人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

省エネ運転

2014-05-30 05:17:50 | Weblog
我が家では「卯の花」が満開だ。この花の正式名称を「梅花うつぎ」という。純白の花が遠目にも鮮やかである。畑で草刈りを
していると遠くからホトトギスの鳴き声が聞こえてくる。そしてすぐそばでは鶯が盛んに縄張りを主張して鳴いている。何とも
のどかで穏やかな日々である。

 さて、私ごとで恐縮だがこの五月に車を買い替えた。恐らくは現役で乗り換える車の最後になるであろう車だ。ハイブリッドカー
「アクア」だ。私が定年を迎えて後、我が家では長らく車一台の生活をしていた。しかし私が児島市民交流センターへ勤めるように
なってからとても一台だけでは不便なので、やむなく中古の軽四を買った。走行距離十万キロを超えるような中古車であった。
外観は比較的きれいだったので4年近く乗れれば良いと言う考えだったが、外観は良くてもさすがに十万キロを超える車ともなると
あちらこちらに故障が目立つようになって来た。

 初めはタイヤ、いやにガタガタするなと思って良く見たらパンクしていた。それもタイヤにヒビが入ってまるで古タイヤ状態。
何で今まで気が付かなかったのだろう。つい最近車検を受けたばかりなのに、その時、何故言ってくれなかったのだろう。良く
これで車検を通過したな等々、数々の疑問はあったものの、このまま行けば更に故障は増えるばかりかも。そうこうしている内に
今度は排気ガスラインに付いている燃料調整をしていると言うセンサーが故障したためエンジントラブルの表示が点灯したままに
なり始めた。聞けばセンサーを取り換えるのに一万数千円はかかるとのこと。

 ええい、この辺が乗り換え時かと妻が乗っているビッツの後継車としてアクアを買った。ビッツはこのまま乗り続け、私が勤務を
辞めたら廃車にしてアクア一台に戻す予定だ。一家に二台は必要ない。しかし、そうは言っても高齢化社会、まして公共交通機関が
ますます少なくなっていく時代、車なしでの生活はあり得るのだろうか。私たち夫婦にもいつかは車の運転を諦める年齢が来ることは
間違いない。そして、その日はそう遠くない。従って「アクア」は終(つい)の車と言うわけだ。

 さて、じわじわとガソリン代が値上がりを続けている。いつの間にか160円を超えるようになってきた。家計への負担は増える
ばかりだ。それに有限である資源を如何に有効に活用するかも問われている。そこで思い切って省エネナンバーワンと言われている
ハイブリッドカーに買い替えた。この車、通常はガソリンエンジンとモーターとを併用して走行している。ブレーキを踏んで制動が
かかると発電に切り替わる。

 エンジンブレーキはエンジンを負荷代わりにして制動をするが、この制動を搭載した発電機が行っている。発電機が発電をする時に
制動(つまりブレーキの役割)の一部を担っている。従って、発電した電気は搭載しているバッテリー(リチウムイオン電池)に
蓄えられる。そして、その電気はエンジンの補助動力として使われる。スタート時など非常に静かだ。音もなく滑り出すような感覚だ。
始動時も運転時もエンジンの振動はあまり感じない。音も小さいしガソリンを燃やす量も少ないので公害の少ない車だとも言える。

 但し、電気自動車ではないので積んでいる電池は小さい。このリチウムイオン電池は充放電の性能が非常に優れている。最近では
携帯電話や多くの機器に使用されている。ちなみにリチウムイオン電池は充電電池にありがちなメモリー効果の少ない電池だと
言われている。反面、リチウムは希少金属なので値段も高い。この電池の価格が下がるか、もっと性能の良い電池が開発されると、
自動車や通信機器だけでなく、もっと使用範囲も広くなるに違いない。例えば昼間は太陽光で発電し、夜間は蓄えた電気で生活する。
電力会社からの完全独立も夢ではなくなる。今もそのような生活をしている人は増えている。

 さて、この車、遠距離走行も去ることながら市内走行に適していると言われている。つまり動かしたり停止したりすることに
適していると言うのだ。それは制動を発電で行い、その電気を再利用すると言う構造上のものなのだが、どれくらいの省エネに
なっているのか試している。今のところガソリンの減り具合は非常に少ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然のあるべき姿

2014-05-25 05:58:12 | Weblog
 地味で目立たない花だが、いま柿の花が一斉に咲いている。満開だと表現したいのだが、桜の花のような華やかさがないので満開と
表現するにはいささか場違いな感じもして一斉開花とだけ表現しておこう。みなさんは柿の花をしげしげと観察されたことがあるだろうか。
花芯には小さなおしべやめしべがあり、その周辺を少し硬めの小さな花びらが付いている。柿の花には雄花と雌花がある。雄花は役目を
終えるといずれぽろぽろと落ちてしまう。その落ちた花を見て柿の花の開花を知ることが多い。それほど地味な花である。ちなみに
柿の花は俳句の季語にもなっている。

 先日、畑で草刈りをしていてふと気づいたことがある。実は収穫の終わりかけたアラスカ(実エンドウ)にたくさんのキリギリスが
群がっていた。何で枯れかけて栄養の乏しくなったエンドウにと思ったのだが、この季節のエンドウ、普通なら夜盗蛾の幼虫に蚕食
されているはずなのにその様子がない。どうやら群がっているキリギリスたちが食べてしまったらしい。まだだ食べ足らないので
あろうか。盛んに這いまわっているのだ。キリギリスは成虫になると植物食だけでなく肉食にもなる。あの涼しげな音を聞かせてくれる
鈴虫だって餌として削り節を与える。つまり成虫となったキリギリスたちは、彼らもまた食物連鎖の一部にいて害虫などの駆除を
してくれていたのだ。

 自然があるべき姿に戻っていくと言うことは単に土だけの事ではない。地上部に於いては本来の食物連鎖が正常に戻ると言うことなのだ。
農薬の散布が極端に少なくなった我が家の果樹畑ではキリギリスが増え、蜘蛛が増え害虫と呼ばれている昆虫たちを捕食しているようだ。
その代りキリギリスは、幼虫の時は葉などを食べるから穴だらけになることはある。それを我慢すると次第に益虫となり、自然のあるべき
姿に戻っていく。

 さて、自然に戻れないのが放射能に汚染された大地だ。NHKの特集によるとアメリカ国内でも原子爆弾の材料であるプルトニウムの
製造工場周辺や繰り返し行われたネバダの核実験場の風下など広範囲に放射能で汚染され、癌などの疾患が多発しているらしい。日本でも
福島問題があらわになってくるのはこれから先のようだ。

 放射能による機能障害の数々は、核物質が発する電磁波によるものだ。α線、β線、γ線、それぞれが物質をも透過するような強力な
電磁波なのだ。この強力な電磁波は遺伝子を傷付けるだけでなく生体に様々な影響を与える。電磁波も肉体にとっては強力なストレス
なのだ。最近の研究で様々なストレスが癌の原因だと言うことが明らかにされつつある。

 そのストレスの一つが活性酸素によるものであり、人間が生きていくうえで必然的に受けるストレスである。酸素を吸ってブドウ糖を
熱に変える。その過程で活性酸素は発生する。それを消すのが酵素なのだが、酵素は年齢を重ねるとともに作る能力は低下する。
従って高齢化すればするほど必然的に癌になりやすくなる。これは人間などが生物進化の過程で取得してきたシステムなので仕方が
ないことなのだ。

 もう一つのストレスは自分の心のあり様や過酷な肉体的なストレスによるものだ。心の持ちよう一つでストレスは格段に軽くなる。
心配事をなくし「どうせこの世の中なるようにしかならないのだ」と思えるようになると気が軽くなる。ストレスを軽減できる。
強度の肉体的ストレスやくよくよ思い悩むことや怒りは著しく血行を悪くする。これが度重なると癌の遠因となっていく。

 この辺の事情は免疫学の権威である東北大学の安保先生の話を聞くと良く理解できる。現代社会は何となくぎすぎすしてお互いが
お互いを傷付けあっている。こんなことでは癌ばかりでなく色んな病気に罹りやすくなる。気長にのんびりと生きていくことこそ
健康の秘訣ではないだろうか。薬や医者に頼るのは最少必要限度にしよう。病気は自分の努力で防ぐことが出来る。

 さて、その放射能、いま福島で明らかになりつつあることは原発を管理していた人達がメルトダウンが進行していた時に逃げ出して
いたと言うことだ。あの過酷な状況の中で現場に止まれと言うことの方が無理な話だ。如何に原発で働いているとはいえ、経験のない
ことが起きようとしていたのだ。逃げ出したことが問題なのではなくて逃げ出さなければならないようなものを何故作ったのかと
言うことが問題なのだ。

 実はあの時、私が心配していたのは爆発を食い止める人がいない、そしてその手段が失われてしまった。加速度的に進んでいく
メルトダウンをどのようにして食い止めることが出来るのだろうかと言うことであった。結論から言うと結局メルトダウンは進むだけ
進み、圧力容器をも溶かして外へ流れ出したと言うことであろう。あの灼熱の火の玉は地球のどの辺にまで沈んでいるのだろう。
地下水脈に当たり何度もの水蒸気爆発を伴いながら、なおも地中深く沈み続けているのだろうか。そのことを明らかにできるものは
誰もいない。

 そして、その後のもう一つの心配は誰がこの惨状の後始末をするのだろうかと言うことである。今も後片付けの目に見えるほどの
進展はなく、もたもたと失敗を繰り返しながら後始末が行われている。が、しかし見るべきものは何もない。今はこの作業に関わって
いる人が一人でも辞めずに頑張ってほしいと言うことだけである。携わる人がいなくなってしまえばこの現場は放棄されてしまう。
チェリノブイリの石棺のように広大な土地が放棄されることになるのだろうか。

 本当は起こりえない戦争を想定し集団的自衛権だとか憲法改正のための法案整備などにうつつを抜かしているときではないのでは
ないだろうか。このまま福島や周辺を放置したままにすればすさまじい核エネルギーの電磁波ストレスで多くの人が傷つき倒れる日が
来ることは間違いない。それは先にNHKで放映されたアメリカの事例を見れば明らかなことである。

 私たちは進みゆく地域の過疎化を少しでも埋めたいと思い、空き家対策のためにこうした被災者を受け入れる体制を少しずつ整え
つつある。今からでも決して遅くはない。どうか被災地の皆さんは一日も早く安全なところに移動してもらいたいと願っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然とは

2014-05-23 05:07:12 | Weblog
 明けやらぬ窓の外から聞こえてくるのはホトトギスの「てっぺんカケタカ」と言う鳴き声。やがて夜が明け明るさを増してくると
「ホーホケキョ」と鶯の声。それも一羽だけではなさそうだ。そしてツバメたちの賑やかなさえずり。小さな谷あいの集落だが
周辺は自然がいっぱいである。

 近くにある御大師様の庭には実に巨大なクヌギの木と楠が、そして竹藪が。これらは全て鳥たちの楽園だ。誰はばかることなく
次から次へと来ては去っていく。山鳩も来るしキジも来る。そして時には凄惨な場面に出くわすことも。そう山鳩が何かに
襲われ毛があたり一面散乱している。しかし、これが自然の姿なのだ。

 自然と言えば収穫をほぼ終える頃に一斉に現れるのが夜盗虫。まるで死期の迫った獲物に群がる禿鷹のように日に日にエンドウの
葉をあるいはソラマメの葉を蚕食していく。自然は実に良く出来ていて元気の良いものにはあまり寄ってこない。しかし弱っている
ものや実を付けて役割を終えた終えたものには遠慮はない。みるみる内に食べられてしまう。

 動物達の世界でも同じことが言える。百獣の王ライオンとて狩りの難しい相手より簡単に手に入れられるものの方を選ぶ。逃げ足の
遅い幼い動物や年を取っているもの、そして病気にかかっているものなどである。こうして自然は強いものが生き残れるように淘汰
されていく。しかし人間社会は医療と言う手段や倫理と言うものを手に入れて以来、自然のあり様に逆らっている。それが良いこと
なのか悪いことなのかはここでは論じない。

 さて我がでは、さやえんどうが終わったらアラスカ、アラスカが終わったらとソラマメ。ソラマメは殊の外良く出来た。とても
大きな実になった。今までに経験したことのないほどの出来であった。畑の土が変化しつつあることが実感できる。いよいよ無農薬で
除草も極力しないで栽培してみようと考えている。いわば横着な農業である。

 既にイチゴは数年前からこの方法で栽培している。確かにナメクジとダンゴムシには食べられることも多い。しかし決して全て
食べられてしまうと言うわけではない。人間と虫たちが共に同じものに群がっている感じだ。そして果実の栽培には鳥たちの被害を
避けるためにネットを活用している。ネットをかけるのは面倒な作業ではあるが非常に有効な対策である。鳥だけでなく蛾が卵を
産み付けるのを防ぐことが出来るので従来のようなイラガの被害が少なくなった。

 農薬はもろ刃の剣である。害虫と言われる虫たちを殺す代わりに人間も被害を受ける。究極は無農薬で栽培することだが、なかなか
難しい。しかし出来るだけ使わない方法はある。それは植物を丈夫に育てること。肥料はやりすぎないこと。特に窒素肥料は少なめの
方が良い。窒素過多になると見た目は成長が良いように見えるが弱いものになってしまう。強くたくましく育てようと思えば少しは
過酷な育て方の方が良い。

 全ては自然の摂理にかなったことである。リンゴ栽培の木村秋則さんが気付いたように山は何の肥料も農薬も施さなくても雨さえ
降れば青々と豊かに育っている。自然はあるべき姿にさえなれば人や動物や昆虫などに余るほどの施しを与えてくれる。これが自然
なのだ。その自然を壊し続けているのは自然の恩恵を一番受けているはずの人間だ。人間の持っている強欲なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劇団新感線

2014-05-20 05:39:06 | Weblog
 季節は寒く長かった冬から初夏へ。初夏とは言いながらかなり肌寒い5月15日、久々に上阪した。大きく様変わりして
しまった梅田界隈。在職中には何度も通った大阪であったが、今はすっかり変貌してしまい超近代的な街へと生まれ変わって
しまった。何となく大阪らしい庶民的な良さが失われていくような気がしてならない。これが発展と言うものであろうか。

 今回の上阪の目的は、長く寒い冬がやがて終わろうかと言う頃に電話予約しチケットを手に入れた「蒼の乱」という
劇団新感線が演ずる演劇鑑賞が目的だった。慣れない予約手続きで随分てこづった挙句、予約できた席はS席ながら一階の
かなり後ろの方、更には端から一番目と二番目と言う最悪の場所であった。それでも購入できたのはラッキーだったらしい。
人気のある公演らしく、梅田芸術劇場メインホールの座席二千近くを埋めるような観客であった。この日、一階席も二階席も
ほぼ満席状態だった。公演当日は新しく完成したグランフロント大阪という高層ビルにあるホテルに一泊しての贅沢な物見
遊山とあいなった。

 この劇団新感線なる演劇、大衆演劇を更にど派手にし、しかも巨大にしたものと言っても良いだろう。ど派手な演出と
腹の底に響くような音響、とにかく今まで見たこともないような舞台であった。名付けて「いのうえ歌舞伎」と言う。
今作は、平安時代をモチーフにした架空の国の平将門をめぐる物語。主演の天海祐希は、強く美しい将門の妻:蒼真を演じる。
蒼真の夫:将門小次郎を演じるのは、新感線初参加の松山ケンイチ。朴訥とした雰囲気で(何となく大河ドラマで演じた
平清盛を思わせるような)新たな将門像に挑戦。また、同劇団には三度目の出演となる早乙女太一と彼の弟だと言う早乙女友貴
更に、演劇界の重鎮・平幹二朗が、満を持して初参加と言う豪華な顔ぶれだった。一万円を超えるチケット料金は高いと思ったが
この顔ぶれなら仕方がないか。

 ストーリーは都では中央集権の政(まつりごと)のもとに朝廷では貴族たちが贅沢三昧に暮らし、地方の民たちには税が重く
課され貧しい暮らしを強いられていた。不満のたまる地方の民たちは小さな叛乱を起こしては貴族によって封じられていた。
あるとき、左大臣の屋敷で国の行く末を占っていた渡来衆の一団が、国家大乱の卦を出したことを口実に武士たちに襲われた。
窮地に追い込まれた彼らの長である蒼真(天海祐希)と蒼真の親友、桔梗(高田聖子)は、坂東から京に出てきていた将門小次郎
(松山ケンイチ)に救われる。蒼真と小次郎の運命の出会いである。二人はその運命に導かれ夫婦となり、小次郎の故郷・坂東の
地を目指し都を後にする……。と舞台は転回していく。

 テンポのいい転回は観客を飽きさせない。途中、20分間の休憩はあるものの見ごたえのある舞台であった。舞台は会場に
向けて傾斜しており、更には回り舞台をフルに活用。暗転は舞台の端(観客席の前)に強力なライトが照らされ、遠くからだと
ほとんど暗転した舞台が見えなくしている。普通は白か黒の紗幕を使うところだ。新しい工夫が至る所に見られる。

 私たち夫婦は舞台を見ながら奇しくも同じことを考えていた。つい先ごろ終わったばかりの創作ミュージカル「ヤオヨロズ」
と重ね合わせてみていたのだ。出来るか出来ないかは別にして舞台装置や演出のテクニックなど取り入れるべきものも多種多様に
あった。そして何よりも主演の天海祐希とヤオヨロズのTさんとがダブって見えていた。それは家内も同じであったらしく
規模やアマチュアとプロの差は歴然とはしているものの「ヤオヨロズ」が完成度の高いものであったと言うべきであろう。

 先の金毘羅歌舞伎には伝統歌舞伎の良さがあり、今回のいのうえ歌舞伎には伝統的なものにはない良さがあった。今シーズンは
図らずも二つ続けて素晴らしい舞台芸術を見せて貰った。むろん「ヤオヨロズ」もこの二つには負けないと自負しているのだが。

 興奮冷めやらぬ間に会場を出てみると爽やかな風が吹き抜けていた。早めにホテルに入り、その豪華な部屋の作りにいささか
驚きながら孫や娘夫婦が来るのを待った。今夜は豪華な食事が待っている、そんな楽しい一夜であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自然の力

2014-05-14 05:40:15 | Weblog
 
まるで宝石のルビーを思わせるような輝きを見せているのが我が家のサクランボ。このサクランボは暖地サクランボで
山形県などで栽培されている品種とは異なりさほど大きな実ではない。我が家では一本目が枯れてしまい二本目である。
実の大きさはユスラウメを一回り大きくしたくらい。しかし、とても甘い。本格的なサクランボを岡山県の南部地方で
作るのは難しい。まずは害虫(カメムシ)の被害に遭いやすいこと、そして、実が熟すころになると梅雨時期になり
実が割れて腐りやすいことだ。従って、熟期の早い暖地サクランボの方は栽培しやすい。

 味はとても上品で山形地方のものに勝るとも劣らない。このサクランボは熟期に入ると一気に一回りほど大きくなり
赤く色付き、まるで少女から大人の女性に変身するようである。生物界では人間だけでなく、このサクランボのように
ある日突然のように大きく姿かたちを変えるものが少なくない。

 一番劇的に変身するのは昆虫たちであろう。芋虫から蛹へ、そして蛹から蝶へと変身する様は自然の驚異さえ感じる
瞬間である。サクランボも良く似ている。昨日の姿と今日の姿は劇的に変化するのである。自然の持つ不思議な力と
言う他はない。この変化や美しさは人工のものも遠く及ばない。

 さて、我が家の山の畑も様相が変化しつつある。花の季節は柑橘類に移り、一足早く花を咲かせた梅などは日々実が
大きくなっている。この調子でいけば昨年の不作分を埋めて余りあるくらいの収穫量になりそうだ。このままいけばと
書いたのにはわけがある。実は作物の収穫量だけは収穫するまで分からない。空梅雨に近い時にはスモモは腐ることなく
収穫できるが、しとしとと雨が降り続く続く季節には実が割れてしまいことごとく腐ってしまうことも少なくないからだ。

 薬は使わないと決めて以来、全ては成すがままである。今も使い続けているのはEMだけである。このEMもいつまで
続けるべきか迷っている。既に自然栽培に近い状態まで地力が回復しているようなのでいつ止めても良い。

 今春の雑草と言う名の植物たちの茂り様は尋常ではなかった。まるでジャングルであった。今はやっと大半を抜き
終わった。これからは笹が茂り始める。こうして下草類との追っかけっこが冬まで続くことになる。

 アフリカの草原は広い。限りなく広い。そして動物たちの数も多い。草食動物はこうした草が餌である。その餌が
なければ、このような数にはならない。大地が全てを支えているのである。大地が大量の動物たちを支え得るだけの
地力を有している。

 つまり自然は自然のままであれば何をしなくても大量の恵みを与えてくれるもののようだ。その地力を奪い大量の
化学肥料と大量の農薬と、更には大量の除草剤を使って、大地の力を奪ってしまったのは他ならぬ欲深い人間どもで
あった。農作物が出来ないようにしておいて更に化学肥料と大量の農薬を使う。除草剤を使う。出来なくなるのは
当たり前である。

 この図式は昨今の医療のあり様にも通じるものがあるのではないだろうか。人間が持つ免疫力を度外視するように
大量の抗生物質を使い、抗生物質はすぐに効力を失ってしまう。更に新しい抗生物質を開発せざるを得なくなる。
イタチごっこなのだ。その背景には現代医療と製薬業界の在り様が暗い影を落としている。 儲けるためには手段を
選ばないと言う現代の病的な医療構造がある。私たちの側も気付いていながらどうしようもない現実がある。

 自然、農業、畜産、医療、これだけではない。全てが共通に病んでいると言わざるを得ない。現代人は便利で一見豊
かに見える生活を手に入れたように見えるが、これが本当の豊かさと言えるのであろうか。

 さて、これからはEMを作るには最適の季節だ。発酵に必要な環境が整ってきたからだ。EMを作るのはとても簡単。
使用する材料の分量は参考にするものに書いてある分量近くで良い。それを混ぜ合わせて日中太陽の当たるところに
置いておく。それだけで良い。

 守らなければならないのはペットボトルのような密閉できる容器を使うこと。発酵が始まると猛烈に炭酸ガスが出て
くるので一日に一回は栓をそっと緩めてガス抜きをする。栓を一気に開けると中の液体がガスと一緒に噴き出すから
要注意だ。夏場なら五日間から一週間くらいしてガスの出てくる量が少なくなったら完成である。発酵後の甘酸っぱい
匂いがしていたら成功だ。

 感だけでは頼りない人はPH試験紙で3.5位だったら完成である。これを何倍でもいいから薄めて畑や植え付け前の
プランターなどに撒いておくと良い。何倍でもと言ったのは撒き過ぎが心配な人のために言ったのであって濃くても
まず障害になることはない。薄ければ何度にも分けて撒けばいい。私は植えた状態のままの植木鉢にも撒いている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

様々な思い

2014-05-08 06:15:32 | Weblog
夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂り
あれに見えるは茶摘みじゃないか
あかね襷に菅の傘

とは今の季節をうたった歌である。

 今はまさに新緑の頃である。私はこの季節(五月四日)に生を受けたことを感謝している。と同時に運命的なものも感じている。
時は昭和19年、日本の敗戦色がいよいよ濃厚になって来始めた頃であった。戦争は全ての運命を変えてしまう。そのことは今も
戦乱の最中にある多くの国や地域を見れば明らかなことである。暴力は暴力を呼び、怒りは怒りを呼ぶ。そして時には恨みも何も
ない者同士が武器を持って戦うことになる。まさに狂気以外の何ものでもない。

 ずっと若いころの話だが、ある印刷屋のおやじさんが太平洋戦争の時つくづく戦地が嫌になって逃亡するわけにもいかず、
自らが将校と言う立場にあって、この部下たちの命をどのようにして守ってやれば良いのか考え悩んだことを切実に話してくれた。
戦争や戦地の悲惨さは絵空事ではない。

 この度、共産党を除く全党が賛同して18歳以上が参加する国民投票によって憲法を変えることが可能になった。これは戦争への
道の一里塚である。憲法改正は机上の空論ではなく現実のものとなってきた。私たち国民一人一人が親近者を戦地に送り出す決断を
しなければならないことになったわけである。我が子が我が夫が戦地に赴くことになる。他人事ではない。あるいは女性も戦地に。

 さて全てが生気あふれる季節である。我が家の庭は百花繚乱の季節を迎えている。ニッポンサクラソウに始まり白く小さな花
ブルーベリー、ツツジやモッコウバラ、オオデマリ、コデマリ、クンシラン、テッセン、アヤメやショウブと続く。そして早くも
サクランボが色づいてきた。今年は挿し木で育て4年目を迎えた多くのブルーベリーが収穫を迎える。これからはベリー類が収穫の
季節へと向かう。

 理研が実証実験を行わないままに幕引きに入った。背景に何があるのか。全ては闇の中に閉じ込められたままである。自作自演の
猿芝居だったのか。それとも明らかにすれば都合の悪い何かがあったのか。ノーベル賞を受賞した人までもが研究論文のコピー&
ペーストを認めている。小保方さんの発表した論文もそのことが指摘され問題になった。

 研究者の誰でもがごく当たり前のようにやって来たことだった。コピペが問題だったのではなく、この研究がねつ造だったと言う
からには同じ手順でやってみて、そのような事実はないことを立証しなければSTAP細胞は間違いだったとは言えない。明らかに
理研サイドに大いなる問題があると言わざるを得ない。

 韓国では今もって沈没船の問題が尾を引いている。単なる沈没事故と言うだけでなく時の政府を震撼させるような事件に発展した。
今、韓国社会に何が起きているのだろうか。急速に発展を遂げ、日本に追いつけ追い越せと走り続けてきた韓国社会。その中に
足りない何かがあったような気がしてならない。韓国経済を幾度か揺るがせた外貨不足、手抜き工事を行ったビルの倒壊。これらは
ほんの氷山の一角に過ぎない。問題は他にもたくさんあるに違いない。

 そして隣国中国も様々な問題を抱えたまま更に領土拡張を試みている。ベトナムの船と中国の船がぶつかったことは尖閣での
体当たりと良く似ている。この国の行く末も混沌として分からない。日本も韓国もそして中国も為政者たちのかじ取りによって
国民の命が危険にさらされている。私たちは誰かに頼るのではなく自らの力で自らの運命を切り開く覚悟が必要な時に来ている
ようだ。

 五月の澄み切った青空と目にもまぶしい新緑の季節にふさわしくない話題になってしまった。しかし後で後悔しないためにも
ここで書いておかなければと思う気持ちの方が強かった。悪しからず。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球は地殻変動期

2014-05-07 06:12:29 | Weblog
 どうやら地球は大規模な地殻変動期に入ったらしい。国際的な統計によると日本だけでなく世界の地震発生件数が
近年、急速に増えている。そして今まで地震とは無縁であった国や地域でも地震が起きている。地震と言えば日本の
専売特許のように多発しているが、それだけではないのだ。国内の地震に際していえば、私が関心を寄せている
インターネットサイトでも毎日、大小の差はあるものの地震が起きている。特に最近では飛騨地方に地震が多発して
いる。

 ここで地震が起きた際は要注意と言われている日向灘でもごく最近、地震が発生している。この地震は南海地震に
連動するものだと言われている。一般的に地震はプレートテクトニクスで説明されている。先の東日本大震災の時には
陸側の北米プレートが海側の太平洋プレートに押され盛り上がった状態になっていた。これが限界に達した時、陸側の
北米プレートが一気に跳ね返り巨大な地震となった。と同時に大量の海水を一気に押し上げこれが大津波になったものだ。
プレート(地殻)とプレート(地殻)がぶつかり合い、そこへ歪がたまってくる。それが限界を超えると大地震となる。

 多くはこの説明で納得できる。しかし最近では地球全体が縮小期に入っているのではないかと言われている。地球が
縮んで小さくなる。にわかには信じがたい話だが、この説も捨てきれない説のようだ。先には太陽が縮小し惑星が誕生する
と言う話を紹介した。ロシアで研究を続けている佐野千遥博士の預言的な説によるものだが、現に太陽のごく近くに
それらしき物体が垣間見えると言うからこれまた驚きである。

 太陽が黄金比と言う数学的な理論から導き出される周期的なものによって次第に縮小し一億年に一度くらいの頻度で
地球のような惑星が誕生していると言うのである。近年に誕生したのが惑星にはなれなかった月だと言うのである。
詳しくはネット上で関連記事を検索して調べて欲しい。

 太陽では磁気の分布に大きな変化があったばかりである。地球でいえばN極とS極が入れ替わることに相当する大きな
変化である。そして縮小、新しい惑星の誕生、これらをつなぎ合わせていくと、今の変動もあながち空想の世界だけの
事ではなさそうである。そして太陽の惑星である地球にも何らかの変化があっても不思議ではない。宇宙的なスケールの
大きな変動期に入っているのではないだろうか。

 ちなみに地球上では人為的なものによって地球温暖化なるものが進行している。一方、太陽は活動の停滞期に突入した
のではないかと言われている。寒冷化が始まっていると言うのである。人為的な温暖化と太陽活動の低下による寒冷化、
予測が付かない気象変化が待ち受けている。

 私は子供の頃から人間活動の変化と自然活動の変化は微妙に連動しているような気がしてならなかった。自然活動の
変化によって人間社会が変化するようにも見えるのだが、私には人間活動の変化が自然活動に重大な影響を与えている
ような気がしてならないのである。

 過去の歴史をひも解くと世が混乱すると天変地異が多発する。今の世はまさしくこのような時代ではないだろうか。
人間文明が行き着くところ、爛熟期こそがソドムとゴモラの伝説にあるように天変地異と言った天罰なるものが下される。
そのような気がしてならないのである。バベルの塔然りである。

 人間は何事に対しても謙虚でなければならない。「奢る平氏は久しからずや」である。必ず報いは来る。天を汚し
地を汚し、生きとし生けるものにとってかけがえのない水まで汚してしまった人間を許しておくわけには行かない。
放射能によって汚染された大地はノアの箱舟のように地球を覆い尽くすほどの水でなければ清めることは出来ない。
これは私の戯言であろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皆さんのメッセージにお礼

2014-05-04 09:52:10 | Weblog
 昨日の5月4日は私の誕生日でした。多くの方々からお祝いのメッセージを頂きました。
心から御礼申し上げます。何歳になったかって聞かないでください。生まれは1944年、
昭和19年です。こう書けば何歳かはばれてしまいますね。若作りにしていますが、そう私は
戦中派なのです。昭和20年の8月が終戦。従って、昭和19年頃は太平洋戦争も一段と
激しさを増し、国内への空襲も日ごとに激しさを増していた頃なのです。

 生まれは京都、四条河原町、八坂神社のすぐ下の町でした。日ごと激しさを増す空襲に
疎開先のある者には疎開勧告が出されていた時期でした。生まれたばかりの私は父の故郷
である広島県神辺町に疎開してきました。この疎開は父や母ばかりでなく私自身の運命を
大きく変える出来事でした。私たちは父の実家でしばらくすごしたのち、神辺町の七日市に
あった五軒長屋に引っ越しました。

 戦時中で仕事のない父は山越えをしなければ行けないようなところまで出向き農作業の
手伝いをして、わずかばかりのサツマイモなど農産物を得ていました。私が満一歳を迎えた
頃の事でした。

 以来、私は高校を卒業するまで神辺で過ごしました。私の一家もそして周辺も貧しさの
どん底にありました。小学校へ入学しても貧しさは変わりませんでした。お弁当を持って
こられない子供もいました。私のお弁当もおかずは卵焼き一個と梅干一個でした。とは
言ってもお弁当を持って来られる子は幸せな方でした。お昼休みになると、そっと教室を
抜け出していく子供もいたのです。

 そんな厳しい生活でしたが、私にとって貧しくはあっても自然豊かな環境にあってとても
幸せでした。幸いにも私には両親がいました。この時代、父親のいない家庭がとても多かった
のです。今、憲法改正を視野に入れた集団的自衛権なるものが様々に取りざたされています。
多くの人は侵略されたらどうするのだという事から憲法九条の改正に傾いていますが、九条の
改正の後には徴兵が制度化されるかも知れません。少子化の中で自分の子供たちを戦地に
行かせるのでしょうか。誰が率先して行くと言うのでしょうか。

 また集団的自衛権の背景にはベトナム戦争時に韓国から軍隊が派遣されたようにアメリカ軍
と行動を共にするようになることなのです。あのベトナム戦争当時、アメリカ軍や韓国軍が
ベトナム人にしてきた非人道的なことを考えると我が同胞にそのようなことをさせるわけには
行きません。

 厳しくとも潔く憲法九条を掲げ世界に冠たる平和主義国家を貫き通すことこそ困難な時代を
生き抜いて来た先輩たちの遺志に沿うことになるのではないでしょうか。

 目先の些細な事ばかりに目を奪われるのではなく身近に迫った様々な問題を如何に解決して
いくかを考えるべきではないでしょうか。厳しい少年時代を生きてきた私だから言えることなの
です。知らない人には理解できないことでしょう。しかし戦争と言うものは、そのような現実を
伴っているのです。

 人口の著しい減少、急速に進む高齢化、エネルギー問題、環境対策、食の問題、地球温暖化
相次ぐ天災、教育現場の現実など数え上げれば切がありません。こうした諸問題を置き去りに
して有事有事と騒ぐ背景に何があるのでしょうか。これが戦中に生まれ戦後の復興期から
高度経済成長期、そしてバブルが崩壊してどん底の経済を体験し、更にはかつて経験したことの
ないような長いデフレ期、山も谷も谷底も全て経験し目の当たりにしてきた私だからこそ言える
ことなのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする