバウルだけでなく周辺で亡くなっていった日本兵の霊を
慰めるためのものであった。そして今も毎年のように、この地へ慰霊に訪れる人がいて設備はきちんと維持されているらしい。

 かつて戦時中は「さらばラバウルよ、また来るまではしばし別れの・・・・」と歌われた地であり、多くの日本兵や軍属が
暮らしていたらしい。また現地の人に対する学校教育も行われ、今も現地の高齢者の中には日本語の話せる人や童謡などを
歌って聞かせてくれる人がいた。

 私達が記念館だったか博物館だったかへ行ったとき、老人が親しげに話しかけてきた。妙に人なつっこい人達であった。どうやら
日本人に好意を持っているらしく、得意げに日本語で話しかけてことが印象に残っている。日本軍は、この地では決して悪い印象
だけを残してはいないことが、彼らの接し方で分かる。日本軍は、それなりに教育を施し、別な形で現地との融和を図ろうとして
いたのではなかろうか。少なくともそれまでの欧米各国は、植民地化はしても現地人の教育などはあえてしなかった。

 私達は現地で食されている食べ物を楽しみにしていた。実は、この話は二転三転して結局、現地の人達が作ってくれることに
なったのだが、一時は準備が出来そうにないので中華料理にして欲しいと言う話まで出ていた。それが一転して現地の人が
現地で食べられているものを歓迎の意味を込めて作ってくれることになったのだ。

 ヤシの葉で葺いた小屋の下に盛り沢山に現地料理が並んでいた。多くは鍋や釜など器で炊いたものではなく、取材番組などで
見るようなヤシの葉に包んで蒸し焼きにしたようなものであった。どれも薄味で、全ては塩味以外、野菜や豚肉などが持つ
天然のものであった。タロイモなど取材記録では見るものの、実際に口にするのは初めてのことであった。バナナも野菜バナナで
あった。全てが加工食品ではない天然のもので、これ以上の健康食品は他にない。温かい歓迎のもてなしであった。

 食事をしたのは現地の学校近くであったらしく、昼食を終えた女学生たちが昼休憩をしていた。観光客慣れしていないのだろうか
私達の質問に対し、はにかみながら答えてくれた。

 生活レベルは決して高くない。主たる農産物がサトウキビであり、工場らしきものはほとんど見当たらなかった。港近くに唯一
あった工場はペプシコーラの工場だと言うことであった。こんなところにまでペプシが進出していることが意外であった。

 最後に訪問したのは市場であった。市場の横には建物があり、この中には種々雑多に輸入食料品や日用品、果ては農機具まで
展示販売されていた。この地で数少ないホームセンターとスーパーマーケットを兼ねたような施設であろうか。その建物の横の
広場が現地の人が多く集まってくる市場であった。

 各種農産物は、野菜の他に乾燥したたばこの葉まで色んなものが並べて売られていた。むろん熱帯の果物も魚もたくさんあった。
これらが現地の人が日常的に食しているものであった。

 市場にいた頃から急に空が暗くなり、大粒の雨が降り始めた。私達は大急ぎで車に乗り、帰途に付いた。窓ガラスのない車へは
容赦なく雨が降り込み、たちまち車内は水浸しになった。外は真っ暗で雨脚が強く、たった二メートル先も見えないくらいの
激しい雨であった。これをスコールと言うのであろうか。

 来た道は、まるで川のようになっていた。港に着いてみると、その川のような道路から直接海の中へと流れ込んでた。
朝、出かけるときには、あれほど澄んで魚の姿も見えていた港内の水が茶色に濁っていた。

 この地域一体に水道施設はない。従って、水は天からの貰い水、つまりは家の横に置いた天水桶に雨水を溜める仕組みに
なっている。まあ、一時にこれだけ大量の激しい雨が降るとなれば、大きな天水桶でもすぐに満杯になることであろう。
食べるものも飲むものも欲を言わなければ、それ相応のものを恵んでくれる自然な生き方がここにはある。

 聞けばこんな自然豊かな国にも次第にお金に支配される生活が浸透しつつあるようだ。この国の中に地下資源が豊富に眠って
いることが分かり、今は、この収入が国の経済に深く浸透するようになって来たらしい。従って、当然のことながら貧富の差が
生まれ、それに伴い犯罪も増え始めているようだ。国の多くの住民はポリネシア系の人達だ。髪の毛は特徴ある縮れ毛で茶褐色
の人もいれば黒い人もいる。

 まだまだ書き尽くせないが、この国の訪問で私達の102日間に及ぶ長旅の大半は終わった。後は日本を目指すだけであった。
私は若者達が中心で主催していた「しゃべり場」をラバウルに着くまで続けていて、いわゆる大人と言われるおじさん達と激しい
ディスカッションを繰り返していた。時にはやり込められ、何とか巻き返そうと早朝から作戦会議を続けていた。
こんな思い出も懐かしいものとなってしまった。

 軌跡祭、卒業式など船内で最後となる大型イベントを次々に開催しながら神戸港へ入港した。慌ただしく荷造りしたものを
運びだし、入管手続きを済ませ外へ出てみるとトパーズ号の船体には手作りの横断幕が掲げられていた。その中には私達夫婦の
名前も書かれていた。思わず涙がこみ上げてくるシーンであった。

 大声でさようならを叫びながら、やがてトパーズ号は岸壁を離れて行った。神戸港には娘夫婦が迎えに来てくれていた。
久々に味わう日本の空気であった。

 実はつい先日、この船で親友となった若い人と久々に倉敷で再開した。ここでピースボートの説明会があるとのことで
こちらへ来たとのことであった。彼は47回のピースボートの旅の後。本格的にピースボートスタッフとなり、その後、
他のスタッフと結婚し、更にはクルーズディレクターと言う重責も任されていた。

 次回クルーズでは、再びクルーズディレクターとして乗船し、彼の両親、そして二人の子供を含む家族で北回り航路へと
出発するとのことであった。一家で地球一周の旅が出来るなど、ピースボートならではのことである。


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地球一周の旅から10年(25) オーストラリア連邦(立憲君主制国家)

2015-01-08 06:41:48 | Weblog
 オーストラリアは英国女王の支配下にある。とはいっても今は民主主義の時代、解説によると次のように書かれている。
立憲君主制とは? 憲法に従って君主が政治を行う制度。君主の権力が憲法によって制限されている君主制。近代市民階級の
擡頭により絶対君主制が崩壊し、君主権が議会などの制限をうけることにより成立した国家。

 先のニュージーランドもかつては英国領であり、今はオーストラリアと同じように立憲君主制の国家となっている。
歴史的には同じような道をたどった国家と言えよう。

 さて、私たち夫婦はニュージーランドの長いオーバーラウンドツアーを終え、飛行機で一気にオーストラリアを目指した。
従って今回の地球一周の旅の中では唯一、飛行機で乗り込んだ国であった。空港へ着陸し、すぐさまトパーズ号まで戻り
改めて市内見学等へ出かけた。

 従って、通常なら、かの有名なシェルの形をしたオペラハウスを見ながら入港できたのだが、今回はそれが出来なかった。
滞在したのはシドニーである。多くの人がシドニーが首都だとかメルボルンが首都だと思っている。しかし、シドニーも
メルボルンも首都ではない。何故かシドニーよりもはるかに人口が少ないキャンベルと言う町が首都となっている。

 先のニュージーランドやオーストラリアの人口は、日本と比較すると極めて少ない。特にオーストラリアは大陸と呼ばれる
ほどの国土を有しながら、大半の人は南東の海岸地帯に住んでいる。比較的、気候が安定していて住みよいところのようだ。

 私達が訪れた年の初めの1月も穏やかな気候であった。しかし広い大陸とはいえ全体的に気候は厳しく、人が住めるような
ところは少ない。この国の主要産業は農業であって多くの穀物が海外へ輸出されている。また、牛などの牧畜も盛んで、この
国の牛は日本の畜産技術を取り入れて、日本産に勝るとも劣らないような肉質のものを生産している。

 つい最近のニュースによると今年も異常気象で広範な森林地帯で火事が発生し、貴重な天然資源が失われているようだ。
最もこの大陸では昔から森林火災は当たり前のようで、その季節になると落雷等による自然火災が発生し、それが新しい
植物の再生を促しているとも聞いている。

 元はアボリジニという南太平洋の島々に広く住んでいるポリネシア系住民達の土地であった。ここを発見したイギリス人達が
領有地として入植した歴史がある。特にイギリスの政治犯たちの流刑地として利用されてきた歴史があり、この地の開拓にも
アメリカの開拓史と同じように、原住民との血なまぐさい争いが幾度となく繰り返されてきた。

 シドニーは近代的な街だ。市内にはヨーロッパ調の建築物も少なくない。残されたヨーロッパ風の建築物にはすべて歴史的な
背景があるようだが、私の目には見なれた建築物に見えた。と言うのも南アメリカで見てきたブラジルもアルゼンチンも
そしてチリの建物も歴史的な建造物は全て同じように見えたからだ。

 シドニーは貿易港として発展してきた街である。従って、港には数多くの船が出入りをしており、レンガ造りの倉庫群が
今はショッピングセンターとして活用されている。気温は高いが、からりと乾燥した空気と海の青と空の青がマッチして
とても美しく気持ちが良かった。

 また、入植者たちが作った街らしく、気取ったところがなく道を聞いてもみんな親切に教えてくれる。惜しむらくは私達も
英語が苦手だし、彼らも日本語が話せない。しかし、ある親子ずれなどはシドニーに遊びに来て、これから同じ方へ行くから
一緒に行こうと誘ってくれた。珍しく家内が積極的に片言の英語を駆使しながら話しかけ楽しそうに会話を交わしていた。

 私達の移動手段は全て自分の足だった。バスも、そして見上げればモノレールもあるようだったが、とんだ方向へ行っても
困るばかりなので、先のように聞きながら目的の地まで行く方が気楽だった。実に良く歩いた。やはり知らない土地へ行く時は
健脚でなければならない。

 こうして短い滞在時間をフルに活用して見て歩ける範疇はくまなく歩き、ショッピングはほとんどしなかった。幸いだったのは
トパーズ号が停泊した港近くがテーマパークのようになっていて、時間つぶしには近距離で丁度良かったことである。こうして
語るほどの多くの体験をしたわけではなかったが、トパーズ号は珍しく日の高いうちにシドニーを出立した。

 これまた歴史的な建造物であるハーバーブリッジの下をくぐり、シェル型のオペラハウスを左に眺めながらオーストラリアと
別れた。いよいよこれから最後の寄港地であるパプアニューギニアのラバウルへ向かうことになる。
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ニュージーランド南島を行く(追記)

2015-01-02 06:29:27 | Weblog
 先を急ぐあまりにニュージーランドを簡単に済ませてしまったので、もう少し詳しく書いてみます。
ニュージーランドは自然保護に大変力を入れている国だ。それは入国の際の検疫などの徹底ぶりに見られる。
その点は日本と大いに異なる。

 その国のことはその国に住んでみないと分からないことが多い。従って、ほんのわずかの滞在時間で
その国のことが理解できたと言うのは嘘であろう。しかし、どのような国であるかは何となく理解できない
こともない。

 この国は日本の国土より多少小さいが、人口が極めて少ない。従ってクライストチャーチにしてみても
人口が密集しているようには見えない。この市内はどこを見ても美しいのだが、やはり代表的なところは
モナベールと言う大金持ちが愛する娘のために作ったと言う公園のようなところだが、古い建物と植栽
これらがバランス良く配置されていて実に美しい。

 特に、ほとりを流れる川の流れは美しい。川向うには瀟洒な民家が建ち並んでいる。川沿いに庭を作り
その庭と建物のバランスが実に良い。物質的に恵まれていると言うだけでなく心豊かな生活感がある。

 ちなみに街の中を流れているこの水の流れは地下水らしく滔々たる豊かな流れの上に澄んでいてとても
きれいだ。その流れに色とりどりの花と木々が、絵画を見るような風情を作りだしている。

 街全体が公園のようなこの街は実に良く洗練されている。ちなみにクライストチャーチ市は倉敷市と
姉妹都市縁組をしている国だ。私達がニュージーランド滞在の最後の夜に食事をしたところが、日本人が
経営者だと言う「くらしき」というレストランであった。

 先の大地震で街のシンボルだったクライストチャーチ(教会の建物)が倒壊したと報じられていた。
と同時に、このレストランも壊れてしまったと聞いているが、今はどのようになっているのだろう。

 街の郊外には有名なレストランがある。ここへは海外からの有名人や日本の皇族も食事に来たとのことで
レストランの中にはそれらの写真が掲示されていた。このレストランは街のはずれの小高いところに建っていて
ここからの夕日がとてもきれいだったことを思い出す。

 何しろ公害らしきものがほとんどなく、空気が澄んでいて景色がとてもきれいに見える。本来、自然とは
こういうものだったのではないだろうか。それを人間の生活が汚してしまった。あのケニアで体験した静けさも
人間が作り出した音が全くなかったことによって静寂を際立たせていた。自然全てがあるべき姿に戻れば
心の豊かさも取り戻すことが出来る。

 人間はあるものを手に入れ、あるものを失ってしまった。進化とは何だろうと言うことを感じずにはいられない。

 さて、氷河湖は氷河が溶け出して作られたものだ。ニュージーランドには多くの氷河湖がある。その中の一つに
デカポ湖と言う湖がある。広大な湖だ。その湖の水は溶けこんだ鉱物の微粒子が光を反射して青白く光っている。
とても美しい湖でニュージーランドと言えばこの湖周辺が紹介されている。

 この湖近くにレストランがある。食べ物関係ばかりの話で恐縮だが、ここで食べた昼食が忘れられない。
確か鮭か鱒だったと思うがピンク色をした魚の切り身が丼の上に載っていた。これをサーモン丼と称して
人気商品になっていた。確かに旨かった。

 この味がとても良いと評判の店であった。素材が良いのか、調理の仕方が良いのか、恐らくは両方が良いのだろう。
ここの経営者は日本人だと言うことで、さすが魚料理は日本のものだと思ったので書いてみた。ここを訪れる時は
ぜひとも立ち寄ってもらいたい。詳しくは私のサイトの下記のページで詳しく紹介している。

http://www2.kct.ne.jp/~monohito/yabuki2/pi-subo-to/d3nyu-ji-rando.html

 ニュージーランドには火山も多く、それ故に地震も多い。そもそも南島のサザンアルプス自体がプレート同士の
ぶつかり合いで出来た皺のようなもので、その成り立ちはヒマラヤや日本の北や南のアルプスが同じものだ。
従って、火山活動も活発で地震も多い。反面、自然が豊かだと言うことも言えよう。

 私達が訪れた季節は春から初夏にかけてのシーズンで至る所で野草が花開いていた。全てがこの国の在来種だった。
それらが車窓から見える場所がある。まさに群生で、花の色が車窓を青く染め、その花の香りが列車全体を包み込んで
くれた。



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