人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

サムシング・グレート

2014-08-31 05:11:24 | Weblog
 庭に立つと馥郁たる香りが漂っている。清楚なる香りは駿河蘭が発するものだ。そして一方は大輪のエンゼルトランペット。
こちらは少し濃厚な香りである。

 さて、サムシング・グレートとは筑波大学名葉教授の村上和雄さんの語っている物質世界を超越した何かについて語った
ものである。お金万能、物質オンリーという世にあって、こんな話をするとオカルト的になってしまうが、あえて書こうと
思い立った。こうしたオカルト的なことは、体験した人は多くてもその体験をあえて語る人は少ない。特に学者と言われて
いる人の多くは体験を語ろうとはしない。少なくとも自分が現代科学の一翼を担っていると言う自負と、そんなことを口に
すると学会のつまはじきにされることを良く知っているからだ。

 小保方さんは実際にこの目で何度も確かめていると言う、一方、理研の検証では今のところ、その事実はないと言う。
いずれかが嘘を言っているか、現実にはありもしなかった幻なのか。しかし、この世の中には、まさかと思うようなことは
少なくない。そのまさかには、そのような思考を持っていなければ発見することも出会うことも出来はしない。それは常識と
言う固定観念が、そのようにさせているからに他ならない。

 この固定観念こそ曲者で私たちの心眼を大いに曇らせている。素晴らしい発明や発見の多くが、まさかと思うようなこと
から始まっている。それは心の目が真に開かれたときに発揮される。常識とかという考えがある限り大発見や大発明には
繋がらない。それは誠に不思議な出来事だと言わざるを得ない。

 さて、ここに一冊の本がある。本のタイトルは「人は幸福で当たり前」著者は千原忠とある。私の従弟が書いた本である。
書き残したと言った方が良いかもしれない。彼は同じタイトルの数冊の本を私に託して亡くなった。この本を出版して数年後の
事であった。その時には貰ったままで押し入れにしまいこんでいた。そしてつい先日、身の回りを整理していて押し入れの
中にしまいこんだものを再発見したのである。

 その後にパソコンで検索してみると、未だに古書として販売されていることも知った。本の紹介ページに彼のプロフィールが
書いてあった。それによると私より約一か月後に生まれている。昭和19年6月1日と記されている。幼いころは兄弟のように
していた従弟であった。

 彼と私は遠く離れて育った。従って、幼少期には何度か一緒に遊んだことはあっても格別彼の考えや人生観を聞いたことも
なかった。しかし、この本に書かれていることを知るにつれ、その考えがあまりにも私の考えに似通っていることを知った。
しかも彼は今から十年近くも前に、それを本に書き表している。

 その思考の類似性は、もしや私たちは本来ならば一卵性双生児としてこの世に生を受けるべきものであったのかも知れない、
ふとそのように考えたわけである。同じ家系の親戚同士であったこと。生を受けたのがわずかに一か月の差であったこと、
幼少期のある時期を一緒に過ごしたこと、寄り添うべき二人であったのかも知れないと考えたのはそれゆえの事であった。

 彼は早くから自分の生について考えていたに違いない。同じようなことは私も考えていた。しかし、幼い二人に人生を語るほどの
力はなかった。それ故に成人になってもついに膝を交えて語り合うチャンスはなかった。ただ一冊の本を残してくれたことによって
おおよそ彼が何を考え何に目覚めたのか知ることが出来たのである。

 サムシング・グレート、彼より生きながらえた私には不思議と思われることが次々に現実のものとなって表れ始めている。
いや現れ続けていると言った方が良いかもしれない。それは生まれた時から始まっていたことなのに思い至らなかったことだけ
なのかもしれない。

 成長するに連れて意識を曇らす固定観念が私の頭を覆っていたのかもしれない。不思議なことはずっと昔から続いていたような
気がしている。谷村新司さんが「昴」という大ヒット曲を書き表した時、天からの啓示のようなものがあったと語っている。
人は固定観念を捨て素直な心になれば誰にも何かが見えてくるし、現実のものとして表れるようになるのではないか。

 初めて不思議なことだと意識し始めて久しい。今では、それらすべてが当たり前のことのような気がしていちいち書き留めて
おくこともなくなってしまった。その証拠を示せと言われても、この不思議さを言葉にも書き表すことも難しい。しかし、それは
確かにあることは確信できる。

 「人は幸福で当たり前」の著書の中にも同じようなことが書かれている。それはサブタイトルである「信じたものは現れる」の
通りだと思う。

 私が幼少の頃、古銭収集に夢中になっていた時のことである。お使い先のレジスターの中に偶然のように小学校の掲示板に貼って
あった「こどもニュース」の写真にあった「寛平大宝」を発見した時の事だった。その時は、ためらわず店の人に、それが欲しいと
言って貰い、喜び勇んで家に帰ったものである。以来、その古銭は大事な収集品として我が手元にある。それは日本の最も古い時代の
ものであり寛永通宝のように引き出しの中を探せば出てくるようなありふれたものではなかった。

 そのような希少品が何故そこにあったのだろうか。偶然とは思えないような出来事に、今も不思議の感は免れない。人生は不思議の
連続なのかもしれない。そして思考は人生を左右するもののようである。こうありたいと言う強い思いは幸福をも約束してくれる。

 不幸を意識してはいけない。こんなことをしたら失敗するのではないだろうかと考えてはいけない。マイナスの思考は必ず
マイナスを引き起こすからだ。常に楽しいことを考えていれば必ず楽しいことがやってくる。固定観念を捨て去る、世のため
人のために力を尽くす。全ては先人たちによって語られ言い古されたことばかりである。

 なのに何故出来ないのか、やらないのか、それは自分の「我」と言うものがそれを阻止しているからだ。人の語ることを素直に
聞けない自分がいる。科学が万能だと思い込んで真理を知らない自分がいる。それだけのことである。自分だけが正しいのではない。
間違いは誰にもある。言い訳などせずに素直に改めればいい。そして、付け加えるならばエゴではなく愛こそが全てである。
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秋の実り

2014-08-26 06:05:55 | Weblog
 何ともはや秋を思わせるような気温とお天気が続いている。今年は農作物の出来が良くないようだとは昨今の報道である。
本当に稲や野菜の出来が良いのか悪いのか知る由もないが、我が家の果樹たちは今のところ例年通りの作柄である。栗も柿も
八朔もミカンも夏ミカンもレモンも何ら問題はなさそうである。

 そしてブルーベリーに至っては空前の出来の良さで未だに収穫は続いている。全てがEM効果だとは言えないまでも
EMの効果は確実に表れているようだ。EMを使い始めて全ての果樹の花の付きが良い。花の付きが良いことは実の付きが
良いことに通じる。そして病害虫の罹患率が心なしか少なくなったような気がする。

 悪い土には害虫が発生しやすい。つまり微生物レベルからの食物連鎖の結果であろうか。ミミズがいるようでは完全に土が
良くなったとは言えないのだそうである。我が家の畑には未だにミミズがいる。土つくりはまだまだ道半ばなのだろうか。

 日本の農業を支えているのは農薬と化学肥料であると言っても過言ではない。マニュアル化して手順に沿って農作業を
進めて行く。どの時期にどんな農薬を使うか、使う回数も詳しく定められている。でなければ品質の良いものは保証できない。
そのことはマニュアルなしで果樹つくりをしてみると良くわかる。花は咲いても一個の収穫もない年がここ数年ずっと
続いている。桃やブドウは無農薬では作れない。

 そして化学肥料、化学肥料は無機物の組み合わせで出来ている。無機物のままでは植物は吸収できない。有機物に変えて
いるのは土壌微生物である。土壌微生物がいなければ農業は出来ない。土中で色んな微生物が互いに助け合って働いている。

 微生物が助け合ってと言っても人間のように意識しているわけではない。共生と言う関係の中で助け助けられて生きている。
その代表的なものが光合成細菌と酵母、乳酸菌である。EMはこれらの働きを巧みに利用している。光合成細菌は酵母や
乳酸菌の働きを借りて硫化水素など毒物を分解する。硫黄や水素に分解してしまうのだ。この働きが溝や排水溝、池や川の
底の汚泥を分解してくれる。その働きは驚くほどのものである。その働きは酸化や還元と言った化学的な解説で説明できる。

 秋は意外に近そうだ。今のところ瀬戸大橋線沿線の稲の生育も悪くない。昨年はウンカの被害が延々と続き田んぼの中に
丸い枯れたところが随所に見られた。今のところそれはなさそうだ。ただ日照時間が少ないことが気になることの一つだ。
植物を育てるのは太陽と水だ。太陽の光がなければ植物は育たない。
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ブルーベリー採取三昧

2014-08-25 06:01:44 | Weblog
 大惨事となった広島。地域の古老によると古くから山津波と称する今回のような大規模な山崩れが起きていた地域らしい。
防災上で大切なのは、災害が発生する直前になって行動を起こすのではなく、危険なことは出来るだけ避けるのが原則であろう。
その限りに於いて、早くからそうした災害が想定されていたにも関わらず、この地域一帯を開発し多くの住宅を建てさせて来た
行政にも一端の責任があるように思う。

 そして、最大の責任者は無造作に宅地開発を行ってきた業者である。また、良くも調べずに家を建てた方々にも一端の責任が
あるように思われる。土地には土地の古くから教訓として残されてきたものが存在する。その一つが土地にまつわる伝承であり、
地名などとなって伝わっている。

 昔の人は大規模な造成工事など行う手段を持たなかったので、出来るだけ危険なところは避けるようにして生活してきた。
がけ崩れの起こりやすいところは避けてきた。洪水が起きそうなところは避けてきた。それは生活の知恵でもあった。なまじ
人間は機械と言うもので山を削り谷を埋める手段を手に入れたばかりに危険予知にまで思いを致すことがなくなった。

 削った土で覆い隠してしまい緩い地盤の上に家を建て、崩れやすい山近くに家を建てるようになった。自ら危険を見えなく
してしまった。その結果、今回のような大惨事が生じ、先の大地震の時のように液状化や緩い地盤のところの家は簡単に傾いて
しまった。

 家を建てるときは、その土地の経歴や造成の一部始終を十分に把握して建てなければならない。これは教訓である。この石碑から
海寄りには家を建てるなと先祖たちは教えていたにもかかわらず便利さだけを考えて家を建て、その結果、家を失った人が何人いた
だろうか。

 今回の大惨事は復旧に多くの時間を要するものと思われる。そして、そこに住み続けるとしても大いなる決断が必要だ。大規模な
がけ崩れが起こりやすい土地であることが明らかになったわけだから住み続けるにしてもそれなりの覚悟は必要だろう。

 これからも気象異変による自然災害は激しさを増すに違いない。そうしたことも早くから警告されていたことである。温暖化に
よる気候変動は激しさを増すようになっている。平穏なときとそうでない時との振幅が大きくなっているからだ。亡くなられた
方々のご冥福を心からお祈りいたします。


 さて、我が家では従来になく大量のブルーベリーの収穫が今も続いている。営々として苗を作り、苗を育て、なお定植してから
その場所を肥やし土壌づくりを続けてきた。その結果、全ての木が莫大な実を付けるようになった。例を挙げると温室の裏に植えた
木であるが、苗そのものの出来の良くなく枯らすのはかわいそうだと思い石ころだらけの狭い空間に仮に植えたものである。
ただ、ここ数年、根基にEMを欠かさず撒きつづけた結果、思いがけなく大きな木に成長し、木が若く勢いがあることもあって
大きな実をたくさんつけた。実に驚きである。

 その他、長い間、小さな鉢でそのままにしておいたものを全て一回り大きな鉢に移し替えた。これもたくさん実を付けた。
便宜的に山の畑に植えたものも枝が垂れるほどの実を付けた。このように全てが重なって大量の収穫になったようだ。そして
何より良かったのは早くからネットをかけたことだ。元々は野鳥対策のつもりだったが毎年のように悩まされていたイラガが
全く付かなかったことである。葉を食べられることもなく収穫の時に刺されることも一切なかった。

 従来はイラガの発生期が収穫の時期と重なるため農薬に頼ることも出来ず、ほとほと困っていた。このようにして我が家の
ブルーベリーは無農薬、無肥料、無除草剤、全くの自然栽培である。なお、ジャムも添加物なしの100%ブルーベリーのもので
ある。ぜひ入用の方はご相談ください。少しならお分けできます。

 たわわに実を付けたブルーベリーを見ていると、自然はあるべき姿に立ち戻ると何もしなくてもそれなりの恵みを与えて
くれるものだと言うことが良くわかる。縄文の時代に思いを巡らすとき自然との共生が恙なく(つつがなく)行われていた頃は
海も山も恵みでいっぱいだったことが容易に想像できる。自然を壊すことなく、搾取することなく生活していれば飢えに苦しむ
こともなかったのだと思われる。自然とともに生き自然に抱かれて死んでいく、そこには悩みも苦しみもなかったのではないだろうか。
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朝焼けの空

2014-08-20 05:26:11 | Weblog
 昨日の空は朝焼けで真っ赤だった。昔からこのような日は大雨になると言われている。現に広島市では各所において大雨による大きな
被害が出ている。さて、連日のようにエボラ出血熱に関する報道が行われている。医療体制すら貧弱な国での致死率の高い病気である。
拡大を抑えるのは容易なことではなかろう。こうした国に於いてはヨーロッパ諸国による謀略だとして病院が襲われ患者が逃げ出したとの
報道もなされている。事態はますます混迷の度を増し収拾の目途は立っていない。

 何故このような噂が持ち上がったのであろうか。そこにはWHOに対する根強い不信感があるようだ。その不信感は先の新型インフルエンザと
称されるものに始まっている。インフルエンザなら良く知られたものでA型、B型など既成のものが幾つかある。そして今も鳥インフルエンザ
なるものから人感染型のものへの変化が懸念されている。そういった懸念があったところに新型だと言う報道がなされ、パンデミックを懸念
してパニック状態に陥った。ところがさしたることもなく終息し、その後は一切流行らしきものは発生していない。このインフルエンザは
いったいどうなったのであろうか。それはそれで結構なことなのだが、その年限りの流行だったと言うのは何とも不可思議なことである。

 この時、いち早くワクチンなるものが出回ったが、多くのワクチンは在庫のままで使用期限はずっと前に切れてしまった。多くは無駄に
終わったわけである。ワクチン購入や製造に使われた莫大な金はどこに消えてしまったのだろうか。そして、この時の大騒ぎはいったい
何だったのだろうか。こんな経緯がエボラの恐怖に怯える国々の不信感にもつながっている。

 エイズにせよ新型インフルエンザにせよ生物兵器として開発されたものだと言う噂は一向に消えない。そうした不信感がこの度のエボラの
場合もあって病院の襲撃と言うあってはならない事件に繋がったのではないだろうか。国家的な陰謀やマスコミを駆使した陰謀論は今もなお
消えないし、これからも新しい陰謀が画策されているかもしれない。そんなことを考えながら不気味に照り輝く朝焼けの空を見上げていた。

 エボラは言うに及ばず今の世は数々の混乱と問題に満ち溢れている。列挙してみると次のようになる。エイズ、性病、インフルエンザ、癌
糖尿病、精神疾患の数々、学校の荒廃、無差別殺人、猟奇的殺人、誘拐、詐欺、自殺、高齢化、少子化、限界集落、耕作放棄地、子育て放棄、
ひきこもり、発達障害、薬物依存、家畜の口蹄疫、狂牛病、ブタの消化器病、飽食、食の乱れ、そして放射能汚染等々、諸外国に目を向けると
エボラ、地域紛争、宗教対立、民族問題、差別、資源戦争、薬物依存、環境問題、地球温暖化、資源エネルギー問題、遺伝子組み換え作物と
話題に事欠かない。

 これら全ては人間が引き起こした問題であり、経済を最優先にしてきた結果生じたものである。むろん健康に関する様々な問題も経済最優先と
言う中に織り込まれた飽食であり、遺伝子組み換え農作物などによるものである。何とかして儲けようと言う考えは中国からの輸入食品に止まら
ない。一番大きな犯罪は遺伝子組み換えの農作物であり薬物漬けによる家畜の肉食であろう。そしてより強力な農薬はミツバチを全滅させかねない
猛威を振るっている。少しでも多くの収穫を望む農民の心理を逆手にとって農薬が次々に開発されている。しかし、そうしたことはどこまで行っても
イタチごっこなのだ。止まることを知らない欲望は更に新たなものを開発し私たちの体を二重三重に苦しめている。原発の事故も同じことである。

 あえて患者を作るような食生活をさせておいて、その挙句に医者にかかれば莫大な治療費を請求される。癌にでもなろうものなら何でも
ないような癌でさえも手術と抗がん剤で殺されかねない。人間の健康ですら巨大な経済マシーンの中で翻弄されているのが偽りのない事実では
ないだろうか。

 また、あくなきエネルギーへの要求は領海問題まで発展し、一方では手を出すべきではない危険な原発へと手を伸ばしてしまった。日本の原発は
広島、長崎の核アレルギーを何とか打ち消したいというアメリカの意図があったらしいが、それ以上にエネルギーに対する欲望が開発に拍車をかけた。
そして十分な防御対策を取ることなく多くの原発を全国に作り続けてきた。それもこれも企業の欲望と国民個々人の欲望の成れの果ての姿である事は
言うまでもない。

 全ては人間の欲望から生じたことばかりである。この地球は様々な変化に富んでいて実に面白い。そして人間と言う存在のあり様は魅力に満ち溢れて
いる。あの世とやらの単調さに比較すれば比較にならないほど魅力にあふれている。故に生まれ変わるときは再びこの世に生れたいと言う欲望も
生じてくる。しかし今の世は混乱を極め面白いどころか恐怖が目前に迫っている。いつ降りかかるか分からない様々な災難に満ち溢れている。

 何とかしなければ、その何とかは私たち人間が愚かさに目覚める以外に解決の方法はない。幸いなことにそのようなことに気付き始めた人が少しずつ
ではあるが増えている。うれしい現象である。この広がりを止めることなく広げていきたい。世はまさに末法ではあるが、末法の先には新しい未来が
待っている。せっかく選んでこの世に生まれてきたのだから何か得るものがなければ進歩とは言えない。これからの生き方を自分自身の進歩への
一歩としたいものである。
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夏が終わる

2014-08-17 05:36:42 | Weblog
 早々と今年の夏が終わろうとしている。被災地福島からはるばる岡山まで保養に来た家族が渋川に滞在している。その子供や母親に
聞いてみると海の中にはクラゲがいっぱいだとのことであった。例の刺されると痛い奴だ。長い蝕手が腕などにまつわりつくと強い
刺激が走る。だいたいこの辺ではお盆が過ぎたら海には入らないようにしていた。クラゲがたくさん浮遊し始めるからだ。そして
お盆には海には入らないものだと決めていた。あの世の霊によって海に引きずり込まれると言って遊泳を控えていた。今はそんなもの
迷信だと言って誰も信用しない。

 さて、思わぬ大雨で各地に被害が出ているようだ。この大雨、秋雨前線によるもののようであるが、先の11号台風から引き継いで
晴天の日は少なく何となく鬱陶しい。梅雨空のようなお天気が続いている。これも太陽活動と何らかの関係があるのだろうか。明らかに
太陽には大きな異変が生じている。そして太陽の活動が衰えている。太陽活動が衰えると太陽からのバリアーが弱くなるので宇宙線が
もろに地球へ影響を与えるとのこと。降り注ぐ宇宙線の量が増えると雲を作る働きが活発化するとのことで、こうなると日照時間が
短くなり地球は寒冷化の方に向かうかも知れないとのことである。

 人為的な温室効果ガスによる温暖化と太陽活動の停滞期による寒冷化、何やら地球の気象は複雑な経緯をたどりそうである。今年は
早くも日照不足による稲の成長が悪く、その上、いもち病まで発生しているとのことで、思わぬ不作の年になるかもしれない。人間の
力など自然の前では無力に近い。そして温暖化による気象変化は激しさを増している。お前たちがやって来たことでこんなになっている。
これでもか、これでもかとゆさぶりをかけれれているようなものだ。これからも変動は激しさを増すだろう。そして不作の為に泣かな
ければならないような日が来るかもしれない。

 さて、先日は家内の叔母に誘われるままに久々にスナックへ行った。行きつけのスナックである。珍しくセンターでの受講生である
Sさんが隣席であった。例によって演歌好きな私は勧められるままに何曲か歌った。この日は先日からの農作業の疲れと渋川で済ませた
ばかりのボランティアの疲れが残っていて歌の乗りが悪かった。いくら好きでも歌っていないと急にはうまくは歌えないものだ。
どの曲も三番まで進むとやっと何とかそれらしく聞こえるようになってきた。今回は私にとっての新曲も何曲かは挑戦してみた。

 昭和と言う時代は遠くなってしまった。演歌続きで恐縮だが、「ちあきなおみ」の「紅とんぼ」を久々にユーチューブで聞いてみた。
何度聞いてもほろりとさせられるような歌である。そもそもち「あきなおみ」さんと言う歌手は突然のごとくテレビ画面から消えて
しまった。愛する夫が亡くなったことによるものだと聞いている。まさに天才とも言えるような歌唱力はどんな歌でもしみじみと
聞かせてくれる。何とも言えない味わいがあり、そして哀愁漂う歌唱である。私は多くの曲の中でも「紅とんぼ」が好きだ。
吉田旺作詞、船村徹作曲によるものだ。この二人のコンビは多くの曲を紡いでいる。その中にあまり知られていない「昭和えれじい」と
いう曲がある。この歌もまた良い。

 昭和という時代は私達を置いたままであわただしく過ぎて行った。来生臭い戦争の世紀に始まり戦後の復興、そして金融バブル
奈落の底に突き落とされるようなバブルの崩壊、長く続いたデフレ時代、正に私の生きてきた世紀は波乱万丈の世紀であった。
経済の裏も表も全て経験し見てきた。そしてアベノミクスと言う幻想も終わろうとしている。私の中では今も昭和が続いている。
しかし、これからは今までのような時代であってはいけない。経済一辺倒の世の中ではなくもっと自然を愛し、心を大切にする
時代でなければならない。経済一辺倒の時代はとうの昔に終わっている。今の経済は過去の幻想の中に生きているに過ぎない。

 昔懐かしい演歌「紅とんぼ」を口ずさむ時に、都会にもまだまだ残っていた人と人の触れ合いの温かさを思い出すのである。
「新宿駅裏 紅とんぼ 思い出してねいつまでも」それは私たち世代が社会人となり身を寄せ合うようにして小さなカウンターの
前に座りコップ酒を飲んでいた時代とダブって見えるのである。そうあの時代には人の息遣いが残っていた。お金ではなく心の時代を
懐かしむのは私だけであろうか。行きつけのスナックにも昭和の時代が色濃く残っていた。

 そして歌っていた私たちも昭和の時代から取り残された世代であった。今年の夏は終わった。秋が早いかも知れない。朝夕は
急に冷え始めた。お盆が終わると秋は目の前だ。上空にはうろこ雲が広がっている。
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台風11号

2014-08-10 06:48:49 | Weblog
 12号が来て11号とは奇妙なものだが、もう一つ珍しいところからハリケーンがタイフーンに変化して列島に向かっている。
この台風は発生した場所が場所だけに北海道に向かっている。

 さて台風予報がかしましく報道される中、センターのイベントは滞りなく終了した。大勢の親子連れが来てくれ、中にはパパまで
一緒だった家族も少なくなかった。かつてのイベントにはあまり見られなかった光景であった。こじmamaの皆さんは家族で
楽しむ余裕などなく、お客さんとしてきてくれる人たちの対応で大わらわだった。本当にご苦労様でした。

 イベントを終える毎にこじmamaの皆さんの成長が目に見えるようです。人の世話をする、人のために働く、人が喜んで
くれることをする。それ全ては非常に貴重なことです。とかく自分さえ良ければ良いと言うような風潮の見える中、なかなか
口で言うほど簡単なものではありません。

 人に何かをしてあげると言うのではなく、行っていることが自然に世のため人のためになっていることが大切なのだと思います。
「情けは他人(ひと)のためならず」とは言い古された言葉ですが、正にその通りだと思います。全ては後になって自分に戻って
くることです。そして人のために働くことは実に崇高なことだと思うのです。

 さて、このブログを書いているその時、台風は四国に上陸しようとしています。列島に上陸すれば勢力も次第に衰えることと
思います。そしてスピードを上げて日本海に抜けるものと思われます。誠に古より日本は天災の多い国です。天災の多い国に
生まれたのはこの国を選んで生を受けたものの宿命です。

 多大な被害を受け、打ちひしがれた心や体に鞭打って繰り返し雄々しく立ち上がってきたのが日本民族です。明治時代には
村を上げて北海道の未開地に移住をしなければならないと言う苦渋の決断をした村人がありました。その末裔が北海道の樺戸郡
新十津川町に今も住んでおられます。山津波による甚大な被害を受けた十津川村に残るのも地獄、北海道へ移住するのも地獄と
言う状況まで被災地の村民は追い込まれていました。

 今回の台風は今、北海道に豪雨を降らせているようです。ただでさえ集中豪富の降りやすい気候に変わりつつあります。その上の
台風、今回も記録的な降雨量となりました。何もかも記録づくめというのが異常気象の特徴です。今生まれてくる幼子たちの将来には
何が待ち受けているのでしょうか。本当に気がかりです。世の乱れは自然現象に現れる。そんな気がしてなりません。自我を捨て
心正しく世のため人のために生きていくことこそ世の乱れを治める唯一の手段だと思うのですが。
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それでも時は流れていく

2014-08-07 04:38:42 | Weblog
 STAP細胞の笹井センター長が自殺という報道に接して心が痛む。あたら有為な人を殺してしまったような気がしてならない。
STAP細胞が嘘であったか事実であったかの確認は未だ出来ていない。それよりも白い巨塔の中のおどろおどろしい人間模様が
見て取れる。明らかに自殺と言うより学会ないし理研の殺人とも言える出来事だ。

 さて、梅雨空にも似た鬱陶しい日々が続いている。台風11号とは何とも悩ましい存在だが、これも自然のあり様だと思えば
気に病むほどのものではない。何が起ころうと何があろうと時は流れていく。それは私達に与えられたわずかばかりの寿命の中
での出来事に過ぎない。そして、私が死んでもこの地球の時の流れが止まることはない。こうして地球は46億年もの気が遠く
なるほどの長い年月を存在し続けてきた。

 地球46億年に比較して私たちの世紀は何と言う短さであろうか。針の先にも満たない時の流れである。久々に大空を見上げて
みた。人の運命と言うものを考えた翌朝のことである。遠い昔、青く澄み渡った空を見上げた時、点に見えるほどの上空を渡り鳥が
鍵型になって飛んでいた。そして先日も渡り鳥ではないが点になるほどの上空を一羽の鳥が飛んでいた。あの大空から地上を
見下ろすことが出来ればどんなにか素晴らしいだろうなあと想像の翼を広げた。そして、唐突に思い出したのが母がりの故郷
三瀬谷(今の大台町)の事であった。

 この朝、久々にカナカナと言うヒグラシの鳴き声を聞いた。まだ明けやらぬ早朝のことである。そう言えば母に手を引かれ
夕暮れの山沿いの道を歩いているときに降るようなヒグラシの声を聞いたなあ、懐かしいなあ。あの時のまだ母は若かった。
幼子の私の手を引き乳飲み子だった弟を背に片手には大きな荷物を持っていた。三瀬谷の駅から何里もの遠い山道であった。

 母の里は三重県の山奥、鬱蒼たる山林地帯である。日本でも有数の多雨地帯であり昔から林業が盛んであった。駅に降り立つと
ぷーんと伐採された杉や檜の匂いがするような林業を生業とする街であった。むろん母の里も何町歩という山林を持っている
専業の農家であった。さだまさしの「無縁坂」を歌う度に母のことを思いだす。そんな風景がついこの間の出来事のように思い
出される。

 私の手元に不思議なものが三つある。一つはクリスタルガラスに閉じ込められた三十三間堂の千手観音、そしてもう一つは
畑の中で偶然に掘り当てた石で出来た猿の彫刻である。一つは拾ったものであり、一つは石ひとつないくらい何度も耕された
畑の中で掘り当てたものである。その偶然さは普通の出来事ではない。そう私には感じられたのである。何故なら私の干支は
猿だからだ。

 そして、もう一つが両ますかけと言う不思議な手相である。両ますかけとは手のひらに横一線にしわが走っている。いわゆる
百握りとも称される稀な手相である。生まれてこの方ずっとそうであったから、さして不思議な事とは考えていなかったが、
この手相の解説を見てみると運命的な生き方をした人が少なくない。波乱万丈な生き方をした人が少なくないことが統計上
明らかになっている。片手だけと言う人も稀にいるようだ。

 実はここに「魂の法則」というサイトがある。人は何故この世に生まれ、死んでいくのかを分かりやすく解説してある。
私が幼少のころから常に抱いていた疑問を丁寧に解説したものである。長く探し求めていたものであり、私が漠然とそうで
あろうと考えていたことが、そのままに書かれている。ネットだけでなく本も出版されているので、ぜひ大勢の方に読んで
貰いたい。これを荒唐無稽なものと考える人がいても、そうではないと反論するつもりはない。人それぞれに受け取り方は
自由である。そして、その人の意識レベルで反応も異なるだろう。

 人は何故今の時代を生きているのか、それはその人がこの世に生を受けるときの選択によるものである。自分で選んで
生まれてきた。しかし、選択の時の記憶はこの世に誕生した時に完全に消滅している。しかし過去生は連綿として続いている。
そう考える方が生きている意味を理解するうえで分かりやすいし、これから如何に生きるべきかを考えた時の支えになる。
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あかすけの一生

2014-08-02 05:57:46 | Weblog
 何故かこの季節になると思い出すことがある。それは終戦後間もない物資が不自由だった小学校時代のことである。
その頃の娯楽と言えばラジオ放送、そして時々連れて行ってもらえる映画館や旅回りの田舎芝居。そんな娯楽の少ない
時代、小学校で繰り返し見せて貰ったのが「あかすけの一生」と言う幻燈だった。

 当時はスライド映写機などとは言わず幻灯機と言っていた。幻の灯である。昔流に書くと幻燈機となる。むろん映す
フィルムもスライドなどと言う言葉はなく幻燈と言えば、それで通じていた時代である。丸い紙でできた小さな筒に
入っていた。

 そんな時代に繰り返し見せて貰った幻燈は「あかすけの一生」と言うものだった。「あかすけ」とは赤痢菌の事で
ある。この幻燈は赤痢と言う病気の予防のために作られた啓蒙用のものだったようだ。「あかすけ」と言う赤痢菌が
どのように運ばれ、どのように感染していくかを描いたものであった。

 赤痢と言う病気は抗生物質など普及した今では何でもない病気だが、当時にあっては命取りになりかねない重篤な
病気であった。かつ伝染病であったからトイレや井戸など人の手が触れるところや食べ物や飲み物などを介し伝染した。
集団感染等も珍しくない時代であった。

 今のような衛生観念など、ほとんどなかった頃の話である。従って、赤痢は比較的身近な感染症だった。私の弟も
夜店で買って食べたするめの甘辛煮が原因で疫痢という病気になった。疫痢とはお医者さんが下した診断結果であって、
本当は赤痢と言う伝染病であった。当時、赤痢だったら法定伝染病となり隔離病院に入院しなければならなかった。
弟が幼かったことと、両親の経済的な負担などを考えて、あえてこのような診断結果を下してくれたのかも知れない。

 隔離病棟を持つほどの気が利いた病院など田舎町にあろうはずがなかった。お医者さんさえ数少なかった時代のこと
である。こうして弟は入院することなく済んだが、お医者さんの指示で、私は家族から遠ざけられ本家に一時預けと
なった。そして一週間だったか二週間だったか祖母と一緒に寝起きすることになった。文字通り祖母と一緒のふとんで
寝起きを共にした。 

 家庭的には深刻な状況であったにも関わらず無邪気なもので本家の従弟たちと終日、カエル釣りなどに興じて楽しく
過ごした。今の子供にカエル釣りなどと言っても分からないだろうが、要はカエルの目の前で糸に吊るした小さな綿の
玉を動かしてやると、餌と間違えたカエルが飛びついてくるという単純な遊びだった。ところがこれが意外に面白い。
従弟たちと飽きもせずに毎日繰り返し遊んだものである。

 幻燈でさえ珍しかった時代、今日のように映像技術がかくも進化しようとは誰が考えたであろうか。かつて映画は
エジソンやリュミエール兄弟などが考えた機械によって始まった。パラパラ漫画を機械化したものだと言えば想像が
つくだろうか。写真でさえ珍しかった時代に、その写真が画面上で大写しにされ動くという画期的なものだった。
多くの人が驚き興味を持った。当時の人は活動大写真と言っていた。

 その後、映画は無声ではなく音と映像が一緒になった。トーキーと呼ばれた。昭和10年くらいの事であった。
更に白黒映画がカラーになった。総天然色シネマスコープ等という言葉が現れたのもこの時のことである。今でも
マナスル登頂の記録映画が鮮やかなカラー映画だったことを鮮明に思い出す。そして「砂漠は生きている」等も
カラー映画だった。フィルムのサイズも次第に大型化し進化した。ついには映写機を何台か組み合わせて上映すると
言うシネラマが登場した。寝転んでみなければ全画面を見ることが出来ないという大仕掛けなものまであった。

 さすがにシネラマは大阪など都会でなければ観ることが出来なかった。私がシネラマを体験したのは「未知との遭遇」
と言う映画であった。最後のシーンで志願者を乗せた宇宙船が空に舞い上がっていく壮大なシーンを今でも鮮明に
思い出すことがある。私の好きなUFOをテーマにした映画であった。シネラマに最もふさわしい映画だ。

 映画は進化する一方で斜陽化を迎えることになった。テレビと言う映像送信技術が進歩したからである。白黒から
カラー化へ、そして画面の大型化、更には液晶などと言う技術が進歩するとともに送信技術も進歩した。デジタル化
である。これによって映像はより鮮明になりフィルムによる映像に迫るようになってきた。

 「あかすけの一生」のスライドからすれば夢のような進歩である。しかし、映像や音響の良しあしを追求する私の
欲求は幼いころに見た「あかすけの一生」に始まっている。手に入るようになればカメラでもスライド映写機でも
作ったり購入し、それらは私のマニアチックな映像追求の原点になっている。そして今もなおその欲求に終わる
ことがない。

 そして映像はDVDになってスクリーン上ばかりではなくお茶の間に進出することになった。ホームシアター等と
言って家の中でも映画館並みの映像と音響を手に入れることが可能になった。わずかに50年から60年の間の
進化である。私にとって「あかすけの一生」は映像の原点にあるものだ。
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