人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

映画「おくりびと」

2008-09-30 11:42:56 | Weblog
 日常茶飯事のように殺人事件が絶えない。無差別な殺人があれば、
自分の人生を精算したいとして他人を巻き込むような殺人事件もある。
 このように人の命が簡単に奪われてしまう一方で、何故か身の回り
から死というものが遠のいているようにも見える。この奇妙な現象は
いったい何だろう。

 一つには死を間近に見つめることが少なくなったからだろうか。
家で死を迎えることが少なくなり、病院で亡くなることが多くなった
こともあるだろう。
 私が子どもだった頃、人の死というものは実に身近であった。近所
のおばあちゃんが亡くなったと言えば周辺の人が総出で死を悼み野辺
送りを行ってきた。

 戦争中は常に死と隣り合わせで生きてきた。戦地に行ったものは
もちろん、内地でも日々空襲によって死と隣り合わせであった。
その頃、命はごく身近なものとして感じていたのではないだろうか。

平和になって何故、人の命が軽く扱われるようになってしまった
のだろうか。今日ほど人の死が軽視されている時代はないように
思える。
 その一方で常に死というものに怯え不安を抱いていて、現実から
目を反らそうとしているのが私達だ。人の命はかけがえのないものだ。
それはこの世に生を受ける確率を考えてみれば良く分かることだ。

 映画「おくりびと」は様々な死というものを取り上げつつ、死とは
何かと問いかけている。一人の青年が社会一般からは忌み嫌われて
いる死者の入棺の準備をするという仕事を通じて、死というものに
向き合っていく。
 地味なテーマではあるが、誰しもが直面することを真正面から
とらえていて面白い。それでいて暗さを微塵も感じさせないのは
監督の差配と言うべきだろうか。
 ここで詳細を記すよりは一度鑑賞されることをお勧めしたい。良い
映画である。
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秋の実り

2008-09-28 06:55:02 | Weblog
 広い田圃では大地に大きく株を広げた背の高い稲穂がたわわに
実っていた。これは知人が作っている今の田圃の風景だ。手前には
黒米や赤米やその他見たこともないような品種の稲穂が見えていた。

 実はこの田圃を訪問したのは今年の夏の初め頃であった。冬から
春にかけての雑草が一斉に枯れ始めた頃であった。たくさんの燕たちが
一面の草原の上を忙しげに飛び交っていた。

 周辺も田圃や畑ばかりだが、何故かこの田圃ばかりに燕は異常に
集まっていた。目には見えないが餌になる虫が多いに違いない。
何とも長閑としか表現のしようがない自然そのものの眺めであった。

 はっきりとは覚えていないけれど子どもの頃、今ほど農薬や化学
肥料を使わなかった頃の田圃は、このような眺めだったのではない
だろうか。最近は燕の数も激減してしまった。

 さて、目の前にある稲は、ひ弱そうに見えたあの苗床にあった
苗一本であろうか。苗床には株間を大きく取った苗がまばらとも
思えるような間隔で植わっていた。
 知人の話では種まきの時から丈夫な苗を作るために、このような
蒔き方をするのだとのことであった。一般の苗床とは全く異なった
蒔き方であった。

 そして、田植え前の田圃はと言うと枯れかけた冬草の下に分厚い
枯れ草の層が出来ていた。厚さは3センチから4センチはあった
だろうか。層がここまでになるには6年から7年はかかるとの
ことであった。

 そして田植えには、枯れ草の層をかき分けて田圃本来の土の層に
植えるとのことであった。植える苗の間隔も通常の田圃より大きく
取って植えるとのことであった。そうしないと株が大きく成長しない
とのことであった。

 実は日本の稲作ほど完璧にマニュアル化された作物はないそうで
ある。この品種であれば、いつどんな風にして水や肥料や更には
農薬までどうしなさいこうしなさいと細かく定められている。
 従って、仮に全くの素人でも、その通りにすれば収量はともかく、
収穫は出来るようになっている。

 目前の稲は重たげに稲穂が垂れ下がっていた。知人の話によると
水はもう必要ないのだと話していた。これから収穫までの間、稲は
更に追熟し大きくなることであろう。心なしか周辺の田圃より稲丈が
高いように見えたので知人に尋ねてみると、稲一本一本が太く、
その上、背丈も高いとのことであった。それでいて無農薬、無肥料
栽培である。稲は自分のDNAに深く刻み込まれた性格をそのままに
たくましく成長しているようである。

 田圃によって様々に条件が異なるので、果たして他の場所で同じ
ような実りを期待できるかどうかは分からない。こうして目の前で
全くの自然農法で育てられた稲を見ていると、私達の文明とはいったい
何だったのだろうと考えさせられてしまう。

 たった一本の小さな苗が他の田圃の稲に勝るとも劣らないほど
大きな株に成長し、稲穂をたわわに付けてなおこれからも成長し
続けようかという勢いには全く圧倒される思いであった。
 素晴らしい、実に素晴らしい。驚くことも感動することも少なく
なった年齢ではあるが、田の前に立ちつくして感嘆の声ばかりを
もらしていた。

 稲穂の下にはたくさんのタニシとメダカの子が群をなして泳いで
いた。そして稲穂には懐かしいイナゴの姿を見かけた。知人の話では
出穂期に葉が食べられたら食べられた葉を補充するかのように新しい
葉が脇から伸びて来るとのことであった。

 知人もこの方法にたどり着くまでには幾度もの試行錯誤やあれこれ
と方法を変えたとのことであった。安くない土壌改良材を入れた
こともあったそうだが、とにかく手間のかからない稲作をと考えて、
たどり着いたのがこの方法だったようだ。

 ただ、一つ大変なのは手植えであると言うことである。昔のように
家族総出で植えなければ短期間には終わらない。従って、どこの田圃
でもと言うわけには行かないが、生き残りの一つの方法としてこの
ような栽培方法もあると言うことではないだろうか。
 収穫時には声を掛けますからとのことなので楽しみにしている。

 知人は野菜も同じような方法で作っている。下草はそのままに
オクラや茄子やキュウリやピーマンが植わっていた。一見、草の中に
野菜が植わっていると言う感じであった。
 請われるままに収穫を手伝った。シシトウを口に入れてみると甘い。
野菜本来が持つ甘さであった。肥料は、わずかばかりの油粕と米糠
(ぬか)だとのことであった。

 この畑も野草が次々に折り重なって土の層を作っていた。ただ、
葉野菜を作るのは難しいようで、今も試行錯誤を繰り返しているとの
ことであった。
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戦後政治の終わりに

2008-09-25 23:14:43 | Weblog
 安倍さんが最初に放り出し、福田さんが後に続いた。総理大臣の
職を職務半ばで放り出してしまったのだ。一般の職場では考えられ
ないことである。簡単に放り出されるのであれば誰も悩みはしないし、
心身症で傷つくこともない。

 何しろ前代未聞の事だけに、その驚きは衝撃的であった。そして
誰でもががっかりさせられた。そして今回の自民党総裁選挙で選ばれ
たのが麻生さんだ。この人は前の人より少しは根性が座っている
だろうか。失礼な話だが、顔だけで判断すれば前の二人よりは多少
根性が座っているように見えるのだが。

 実は、そう見えるだけかも知れない。そして、ばたばたと畳みかける
ように各ポジションの大臣の顔ぶれが決まった。見れば大半の大臣は
二世、三世議員だ。失礼ながら親の七光りの中で苦労知らずで育った
人ばかりだ。過去からの名門だ閥だと言われた出の人が少なくない。

 麻生さんは、あの吉田茂氏の孫だと言うから根っからの坊ちゃん
育ちである。この人は学生時代から一年に三十万円もするような高級
スーツを十着は作ると言うから、おおよそ私達庶民とはかけ離れた人だ。

 このような苦労知らずで育った人に年金だ高齢者医療だと言って
ピンと来るのだろうか。口では大変だとか同情するようなことを言って
はいるが本当の大変さが分かっているのだろうか。


 江戸時代は三百年続いて終わった。幕府もそれに従う各藩も全てが
世襲であった。先祖の功績によって家老職は家老職を引き継ぎ、下級
武士は下級武士に甘んじた。ひたむきな努力も切磋琢磨も必要なかった。
また努力しても報われなかった。

 その結果、三百年後にはどの藩も莫大な借金を抱え疲弊しきって
いた。先進的な藩では世襲は世襲としながらも藩内の武士や町人を
問わず優秀な人材を抜擢し財政建て直しを行った。こうした努力を
しながらも長い間続いた幕藩体制は徐々に崩壊をしていった。

 その崩壊を助長したのが黒船を初めとする列強各国からの開国を
迫る圧力であった。諸外国の開国の圧力に押され尊皇攘夷で国内は
大混乱に陥った。いち早く異常事態に反応したのが長州や薩摩や
土佐の先進的な考えを持つ下級武士達であった。
 また、世襲によって受け継がれてきた幕府の大老達も為すすべなく
幕藩体制は崩壊し、明治維新へと移行せざるを得なかった。

 こうして過去を振り返って見ると何かしら今の政界の状態とどこか
似通ってはいないだろうか。似通っていると言うよりはそっくりだと
思うはずである。

 今の自民党や公明党を中心とする政治体制は完全に賞味期限が
過ぎてしまった。彼らの中で幾ら総理大臣の首をすげ替えても
変わりはしない。もうここらで体制を変えるべき時代ではないだろうか。
 たとえ民主党に何かと問題があっても、このままの自民党政治が
続くよりはよほどましだと思うのだが。

 さて、今日の新聞記事には新内閣の支持率が48パーセントと書いて
あった。前の福田内閣より更に支持率は下がっている。もはや国民の
多くは現自民党政治には何ら期待していないと言うことではあるまいか。
総裁に選ばれた麻生さんは自信たっぷりであったが、この支持率をみて
どう思うであろうか。

 そして、何もかも壊すだけ壊して小泉さんは颯爽と政界から去って
いった。小泉さんは幕末における井伊直弼に似ていなくもない。
ある種の恐怖政治のようなことをやって自分の意見に反するものを
切り捨てた。

 いずれ自分の後継には自分の息子を考えているのだろう。終わりの
ない世襲政治がなおも続くのかと思うとうんざりしてくる。「地盤、
看板、鞄」と言われる選挙基盤がないと政治家にはなれない今の
選挙制度こそ問題である。

 そして自民党の政治家は地方に大きな事務所を構え、多くのスタッフ
を雇っている。いったいこの莫大なカネがどこから出てくるのか
不思議には思わないだろうか。そして、それぞれの政治家達に寄り
かかって生きている人達は自分の生活がかかっているから政治家の
政治生命を守ろうと必死である。

 ここに政治汚職や政治家とカネの絡む事件の温床がある。丁度、
藩が取りつぶされないよう必死に藩主を守っている江戸時代の藩主と
藩士の関係に似ている。藩主の資質が問題なのではなく藩主は飾りで
あって居てくれるだけで良い。

 これでは日本の政治は良くならない。真に国を憂うる政治家が何人
居るだろうか。今必要なのは世襲の政治家ではなく真に憂国の政治家
である。
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目に見えない世界の大きな変化

2008-09-25 22:50:41 | Weblog
 昨今は異常続きのお天気だが、この気象異常は小さな昆虫の世界に
まで及んでいるようだ。一昨年、昨年、今年と三年続きの夏場の異常
高温は私達人間だけでなく、多くの動植物にも色んな変化をもたらして
いるようだ。

 異常気象の一つが夏場における西日本地方の渇水期の異常な長さだ。
その上に昼夜を問わず高温期が続いてきた。その結果、充分な灌水
設備がない畑の果樹は弱り果ててしまった。
 水が切れてしまった畑では、これが柿の実かと思うほど小さく
縮んでいた。表面には大きなしわが寄っている。それでも落果しない
のは、すさまじい生命力と言うべきだろうか。
 我が家では急激に雨を吸った蜜柑類が中身の膨張に追随できず皮が
裂けてしまった。

 人でも動物でも体力が失われていくと病気にかかりやすくなる。
人間で一番影響を受けやすいのは高齢者ではないだろうか。一夏中、
病院の世話になったお年寄りも少なくない。健康なものでもほんの
少しのことでも病気にかかりやすくなる。

 植物の場合は病害虫の被害に遭いやすくなっている。その一例が
柿の木やスモモでの度重なる食害であった。アメリカシロヒトリと
イラガの幼虫が同時に発生したものだから、ひとたまりもなく一枚の
葉も残らず裸になってしまった。
 一夏にこんなに何度も発生することはなかったし、イラガとアメリカ
シロヒトリが同時期に発生することもなかった。それも一本だけでは
なく何本もの木が同じような被害にあった。

 私達には見ることも感じることも出来ないが、彼らの異常発生を
促すような条件があるのではないだろうか。彼ら昆虫にも必ず天敵の
ようなものがいるはずだし、異常繁殖を妨げるような要因があるはず
である。それにも関わらず、ものすごい数の発生が生じている背景
には、異常高温以外にも何らかの要因があるに違いないと思っている。

 それは何なのか。私達の目には見えないこうした異常現象は生命の
底辺を支えている微生物界にも大きな変化を生じさせているに違い
ないのである。それは異常気象と長年使用してきた農薬や除草剤や
化学肥料による複合汚染によるものなのかも知れない。
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家族は作るもの(朝の連ドラ「瞳」より)

2008-09-16 22:20:48 | Weblog
 先日、ラジオを聴いていて驚いたことがある。学校給食に関し親が
「いただきます」と子どもに言わせるのはやめて欲しいと申し入れて
来たというのだ。
 早速、聴いたことを家内に話すと同じようなことが新聞にも書いて
あったと言っていた。本当なら我が耳を疑うような話である。理由は
給食費をきちんと納めているから「いただきます」と言うのは変だと
言う事らしい。

 給食費を払わない親や給食費を払っているのだから「いただきます」
と言う必要がないという親など、この国はいつからこんな変な国に
なってしまったのであろうか。
 まったく恥を恥とも思わないような破廉恥な親が増えていることに
驚かざるを得ない。そして「いただきます」「ありがとう」「おはよう」
「こんにちわ」「こんばんわ」「ありがとう」、こんな当たり前の挨拶
さえ出来ないような子どもが増えている。

 電車に乗ればあたり構わず大声で話したり笑ったりしている高校生達。
鞄を乗降口に投げ出したまま携帯に夢中になっている男女の高校生、
座席を独り占めしたうえ、靴のまま座席に投げ出している高校生。
 こんな高校生達の親の顔が見てみたい。誰がこんな子ども達を育てた
のだろうか。化粧をして外見は大人ぶっているが中身はまるで発達
していない女子高生達。こんな大人になりきれないような子ども達が
赤ちゃんを産んで親になっていくことを考えると実に空恐ろしい。

 先日、NHKの朝ドラを見ていて考えさせられたことがある。離婚
した両親に主人公の瞳はこう言う。「お父さんやお母さんは自分たちの
結婚は失敗だっだと言うけれど、お父さんとお母さんが結ばれたから
こそ私が生まれたのだ」と。「その私の前で軽々しく失敗だったと
言わないで欲しい」「お父さんやお母さんは失敗だったと言う前に
どれくらい努力したのか、家族は努力して作るものだと」。
 この言葉の意味は重い。昨今のように簡単にひっつき簡単に別れて
しまう親たちに、この言葉を聞かせたい。二人の間に生まれた子ども
こそ良い迷惑である。

 簡単に一緒になり良い家族を作る努力もしないままに簡単に別れて
しまったことから家族を失った子供は実に多い。そんな家庭に家族
らしい会話はあるのだろうか。親から子へ子から親へと多くの教訓が
受け継がれていくのが家庭である。近頃の若者は常識的なと思われて
きたことをほとんど知らない。それは親たちが教えて来なかったから
である。

 「いただきます」は誰から強制されたわけでもなく、食べ物を作って
くれた人や命あるものを頂いているいることへの感謝の言葉である。
私達人間は他の生き物の命を頂いて生きている。穀物も野菜も肉も
卵もみんな生き物の命そのものだ。
 それを「給食費は払っているから」と言うのは、あまりにも無知
すぎると言わざるを得ない。

 食の安全に関し国内外共に騒がしい。米は日本人にとって一番大事
な食べ物である。生産力の低かった頃は白米を食することの出来ない
人が大勢居た。
 お百姓さんの多くは米を作りながら、自分たちは食べることが出来
ないまま、ヒエやアワや芋と言った代用食を食べていた。だから今でも
お米を炊いたものを「銀しゃり」と呼んでいる。「銀しゃり」とは炊きたて
のきらきら光るご飯のことである。

 日本人の多くが「銀しゃり」を口に出来るようになったのはやっと
戦後のことである。その大切なお米を利用して金儲けをたくらむなど
もっての他である。それも農薬やカビに汚染された米である。

 販路がどこまで広がっているか検討がつかないほど汚染米は様々な
ところで使われているようだ。汚染米だと知って売った業者も悪いが
その危険性を知りつつも監督を怠ってきた農林水産省も悪い。
 食は国民の生活の根幹をなすものである。また、健康や生死に関わる
ものである。監督官庁の「たが」のゆるみは想像以上に根が深い。
端的に言えばまったく当てにならない状態である。

 さて、農薬の混ざった餃子問題が中国側に起因するものだと認めた
ばかりの中国では、こともあろうに赤ちゃんに飲ませる粉ミルクに
メラミンという化学物質を故意に混ぜていたという実にショッキング
なニュースが連日報じられている。
 農家から買い取った生乳にメラミンを混入したようだ。中国のモラル
の低下は、そこまで来たかと驚かざるを得ない。もともと儲けのため
ならなりふりを構わないと言うのが中国商人のたくましさであるが、
ことは人が口にするものである。それも幼い命が食するものであって
みれば、その罪は重い。

 日本と言い中国と言い、儲けのためなら何をしても構わないと言う
この仕組みが恐ろしい。そして今はアメリカ経済の破綻である。金が
金を生むという、このシステムこそ問題だ。そして環境問題を犠牲に
してまで自動車のGMは大量消費型の大型車を作る続けてきた。それが
ガソリンの高騰で経営に行き詰まりが生じている。
 アメリカも儲けのためなら何をしても構わないと言う点においては
中国や日本と変わらない。

 今の経済システムは既に破綻している。行き着く先は見えている。
今の経済システムの先に私達人類の幸せはない。環境問題も結局は
経済問題だと言い切る人も多い。私もそう思っている。
 環境問題を考えるとき、今の経済システムの方向転換なしには
考えられない。儲けるためにものを売る、売るためには目新しいもの
を作らなければならない。目新しいものが出来れば古いものは必然的
に捨てられてゴミになる。

 戦後一貫して企業が取ってきた姿勢は、いかにして消費者の購買心
をあおるかと言うことであった。こうして買うと言うより買わせられる
システムが作られてきた。それにはテレビが大いなる力を発揮して
きた。使えば何十年でも使えるようなものが簡単に捨てられ新しい
ものに置き換えられていった。

 反省の意味を込めて言うなら私もその一人であったことは間違いない。
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経済破綻

2008-09-16 07:03:05 | Weblog
 いよいよアメリカの経済破綻が本格化してきたようだ。リーマン・
ブラザーズという大手証券会社がサブプライムローン問題に絡む巨額
損失で倒産寸前だと報じられている。

 メリル・リンチの名前は日本でもお馴染みだが、ここも経営難と
なりアメリカの大手銀行バンク・オブ・アメリカに買収されることに
なったようだ。

 こうした一連の事態はサブプライムローンというアメリカの住宅
バブルによるものだ。低所得者向けに回収が難しいことを知りつつ
資金を貸し続け、その結果返済不可能に陥った事が発端であった。

 日本のバブル崩壊も不動産バブルが原因であった。土地転がし等と
いう非人間的な事をしてまで、土地価格を上昇させ、税金の納入さえ
出来ない人をたくさん作ってきた。
 一見、合法的に見えるが明らかに地域住民の追い出しであった。
その結果、長らくその土地に暮らしてきた人達は払えない高額の
固定資産税のために住み慣れた土地を手放し、遠くの安い土地へ
移らざるを得ない人が続出した。国は見て見ぬ振りをしていた。

 本来は動かすことも出来ない土地が、まるで商品のように扱われ
高額になりすぎて買い手がつかなくなった。とどのつまり資金繰りが
難しくなり急激な破綻へと繋がっていった。バブルの崩壊であった。

 土地を基調にした不動産バブルは他の金融市場にも広がり、デフレ
スパイラルという、かつて世界のどこの国も経験したことがない長い
経済不況に陥ってしまった。
 むろん大手の金融機関までもが経営に行き詰まり、国の資金を大量
に注ぎ込まなければならなくなった。並の資金ではなかった。何兆と
いう救済資金がまるで湯水のように注ぎ込まれたのである。
 それは金融の混乱を避けると言う理由からであった。全ては国民が
稼ぎ国に納めた税金であった。

 かつて救済を受けた金融機関が事もあろうに今回のサブプライム
ローンにも関わっていたと言うから、あきれてものが言えない。自分
の手で苦労して立て直した会社であれば、こうもたやすく他国の住宅
バブルに手を貸すことはなかったであろう。

 それにしても疑問なのは、失った何兆円や何千億円という気の遠く
なるようなお金はいったいどこに消えたのであろうか。実に不思議な
ことである。一方で失ったものはどこかに行っているはずである。
我々の知り得ない経済のからくりであろうか。

 さて、今日は世界同時株安という結果に終わったようだ。しかし、
これだけでは終わりそうもない。かつて山一証券が倒産し、大手銀行
が倒産寸前に追いやられた日本のバブル崩壊を考えれば、アメリカの
巨大資本がこれでおしまいと言うことはないだろう。
 結局、アメリカのどこかに巨額の金は吸い込まれ表舞台から姿を
消したに過ぎない。どこかに、ほくそ笑んでいる人物がいるに違い
ない。

 それにしても影響は大きい。今のようなグローバル経済下では、
ますますこのたぐいの事件が生ずる危険が潜んでいる。競争は競争を
生み、更に競争へと続く。この経済競争から離脱しない限り永遠に
続く事である。

 原油価格は一時、150ドル近くまで上昇したが、今は100ドル
を割るところまで下落している。しかし、原油産出国はこの間、濡れ
手に粟の如く金を儲けてきた。
 その結果、稼いだ金による不動産投資も盛んのようだ。摩天楼の
ように高層の奇抜な建物が建ち並ぶドバイ、そこには世界の不動産
投資家が群がっているようだ。しかし所詮は砂上の楼閣であり、
夢幻に過ぎない。

 土地は全て地球のものであり、建物の全ては人のわずかばかりの
人生の仮住まいに過ぎない。この現実に早く気付き、人の幸せとは
何なのか、人は何のためにこの世に生を受け生きているのかを
考えなければならない。
 しかし、その渦中にある人には見えないことかも知れない。所詮、
人は愚かなるものであろうか。
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世界の動き・日本の動き

2008-09-13 16:49:13 | Weblog
 北朝鮮では独裁者「金正日」の重病説が噂されている。重病か
どうかは別にして、何らかの異常事態が生じていることには間違いが
なさそうだ。
 隣国の韓国やアメリカは緊急事態に備え対策を検討しているようだ。
日本も安閑としてはおられないのではないか。体制が崩壊すれば
拉致問題は、核兵器の問題は、海を越えてやってくるかも知れない
大量難民の問題は等々、懸念材料は多い。

 一方、タイ国では首相が料理番組に出演し、出演料を貰ったとして
退陣に追いやられている。問題は料理番組への出演だけではないだろう。
もっと根本的な不満が国民の間にあるのではないだろうか。
 タイ国はとかく政権に関わる問題が多い国のようである。首相擁護派
と首相に退陣を迫る国民が首都で激しく対立している。

 旧ソ連時代のグルジア共和国にロシア軍が侵攻し多くの難民を出して
いる。グルジアはEU寄りの姿勢をとっているからロシアにとって
面白くない。
 アメリカのブッシュ政権は壊滅的な打撃を受けたグルジア軍建て
直しのため武器援助を行うと約束しロシア軍を牽制している。

 中国はオリンピック後の不景気がいよいよ本格化しそうな気配で
ある。株価が下落を続けている。
 未だ地震の被災地には二次災害が頻発している。被災地の復旧と
オリンピック後の景気対策、どのような手法で政権維持を図ろうと
しているのであろうか。
 特に暴動が多発しているチベット自治区や新疆ウイグル自治区に
対しては強権を発動しているだけに地域住民の不満は大きい。
コントロール如何ではこの国の政権基盤でさえ揺るがせかねない。

 イラクに一応の沈静化が見られそうな反面、アフガニスタンでは
旧タリバンが勢力を盛り返し再び内戦の様相を見せている。
 お隣のパキスタンでは軍人出身の大統領が辣腕を振るってきたが
長期政権に対する不満もあって退陣せざるを得なくなった。
 パキスタンとアフガニスタン、国境を接する両国はともに風雲
急を告げる状態である。

 そして、日本は二度も首相が政権を投げ出すという異常事態にある。
もはや旧来の自民党では政権維持は無理のようである。二世、三世の
多い政界に自らの政治体制を改革出来るだけの力はなさそうである。
 今の状況は幕末によく似ている。既成の社会体制も政治体制も
全てが出口の見えない逼塞状態にある。
 国民には何がどうなのと聞かれなくても何とはなく感じている
のではないだろうか。その逼塞感が社会悪を呼び、社会悪が更に
別の社会悪を招くという悪循環にある。

 これは一人日本だけの問題だけではないのかも知れない。常に
日本の先を行くアメリカにも同じようなことが言えるのではない
だろうか。だからこそアメリカ人は改革を掲げるオバマ氏を民主党
の大統領候補に選んだに違いない。
 一方、共和党も今や獅子身中の虫と化したブッシュ政権と一線を
画すためにマケイン氏自らが改革を旗印にしている。しかし、あろう
事かペイリン氏を副大統領候補にしたのは、いかに退勢挽回のため
とはいえ脆さがまる見えである。

 経済のグローバル化が全てを壊してしまった。この先に光明は見え
ない。あるのは限りない競争と資源の無駄遣いだけである。
 そして環境破壊だけではなく、人の心まで壊してしまった。今こそ
この過剰なる競争から離脱し、かのブータン王国のようなGHP
(国民総幸福)と言う道を選ぶべきではなかろうか。あなたは物の
豊かさの中に自らの幸せが見えますか。
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森を育てよう

2008-09-13 14:55:20 | Weblog
 ここ岡山県や香川県では深刻な水不足に直面している。比較的
降水量が多いと言われておりながら西日本地方は昔から干ばつに
よる被害がしばしば起きている。

 日本は降雨量が多くても地形が急峻であるため大半の水は短時間
の内に海へ流れ出てしまう。そのために干ばつに備えて昔から溜め池
をたくさん作ってきた。その溜め池も田圃が少なくなるに連れ、一部
は埋め立てられ、一部は手入れもされず放棄されている。

 その上、生活には欠かすことの出来なかった井戸の多くは上水道の
普及によって使用されなくなり、その機能を失ったものが少なくない。

 また、生活の向上や工業化が進むに連れて、水の使用量が格段に
増えた。これが水不足に拍車をかけている。私が住んでいる倉敷市も
その例外ではない。

 倉敷市は一級河川の高梁川流域に開けた土地である。広大な干拓に
よる田圃と海に面した水島コンビナートがある。これらに使用する
水は膨大なものである。

 化学工場は電気以外に大量の水を必要とする。海水も利用されて
いるが化学工場で使う蒸気はすべて高梁川から取水した工業用水を
使っている。この水がなくなれば工場の運転を止めなければならない。

 私が勤めていた頃にも何度か取水制限があった。しかし、その都度
台風や大雨によって救われた。しかし、今年の天気は異常だ。梅雨に
も夏場にも、そして秋口の今もまとまった雨が降らない。ダムの水は
減り続けている。先日も倉敷市の広報車が水道の節水を呼びかけて
いた。

 香川県の高松市内は高地県側にある早明浦ダムに依存していると
聞いている。毎日のように渇水がニュースになっている。今は発電用
の水を使用しているようだ。いかに発電用とは言え限界があろう。

 大きな河川にダムを作ることも限界に来ている。また、ダムは自然
を犠牲にして作っている。ダムのために失ったものは少なくない。
そうした犠牲まで払って作ったダムの貯水量にも限界が見えている。

 ダムの水の大半は降った雨が森林に蓄えられたものである。実は
ダムが水を蓄えているのではなく、その周辺にある山々の木々が
蓄えた水が少しずつ放出されダムの水位を維持している。

 従って、森が蓄えた水の放出量より使用量が上回ればダムの水位は
下がっていく。当然の理屈である。従って、水不足の解消には使用量
を制限することと、ダムの上流や周辺の保水力を高くするしか方法が
ない。

 私は小学生を対象とした地球温暖化防止学習の際には、森に木を
植えることに力点をおいて話している。森の木々はCO2を吸収する
だけでなく水を蓄える力を持っている。

 森の豊かさや緑は人の心にも潤いを与えてくれる。森は動物たち
へ豊かなめぐみを与えてくれる。それだけではない。森は遠く離れた
海の生き物たちも育ててくれる。

 幸い、日本は古くから植林が行われてきた。ただ、付加価値の高い
杉や檜ばかりを植えてきたので木の種類に偏りがある。杉や檜だけで
なく色んな種類の広葉樹の森が必要だ。

 どうやら期待していた台風も中国大陸の方へ向いているようだ。
今のところ当分雨は期待できそうにない。

 実はこの記事の下書きをして寝ていたら夜中にすごい雨が降った。
久々にまとまった雨であった。うれしくなって玄関の戸を開けて
みると庭に降った雨が川のようになって流れていた。
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生まれ変わりの村

2008-09-01 16:35:03 | Weblog
 みなさんは「生まれ変わり」を信じておられますか。私にとって
幼い頃からの疑問が、生まれ変わりについてでした。死んだらどう
なるのだろう。自分の肉体はむろんのこと意識は、魂は、と考えて
いたらなかなか寝付けなかったことを今も鮮明に覚えている。

 最近の学説の中には人の意識は永遠であり、この意識こそが人間
そのものであると言い切っているものもある。また、意識は永遠で
あり様々に肉体を借りてこの世に存在するのだとも述べている。

 更に進んだ科学的見地から私達の存在する次元だけではなく、すぐ
隣に見ることも触れることも出来ない異次元が背中合わせのように
存在しているとも述べている。

 いずれにせよ魂は永遠のものであり、肉体は魂のありようを示して
見せるための器ようなものではないか。そんなことを考えさせられて
しまう昨今である。

 ここに一冊の本がある。異次元や魂や意識などの正体を知りたいと
考えている作者が中国の特殊な村に行き、84人もの人から聞き取り
調査を行っている。その多くが前世や前前世の記憶を持っていると
言うから驚きである。

 また、この村では、生まれ変わりはごく日常茶飯事もことであり、
別に苦しいことでもなく、前世の因果や応報も、また正しい行いも
悪い行いの関係もなく、人それぞれが一様にこの世に生まれ変わって
来るというのである。

 実に信じがたいほど、それはあっけんからんとした出来事なので
ある。しかも、特殊なスープをあの世で飲むか飲まないかで前世の
記憶が残るか残らないかが決せられるというのだから、これもまた
「ほんまかいな」という思いである。

 やたら暗く怖い地獄もなく、反対に華やかで美しい天国もなく
ただただ大勢の人がスープのプールのほとりに群がっているという
のだが・・・。

 これが事実だとすれば現世で語られている価値観や思想では全く
論ずることの出来ない世界が存在することになる。また、人はこの世
で正しい行いをしないとあの世では地獄に堕ちるなどと言うことも
関係ないと言うことになる。

 果たして死というものの正体は・・・。生まれ変わりというものが
本当にあるのだろうか。

 誠にまか不思議な村であり、それを丹念に取材したコメント抜きの
本であるところに、この本の特長と面白さがあるように思った。しかし
私の長年の懸案が解消されたわけではない。
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