人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

不思議な出来事

2012-04-30 04:21:39 | Weblog
 これを引き寄せとでも言うのだろうか。書き残しておかなければならない特筆すべき出来事が
4月29日にあった。

 その前に今までの経過について少しだけ触れてみたい。実のところ児島市民交流センターへ勤務し
始めたこと自体も実に不思議な巡り合わせによるものである。そのことを記していると長くなるので、
別の機会に譲ることにしよう。

 昨年の8月から児島市民交流センターへ勤め始めて以来、実に多くの人達との出会いがあった。
こうした人達との出会いによって、センター主催のイベントや講座を次々と立ち上げることが出来、
大いに助けられてきた。

 中には訪問者が持ち込んできてくれたものもあれば、こちらが待っていたのを知っていたかの
ように、偶然にその人が現れたりと、そのようなことは枚挙にいとまがない。

 そうした出会いは今も続いている。労せずして講座やイベントが実現できるのも、こうした様々な
出会いによって生まれたものである。この出会い決して自分だけの努力によるものではなく、
多くは偶然であったり、人を介しての紹介のようなものである。

 こうした偶然の出会いも、あるいは人からの紹介も言い換えれば、この特異な建物が引き寄せて
いるものなのかも知れない。児島の中心にあり、ドーム型の特徴ある形をしている。太鼓橋を
模したものである。そして建物の天井は中世に描かれたものを使ったという巨大な絵で覆われている。

 人を惹きつけるだけのインパクトを持った建築物である。こうした出会いや訪問者のことを考えると
建物と人は密接不可分なものかも知れない。

 さて、そんな多くの出会いの中で極めつけとも言うべき出来事が4月29日にあった。せんいのまち
児島フェスティバル二日目、この日も建物周辺は大変な人出でごった返していた。

 その日の朝、私は家内の車で出勤し、すぐに昨日は忙しくて歩くことが出来なかった他の会場を
巡っていた。他会場からセンターへ戻り、約束をしていた人を待たせていたので地下練習室に行き、
いったん受付窓口へ戻った。

 そして「緑のカーテンプロジェクト」に使用するニガウリの種を受付に渡し、落ち着かぬままに
私の事務所へ出入りを繰り返していた。

 何の用事だったか覚えていないのだが、再び受付窓口へ向かったとき、どこか見覚えのある人物が
受付のところへ立っていた。髪が長かったので見たときは他人の空似かと思った。しかし、着ていた
作務衣が、その人らしい特徴を表していた。

 どうやらこの時、相手も私だと気付いたらしい。思わず二人、同時に声を発し「やあやあ」と言う
ことになった。何が何だか分からないまま、まあとにかくお茶でもと言うわけで、喫茶ハーモニーに
腰を下ろした。

 ことの経緯(いきさつ)を訪ねると、二年ほど前の出来事に実に良く似ていた。大阪に向かう途中
実は昨晩、倉敷に一泊したとのこと。その宿泊先で児島ではデニム関連商品の販売をしていることを
知ったようだ。

 大阪に向かうにはまだ早く、息子さん達にジーパンを買ってやりたいと言う奥さんの希望で児島まで
来たとのことであった。そして、大混雑する会場へ奥さんを下ろし、駐車するところが見つからない
のでセンターの第一駐車場脇に停めたまま、どこか車を停める場所はないかと聞きに来たらしい。

 その時、私とばったり出会ったというわけである。お互いに数分でも現れる時間が違っていたら、
これだけ広い会場であり大混雑の最中である。場所を決めて約束を交わしていたとしても、どちらかが
初めての場所であったら出会うのは容易なことではない。それなのに、こんな偶然があるだろうか。

 あまりにも予期せぬことで、私がここに勤めていることを弟から聞いていたのかと思ったほどである。
しかし、どうやらそうではなかったようであった。まさに偶然の出来事であったようだ。改めて名刺を
渡し、昨年の8月からここへ勤めていることを話した。

 このご夫婦は母の葬儀一切を執り行ってくれた人達であった。このご夫婦とは葬儀だけでなく
実に縁が深い人達である。それは玉島でのことであった。その時も大阪に向かう途中だったようだ。
セントイン倉敷というホテルに泊まるとき、そのホテルのエレベーターの中で偶然に私達の活弁の
チラシを見た。矢吹さん(私の弟)のお兄さんのチラシだ。その時、改めて私達夫婦が活弁士である
ことを思い出し意識したようである。

 それが縁で教会の記念祭の時、私達が活弁士として招待され信者のみなさん大勢の前で活弁をさせて
貰った。その時に演じたのは「子宝騒動」であった。この映画、貧乏人の子沢山の悲哀を面白可笑しく
描いた映画で、子沢山は教会の理念にも通じると言うことで大いに喜んでいただいた。

 実は数日前から今年のお参りはいつにしようかと迷っていた。9月30日には大きなイベントの
開催を考えていたからだ。一度、弟にも電話をかけ相談してみなければと思い続けていた。その
矢先の出来事であった。私の思いがこのような形で現れたのだろうか。それともこのようなことを
引き寄せとでも言うのであろうか。

 センターでの勤務が始まってからは、まるで強力な磁石で引き寄せるように様々な人達が訪ねて
くれる。そして、玉島の出来事と言い、今回の出来事と言い、とても偶然とは言い難い。先生の奥さんの
言葉を借りれば出来すぎていて鳥肌が立つようだ。人の縁とは引き寄せとは、このようなものだろうか。
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命より金

2012-04-25 06:19:06 | Weblog
 中部電力浜岡原発(静岡県御前崎市)の「再稼働認めず」を掲げ、同市長選に出馬した元市議の
水野克尚(かつひさ)氏(58)。予想外の大敗が決まった今月15日夜、事務所に集まった支援者を
前に悔しさをにじませた。

 こんな記事がインターネット上に掲載されていた。一体、あの時のあの恐怖はどこへ消えてしまった
のだろう。大震災と大津波、それだけでもショッキングな出来事だったのに、追い打ちをかけるように
原発の事故、それも4基が同じように爆発するという前代未聞の大事故であった。

 あの時、少なくともこれで日本はお終いだと感じた人も少なくなかったのではないだろうか。そして
東京周辺までは放射能被害が及ぶのではないかと想像したとき、大都会からの避難者による大混乱が
想像された。

 そして私の脳裏に浮かんだのは、ここ岡山までも広く放射能汚染にさらされるのではないだろうかと
いうことだった。さすがに偏西風のお陰と言おうか、ここまでの被害は最小限に止まった。

 しかし関東地方ではスポット的に汚染されているところが少なくないことが次第に明らかになって
いる。こうした汚染はこれからも長く続くであろう。

 さて、原発は果たして必要なのだろうか。電気を使う今の生活をもっと根本的に見直すべき時では
ないのだろうか。原発を抱える地域は雇用と原発関連のお金で馴らされてきた。様々な補助金として
湯水のように垂れ流されてきた莫大なお金は、その地方の自治体に取って、なくてはならないお金に
なってしまっていた。

 こうしたお金が入らなくなったら明日からどうするのかと尋ねられ、簡単に答えることの出来るもの
はいないだろう。それが冒頭の選挙結果に現れているように思われる。恐らく時間が経過すればする
ほど恐怖は薄らぎ、原発は容認へと向かうのではないだろうか。

 一度手痛い目に遭ったのだから原発からは撤退というドイツ(ドイツはソ連のチェルノブイリ事故
以来、原発からの脱却を始めている)のようにならないのが日本人気質とでも言おうか、不思議な
ところである。


 小泉政権時代の郵政民営化路線を見直す改正郵政民営化法が27日、民主、自民、公明3党などの
賛成多数で参院本会議で可決・成立したが、05年の民営化法採決で30人の大量造反を出して衆院の
「郵政選挙」の引き金を引いた参院自民党では、今回の造反は丸山和也氏の棄権だけだった。

 郵政選挙で圧勝した小泉純一郎元首相は引退し、国会の勢力図は様変わりした。賛成票を投じた
民営化推進派は「完全民営化を否定する内容で不満だが、党内の改革派は少なくなり、仕方ない」
と語った。

 こんな記事が掲載されていた。小泉劇場に踊らされ国民の多くが当時の首相だった小泉氏の政策を
支持してきた。実は小泉首相と竹中蔵相が組んで行ったあの時の行政改革と称するものが今日の
景気低迷を招き政治的混乱の引き金になったとも言われている。

 そして、あの大騒ぎはいったい何だったのだろう。政治家のみならず私達国民に反省の気持はない
のだろうか。民営化され持ち株が市場公開されつぃまうと外国の資本が自由に買うことが出きるように
なる。

 こうなれば日本国民の虎の子のような郵貯が外国資本、とりわけ民営化を強く望んでいたアメリカに
取り込まれてしまう恐れがあった。大いにその恐れがあった。アメリカを支配するものにとって郵貯は
喉から手が出るほど欲しかった。労せずして大金が手にはいるからだ。

 TPPにしてみても巨大資本が支配するアメリカなどの思惑が強く働いている。私達はマスコミの
報道に流されるのではなく、私達の目で確かめて判断するという訓練をしなければならない。意外に
今の時代はマスコミの報道を裏読みする方が真実が見えてくるような気がしてならない。

 大手マスコミもまた広告費に縛られ巨大資本に制御され易い会社であることを念頭に置いておく
必要があるようだ。再び小泉劇場のようなものに踊らされたり、検察の行き過ぎた取り調べによる
冤罪事件を起こさないためにも監視と批判の目を持つことが大切だ。

 今更ながらEMの驚異的な効果に驚いている。この記事は別の機会に書こうと思っている。
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防災士受験講座

2012-04-23 06:25:25 | Weblog
 色々迷ったあげく受験を決断したのは今年に入ってからであった。今も公共施設へ勤務中とは言え
現役を終えての再就職なので、現役時代ならともかく、その必要性をあまり感じなかった。

 私は、地球温暖化防止活動推進員、省エネ普及指導員などというボランティア活動を続けながら
多くの人達に多種多様な気象異変がもたらす恐ろしさについて話し続けてきた。

 しかし一方では、いっこうに進まない省エネや温暖化防止の取り組みと、日々変化していく気象を
見比べながら、こんな話をいつまでも続けていても無意味なのではないだろうかといつも疑問に
感じていた。

 もう気象異変は回復不可能なところまで来てしまったのではないだろうか、そう思うのである。
それほど地球温暖化は深刻であり、現状維持すら不可能になっている。

 それではこれから何をすればいいのかだろうか。何をしても意味がないのではなかろうかと思う
一方で、それでも何かするべきことはあるのではないかと思い、今回の防災士の受験を思い立った。

 ずいぶん長い前置きになってしまった。最近では何もかも深刻には考えないようにしている。
全てはなるようにしかならないし、流れに任せるしかないと思っている。そうした状況の中で思い
付いたのが防災士の受験であった。

 しかし、防災士の資格を取得しても当面何かをするような当てもなく、単に資格を持っているだけに
終わるかも知れない。それでもいつか役に立つときが来るのではないかと思っている。

 日頃から地殻変動に関心を持っていた私にとって今回の受講で一番の収穫だったのは元京大の総長
であった尾池和夫先生の話であった。尾池先生は地球物理学者とのことで地震など地球規模の様々な
地殻変動に関しての権威である。

 その昔、学問を人文学、地文学、天文学と呼んでいた時代があったようだ。文とは甲骨文字では
人そのものをさす文字だったようだ。従って、天の学問も地の学問も、むろん人間自身に関する学問も
全ては人に関する事象を扱った学問だという観点から捉えらた言葉であったようだ。

 正にその通りで、人間の存在があってこそ天の学問も地の学問も生きた学問となる。学問が単なる
事象を捉えたものだけだと人間とはかけ離れた存在になってしまい、学問本来の意味を持たなくなって
しまう。

 学問が学問たるためには常に人間という存在があってこそ成り立つものである。その点に於いて
地学と言うより地文学というほうが言葉に深みがあって良い。

 さて、その地文学に地震のメカニズムも包括される。今回の東日本大震災、北米プレートと太平洋
プレートとの境目に蓄積された積年のストレスが一気に解き放たれ、それが大地震となり大津波と
なった。

 また、同じ事象は繰り返し同じ場所で生じている。起きる日がいつかという断定は難しいが、
起きるのではないかという予測は、その分野の専門家であればおおよそ気付いていたはずである。
それくらい今回の大地震の前には予兆とも思えるような大小の地震が頻発していた。

 ストレスが一気に開放される前の状態であった。この付近で大きな地震が発生する。それは巨大
プレートの境目がピシピシと不気味な音を立てて割れ始めていたときであった。薄氷を踏むと同じ
ようにピシピシと気味の悪い音がする。あれと同じである。ものが巨大だと言うだけのことである。

 先の昭和三陸大津波から79年。一年に10㎝と言うから79年間で790㎝、つまり8メートル
近くは陸側に圧力がかかり続けていたことになる。カーナビでさえ判別できるくらいの巨大な地殻
変動であった。従って、その反動の大きさも分かろうというものである。

 これくらいの圧力は日本列島のどこにでも生じている。そもそも日本列島が弓なりになっている
のは異なる方向からの様々な圧力を受けているからである。当然のことながら内陸部でもそのしわ寄せ
は生じていて、日本列島には数え切れないほど様々なひび割れが発生し、その度に地震が発生して
いるのである。

 こんな簡単な理屈が分かっていて、その上に大小の地震が多発していたというのに、その危険性を
何故呼びかけてこなかったのか。そして、あろう事か福島原発の沖合いに記されていた震源地のことは
巨大地震を予測する資料から削除されていたという事実はいったい何を意味するのだろうか。

 今回の原発事故は自然災害などではなく人災以外の何ものでもない。それだけを取ってみても
原発政策を進めてきたものや東京電力の幹部達の罪は大きい。今後、断固として裁かれるべきでは
ないだろうか。

 多発する異常気象、もはや常習化して異常気象とは言えなくなってきた。これらがもたらす災害から
せめて人の命だけでも守ろうというのが防災士の役目である。防災士に特別な権限があるわけでもない。
地域防災の率先垂範者の一人として、あるいは防災意識を啓蒙するものとしてのささやかなる任務を
担っていくことになる。
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桜の季節

2012-04-14 05:51:15 | Weblog
 過ぎゆく春は短い。それにも増して桜の季節は短い。今年はことのほか雨の日が多く、桜を楽しむ
間もなくはや散り始めている。周辺の山々もいつの間にか緑に色付いてきた。一気に春が来たようだ。

 勤務先の児島市民交流センターでは講座が次々にスタートし、一段落したと思う間もなく次の企画
を急がなければならなくなってきた。始まって間もない講座の数々ではあるが、みなさんに果たして
喜んで貰えているのだろうか。

 児島市民交流センターへ勤め初めて半年が過ぎようとしている。文字通り火の玉となって事業を
立ち上げ矢継ぎ早にレールへ乗せてきた。この間、好きな旅行も趣味も畑仕事も投げ打って阿修羅の
ごとく走り続けてきた。

 望んでいた仕事だったとは言え凄まじいばかりの日々であった。そして今もなお同じような日々を
過ごしている。この間、幾人の人と新しい出会いがあっただろうか。全ては自分自身が過去に望んだ
ことであり、時来れば必ず叶うという実感を強くしている。今は身をもってそのことを体験している。

 残すところ三年数ヶ月、この先に更にどのような出会いがあり、どのような日々があるのだろうか。

 北朝鮮がロケットの発射実験を行った。衛星を打ち上げるとのことであった。外人記者や専門家まで
招待しての実験であった。しかし、漠然たる私の予測通りロケットはあえなく空中分解してしまった。
北朝鮮自らも認める失敗であった。

 この国にあってロケット一機の費用は安くないはずである。一機の費用があれば多くの国民を救う
ことが出来たはずである。疲弊しきった国民の暮らしは、どのようになっているのだろうか。体制を
維持するためとは言いながら、この国の有り様に多大なる疑問を抱かざるを得ない。

 好い加減に国民はこの体制から解放されるべきであろう。戦前の日本を考えるとき決して他人事とは
思えない現実がこの国にはある。かつての日本も体制を批判すれば、たちどころに逮捕され監獄へ送り
込まれてきた。

 国家とは、いったい誰のためにあるのか。国家という体制がなくても生きていける時代があった。
それが今は国民が国家に縛られ正に主客は転倒している。国民のための国家でなければならない。

 お金は人々のためのものでなければならない。しかし多くはお金のために人々が縛られている。
シリアにせよ北朝鮮にせよ独裁を維持するために多くの民が犠牲になっている。この地球から一日も
早く全ての人民が解放され、誰もがお金に縛られず平等に心豊かに暮らせる時代が来ることを願って
いる。

 我が家の果樹畑は春爛漫である。冬場の寒さをものともせず花を咲かせてきたビワはもう小さな
実になり始めている。梅の花が咲き、アンズの花が咲き、スモモの花が咲き、桃の花が開いている。
そして今はナシやリンゴの花が蕾を膨らませている。キウイの芽も伸び始め、ミカンなどの柑橘類も
芽吹き始めている。一度に全てのものに春がきた。

 こんな我が家の畑を眺めていると自然の変わらぬ大きさを感じる。それに引き替え人間の世界の
何と窮屈で狭いことか。あまりにも目先のことしか見えない人が多すぎる。これもまた現実なのか。
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自然の力

2012-04-05 05:52:41 | Weblog
 猛烈な低気圧と化した春の嵐は想像を絶するような力を見せ付けた。台風の被害など余り受けた
ことのない我が家にとって久々の大きな被害だった。今まで倒れたこともない手作りの小屋が転倒し、
小さな耕耘機は覆っていたシート毎に転倒してしまった。

 近所の人の通報で知った山の畑の物置小屋は重いブロックの基礎ごと1メートルほど位置がずれて
いた。本来、小高い丘の斜面にある小屋としては風を受けやすい場所であり、何度かの激しい台風も
しのいできた小屋である。地を這うように低く作っている物置小屋が、かくも簡単に移動するなど
考えられないことであった。

 そして、ハッサクや夏みかんを保管している箱の覆いも完全に剥がれていた。針金で固定し重しを
乗せ多少の風の影響など受けないようにしていたのだが。

 このブログを書いている今(4月4日)も窓の外では時折、激しい風の音がしている。一昼夜経ても
なお風は治まりそうもない。

 この日(4月3日)瀬戸大橋線は岡山からの運行を止めていた。瀬戸大橋の橋脚上では走行出来なく
なった電車がお昼過ぎから7時間近く停止したままであった。通常であれば岡山と児島間は折り返し
運転となるのだが、この間も運行停止になっていた。

 恐らく走行中の転倒事故を考えてのことであった。余ほど従来にない強風だったのではなかろうか。
電車通勤していた人は夜遅くなって帰途に着いたようだ。

 さて、この台風以上に強風だった低気圧、偏西風の蛇行が原因らしい。日本列島まで大きくうねった
偏西風は本来なら北に押しとどめておくべき寒気を大きく南下させている。そこへ南からの暖気が流れ
込んだから一気に低気圧が発生した。暖気は冷えた空気によって一気に上空へ押し上げられ巨大な渦と
なった。巨大な空気の流れが渦となったのだ。

 台風とは全く構造の異なる空気の渦である。そして上空で冷やされた暖気は一気に凝縮し大量の雨を
降らせた。ところによっては雹となって降ってきた。まさしく春の嵐であった。この気象状態は当分の
間、続くらしい。その上、今年は冷夏になるかも知れないと言われている。冷害の対策が必要である。
日本にとっては政治的な混乱もあって国難とも言うべき時代にあるようだ。

 しかし嘆いてばかりはいられない。国難は今までにも幾度となくあり、先人達は逞しく乗り越え生き
抜いてきた。嘆くことなく、これが人生だと坦々と受け入れていく他はない。時は流れ自然は人の営み
とは関係なく移ろい行く。

 般若心経は今更ながら全てをズバリ言い表していてすごい。このような困難な時代にあってはもう
一度、般若心経の意味を噛みしめると良い。全ての出来事は生ずるべくして生じていることである。

 みなさんは毎週放映されているNHKの平清盛をどのように見ておられるであろうか。平安末期、
貴族と言われるごく一部の人達だけがきらびやかな生活を送っていて、大半のものは貧しい生活で
あった。蓄えなどおおよそ考えられないその日暮らしであった。

 薄汚れた体と着物は当たり前の生活であった。そもそも入浴などと言う習慣のなかった時代であり、
着物と言えば麻を中心とする粗末なものであった。そんな時代でも私達の祖先は「生(せい)」を
紡いできた。私にとって久々に見るリアルな映像を興味を持って見ている。

 こんな強風の中でも桜は花開き木々の損傷はほとんど見られない。これが自然の姿であり、自然の
たくましさである。自然の物は泰然自若とし人間の構築物のみが押し倒され、なぎ倒されている。
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