「食」に関する話は、多くの問題を抱えながらあまり語られる事が
ない。衣食住の中で何が一番重要かと言えば言うまでもなく「食」で
あろう。
日本は多くの農産物を輸入に頼っている。その輸入のためにブラジル
の広大な森林が伐採され、大豆の一大生産地になっていることはあまり
知られていない。ここで生産される大豆の大半は、中国と日本向け
だそうである。
余談になるが、かつて日本は、建設用材であるラワン材を輸入する
ために東南アジア一帯の熱帯雨林を伐採してきた。また、今では食用
や洗剤用としての椰子油を大量に確保するために、広大な熱帯雨林が
切り開かれ椰子油生産のための大プランテーションに変わっている。
私達は、私達の生活を快適にするという目的だけのために、今まで
にも、そして今も多くの熱帯雨林を破壊してきたのである。これが
事実だとすれば、如何に生活のためとは言いながら、このままにして
おくわけには、いかないのではないだろうか。
また、大量の食材が輸入される一方で、日本の農家は廃業が続いて
いる。経済原理に基づく自然の在り方だと言う人もいるが、誰も変だ
とは思わないのだろうか。
廃村になってしまったところも少なくないし、今後もそのような村が
次々に出てくるのではないかと予測されている。私達の先祖が大変な
苦労をして切り開いてきた田畑はどうなっていくのだろう。農家でも
ない私だが心配をしている。
山間部にある棚田や畑が荒れてしまうのは実に早い。山間部を走ると
そうした多くの田畑を見ることが出来る。平地にある田んぼは大きな
一枚田にして大型機械を導入し、生産コストを下げるような政策が
進められている。しかし、そのようにしても外国から輸入されるお米の
価格には追いつかないという。
問題は、価格競争の中で主食であるお米を論じているからこう言う
ことになる。狭い国土の中で高い労働力を使って生産しようと思えば、
外国米に勝てるわけがない。
そうではなく、もっと安全や安心と言った別の次元で考えるべきでは
ないのだろうか。国土を守る、食の安全を守る、食料危機に対しての
安全保障、と言った観点から考えなければこの問題は解決しない。
さて、食肉の偽装、お菓子の製造日の偽装、市場に出したものを
回収して詰め替え製造日を誤魔化していたなど、食に関する事件は
後を絶たない。これら総ては生産者のモラルの欠如から発生した問題
である。
ただ、多くの食材を大量に輸入している国として、味も衛生面からも
食品として問題ないものを、ただ期限が過ぎているからと言って簡単に
廃棄しても良いものなのだろうか。
日本ではこうして廃棄された食料や冷蔵庫の中に入れたままの食材
が使われることなく大量に廃棄されている。その金額は莫大なもので
ある。
ちなみに、ある調査では6000万トンの食料が輸入され、実に
その三分の一の2000万トンが何らかの形で廃棄されているようだ。
その2000万トンの半分以上が家庭からの廃棄物だなのだ。実に
驚くべき数字である。
これを笑い事で済ますわけにはいかない。また、廃棄物となった
食料品は、焼却処理するための環境負荷となっている。輸入のための
輸送や加工や店頭に移動する輸送、冷蔵庫への保管のための電気代、
その上に廃棄のための輸送費や処理費用と二重三重のお金とエネルギー
がかかっている。
その日の食にも事欠くような人々が少なくない。その一方で飽食と
言われ、まだ十分食べられるようなものを廃棄するなどと言うことが
許されて良いのだろうか。
日本には昔からもったいないという言葉があったはずだ。私達が
子どもだった頃は、みんな食に飢えていた。従って、親達は口癖の
ように、もったいないと言っていた。
お茶碗に一粒の米が付いていても、ちゃんと食べなさいと叱られた。
また、御飯を食べる前には手を合わせ頂きますと言うように躾られて
きた。それは作ってくれた人の苦労に感謝し、食べ物となった植物や
動物や魚の命を頂くと言うことに感謝しての言葉だった。
私を含め、今の私達にそのような心があるだろうか。強く反省したい
ものである。
ない。衣食住の中で何が一番重要かと言えば言うまでもなく「食」で
あろう。
日本は多くの農産物を輸入に頼っている。その輸入のためにブラジル
の広大な森林が伐採され、大豆の一大生産地になっていることはあまり
知られていない。ここで生産される大豆の大半は、中国と日本向け
だそうである。
余談になるが、かつて日本は、建設用材であるラワン材を輸入する
ために東南アジア一帯の熱帯雨林を伐採してきた。また、今では食用
や洗剤用としての椰子油を大量に確保するために、広大な熱帯雨林が
切り開かれ椰子油生産のための大プランテーションに変わっている。
私達は、私達の生活を快適にするという目的だけのために、今まで
にも、そして今も多くの熱帯雨林を破壊してきたのである。これが
事実だとすれば、如何に生活のためとは言いながら、このままにして
おくわけには、いかないのではないだろうか。
また、大量の食材が輸入される一方で、日本の農家は廃業が続いて
いる。経済原理に基づく自然の在り方だと言う人もいるが、誰も変だ
とは思わないのだろうか。
廃村になってしまったところも少なくないし、今後もそのような村が
次々に出てくるのではないかと予測されている。私達の先祖が大変な
苦労をして切り開いてきた田畑はどうなっていくのだろう。農家でも
ない私だが心配をしている。
山間部にある棚田や畑が荒れてしまうのは実に早い。山間部を走ると
そうした多くの田畑を見ることが出来る。平地にある田んぼは大きな
一枚田にして大型機械を導入し、生産コストを下げるような政策が
進められている。しかし、そのようにしても外国から輸入されるお米の
価格には追いつかないという。
問題は、価格競争の中で主食であるお米を論じているからこう言う
ことになる。狭い国土の中で高い労働力を使って生産しようと思えば、
外国米に勝てるわけがない。
そうではなく、もっと安全や安心と言った別の次元で考えるべきでは
ないのだろうか。国土を守る、食の安全を守る、食料危機に対しての
安全保障、と言った観点から考えなければこの問題は解決しない。
さて、食肉の偽装、お菓子の製造日の偽装、市場に出したものを
回収して詰め替え製造日を誤魔化していたなど、食に関する事件は
後を絶たない。これら総ては生産者のモラルの欠如から発生した問題
である。
ただ、多くの食材を大量に輸入している国として、味も衛生面からも
食品として問題ないものを、ただ期限が過ぎているからと言って簡単に
廃棄しても良いものなのだろうか。
日本ではこうして廃棄された食料や冷蔵庫の中に入れたままの食材
が使われることなく大量に廃棄されている。その金額は莫大なもので
ある。
ちなみに、ある調査では6000万トンの食料が輸入され、実に
その三分の一の2000万トンが何らかの形で廃棄されているようだ。
その2000万トンの半分以上が家庭からの廃棄物だなのだ。実に
驚くべき数字である。
これを笑い事で済ますわけにはいかない。また、廃棄物となった
食料品は、焼却処理するための環境負荷となっている。輸入のための
輸送や加工や店頭に移動する輸送、冷蔵庫への保管のための電気代、
その上に廃棄のための輸送費や処理費用と二重三重のお金とエネルギー
がかかっている。
その日の食にも事欠くような人々が少なくない。その一方で飽食と
言われ、まだ十分食べられるようなものを廃棄するなどと言うことが
許されて良いのだろうか。
日本には昔からもったいないという言葉があったはずだ。私達が
子どもだった頃は、みんな食に飢えていた。従って、親達は口癖の
ように、もったいないと言っていた。
お茶碗に一粒の米が付いていても、ちゃんと食べなさいと叱られた。
また、御飯を食べる前には手を合わせ頂きますと言うように躾られて
きた。それは作ってくれた人の苦労に感謝し、食べ物となった植物や
動物や魚の命を頂くと言うことに感謝しての言葉だった。
私を含め、今の私達にそのような心があるだろうか。強く反省したい
ものである。