人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

急に寒波が

2013-11-30 05:29:48 | Weblog
 彗星の話題がネットやテレビを賑わせている。その彗星の名前は「アイソン彗星」という。
何度となく彗星の接近は話題になるが、今までそれなりに形を確認できたものは少ない。
かつて大接近したと言うハレーすい星のような巨大彗星は現れないのだろうか。
生涯に一度くらいは見てみたいものである。

 昔の人は彗星の正体が分からなかったために色んなことを考えたようだ。その中でも
吉凶にからむものが少なくない。どちらかと言うと不吉なものを想像したらしい。

 今の世は騒然としている。社会的に政治的にも様々な事件が起き、様々な法案が
審議され、与党の圧倒的な力のもとで国会を通過している。そして隣接する国々との
摩擦も絶えない。

 防空識別圏などと言う意味の良く分からないものが国境のないはずの空に敷かれたり、
その中をこれ見よがしに飛行したとか。何とも物騒できな臭い話である。

 現実逃避をするわけではないが、こんなことどうでも良いように思えてくることもある。
しかし、もう一方には現実に目を離せないでいる自分もいてもどかしい。

 澄みきった大空を見ていると現実の世のあり様が幻想のように思えてくる。幼かった頃
何の憂いも悩みもなく土手の草の上に寝転んで大空を見上げていた頃の満ち足りた心を
思い出す。人間はどうして悩まなければならないのか。何の悩みもなく心豊かに生きて
行くことは出来ないのだろうか。そんな時に思い出すのが「般若心経」である。釈迦は
どんな気持ちで「般若心経」を説いたのだろうか。

 かつて瀬戸内海の沖合に児島という島があった。児島が先だったのか小島だったから
そうなったのか、定かではない。結構、大きな島であった。古事記にも登場してくる島
だから当時の人には、しっかりと認識されるような島であったのだろう。

 不思議にこの島の中には古くからの遺跡がたくさんあり、皇室ゆかりの人も罪人として
この島へ流されてきている。天皇家と何かしらゆかりが深かったようだ。また紀州の
熊野神社に関係がある熊野権現もあり、重要文化財等に指定されている。

 その島と今は内陸部になった総社との間には大きな内海があった。瀬戸内海自体が
四国と本州に挟まれた内海であるが、更にその中に内海と呼ばれるようなものが
あったらしい。あったらしいと言うのは歴史的な書物などをひも解いて分かることである。

 この内海はとても穏やかな海だったようでで、海を重要な交通路とする当時にあっては
最も安全な航路であったようだ。総社の沖合を船が行き交う当時の姿はとても平和な
ものであったろうと思われる。

 その内海の西側に大きな川が流れていた。高梁川である。高梁川は今も豊かな流れを
有し、長年月の間に大量の土砂で下流域を埋めてゆき、遠浅の海から次第に三角州を
形成していったようだ。沖積平野である。

 更に上流域では砂鉄の採取が大々的に行われたらしく、その結果、膨大な土砂が
更に高梁川を埋めていった。堤防らしきもののなかった時代のことである。
たちまち川底は高くなり天井川となった。大雨の度ごとに大洪水となり、下流域の
農民を苦しめることになった。そのため砂鉄を採取する人達と農民の間に争いが
絶えなかったようだ。

 更に時代は下り、いよいよ浅くなった海は沖合に堰堤が築かれ干拓が始まった。
おりしも時代は人口が爆発的に増え始めた時代でもあった。農地の拡大は藩や幕府の
至上命令でもあった。

 こうして干拓された農地は次第に面積を拡大し、かつて内海に点在した小さな島々は
陸続きとなった。そうした島々は今もそのまま地名として残っている。そして新たに
陸地となったところは○○新田と呼ばれるようになった。周辺域には実に多くの○○新田が
ある。

 こうしてついに瀬戸の穴海は消えてしまい沖合の島だった児島は陸続きとなった。
現在の児島半島である。高梁川の下流域は更に埋め立てられ広大な工業地帯となった。
水島コンビナートである。

 この古代吉備地方は、瀬戸の穴海が交通の要衝であり、吉備高原から総社に至る
までの間には豊かな平野があり、更に古くから「たたら製鉄」が盛んに行われていた。
今も総社地域では大規模な「たたら製鉄」の跡が多数発見されている。そして年間の
降雨量が少ない瀬戸内海沿岸一帯は格好の塩の産地でもあった。

 豊かな平野での稲作、貴重な資源であった鉄、そして生きていくには欠くことの
出来ない塩と言う、当時としてはこれ以上のものはないほどの豊かな土地柄であった。
おまけに天災と言うものが少なかった。天災と言えば干ばつくらいのものであったろうか。

 足守川、高梁川、更に西には芦田川という河川があり、東には旭川、吉井川があって
水には恵まれていたと言えよう。ただ大きな河川はあっても当時の土木技術では干ばつを
防ぐことの出来るような灌漑技術はなかった。そのため内陸部や山間部ではため池などに
頼っていた。

 瀬戸内海は来年、国立公園に指定されて80周年を迎える。それを記念して様々な
行事が計画されているようである。今も鷲羽山の山頂に立つと雄大な内海に点在する
大小様々な島々が、まるで箱庭のように美しい。時には四国山脈の山並みまで見える
ことがあり、一幅の山水画を見るようでもある。他に比類するもののない美しさである。

 瀬戸内海の多島美を凝縮しているのが、この鷲羽山の山頂からの眺めと言えよう。
時々刻々と変化する潮の流れと島々が織りなす変化は太陽の位置によっても表情を
変える。この美しさこそが瀬戸内海特有の美しさと言えるのではあるまいか。
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里山資本主義

2013-11-27 06:32:24 | Weblog
 最近、田舎住まいを志向する人も少なくないようだ。しかし、テレビ番組などで
紹介しているようにはいかないようだ。と言うのも、その人の年齢やそれまでの仕事
(経歴)など田舎住まいには欠かせない諸条件があるからだ。

 かくゆう私も一時は田舎住まいにあこがれたこともある。しかし、経済的なことや
交通の便や果ては病気になった時のことなどを考えると容易には決断がつかなかった。
ただ言えることは、決断したら若い時の方が良い。田舎暮らしを続けるには体力が
必要だからだ。

 幸いにも私の場合、今の生活も田舎住まいに近いようなもので、趣味としての農業も
やりつつ半都会的な生活を続けている。こんな生活を始めて40年近くになる。

 最近、盛んに里山資本主義なる言葉を聞くようになった。特に岡山県の山間部に
おける埋もれた資源である山林を活用した活動が注目されている。私はマスコミが
取り上げる以前に、この工場を訪れたことがある。材木を加工して集成材なるものを
作っている会社であった。そして廃材は工場の動力源としての発電に活用されていた。
また今日ではペレットストーブの燃料としても活用されている。

 里山資本主義を町ぐるみで実行しているところがある。四国カルストで有名な高知県の
檮原町である。ここは早くからカルスト台地に巨大な風車を設置して発電を開始した。
発電した電力は四国電力へ売り利益を得ている。

 この町のすごいところは発電だけにとどまらない。売電で得た利益で町の再開発に
取り組んだことである。その一つが町の財産である森林資源の活用である。廃材や
間伐材などを活用してペレットを製造し販売している。

 ペレットは販売だけでなく町の施設でも冷暖房用のエネルギー源として活用されている。
こうして、ともすれば過疎化しがちな町の人口の減少を食い止めている。町のメイン通りは
見事なまでに整備され、町の中に電柱が一本も立っていないのが印象的だった。

 町の役場も斬新なデザインで一見の価値がある。町には観光や宿泊を兼ねた施設もあり、
小さな町ながら住民の健康維持のためのプールもある。このプールは地下の熱源を利用して
いる。いわゆる温度差を利用したヒートポンプで水を温めている。また急流をせき止めて
小電力ながら水力発電も行っている。全ては石油に依存しない自然エネルギーの活用である。
こんな町なら住んでみたいと思う人も少なくないだろう。

 いま日本は都会と言われるところに人口が集中しすぎている。そのことが便利さだけで
なく所得の面でも格差を生んでいる。地方にも欠くことの出来ない若者は都会に集中し過ぎ、
それが地方の過疎化に拍車をかけ、過疎化が地方の産業の発展や農業の後継者不足を生んで
いる。ただ言えることは、こうした現象は決して日本だけの事ではない。大なり小なり各国
とも都会への人口の集中は避けられないことのようである。

 地方には都会にない空間的な広さと余裕がある。それは人間の心の広さ、ゆとりにも
通じることである。便利には違いないが都会には空間的な広さも余裕もない。従って心の
余裕も得にくい。出来れば田舎をもっと近代的なものにし、都会的な便利さと心の余裕が
両立出来るような場所にしたい。

 里山資本主義という言葉はNHK広島放送局が考え出したと言われている。藻谷浩介氏が
レポーターとなり様々な地域や事例を紹介している。その一つに先に紹介した岡山県の
銘建工業もある。

 私の考える里山資本主義とは地域経済の復活にある。その地で働きその地で収入を得て、
その地で生産されたものを食べ、その地で楽しいことを考え創造する。そして地域の商店が
潤い、地域の産業が活性化する。そこに雇用が生まれると言う図式である。

 必要なのは人も金も一極集中ではなく地方で回ることにある。つまり地域経済の復活である。
戦後しばらくはどこにでもあった経済である。今の経済は中央一極集中であり巨大なマネーは
中央に吸い上げられ、その金は巨大なマネーゲームに翻弄されている。何のための、誰のための
経済か良くわからない。

 今、必要なのはアベノミクスでもTPPでもない。規模は小さくても地方でお金が循環する
システムである。さほど難しいことは思えない。地方に住む者がこれは必要だ、これは必要ないと
取捨選択することだ。そこから地方経済復活の第一歩が始まる。
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瀬戸大橋開通25年

2013-11-24 05:35:32 | Weblog

 児島市民交流センター横にある橋の公園の紅葉が美しい。私にとって旅をせずに紅葉を
見ることが出来る場所の一つだ。児島には何か所かの紅葉が美しい場所がある。その一つは
武左衛門通り、ファッションセンター周辺、そして味野公園周辺である。いずれも美しいが
モミジの紅葉がきれいなのは橋の公園であろうか。

 この公園、実は25年前、瀬戸大橋が開通した時、それを記念して作られた。作られた
当時は瀬戸大橋架橋記念館(今の児島市民交流センター)と橋の公園の間には道路があって
両施設は隔てられていた。何故、このような構造にしたのか定かではない。そして今は
道路部分がセンター側のプロムナードになっていて、公園とセンターは一体になっている。
子供たちの良い遊び場でもある。

 この公園の中には全国から選ばれた代表的な橋の模型が作られている。模型と言っても
けっして玩具のようなものではない。きちんとした橋の構造をしている。一度、見学に来て
じっくりと見て欲しい。なるほど橋の構造はこのようになっているのかと納得していただける。

 さて、紅葉に話を戻そう。紅葉の季節は長くない。もう散り始めたところも少なくない。
武左衛門通りの紅葉はイルミネーションの飾りつけもあって、早くから剪定され紅葉を
楽しむ時間は少なかった。ファッションセンター周辺は早や散り始めている。こうして冬が
訪れる日も早い。

 瀬戸大橋が開通してもう25年が過ぎようとしている。世界一美しいとも言われている
瀬戸内海の眺望を楽しみながら約10数キロ余りの道のりである。その間、様々な形態を
した橋が続く。その美しさは見たものでなければ味わえない。

 そもそも瀬戸大橋の架橋部分はもともと多島美の場所の一角であって、それが認められて
国立公園に選ばれたところである。選定当初は地区の人しか知らない穴場であった。それを
地元の人が自分たちだけのものとしておくにはもったいないとして国立公園第一号に選んで
くれるように大運動を展開した。

 その功があって見事、国立公園第一号となったのだ。多くの観光客は鷲羽山のレストハウス
のところからUターンしてしまう。それでは瀬戸内海の美しさを感じたことにはならない。
ここから海を眺めながら遊歩道を歩き、美しい展望を楽しみつつ鷲羽山山頂を目指して欲しい。

 その山頂からの眺めはおおよそ360度、多島美の景観から穏やかな児島湾の景観、遠くは
渋川海岸に至るまでの大パノラマを楽しむことが出来る。最近、やたら児島地区やその周辺、
そして瀬戸内海を紹介する番組が多いが、この景観を紹介する時間が少ないのは私としては
やや不満の残るところである。

 丁度、NHKの大河ドラマ「八重の桜」に出てくる徳富蘇峰もこの地を訪れ、その美しさを
絶賛している。農地が少なく耕して天に至ると言われた時代の瀬戸内海沿岸の山々はほぼ裸山
に近かった。それだけに眺望は抜群であった。海の方に目を向ければどこに立っていても景観
を楽しむことが出来た。むろん鷲羽山も例外ではなかった。この山も何度も裸の山だったこと
がある。何となく自然保護とは裏腹な感じもするが、鷲羽山に密生するほどの木々は必要では
ない。

 さて山頂からの眺めは日本全国例を見ない景観である。その景観の中に島々を縫うように
瀬戸大橋が走る。児島側から下津井瀬戸大橋、これはつり橋である。鷲羽山のふもとにある
田ノ浦から見ると、その巨大さや優美さが良く分かる。そして櫃石島から始まる斜張橋、
これは鶴が羽を広げたように見えることもあって鉄の橋でありながら何となく優美さを感じる。
岩黒島、与島を抜けてトラス橋に至る。そして再びつり橋となる。北備讃瀬戸大橋と南備讃
瀬戸大橋である。そしてこれらの橋を渡りきると四国の坂出市に至る。

 瀬戸大橋は道路と鉄道の併用橋である。そのため鷲羽山の山腹には4つ目トンネルが掘られて
いる。上側二つが道路、下側二つが鉄道である。それだけでも珍しいことであるが、四国と本州
とが50万ボルトと言う高圧ケーブルで結ばれている。電気も瀬戸内海を渡って四国と本州を
行き来しているのだ。そして将来は新幹線を走らせることが出来るような準備も整えられている。
本州から四国の高知や愛媛県まで新幹線が開通する日が来ることを願っている。

 実は鷲羽山の山頂だけでなく、とっておきの場所がある。それが、この4つ目トンネルの
真上から見る下津井瀬戸大橋の景観である。丁度、橋を見下ろすような位置にあり、この景観を
見逃す手はない。鷲羽山の景観を楽しむためには地元ガイドにお願いするのが一番だ。
とっておきのビューポイントへ案内してくれる。ガイドを依頼するには児島観光ガイド協会に
依頼すると良い。

 児島地区は元々大きな島の一角であった。瀬戸大橋だけでなく様々に観光地や観光場所が
少なくない。これらは現地ガイドでなくては、とても計画は立てられない。瑜伽山蓮台寺
王子が岳、熊野神社、ジーンズストリート、ジーンズビレッジなどである。

 そうそう忘れてならないのはお勧めの食べ物である。タコ塩焼きそばを初めとしてA級
グルメとも言うべき海の幸をメインとした各種の料理である。宿泊して良し、昼食にする
のも良い。ぜひとも瀬戸内の料理を楽しんでほしい。ご相談は「児島観光ガイド協会」へ
どうぞ。
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冬はすぐそこに

2013-11-23 06:00:05 | Weblog
 我が家の庭も剪定が終わりさっぱりとした。夏の間に伸び放題だった枝も
整えられ、お正月がいつ来ても良いような状態になった。とうとう今年も
専門家のお世話になった。やはり年齢だろうか剪定はきつい、時間も足りない。
庭木の剪定はこれからも専門家に任せた方が良さそうだ。

 柿の収穫が終わった。渋柿は吊るし柿に、そして、残り柿は野鳥の餌に。
野鳥たちの厳しい冬を乗り切るための餌になれば。今、残っているのは
エンゼルトランペット。この花も霜が降り始めると一度に枯れてしまう。
一段、また一段と咲き継いで今は4段目か5段目か。その度に大量の蕾が開く。
それは見事である。と同時に香りも良い。馥郁たる清楚な香りは庭一面に漂う。
特に夜間になると急速に香りが強くなる。

 下から見上げると、ついこの前までは柿の実が熟れてオレンジ色だったものが、
今は八朔や夏ミカンの色が目立つようになってきた。収穫までの当分の間は
ミカン類のオレンジ色が目立つことだろう。

 冬の野菜畑は何となく勢いがなく寒々しい。あれほど元気の良かった里いも類も
今は枯れて見る影もない。その代り大根や蕪、そしてブロッコリーや白菜や
キャベツなどが目立ち始めた。農薬を使わない我が家の野菜達は穴だらけである。
モンシロチョウの幼虫もキャベツよりはブロッコリーの葉の方が好きなようだ。
甘いと見えて被害は大きい。しかし芯の蕾部分は日ごとに大きくなり中には収穫が
近いものもある。秋じゃがはもう掘っても良いころかもしれない。指で探って
みると固いものが当たる。一冬分くらいは収穫できるだろうか。

 こうして野菜畑や果樹畑の四季は巡り移り変わっていく。移り変わりは早い。
同じように見えて決して同じではない。その年ごとに様々な変化がある。
般若心経の一節を思わせる時の流れ、そして過ぎ去っていく様を感じる。
畑を眺めつつ一喜一憂していた若い頃の自分は何だったのだろう。今は虫に
食われ、時には枯れることがあっても、それはそれで受け入れることが出来る
ようになってきた。それも時の移り変わりが成せる技か。

 大きく西に傾いた太陽が空を染めて落ちていく。秋の終わりを感じさせる景色だ。
その夕日を受けて真っ赤に熟した柿が更に赤さを増している。人の世の騒がしさを
よそ目に自然は自然で今も変わりなく変化している。
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自然農もどき

2013-11-20 06:16:08 | Weblog
 先のブログで食の問題について書きました。食の基本にあるのは農業の問題です。
農業のあり様を抜きにして食の問題を考えることは出来ません。日本の農業は様々な
問題を抱えています。

 早くから言われてきたのは後継者不足の問題です。日本の産業は農業を基礎に
発展してきました。戦後の物不足の時代から始まって高度経済成長期を契機に
大きく産業構造は変化してきました。

 製鉄だとか化学等と言った重厚長大型産業と言われるものが発展し、田舎の
労働力はコンビナートなどへ吸収されていきました。そのため農業人口は激減
しました。長男、次男だけでなく働き盛りの男性は、みんなこうした産業に吸収
されていきました。そして集団就職などで都会と言われるところに人口が集中する
ようになりました。

 家族総出の農業から耕運機や田植え機、刈り取り機などと言う農機具が、減った
農業人口の代わりをするようになりました。人が関わる農業から機械がする農業へと
変わってきました。その結果、農家は機械代の支払いに追われるようになり、出稼ぎや
近くに工場などがある場合はそこで働くようになりました。いわゆる兼業農家です。

 田舎にはじいちゃんやばあちゃんや父ちゃんや母ちゃんが残され、三ちゃん農業と
言う形態が生まれました。父ちゃんや母ちゃんが元気な間は良かったのですが、
こうした世代が高齢化し農業が続けられなくなったときに問題は生じてきました。
多くの耕作地は放棄され、中には一村丸ごと住民が居なくなったようなところも
あります。急速な過疎化と高齢化が同時に進行し始めたのです。

 更に輸入自由化が拍車をかけました。農作物の自由化は競争力に欠ける日本の
農産物には非常に不利です。そして今はTPP問題です。重厚長大型産業や輸出産業の
あおりを食い、自動車や家電製品の輸出と交換条件のようにして日本の農業は
切り捨てられていきました。

 食糧の自給率はわずかに40パーセントと言う状況です。先進国と言われる
国の中で自給率が40パーセントという国は恐らく日本だけではないでしょうか。
農業は国の要だと言われながらこの状態です。そして輸入農作物には様々な問題が
あります。農薬汚染の問題、遺伝子組み換え農作物の問題、狂牛病やウイルス感染
の疑いのある肉食類の問題などです。

 こうした状況に歯止めをかけたいと、ささやかながら立ち上がった人々がいます。
農業はきついもの、汚いものと言う常識を覆すような動きです。その一つが自然農です。
きつい農作業を楽にしたい。お金のかからない農業を目指したい。そうした思いが
一つの形になって木村秋則さんなどを代表とする自然農の考えが広がり始めています。

 まずは耕さない。農薬や化学肥料は使わない。除草は最低限にしておく。そして種は
F1などと言うものは使わない。昔からその土地で栽培し改良されてきたものを使う。
こうすれば安上がりで楽して収穫が得られると言うわけです。

 言葉では簡単に言えますが、なかなか出来ないことです。それは私たちの頭が
従来型の農業を良いことだとイメージしているからです。その一例として雑草一本
生えていない農地が良い農家(篤農家)のものだと言う考えです。

 私自身も若いころは体力に任せて雑草一本生えていない整然とした畑を目指して
いました。果樹が害虫にやられないように前もってきつい農薬を使っていました。
専業農家でもないのに動力式の噴霧器まで使っていました。それでも収穫量には限界が
ありました。そもそも私の体力が続かなくなってきました。それどころか体を壊す
ようなことになってしまいました。農薬によるアレルギー症状や腰痛などです。

 体力が衰え腰痛などになる連れ、今までのような農作業を続けていては長く続かない
と考えるようになりました。専業農家でもないものが、そこまでする必要はないと
気付いたのです。

 それからは如何に楽をして農業を続けるかを考えるようになりました。それが私の
「自然農もどき」の始まりです。そして木村さんが気付いたと同じように自然に
あるものは手入れもせず、むろん農薬や肥料をやらなくても、また炎天下で水さえも
枯れてしまうこともなく繁茂している山の木々のことを考えるようになったのです。

 何か自然そのものに大きなヒントがある。そんなことを考えているときにNさんに
出会いました。まあ見て下さいと案内して貰ったのがNさんの水田でした。その水田は
耕さず、冬草は枯らせ田に水を入れて腐らせる。それが肥料に。春先の雑草に覆われた
水田の上では何羽ものツバメが飛び交っていました。周辺の水田では見られない光景
でした。

 そして二度目に訪問した時には一本ずつ植えた稲が見事な株になっていたのです。
周辺の水田の株の太さより何倍もの太い株でした。これが、稲そのものが持っている
力だとNさんは語ってくれました。そして水を張った田んぼにはメダカやタニシなど
田の生き物がたくさんいました。農薬や化学肥料を使わない自然農による水田の姿
でした。

 その水田の近くにNさんの畑がありました。この畑には草がたくさん生えていました。
除草は一切しないと言うことでした。その代りに種を蒔くときと、蒔いて芽が出始めた
頃だけは雑草に負けないように野菜が適当な大きさになるまでは刈ってやるのだとの
ことでした。その時もすでにピーマンやナスビがたくさん出来ていました。通常の畑と
何ら変わらない出来でした。

 その時の私は真似のできないことだと感じていました。まだまだ耕すことや除草は
私の意識の中に残っていたからです。余談になりますが農業はかなりその人のものの
考え方(思考や思想)が強く反映されます。近所の畑の野菜の出来が良いと必要のない
肥料を撒いたりします。

 野菜の管理についても大らかな人と小さなことまで気になる人とはまるで異なった
ものになります。ある意味、子育てに通じるものがあるかもしれません。今になって
考えると、何もそこまでする必要はなかったような事が少なくないのです。でも若い
頃には、それが許せませんでした。

 農業は大らかな気持ちで取り組む方が良いのかもしれません。ともかく今は除草は
最低限、畑は出来るだけ耕さない、小さいことは気にしない、そんなことを目指して
います。まだまだ完全な自然農にはほど遠い状況です。

 しかし果樹畑だけはかなり自然農に近づいてきました。収量は全く落ちていません。
それどころか土壌改良のためEMを使い始めて収量は確実に増えています。そして
隔年結果が緩和されつつあります。地力が上がってきたのではないかと思っています。

 私の「自然農もどき」は当分の間、試行錯誤の状況が続きそうです。そして更に
ものの考え方を変えていく必要があるようです。「自然農もどき」が完全な自然農に
なるまで。

 
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太陽の子

2013-11-19 05:42:42 | Weblog
 先のブログで倉敷市立第二福田小学校での省エネ出前授業について書きました。
その授業に於いて発電に使われているエネルギーで太陽エネルギーとはおおよそ
異なるものが一つある。それは核によるエネルギーだと話しました。核のエネルギーを
使うことには賛否両論あろうかと思います。

 それはさておき、私たちは太陽の恵みを受けて生きています。そして太陽の
恵みによってこの世に生を受けました。従って、私たちはみんな同じように
太陽の子なのだと話しました。子供たちにとっては、その言葉が余ほど新鮮に
聞こえたのか何人かの子供たちが「太陽の子」だということについて感想を
書いてくれました。

 太陽と私たちの関係は何気なく見過ごされていますが、私たちは太陽の存在
なくしてこの世に生を受けることはありませんでした。太陽のエネルギーに
よって誕生し、太陽のエネルギーが作り出すものを食して生きています。そして
今も連綿たる命の連鎖の中にあります。

 アバターと言う映画を見られたことがあるでしょうか。この映画には宇宙からの
侵略者として地球人が描かれていました。地球からはるかに離れたこの星には
多くの命がありました。動物、植物、昆虫など様々です。そのあり様は地球と
うり二つでした。ただ一つ、異なっていたのは「命の木」と言う不思議な木が
あって、この星の全ての命はこの木と繋がっていたことです。

 さて地球には命の木こそありませんが、全てのものは複雑に連携し合って
この世に存在しています。ガイアとも呼んでいます。巨大な命のネットワークが
あるのです。この命のネットワークこそが「命の木」に相当するものではない
でしょうか。

 そのネットワークが様々な理由によって断ち切られようとしています。開発と
称するもの、核爆発等による放射線障害、遺伝子組み換えと言うおぞましい操作に
よるものなどです。

 私たち生命は40億年と言う気が遠くなるような時間をかけて進化してきました。
そして必要ないものは淘汰され、選ばれたものだけが生き残ってきました。これが
神聖な命の連鎖です。そこへ割り込んできたものが、人間による様々な出来事です。
生命の進化の頂点にある人間が、地球のあるべき姿を変えているのです。

 アメリカのモンサントやデュポンやダウなどと言う化学会社が開発した遺伝子
組み換え作物が様々な形で食卓を脅かしています。たとえばトウモロコシです。
アメリカのトウモロコシは政府の手厚い援助もあって大量に生産されています。
それこそ倉庫に収納しきれないトウモロコシが屋外に山積みにされています。
そしてこれらが家畜の餌や様々なものの原材料として海外へ輸出されているのです。
むろん日本にも大量の遺伝子組み換えトウモロコシが輸入されています。
遺伝子組み換え作物はトウモロコシだけではありません。大豆もあります。

 こうした農作物は意図あって開発されました。農家にとって除草は大変な仕事ですし
収穫量にも影響します。従って、広大な農場の管理には様々な農薬が必要でした。
そのために開発された農薬の一つが除草剤(ラウンドアップなど)です。しかし
除草剤は雑草や農作物の区別なく枯らせてしまいます。

 そこで開発されたのが、この除草剤に強い品種です。しかし通常の品種改良は
幾世代もの交配を繰り返さなければ作れません。そこで考え出されたのが遺伝子操作
です。こうして農薬を開発し売ってきた会社は遺伝子操作を行った農作物を
開発しました。見た目はトウモロコシや大豆ですが遺伝子レベルではまるで
異なる異質なものです。農薬会社は遺伝子を操作した農作物とそれに適応した
農薬の両方を売り込むことに成功したのです。会社へ莫大な利益をもたらしました。

 問題なのはそれだけではありません。自然交配の中で既存のトウモロコシや
大豆と交配が進むとどのようなものが出来るかわからないことです。既に実験では
奇妙なものが誕生しています。しかもこれら遺伝子組み換え農作物は、様々な
形で私たちの体に入ってくる食べ物です。今も大量の遺伝子組み換えトウモロコシ
からコーンシロップが作られ、このシロップは様々な食品に使われています。
そして私たちは知らない間に飲んだり食べたりしています。

 また家畜の飼料として使われていますから牛肉や豚肉や鶏肉のように家畜が
食べて肉となったものを食べています。その影響は十分に確認されていません。
農林水産省のホームページを見ますと、すごい数の遺伝子組み換え農作物が
輸入解禁になって国内に入ってきています。

 原子力発電がおおよそ太陽エネルギーとはかけ離れたものであるように
遺伝子組み換え農作物も自然の進化とはかけ離れたものです。原発事故が
立証しているように、これから先にいかなる事態が待っているか予測不可能です。
影響がないと言えば嘘になるでしょう。

 さて、遺伝子組み換えとは全く逆を行こうとしている団体や個人がいます。
旧来からの選択された種子を使って自然栽培に近い形で農作物を作ろうと言う
試みです。嘘のような本当の話ですが遺伝子組み換えを本格的に取り組んでいる
会社がこうした伝統的な種子を独占しようとしているのです。それどころか
こうした農作物の原種と言われる植物まで占有しようとしているのです。
これらの会社は何を意図しているのでしょうか。実に不気味な動きだと
言わざるを得ません。先の遺伝子組み換えを行った会社などが行っています。
ウインドーズを開発したビル・ゲイツなどもその一人だと言われています。

 私たちの体は太陽エネルギーが作り出した農作物によって作られています。
その農作物が農薬など様々な理由によって汚染されています。農作物もまた
本来野生が持つ強さを失いつつあります。そして何より怖いのは成長期にある
子供たちの食べ物のことです。社会問題化している事件や学校での問題の
多くは、こうした食べ物に起因しているのではないかと言うことが、ずっと
前から懸念されています。それにも拘わらず研究も改善もされてはいません。

 学校給食は、ひたすら栄養価ばかりが追求され今日の給食スタイルになって
います。その上のハンバーガーやコーラ類のコーンシロップ入りの飲料の飲食です。
体に良いとはとても考えられません。スナック菓子の一部にも遺伝子組み換えの
ジャガイモが使われています。親はもっと子供の食事について考えてみるべきです。

 戦中戦後の食糧難の時代を生き成長してきた私たちから言わせれば牛乳も
牛肉もほとんど食べたことがなかったにも関わらず、栄養失調で死ぬこともなく
成長してきました。それどころか今の子供たちよりはるかに頑強な体を作って
来ました。何故なのでしょう。今、成長期にある子供たちは私たち世代よりも
寿命が短いとも言われています。全ては食べ物が関係しているからです。

 私たちの体は食べ物によって作られています。その食べ物が様々な人的な
行為によって作り変えられ汚染され続けている現実をどのように考えれば
良いのでしょうか。しかし、ほんのわずかにせよ警鐘を鳴らし続け改善の
努力をしなければ事態の深刻度は増すばかりです。

 今、私はわずかばかりの菜園と果樹畑を作りつつ、無農薬、無肥料(少肥料)
そして除草剤を全く使わない農業をしています。それでも従来には考えられなかった
ほどの収穫を得ることが出来るようになりました。その経緯は次の機会に書いて
みたいと思います。
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夕日の中のシルエット

2013-11-17 05:17:56 | Weblog
 私の脳裏に浮かぶワンシーンがある。それが「夕日の中のシルエット」である。
私のホームページで、かなり以前に紹介したことのある一文である。私は広島県の
神辺町と言う小さな町で幼いころを過ごした。神辺町は旧山陽道の宿場町である。
本陣があり旧街道沿いには古市、七日市、三日市という地名が残っている。きっと
街道沿いには市が立っていたのであろう。市があったと言うことと備後絣(かすり)
は無縁ではない。神辺は繊維の街でもあった。路地を入ると織機の音がし、染色の
匂いがした。

 山陽道に沿って高屋川と言うさして大きくもない川が流れている。幼いころには
欠くことの出来ない子供たちの遊び場であった。真冬を除いてオールシーズンの
遊び場であった。川底は浅く典型的な天井川であった。この川は暴れ川でもあって
梅雨時には、しばしば氾濫した。氾濫しないまでも堰堤すれすれまで水かさが増し
溢れそうになるのは毎度のことであった。何度か下流域が決壊したと言う話を聞いた
こともあった。

 余談になるが、この川は大改修が行われている。重機などと言うものがない時代の
ことであった。全ては人の手で行われた。近くの山を削り土を運んで堤を高くしたのだ。
当時にすれば大工事であったことであろう。改修した堰堤の範囲のほどは良くわからないが
相当の人手を要したことであろうことは想像に難くない。

 叔母の話だと、その工事の時に崩した山から夥しい人骨が出たとのことであった。
その人骨は囚人のものだったと言うが定かではない。実はその山の近くに関所が
あったと言うことからの想像であった。しかし、この大改修のお蔭で少なくとも
以前より洪水の可能性は薄らいだ。

 子供のころの高屋川は「春の小川」の歌にもでもなりそうな穏やかな流れで
きれいな澄んだ水であった。その水がいつの頃だったか汚れて淀んだ流れに変わって
いた。幼いころの思い出が汚されたような不愉快な思いがした。もともと水量の
少ない川である。汚水が流れ込めばたちまち汚染されてしまう。それにしても
この川の上流には水道の取水場があったはずである。神辺で初めて設置された
上水の水源である。

 川の汚染は洗濯機の普及とともに始まった。洗濯機は主婦のつらい仕事の一部を
解放した。洗濯機は三種の神器とも言われテレビとともに庶民の憧れでもあった。
その洗濯機の普及とともに川の汚染は始まった。洗濯機に使う洗剤が大きな原因で
あった。石鹸もその後に開発された洗剤も表面活性剤である。これが衣服に付いた
油や汚れを浮かして水に溶かしてくれる。洗濯機は水をかき回してそのお手伝いを
している。

 ところがこの表面活性剤はとんでもないものだった。川に住む生物を殺してしまう
ほどの力を有していた。こうして川を浄化する微生物が死に、それに次いで大型の
昆虫や動物が死んで死の川と化していった。私が久々に見て、がっかりした時は
丁度、川が死んでいた時だった。洗剤の原料は改良されたが表面活性剤には違いない。
今も浄化設備がなければ昔とさして変わらない。洗剤は過度に使わず、使わずに
済むならば使わない方が良い。

 当時、川も海も泡立っていた。それくらい大量の洗剤が河川や海を汚していた
ことになる。洗剤を使わず手で洗濯をしていた頃の小川は下の方にヘドロがたまって
いても上水(うわみず)はきれいでオタマジャクシなどが泳いでいた。如何に洗剤と
洗濯機の普及が自然を壊してきたか良くわかる出来事であった。

 実は「夕日の中のシルエット」を書き始めていたのだった。美しい流れと牛や馬が
草を食(は)む堰堤。穏やかな景色であった。神辺は葛原しげる先生の故郷でもあった。
葛原先生はこの地の夕日を詩にしておられる。それに室崎琴月先生が曲をつけて
誕生したのが「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む、ぎんぎんぎらぎら日が沈む」という
童謡である。童謡に歌われるほど神辺の夕日は特徴的で美しかった。子供心にも
何となくロマンチックな心になっていくのを感じていた。

 そうした夕日が西に傾くころ放牧していた牛や馬が引かれて帰っていく。そんな
一シーンの話が「夕日の中のシルエット」であった。裸馬にまたがった少年が妹を
馬の背に迎え、すっくと堰堤の上に立ったのであった。丁度、夕日は西に傾き、
私の立っているところからは逆光であった。まさに馬の背にまたがった少年と少女が
黒いシルエットとなって、まるで映画の一シーンでも見ているようであった。

 実は、私の脳裏には美空ひばりの歌「あの丘越えて」がテーマ曲だった映画の
シーンとダブっていたのかもしれない。少年ながら「胸キュン」の瞬間だった。
今は遠く過ぎ去った少年の頃の思い出である。
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うれしい便り

2013-11-16 06:17:47 | Weblog
 先日、省エネ出前授業に出向いた第二福田小学校の4年生から文集のように
綴った一冊の便りが届いた。今までにも幾つかの学校でこのようなものを貰った
ことがある。今回もこうしたお礼の手紙だった。手紙には素直な小学生たちの
感想が様々に綴られていて微笑ましい。

 今回は省エネ授業だったので冷蔵庫の中に物を詰め込みすぎないようにしよう
だとか、冷蔵庫の開け閉めを頻繁にするのはやめようだとか色々書かれていた。

 私は幼い子供たちに省エネや地球温暖化や環境問題などの話をするたびに
何かしら後ろめたさを感じている。それは、こうした状況に至らしめたのは
私たち世代の責任だと思うからだ。マッチで火をつけておいてそれを消すような
ことをしているような気がしてならないからだ。聞いていてくれる子供たちに
何の責任もない。彼らにとっては生まれた時から既に存在していた出来事であり
当たり前の事かも知れないが、彼らの将来がどうなるのだろうと考えると何とも
相済まないような気持になってくる。

 そこで最近の授業では通り一遍の説明だけでなく、申し訳ないがこんなことに
なってしまっている。おじさんたちも努力するけれど君たちも協力してほしい、
そして望むべくは君たちの中から偉大な政治家や科学者が誕生し、おじさんたちの
生きている間には解決しそうにない諸問題を解決してほしい。こんな言葉を付け
加えている。

 子供たちにとってはとんでもない時代に生まれてきたことになる。私たちに
とっても戦後の貧しい時代からヨーロッパに追いつけ追い越せと頑張ってきた。
その結果が公害と言う環境問題を生じ、更には無制限にエネルギーを消費して
きたために地球温暖化と言う取り返しのつかない非常事態に立ち至っている。

 台風30号は想像を絶するようなものであったようだ。最大風速が100mを
超えると言う想像を絶するような強力なもので、海はまるで津波のような高さの
波が立ち沿岸地方を襲ったと報じられている。過去に誰がこんな状況になることを
想像したであろうか。改めてアメリカのパニック映画の数々のシーンを思い出す。

 被害の状況が次第に明らかになりつつある。映像で見る限り東北地方を襲った
大津波の被害と酷似している。海水による激しい破壊力である。今回は風と高潮、
二重の猛威に遭遇したことになる。

 さて、私はお礼の手紙をくれた小学生たちに早速お礼のメッセージを書いた。
感謝の言葉ととともにお詫びも書いておいた。会場で子供たちに呼びかけたと
同じ思いからだった。そして校長先生にも電話をしておいた。校長先生のお話に
よると更にうれしいことがあった。

 「もったいない」の運動に賛同して描いたポスターや絵が何枚も表彰の対象となり
更には県知事賞まで受賞した生徒がいたとか、本当にうれしいことである。4年生の
拙い文章の中から全てを読み取ることは出来なかったけれど、私の出前授業や
環境学習の中から多くのことを学んでくれたのだと思う。少しでも子供たちの
心の中に自分たちが住んでいる地球を大切にしたいと言う思いが芽生えたのでは
ないだろうか。

 手紙の中に幾つかの「太陽の子」というフレーズが綴られていた。私が太陽の
エネルギーの話をしたときに、この中に異質なものが一つあると話した時の事だった。
石油などの化石燃料や水力、風力、そして太陽光発電、いづれも太陽のエネルギーに
よるものだ。

 そして私たち人間も太陽の恵み(エネルギー)によって作られたものを食べて
生きている。子孫を生み育てている。だから私たち人間も太陽エネルギーによって
作られているんだよと話したのだった。子供たちにとっては意外な言葉だったのかも
知れない。

 太陽エネルギーとは全く関係のない異質なものとはウラン燃料をエネルギー源に
している原子力発電のことである。原発が良いとか悪いとかは、あえて口にしなかった
けれど、太陽エネルギーとはおおよそかけ離れた異質なエネルギーであることに
違いはない。

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台風30号

2013-11-11 06:18:45 | Weblog
 北は大荒れの天気だった。暖気と寒気のぶつかるところに前線が発達した。
北海道や東北地方に低気圧による被害が発生している。

 低気圧と言えば台風もまた低気圧である。この低気圧を特別に熱帯性低気圧と呼ぶ。
多くは赤道直下の熱帯の海で発生する。太陽の熱によって暖められ水分をたっぷり
含んだ海からの激しい上昇気流が発生するからだ。

 通常、陸上では雷雲となり夕立などの雨を降らせて終わる。しかし、洋上では
こうした現象が連続して起きるようになると巨大な渦となって台風と呼ばれるものに
なってくる。台風の発生メカニズムにはまだまだ未解明なことも多いらしい。

 数年前に完成した地球シュミレーターと言うスーパーコンピューターによると、
地球温暖化による台風の発生数が増え、今後ますます大型化が予測されている。
一般的に同じ巨大な渦であっても発生する場所で呼ばれ方が異なっている。
フィリッピン周辺から中国大陸や台湾、日本、朝鮮半島に被害を及ぼすものを
台風(タイフーン)と呼んでいる。

 またインドやバングラディッシュなどと言った地方に被害を及ぼすものをサイクロン
と呼んでいる。また、カリブ海やフロリダ半島周辺から更には北上してニューヨーク
周辺にまで影響を及ぼすものをハリケーンと呼んでいる。

 しかし、発生のメカニズムはみな同じである。激しい雨と風を伴う、大きな渦である。
今回のフィリピンを襲った台風は日本では台風30号と呼ばれている。この台風は先の
アメリカ大陸を襲ったカテゴリー5と呼ばれたハリケーンの規模に匹敵するような
強力なものだったと言われている。

 台風の規模は中心気圧や風の強さで比較されることが多い。今回は900ミリバール
を更に下回っていた。風速も90メートルを超えるようなものだったと言うからすさまじい。
従って、沿岸地方に大きな被害をもたらした。かつて瀬戸内海地方が高潮の被害に遭った
ことがある。8年ほど前の夏台風の事だった。

 この時も高潮による被害がひどかった。台風の接近による気圧の低下によって海水面が
上昇した。丁度、満潮時でもあった。そして激しい風に押されて海水面は更に上昇した。
その結果、通常の満潮時の水位をはるかに超える2・5メートルの海水面の上昇となった。
沿岸地帯は軒並み海水によって浸水被害が生じた。

 海水による被害は一般的な洪水以上の被害となる。一度塩水に浸かったものは材木も
金属も乾燥しにくい。塩が水分を吸収しやすいからだ。引き出しなどは二度と開ける
ことは出来なくなってしまう。金属はことごとく錆びてしまう。

 日本周辺でも今年は多くの台風が発生し北上し日本列島を襲った。日本列島上空を
縦断するようなものこそなかったが、列島を何度も掠めていった。沖縄など南西諸島は
何度も襲われて大きな被害を受けた。

 幸いにして本州の被害が少なかったのは北上するにつれ山脈などによる勢力の減衰と
海水の温度低下によるものであった。この海水の温度によって台風の勢力は維持するか
減衰するかが決まってくる。従って、今一番懸念されているのは海水の温度上昇である。
水は比熱の関係で温まりにくく冷めにくい。従って海水温の上昇は今後の台風の勢力に
大いに関係してくる。

 海水の温度上昇による膨張ですでに海水面は著しく上昇傾向にある。更に海水の
温度上昇は台風を巨大化させ、勢力の衰えを妨げる。実は今回のようなカテゴリー5に
相当するような条件は整っているのだ。日本には海抜0メートル地帯が少なくない。
アメリカのパニック映画に相当するような被害がいつ生じてもおかしくない条件が
整っている。フィリピンの被害は決して対岸の火事ではない。日本も明日か明後日か、
そんな日が来ることを覚悟しなくてはならない時代に来ている。フィリピンの被害に
遭われた方々には心からお見舞い申し上げる。
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フジバカマとアサギマダラ

2013-11-10 06:46:56 | Weblog
 先日、写真同好会の席上で、ある人がNHK岡山放送局へ投稿したと言う写真を
持参し、みんなに披露してくれた。その写真はフジバカマという植物の花に止まって
蜜を吸っているアサギマダラという美しい蝶の写真だった。

 興味を持って調べてみるとアサギマダラと言う蝶はフジバカマを探し、蜜を求めて
やってくるのだと書かれていた。では、どのようにしてフジバカマと言う花を探すん
だろう。アサギマダラは何故、特定の植物の蜜しか吸わないのだろうと言う疑問が
居合わせた人から出てきた。

 なるほど誰だってそう思うはずだ。万とある花の中で、何もフジバカマや数種類の
植物だけでなくても良さそうなものを。何より不思議なのは上空を飛行していて
どのようにしてフジバカマ等を探すのだろう。

 その日は二羽の蝶が庭に飛来したとのことである。その人は友人からフジバカマの
苗を貰い、植えて一年目の出来事だとのことであった。このアサギマダラ自体が珍しい
蝶だとのことであった。

 更に詳しく調べてみるとこう書かれていた。アサギマダラは鳥たちの餌になることを
避けるために毒性の強いフジバカマ等の蜜を求めるのだとのこと。フジバカマの他に
ヒヨドリバナやスナビキソウと言った植物もアルカロイドという強い毒性を持った植物で
アサギマダラが蜜を求めてやってくる植物だとのことであった。

 また幼虫はキジョウラン、カモネヅル、イケマ、フヨウラン等と言った毒性の強い
植物を餌にしているとのことであった。理由は成虫と同じく鳥類の餌になることを避ける
為の手段であった。

 この蝶は越冬のために秋になると日本全土から南西諸島や台湾などに渡ることで
知られている。中には和歌山から2500キロ離れた香港で発見された事例もある
そうだ。それは愛好家や研究者達が蝶の羽にマーキングをしていることから判明して
いる。渡(わたり)は鳥だけの事ではなさそうだ。

 昆虫と植物の間には様々な関係がある。特に顕著なのは蛾や蝶の仲間に多いようだ。
例えば蚕は桑の葉しか食さない。アゲハチョウの多くは山椒だとかパセリ、ミカン類の
ように非常に匂いの強い植物の葉を好む。またモンキチウやモンシロチョウはキャベツや
ブロッコリーなどと言ったアブラナ科の植物を好む。

 こうした関係は動植物が進化する長い過程で築かれてきたものであろう。実に
不思議なことである。そしてアサギマダラが長い飛行中にわずかばかりのフジバカマ
を探し求めて飛来したことにロマンを感じるのは私だけであろうか。

 
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