人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

食の問題

2007-10-27 12:05:27 | Weblog
 「食」に関する話は、多くの問題を抱えながらあまり語られる事が
ない。衣食住の中で何が一番重要かと言えば言うまでもなく「食」で
あろう。

 日本は多くの農産物を輸入に頼っている。その輸入のためにブラジル
の広大な森林が伐採され、大豆の一大生産地になっていることはあまり
知られていない。ここで生産される大豆の大半は、中国と日本向け
だそうである。

 余談になるが、かつて日本は、建設用材であるラワン材を輸入する
ために東南アジア一帯の熱帯雨林を伐採してきた。また、今では食用
や洗剤用としての椰子油を大量に確保するために、広大な熱帯雨林が
切り開かれ椰子油生産のための大プランテーションに変わっている。

 私達は、私達の生活を快適にするという目的だけのために、今まで
にも、そして今も多くの熱帯雨林を破壊してきたのである。これが
事実だとすれば、如何に生活のためとは言いながら、このままにして
おくわけには、いかないのではないだろうか。

 また、大量の食材が輸入される一方で、日本の農家は廃業が続いて
いる。経済原理に基づく自然の在り方だと言う人もいるが、誰も変だ
とは思わないのだろうか。

 廃村になってしまったところも少なくないし、今後もそのような村が
次々に出てくるのではないかと予測されている。私達の先祖が大変な
苦労をして切り開いてきた田畑はどうなっていくのだろう。農家でも
ない私だが心配をしている。

 山間部にある棚田や畑が荒れてしまうのは実に早い。山間部を走ると
そうした多くの田畑を見ることが出来る。平地にある田んぼは大きな
一枚田にして大型機械を導入し、生産コストを下げるような政策が
進められている。しかし、そのようにしても外国から輸入されるお米の
価格には追いつかないという。

 問題は、価格競争の中で主食であるお米を論じているからこう言う
ことになる。狭い国土の中で高い労働力を使って生産しようと思えば、
外国米に勝てるわけがない。

 そうではなく、もっと安全や安心と言った別の次元で考えるべきでは
ないのだろうか。国土を守る、食の安全を守る、食料危機に対しての
安全保障、と言った観点から考えなければこの問題は解決しない。

 さて、食肉の偽装、お菓子の製造日の偽装、市場に出したものを
回収して詰め替え製造日を誤魔化していたなど、食に関する事件は
後を絶たない。これら総ては生産者のモラルの欠如から発生した問題
である。

 ただ、多くの食材を大量に輸入している国として、味も衛生面からも
食品として問題ないものを、ただ期限が過ぎているからと言って簡単に
廃棄しても良いものなのだろうか。

 日本ではこうして廃棄された食料や冷蔵庫の中に入れたままの食材
が使われることなく大量に廃棄されている。その金額は莫大なもので
ある。

 ちなみに、ある調査では6000万トンの食料が輸入され、実に
その三分の一の2000万トンが何らかの形で廃棄されているようだ。
その2000万トンの半分以上が家庭からの廃棄物だなのだ。実に
驚くべき数字である。

 これを笑い事で済ますわけにはいかない。また、廃棄物となった
食料品は、焼却処理するための環境負荷となっている。輸入のための
輸送や加工や店頭に移動する輸送、冷蔵庫への保管のための電気代、
その上に廃棄のための輸送費や処理費用と二重三重のお金とエネルギー
がかかっている。

 その日の食にも事欠くような人々が少なくない。その一方で飽食と
言われ、まだ十分食べられるようなものを廃棄するなどと言うことが
許されて良いのだろうか。

 日本には昔からもったいないという言葉があったはずだ。私達が
子どもだった頃は、みんな食に飢えていた。従って、親達は口癖の
ように、もったいないと言っていた。

 お茶碗に一粒の米が付いていても、ちゃんと食べなさいと叱られた。
また、御飯を食べる前には手を合わせ頂きますと言うように躾られて
きた。それは作ってくれた人の苦労に感謝し、食べ物となった植物や
動物や魚の命を頂くと言うことに感謝しての言葉だった。

 私を含め、今の私達にそのような心があるだろうか。強く反省したい
ものである。
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結婚式

2007-10-23 22:36:46 | Weblog
 長男の結婚式が東京であり、久々に上京した。在職中にも何度か
行き来した東京であったが、これで一段と東京が近くなったような
感じがしている。東京には息子夫婦以外にも友達が多い。多くは
ピースボートの旅で知りあった仲間や友人である。

 私にとって昔の東京と言えば高校の修学旅行のコースの一部である
くらい遠い存在であった。その後、新幹線が開通し、岡山空港が出来て
飛行機が就航し、更には夜行バスまで走るようになって、随分と近い
存在になった。

 修学旅行の時には特別仕立ての夜行列車だった。むろん新幹線などは
走っていなかった。線路の継ぎ目の音を聞きながら、うつらうつらと
している内に目的地に着いた。そこは東京よりずっと手前の駅だった。
何時間も夜汽車に揺られての旅だった。

 それが今だと飛行機で約一時間、新幹線でも三時間半くらい。夜行
バスだと岡山から十時間位だろうか。これからも何かと岡山東京間を
往復することが多くなりそうだ。

 息子達の結婚式は六本木にある大きなホテルで行われた。式の準備
は息子の子どもの頃からの親友と息子達の手によって進められた。
私達は他の招待客と同じように当日参加だった。今では、昔のように
家と家の結婚式という姿は消えてしまった。招待客の大半は息子達と
同世代か、それより若い人達だった。

 披露宴では主賓の方から大層なお褒めの言葉を頂いた。会場に来て
下さった多くの仲間の皆さんも主賓の方の挨拶も長男の人徳だと思って
いる。私はそんな息子を見て誇らしく感じた日でもあった。
 そんな会場であったから、だれも遠慮することもなく、実に和気藹々
とした穏やかで明るい結婚式であった。結婚式とは本来、こうあるべき
かも知れない。

 それにしても娘の時と言い、息子の時と言い、私達夫婦の結婚式とは
隔世の感がある。私達の頃は、家での結婚式から家以外の会場を借りて
の結婚式に変わりつつある時代だった。
 私達の場合は私が育った町の公民館が会場だった。ここは式場だけ
だったので、料理は親戚の料亭に頼んだ。家内のウエディングドレス
は家内の従姉妹が洋裁学校で作ったものだった。お色直しが一度だけの
質素な式であった。
 神前結婚式であったが、私達は準備されていた誓いの言葉は使わず、
私達が書いたものを読み上げた。若さ故の気負いだったのか神や仏など
に誓いを立てる事を快しとしなかったからだ。

 息子達はホテルの中にある教会で式を挙げた。牧師さんはオースト
ラリアの人、聖歌隊の女性が三人とパイプオルガンとヴァイオリン、
ビオラの演奏という豪華で厳かなものであった。

 それにしても事件が多く世情は騒然としている。そして地球温暖化
など彼らの船出にとって決して明るい未来だとは言えない。いわば
混乱期と言った方が良いのではないだろうか。何もかも希望に満ちて
いた私達の時代は、考えてみれば幸せな時代だったと言えるのかも
知れない。

 しかし振り返って見れば、いつの時代も問題は多かったような気が
しなくもない。歴史的に一番近い幕末という時代は今と同じように、
やはり先の見えない混乱期であった。武士中心の社会は崩壊寸前に
あり、それに代わって台頭してきた町民社会は武士社会に逼塞感を
抱いていた。有り余る経済力を何処かに向けたい。そんな思いが
あったのではないだろうか。
 その一方、多くの下級武士は日々の生活にさえ困るような状態だった。
農民は年貢などの圧政に苦しみ、やり場のない不満を抱いていた。
何かしら現代に通ずるところがあったような気がしている。

 ヨーロッパ等では、いち早く市民革命が起き、自由を手にした人達が
国外への雄飛を果たした時代であった。日本人にとって黒船は何だった
のだろう。どのように感じたのであろうか。見たこともないような
黒い巨大戦艦が沖に現れた時には、他の星の宇宙船が上空に現れたと
同じような驚きだったのではないだろうか。

 混乱や苦労はどの時代にもあったはずである。それが人間の歴史でも
あった。それでも人間は生き続けてきた。何とかやっと人間は、宇宙の
果てまでも見ることが出来るようになってきた。しかし、その果てを
まだ見てはいない。その時代まで生き続けなければならない義務がある。
それが私達人間の使命ではないだろうか。

 確かに出口の見えない逼塞感さえ感じるような時代には違いない。
しかし、人間の知恵と努力によって、この時代を乗り切るしか道は
ない。また、道は必ずあるはずだ。「叩けよさらば開かれん」。事に
当たらなければ何も解決しない。

 結婚式を終えたばかりの長男夫婦や子育て真っ最中の長女夫婦の
姿を見たときに、この地球をこのままで終わらせてはいけない。
そんな思いでいっぱいだ。心から彼らの将来に幸多かれと祈っている。
そして、その未来が決して暗いものであってはならないと思っている。
そのためには希望を抱きつつ未来を切り開く必要がある。
 「成せばなる成さねばならぬ何事も」。地球人全員の思いを今こそ
一つにして、この困難な時代を乗り切らなければならないと改めて
思うのである。

 長女や長男の結婚を通じて両家とも親しくなれ、新たなる息子や娘が
増えたような気持ちである。
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農業・そして経済の仕組み

2007-10-18 17:20:03 | Weblog
 先日も友人から、こんな話を聞いた。食料の自給が出来るような
農村の立て直しが必要だと言う事であった。日本の農村の疲弊は
著しい。お米を作っていただけでは生活していけないのが実状だ。
近くに勤め先のある者は、サラリーマンが本業で農業は片手間仕事に
なっている。そのために高い農機具を買って、その支払いに給料を
使うという悪循環を生じている。

 従って、現金収入の少ない山間地では都市部に出稼ぎに行くか、
お爺さんやお婆さんの代で農業は終わりと言うところも少なくない。
小さな村が丸ごと無人になってしまったようなところまで出てきて
いる。近い将来、こんな村が続出するようになるのではないだろうか。

 私達が南米の諸都市で見てきたように、国の人口の多くが都市部
周辺に集中するといった国になりかねない。

 しかし、それだけでは終わらない。ことは食糧問題である。今でも
多くの食料品を諸外国に依存し、なお主食であるお米までもが大量に
輸入されようとしている。友人ならずとも心配な事である。

 消費者だけの立場からすれば安い方が良いけれど、自給率が下がり
続けている現状の中で、外国からの輸入がストップしたとか、円の
信用がなくなって輸入できなくなった時の事を考えると、総てを
外国に依存し続けている現状のままで良いのだろうかという疑問が
湧いてくる。また、そんな時が来ないと誰が断言できるだろうか。

 かつて日本の農業は手厚く保護されてきた。税制上の優遇措置も
その一つであった。また、他にも色んな形での補助金が湯水のように
使われてきた。そのため、お米さえ作っていれば農家は何とか生活
していけた時代もあった。

 しかし近年、農業の自立が叫ばれ、外国からの輸入品がどんどん
入ってくるようになって、価格的に太刀打ちできなくなってきた。
その結果、農業従事者は減少し、農産物の最後の砦であったお米で
さえ自由化の中で採算がとれなくなっている。

 今、農家は大規模化をしろと言う政府の指導の元に模索中であるが、
先進的な八郎潟の大規模農場でさえ採算がとれなくなっていることを
考えると大規模化が救いの道とは思えない。

 江戸時代にはお米が通貨の代わりであった。農家はお米を作って
年貢として藩に治めていた。小規模で栽培技術が未熟であった時代
なので、お米がとれなければ自分たちは稗や粟と言った雑穀を食べて
飢えをしのいできた。それでも干魃や冷害と言った飢饉に苦しみ、
多くの住民が飢え死にしてきた。
 
 お百姓さん達の生活が何とか安定し始めたのは小作制度などが撤廃
された戦後からである。その農家が、今は自由主義経済やグローバル
経済と言った世界的な経済的嵐の中で苦しい生活を強いられ始めて
いる。
 
 私の母方の田舎でも農業や林業の跡を継ぐ者がいない。わずかばかり
の現金収入では今の世の中、何処で住むにしても生活できないからだ。

 同じような事は田舎だけでなく地方都市でも起きている。地方都市
の駅前周辺や商店街と言ったところは閑散としている。かつて人通りの
多かった通りには貸店舗やシャッターを下ろした店が少なくない。

 郊外にイオンショッピングセンターなどと言う大型店舗が進出して
きたからだ。小さな商店の努力だけでは解決できない問題である。

 かつて、何処の街でもお金はその周辺で回っていた。魚屋さんが
八百屋さんで野菜を買い、散髪屋さんが呉服屋さんで着物を買う、
その呉服屋さんは魚屋さんで魚を買うと言ったように、地域の中で
経済が成り立っていた。
 しかし、こうした街からお客さんを奪った大型ショッピングセンター
の売上金の大半は地域に還元されることなく別のところへ行って
しまう。こうして、地域にお金は落ちることなく、商店街はやって
いけなくなって店を閉めるという結果になっている。

 私達の実生活に於いて、こうした大きな経済が必要な事なのだろうか。
必要なものは、だいたい、その地域で間に合うだけで良いのではない
だろうか。
 かつての田舎のように味噌も醤油も作るという自給自足に近い生活
では、さして多くの現金を必要としなかった。今はどんな山間部に
いても、あるいは離島に住んでいても現金収入がなければ生活して
いけなくなっている。

 同じような事は開発途上国と言われるところにも起きている。世界中
がグローバル経済という波に飲まれ苦しんでいる。そして、村を離れた
多くの住民が職を求めて都市部へ移動している。

 それが今日の経済環境である。経済というものは人間生活の必要
不可欠なものではない。あくまで生活のための手段に過ぎない。その
ことをもう一度考え直してみたいものである。
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お祭り

2007-10-15 05:10:35 | Weblog
本当に疲れたが悪い疲れではない。10月13日、14日は地元の
鴻八幡宮の秋の例大祭だった。私は、13日に地球温暖化防止推進員
の研修があったので、失礼させて貰った。その代わり14日の日曜日
には朝から参加した。前日も野外研修が多かったので多少疲れていた
が、参加できないほどの状態ではなかった。

 しかし、ダンジリと一緒に一日中歩き回り、さすがに夕方になると
足腰に鈍い傷みを感じ、かなり疲れていた。夕食後、家内の指導で
ストレッチを行い、少し良くなった。やはり日頃の運動不足のせい
ではないだろうか。

 それにしても、この日の朝の内は、かなり冷え込んでいて寒かった。
しばらくして薄日が差すようになり、少し気温は上がったようだ。
宮入の時間には少し早く、小学校の校庭でしばらく時間調整をした後、
交通規制された県道に出た。そして、道いっぱいに引き綱を広げて
行進をし、鴻八幡宮の参道に入った。

 昔から私達の地元は二番目に宮入をする事に決まっていた。一番は
隣接する自治会の傘鉾だ。午前中に九つの自治会の傘鉾やダンジリが
お宮の境内に集まる。さすがに九台すべてが並ぶと境内は狭く感じる。
ダンジリと大勢の人で大変な賑わいである。

 それぞれに神職にお祓いをして貰い、頂いたお札をダンジリの屋根
に取り付ける。九台総てが登り終えると、傘鉾を先頭に宮下がりとなる。
鴻八幡宮の宮坂は急坂である。この坂を登るときは引き綱を先頭に
引っ張り上げる。降りるときはダンジリを先頭に引き綱でスピードを
調整しながら降りる。

 宮入と宮下がりのトータル時間は平等に定められている。宮入に
時間を使ったダンジリは、宮下がりの時間は少なくなっているので、
見せ場もなく大鳥居をくぐらなければならない。

 大抵の場合は、あっさりと宮入をして、宮下がりに時間を使うようだ。
この時には急坂を登ったり、下ったりと見せ場が続く。昔はここで
大暴れをして負傷者や死者まで出たこともあると聞いている。

 さすがに今は大人しいものだ。ダンジリの上げ下ろしと引き綱の練り
があるくらいなものである。時間オーバーは厳しく制限されており、
時間が来ると激しく鐘が連打される。それでも未練がましく鳥居を
くぐらないダンジリがいる。

 こうして午前中の九台が終わると、午後も九台が宮入宮下がりを行う。
総てが終了する時間になると、秋の日はとっぷり暮れており夕闇となる。
夜間照明が入り、この照明の中で最後の自治会が宮下がりを行って
秋の例大祭は終わる。

 毎年のことだが、この例大祭は地元のケーブルテレビが総て中継して
いる。従って、地元の者は現地へ行かなくても総てのダンジリを見る
ことが出来る。私もこの日の中継のカメラの中に映っていたと家内が
話していた。この中継は後日改めて放映されるらしい。

 最近では色んなコスチュームの女性も多く、素人カメラマンの列が
出来る。格好のカメラ対象となっている。男性が長襦袢を着た姿は
少なくなったが、浅草の三社祭の影響からか、いなせな格好の若者や
女性や子どもの姿をたくさん見かけるようになった。

 四国には、幾つか大きなお祭りがあるようだが、ここ山陽路には
比較的少ないので、地方としては珍しく大規模なお祭りだと言える
のではないだろうか。

 ここ児島は繊維産業の街なので、中国からの研修目的で地元の縫製
会社などに大勢の中国人女性が来ている。彼女たちの参加も多いし、
見学者も多い。それぞれにカメラを持って写している。故郷への土産話
にでもなるのだろうか。

 宮下がりを終えたダンジリは、それぞれの地元へ帰っていく。昔は
地元へ帰ることなく他の地域へ行き、そこでダンジリ同士の喧嘩も
多かったと聞いている。今は子どもや女性の参加も多く、大人しくて
平和なものである。

 地元へ帰ると地域の人がたくさん迎えてくれる。これが又、嬉しい。
和気藹々たる秋祭りが終わると、一気に本格的な秋から冬へと向かう。
子供達は夏の盛りの頃から笛や太鼓の練習をしてきたので、この日が
来るのを心待ちにしていたに違いない。また一つ楽しい想い出が出来た
のではないだろうか。
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軍事政権の危うさ

2007-10-10 09:15:23 | Weblog
 世界中には実に軍事政権が多い。一見、民主国家のように見える国
でも一皮剥けば軍事クーデターが、いとも簡単に起きるような国も
少なくない。

 戦前の日本もこうした国の一つであった。軍政批判を公然としよう
ものなら特高だけでなく、本来は軍隊の中なる組織の憲兵が来て逮捕
という事例も少なくなかった。

 つい最近では民主国家であるはずの日本で、憲法上は認められて
いない自衛隊という名の軍事組織が、政治活動を行っている団体の
行動を密かに調査していたということも明らかになっている。

 ミャンマーでは僧侶が先頭をきったデモの鎮圧に軍隊が出動した。
そして、長くこの国は民主化されることなく軍事独裁の国家である。
また、隣接するタイではいとも簡単に軍事クーデターにより民主政権
が倒され、軍政となってしまった。隣国、韓国でも何度も軍事クーデター
が繰り返されてきた。北朝鮮は未だ強大な軍隊を背景とする独裁国家
である。また、パキスタンでは軍人であるムシャラフ氏が大統領である。
 
 数え上げればきりがないほど軍隊が政治に関わってきた。口では
シビリアンコントロール等と簡単に言うが、軍隊を民主政治の元に
置くことは容易な事ではない。

 そして、多くの国に於いて、軍隊は他国の侵略を阻止するのが
目的だとしながらも、その銃口は国民に向けられていることが少なく
ないのが実態である。

 戦争はない方が良い。分かっていながら未だに各国は軍事力を背景に
した力の政治を行っている。この姿は人類発祥の頃と少しも変わって
いない。目的を達成するため力を誇示するスタイルは非文明的である。
三千年前も今日もまったく進化していない。

 アメリカは強大な軍事力を持って、開拓時代と同じ感覚で世界に
銃口を向けている。これで先進国と言えるのだろうか。民主国家と
自負できるのだろうか。
 
 先日も「日本国憲法」が成立するまでをドキュメンタリータッチで
描いた番組が放映されていた。日本国憲法には太平洋戦争で傷付いた
日本人とアメリカ人の反戦への思いが反映しているように思わる。

 第二次世界大戦が終結したとき世界の多くの国の人々は戦争に傷付き
疲れ果て「日本国憲法」に書かれた戦争放棄という思いを非常に強く
していたのではないだろうか。その思いを東西冷戦時代が打ち消して
しまった。そして長い歳月が反戦の思いを風化させてしまったようだ。

 イラクでは先の見えない内戦が続いている。アフガンでは再び内戦
のきな臭い匂いがしている。銃さえなければ内戦も国家間の戦争という
愚かな方法による紛争解決や恫喝は起きないはずである。
 そして、その銃口が自国民に向けられることもないのではなかろうか。
地球の命脈が温暖化によって尽きようとしているときに、未だ自国民
同士や他国との戦争に明け暮れしている時ではないと思うのだが。
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最悪のシナリオ

2007-10-08 07:13:08 | Weblog
 昨日の朝日新聞の一面にインドネシアでの泥炭層が燃え続けている
という記事が写真入りで掲載されていました。この泥炭層が燃えると
いう不思議な現象は、今回の記事が掲載される十数年前から報道されて
いました。覚えているという方がおられるでしょうか。

何もしないのに密林だったところが燃えるはずがないのです。熱帯雨林
は乾期はともかく、雨季になると連日のようにスコールが来ます。その
雨の量は土砂降りで、並の量ではないのです。
 また、熱帯雨林は自らも雲を作り雨を降らせていると云われています。
つまり膨大な木々から発散される呼気が雲となり、やがては雨となって
密林に降ってくるのです。大きな水の循環のようなものが形成されて
いるようです。

 そう言えば私が見た南米のイグアスの滝の絶えることのない膨大な
水はこうして生み出されたものかも知れません。ものすごい水が一時
の休みもなく流れ落ちているのです。その水の量には圧倒されるような
迫力があります。

 密林を伐採してしまうとこの循環が断ち切られます。そこは広漠たる
砂漠と化してしまいます。今のインドネシアは乱伐と開墾という二重の
不幸によって密林が死んでしまったのではないでしょうか。

 密林は色んな動植物の命を育むところです。その密林が伐採され火を
放たれると、そこにある命は総て断ち切られてしまいます。その放たれた
火が地下に眠る泥炭層に火を付け消えることのない炎となって燃え続けて
いるようです。まるでガイアの断末魔のような叫びが聞こえてきます。

 そして、燃え続ける泥炭層からは膨大な二酸化炭素が大気中に放出
されているのです。その量は日本が一年間に放出する量を大きく上回る
と云われています。実に恐ろしい事です。

 こうした事は、人がやってきたことに対する自然からの反撃のような
気がしてなりません。インドネシアの乱伐は私達の建築用材や洗剤など
の原料である椰子油に変わっています。

 一方、ブラジルでは広大な密林が伐採され、大豆畑に変わっています。
この大豆はアメリカの巨大企業によって日本や中国に運ばれています。
大豆の消費があるから、その地へ大豆を売る。その大豆を作るために
熱帯雨林が消えているのです。その面積もまた膨大なものです。

 何かしら中国からの割り箸の輸入に似ているようなはなしです。
世界各地の密林や木々を奪うことに日本人の日常生活が大きく関わって
います。私達の快適さや便利さや豊かさの背景には各国の熱帯雨林や
マングローブの林を死に追いやって成り立っていると思うと他人事
では済まされません。
(実は、バーベキュー等に使っている安い輸入の炭はマングローブの
木々から作ったものがあります)

 今すぐにでも私達の生活を根底から見直し、昔のように自給自足や
地産地消に切り替えて行かなければならないように思います。そう
しなければ、いずれは私達自身にも大きな付けが回ってくることは
間違いないでしょう。

 このようにして地球は一番大切なものを次々に失っているようです。
こうなると、いつかは許容量を逸脱する日が来るに違いありません。
そうなると加速度的に温暖化が進み最悪のシナリオが待っています。
今年は、西日本一帯では十月に入っても30度を越すような日が続いて
います。日中の太陽は肌を刺すような傷みを感じます。

 この文章は地球温暖化に対し真剣に取り組んでいる仲間達に宛てて
書いたメッセージです。                 
   
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始まった食料危機?

2007-10-04 09:48:00 | Weblog
 色んなものの値上げが10月に入って続いているようだ。主な原因
は原油価格の高騰と干魃によるオーストラリアなどの小麦の収穫が
減った事によるもののようだ。
 自動車の軽油やガソリンなどは、今年に入って何度、値上がりした
であろうか。そして灯油は、今日買いに行くと18リットルが何と
1440円になっていた。

 車に乗らない人という人にとっては、燃料代の値上げなど、直接
関係ないように思われるかも知れないが、輸送費の値上げという形で
跳ね返って来る。ましてや、通勤など日常生活に欠かせない人で
あってみれば、相次ぐ値上げは直接家計に響いてくる。
 これから冬に向かうと、当然の事ながら灯油の値上げが家計に響く。

灯油は今日現在、18リットルで1440円になっていた。数年前と
比較すると驚くような値上げである。収入が増えることのない年金や
わずかばかりの貯えで生活している人にとってみれば、こうした値上げ
は、より一層生活を圧迫するに違いない。
 生活保護を受けている人達やフリーターやネットカフェ難民と
言われる人達は、これからどうするのだろう。早急な対策が急がれる。

 値上げで何よりも困るのは食料品の値上げである。人が生きていく
ために食料品は欠かせない。食料品の値上げの要因の一つが、本来、
人の食べ物であったはずのトウモロコシがバイオエネルギーの原料に
なっている事もある。
 そもそもバイオエネルギーは地球温暖化防止という観点から注目
されてきたのだが、人間の食料や家畜の餌であったものまでもバイオ
エネルギーとして使われるようになってしまった。

 そのために開発途上国など、こうしたトウモロコシに依存していた
人達は食べるものさえ奪われてしまう事になりかねない。多くの人達
の食料まで奪っておいて、地球温暖化防止などと言えるのだろうか。
 地球温暖化防止策なら他にも手段は幾らでもあるはずだ。トウモロ
コシをバイオエネルギーの原料にするのは早急に止めるべき画。それ
でも続けようと言うのであれば、それはその国や企業のエゴである。

 地球温暖化が進めばそう遠くない将来、食糧危機が訪れると言われて
きた。現に、食料輸出国の幾つかが干魃などで農作物の収穫が出来なく
なっている。こうした国に依存してきた日本などでは量の確保と価格
を如何に低く抑えるかが問題になっている。既に水面かでは静かな
食料危機が、いや食料戦争が始まっているのではなかろうか。
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沖縄の怒り

2007-10-03 05:35:10 | Weblog
 沖縄で開かれた教科書の記述に抗議して集まった11万人もの大集会
の写真を見ると、私達が参加した40年数年前の沖縄返還大集会の事を
思い出す。

 沖縄へ行くには、パスポートが必要だった時代の事である。私達は
広島の宇品港から総評議会がチャーターした大型客船で沖縄に向かった。
宇品港を夕方出発し、船の中で二泊した後、早朝の那覇港に着いた。
本当に沖縄は遠かった。
 着いた沖縄は、まるで異国のような感じだった。まさしく基地の街、
沖縄がそこにあった。那覇市内の繁華街を少し裏へ入ると米兵相手の
飲み屋が軒を連ねていた。そして、夜になると派手なネオンが点灯し、
酔って大声で叫ぶ米兵達の声がしていた。何となく近寄りがたい気が
して慌てて表通りに戻ったものである。

 そして、今は近代的な街に衣替えし、表向きは南国の観光地に生まれ
変わっている。しかし、少し郊外に足を伸ばすと、延々と続く基地が
ある。沖縄県民には長く基地の島として、いやな思いを強いてきた。
そして、今もそれは続いている。
 この島に基地さえなければ、ハワイのように青い海に囲まれた豊かな
リゾート地であったに違いない。大きな基地があるだけに、その姿は
いびつな形に見える。

 その沖縄が、今は教科書の記述を巡って揺れている。県民の総ての
ブーイングである。参議院選挙前から、このブーイングは続いていた。
しかし、安倍政権の元ではなかなか大きな声にならなかった。戦後
レジュームからの脱却などと訳の分からないことを言っていたからだ。
 その現れが教科書問題だったのである。安倍政権の声に呼応するかの
ように教科書の記述は大きく変化をしてきた。
 問題は、米軍が攻めてきたとき沖縄に駐留していた旧日本軍が島民
に強いた集団自決(集団自殺)の項が教科書から削除されたことである。
 当時を知る多くの生き証人がいるのに、このような削除を何故行った
のか。それは憲法を変えようと考えた、政府自民党の一つの現れだった
のではあるまいか。
 旧日本軍の指令さえなければ、多くの島民は米軍によって保護され、
自ら命を断ちきることはなかったに違いない。そもそも民間人が住んで
いる場所を戦場にする事自体が間違っている。本土決戦などと、国民に
本気で言っていた軍幹部達の考えの延長線上に沖縄決戦があり、集団
自決があった。あたら若い命までも断ち切ることはなかったのである。

 選挙で私達の意志を表示することは大切な事である。参議院選後、
政治の総てに於いて流れが変わった。したい放題の自民党政治を変え
させることが出来たのである。一票の力は確かに大きい。
 あのまま自民党が勝っていれば、今では憲法を変えようと言う動きが
急速に高まっており、国民の生活のことなど顧みられなかったに違い
ない。
 また、アメリカに対しても堂々とNOが言えるようになったのである。
テロ対策は必要だとしても、総てをアメリカに委ねるのではなく、良い
ことは良い、悪いことは悪いと、対等な立場でものを言わなければ
いつまでたっても国際的な笑いものでしかない。
 北朝鮮や中国が仮想敵国であるならば、武力を行使したり武力を
誇示するのではなく、アメリカとは一線を画した外交交渉を独自に
進めるべきであろう。そうしなければ、いつまでたっても独り立ちの
出来ない属国の日本として、まともな外交交渉は出来ないであろう。
 今、日本はこうした国々から舐められた状態にある。表向きは、
ODAなどがあって愛想良くしているが、腹の底では笑っているに
違いない。
 今こそ日本は独り立ちすべき時である。そして平和憲法を武器に
独自の外交で世界に向け平和の大切さを訴えて行くべき時であろう。
コメント
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