彗星の話題がネットやテレビを賑わせている。その彗星の名前は「アイソン彗星」という。
何度となく彗星の接近は話題になるが、今までそれなりに形を確認できたものは少ない。
かつて大接近したと言うハレーすい星のような巨大彗星は現れないのだろうか。
生涯に一度くらいは見てみたいものである。
昔の人は彗星の正体が分からなかったために色んなことを考えたようだ。その中でも
吉凶にからむものが少なくない。どちらかと言うと不吉なものを想像したらしい。
今の世は騒然としている。社会的に政治的にも様々な事件が起き、様々な法案が
審議され、与党の圧倒的な力のもとで国会を通過している。そして隣接する国々との
摩擦も絶えない。
防空識別圏などと言う意味の良く分からないものが国境のないはずの空に敷かれたり、
その中をこれ見よがしに飛行したとか。何とも物騒できな臭い話である。
現実逃避をするわけではないが、こんなことどうでも良いように思えてくることもある。
しかし、もう一方には現実に目を離せないでいる自分もいてもどかしい。
澄みきった大空を見ていると現実の世のあり様が幻想のように思えてくる。幼かった頃
何の憂いも悩みもなく土手の草の上に寝転んで大空を見上げていた頃の満ち足りた心を
思い出す。人間はどうして悩まなければならないのか。何の悩みもなく心豊かに生きて
行くことは出来ないのだろうか。そんな時に思い出すのが「般若心経」である。釈迦は
どんな気持ちで「般若心経」を説いたのだろうか。
かつて瀬戸内海の沖合に児島という島があった。児島が先だったのか小島だったから
そうなったのか、定かではない。結構、大きな島であった。古事記にも登場してくる島
だから当時の人には、しっかりと認識されるような島であったのだろう。
不思議にこの島の中には古くからの遺跡がたくさんあり、皇室ゆかりの人も罪人として
この島へ流されてきている。天皇家と何かしらゆかりが深かったようだ。また紀州の
熊野神社に関係がある熊野権現もあり、重要文化財等に指定されている。
その島と今は内陸部になった総社との間には大きな内海があった。瀬戸内海自体が
四国と本州に挟まれた内海であるが、更にその中に内海と呼ばれるようなものが
あったらしい。あったらしいと言うのは歴史的な書物などをひも解いて分かることである。
この内海はとても穏やかな海だったようでで、海を重要な交通路とする当時にあっては
最も安全な航路であったようだ。総社の沖合を船が行き交う当時の姿はとても平和な
ものであったろうと思われる。
その内海の西側に大きな川が流れていた。高梁川である。高梁川は今も豊かな流れを
有し、長年月の間に大量の土砂で下流域を埋めてゆき、遠浅の海から次第に三角州を
形成していったようだ。沖積平野である。
更に上流域では砂鉄の採取が大々的に行われたらしく、その結果、膨大な土砂が
更に高梁川を埋めていった。堤防らしきもののなかった時代のことである。
たちまち川底は高くなり天井川となった。大雨の度ごとに大洪水となり、下流域の
農民を苦しめることになった。そのため砂鉄を採取する人達と農民の間に争いが
絶えなかったようだ。
更に時代は下り、いよいよ浅くなった海は沖合に堰堤が築かれ干拓が始まった。
おりしも時代は人口が爆発的に増え始めた時代でもあった。農地の拡大は藩や幕府の
至上命令でもあった。
こうして干拓された農地は次第に面積を拡大し、かつて内海に点在した小さな島々は
陸続きとなった。そうした島々は今もそのまま地名として残っている。そして新たに
陸地となったところは○○新田と呼ばれるようになった。周辺域には実に多くの○○新田が
ある。
こうしてついに瀬戸の穴海は消えてしまい沖合の島だった児島は陸続きとなった。
現在の児島半島である。高梁川の下流域は更に埋め立てられ広大な工業地帯となった。
水島コンビナートである。
この古代吉備地方は、瀬戸の穴海が交通の要衝であり、吉備高原から総社に至る
までの間には豊かな平野があり、更に古くから「たたら製鉄」が盛んに行われていた。
今も総社地域では大規模な「たたら製鉄」の跡が多数発見されている。そして年間の
降雨量が少ない瀬戸内海沿岸一帯は格好の塩の産地でもあった。
豊かな平野での稲作、貴重な資源であった鉄、そして生きていくには欠くことの
出来ない塩と言う、当時としてはこれ以上のものはないほどの豊かな土地柄であった。
おまけに天災と言うものが少なかった。天災と言えば干ばつくらいのものであったろうか。
足守川、高梁川、更に西には芦田川という河川があり、東には旭川、吉井川があって
水には恵まれていたと言えよう。ただ大きな河川はあっても当時の土木技術では干ばつを
防ぐことの出来るような灌漑技術はなかった。そのため内陸部や山間部ではため池などに
頼っていた。
瀬戸内海は来年、国立公園に指定されて80周年を迎える。それを記念して様々な
行事が計画されているようである。今も鷲羽山の山頂に立つと雄大な内海に点在する
大小様々な島々が、まるで箱庭のように美しい。時には四国山脈の山並みまで見える
ことがあり、一幅の山水画を見るようでもある。他に比類するもののない美しさである。
瀬戸内海の多島美を凝縮しているのが、この鷲羽山の山頂からの眺めと言えよう。
時々刻々と変化する潮の流れと島々が織りなす変化は太陽の位置によっても表情を
変える。この美しさこそが瀬戸内海特有の美しさと言えるのではあるまいか。
何度となく彗星の接近は話題になるが、今までそれなりに形を確認できたものは少ない。
かつて大接近したと言うハレーすい星のような巨大彗星は現れないのだろうか。
生涯に一度くらいは見てみたいものである。
昔の人は彗星の正体が分からなかったために色んなことを考えたようだ。その中でも
吉凶にからむものが少なくない。どちらかと言うと不吉なものを想像したらしい。
今の世は騒然としている。社会的に政治的にも様々な事件が起き、様々な法案が
審議され、与党の圧倒的な力のもとで国会を通過している。そして隣接する国々との
摩擦も絶えない。
防空識別圏などと言う意味の良く分からないものが国境のないはずの空に敷かれたり、
その中をこれ見よがしに飛行したとか。何とも物騒できな臭い話である。
現実逃避をするわけではないが、こんなことどうでも良いように思えてくることもある。
しかし、もう一方には現実に目を離せないでいる自分もいてもどかしい。
澄みきった大空を見ていると現実の世のあり様が幻想のように思えてくる。幼かった頃
何の憂いも悩みもなく土手の草の上に寝転んで大空を見上げていた頃の満ち足りた心を
思い出す。人間はどうして悩まなければならないのか。何の悩みもなく心豊かに生きて
行くことは出来ないのだろうか。そんな時に思い出すのが「般若心経」である。釈迦は
どんな気持ちで「般若心経」を説いたのだろうか。
かつて瀬戸内海の沖合に児島という島があった。児島が先だったのか小島だったから
そうなったのか、定かではない。結構、大きな島であった。古事記にも登場してくる島
だから当時の人には、しっかりと認識されるような島であったのだろう。
不思議にこの島の中には古くからの遺跡がたくさんあり、皇室ゆかりの人も罪人として
この島へ流されてきている。天皇家と何かしらゆかりが深かったようだ。また紀州の
熊野神社に関係がある熊野権現もあり、重要文化財等に指定されている。
その島と今は内陸部になった総社との間には大きな内海があった。瀬戸内海自体が
四国と本州に挟まれた内海であるが、更にその中に内海と呼ばれるようなものが
あったらしい。あったらしいと言うのは歴史的な書物などをひも解いて分かることである。
この内海はとても穏やかな海だったようでで、海を重要な交通路とする当時にあっては
最も安全な航路であったようだ。総社の沖合を船が行き交う当時の姿はとても平和な
ものであったろうと思われる。
その内海の西側に大きな川が流れていた。高梁川である。高梁川は今も豊かな流れを
有し、長年月の間に大量の土砂で下流域を埋めてゆき、遠浅の海から次第に三角州を
形成していったようだ。沖積平野である。
更に上流域では砂鉄の採取が大々的に行われたらしく、その結果、膨大な土砂が
更に高梁川を埋めていった。堤防らしきもののなかった時代のことである。
たちまち川底は高くなり天井川となった。大雨の度ごとに大洪水となり、下流域の
農民を苦しめることになった。そのため砂鉄を採取する人達と農民の間に争いが
絶えなかったようだ。
更に時代は下り、いよいよ浅くなった海は沖合に堰堤が築かれ干拓が始まった。
おりしも時代は人口が爆発的に増え始めた時代でもあった。農地の拡大は藩や幕府の
至上命令でもあった。
こうして干拓された農地は次第に面積を拡大し、かつて内海に点在した小さな島々は
陸続きとなった。そうした島々は今もそのまま地名として残っている。そして新たに
陸地となったところは○○新田と呼ばれるようになった。周辺域には実に多くの○○新田が
ある。
こうしてついに瀬戸の穴海は消えてしまい沖合の島だった児島は陸続きとなった。
現在の児島半島である。高梁川の下流域は更に埋め立てられ広大な工業地帯となった。
水島コンビナートである。
この古代吉備地方は、瀬戸の穴海が交通の要衝であり、吉備高原から総社に至る
までの間には豊かな平野があり、更に古くから「たたら製鉄」が盛んに行われていた。
今も総社地域では大規模な「たたら製鉄」の跡が多数発見されている。そして年間の
降雨量が少ない瀬戸内海沿岸一帯は格好の塩の産地でもあった。
豊かな平野での稲作、貴重な資源であった鉄、そして生きていくには欠くことの
出来ない塩と言う、当時としてはこれ以上のものはないほどの豊かな土地柄であった。
おまけに天災と言うものが少なかった。天災と言えば干ばつくらいのものであったろうか。
足守川、高梁川、更に西には芦田川という河川があり、東には旭川、吉井川があって
水には恵まれていたと言えよう。ただ大きな河川はあっても当時の土木技術では干ばつを
防ぐことの出来るような灌漑技術はなかった。そのため内陸部や山間部ではため池などに
頼っていた。
瀬戸内海は来年、国立公園に指定されて80周年を迎える。それを記念して様々な
行事が計画されているようである。今も鷲羽山の山頂に立つと雄大な内海に点在する
大小様々な島々が、まるで箱庭のように美しい。時には四国山脈の山並みまで見える
ことがあり、一幅の山水画を見るようでもある。他に比類するもののない美しさである。
瀬戸内海の多島美を凝縮しているのが、この鷲羽山の山頂からの眺めと言えよう。
時々刻々と変化する潮の流れと島々が織りなす変化は太陽の位置によっても表情を
変える。この美しさこそが瀬戸内海特有の美しさと言えるのではあるまいか。