人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

カタクリの花

2006-04-30 06:47:35 | Weblog
 船通山は島根県にある。標高は1143メートルほどのさして高い山
ではない。4月29日は少し気になる天気予報だったが早朝の家を後に
出発した。

 「リュックの会」とは、私達夫婦がいつも参加させて貰っている山登り
のグループだ。この日は過去最高の三十一名の参加者だった。川辺橋の
下の駐車場に集合し、ワゴン車など五台に分乗して出発した。私達の乗った
車はいつもの顔見知り同士、毎度の事ながら「わいわいがやがや」とそれは
それは賑やかなこと。倉敷から島根県の船通山までと言えばかなりの距離が
あるが、何かしら瞬く間に着いた感じであった。

 今回の山登りの目的の一つは山頂付近に咲き乱れるというカタクリの花
を見ることであった。そして、おまけは山登りの後の温泉と千屋牛の焼き肉
であった。
 船通山には二つの登山口がある。私達は鳥上コースから歩き始めた。
船通山はさして登りにくい山ではない。特に鳥上コースの途中までは石畳
や石の階段となっている。こんな山の中腹まで良くもこんな大きな石を
敷き詰めたものだと感心するほどきれいに組み合わされた道や石段に
なっている。

 出雲風土記では、鳥上山と称されており、山頂は鳥髪の峰とも言われ
細長い石碑が建っている。また、石造りの鳥居と祠が祀られている。伝説
によるとスサノオノミコトが八岐大蛇を退治し、高天原から降臨した地と
された伝説の山である。従って神の山と言うことになる。
 地方におけるシンボル的な山の多くには、その地方に伝わる伝説があり
信仰の対象になっている事が多い。この山もそうした山の一つだろうか。
従って、古くから神祀りが行われ、そんな登山道だからこそ、こんな立派
な石畳が作られているに違いない。
 そう言えば裏大山に登ったときにも信仰の道だという古い石畳の道が
あった。自分の足が唯一の交通手段であった頃、信者の行き来を助ける
ものとして石畳の道は欠かせないものであったのだろう。

 その石畳も途中からは途切れてしまう。作られなかったものか、それとも
長い年月の間に崩れ去ったものであろうか。道の両脇には雪が残る登山道
が続く。道は雪解け水でぬかるんで滑りやすく歩きにくい。
 鳥上コースは山の麓から山頂に至るまでずっと上り坂である。途中、何度
か休憩をしながら山頂を目指した。やがてなだらかに道にはいると両脇には
白い紐が張られ登山者が踏み込むのを制限している。その紐の向こうに
一輪また一輪と小さな可憐な花が咲いていた。カタクリの花である。花弁は
いま流行語となっている「イナヴァウアー」のように反り返っている。
これがこの花の特徴だ。
 しかし、この冬は自然にとっても予想以上に厳しかったようで、やっと
芽吹き始めたばかりと言った感じだった。本格的な花の季節はもう一、二
週間先であろうか。

 ここからは目指す山頂はもうすぐだった。少しばかりの林の中を抜けると
景色は一変する。展望がいっきょに開け山頂となる。既に大勢の登山客が
休んでいた。四方遮るもののない三百六十度の展望だ。さして高い山では
ないのだが孤立した峰なのであろうか。展望はすこぶる良い。この山が
信仰の対象になる理由の一つは、この展望が人々の心を捉えたのでは
なかろうか。私達も山頂の客となりその一角に腰を下ろした。そして総勢
三十一人が一団となって昼食を食べた。

 「リュックの会」では恒例となったみそ汁が振る舞われる。山頂の適度
な寒さの中で頂くみそ汁の温かさと味は格別なものがある。重さを我慢
しながら運んでくれた仲間に感謝しながら頂いた。リュックに詰めて
運んだビールの味もまた格別だ。お互いに持ってきたものを交換しながら
腹一杯に詰め込んだら記念写真を写して下山となった。

 帰りはもう一方の登山道、亀石コースだった。この道は山頂を離れると
早速の雪道だった。雪渓というのだろうか山襞となったところには、
たくさん雪が残っていた。もう五月が目前だというのに珍しいことだった。
 周辺はブナ林だが芽吹きにはほど遠く、わずかにタムシバの白い花が
咲いているだけであった。
 やはり今年はこの地方も想像以上に大雪だったようだ。私達は馴れぬ
雪道を滑らぬように足元を確認しながら坂道を下った。この日ばかりは
登山用のステッキが大いに役に立った。そのせいか翌朝になってステッキ
を持っていた右手の肩が妙に痛い。
 こうして下り坂とは言え、上り坂とは違うしんどさを味わいながら
下山した。

 山の春はこれからのようだ。山の麓近くにはケマンソウ、ハシリドコロ、
スミレやミヤマカタバミ、ボタンネコノメ、エンレイソウ等と言った高山
植物が芽を出し、花を付けていた。また、集落近くの田んぼのほとりには
ビッシリとツクシが立ち並び背景にある満開の桜と絶妙な取り合わせを
見せていた。

 それにしてもこの山の荒れようは何だろう。初めは台風の被害かと思って
いたが、どうやらそれは雪の重さに耐えきれず折れたものらしい。登山道
周辺の杉が数え切れないほど折れていた。改めて自然の猛威を見せつけ
られたようであった。雪の重さに絶えきれなかった木々が、まるで怪獣に
でも踏みにじられたように折れて倒れているのだ。

 下山後の楽しみは何と言っても温泉である。この山の下には日本三大美肌
温泉だという斐乃上温泉の「ヴィラ船通山 斐乃上荘」がある。美肌温泉
だと言うだけあって湯に浸かると何となくぬるぬるする湯だった。効能書き
は見かけなかったが弱アルカリ泉だろうか。少し熱めのお湯に浸かると体の
芯まで癒される。

 斯くして今日の登山は終了した。帰りは恒例となっている焼き肉を食べて
小雨降る国道180号を急いだ。下山途中で降り始めた雨は今も降り続いて
いた。それにしても山頂で降られなかったのは幸いであった。今回の登山も
お天気には恵まれていた。天に感謝しながらこの記録を終わる。
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教育基本法

2006-04-27 11:32:10 | Weblog
 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」とは、美女を花にたと
えた表現だが、いま我が家の庭では大輪の牡丹が少しずつ開き始めている。
色は濃い赤紫色だ。この牡丹は一昨年、花屋さんの店先で売れ残っていた
苗を安くするからと言うので買って帰ったものだ。牡丹は芍薬の根に接ぎ木
する。
 しかし、買った時には、その根が切れており、これで根付くのだろうか
と疑問に感じるような苗だった。店の人もそれだから安くしたのかも知れ
ない。一昨年の春には何とか芽を出し、それから一年かかって一人前の木
になり今年の春になって蕾を付けた。植物の生命力は素晴らしい。
 牡丹は花の中でもひときわ大きな花であり、それだけにあでやかでもある。
美女に例えられるのも当然と言えるだろう。それも大柄で派手な美女である。

 さて、国会では「教育基本法」が議論されようとしている。教育基本法は
憲法と同じように日本の将来を占う上できわめて重要な法律である。しかし、
その全貌は未だ明らかになっていない。
 とかく文部科学省の教育方針は場当たり的なものが多い。その最たるもの
が「ゆとり教育」ではなかったろうか。文部科学省が何かを提起するたびに
教育現場は混乱を来してきた。「ゆとり教育」は「泰山鳴動して鼠一匹出ず」
のことわざ通り何の教育効果ももたらさなかった。それどころか教育時間の
不足から学力が大きく低下していると言われている。それを補完している
のが他ならぬ学習塾である。父母の教育費の負担は馬鹿にならない。

 先日、家族で外食をしたとき、軍国主義教育をたたき込まれた日本人が
何のためらいもなく、その教育を捨てることが出来たのは何故だろうかと
義母に尋ねてみた。それは、ずっと疑問に感じていた事だった。義母は
「そうじゃなあ」と言ったきり何も答えなかった。疑問に感じるほど大きな
問題ではなかったのだろうか。それとも生きていくことが精一杯でそんな
疑問を感じるような余裕もなかったのだろうか。

 あれだけ徹底した軍国主義教育をしておきながら、戦後どうして手のひら
を返したように新しい教育方針に順応できたのだろうか。子供はともかく
大人の間では、もっと激しい葛藤があっても不思議ではなかったはずだ。
戦後の教育は戦前とはおおよそ百八十度の転換だったはずである。日本人
が従順だったからだろうか。それともアメリカが怖かったからだろうか。
戦後史を読んでも、どこにも答になるようなものは書かれていない。
 むろんアメリカ軍が力でねじ伏せたような痕跡もない。何かで読んだこと
があるが、アメリカ軍は日本へ上陸をしたとき激しい抵抗にあうものと覚悟
していたようだ。それにも関わらず子供達は人なつっこく近づいてきて
チョコレートやガムをねだったという。驚いたのはアメリカ兵達だったの
ではないだろうか。

 教育勅語を初めとする軍国主義教育とはいったい何だったのだろうか。
鬼畜米英とまで揶揄したアメリカ兵に子供達は何のためらいもなく群がり
寄っていったのは何故だろう。それほど戦前の教育は上滑りだったのだろ
うか。食べるものも与えずして我慢だけを強要するような教育が本当の
教育だろうか。子供達はふんだんに食べ物を与えてくれるアメリカ兵を
素直に歓迎したのではないだろうか。それは大人も同じだったような気が
するのである。もう戦争はこりごりだという苦い思いが下部まで浸透して
いたのではないだろうか。

 このような戦前から戦後に至る間の事を考えると「国を愛する」とか
何とかと言う前に、国が国民に対し何を与えることが出来るのかと言う
ことの方がもっと大事な事なのではないだろうか。「衣食足りて礼節を
知る」とはあの有名な孔子の言葉だが、将来に多くの生活不安を突きつけ
ながら税ばかり徴収するような国に忠誠など誓えと言う方が無理である。
 石原東京都知事は日の丸や君が代を教育現場で強要している。そもそも
君が代や日の丸を認めた時の考えは強要ではなかったはずだ。法律という
ものは、時を経ると制定された時の考えを離れて一人歩きをしてしまう。
ましてや教育基本法は国家百年の礎となるものだ。あだやおろそかに改訂
してはならない。

 国は大切なものだ。海外旅行などをすると強く感じることがある。その
愛すべき国家を法律で強要などしてはならない。この国に生まれて良かった
と自然に思えるのが本来の姿ではないだろうか。
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夏野菜の季節

2006-04-25 21:33:24 | Weblog
 何もかもが異常気象に思えてくるような昨今である。ヨーロッパでは
大雨と融雪によりドナウ川が氾濫しているとか。中国では例年の事ながら
今年は特に黄砂の飛散量が多いとか。日本でも未だ安定しないお天気が
続いている。

 近隣のホームセンターでは、早くから「はよ買え、そら買え」とばかり
に夏野菜の苗を売っている。今年のように霜注意報が出るような朝晩の
冷え込みが激しい年に、そんなに急いで植えて良いのだろうか。
 とは言いながら人間の心理は不思議なものである。みんなが植え始めたら、
気候のことなどお構いなしに早く植えなくてはと心が急ぐ。本当に大丈夫
なのだろうか。

 我が家の畑ではやっと昨日、夏野菜を植える準備が完了。果樹畑では
今リンゴの花が咲いている。津軽の方は満開、富士は蕾だ。先日来、ビワ
の袋掛を行っている。もう少しで終了予定。桃の花が終わり、ナシの花も
終わりかけている。開花が早かった梅やアンズやスモモは小さな実が付い
ている。とは言いながら、朝晩の気温が低いからだろうか成長は遅い。
 ヤマモモが実に地味な花を開いている。キウイは蕾の状態。ブドウは
やっと芽を吹き始めたばかり。柑橘類も一斉に小さな芽が出始めた。開花
はまだ少し時間がかかるだろう。五月の半ばから末頃だろうか。
それにしても、いつまでこの不順なお天気は続くのだろう。
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黄砂降る

2006-04-25 06:01:03 | Weblog
 昨日も黄砂がたくさん降ってきた。近隣の山も霞むぐらいの量だった。
今年はもう何回ぐらいになるだろう。その度にひどくなっているような気
さえする。
 発生地である中国では首都北京も黄砂に襲われて困っているようだ。
本気で首都移転を考えなければならないほどだと言うから、よほどひどい
に違いない。
 元々、黄砂はこの季節にやってくる春の風物詩のようなものだったが、
もはや風流を楽しんではおられないほどのひどさだ。年を追う毎に回数も
飛散量も多くなっているように感じているのは私だけだろうか。

 自然に国境はない。このように中国で発生したものは簡単に国境を越えて
海の向こうの国までやってくる。公害も同じ事だ。もう数十年前からの事に
なるが中国山地から瀬戸内海の海岸にいたるまでの実に広範囲の松が枯れて
しまった。
 松食い虫の被害だと言われ、春先になると盛んに農薬が撒かれた。しかし、
その効果はいっこうに見られず、わずかばかりの松を残すのみとなってしま
った。今もその残骸が残っているが後を覆い隠すように雑木が大きくなり
山の様子が変わってしまった。今やその残骸さえも見えなくなってしまった。

 これら一連の出来事は、本当に松食い虫の被害なのだろうか。確かに追い
打ちをかけたのは松食い虫かも知れない。しかし、その原因を作ったのは
海を越えてやってきた公害、つまり酸性雨だったのではないかと私は考え
ている。
 確たる証拠は何もないが、中国の経済成長が著しくなり始めた頃から松
枯れの被害がひどくなった。その頃は日本でも公害という言葉がやっと
一般化し、コンビナートの各工場では真剣に排出ガス対策に乗り出した。
また、一部は高速道路や主要道路沿いで見られたので、こうした自動車の
排気ガスも影響していたかも知れない。
 しかし、国内での対策がとられてからも松枯れの被害は衰えなかった。
衰えなかったどころか山間部の道路やコンビナートから遙かに離れた山間
部でも松が枯れ始めていた。
 自然は弱いものから淘汰されていく。それは野生動物の中で顕著に見ら
れる。ライオン等肉食獣は元気の良い動物は狙わない。弱っている動物か
幼く弱い動物を獲物にする。それは野菜や果樹に被害を及ぼす害虫と言わ
れている虫の世界でも見られることだ。少し弱っているような野菜や果樹
は害虫に冒されやすい。
 何故だろうか。そこには私達人間の目には見えない生き物同士の関係が
あるに違いないと思っている。元気の良い動植物は他から冒されないよう
な、狙われることのないような何かを出しているのだろうか。

 針葉樹は酸性雨に弱いと言われている。海を越えてやってきた酸性雨に
やられ、木が弱ったところを松食い虫が襲った。そんな構図が見えてくる。
ドイツでは酸性雨によって青い森と言われた針葉樹林が次第に失われて
いると聞いている。

 中国では今もなお多くの公害が放置されたままになっている。経済成長
を優先させているからに他ならない。公害防止に投ずるお金を惜しんでいる
からだ。その姿は在りし日の日本を思わせる。しかし、その付けは大きい。
今の内にその芽をつみ取っておかなければ海の向こうの松枯れだけでは終
わらない。

 黄砂は止むことなく夕方まで続いていた。せっかく掃除してもその後から
黄砂が薄く積もり、更にその上を春の雨が濡らしていく。悪循環の繰り返し
だ。いつになったら治まるのだろうか。
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お宮参り

2006-04-24 09:29:56 | Weblog
 お参りをした生田神社では八重桜が満開だった。繁華街の中にあって
ここだけは別世界のように静かだった。この日は日が良かったのか私達
以外にも何組もの家族が赤ちゃんを伴ってお宮参りに来ていた。
 孫が生まれて約三ヶ月、見違えるように大きくなった孫の初参りだった。
私達家族も娘の嫁ぎ先もあまり物事にこだわらない方なので思いついた日が
吉日というわけでこの日になった。
 すべての段取りは娘夫婦で行った。私達夫婦は日頃からお世話になって
いると言う娘夫婦の心配りで新幹線の切符まで手配して貰い招待を受けた。

 生田神社は先の阪神淡路大震災で大きな被害を受けた。拝殿が倒壊して
しまった。その後、建て替えられ今の真新しい拝殿となっている。神様の
前で手を合わせて孫の成長を祈るだけの予定だったが、他の家族がお祓い
を受けているのを見て急遽変更し、私達もお祓いを受けることにした。
 控え室で待つこと十分あまり、巫女さんがこちらへどうぞと呼びに来た。
孫はお姑さんの手に抱かれて拝殿へ。ここで三組の家族が揃ってお祓いを
受けた。次ぎに赤ちゃんは順次、神前に置かれた緋色も鮮やかなベビーベッド
に寝かされて神主さんから再度お祓いを受けた。
 その後、赤ちゃんのお父さんとお姑さんの手に抱かれた赤ちゃんは神酒
を頂いた。お父さんの指先につけた御神酒を口に含ませて貰い、美味しそ
うに口を動かせていた。こいつ味が分かって口を動かしているのだろうか。
どちらの家族に似ても飲めない口ではない。

 かくして滞りなくすべてが終わり、庭にあったボタン桜をバックに記念
撮影。たまたま通りがかった先ほどの神主さんにお願いしてシャッターを
押して貰った。この後は予約してあった割烹へ直行した。ここで両家揃って
久々の会食をした。楽しい会話が弾んだ。
 環境が変わって泣くのではないかと思っていた孫も私達の食事の邪魔する
のは悪いと思ったのか、すやすやとよく寝ていた。

 孫は可愛いと誰しもが口を揃えて言う。私が初めて孫の顔を見たのは三
ヶ月前、退院して間のない頃だった。この間にも何度か写真を見せて貰い
まったくの初対面ではなかったが、当然の事ながら生まれたときよりは、
ずいぶん大きくなっていた。
 母乳が十分に足りているのか、頬は大きく膨らんで垂れており、足や手
もパンパンにふくれていた。そのせいか目はお相撲さんのように細かった。
まるで小さなお相撲さんといった感じだった。
 三ヶ月にしては成長が早いようで既に首も座っており、少し手を添えて
やればお座りも出来る。どうやら順調に成長しているようだ。どうか元気
に何事もなく成長してくれることを祈っている。
 彼らの将来は何が待ち受けているか分からない。しかし、どの時代でも
それなりに苦労や苦しみはあるものだ。強い意志とたくましい体で困難を
乗り切って欲しいと思うのは祖父の欲張った思いであろうか。

 嫁ぎ先のおじいちゃんには娘が気を配り、私には婿が気を配って孫を抱
かせてくれた。おじいちゃんの顔はゆるみっぱなしだった。私の顔も同じ
ようだったのだろうか。
 娘や婿達の小さな心配りもうれしかった。娘もやっと母親らしい自覚が
出来、心も落ち着いてきたようだ。孫の成長と伴に、こうした若い夫婦の
成長もまたうれしい。連休にはこちらへ帰って来るという。どんな歓待を
してやろうか、今から楽しみである。
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原発事故を考える

2006-04-21 05:56:16 | Weblog
 災害はいつどんなところで起きるか分からない。このニュースが唐突に
届いたのは事故発生後数日経ってからだった。事故発生現場近くでさえ
事故状況を知らされることなく日常生活が行われていた。
 1986年4月26日の深夜、この事故は起きた。原子炉の大爆発と
いうとんでもない大惨事だった。当初、運転をしていたものでさえ、どんな
事故が起きたのか分からなかったと言うから原子炉の安全性を信じ切って
いたのだろうか。

 原子炉は核爆発を起こしたのだった。通常、原子炉は暴走をしないように
中性子を抑制しながら運転を行っている。この抑制と水による冷却がなかっ
たら原子炉と言えども核爆弾と同じように短時間で崩壊してしまう。実に
危険なものであることは間違いない。
 旧ソ連圏で開発された黒鉛型の原子炉と日本などで運転している軽水炉型
の原子炉は運転方式が異なるとは言え、暴走する可能性がまったくないとは
言いきれない。ひとたび暴走を始めたら止めようがない事は事実である。
 ましてや日本は地震大国である。いつどこで起きるか分からない地震の
事を考えると今のままで良いのだろうかと考えさせられてしまう。また、
日本の原子炉の多くは老朽化が進んでいる。それだけ強度は落ちている。
大地震とそれによる原子炉の崩壊は、まったく考えられないことではない。

 事故発生から二十年、節目の年だと言うことから朝日新聞では特集が掲載
されている。事故当時生まれた子供達は二十歳になった。被爆した幼い子供
達の多くは甲状腺に癌が出来、甲状腺の摘出手術を受けている。ウクライナ
の広大な農地が汚染され、今もなを強度な汚染地域は立入禁止になっている。
半減期がとてつもなく長いセシウム137などによって汚染されているからだ。
 実はこんなところにも自分の生まれ育った場所から離れられなくて未だに
住んでいる人達がいるそうだ。目に見えぬ汚染だから四季の移り変わりは
変わらない。美しい自然に囲まれた場所だというから、よけいに離れがたい
のかも知れない。この村の生活は映画にもなったと言うからぜひ一度見て
みたいと思っている。

 事故当時、多くの兵士が駆り出され事故処理に当たった。彼らの活躍が
なければ事故はもっと大きなものになっていたかも知れない。炉心は高温
となり自己溶解をしながら沈んでいき地下水系にぶつかると水蒸気爆発を
起こし更に汚染物質をまき散らしたであろうと言われている。
 この事故処理に当たった多くの兵士が今もなを放射能汚染による後遺症に
苦しんでいるという。ソ連崩壊後、国家体制が変わり十分な保障もないまま
に苦しんでいる兵士のことを考えると実に気の毒だという他はない。

 この時にも汚染物質はヨーロッパ方面にも大量に流れ、汚染濃度の差こそ
あれ各地を汚染した。ドイツなどではこの時の教訓から原子炉の運転をやめ
ろと言う運動が起きたほどである。
 むろん、日本にも汚染物質は到達したが大騒ぎにはならなかった。詳しく
調査をしたのかどうかさえも分からない。時の政府が大騒ぎになることを
恐れて調査しなかったのかも知れない。こうして地球規模の核汚染が進んだ。

 人間の記憶は急速に薄れていく。しかし半減期のとてつもなく長い核物質
は今も身を隠すようにしながら大量の放射能を放ち続けている。
 一般に核汚染で恐ろしいのは直接被爆より体内に取り込まれることの方が
怖いと言われている。体内に取り込まれると放射能を阻むものが何もない
からだ。私達は汚染されたものを食べ、体内に核物質を取り込んでいること
は間違いない。この放射能によって細胞が傷つけられ遺伝子が傷つけられて
いる可能性は大いにある。それが癌などの悪性腫瘍の原因になっていないと
誰が断言できるだろうか。

 今、人類はチェルノブイリの原発事故から、たった二十年という節目の
なかで、とてつもなく長い半減期の汚染物質と向き合っているのである。
壮大な実験が今始まったばかりだと言っても過言ではない。被爆地で生まれ
た子供達が結婚し、次の世代を残す年齢になっている。被爆の影響が少ない
ことを心から祈っている。

 チェルノブイリはロシア語でニガヨモギのことを言う。被爆地周辺には
この植物がたくさん自生しているようだ。キリスト教の新約聖書のなかでも
予言的な性格が強いと言われている「ヨハネ黙示録」8章にある話には、
こう書かれている。「3番目の御使いがラッパを吹いた時、灯火のように
燃えている大きな星が天から落ちてきました。この星は水源である川の
3分の1の上に落ちました。この星の名はニガヨモギといいます。地上の
水の3分の1はニガヨモギのように苦くなり、そのために多くの人々が
死にました」考えてみれば原子炉の爆発を予言していたようでもあり、実に
不気味である。

 今、真剣に考えてみなければならないのは、このまま原子炉に依存し
続けていて良いのだろうかと言うことである。ヨーロッパの中には原子炉
の増設から自然エネルギーへとシフトしつつある国もある。無尽蔵にある
自然エネルギーを有効に活用することこそ危険度を減らす事にならない
だろうか。
 その可能性は大いにあるのに何故いつまでも原子炉に固執し続けるのだ
ろうか。自然エネルギーへシフトした国では新しい産業が起きている。
太陽光発電が各家庭に普及すれば長い電線を引いてくることもない。これに
蓄電技術や夜間の供給方法さえ確立すれば各家庭の電気を自給自足する事も
けっして夢ではない。

ドキュメンタリー映画「ナージャの村」 97年 本橋成一監督作品
私もまだ見ていません。
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乗馬初体験

2006-04-20 08:03:22 | Weblog
 昨日、家内と一緒に自宅から二十分あまりのところにある乗馬クラブへ
行った。ここが開業したのは二十年ばかり前になる。長く続くのだろうか
と思っていたのだが、今では会員七百名近くがいるとのいう話だった。
外見的にはさして大きい馬場には見えなかったが、近くで見るとかなり
広く、馬も六十数頭いるとのことだった。

 私達が子供だった頃は、馬は牛と同じように身近にいる動物だった。私
の叔父の家でも馬を飼っていた。当時は農耕や車の牽引力としてたくさん
使われていた。しかし、近年はよほど田舎に行くか牧場へ行かなければ見
かけることはなくなった。

 乗馬クラブは、そんな馬に直接触れることの出来る数少ない場所だ。
一度は体験してみたいと思っていただけに思わぬチャンスだった。家内が
買い物に行ったとき体験会に勧誘されたのだ。当初は家内だけの予定だった
が私も強引に割り込ませて貰った。

 こうして昨日の午後、二人揃って出かけた。馬場のある場所はたくさん
の桜に囲まれていた。申し分のない環境だ。聞けば馬は非常にデリケート
な動物だそうで前の日、蕾だった桜が翌朝、全面開花しただけで後込みを
して厩舎から出てこない馬もいたそうだ。
 あんな大きな体をして厩務員の背に隠れ、前に出ようとしない臆病な馬
もいるそうで、馬の意外な一面を見たような気がした。馬にも人間と同じ
ように色んな性格があるようだ。
 また、昔から「馬耳東風」ということわざを耳にする。現に、ここの馬も
気が向かないと聞かなかったふりをするそうで、かなり賢い動物のようだ。

 私達は所定の手続きを済ませ乗馬スタイルに整え、早速、馬場へ出た。
家内の馬は「武蔵」私が乗った馬は「ブライト」だった。かなり高齢の
馬でおとなしく、それだけに初心者には向いているとの事だった。初めは
馬に馴れることから始まって、馬の上で軽い体操をし、手綱さばきを教わった。
 馬の腹を両足で叩けば進め。更に二度、三度叩けばスピードを増した。
また、手綱を引っ張れば馬は止まった。ひと動作ごとに優しく馬の首やたて
がみを撫でてやる。こうすることで馬とのコミュニケーションがとれるようだ。

 最後は少し早めの走行だった。馬の背が大きく波打つので、それに合わ
せて乗っている者も腰の上げ下ろしをしなければならない。どうタイミング
良く馬の背の上下に合わせるかが乗り心地の良さを決める。鐙にかける足
を少し浅めにして、きびすを下げる。背は前屈みにならないように、目は
まっすぐに前方を見る。膝をクッションにして馬の揺れに合わせて上下する。
これをマスターすると乗馬の第一歩は終了だ。この日の体験はここまで
だった。
その後、厩舎を回って色んな馬と対面した。若い馬、年取った馬、毛並みも
経歴も色々だった。私達に乗り方を教えてくれた人達によると、馬それぞれ
に個性があるようで馬と接するだけでも楽しいようだ。

 入会を勧められたが、今後の予定が決まっていないこともあって、回答
は保留にしておいた。乗馬は楽しいだろうが、入会金、月会費、レッスン費用
と必要で決して安くない。それでも入会者が多いと言うことは馬という動物
の癒し効果もあって、それなりに魅力のあるスポーツだと言えるのではない
だろうか。良い体験会だった。
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御大師様のお祀りの日

2006-04-18 17:17:41 | Weblog
 今日は年に一度の御大師様のお祀りの日だった。私の住んでいるところ
にも小さなお堂がある。近所のお年寄り達が世代を越えてお祀りをしてき
たお堂である。中にお祀りされているのは弘法大師ではないとの事だが昔
から弘法大師同様手厚く祀られてきた。
 4月18日には私の地元児島に点在する大師堂では何処でも御大師様を
お祀りし、お参りに訪れる人達を待つ。そして心ばかりのものをお礼にお
接待と称して差し上げる。これは四国八十八カ所で行われているお接待と
同じ事である。
 仏教では現世で善行を積むと来世は必ず極楽へ行けると信じられてきた。
仏教の教えの一つにお布施がある。お布施は何もお寺さんにお金を包んで
渡すことではない。善行を積むことがお布施だ。従って、お参りに来た人
にご苦労様とねぎらいの言葉をかけ心ばかりのものを渡すのもお布施で
ある。

 今の人は科学万能の世の中で来世など信じてはいない。そして、来世
には極楽と地獄があることも信じる人はいない。しかし、誰も来世を見て
きたものも体験しその記憶を持ち帰ったものもいない。従って、絶対に
ないと誰が断言できようか。
 私達が子供だった頃までは極楽も地獄もあるものと本気で信じていた。
親も祖父母も子や孫達にそのように教え、悪いことはしてはいけないと
厳しく戒めていた。信じる信じないは個々人の勝手だが、私は極楽も
あれば地獄もあると信じている。
 チベット仏教ではその辺のことを詳しく伝えているので興味のある人は
ぜひ読んでみて頂きたい。また、キリスト教もイスラム教も形こそ異なる
が来世はあると教えている。

 そんなわけで今日は朝から大師堂を開放し、祭壇には花や果物やお菓子
をお供えし、お接待のお菓子や缶ジュースを準備してお参りに来てくれる
人を待った。
 実はこのお接待は久しく途絶えていた。私の家内の母達が長らく続けて
きたのだが年を取り続けていくことが出来なくなっていた。私がここの管理
を引き受けてから何とか再開したいと願っていた。幸いな事に私の呼びかけ
に応じ参加してくれた人達が再開してくれた。実にありがたいことである。
 ここのご本尊様は実に霊験あらたかな御大師様だと聞いている。密かな
奇跡を起こしてきたことはあまり知られていない。熱心な信者は岡山の方
にもおられ御寄付も頂いている。

 親鸞上人の教えを書いた歎異抄の一節に次のような事が記されている。
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるに世のひとつねに
いはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。・・・・」この一節
は次のように解説されている。
 善事をなすものは善人、悪行を離れることのできぬものは悪人である。
しかしまた悪人には悪行を離れることのできぬ悲しみがあり、善人には善
事を頼むということもあるであろう。そこに善人には自力の限界を知らざ
る限り、本願他力に帰するということがないという迂遠さがある。けれど
も悪人は大悲の願心をきいて直下に心身に応えるものがあるであろう。
まことに深長の本願である。それ故に自力作善の人は、弥陀の本願(の正機)
でなく、他力をたのみたてまつる悪人は、最も往生の正因(を身につけし
もの)である。

 歎異抄は親鸞上人の弟子であった唯円が師の教えを忠実に伝えたもので
あるとされている。親鸞上人は理屈を言わずに一心不乱に念仏を唱え仏に
すがりなさいと諭している。それを上記のような回りくどい表現で伝えて
いる。現代人はとかく理屈っぽい。信心は理屈ではなく心から救われたい
と願う心だと教えているのではないだろうか。そして、善行を積み重ねる
ことこそ罪深い私達が救われるただ一つの道ではないだろうか。
 悪人は自らの罪深さを素直に反省し仏にすがりなさい。善人はなおも徳
を積んで、それに頼むことなく(おごることなく)更に徳を積みなさい。
そうすれば必ず来世は極楽に行けるであろう。
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47回ピースボート同窓会

2006-04-17 08:39:47 | Weblog
 男女12名、残念ながら今回は若い人の参加がなく、おじさん、おばさ
ん達が勢揃い。肌寒い小雨模様の先週の土曜日、同窓会場である福山の
鞆に向かいました。今回の集まりは第47回のピースボートで地球一周をし
た中国地方の仲間達の集まりでした。例外的に横浜からの参加者もいまし
た。この方は福山で青春時代を過ごしたという人でした。
 
 午後三時二十分福山駅の改札口に集合、鞆鉄道というバスで鞆に向かい
ました。さすが船で訓練されていただけあって定刻通り全員集合しました。
バス停まで行くと、そこへ昔懐かしいボンネットバスが来ました。その色
も私が子供だった頃、見慣れていた鞆鉄道のバスそのものの色でした。中
へはいると床に塗った防腐剤の懐かしい匂いがしました。すべてが昔のま
まのレトロバスなのです。
 運転手さんの他に車掌さんがいました。二人とも普通なら既に現役を引
退しているような人です。バスの中には鞆鉄道時代の古いモノクロ写真が
何枚も飾ってありました。まるで吉本興業の漫才コンビのようなテンポの
良い車掌さんと運転手さんの話を聞きながら大爆笑の連続でした。説明に
よると一年の内、何度か特別行事があるときにだけ運転をしているとのこ
とでした。それも一日に二度だけと言いますから、なをラッキーでした。
今回は近々行われる「鞆の鯛網」に向けての運行だそうです。バスの走る
路線は一部異なるとは言え、その昔、煙を吐いて走る鉄道時代の道です。
 その当時のプラットフォームがそのまま残されていました。思いがけな
いボンネットバスの旅は車掌さんのユーモアに富んだ説明を聞く内にアッ
という間に終点まで着いてしまいました。

 船で向かいの仙酔島に渡りました。この日の宿は前が広い砂浜になって
いる国民宿舎でした。ゆっくりと風呂に入りほかほかに温まった後、宴会
場に入りました。この日の料理には滅多に手に入らないと言うシャコが
ついてました。昔はたくさん獲れたシャコですが最近はめっきり少なく
なってしまいました。おまけに地元で獲れたものだとの事でした。ボン
ネットバスに乗れた事と言い、シャコを食べる事が出来た事と言い非常に
ラッキーでした。
 ここは元々魚介類の豊富なところです。色んな魚料理が次から次へと
運ばれて来ました。お陰で食べる方が一生懸命で酒の飲み量は予想して
いたよりかなり少なかったようです。

 二次会は部屋に戻って始まりました。みんなが持ち寄ったお土産がテー
ブルの上に所狭しと並びました。ここでも話し足りない分おしゃべりに花
が咲きました。一緒に船に乗ったとは言え毎日行動をともにしていたわけ
ではありませんから、お互いの意外な一面を知り得たような気がします。
 また、みんなの共通な思いは旅行の経験を話しても真剣に聞いてくれる
人がいないと言うことでした。その思いはここに集まった全員の思いであ
り、私達の経験が私達の日常とあまりにもかけ離れているからだと思いま
す。従って、同じ旅行経験者だけが抱く、誰かに聞いて欲しいと思う気持
ちが満たされないようです。そんな満たされない思いがこういった集まり
に参加すると、いっきょに吐き出されるようです。
 特に中国地方や九州地方からの参加者は激しい台風の中を集合地点の
神戸港に集まった人達ばかりです。その状況を再現するだけでも一つのドラ
マになりそうです。従って、こんな集まりがある度に台風の時の心細かっ
た必死の思いが話しに出てきます。

 さて、翌朝は素晴らしい晴れの日でした。窓を開けるとひんやりとした
清々しい空気が流れ込んできます。朝食を済ませ、少しだけ島の中を歩き
ました。この島も一昨年の台風で大きな被害を受けたようです。島の周辺
を巡る遊歩道が壊れ途中で通行止めになっていました。そんなわけで早々
に島を出て鞆の町を散策しました。
 この日は大勢の観光客が来ていました。鞆の町はいつ来ても古き良き時
代の名残をとどめています。細い路地は何処でも映画のシーンや絵になり
ます。この日はあの有名なCWニコルさんが来ていました。あの温厚そう
な顔と顎に蓄えた髭は写真で見る顔と同じでした。
 昼食は有名な十割そばの予定でしたが、すでに予約客で一杯でした。仕
方なく近くのシーサイドホテルのバイキングにしました。ここのバイキン
グは野菜を中心としたバイキングでヨモギの天ぷらなど珍しくて体に良い
ものがたくさん並んでいました。これなら幾らたくさん食べても良さそう
でした。

 余談になりますが仙酔島の国民宿舎もシーサイドホテルも同じ系列だそ
うで仙酔島で海水から自然塩を作り、健康志向のメニューや薬草などを売
りにしているようです。従って、そんな醤油や自然塩がテーブルに置いて
ありました。
 また、鞆は昔から薬草を基調とした保命酒という薬酒を作る酒蔵がたく
さんあります。少し甘いお酒ですが健康には最高と多くのファンがいるよ
うです。色んなお店での試飲も出来ますし、お土産もあります。
 また、幕末には討幕派の公家なども一時身を潜めたこともあり、坂本龍
馬ゆかりの地でもあります。ぜひ一度訪ねてみてはどうかと思う観光地で
す。福山駅からは定期運行バスが出ています。

 こうして思いがけないハッピーな出来事が幾つもあり、懸念したお天気
も見事なまでに回復し心温まる同窓会になりました。また、来年を約束して
福山駅で解散しました。皆さんお元気で。
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芽吹きの雨

2006-04-14 09:29:38 | Weblog
 春に三日の天気なしとか、菜種梅雨とも言われるように、ここのところ
雨や曇りの日が多い。ここ岡山県南地方では先週の土曜日、日曜日が
桜の花の見頃だったようだ。先日の大風で散ってしまうかに思われた桜
だったが、咲き始めだった事や気温が低かった事もあって、何とか散らず
に済んだようだ。しかし先日来、満開を過ぎた桜は急速に花びらを散ら
している。

 さて、我が家の庭では海棠の花が雨の中で咲いている。海棠の花は
花梗が長く下を向いて花開いている。この花の形が美人が思い悩んで
佇んでいる風情に見えることから美女の姿にたとえられるようだ。そう
言えば雨に濡れて少し重たげに垂れ下がった花の形を見ていると、その
ように見えなくもない。海棠は美人の花なのだ。それも何となく、なまめ
かしく見える美人なのかも知れない。

 昨日は雨の間を縫うようにして温室のシンビジュームを外に出した。例
年であれば温室の中だけで終わってしまう花だが、加温を控えていた事も
あって、まだまだ蕾のままのものもある。従って、これから外に出しても
十分に鑑賞に堪えるようだ。

 山の畑ではやっとジャガイモが芽を出し始めた。ジャガイモは一度に
たくさんの芽を出すので、この中のたくましい数本を選んで芽を摘んでやる。
こうすると数本の茎からたくさんの芋が出来てくる。大きな芋を作ろうと
すれば芽摘みは欠かせない。畝を覆った雑草を抜き、少しばかり肥料を
足しておいた。

 その山の畑だが今年は何故か桃源郷のようにはならなかった。果樹の
花の開花期が微妙にずれたためだ。遅咲きの梅、それが終わらない内に
アンズが花を開き、後を追うようにスモモ、そして桃、ネクタリンへと
続く、その後に花開くのが白が美しい梨の花、それが終わるとリンゴが
花開く。時としてこれらの花が重なるように咲くときがあって、それは
それは美しい。まさに桃源郷とは、このようなものかと思うような美しさ
である。

 一方、冬の間に咲き終わった枇杷は既に実が大きくなり始めている。そ
して、柑橘類も小さな芽が葉と茎の間から覗いている。今年はどうやらキ
ウイも花が咲き実が成るような気配だ。最早この勢いを止めるものは何も
ない。一気に花開き、新芽が出来、実が大きくなり夏へと向かうのである。

 しかし、地球温暖化の影響は少しずつ目に見えるような形で現れ始めて
いる。今年の夏がどんな夏になるのか予測がつかない。果樹作りは大袈裟
に言えば一寸先は闇である。収穫するまでどんな事があるか分からない。
台風も心配である。害虫の被害も馬鹿にならない。自然と向き合った日々
が収穫の日まで続く。
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