人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

限界集落

2007-11-30 06:39:54 | Weblog
 「限界集落」という聞き慣れない言葉を耳にしたのは、つい最近の
事である。今、日本では急速な少子高齢化と地方と都市部の経済格差
が広がり、この傾向が激しくなっている。

 日本の経済を支えてきたのは、私達世代のように地方から都会や
工業地帯へ出ていった地方出身の労働者である。江戸時代でも良く
似ていた。

 農家の次男、三男は受け継ぐべき土地がなかったから、多くは
家を離れ都会に仕事を求めて出ていった。私達が就職した頃は、農家
の長男でさえ都会や工業地帯に就職したものも少なくない。その結果、
三ちゃん農業などと言う言葉も生まれた。

 決して良い表現とは思えない「限界集落」とは、どのようなもの
なのだろうか。「限界集落」とは、人口の半数が65歳以上の高齢者
となり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落の
ことだと言われている。

 こうした集落は、もはや存続が難しくなり消え去る運命にあると
言われている。日本全体の少子高齢化を背景に地方の過疎化が進み、
このような集落の数が着実に増加しているのが現実で、国土交通省
によれば、全国にある集落の13%にあたる7837が限界集落
だと考えられている。

このような集落の「限界化」は、60~70年代の高度成長期以来
続いている若者の都市への移住の結果といえる。雇用の機会が少ない
こともあり、若者が村から出て行ってしまうと、過疎化により村の
生活が不便になり、それが過疎化に拍車をかけるという悪循環に
陥っているようだ。

 今、山間部を走ると荒れ果てた畑や田んぼがたくさん見られる。
高齢化と人手不足で耕作を放棄した田んぼや畑である。先祖達は、
これだけの農地を開くのにどれほどの苦労をしただろうかと考える
とき、むざむざと放棄されつつあるこの広大な農地の荒れ果てて
いく姿は見ていられない。

 田畑は耕作を二、三年止めてしまうと、瞬く間に雑草が入り、その跡
へは木々が根を下ろし始める。一端、木々が根を下ろしてしまうと
元に戻すのは容易な事ではない。更に年月が過ぎると積み上げた石垣
さえ崩れ始める。木の根が石垣を押し出すからだ。こうして、総ては
自然に返ってしまう事になる。

 多くの棚田は天然のダムだと言われてきた。大雨を一時は貯める
からだ。その働きは大きなダムにも匹敵するような能力を有したと
言われている。それがなくなれば降った雨の大半はそのまま川に
流れ込んでいく。

 下流のダムには限界がある。最近のダム湖の湖底には大量の土砂が
堆積しているところがあると言われている。最早、ダムとはなり
得ないものもあると言うから恐ろしい。確かにダムは水も溜めるが
崩れて流れ込む山の土砂も貯めているに違いない。

 人の手が入らないものは、総てが自然に返っていく。それはダムも
田畑も同じことである。先日、シバの女王の神殿跡ではないかという
場所の発掘現場が放映されていた。神殿の上流に当たる場所に大きな
ダムが築かれていた。このダムこそがシバ神殿周辺の繁栄を支えて
いたのではないかと言われている。

 ダムが築かれた当時はきちんとした管理が行われ、修理も行われて
いたらしい。しかし、年を経るに従って、ダムの維持管理はおろそかに
なり、ついにある時、崩れ落ちて下流域は一気に押し流されたのでは
ないかと推測されている。

 あり得ない話ではない。人の管理がおろそかになった時から崩壊の
危機は始まっていた。この世の中総てが人との関わりの中で維持され
ている。その人が関わりを忘れたり、出来なくなったときから、社会
は崩れ始めたと見るべきではないだろうか。

 今まさにその時が始まろうとしている。シバの女王が君臨しその
周辺は大いに繁栄をしたことだろう。ダムのお陰で農地が広がり周辺
地域まで繁栄したのではないだろうか。

 しかし、都市中心部の生活が豊かになればなるほど、周辺の農家は
貧しく見えたに違いない。こうしてより多くの富や豊かさを求めた
人達は農村を捨て、女王が住む都会へ出ていったのではないだろうか。

 その結果がダムの崩壊であり、都市を支える機能の崩壊に繋がった。
実は繁栄を極めている都会は地方の犠牲の上に成り立っている事を
忘れてはいけない。限界集落の増加は決して他人事ではない。

 限界集落の増加は砂上の楼閣が崩れるのに似ている。足元が崩壊を
始めているのだ。今こそ地方に目を向け、崩壊し始めた自分の足元を
どのように固めていくのか真剣に考えなければ、営々と築きあげた
楼閣でさえ、崩れ去る日は遠くない。

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見えてきた今後の活動

2007-11-28 22:28:53 | Weblog
 「苦節三年」と言えば少し大袈裟ではあるが、定年までは会社と
その周辺しか知らなかった私が、定年退職となり、いきなり地域に
戻り、一から始めた諸活動である。

 そのきっかけは三年前のピースボートだったのだが、詳しい経緯は
その時にも書いたし、折に触れて書いているので、この際、割愛する。
その三年前の経験や人との出会いによって定年後の生き方が決まったと
言っても過言ではない。

 人は人との繋がりの中で生きているいる。物や金は利用すべきもの
ではあっても、決して人間同士のような関係ではない。人と人の繋がり
とは、もちろん心と心の繋がりの事である。

 昨今、毎日のように報道される様々な事件は、人が心を失っている
状態である。いわば夢遊病者の如く自分自身を見失って、この世を
彷徨っているように見える。

 まるで亡霊のようにも見える人間は、いわばお金や物と言った無機質
なものに操られている「操り人形」のようなものではあるまいか。
そうした人間は、頼るところがないから物やお金や妖しげな宗教などと
言ったものに我が身を預けて生きているのかも知れない。

 親が子を殺し、子が親を殺す、親戚同士の殺人もあれば、行きずりの
無差別殺人もある。今の世の中は仏教絵画に描かれた地獄絵図そのもの
である。

 今、地球環境は最悪の状態にある。地球温暖化はその最たるもので
ある。地球の病んだ状態は私達自身の心の病と似てはいないだろうか。
より便利なもの、より豊かなものという飽くなき欲望は、地球という
限られた環境を餓鬼のようにむさぼり食いつつ今日に至っている。

 その結果、地球上にはわずかばかりの限られた資源しか残っておらず、
その上、かけがえのない地球環境を取り返しがつかないほど汚して
しまった。

 人の心の汚れもまた地球環境の汚れと相通ずるものがある。私は
偶然ながら勧める人があって「健康生きがいづくりアドバイザー」
なる資格を得た。そして、相前後して地球温暖化防止推進員となった。

 一見、別物に見えるボランティア活動ではあるが、両方を融合した
活動が出来ないか模索を続けていたとき、「高木善之」さんという方
の話を聞く機会を得た。

 高木さんの話は私自身が長い間、模索していたものに大きなヒントを
与えてくれた。それまで何かしら曖昧模糊としたものが急速に形ある
ものになってきた。

 地球環境の修復と物質文明に汚れきった私達の心の修復とを同じ
テーブルで癒していく事が出来ないだろうかと思っている。その新た
なる動きを地域活動の中で少しばかり感じ始めた昨今である。

 地元で開いた環境展や様々な人の繋がりの中から、新たなる展開が
始まろうとしている。今、地域で活動しているグループとの連携を
模索している。

 実現すれば私の三年越しの夢が叶うことになる。だからと言って、
今すぐに何かをと言うわけではない。しかし、何かを始めるための
きっかけ作りになれば良いと思っている。
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児島環境展

2007-11-26 06:36:30 | Weblog
 昨日の朝日新聞には、ヒマラヤの氷河が激しく後退している写真が
一面に大きく掲載されていた。大新聞の一面トップで取り上げられる
ことなど今までになかったことである。

 最近になって、にわかに地球温暖化問題が色んなところで話題になる
ようになってきた。しかし、時すでに遅しということにならなければ
良いのだが。

 私は、地球温暖化問題を少しでも多くの人に知って貰いたいと、学校
や公民館などに出向き講演の場を設けていただきたいと申し入れを
行ってきた。ところが何処の門戸も固く、なかなか受け入れて貰えず
もどかしさを感じている。
 
 世間の関心は実に薄く、他人事のように思っている人が多い。肝心
な報道機関でさえ、地球の危機と称して惑星衝突と地球温暖化問題を
同次元で取り上げている。ばかばかしくて見ていられない。

 惑星衝突は避けようのないものであり、地球温暖化防止は我々自身
の手で何とかしようと考えれば出来るものである。同次元で考える
わけには行かない。

 地球温暖化問題は、私達の日々の生活に深く根ざした問題である。
バスや鉄道のない過疎地に移動手段としての自家用車がなければ
生活できない。

 朝、起きてから寝るまでの間、私達は色んな形でエネルギーを消費
しながら生きている。そのエネルギーの大半は石油や石炭、天然ガス
と言った化石燃料に依存している。生きていること事態が地球温暖化
問題と深く結びついている。この状況を断ち切るのは容易なことでは
ない。私達自身の意識革命意外に道はないと思っている。

 来年の倉敷市長選で立候補を明らかにした「伊藤香織」さんは決意
表明の中で地球温暖化問題を10の公約の一つとして掲げている。
倉敷市は三年前の台風時、海岸地帯が広範囲に高潮による大きな被害
を被った。その時の反省に基づいて、伊藤さんは防災力強化と地球
温暖化問題を結びつけて、対策を公約としている。

 防災力強化の前に、何はともあれ地球温暖化を阻止することが必要
だと昨晩の決意表明の中で述べた。従来の市長選レベルであまり話題
にならなかった事である。その先見性に改めて敬意を表したい。

 今後は平和都市宣言と共に地球温暖化防止都市宣言を行っていくこと
を強くお願いしたい。及ばずながら、私もその一翼を担いたいと思って
いる。
 
 さて、念願であった環境展を地元倉敷市児島で開催することが出来た。
地元の商工会の皆さんのお陰である。この場を借りて深く感謝申し上げ
たい。

 フリーマーケットを主体とする場ではあったが、若いママさん達が
主催するEM菌を広めようとする取り組みとマイ箸を提唱するグロー
カルネット吉備の皆さんと、地元児島のクルクルセンターとの共催で
あった。

 今回の取り組みによって、やっとこの地に本格的な根を下ろすことが
出来たような気がしている。定年退職後、ひたすら地元とのコンタクト
を取るべく模索を続けてきた。その成果が得られたのだ。

 今回の出展で多くの知己を得ることが出来、今後の飛躍への足がかり
が出来たと確信している。地元の諸団体とのネットワークを作っていく
ことが大きな狙いである。

 グループは、個別のグループである間は大きな力にはなり得ない。
こうしたグループが互いに手を結ぶことによって初めて、大きなパワー
になる。それには過去幾多もの活動母体を作り上げてきた私の経験が
役に立つのではないだろうか。今、その花開くときが目の前に来ている
ような気がしている。
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チボリ公園

2007-11-22 06:38:45 | Weblog
 私が住んでいる街、倉敷には有名な(?)倉敷チボリ公園がある。
デンマークのコペンハーゲンにある有名なチボリ公園を模したものだ。
岡山県が観光の目玉としてデンマークから倉敷へ誘致したものである。
私はデンマークに於けるチボリ公園がどれほど有名なものであるかは
知らないが、この公園の誘致話がクローズアップされた頃から、建設
には絶対反対であった。

 むろん私だけではなく、多くの岡山県民が反対であったに違いない。
当初は岡山市にある旧国鉄の操車場跡地に誘致する計画だったが、
岡山市民の猛烈な反対があって、岡山市内への誘致は失敗に終わって
しまった。

その次ぎの候補地として上がったのが、倉敷駅の裏側にあった旧
クラボウ跡地であった。反対が多かったにも関わらず駅裏開発という
名の下に半ば強引に建設されてしまった。

 建設当時から日本中にある多くのテーマパークが赤字に苦しんでいた。
この種のレジャー施設は長続きしないと言うことが分かっていたのに
建設が強行されたという納得いかない経緯がある。

 莫大な建設費を投じて作られたチボリ公園は、倉敷という観光地の
知名度もあって当初は大変な賑わいであった。しかし、それも束の間
のこと。いつしか入園者は減少し、土地代が高い上に今まで投資した
資金の金利などで、毎年のように赤字が増え続けていった。

 経営トップにも民間会社の社長を招き、てこ入れを行ってきたが、
しょせん焼け石に水のようなもので、大きな改善は見られなかった。

 その上、提携先のチボリ社からは再三の改善要求があり、そのため
の新たな投資を迫られていた。しかし、今でも赤字が続いているのに、
これ以上の投資は更に赤字を生むことは必至だった。

 投資は無理だと返答するとチボリ社は契約を解消したいと言ってきた。
チボリ社との契約が解消になると、来年度いっぱいで倉敷チボリという
名前は使えなくなる。多くの人に長く親しまれてきた倉敷チボリ公園と
いう名前は消えてしまう運命にある。倉敷チボリという名前で知られて
きた公園が、その看板を下ろすとなるとどうなるのだろう。

 持て余した岡山県は倉敷市にその後を引き継ぐように依頼してきたが、
倉敷市は引き受けられないと拒否している。行き場のないチボリ公園は
看板をはずされ、引き取り手のないまま不安定な経営を続けている。

 倉敷チボリ公園の土地は元はと言えば大原家のものである。大地主
であり倉敷の発展に貢献してきた大原孫三郎さんなら、どのように
考えたであろうか。倉敷市のためと一肌脱いだに違いない。

 そもそも地方自治体が民間でさえ経営が難しいと言われているテーマ
パークの運営など出来るわけがないのである。また、第三セクターと
言われてきた色んな施設の経営が行き詰まっている。これらも同じこと
である。
 お金を使うだけが仕事の役所にお金を運用すること(経営)など
出来るわけがないのである。役所というところは、金儲けの厳しさを
知らないところである。お金が足らなければ国民や県民や市民から
搾り取れば済むからである。おおよそお金の有効な運用など考えた
事があるのであろうか。

 今、国会で大きな問題となっている横須賀の米軍基地移転の問題が
ある。米軍海兵隊の家族の移転のための住居建設費をアメリカ政府と
日本政府が出し合うことになっている。その総額が7000億円という
気の遠くなるような金額だ。むろん、日本政府の負担額の方が多い。

 そもそも米軍の勝手な再編のために何故、日本政府がお金を負担
しなければならないのだろう。いざというとき、米軍は本当に日本の
ために働いてくれるのだろうか。拉致問題でさえ置き去りにして
北朝鮮と単独交渉をしているような国が本当に信頼できるのだろうか。

 その移転費は通常価格の4倍にもなると言われている。そんな金が
厳しい経済状況の日本政府の何処にあるのだろうか。そのお金にさえ
自民党国会議員達は群がっていると噂されている。いずれ守屋前事務
次官の追求が進めば明らかになることであろう。
 お金というものに対する政治家や役人の考え方は、こんなものである。
そんな状況にありながら早くも自民党は消費税アップを検討している。
 
 ともあれ、チボリに戻ろう。経営が悪化して以来、民間から招いた
社長の下で人員削減が行われ、従業員自らがパフォーマーに扮する
など、涙ぐましい努力が行われ増え続けていた赤字も些か減少気味と
なっている。

 しかし、チボリという名が使えなくなると言うことや、昨今の県と
市とのやりとりなどあって、入場者数は減少傾向にあるようだ。

 これだけの投資を行ってきた施設を簡単に放り出して良いものか、
さりとて、これだけの赤字と負担をどのように解消していくのか、
いずれにせよ頭の痛い大きな問題である。

 折しも倉敷市は来年の春、市長選となる。現職と大物新人が相争う
という構図になりそうである。久々に倉敷市が大きく動きそうである。
いずれの候補者にも倉敷チボリは大きな問題としてのしかかっている。
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エコフェスタ岡山2007

2007-11-18 22:26:31 | Weblog
 毎年行われてきた環境に関する大きな展示会、それが「エコフェスタ
岡山」である。会場は、岡山県の早島町にあるコンベックス岡山。
県内の一番大きな屋内展示会場だ。

 広い場内には簡単な衝立で仕切られた区画が幾つもあり、私達の
地球温暖化防止員が主催する展示場は、その一角を使って行った。
展示はリサイクル関連の企業のものもあったが、大半はエコを提唱
する私達のようなボランティア組織かNPO団体のものである。
 主催者は岡山県である。従って大半のお金は岡山県が出している
のではないだろうか。

 私自身は昨年と今年と二回参加したことになる。前日の土曜の午後
から準備して当日に臨んだ。私達の関係する展示は6区画に仕切られ
ていて、それぞれが異なる展示や催し物を行った。

 私の属していたのは、これら6区画の区域外であった。海面上昇や
異常気象や氷河後退などのパネルを展示し、パンフレット類を置いた
だけの簡単な展示であった。
 題して「宇宙船地球号SOS」。何処かで聞いたようなキャッチ
フレーズが、これらパネルの上に掲げられていた。ここを起点に六ヶ所
の展示ブースを回って貰おうというコンセプトで企画したつもりで
あった。

 展示パネルの前では幾人かの人から現状に於ける地球温暖化に関する
質問を受けた。多くはツバルなどの海面上昇に関する質問であった。
恐らくは過去に民放で放映されたテレビ番組を見ての質問であった
ように思われた。
 中に熱心な高校生がいて、三十分近く質問を受けては説明を行った。
若い世代が関心を持ってくれることは大変嬉しいことである。

 しかしながら、実はこんな展示などで環境問題の啓蒙を行っている
段階ではなく、地球温暖化問題は深刻度を増している。これから十年余
が勝負だと言われている。
 この十年間余に二酸化炭素の排出量を激減させなければ、取り返しの
つかない事になるのではないかと言われている。ところが世間一般の
反応は今ひとつである。国や県や市町村と言った行政サイドの統一した
政策もなければ、そう言った認識も薄い。

 現実と来るべき近未来のシュミレーションがまったくかみ合わない
ような状況にあるからだ。確かに啓蒙活動も大切な事ではあるのだが、
本当は法的な規制も辞さないと言う強い決意をもって取り組まなければ
ならない時なのである。

 一般の人の認識は実に曖昧で、その内、何とかなるだろうと言った
ようなレベルだと思っている。しかし、こと二酸化炭素の排出量削減
への取り組みは、思想革命を必要とするほどの大きな意識改革を伴う
ものでなければならない。誰かが何とかしてくれるだろうでは、何の
変化もない。

 何とかなるだろうではなく、何とかしなければならない段階なので
ある。極端な言い方をすれば生活レベルを下げてでも二酸化炭素の
排出量を削減しなければならない段階なのである。
 折しもバングラディッシュでは巨大サイクロンによる大きな被害が
出ている。資源エネルギー国を目指すブラジルでは毎日密林が伐採
され焼き畑となりサトウキビ畑に変わっている。世界の肺とも言われて
いるアマゾンが瀕死の状態にある。

 こうした問題は一国だけでは解決しない。地球全体が一国として
何かを考える、行動する状態でなければならない。全世界の著名な
学者が集まったIPCCが如何なる警告を発しようとも、それに応え
られるような世界でなければ何にもならない。
 少なくともアメリカや日本、EUと言った先進国と、発展が著しい
巨大国の中国やインドが参加しなければ、この危機的な状態を止める
ことは出来ないのではないだろうか。

 大いなる負の遺産を次世代に背負わせるようなことだけはしたくない
と思うのである。
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市民文化祭終わる

2007-11-12 17:15:08 | Weblog
 10月28日から始まった倉敷市児島市民文化祭、11月11日の
芸能発表会をもって、展示、舞台発表の総てが終了した。この間、
展示会4部門、舞台発表2部門、その他、ギャラリーコンサート、
活弁シネマライブと実に多彩な文化祭であった。

 私にとって一番しんどかったのは、やはり活弁シネマライブであった。
チラシや整理券の発送から最終集計に至るまでの間が長かった。また、
何よりも金銭の絡むことなので、間違いがあってはならない。家内に
手助けをして貰いながら、開催当日まで続いた。

 活弁の取り組みは、あくまでもボランティアという範疇であり、
ただただ地元の人に楽しんで貰いたいという思いの一言に尽きる。
従って、赤字にならないことが最大の願いである。その点に於いて
地元の方々や多くの知人、友人の支えもあって、何とかクリア出来た
のは幸いであった。

 望むべくは、活弁そのものの知名度が高くなり、関係者の方々に
無理をお願いしなくても実行できるようになることである。

 ギャラリーコンサートは予想以上の人が聴きに来てくれた。また、
出演者も六ッ森 ケイ子さんとその仲間達、パストラーレ、オカリナの
軽部さんと、今年もまた多彩な顔ぶれが揃った。

 一度来てくれた人は他の人を誘って翌年も来てくれるようになり、
今年は会場いっぱいの人であった。会場の中は前衛的な絵を背景に
同じ目の高さでアーチスト達の演奏を聴けるのが良い。

 また、会場ではオネストコーヒーさんの好意によって、自家焙煎の
コーヒーのサービスもある。毎年の事ながら感謝している。

 音楽コンサートも芸能発表会も今回の会場だけでなく、全国各地で
開かれる大会に出場したとか、高齢者施設の慰問をしているとか、
日頃からの練習や活動の成果が十分に生かされていた。
 
 ともあれ、こうした活動は心通う仲間がいて、彼らの協力がある
からこそ、実現出来たものと思っている。心から感謝している。
皆さんご苦労様でした。
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多忙であった一ヶ月

2007-11-08 09:37:37 | Weblog
 定年後は晴耕雨読などと誰が考えたのであろうか。それどころか、
ここのところ益々、多忙を極めている。総ては自分が蒔いた種である。
 そんな年がら年中、あたふたしている中でも、ここ一ヶ月は特に
多忙であった。まずは10月19日に東京での長男の結婚式があった。
10月29日の第三回児島活弁シネマライブ、11月3日の岡山映画祭
での弁士としての出演、これはブログに書いたとおりである。そして、
翌11月4日の児島市民文化祭の音楽コンサート、昨晩はギャラリー
コンサート、明後日は芸能発表大会、第三期展の撤収へと続く。

 この間に、私達夫婦の活弁への取り組みをNHK岡山放送局が取り
上げてくれ、その収録にも多くの時間を割くことになった。息つく
暇もないとないと言ったら言い過ぎかも知れないが、そんな一ヶ月近く
が過ぎ、やっと落ち着きを取り戻しつつある。

 NHKの放映には後日談が付くことになった。岡山圏内での放送に
引き続いて、11月14日午後2時~3時にかけて放送されている
「元気列島」という番組の中でも紹介されることになったのだ。
 私達夫婦が全国デビューしたわけで、活弁が一人歩きし始めた感も
ある。この放送がきっかけとなり、より多くの方に活弁文化が今も
続いていることを知っていただければと思う。

 長男の結婚式には、私達は上京するだけであった。これは助かった。
私達が、そのように育てたと言ってしまえばそれまでだが、長女の時も
長男も彼ら夫婦で何もかも準備してくれた。親を頼りにしない事は
一抹の寂しさも感ずる反面、頼もしさも感じている。
 長い人生である。夫婦合い携えて仲良く苦労を乗り越えて欲しいと
願っている。若い二人に幸多かれと祈っている。

 さて、ピースボートに始まった人との出会いは数々の奇跡を生じつつ、
今も続いている。その奇跡とは、むろん人と人の出会いである。人の
縁の深さを今更ながら感じている。

 この世の中がどのように変化しようとも、総ては人の営みである。
その営みの中で、お金でも財産でもなく、人と人の心温まる繋がり
こそ最大の宝物である。その宝物が今も増え続けていることは、私達
夫婦にとって最大の喜びである。

 人生はさほどに長くはない。私達も高齢者と言われる年齢に近づき
つつある。友人の中には病を得たものも少なくない。いずれ私達も
そうなることを覚悟しなければならないだろう。
 その短い人生の中で、たとえ地位を得たとしても未来永劫続くもの
ではない。むろん、お金や財産もそうである。そこそこの生活の糧さえ
あれば人は生きていける。そんな短い人生を支えてくれるのは、むろん
家族であるし友人、知人である。

 昨晩から今朝にかけて多くの方々から電話やメールを頂いた。私達
の活弁への取り組みをテレビで見たという人達からであった。
 こうして一人でも多くの方々に私達の活動を知っていただき、活弁
が決して過去のものではないと言うことを知っていただければ苦労を
した甲斐があったというものである。
 今朝も岡山県の奈義町の方におられるという方から電話があり、
活弁が今も続いていることを知り、懐かしくて電話したとの事であった。
 この上は、何とか次ぎに繋いでいきたいというのが私達夫婦の願い
である。私達の活動を通じて更に人の輪が大きくなることを願っている。
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活弁始末記

2007-11-05 22:10:54 | Weblog
 まさか私達自身が活弁をやろうとは思いもしなかったことである。
話はこんな事から始まった。実は児島活弁シネマライブを始めて
3年目になる。知名度の薄い活弁シネマライブを地方で行うには、
それなりの苦労があった。

 普通の映画なら、たとえ1000円であろうが2000円であろうが、
見たいと思ったら金を支払うことには何とも思わない人が、昔の映画
に弁士が台詞を入れたものを公演すると言うと、何故か1000円
でも高いと思う人がいるから不思議である。

 昔の映画と言えどもフィルムは非常に貴重なものである。それを
観るだけでも価値あることなのに弁士が付くとなると、それ以上の
価格になるのは当たり前だと思うのだが、それが通らないのが世の中
である。

 だったら活弁が有名になって、弁士が引っ張りだこになったら
どうなるのだろう。人間の心理として何が何でも見たくなってくるに
違いない。そんな訳で知名度をアップするために色んな努力をしてきた。
しかし、残念ながら些かの進展もないのが実状である。

 そんな知名度アップのための模索の中から知り合ったのが岡山映画祭
を主催する人達であった。そして2007年、岡山映画祭は昨年亡く
なられた松田完一さんの追悼イベントとして松田さん自身を取材した
ドキュメント映画の上映と松田さんゆかりの映画を何本か上映する事に
なった。

 その一本が、かねてより気にかけておられた岡山市が生んだ大スター
尾上松之助主演の「豪傑児雷也」であった。初期の日本映画界に於いては、
他に例を見ないくらいの抜きんでた大スターであった尾上松之助も
時代と共にほとんど忘れられた存在になっていた。

 その事を松田完一さんは大層嘆いておられた。せめて生誕地に石碑
くらいは建ててあげたいというのが口癖であった。従って、松田さんの
供養のためにも「豪傑児雷也」の上映は欠かせなかった。

 また、松田さん自身は映画をこよなく愛する人であったと同時に、
自らも活弁をしていたと言うこともあって、誰か活弁が出来ない
だろうかと白羽の矢を立てられたのが、私の家内であった。

 やっては見たいが男の声を出すのはきついと言うことで私の出番と
なった。夫婦の掛け合い漫才なら世の中にたくさんあるが、夫婦の
掛け合い活弁はまず少ないであろう。

 ともかく主演の児雷也の声を私が、家内はナレーション他を担当する
ことにして引き受けることにした。まずは台本作りから始まった。
未経験の私が作った台本では、まったく劇中人物の誰が喋っているか
分からないと言うことで、作った早々に没になった。

 ただストーリーだけは採用と言うことになり、家内が台本の粗筋を
作った。既に、この頃から度々意見の食い違いで夫婦喧嘩は始まって
いた。

 台詞を足したり削ったりと、何度、修正を繰り返したであろうか。
通しで語る事が出来るようになったのは台本作りが始まって二ヶ月
近くが過ぎていた。夫婦だったから出来たのは時間の制約がなく
練習がいつでも出来たことではないだろうか。夕食が終わってから、
外から帰ってから、日曜日、土曜日、いつとはなしに練習を繰り返して
本番に臨んだわけである。

 実は私達に活弁の面白さを見せてくれたのは活弁士「佐々木亜希子」
さんである。彼女からの話がなければNHKの取材は実現しなかった
かも知れない。また、地元岡山放送局に活弁に興味を持っていた若い
ディレクターが居なければ実現しなかったかも知れない。

 偶然が偶然に重なって、私達の活弁の取り組みを取材してくれる
ことになったのだ。実に光栄な事であった。この放送を通じて活弁と
いう素晴らしい「語りの文化」があり、更には過去に埋もれたままに
なっているフィルムの中にも素晴らしい作品がたくさんあるのだと
言うことを多くの方々に知って欲しいと願っている。

 11月7日の夕方6時10分からのニュースの時間帯に放送される
との事である。ぜひ、多くの方に見ていただきたいと願っている。

 さて、11月3日の文化の日、岡山のデジタルミュージアムの中で
岡山映画祭2007のオープニングセレモニーが行われた。私達は、
音楽を付けて下さるプロのピアノ奏者「柳下美恵」さんの到着を待って
リハーサルを行った。

 ところがである。練習をしてきたビデオテープの画面の速度と着いた
ばかりのフィルムの速度がまるで違うのである。幾ら早口で喋っても
追いつかないようなスピードであった。どうしてこんな事になって
しまったのだろう。おまけにストーリーの一部まで異なるという
大ハプニングであった。今更、活弁の中止というわけにもいかない
だろう。

 そこで大急ぎで台詞の一つ一つを見直して言葉を削ることにした。
何度も何度も繰り返し練習し、暗記出来るくらいになっていたから
こそ、こんな離れ業が出来たのかも知れない。修正はしたものの、
もう一度練習をしてみるような時間はなかった。総ては、ぶっつけ
本番での一発勝負であった。

 17時10分から簡単な紹介とインタビューを受けて上映は始まった。
台本修正後の練習は一度もやっていなかったが、何とか無事語り終え、
途中、笑い声なども聞くことが出来たことは、「にわか弁士」としては
一応の成功であったろうか。何とか大任を果たした心境である。

 当日の会場にはNHKのテレビカメラが二台入り収録が行われた。
このニュースが、これから約一ヶ月間、ロングランで開催される
岡山映画祭にとって良い宣伝になればと思っている。

 それにしても使い慣れていないと言うシンセサイザーを持ち込んで
私達の活弁に花を添えて下さった柳下さんには心から感謝申し上げたい。
私達の力量不足をカバーしてくれただけでなく、忍術映画特有の効果音
まで付けてくれ、忍術映画の雰囲気を大いに盛り上げてくれた。
さすがはプロだとしか言いようがないけれど、数々の無声映画に音楽
を付けてきたという自信の現れでもあろうか。今はただ感謝あるのみ
である。

 かくして私達の活弁デビューは終わった。酷暑を越えての長い長い
数ヶ月であった。何をやってもぶっつけ本番が得意な(?)私としては
破格に長い練習期間であった。家内に尻を叩かれながらの練習であった。
夫婦喧嘩も何度したことであろう。しかし、離婚にまで至らなかった
のは、岡山映画祭との約束を果たすという一語に尽きるのではない
だろうか。

 これくらいのことは何でもないと思っていたが、終わってみると、
あの肩こりや疲れは、この緊張から来ていたようにも思われる。

 岡山映画祭のスタッフの方々に心から感謝を述べて、私達のつたない
活弁始末記を終わることにしたい。そして、松田完一さんの心からの
ご冥福をお祈りし、私達の未熟な活弁をお経代わりとしたい。合掌。

 ここに私達に指導やアドバイスをして下さった活弁士「佐々木亜希子」
さんのブログを紹介しておきます。私のブログと合わせて読んで下されば
幸いです。
http://blog.goo.ne.jp/mokuren223/
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連立政権模索

2007-11-03 06:11:18 | Weblog
 自民党と民主党の連立内閣とは、国民にとって降って湧いたような
話であった。どうやら不調に終わったようだが、何故、今なのか良く
分からない。

 確かに、この政治状況は、今の自民党にとって八方ふさがりのような
状況には違いない。しかし、小泉政権時代、郵政民営化をうたい文句
に衆議院選挙で圧勝し、数にものを言わせた好き放題の事をやってきた。
その報いだと言っても過言ではない。

 福田首相が野合とも言えるような連立を持ち出した背景には何が
あるのだろうか。やはり、急いでいるテロ特措法の期限切れの問題で
あろうか。それとも、困難な政権運営を考えての事であろうか。

 国民にとって、やっと本格的な国会論争が始まったばかりで、連日
見応えのある論戦が展開され面白さを増していたときだった。こんな
面白い論戦を簡単に幕引きされては困る。

 政治は与野党均衡状態でないと良い結果は生まれない。今までの
ように自民党の思い通りにいく事こそが変なのであって、今日の状況
があるべき姿なのではないだろうか。

 急がなければならないのは消費税のアップでもなければテロ特措法
でもない。地球温暖化など国際間で約束したことに他ならない。テロ
特措法を急ぐのはアメリカに対して良い顔が出来ないからではないのか。

 インド洋での給油を喜んでいるのは、イランに対し脅しをかけている
アメリカ政府だけであろう。本来の目的であるアフガンの治安回復は
武力では解決しない。もっと民生面での支援が必要である。

 人の心の温かさこそ、治安を回復することになるのではないだろうか。
確かに人質をとって脅しをかけてくる武装集団やテロ組織はいる。
だからと言って何処に出没するか分からないようなものを完全に阻止
することが出来るのだろうか。「目には目を、歯には歯を」ではなく
「太陽と北風」の話をもう一度思い出してみたい。

 昨晩、米村でんじろうさんがケニアに行き、色んな化学実験を現地
の人達に見せる番組があった。米村さんが目の前で行う数々の実験に
子供達も大人達の目もきらきら輝いていた。この姿を見たときに人と
人の触れ合いはこれなんだと思った人は多かったのではないだろうか。
銃を突きつけては、こんな笑顔や輝くような顔は生まれない。

 自民党政府は政権与党なのだから、もっと国民の代表である野党に
耳を貸すべきである。今回の政治状況は国民の大いなる意志である。
譲るべきところは譲り、耳を貸すべきところは耳を貸せばよい。

 そうすれば国会運営に窮することもない。連立を模索するなども
必要ないはずである。自己のみを主張しようとするから国会運営が
難しいだけの事である。

 情報ももっと開示すべきだ。国民に隠していることがあまりにも
多いから、しんどいだけのことではないのだろうか。

 このブログを書いているときに民主党の小沢代表が突然の辞任を言い
始めた。理由は党首会談の責任をとってのことだと事だが、今ひとつ
理由が良く分からない。これでは党首会談前から連立ありきだった
のかと疑念を抱かざるを得ない。

 いったい、密室で福田首相と小沢代表との間で何が語られたのか。
自民党側が、連立を急がなければならない理由は何だったのか。
第二のロッキード問題とも囁かれている守屋事務次官に関わる問題
なのだろうか。
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マスコミのモラルと責任

2007-11-01 17:32:58 | Weblog
 最近の民放の場合、これはと言う番組が少ない。言っては何だが、
実に下らない番組が多い。こんな番組ばかり作っていて視聴率が稼げる
と思っているのだろうか。また、こんな番組を買うスポンサーのモラル
も疑いたくなってくる。

 先日も地球温暖化など環境の問題を取り上げた番組があったが、
地球温暖化問題と小惑星の地球衝突という問題を同列で取り上げて
いた。小惑星との衝突は正に天災である。予測も避けることも不可能
であるからだ。

 地球温暖化問題は天災ではない。人間の営みが作りだした環境破壊
の結果である。どう考えても同じレベルで論ずるには無理がある。

 しかし、今まで関心を持たなかった人にとって地球温暖化問題も
避けては通れない問題として捉えてしまうのではなかろうか。どうせ
避けて通れないものなら温暖化を阻止するための努力を止めてしまう
かも知れないのである。

 今や地球は、人間の身体で言えば瀕死の状態にあると言っても過言
ではないだろう。もっとみんなが、どうすべきか真剣に考えなければ
いけない事である。こうした状況を番組制作者は理解して作っている
のだろうか。

 知らないと言えばマスコミ関係者の知能程度を疑わざるを得ない。
知っていて、こうした番組を作ったとしたら、その罪は非常に大きい。
こんな感覚で多くの番組が作られているとすれば、今日の社会現象を
生み出した多くの責任は、テレビなどマスコミ関係者の責任である。

 視覚を通じて入ってくる情報は、今までにも色んな社会現象を作り
だしてきた。私達が子どもの頃、情報と言えば新聞とラジオであった。
その頃、今日ほど凄惨な殺人事件等が生じていただろうか。総ての
責任が、テレビだとは言わないが、テレビが普及し始めてから急速に
凄惨な事件などが増えてきた。番組制作者は、もっと慎重に考えて
制作に当たるべきではないだろうか。

 ボクシングの亀田問題が連日のように取り上げられている。試合の
放映に関してはTBSと特別契約を結んでいたと言うことだが、結局、
将来有望だと思われた若者をつぶしてしまうことになっているのでは
ないだろうか。

 ある意味では、TBSが亀田一家を祭り上げ、破滅の方向に持って
いったと言っても過言ではないだろう。スポーツにあるまじき派手な
演出やパフォーマンスはいったい何のためだったのであろうか。
まるで見せ物ではないか。視聴率さえ稼げば何をしても良いというので
あろうか。

 今、食品関連の偽装問題が大きくクローズアップされているが、
マスコミもやらせ番組など実に偽装まがいの事が多い。マスコミは
天下の公器である。番組が売れれば何をやっても良いというものでは
ない。常に社会的な規範を保ちながら番組を制作すべき立場にある。

 社会的な規範となるべきマスコミがこれでは社会や政治がダメに
なるのも当たり前のことである。マスコミ人は自らに厳しく対処し
なければ、公器としての役目を果たしたことにはならない。しっかりと
大地に根を下ろした信頼できるマスコミであって欲しい。
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