人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

旧年中はお世話になりました。

2014-12-31 05:46:15 | Weblog
旧年中は何かとお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

 振り返ってみれば3年と4か月、長きにわたって児島市民交流センターで楽しい時間を過ごすことが出来ました。
70歳を前にしての3年間と言うのはとても貴重な時間でした。

 幼少の頃は、あれほど一日の過ぎていくのを長く感じていましたが、大人になっての時間は何故こんなに短いのでしょう。
人間には大人時間や子供時間があるのでしょうか。はたまた幸福な時と不幸な時の時間があるのでしょうか。
どうやら時間と言う概念には人間の心の部分が深くかかわっているような気がします。

 さて、そんな三年間の間で私が目指していたものは、各年齢層平等に利用できるようなものをやっていきたいと思っていたことでした。
その一番のものは子育て中のお母さんたちにも学ぶ時間や自分の時間を持たせてあげたいと言うことでした。

 また、イベントに参加するだけでなくイベントを作りたいと思う人にもそのチャンスを作ってあげたいと言うことでした。

 とかく遠い存在になりがちな公共施設を自分のものとして活用してもいらいたい。
音楽好きには音楽を楽しむためにチャンスを作ってあげたい。自分で作ってもらいたい。
講座を開きたい人にはそのチャンスを、こんな講座を開いてほしいと言う人には、そのような講座を開いてあげたい。

 そして、何より切望されていた地場産業の活性化に繋がるような観光を街に根付かせたい。そのためには観光とは縁遠かった
児島に児島観光ガイド協会を立ち上げたいと観光ガイド養成講座を二度にわたって開きました。

 数多くの講座やイベントは常日頃考えていたこうした考えに順じて開いてきました。
そして誰でもが何の制約もなく楽しめる場としての児島マルシェを開催しました。
このイベントが私の思いの全ての集大成だったように思います。

 新年早々の「新年を言祝ぐ会」夏の「ハワイアンの夕べ」秋の「こじまマルシェ」のようなイベント、そして冬のツリーを囲んでの
クリスマスイベントなど、開催する度に大きく成長してきました。
そして、映画鑑賞会が出来、アーティスト全員集合が児島カップパーティーとなり、多くの人がアシスタント登録をしてくれ
センターのイベントごとに協力してくれました。

 たった3年なのに開いてきた講座の数は数えきれないほどです。
そして地域の多くの方々も協力してくれました。キッチンフタバ、ハーモニー、こうした施設はイベントごとに様々な協力を
率先してやってくれました。その他にも個人的に協力をしてくれた人は数知れません。
次第に人が人を呼び人の輪が広がっていったのです。

 また、地場産業の最先端を行くジーンズストリートなどとは様々なイベントを通じて協力させて貰いました。

 ありがとうございました。感謝しても感謝しきれません。
多くの人の協力があったからこそ出来たことばかりです。

 私自身にも不思議な体験と人間としての成長があったように思います。不思議体験と言えば人との巡りあわせ、その巡りあわせ
が尋常ではありませんでした。過去に何らかの形で繋がっていた人との再会が実に多かったことです。人は亡くなる寸前に
走馬灯のごとく過去を振り返ると言いますが、まさに、それと同じようなことが現実に起きています。

 そして偶然と言うにはあまりにも数が多すぎて偶然と言えなくなったことがあります。
それは、この人に急ぎの用があって電話をしたいとか、会いに行かなければと思っていた時、その人から電話がかかってきたり
突然、本当に唐突にその人が目前に現れることでした。それは私の思い過ごしではなく私の傍にいてくれる家内が現認者です。

 何よりも私の健康、そして、ぶつぶつ言いながらも私に終始力添えをしてくれた家内が居てくれたからこそ出来たことです。
感謝してもし切れません。

 「念ずれば通じる」とは言い古された言葉ですが、この世の中は物理的な何かではなく、立証は難しいですが、もっと他の
偉大なる力とでも言いましょうか。何かそんな力に導かれて生きているような気がします。
私が何かをしているのではなく、私の中の何か大いなる力が私自身を突き動かしているような気がします。

 来年からは、いよいよ集大成とも言うべき下津井に取り掛かります。予測は不可能です。センターを立ち上げた時と
同じように多くの避けては通れないようなことが待っているに違いありません。
今はそんなわずらわしいことを抜きにして、夢のような楽しいことばかりを想像しながら困難を乗り越えていきたいと思っています。
みなさん下津井に来てください。そしてセンターと同じような協力をして下さい。
今度は地域と密接不可分でやっていくことが、地域の活性化に繋がることです。やりがいはあると思います。

 それではもう一度皆さんに感謝して2014年の幕を下ろしたいと思います。どうか良いお年をお迎えください。
聞くところによりますと、既に地球は宇宙の中で新しい周期の中に入っているようです。私達自身が変わっていく時なのです。
新しい自分探しの旅に出ましょう。それでは・・・・。
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地球一周の旅から10年(24) ニュージーランド(立憲君主国)

2014-12-26 05:48:43 | Weblog
 地球一周の旅で唯一のオーバーラウンドツアーがニュージーランド南島のツアーであった。数多くのツアーは、ほとんどが
寄港地を基点に出発し、その寄港地へ戻ってきて次の寄港地へ向けて出発する。しかし、オーバーラウンドツアーの場合
旅行期間が長くなるので船は待っていてくれない。従って、次の寄港地で船に乗り他の船客と合流することになる。

 こうしたオーバーラウンドツアーは少なくともツアー地近くの港から出発すると言う時間的なメリットがある。更には次の
寄港地が近ければ近いほど時間的に有利となる。つまりは旅行先からツアーが始まりツアーが終わっても、そう遠くない寄港地
まで飛行機で移動すれば再び船旅へ合流できるのだ。

 イースター島からの長い航海の末にニュージーランド北島のオークランドに着いた。ここも大きな街だった。近代的な街が
大抵同じように市の中心部に高層ビルが集中し、遠目には尖った山のように見える。これがこの旅行を通じて発見した船旅での
感想であった。人はどこでも同じようなものを作るらしい。ただし近代的な街の形を見ることが出来るのは船旅だけだ。航空機
での旅ではこの姿を見ることは出来ない。

 ニュージーランドは南島と北島に分かれている。人口が集中しているのは首都のある北島だ。しかし、南島の方が大きい。
私達のツアーは北島の寄港地であるオークランドから飛行機で南島へ移動した。南島の中心都市はクライストチャーチ市だ。
ここには有名な教会があり、この教会がクライストチャーチと言う。信仰の対象が街のシンボルであり、この街の名前になって
いる。

北島から南東への移動のとき、眼下には有名なサザンアルプスの山並みが幾重にも波打つように連なっていた。標高はヒマラヤ
山脈には及ばないが、これらの山々には万年雪が残っていて、その内の幾つかは大きな氷河となって山を下っている。さして
標高が高いとは言えない山脈に氷河が出来るにはその訳がある。

 一般的に氷河が出来るには山に降った雪が固まり氷にならなければ出来ない。そして固まった分厚い氷は自らの重さに
耐え切れなくなって山を下り始める。これが氷河である。私達は辛抱強く気象条件が整うのを待ってヘリコプターで氷河見物を
行った。

 雪が積もって氷となった山頂付近は凸凹の氷の広場になっていた。軽飛行機なら着陸できるくらいの広さがある。さすがに
この氷原の周辺は雲の上になっていて空の青さが際立っていた。目を凝らせば星が見えるのではないかと思えるほどの濃い青空で
ある。そして周辺の峰々に残った雪が太陽の光を浴びて白く輝いている様子が幻想的だ。私はともすれば滑って転びそうになる体を
家内に支えて貰いながら何枚もの写真をカメラに収めた。二度と再び見ることはないであろう景色であった。

 ヘリコプターはいったんは氷原に着陸し、再び飛び立った。今度は氷河の真上を氷河沿いに降りていく。初めは氷の塊だった
ものが傾きを増すにつれ次第にヒビが入り割れていく。大きな割れ目はまさしくクレバスだ。こうして更に下ると勢いを増し
周辺の山を削りながら一気に急こう配の斜面を流れ落ちていく。そのスピードはさして早そうには思えないが、中には一年間に
数百メートルと言うスピードのものもあるようだ。

 氷河の先端はヘリコプターからでなくても見ることが出来る。ある場所まで流れてくると途切れたように先端部が現れる。
この途切れたような氷の壁が氷河の先端だ。近年、この先端部がますます山深くなっていくらしい。全ては温暖化によるものだ。
こうした先端部から解けだした流れが、平野では大河となって流れていた。その水は削った岩の微粒子を溶かしていて白く
濁っていた。

 私達のニュージーランドツアーの大きな目的は氷河見物だった。幾つかの氷河の先端部を見て歩き、そして氷河の真上を
ヘリコプターで飛んだ。氷河が生まれる場所へも降り立った。全ての目的は達したわけである。ここでニュージーランドに
ついて、もう少し詳しく触れておこう。

 ニュージーランドと言えば、なだらかな山の斜面と羊を連想する。確かに南島にはなだらかな草だけの丘陵地帯が連なっている。
しかし、この牧草地はその昔、島の反対側と同じように原生林だったらしい。しかし、原住民たちが食料にするためにモアという
巨大な鳥を森から追い出すときに焼き払ったために森はなくなり草原になったと言われている。巨鳥を森から追い出すために火を
使ったらしい。

 そのために原生林は消えてなくなり、その後をヨーロッパからの移民たちが羊を飼うための牧草地として利用しているらしい。
ニュージーランドは今でこそ白人中心の国であるが、沖合の太平洋上に点在している島々やオーストラリア大陸、更には、先に
見てきたイースター島までポリネシア人達の祖先が住み着いた島や大陸である。ちなみにこの国ではポリネシア人の末裔たちを
マオリ族と言う。今でも彼らの集落が集中している場所が南島にはある。

 ニュージーランドと言えば思い出すのはキャプテン・クックとヒラリー卿だ。キャプテンクックはイギリスの探検家であり船長だ。
サザンアルプスの中には、このクック船長の名を取って名付けたクック山という有名な山がある。私達はほんのわずかな時間しか
山頂までの全容を見ることは出来なかった。比較的高い山なのでいつも雲がかかっている。

 そして、このクック山(マウントクックとも言う)で登山訓練をしたのが、ヒマラヤ初登頂に成功したヒラリー卿だ。この人の
功績を称えて銅像が立っている。その銅像が向かっている先にクック山がある。ちなみにこの英雄はニュージーランド紙幣にも
印刷されている。

 昔の絵葉書を見るとサザンアルプスを背景に色とりどりのルピナスが咲いている写真を見かけることがある。羊と同じように
ニュージーランドのシンボル化と思っていたら、実は外来種で自然保護を厳しくしているこの国にとってはあってはならない
厄介者のようだ。ある婦人がイギリスから持ち込んだものが気候風土とマッチして増えたもののようだ。

 従って、在来種を駆逐するものとして、今は絶滅を目指しているらしい。日本のように何が入って来てもお構いなしの国とは
随分違うようだ。また、この国にはいなかった外来種の動物(フクロギツネ)が、天敵となるものがいなかったためにやたら増えて
困っているとも聞いた。この動物を持ち込んだのは毛皮が目的だったらしい。あの最南端のウシュアイアでもビーバーを
持ち込んだために森林が食い荒らされていた。しかし、いったん持ち込んだものの駆逐はなかなか難しいようだ。

 長くなってしまった。次は隣国オーストラリアだ。
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地球一周の旅から10年(23) イースター島からタヒチへ

2014-12-20 15:25:11 | Weblog
 一気にタヒチの思い出話に飛んでしまったので、ここでイースター島からタヒチへ至る長い旅に付いて書いておこうと思う。
イースター島を後にしたのが12月29日、以降は年越しとお正月ムード一色となった。

 そしてタヒチへ着く前に12月31日を迎え、更には新年を迎えた。実は800人を超えるような船客がいれば、まるで
小さな町の者が一緒に旅しているようなものである。ここは陸上とは隔絶された異空間が存在している。全国から船旅に
集まってきた見ず知らずの者が一緒に旅することによって次第に打ち解けていく。

 そして、あまりにもなれなれしくなるがあまり遠慮もなくなって、ついには喧嘩をして仲たがいしてしまう。こんなことが
どこまで行ってもあるのが人間世界であるが故の面白さかもしれない。行事を行う際の主導権争いなど見ていると、とても
滑稽なくらいだ。

 12月31日は早朝から慌ただしかった。夜に行われるカウントダウン、そして年が明けてのお正月準備、ここ船の上も
陸上と変わらない年の瀬の慌ただしさがあった。いや、それ以上だったかも知れない。

 しかし、よくもまあこれだけのことを考え行えるものだと思えるほど、その準備は多様であり完ぺきであった。それまでにも
幾つものイベントが行われてきたが、その都度、限られた材料と限られた道具(ミシン)などを使って多くのものがデザイン
され作られてきた。その集大成とも言うべきものがお正月のお茶席の準備であった。

 私は私で何となく落ち着かなかった。夕方に開かれる紅白歌合戦の大トリとして歌うことになっていたからだ。つまりは
二度行われたのど自慢コンクールで二度とも鐘三つで文句なしに出場者の一人になっていた。その私がまさか大トリとは。
私の歌う歌は紅白歌合戦にふさわしく北島三郎の「風雪ながれ旅」であった。紅白に出場するものは朝から、トパーズTV
(船内放送局)によるインタビューがあった。

 この日の紅白では男女に分かれて幾組かのグループや個人が出場した。そして審査の結果、私達男性陣が優勝したので
あった。その日の審査員の中には私の家内や私達夫婦と仲良くなったマヌーさんが入っていた。審査員に選ばれた人も実は
船内の有名人たちであった。家内はトパーズTVのスタッフでもあった。実はこの日、夫婦して審査員と出演者を演じた
のであった。

 この頃、家内は船内のエアロビのインストラクターとして多くの人を指導していた。いわばエアロビの先生として多くの
仲間に囲まれていた。それだけでも有名人だったのだが、色んな行事に顔を出しては若い子たちと楽しくやっていた。
そんなわけで船内での行動は、ほとんど別々だった。私達が夫婦であることを知らない人も大勢いた。ごく親しい者たちだけが
夫婦であることを知っていて、彼女たちの船上の父や母になっていたのであった。

こうして年越し、お正月と陸上では考えられないくらい様々な行事が行われ年末年始は過ぎて行った。その中でも大晦日の
カウントダウン、そして年明けのお茶会は最大のものであったろう。特にお茶席では日ごろ滅多に顔を合わすことのない
高級船員(外人さん)達も招待され、華やかな茶席となった。中には正座が出来ない船員さんもいた。

 この頃になってやっと海外のニュースが入ってきた。その中で最大のものは、インドネシアのスマトラ島沖で発生した
大津波のニュースであった。詳細が分からないだけに、余計に想像が膨らんで、小さな紙切れに簡単に書かれた掲示物の
前は黒山の人だかりであった。まさにこの船が通り過ぎてきた広大なインド洋海域を襲った大災害であった。

 実は2004年と言う年は、実に天災の多い年であった。私がそれまでに体験したものとしては、大きい方の台風を
二度も体験した。一つは8月の台風であり、天災の少ないと言われた瀬戸内海沿岸地域が高潮の被害を受けた。そして
二つ目は私達が旅立つ直前の台風であった。この時にも各地に大きな被害があった。地元の由加山系にも大雨が降って
各所でがけ崩れが生じた。

 そして出港直後に起きた新潟県の山古志村を中心とした大地震であった。そしてスマトラ島沖の地震とそれに伴う
大津波、何という年であったろう。しかし運命の2004年は私が60歳の還暦を迎え、更には地球一周の旅に出ると言う
私にとっても忘れ得ない年になったのである。何かしら運命的なものを感じざるを得ない。

 人生には必ず節目がある。そして飛躍もある。それが私の経験値から来る確信のようなものである。それは甘んじて
受け入れなければならない自分自身が描いた設計図によって作られたものである。般若心経流に解釈すれば、全ては
泡沫(うたかた)のようなもので、他人とは関係なく自分自身の体験として光のように一瞬にして過ぎ去っていくものの
ようである。

 この年の悲惨さとは関係なく、私の場合は客観的に見える立場に居て、これらのニュースを見聞きしていた。私自身は
退職後の経験したことのない時間を慌ただしく過ごし、いつの間にか船に乗って旅に出ていたような感じであった。
そして浮世離れした実に楽しい竜宮城のような生活をしていたのであった。そして一緒に旅に出た家内も同じように
風変わりな生活を満喫していた。私より何倍もこの生活を楽しんでいたのかも知れない。

 人生は宛がわれたものではなく自らが作り出すものである。受け身になると楽しいことも楽しめなくなる。自分で選んで
そうしたものであれば、例えそれが良い結果でなかったとしても納得できる。人生は何度でもやり直しが出来る。それが
出来るのは自分自身でしかない。受け身の考えだとそれが出来ない。発想を変えれば見えなかったものが見えてくる。
それが人生と言うものであろう。一つのことに固執していては進歩がない。新しい展開は見えない。

 この旅の詳細は私のホームページを参照願いたい。アドレスは以下のとおりである。かなり詳しく書いてある。
http://www2.kct.ne.jp/~monohito/yabuki2/pi-subo-to/e1tikyuuissyuufunenotabi.html

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地球一周の旅から10年(22) タヒチ

2014-12-17 06:23:25 | Weblog
 太平洋上に対照的な島が二つある。一つはタヒチであり、一つはイースター島である。イースター島にとって表現は
良くないが、まるで天国と地獄のように対照的な島である。むろん天国のような島がタヒチであって、地獄(表現は良くないが)
のような島がイースター島である。

 今も謎多き不思議な島、イースター島を後にして、トパーズ号はタヒチへ向かった。早朝の沖合はるかから見た
タヒチ島は緑濃き島であった。タヒチ島のパペーテと言う港町は良く整備されていて港から見える街並みも実に美しく
洗練された街であった。

 フランス領タヒチは、ゴーギャンの絵であまりにも有名な観光地である。荒涼とした裸の島「イースター島」に較べ
何とも豊かさを感じる島であった。そして如何にも南太平洋に点在する亜熱帯や熱帯の島らしい島であった。
 
 実はイースター島も火山噴火によって出来た島であったが、この島もそして沖合に黒いシルエットとして見える
モーレア島も火山噴火によって出来た島であった。そのモーレア島は、まるでディズニー映画に出てくる魔法の国の
ように尖った山が特徴であった。

 私達が入港した日も朝日がさんさんと降り注ぐ、いかにも南国らしい光あふれる朝であった。この港にはトパーズ号
のような白い船体が良く似合う。私たちが入港した時も沖合のモーレア島に向けて白い船体のスマートな船が出ていく
途中であった。そして、出て行った船と入れ替わるように同じ船体の白い船が帰ってきた。タヒチ本島とモーレア島を
行き来している連絡船であった。

 私達は入港手続きが終わると、それぞれの団体に分かれ船を降りた。トパーズ号が着岸した桟橋では船内で人気者だった
美人姉妹が踊っていた。この姉妹はロシア人らしく二人とも食堂で働いていた。如何にも南国の空気に触れ、浮かれていると
言った風情であった。私達と一緒に降りた若い船客たちも踊り始め、私の家内もその輪に加わった。

 湾内を覗き込むと、魚がいっぱい泳いでいた。サンゴ礁などに住んでいる魚たちだ。船舶が多い湾内ではあったが
海水は澄み切っていた。青い空と青い海、この景色を見て興奮しないものなどいないはずだ。

 私達は桟橋伝いに先ほど眺めていたスマートな船体の連絡船に乗り込んだ。船は意外に大きかった。乗り込むと
間もなく出発した。沖合のモーレア島に向かっていた。タヒチ島本体が遠ざかっていく。一方、モーレア島は、黒い
シルエットから一変して緑豊かな島へと姿を変え始めた。船内は旅行客やレジャー客でいっぱいであった。白人も
いればポリネシア人もいる。私たちのような東洋人は私達以外にはいなかった。

 火山島特有の爆裂後を残す尖った山のモーレア島、しかし裸の島だったイースター島と比較して何と緑豊かな
島であろうか。尖った峰の先端まで濃い緑に覆われていた。山裾を飾る多くの木々はヤシなどであった。

 私達は連絡船を下りると港の出口で待っていた大型バスに乗り換えた。これから島の裏側に当たるホテルまで
移動することになっていた。島の周辺は広大なサンゴ礁であった。沖合はるかに海岸線があって、そこには太平洋の
荒波が打ち寄せていた。

 私達が泊まることになっていたホテルは海岸すれすれにコテージ風の部屋が並び、更には手入れの行き届いた庭に
コンドミニアムのような瀟洒な建物が立ち並んでいた。むろん海岸に建つコテージの方が料金も何割かは高い。

 私達が案内された部屋はいかにも南国風と言った開放的な部屋であり、調度品やベッドなど美しく整えられていた。
今宵一夜だけの宿泊ではもったいないような豪華な部屋であった。ベッドの上には採取したばかりのハイビスカスの花が
さりげなく置かれていた。文句なしのお出迎えであった。

 早速、水着に着かえて海岸に出た。海で泳ぐのは二度目であり、水着に着かえるのはトパーズ号のジャグジー以来の
事であった。海岸には小さな砂浜があり、砂浜の沖にはサンゴ礁があった。私は家内にボートを借りて沖合に出てみようと
提案した。本来が金づちの家内は頑なに拒むのでとうとうボートは諦めた。

 ボートで沖合に出ればきっと美しい魚たちに出会えたに相違なかった。しかし湾内のコテージ下にも熱帯魚はたくさん
群れていた。鮮やかな色をした美しい魚たちであった。部屋から持ってきたパンを餌にして差し出すと、その手から
パンを奪っていく。パンがなくなってもなおも手をつつく。本当に美しく可愛い魚たちであった。

 また、水面に餌になるようなものが浮かんでいると、どこから集まって来るのかと思うほどの小魚たちが集まってくる。
そして餌に群がり塊となって水面に盛り上がるのである。ここは想像を超える豊かな海であった。

 一方、庭の方に目を転ずると、そこは陸上の楽園だった。高くそびえるヤシの木の先端には常に海風が吹いていて
そのヤシの木へ尾の長い鳥たちが飛んでくる。少し背の低い木には南国のフルーツがごく普通のように実を付けている。
ここの鶏はホテルが飼っているのだろうか。色とりどりのブーゲンビリアやハイビスカス、生け花でしか見たことの
ないような植物が至る所で花開いている。この島はまさしくゴーギャンが愛した島だった。

 街中に郵便局があった。街中と言っても色んな店が並んでいるわけではない。ここの郵便局は単に郵便物を扱うだけでなく
両替なども行っていた。島の中にはなくてはならない数少ない公共の建物だった。私達はここから郵便物を発送するために
この郵便局を訪れた。郵便局に来る島の人はみんな裸足であった。ここでは裸足の生活が当たり前の生活のようであった。

 郵便局への行き帰りに見た民家も色とりどりの花が咲き、南国のフルーツが当たり前のように実を付けていた。
ヤシの木にはヤシの実がたくさん実を付けており、その下には枯れ落ちたヤシの実が無造作に転がっていた。
中には既に芽を吹き始めたものもあった。その根元には夥しい穴があり、びっくりするほど大きなカニが出入り
していた。何もかもが驚きであり、南国ならではの発見であった。

 実はホテルの入り口には、大きな石像が置かれていた。火山噴火で出来た岩を削って作ったもののようであった。
イースター島ほどの石像文化ではなかったが、ポリネシアに広く分布している石像文化がここにも残されていた。
像の姿かたちはイースターほど特徴あるものではなかったが、如何にも素朴な姿かたちをしたものであった。

 この島の沖合からは常に海鳴りのような音が聞こえていた。サンゴ礁の先端部を洗う太平洋の波がぶつかる音で
あった。夜は屋外にヤシの葉を葺いただけの開放的な建物の中で豪華なフランス料理を味わった。ここはフランス領で
あった。そう言えば私達のホステス役をしてくれた女性はフランス人と結婚し、ここで働いていると言っていた。

 夕食の後は三々五々散らばって、それぞれの時間を過ごした。私たち夫婦はトパーズ号の中で知り合った女性二人と
ホテル内のバーで二次会としゃれこんだ。南国の夜は静かに更けていく。夜更けて吹く風がこれまた心地良かった。
この島は蚊もいないようで、その上湿度も低く、とても過ごしやすかった。やはりここは天国の島であった。

 この天国のような島にも暗い歴史は残されていた。それは第二次世界大戦以降の事であった。先進国は争って核開発を
行っていた時代であった。フランス領の環礁でもフランス軍によって何度となく核実験が行われたのであった。
周辺地域の島々に住んでいた先住民たちの多くが被爆した。

 また軍事物資の荷卸しなどに携わっていた人なども原因不明の病気に悩まされることになった。今もなお後遺症に
苦しんでいる人がたくさんいるらしい。本国フランスに保障を願い出ても未だにその回答は出されていないとのこと
であった。全ては軍事機密と言う深いベールに閉ざされたままである。日本での特殊秘密保護法等と言うものが作られ
ますます軍事力が強化される中で、このような悲劇がいつ生じてもおかしくはない。

 私達は一泊二日の旅を終えてモーレア島を後にした。タヒチ本島は、ほんの少し歩いてみただけである。その歩いた
場所は、どこにでもあるような近代的な街であった。時間さえあればもっとタヒチの良さを味わいたい、そんな思いを
胸にタヒチを後にした。

 次はいよいよオーバーラウンドツアーを予定していたニュージーランドであった。ここでは名だたる氷河見物が大きな
目的のツアーであった。
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地球一周の旅から10年(21) イースター島(ラパ・ヌイ)

2014-12-14 05:50:53 | Weblog
 本国であるチリ共和国から遥か3700キロ彼方にその島はある。その島こそモアイの島として多くの人が関心を寄せている
イースター島(ラパ・ヌイ)である。

 この島の歴史は文字による記録が残されていないため推測するしかない。ただ荒涼とした島に多数のモアイ像が捨て置かれた
ように残されている。太平洋の真っただ中にある絶海の孤島と言うだけでも異様さを感じるのに、残されたモアイ像が更に興味を
かきたてる。

 この島の様子を見た時、そしてこの島の歴史を知った時、これはまさしく今の地球の縮図だと感じた。何故か。それは環境と言う
もののあり様を考えることなく徹底的に島を破壊し続け、最後には島から抜け出す手段まで失ってしまったことによる。

 この島の住人達はハワイやタヒチなどの先住民族であるポリネシア人である。彼らの祖先は巧みな操船術によって太平洋に
点在する島々を次々と訪れては住みやすそうな島に定住していった人々である。アウトリガー付きの帆船と潮の流れ、野鳥の
姿、夜空の星などを観測しながら航海を続けた。そしてたどり着いたのが、この島であるラパ・ヌイであった。

 イースターとは、この島に上陸したヨーロッパ人が名付けたものであって、ラパ・ヌイ語ではラパ・ヌイと呼ぶのが普通である。
ヨーロッパ人たちがこの島を発見し上陸した日がキリスト教の感謝祭、つまりイースターであった。

 ヨーロッパ人たちがこの島に上陸する前からこの島の住民は激減していた。更に追い打ちをかけるように島民たちを奴隷として
運びだし、更にはヨーロッパ人達が持ち込んだ伝染病の蔓延によって人口を減らした。

 何故、人口が激減するに至ったのか、それは悲しい現実があった。ポリネシア人たちがこの島に居を定め暮らし始めた頃は
亜熱帯の豊かな島であった。森林を開き畑を作り、それによって人口は増えて行った。反面、限られた島の中だけでは切り開く
畑にも限界があった。おまけに、この島は元々火山島であり表土は痩せていて浅い。また風を遮る森がなくなると周辺は吹き
さらしの海である。こうして表土は風や雨によって削られ、畑はますますやせ地になっていった。

 モアイづくりに狂奔している内に気が付いたら増え続けた島の人口を養うほどの収穫がなくなっていたと言うわけである。
島の木と言う木はことごとく伐り倒され、海に活路を見出すことも出来なくなっていた。彼らが何故、モアイを作り続けたのか
島に収穫が失われてしまうまで何故気が付かなかったのか、その辺は定かではない。

 こうして、乏しい収穫物を巡って村と村が争うようになったのではないかと言われている。そして悲惨なことに生きていく
ために人肉まで口にするようになったと言われている。

 この話を聞き、更に異様な感じのする裸の島イースター島全体を見た時、何故かしら今の地球のことを考えてしまった。
今私達は地球規模の乱開発と限られた資源を使い切ろうとしている。その上、他の星へ移動する手段も持ち合わせていない。
このまま進めば温暖化と資源の枯渇によって共食いすらしなければならないような事態を招くのではないか。

 この島の今の人口は5000人くらいだと言われている。生活物資の大半は本国チリからの移入品である。そして島の産業と
言えば観光である。テンダーボートと言う小さな船しか横付け出来ないような港の周辺には土産物屋がたくさん並んでいた。
そして島のあちこちでは野生化した馬が草を食んでいた。これらは農耕馬として運び込まれた後、やせ土で農業が続けられなく
なった結果、放置された飼い馬たちであった。

 島は人工的に植林が行われている。チリ本国から持ち込まれたヤシなどの木である。私たちが訪れたピースボートも植林に
一役かっていると言われていた。しかし、地味に乏しいこの島にかつてのような密林を取り戻すことが可能なのだろうか。

 島に幾つかある火山の側面はモアイの製造場所であった。ここには火山の内と外に作りかけのものや作ったままで打ち捨てられた
ものなどがたくさんあった。中には上半身だけが土から出たものもあり、こんな巨体をどのようにして運び出そうとしていたのか
不思議であった。

 元は集落であったと言う場所にはモアイが集落の方を向いて建てられていた。モアイは彼らの祖先の姿を模したものだと
言われている。いわば集落の守り神としての存在だったようだ。特徴ある顔には大きな目がはめられていた。この大きな目で
集落を守っていたようである。しかし、集落ごとの争いがあった時、ことごとく顔を地面に向けて倒され、その時に目は
つぶされてしまったようである。目には呪術的な力があったのかも知れない。

 日本からはクレーンを製造している会社が無償援助で何体かのモアイを立て直したと聞いている。しかし、今も多くは横倒しに
なったまま雨風にさらされている。

 この島へ大型客船から上陸するにはテンダーボートと言う小型船に乗り換えるしかない。沖合に錨を下ろした客船の横の
ハッチを開け、ここから横付けした小さなボートへ飛び移る。波が高いので風が強くなるとこの作業は中止となる。客船の
ハッチとボートが同じ高さになった時をねらって飛び移る。まさに絶海の孤島である。島の周辺には常に風が吹いている。

 しかし、太平洋のど真ん中近くにあるこの島の魅力はモアイ像ではなく海の青さにある。空が晴れていると海の青さと空の青さが
一体となって言い尽くせないほど美しい景色となる。また島周辺の浅いところに日が射すと、その青さは更に不思議な色に変化する。
自然が作り出す天然の美しさである。この美しさは、どのような技術をもってしても人間の力では作り出せない。

 この島の一方の角にあるオロンゴ岬に立つと絶海の孤島と言うことを実感する。隣接する小さな岩ばかりの島を除けば海上には
何もない。茫洋と広がる太平洋だけである。

 この日、暦の上では12月28日、船の中ではクリスマスイベントに引き続き、近づくお正月に向けての行事の準備など慌ただしさを
加えていた。



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地球一周の旅から10年(20) チリ共和国

2014-12-09 04:28:13 | Weblog
 私達が乗ったトパーズ号はパタゴニアフィヨルドの航海後、太平洋に出た。太平洋に出た途端、明るさが戻ってきた。
それほどフィヨルド沿岸の気候はきびしく寒かった。そして、早朝にチリのバルパライソ港へ入港した。明けやらぬ
湾内は途端にざわめきが始まった。

 薄暗い海面や船の前後を横切るのは野鳥の群れだ。中にはペリカンもいるようだ。これらの野鳥たちは客船が巻き上げる
海水の中の魚たちを餌にしているようだ。バルパライソは世界遺産に登録されている美しい街である。特徴あるのは
山の斜面に立ち並んだ家並みの照明がすべてオレンジなのだ。日本のように水銀灯や蛍光灯の寒々しい色ではない。

 チリ共和国と言う国は地図で見ていただくと分かるように、太平洋に面して実に長細い形をした特徴ある国土をしている。
理由は背後に屏風のように林立する巨大なアンデス山脈によるもので地理的に隣国と隔絶されているからだ。隣国へ行こうと
すれば、この高い山を幾つも越えなくてはならない。アンデス山脈によって隔てられた天然の要害になっている。

 この長大で高い山々は太平洋側から押し寄せてくるプレートの強い褶曲作用によって出来たものである。褶曲作用とは
大陸に出来た皺(しわ)のようなものであり、今もなお成長し続けている。日本でいえばアルプス山脈が同じような作用に
よるものであり、世界最高峰と言われているヒマラヤ山脈も同じような作用で出来たものである。

 従って、この山系には今も活発に火山活動を続けている山が少なくない。そして地殻変動による地震の多いのもこの国の
宿命のようなものである。この点においては日本と良く似ている。チリの大地震により東北地方一帯が大津波に襲われた
こともある。広大な太平洋を越えてチリから津波が押し寄せて来たのである。天災においてチリは日本と良く似ており
遠くて近い国である。

 チリはアルゼンチンと同じようにスペインの植民地であった。そして様々な歴史的事件を経て独立し、今日に至っている。
この国も白人や白人と先住民との混血が多く、黒人はほとんど見かけなかった。血気盛んな国民性は幾度かの軍政や軍政下での
血塗られた時代を経て今日の安定した時代を迎えている。

 火山国であることは資源国でもある。火山のあるところ鉱物資源もまた多い。この事情も日本に良く似ている。かつて
日本も世界的な資源大国であった時代もあった。銅や金と言った貴重金属から鉄のような実用的な金属まで多種多様に
生産し、大陸方面に輸出していた時代もあったのである。黄金の国ジパングはあまりにも有名な逸話である。

 この国の主要な輸出品の中に硝石や銅鉱石等があり、今も盛んに日本などへ輸出されている。そしてチリのワインは
あまりにも有名である。日本のワインコーナーには必ずチリ産のワインが置いてある。私達はバルパライソから12キロ
あまり離れた首都サンチャゴまでの移動途中に延々と続くブドウ畑を目にした。こうしたブドウ畑の遥か彼方にワイン
セラーらしき建物が幾つも並んでいた。比較的雨が少ないこの地方は、ブドウ栽培やワイン醸造に適しているらしい。

 首都サンチャゴにはサン・クリストバルの丘があり、小さな山全体が公園になっている。この山の頂きにもリオデジャネイロの
それには遠く及ばないが、キリスト教のマリア像が立っている。マリア像周辺は良く整備されていて、ここからサンチャゴ市内を
見下ろすことが出来る。比較的人口の少ないこの国では、多くの国民が首都サンチャゴ周辺に住んでいる。

 従って、見下ろす眼下にはひしめき合うよう家が立ち並び、その密集ぶりが良くわかる。そして地形的に盆地になっている
こともあって車などの排気ガスで白く霞んでいた。この街も公害に悩まされているようだ。丘を下りると再びサンチャゴ市内だ。
その市内の建物は、ここもまたアルゼンチンと同じようにヨーロッパ調の装飾の多い重厚な建物群であった。特に中心市街地には
著名な建物が立ち並んでいた。(私のサイト「地球一周旅日記」を参照されたい)

 この国にも軍によるクーデターや血塗られた歴史が今も語り継がれている。今でこそ軍政は否定され民主化も行われているが、
隣国アルゼンチンなどと同じように、たった数十年前まで政治的な混乱が続いていた国々である。その過激さは民族的なものなのか
あるいは植民地という歴史的な背景があったが故なのか。とにかく先住民を軍事的に抑え込み、更にはキリスト教で懐柔しながら
侵略を繰り返してきたヨーロッパ全体が進めてきた大航海時代の背景にあった血塗られた歴史は否定出来ない。

 さて、市内見学の他にはワイナリーを訪れチリ産のワインを味わい、更には田舎へ行って民芸品を見たり食事をした。
この時に味わったピスコサワーと言う飲み物の爽やかで美味しかったことを今も忘れない。ピスコと言う柑橘類の果汁と
強い酒をブレンドし、それをソーダ水で割ったものだ。あまりにも美味しかったので帰りに立ち寄ったスーパーで二本
買って帰った。しかし、飲もうにも栓が特殊でどのようにして開ければ良いのか分からないで、さんざん苦労したことを
今でも懐かしく思い出す。瞬く間に10年前が過ぎてしまい今は懐かしい思い出話である。

 次回はいよいよ太平洋の孤島イースター島の話です。お楽しみに・・・。
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地球一周の旅から10年(19) パタゴニア・フィヨルド

2014-12-07 05:15:32 | Weblog
 今年の冬は大荒れの冬になりそうだ。その予感は夏ごろからあった。夏も相対的には冷夏に近かった。つまり気候変動、単純に言えば
寒暖の差が大きくなっている。さして水温が下がっていない日本海に寒波が大きく張り出し、そのために風呂から蒸気が立ち上るような
状態が、今回の日本各地の大雪報道となっているのではないだろうか。今回の特徴は、思いがけないところが大雪に見舞われている。

 これは太陽活動の低下と何か関係があるのではないかとか、地球温暖化の影響が様々な形で表れているのではないか等と言われているが
定かではない。しかし、いずれもの影響が複雑に表れているような気がしてならない。この影響は日本だけのものではない。世界各地に
於いて形こそ異なるものの様々な形で表れている。しかし、特集などで単発的に報道されるだけでほとんど報道されることはない。

 あたら騒ぎ立てる必要はないが、せめて今、地球規模でどのような気候変動が生じているかリアルタイムに報道すべきではないだろうか。
私達視聴者もくだらない番組に気を取られることなく、真剣にこの地球上に発生していることを直視すべきだと思うのだが。

 さて本論に入ろう。地図を開いてみて欲しい。南米のパタゴニア地方の地図である。特に太平洋側を見て貰うと大小様々な島が数多く
点在している。そして大陸側も実に複雑な形をしている。これがパタゴニア・フィヨルドだ。この大小様々な島や複雑な入り江は、かつて
この地方を大きく覆っていた氷河によって削り取られたものだ。

 実に巨大な氷河であったことが窺える。今もこの海域を航海すると、この当時の名残を見ることが出来る。私達はウシュアイアを出港し
この海域に差し掛かっていた。今回の航海の大きな見所が、このパタゴニア・フィヨルドの航海と氷河の見学であった。

 大きな客船が狭い海域を進む。操船にはとても気を遣う海域だ。間近に岩だけの小さな島が見える。時には座礁した船が赤さびた船体を
横たえている。この海域は名だたる船の難所だと言えよう。むろんこうした海域を避け航海する手段はある。しかし、今回は氷河を見る
ことが目的だったので、わざとこの狭い危険な航路に入っていた。

 船の右舷からは、遠くに白く万年雪を抱いた尖った山々が見え遠ざかっていく。そうした峰々に降り積もった雪はやがて根雪となり、更には
氷河になっていく。間近に見れば白く見える部分はほとんどが氷河ではなかろうか。しかし、これらの氷河は、ほとんどが山と山に遮られ
見ることが出来ない。しかし、その氷河の先端は必ず一番近い海にまで達している。

 そうした氷河に名前が付けられている。今回も有名な氷河を幾つも見た。残念ながら船に危険が及ぶことを考えて間近で見ることは
出来なかったが、双眼鏡で見るとその迫力が伝わってくる。また双眼鏡でなくとも黒く筋を引いた氷河や氷河の先端が海に落ち込んで
いる姿を見ることが出来た。

 私にとっては初めて見る生の氷河の姿であった。近年、こうした氷河が小さくなっていると言う噂を聞いている。しかしパタゴニアで
見る限り、小さくなっているのかどうかを判断するのは難しかった。ただ船の進行方向が氷河の先端に近づけば近づくほど海面には大小の
氷のかけらが増えてきた。全ては氷河の先端が崩れ落ち流れてきたものであった。

 海水は心なしか白く濁っていた。これら氷河から崩れ落ちた氷から解けだした鉱物が濁りの原因だった。実にミネラル分が豊かな海水だ。
恐らくこの海域には豊かな海洋資源が息づいているに違いなかった。

 かつて氷河に削られたと言う痕跡は周辺の崖や小さな島々に歴然として残っていた。岩の塊のように見えるもの全ての表面が磨かれた
ようになっていた。つまり氷河が長い時間をかけて柔らかい部分を削り取っていき、残ったのがこうした岩山や島々であった。
しかし、長い時の流れの中で山裾にはへばりつくように木々が生い茂り緑濃い森を作っていた。

 とにかくデッキの上は寒い。そして天気がめまぐるしく変化する。今まで日差しが見えていたかと思うと間もなく雲に覆われ時雨だす。
その繰り返しであった。私達は持ってきた衣類全てを羽織り、デッキで変わりゆく自然の姿を飽きもせずに眺めていた。特に私は氷河を
写したかったので、みんなが去った後も長時間デッキにいた。それが良くなかったのかチリに着いた頃には風邪気味で体調がすぐれなかった。

 パタゴニアフィヨルド通過時には船内でも様々なイベントが行われていた。そしてカレンダーは12月16日、既に旅立って一か月以上が
過ぎていた。この頃になって船内には多くの友人や知己が出来ていた。船内生活にも慣れ生活のリズムが出来ていた。家内は家内の活動を
通じて多くの友人が出来ていた。

 いつかしら私たち夫婦は船上のお父さんお母さんと慕われるようになり、若い子たちから何かと相談を受けるようになっていた。船には
心に傷を持った子や自分自身に自信が持てなくて旅に出た子も少なくなかったのである。私達は心の支えとまではいかなくとも、悩みの
一部くらいは共用できた。

 約三日間をかけてこの海域を通過した。そして太平洋へ出た。どんよりとした天気から一気に解放された。実に明るく開放的な気分に
なった。やがて数日後にはチリのバルパライソと言うところまで来ていた。バルパライソは世界遺産になっている港町であった。

 なおこの船旅の詳細は旅の途中で記録した「地球一周旅日記」として私のホームページへ掲載しています。URLを下に張り付けておきます。
http://www2.kct.ne.jp/~monohito/yabuki2/pi-subo-to/e1tikyuuissyuufunenotabi.html
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地球一周の旅から10年(18) ウシュアイア

2014-12-05 04:54:30 | Weblog
 南アメリカ大陸の最南端に目指すウシュアイアは位置している。ここもアルゼンチン領である。アルゼンチンのブエノスアイレスから
船だと何日も要する遠隔地である。このウシュアイアという街では何もかも「最南端・・・」だとか「最果て・・・」と名前の初めに
冠が付いている。確かに地図を開いてみると、人間が住んでいるところとしては地球上で最南端に位置している。

 この南極に最も近いところに多くの人が住んでいる。そして相対的に若者が多いのが特徴だ。何故だろう。産業は何だろう。暮らしは
どうしているのだろう。さして工場らしいものもなければ、商店も特別多いと言うわけではない。仕事は?食べていくための収入は?・・・。
疑問が残る。

 ウシュアイアという街があるフエゴ島は亜南極と呼ばれている。南極に一番近い場所として南極大陸への補給基地になっている。
従って、南極ツアー等も多くはここから出発している。残念ながら南極ツアーを申し込んだが、既に予約いっぱいで参加することが
出来なかった。

 ネットで調べてみると、最果てのこの地はアルゼンチンの囚人たちの流刑地が始まりであったらしい。それまではわずかばかりの
原住民たちが居住する地であったようだ。地理的に隔絶されていたこの地も今はアルゼンチンハイウエイで首都ブエノスアイレスとも
結ばれており、アルゼンチンハイウエイは南北アメリカを縦断するパンアメリカンハイウエイとも連携している。

 私達は南極ツアーの次の候補としてパタゴニアトレッキングを選んだ。このツアーもとても人気のあるツアーだった。実は船中での
早朝ウオーキングも、このトレッキングに参加することを目的にしたものだった。そのために重たくて大きな登山靴も持ち込んでいたのだ。

 トレッキングツアーは山小屋近くまでバスで移動し、山深く分け入り氷河湖の一つエスメラルダ湖まで歩いて行くと言うものであった。
山小屋を出ると早速、湿地帯へ出た。年間気温の低いこの地では微生物による分解が遅く、湿地帯で成長したコケはそのまま次々と堆積し
数メートルにも達するような堆積物となっていた。

 まるでスポンジの上を歩くような感触の上を足を取られないように用心しながら歩いて行く。ともすればぶすぶすと飲み込まれそうに
なる。右足が沈み込まないうちに左足を伸ばすと言うようにして歩いて行く。行く手には外来生物だと言うビーバーが作ったダムが水を
せき止めている。入植者が毛皮を採取するために持ち込んだという外来生物だ。ここでも環境破壊が進んでいる。

 沼地を抜けると森林に入る。森林の奥は深い。しかし密林ではない。南極に近い寒冷地なので植物の種類が少ない。ツタのような
つる性の植物はほとんど見当たらない。針葉樹やブナの一種だと言う広葉樹が大半である。ここには手つかずの自然がそのまま残っている。
この自然は非常に脆(もろ)い。一度、森林を切り倒してしまうと容易に再生は出来ない。気が遠くなるような時間をかけて自然が
作りだしてきたものだ。

 こうして沼や森林を抜けると川のほとりに出た。目指す湖は近い。小高い堤防らしきものをよじ登ると目の前にコバルトブルーの
湖があった。エスメラルダ湖だ。エスメラルダとはエメラルドという意味らしい。そう湖はエメラルドのように神秘的なブルーで
あった。

 氷河によって砕かれ運ばれた石が小さな微粒子となって水中を漂っていて、これに太陽の光が反射してこのような色に見えるらしい。
私達が訪れた時は、南半球は夏であった。従って、山に雪はなく、氷河だったと言う湖の上流にも氷河らしきものは全くなかった。
やはり温暖化の影響は深刻らしく、この南極に最も近いと言うこの地へも少しずつ影響は現れているようだ。

 ちなみに私たちがウシュアイアに着岸した時は、絵葉書のように美しい街の景色だった。昨晩まで二日続きで降った雨は夜半から
雪に変わり周辺の山々は薄らと雪化粧をして私達を出迎えてくれた。穏やかに澄み切った湾内、その湾に沿うように立ち並んだ
カラフルなヨーロッパ調の建物、そして建物群を懐に抱くようにして背後に聳え立つ切り立った山々、それらがアルプスの山を
見るように雪化粧をしていたのだ。写真などで見るスイスの景色にどこか似ていた。

 カメラを持っているものなら誰でもこの景色をカメラに残したいと思うであろう。そして小さな港は活気にあふれていた。これから
南極へ向けての航海の準備をしている船、コンテナを積んでいる船、荷降ろしをしている船など活気にあふれた港の風景であった。

私達はたどり着いた湖のほとりのにわか作りのキャンプ地へ招かれ、案内役の屈強な若者たちが運んでくれたサンドイッチやワインで
豪華な昼食となった。さして強くない日差しが温かい。鳥たちが盛んに近くまで飛んでくる。どうやら私達のこぼしたパンくずを拾いに
来たらしい。恐れ気もなく近づいてくる。ここには手つかずの自然が、そのままに残っているようだ。

 こうしてこの日のトレッキングツアーは終わった。まだ日差しは高い。南に最も近いこの地では日没が極端に遅い。この日は友人と
一緒にレストランで食事した。分厚いステーキ風な鮭の切り身が出てきた。ナイフを入れると中は生肉だった。実は生肉であることは
新鮮な証拠であったが、食べ慣れない私としては何とも生臭く感じ、もう少し焼いてくれと注文した。レストランのオーナーは怪訝そうな
顔をしていた。

 疲れた足を引きずるようにして街を行き来し、すっかり疲れてしまった。食事を終えて時計を見ると出発刻限が迫っていた。予定の
刻限に帰らないと置いて行かれることになっていた。私達は小走りに港にへいだ。まだまだ空は明るかった。私達はウシュアイアを
後にしてパタゴニアフィヨルドへ向かっていた。ここは名だたる氷河が幾つもあり、また船にとってはとんでもない難所であった。
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地球一周の旅から10年(17) アルゼンチン共和国

2014-12-03 04:56:06 | Weblog
 ラプラタ川はとてつもなく大きな河だ。大河と言うにふさわしい川である。何しろ河口付近からしばらく遡上しても両岸が見えない。
海かと見まごうばかりの大きさである。この川の真ん中(と思われるのだが)に、点々と竿を刺したような標識が見える。それを頼りに
航行する。この川は大河であるとともに大量の堆積物で浅くなっており座礁する恐れがあるようだ。

 川の色も遡るにつれ様々に変化する。上流は奥深いジャングルである。このジャングルに降った大量の雨が、この川の源流となっている。
本来はきれいな水なのだろうが、大量の土砂を含んでいるようで、どちらかと言うと山土のような色をしている。私は上甲板のジャグジー
の中で、ゆったりとくつろぎながら川の色の変化を眺めていた。

 この川を遡ったところにアルゼンチン共和国の首都ブエノスアイレスがあった。私にとってアルゼンチンはある種、憧れの国であった。
と言うのも無類のタンゴ好きであったからだ。岡山で公演があった時にはシンフォニーホールに鑑賞に行った。タンゴにはご存じのように
ドイツタンゴとアルゼンチンタンゴの両系統がある。いずれもそれぞれに良いのだが、アルゼンチンタンゴの方が情熱的である。
情熱的で哀愁を帯びた演奏とダンス、これらはセットで鑑賞するものを魅了する。

 アルゼンチンは未開の地を含む広大な国土を要する。特に国の南に広がる広大なパタゴニア地方は未開の地だ。そして南米には珍しく
白人が大半を占める国でもある。白人が多いのは中南米では珍しく、早くから奴隷解放が行われた結果だと言われている。国民の多くは
スペインからの移民たちの末裔だ。従って、何事によらず情熱的である。また、過去には政変も多く波乱にとんだ歴史を秘めている。

 私達はブエノスアイレスに着くと、その日にオプショナルツアーである「イグアスの滝」見物に出発した。イグアスの滝はアルゼンチンと
パラグアイ、そしてブラジルの国境が接するところにある。私達はアルゼンチン側から現地に入り、その後でブラジル側に移動した。
両国から見える景色は同じ滝を見ているのに全く異なっている。それほどに広大な地域に広がる巨大な滝である。

 飛行機から着陸直前に見えていた密林の中から湧くように上がってくる白い雲は、実は雲でも霧でもなく、広大な滝から流れ落ちる
水から発生している水煙だったのである。遠目には、まるで雲が湧いているように見えた。ともかくこの広大さと、その滝から常に
流れ落ちる膨大な水の量に圧倒される。この滝を見た後では、その他のどんな大きな滝と言えども小さな流れに過ぎない。

 場所によっては流れ落ちる滝の際にまで行くことが出来る。ここから下を眺めると、その流れに吸い込まれそうな錯覚を覚える。
滝の下では大きなモーターボートに乗った人達が滝の下から上を眺めている。このボートは滝の真下まで行くようだ。下からの眺めも
さぞかし迫力があるに違いない。

 この滝の下流域には水力発電所もあるらしく、その発電量は膨大なものだと添乗員が話していた。そうであろう、この水量は並みの
水量ではない。その膨大な水が絶え間なく流れ落ちる。それは背後にあるジャングルに降った雨である。とてつもなく大きな自然の
営みが、ここにはある。

 イグアスの滝の見学からブエノスアイレスに帰ると空は夕焼けに染まっていた。今夜の夕食はアルゼンチンの肉料理である
アサードであった。ブラジル側では肉を主体とした料理のことをシェラスコと言い、アルゼンチンではアサードという。いずれも
良く似たものだが、その形態は多少異なる。ブラジルではもっぱら金串に刺して焼いたものを大きなナイフで切り分けていたが
ここでは大きな肉の塊が、そのまま出てくる。肉だけでなくソーセージのように加工したものもある。

 食事をしたこの店の入り口には大きな炉の前に四足を広げた羊だろうか何だろうか、少し小型の動物がこんがりと良い色に焼き
あがっていた。私達はこの店でもまた、たらふく肉料理を堪能しトパーズ号へ帰った。

 翌日は市内観光と郊外にあるガウチョ牧場の見学であった。市内にはヨーロッパ風の建物が立ち並んでいた。また、市内を走る
大きな道路の両脇もヨーロッパの眺めそのものであった。ヨーロッパと言えば東欧しか知らない私だが、ここの建物もハンガリーや
チェコと言った東欧で見た建物と良く似ていた。中南米大陸の最南端にヨーロッパがあった。

 この街の中心に大統領府の建物がある。この建物のバルコニーからエビータが国民に向けて大演説を行ったと言う有名な場所である。
貧しい家庭の私生児として生まれ、幼くして首都ブエノスアイレスに出奔し、モデルや女優業など様々な職歴を経たのちに、当時
軍人だったペロンの愛人となり、後にペロンが大統領になった時、ペロンと結婚し、大統領夫人へと登りつめた数奇な運命をたどった
女性である。

 貧しい家庭の出であったと言うことと、ラジオのパーソナリティ時代に多くのファンを得ており、大統領夫人となったころには
絶大な人気を誇っていた。エバが正式な名前だがラジオのパーソナリティ時代からエビータと愛称され、若くして癌で亡くなったが
今もなお国民的なヒロインとして絶大な人気を誇っている。

 エビータの波乱にとんだ人生は映画にもなり、日本国内では劇団四季によって演じられている。この国には中南米特有の革命だとか
暗殺だとか、血なまぐさい事件が数多く残っている。また私たちが訪れた郊外には、貧しい農村での彼女の家を模した建物の中に
エビータの写真だとか遺品が数多く展示されている。

 この国の牧童たちのことを、カウボーイとは呼ばずガウチョと呼ぶ。幼少より巧みに馬を乗りこなし、牛を追う生活は男たちの
あこがれの仕事でもある。馬を操ることにかけては実に巧みで、訪れた牧場の片隅では何頭もの馬の轡を並べガウチョショーが
行われていた。また、ブエノスアイレスの郊外には広大な牧場が延々と広がっていた。広大な国土を有する国の羨ましい景色である。

 この国は数多くの政変だけでなく、経済危機にも見舞われている。私たちが訪れた時も経済危機の最中であった。乗用車が停止する
度に車の前に回り込んでものを売るもの、中にはフロントガラスを掃除して、わずかばかりの駄賃を貰うものなどいて、事態の
深刻さを感じさせたが、相対的には混乱も悲壮感もなく国民全体は実にのんびりとしたものであった。

 日本のようにマスコミが騒ぎ立てることもないのだろうか、それはそれ、これはこれと国民は経済危機とは関係なく、たくましく
生きているようでもあった。外貨がなくなったとか、お金が回らなくなったからと言って、食べていくことさえできれば良い。
それも国民性なのであろうか。必要以上に深刻に考えないのが、アルゼンチン流なのだろうか。

 大急ぎで港に帰り着き出港を待ったが一向に船出する様子がない。既に夜は更けていた。実は停泊した港はラプラタ川の川べりに
あって、水位が下がったために船底が川底に着いて動けなくなっていたのだ。従って、水位が上がってくるのを待って出港した。
夜は更けていた。トパーズ号はいよいよ南米の最南端ウッシュアイアに向かう。
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地球一周の旅から10年(16) ブラジル連邦共和国

2014-12-01 06:12:39 | Weblog
 リオデジャネイロのシンボル的なものと言えば港からも小さく見えていたコルコバードの丘に聳え立つキリスト像だろう。
コルコバードの丘と言っても、実は標高700メートル余はあるから丘と言うより山であろう。この山へ登るには麓から
発着している登山鉄道に乗る。山頂まで一気に登ることの出来る、この鉄道はかなり急坂である。

 山頂へ向かう鉄道の周辺は木々が生い茂るジャングルであり、私達異国の観光客にとって珍しい植物も少なくない。
太い幹から直接ラグビーボールのような実が付いている。何と言う植物だろう。鉄道のすぐ脇にはインパチョイスの
原種かと思われる植物が咲いていた。

 山頂近くになると急に視界が開け、眼下には海や町並みが見え始める。西洋に見られるような赤い屋根をした家並みが
見える。眼下に広がる湖のようなものは何と言うのだろう。ヨットがたくさん停泊している。そしてお椀のように見える
湖の向こうは大西洋だ。非常に美しい。この景色はこの先に訪れたシュガーローフマウンテンでも見ることが出来たのだが。

 山頂に聳え立つ巨大なキリスト像は白く輝き、両手を左右に大きく広げ独特のポーズをしている。1931年に
ブラジルの独立を記念して建てられたと言うから古い。700メートル余の山頂にどのようにして建てたのであろうか。
信仰の成せる技かも知れない。今日的な重機もない時代に多くの困難を克服しながら建てたとすれば強い信仰心が
なければ成しえなかったことであろう。

 私たちが訪れた日も多くの観光客が来ていた。観光客はキリスト像を背景にして様々なポーズで写真を写していた。
そして、ひと時を山頂で過ごし降りていくのだが、下山の時には長い行列が出来ていて何便かの登山鉄道を待たなければ
ならないほど大勢のの人であった。

 次に訪れたのはシュガーローフマウンテン、日本語に訳せば「砂糖パン」と言うことになるらしいのだが、リオ市内には
奇妙な形をした幾つかの似通った岩山が点在している。この山もその一つだが「砂糖パン」の山と言われるように小高く丸い
お椀を伏せたような岩山が二つ並んでいた。

 この山の特徴は、その形だけではなく一木一草もない岩の塊であった。巨岩がどんと地上に乗っているような感じで
あった。巨岩とは言いながら、とてつもなく大きな塊である。それだけに異様に見えるのかも知れない。この山へは
ケーブルーカーを乗り継ぎで登ることが出来る。

 最終地点の山の頂は広場になっていて、土産物屋もあるような広さである。この土産物店には色んな色をした美しい石が
様々に形に加工され売られていた。鉱石が好きな私としては買いたいものばかりであったが、我慢して一個だけ記念に買った。

 広大な国土を要するブラジルは広大な国家と言うだけでなく各地で様々な鉱物資源を産する。そのような場所へ行けば
それこそ宝石にもなるようなものが無造作に転がっていると聞いている。ただ、それを日本などへ持ち帰ろうとすると
莫大な費用がかかる。

 アフリカのケニアで見た赤い土の色とリオデジャネイロで見た土の色は良く似ていて、この二つの大地はかつては続いて
いたことを証明している。そして、両大陸は今も豊富な鉱物資源を有している。

 シュガーローフマウンテン近くのレストランが昼食の場所であった。実は上陸前に聞き取り調査があった。上陸して
食べたいものは何かと言う調査であった。多くの人は船上の洋食に飽きていたので魚料理を選んだ。私達は悩んだ末
あえてこの国でしか食べられないものをと言うことで肉料理コースを選んだ。

 肉料理コースを選んだことが、実は正解だったことは帰ってきた人達の話を聞いて判明した。魚料理は私達日本人が
なじんできた魚とはおおよそ異なったものであったようだ。魚の種類も違えば調理方法も異なっていた。憧れだけで
魚コースを選んだ団体にとって実にがっかりさせられるような事だったようである。

 私たちが入ったレストランはバイキング風にセッティングされ、お皿を持って並んだ料理を取りに行く。そして席に
着いて待っているとウエイターが大きな金串にさした焼肉の塊を持ってくる。それを大きなナイフでOKと合図するまで
切り落としていく。実に豪快な焼肉料理である。

 レストランの中央にセッティングされた豪華料理でさえ満足できるほどのものでありながら、様々な種類の焼肉が
出てくるのである。日本人の小さな胃袋はたちまち満たされて満腹になってしまった。それでも新鮮な肉には飢えて
いたと見え、食べた量も半端ではなかった。こうして満ち足りた胃袋で次の観光地へと向かった。

 次の観光地はコカパバーナであった。イパネマの娘など色んな映画で紹介され有名になった海岸である。長い海岸
沿いには高級リゾートらしいホテルが立ち並び、この日の海岸も賑わっていた。身の安全を気遣うガイド役のスタッフの
言葉もあって長居は出来なかった。いつどこで犯罪に巻き込まれるか分からない危険が潜んでいた。特に日本人のような
無防備は観光客が狙われやすかった。

 波の大きな海の中で泳いでいる人は皆無に近かった。多くは湾曲した長い長い海岸の砂浜で遊びに興じていた。この国
では海は泳いだり水浴びをする場所ではなく、砂浜で遊んだり日光浴をする場所であった。

 こうしてリオデジャネイロ観光の一日は終わった。日本では見たこともないような幅広い道路、へばりつくように建ち
並んだ貧しい人達が住む住宅街、この国の人達を熱狂させる大きなサッカー場、そして有名なリオのカーニバル会場など
観光バスの中から眺めて帰路に着いた。この国の全てを見たわけではなかったが、その一部だけを垣間見た一日であった。

 貧富の差とそれによる暗い部分、それが南国特有の明るい光と対照的に実にアンバランスに見えた。犯罪が多いとは
言え、この国の持つ魅力は人を惹きつける何かがある。

 私達はここから南下して次の寄港地、アルゼンチンに向かう。ここで船の上で親しくなった友人Sさんとと別れた。
彼は沖縄県の人で多くの親族がこちらへ移り住んでいるとのことであった。親族を訪ねての旅であった。また、私同様
鉱物好きな彼は化石を採掘したいと言う夢を持っていた。その話はずっと後に再開することになった時の話として
残しておこう。
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