人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

活弁口演

2010-02-23 05:15:15 | Weblog
 ここのところ活弁の口演が二回あった。一つは地元の小学校、ここの
学校では昔のことを勉強する時間が設けられている。その一つが地域に
住んでおられるお年寄りから昔の話を聞くことであった。

 実は昨年もその時間に活弁を行った。三年生が対象であったが一部に
四年生も同席していた。担任の先生の希望であった。今回は三年生だけで
あり、活弁だけでなく出来たら昔の話もして欲しいという要望であった。

 従って、活弁以外にも準備したパワーポイントによる資料も持参した。
会場は暗幕とスクリーンがある視聴覚室であった。この部屋はパソコンも
設置されていて、私達が事前準備を行うため教室へ出向くと一クラスの
生徒が出てきた。パソコンの自主学習をしていたようであった。

 その子達は、昨年の活弁を見た子供達であった。口々に挨拶をしてくれ
中には活弁の先生だと言うことを覚えていて、「突貫小僧」の一部を真似
する子もいた。よほど昨年の活弁が印象に残っていたようだ。

 今年の子ども達も昨年の子ども達以上に反応が良かった。次の場面が
分かるのか、その場面が出ていないのに大声で笑っていた。次の展開の
予想がつくらしい。

 昔の話は、私達が子供だった頃の町の様子や家族、子ども達の遊びを
パワーポイントで紹介した。先生方からは準備期間が短かったにも関わらず
資料まで準備してくれたことに驚くとともに感謝の言葉があった。


 そして、昨日(2月22日)は玉島の駅前にあるホテル、セントイン倉敷
において玉島の歴史勉強会のみなさんが主催する活弁勉強会があった。

 九時半開催であったのに、私の勘違いで十時開催と思い込んでいた。
私達が会場に入ると既に何人かの人が来ていた。何故だろうと不思議に
思っていたら、実は九時半の開催であったのだ。

 会場設備を熟知していなかったので、一時はどうしようかと思うことも
あったが、とっさの機転で何とか会場設備で上映開始となり、ことなきを
得た。やれやれであった。

 最初に月世界旅行の活弁を行い、活弁の歴史などの説明後、突貫小僧を
行って終了した。ここの会場もなかなか反応が良かった。爆笑の連続で
あった。また、活弁との出会いや活弁の歴史の話も興味を持って聞いて
頂いた。次回は500人規模でと言う話まで出ている。楽しみである。

 歴史勉強会と言うことであり、参加者の多くは郷土史に詳しい人が多い。
こうした方々の話を聞くのも楽しみである。中には八十代の人も少なくなく
活弁のことをご存じの方も幾人かおられた。

 また、この会の発足最初は黒田綾山の墓地の修復であったとのことで
縁浅からぬものを感じた。と言うのも私の家内の祖先は黒田綾山という
南画の大家であった。

 本来は四国の人であったらしく、この地を訪れて、この地をこよなく
愛した人である。幾たびか周辺諸国の諸大名からお抱え絵師の話もあった
らしいが、全て断り終生市井の人であった。

 しかし、多くの弟子を育て、中には後々までも世に聞こえた人も少なく
ない。倉敷の墓地には何故か玉島にある墓石と同じものがある。黒田綾山
を顕彰して本家分家で分かったものかも知れない。

 今も我が家には綾山の作とされるものが二点ほど残っている。そうした
綾山の実績を後世に伝えようとする方々にお招きいただいたのも何かの縁
であろうか。今も活弁を通じての不思議な縁が続いている。
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土が変わると果実も甘い

2010-02-11 17:29:14 | Weblog
 我が家では一昨年以来、畑の土壌改良にEMを使っている。EMとは
乳酸菌、酵母、光合成細菌などを主体とした有用微生物群のことである。

 肥料には、出来るだけ化学肥料を使わないで米糠や油粕などを併用して
いる。また、野菜畑には、EMボカシを利用し生ゴミを発酵させたものを
作り、土に梳き込んでいる。

 何が良かったのかは分からないが、明らかに土質に変化が見られるようだ。
果樹にせよ野菜にせよ成長が良い。そして、果樹の場合は著しく多産である。

 その上、今年、気が付いたことであるが柑橘類が甘い。特に安政柑の
場合は例年に比較すると格段に甘くなり、更に多汁である。果樹だけでなく、
松やアクラと言った庭木の成長が良いことも先に書いた。

 しかし、古い庭木や弱った果樹の中には立ち枯れのものもあり、EMの
影響かどうか、今後継続して変化を見ていく必要があるようだ。


 先日、NHKで孤独死の問題が取り上げられていた。年間32000人もの
人が身よりもなく亡くなっていくという衝撃的な事実が放映され、多くの
人の反響を呼んでいるようだ。

 隣の部屋に誰が住んでいるかも分からないような時代である。気楽な
反面、寂しい話である。明らかに昔の長屋住まいとは異なる環境のようだ。

 そして、田舎には地主が誰か分からないような耕作放棄地が増えている
らしい。墓地さえも放棄されている。放棄された墓地は、やがて無縁仏に
なるのだろうか。まさに日本人の魂が漂流しているような時代である。

 先日、タイの山岳民族であるカレン族が栽培している陸稲についての
取材放送があった。山間部の傾斜地に陸稲が植えられ、稔り豊かな稲穂が
重く垂れ下がっていた。

 田には稲だけでなく瓜や綿なども植えられている。そして雑草も生えて
いる。多種多様な植物を混植することによって互いを支え合っているようだ。

 そう言えば収穫は村中総出で行う。昔は日本でも見られた風景である。
互いの助け合いが、人と人との絆を強くしている。元々、人間は一人では
生きていけない。互いに支え合って生きていくのが本来の姿であろう。

 人だけではない。この世のあらゆるものは互いに支え合って生きている。
その一角を壊してきたのが人間である。多くの種が絶滅の危機にある。

 これらは私達人間の足下を支えてくれたものである。その足下を私達は
自分自身の手で壊してきた。いずれ私達にも影響が及ぶに違いない。

 EMにはその壊れた自然を修復する力がある。人間は光合成細菌が気の
遠くなるような歳月をかけて作り上げた自然の中に誕生し今日に至っている。
その微生物の力をもう一度借りなければならないほど環境を壊してしまった
のである。
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二月は逃げる

2010-02-09 06:00:33 | Weblog
 光陰矢の如しとは昨今のことであろうか。一月はいぬる、二月はにげる
三月はさるという。誠にその通りで、二月もあっという間に過ぎていき
そうだ。

 母の法要を先日終えたばかりである。神式なので49日とは言わないで
50日祭という。神式では、母は神様になる。母の魂は、今頃どこへいる
のだろうか。生まれ変わりがあるとすれば、もう他の人に生まれ変わって
いるのだろうか。いずれにせよ母の魂の幸多かれと祈るばかりである。

 そんなあの世の話とは別に、現世は殺伐としている。今はトヨタ問題が
大きく報じられている。一兆円企業になったのは。つい先日のことで金融
危機以来、一気に今日の姿に変じてしまった。

 そもそも頂点を極めたとき、次の展開が待ち受けているのは世の習いで
ある。ただ、頂点がどこなのか誰にも分からない。分からないから、まだ
先があると思い突き進んで行けるのかも知れない。誰にでもどんな世にも
待ち受けていることだ。

 奇しくも今の社長は創業家出身の豊田さんだ。これも単なる偶然とは
思えない。全ては敷かれたレールの上を走り続けている上での出来事かも
知れない。

 トヨタもこの危機を抜けたところに新しい展開があるだろう。今は辛抱
の時である。この危機を乗り越えることが出来れば更に飛躍した将来が
展望できるのではなかろうか。山もあれば坂もある。これが人生と言うもの
であろう。

 アメリカの格付け会社は何の資格があって、世界の企業や国の格付けを
しているのだろう。そもそも一方的な格付けなどと言うものが正しいこと
なのであろうか。いずれ人間がやることである。全てが正しいと誰が言える
のであろうか。

 あのリーマンショックに繋がる一連の事件も企業の格付けというものが
あって始まったものだと聞いている。信用も出来ないような会社を優秀な
企業だと格付けしたのは誰だったのか。

 確かに日本の銀行は国の多額な債務を国債という形で引き取っている。
その国債は日本人が営々と貯蓄した預貯金に裏打ちされている。アメリカ
のように中国や日本に買わせたものではない。

 しかし、だからと言って幾らでも国債を発行して良いものではない。
もうそろそろ限界に来ている。これから先は税収入を増やすことや支出の
見直しで改善を図る必要がある。

 そのためには消費を増やさなければならない。皮肉な話だが消費の拡大
こそが景気回復のエネルギーになる。多額なお金は銀行に預けていただけ
では生きたお金にならない。

 昔からお金のことを「お足」と言った。江戸っ子は宵越しの金を持たない
ことを誇りにしていた。裏を返せば貯めて置くほどの収入がなかったこと
にもなるのだろうが・・・。とにかく、お金は「お足」なのである。動いてこそ
価値がある。

 日本人は慎ましやかな生活を美徳としてきた。しかし、預金通帳に数字
が記載されたままで亡くなっていく人も多いのではなかろうか。この際は
大いに消費を拡大しよう。いずれ高福祉を望むのであれば消費税のアップ
は避けられそうもない。政府の財源は、どこにもないのが実状である。

 望んでもいない格付けで信用が失墜と言うことになれば、その被害者と
なるのは私達国民である。
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沖縄基地問題

2010-02-04 06:10:46 | Weblog
 沖縄には未だに前線基地並の大きな基地がある。そして、いつでも出撃
できる体制にある。そして在日米軍が起こす事件が絶えない。大きな事故
も生じている。

 この基地の移設を巡って事態は二転三転している。普天間基地をどこへ
移すのか。自民党政権時代、移転先は辺野古にほぼ決まっていた。しかし
ここは大珊瑚礁の美しい海である。その上、絶滅危惧種であるジュゴンの
生息地でもある。

 こんなところへ基地を移設などとんでもない話である。沖縄県民はどこも
受け入れを拒否している。だからこそ鳩山総理も言葉を左右にして先送り
しているのである。

 私達は基地問題を考えるとき他人事のように考えてはいけない。これは
日本国民が共通に考えるべき問題である。従って、基地は要らないと言う
時は、みんなが口を揃えて意思表示をしなければアメリカは動かない。

 アメリカは基地の必要性もさることながら、日本に基地を置き、日本の
安全保障を担保しているのだという口実で、多大な資金援助を引き出して
きた。いわば、日本は金ずるであり強力なスポンサーでもあった。

 そのスポンサーを誰が考えても簡単に「はい、そうですか」と簡単に
手放すはずがない。これは日本国民が、もう基地は必要ないとサインを
送る以外に方法はない。それが出来ないのであれば基地は永続的に存続
することになる。

 そもそも戦争とは何だろう。何が原因で生ずるのだろう。戦国時代で
あれば領地の奪い合いであった。しかし、今は違う。領地の奪い合いなど
どこを見てもありはしない。

 それでは何か。確かに石油資源の奪い合いが原因の戦争は続いている。
しかし、本当にそれだけであろうか。私にはそうは思えない。必要もない
のに戦争を望んでいる人がいると言うことが問題である。

 とんでもない兵器を次々に開発し、まるでゲームのように実戦で使って
いる。9.11という事件をでっち上げてテロ壊滅作戦と称してアフガニスタン
に軍隊を送り込んだのは誰だったのだろうか。その背後には産軍複合体と
いう、とんでもない軍事産業がいる。そして敵と味方双方に武器を売り渡し
大もうけをたくらんでいる武器商人もいる。

 この現実に目を向けない限り基地問題の根本的な解決にはなり得ない。
私達は今こそ武器を持たなくても生きていけるような世の中を作らなければ
ならない。そのことが回り道のように見えるが基地問題を解決できる一番
近道のように思える。

 その最初にするべきことは近隣諸国との友好関係である。お互いの国の
間には簡単ではない問題がたくさんある。しかし、話し合いを続けている
内には戦争などと言う物騒なことにはならない。だからこそ外交が最も
有効な戦争抑止力になるのだと言うことを認識したい。

 ピストルを向けられたままで話し合いなど出来はしない。当たり前の
ことである。
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感情豊に

2010-02-03 04:28:42 | Weblog
 久々に雨上がりの畑に行ってみた。既に果樹など木々は芽吹きの準備を
始めたようだ。梅の蕾も大きく膨らんでいる。春はすぐそこまで来ている。

 孫の玄は今年4才になった。元気一杯の子どもである。赤ちゃんから
幼児へ、そして少年へと、その過渡期にある。むろん反抗期でもある。
人間なら誰でもが通る道である。

 先日は家内の誕生日であった。その誕生祝いが玄から届いた。中身は
絵本だった。手作りの絵本である。玄が描いた絵に母親が添え書きをした
ものであった。

 恐らくは玄が絵を描きながら話した言葉をそのまま文字にしたものだ。
題名は「むっちゃんととしこ」主人公は家内と「としこ」という名前の
うさぎである。

 二人が一緒に買い物に行って帰る話である。買ったものは聞いたことも
ないような名前の花と3本の鉛筆だった。むっちゃんは、その鉛筆で手紙
を書いたことでお話しは終わっている。5ページにも渡る話である。

 右下にはちゃんとページも印されているし、作者の名前も記入されている。
単純な話だが、きちんとした物語になっていた。もう、こんなことも出来る
ような年齢になったのだと驚きを隠せない。

 先には、こんなこともあった。それは私の母、玄からすれば曾祖母の死に
関することだ。曾祖母の葬式の時、玄はお父さんとお留守番をしていた。
恐らくお母さんが出かけるとき、どこへ行くのか聞いていたのだろう。
それともお父さんから聞いたのだろうか。

 葬式が終わって幾日か過ぎた日のことだった。買い物に出かけた車の中
で玄から唐突に誰が亡くなったのかとの質問があった。夏にお見舞いに
行ったあのおばあちゃんが亡くなったと話した途端に、大粒の涙を落とし
泣き始めたらしい。

 自分でもおばあちゃんが亡くなったと薄々は感じていたらしい。よほど
感情を心に溜めていたらしくなかなか泣きやまなかったそうである。困った
娘は玄に「おばあちゃんは別の良いところで生まれ変わるんだよ」と慰めた
そうである。それでやっと納得したとのことであった。

 滅多に顔を合わせることのなかった曾祖母である。会うのは、たまに
正月に帰ったときくらいなものであろうか。従って、曾祖母が入院した
ときに会ったのは実に久々のことであった。

 しかし、その時のことは強く印象に残っていたらしく、その人が亡く
なったと言うことに対し、よほど強い思いがあったに違いない。ずっと
心の中で考えていたらしく、その思いが死とは何か良く分からない玄の
心にひっかかっていたのではなかろうか。

 人の死が大変軽んじられている昨今である。人の死だけでなく、この世
に生を受けた生きものが、この世から消えていく。寂しいことである。

 人は、もっと玄のように純粋でなければならないと思うのである。それと
同時に人を思いやる心、自然を思いやる心を失ってはいけない。

 とかく日本の子ども達の目には光りがないと言われている。確かに発展
途上国や貧しい国の子ほど目はキラキラと輝いている。目にひたむきさが
現れている。

 私は思うのである。孫の玄には今の優しい心を失うことなく、感情豊かな
人間に育って欲しいと。
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発想の転換

2010-02-01 06:28:35 | Weblog
 あれほど大騒ぎをしていた小沢問題に関する報道が、ここのところ
なりを潜めている。一方、横綱朝青龍が本場所中に泥酔して人を殴った
という事件や鳥取の不審死事件が大きくクローズアップされている。

 この国の報道の在り方は、いささか方向性を失っているのではないか。
自分たちでじっくりと事件を追いかけていくという姿勢がないのだろうか。

 新聞各社は年を追う毎に購読者が少なくなり頭を抱えている。確かに
報道の方法も新聞だけでなく多種多様になった。それだけに読者離れも
無理ないかも知れない。

 しかし、それだけが原因だろうか。もっと報道本来の在り方を考え直す
必要があるのではなかろうか。原点に立ち返り考え直すことこそ必要な
ことではないだろうか。

 さて、大相撲も同じ事である。相撲興業の大看板である横綱が場所中
深夜まで大酒を飲んでいたことだけでも大問題なのに、こともあろうに
他人に大怪我を負わせたなど言語道断である。

 ボクサーが人に怪我を負わせたらボクシング界を追われることになる。
それがスポーツ選手に課せられた宿命である。ましてや日本の国技とまで
言われている大相撲である。

 相撲を目指す少年達に、どのように説明すれば良いのだろう。スポーツ
マンシップとは何なのだろう。相撲協会で検討するまでもなく、即、引退
させるべきではなかろうか。

 大相撲は興行収入でまかなわれている。従って、人気力士が土俵を去る
ことになれば大きな痛手であろう。それなら新しいヒーローを育てれば
良いのではなかろうか。

 日本の歴史や風土になじまない外人力士を育てるのではなく国内の人材
を発掘し育てるべきではないだろうか。相撲界の沈滞は一重に目前の興行
収入ばかりを追求してきた相撲協会の在り方に問題がある。

 外人力士には一時的な人気を感じても日本力士のように心から応援する
気にはなれない。日本人の心を感動させるようなものがない。外人力士に
依存することを止めて、大相撲の全力士を日本人にすれば本来の姿を取り
戻すことが出きるのではなかろうか。

 国内にも多方面のアマチュア相撲や少年相撲がある。こうしたところへ
日本相撲協会から助成金を出し将来のお相撲さん候補を育ててはどうだろ。

 折しも日本相撲協会は理事の選任を巡って貴乃花が立候補し一石を投じて
いる。貴乃花が言うまでもなく日本相撲協会も原点に立ち返って大改革を
する必要があるのではないだろうか。

 
 さて、政治の方にも手詰まり感が見える。1000兆円にもならんとする
借金を抱え、この国はいったいどこへ行こうとしているのだろうか。

 鳩山首相の言う人の命を守るという施政方針演説が全てなのだろうか。
こうした謝金地獄を作ったのは自民党政府である。その自民党が民主党の
政策にいちいちケチを付けるのは筋違いと言うものだろう。しかし、
だからといって鳩山さんの方針が全てだとは思えない。

 反面、民主党の方向が間違っていたとしても政権を再び自民党に戻すこと
などは考えられない。今の自民党には民主党以上に見るべきものが何もない。
自民党は解体して出直した方が良いのではなかろうか。

 果たして、この国の政治は未来は、このままで良いのだろうか。民主党
政権も始まったばかりで、あまり性急に成果を望むのは酷な話かも知れない。

 しかし、国の財政は何とかしなくてはいけない。自助努力も節制もせず
今まで自由奔放に生きてきた人にまで社会が救済の手をさしのべなければ
ならないのだろうか。確かに、どこで線を引けばよいのか、どのように
区別すべきか、確かに難しいところはある。しかし、いっぱひとからげで
の救済の在り方には疑問を感じている。

 私達国民も、一人一人が他に頼ることなく、もっと自助努力をすべきでは
ないだろうか。反面、子ども達は国の宝であり、選んでこの世に生を受けた
わけではない。これは国が責任を持って育てなければならない。

 また、雇用に関しては早く新しい産業を興し、雇用の拡大を図るべきで
あろう。そのビジョンを作るのは国の責任である。この国のあるべき姿は
何なのか。自民党政権時代から曖昧模糊として全く見えなかった。

 今の民主党にも見えてこない。日本だけでなく世界中が大きな転換期を
迎えている。一歩先を行く新興国インドや中国にしてみても多くの火種を
抱えている国だ。

 この先どんな大混乱が待ち受けているか分からない。食糧自給率が僅かに
40%という日本は、その時どうすれば良いのだろうか。働く場所がない
人達を今の内にもっと積極的に田舎に送る方法はないのだろうか。日本の
人口は都会に集中しすぎている。この極度にいびつな人口比率を解消する
ことこそ、これからの日本に必要なことではないのだろうか。

 農業がいやだと就業をえり好みする人達にまで経済援助する必要がある
のだろうか。そんな思いさえする昨今である。
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