人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

活弁口演終わる

2011-05-31 05:44:37 | Weblog
 今日からは六月、五月も慌ただしく過ぎていった。その五月は私の誕生月でもある。爽やかで新緑
が目に鮮やかな季節であるはずなのに、何故か今年の五月は違っていた。

 それは例年より早く梅雨入りしただとか、台風二号が早くも日本に襲来しただとか、そのような事
ばかりではない。あの忌まわしい地震と大津波、そして原発事故であった。次々に明らかにされて
いく原発事故報道、そうした報道はなくても、最悪の事態になっていた事は、津波に襲われた時から
明らかになっていたことである。

 今はこの最悪の事態をどのように終息すべきかに全力を傾けて欲しい。そして忌まわしい原発事故
報道はもう終わりにして欲しい。心からそう願っている。原発全てに責任を負わせることはたやすい。
しかし、賛成してきたもの、反対してきたもの、全ての人が原発の恩恵に預かってきた事は間違いない。
そして今日の繁栄を享受してきたのも事実である。

 今は静かに原発の終焉を見送りたい。「原発よ生まれてきた時代が早すぎた」。原発は時代のあだ花
のように咲いて消えていく運命にあるのではないだろうか。原発が命あるものだとしたら、人々は
どのような目で見るのであろうか。悪者として見送るにはあまりにも可愛そうだと思う。今はどうか
心安らかに眠って欲しい。

 さて今は俳句の季語で言う「風光る」季節である。緑は目に鮮やかである。日本に生まれて良かった
と思う季節である。その季節に活弁に関し特筆すべき事が四回もあった。

 一回は倉敷文化連盟の総会での記念講演であった。私のような新参者の常任幹事に講演依頼があった
と言うことは誠に名誉な事であった。話は活弁に関してと言う依頼であったので「活弁士かっちゃん
映画を語る」と言うことにして貰った。活弁との出会い、そして「夫婦活弁士むっちゃん、かっちゃん」
誕生秘話を映画の歴史とともに話した。

 継いで私の育った広島県の神辺「中条公民館」での活弁であった。これは弟の親友であるI君が
企画してくれたものである。いわば弟の縁繋がりによるものであった。中条という地は父方の祖母の
誕生地であった。

 神辺という比較的狭い地域に住んでいながら神辺在住中にはついぞ訪ねた事のない場所であった。
その地に神辺を離れて何十年か後に訪ねる機会を得たのである。祖母の引き合わせとしか思えない。
そもそも祖母という私にとっては至極近縁にあった人が生まれ育った場所するら、今日に至るまで
知らなかったのである。

 会場の中条公民館から見る景色は、狭い谷間に集落が続く典型的な田舎の風景であった。また、
祖母の実家だという家の存在もI君が調べてくれ判明した。いつか訪ねてみたいと思っている。

 引き続き翌日は、今では馴染みとなった光南台公民館での活弁であった。いわば私達夫婦の活弁の
原点のような場所である。私達が岡山のデジタルミュージアムでデビューし、活弁士として活動を
始めた最初の頃の会場であった。

 そして先の日曜日、鏡野町公民館で口演を行った。労金の小冊子「さんぽみち」が取り持つ縁で
あった。この冊子を見たYさんが私達を記念すべき鏡野町文化協会の総会に呼んで下さったのである。
こうして足かけ三週間に及ぶ全ての行事が終了した。

 私達はかねてより骨休めに旅行がしたいと思っていたので、鏡野町から少し足を伸ばして奥津温泉
を訪れた。久々の奥津温泉であった。この日はあいにく台風二号の襲来とあって朝から激しい雨で
あった。川沿いの宿「奥津荘」から見る川には濁流が渦巻いていた。近くの山も雨で煙っていた。

 この雨の中、行く当てもなく温泉三昧の時間を過ごした。昼間からの温泉はとても気持ちが良かった。
正真正銘のかけ流しの湯であった。一階の「鍵の湯」と称する浴槽の底からはぶくぶくと泡が出ていた。
湯が沸き出す場所の上に浴そうがあるわけで、なかなか珍しい温泉であった。

 また、この温泉は棟方志功ゆかりの温泉旅館でもあり、玄関ロビーには幾つもの作品が展示して
あった。窓からながめる川面には幾羽ものツバメたちが強風にも関わらず群れ飛んでいた。飽くこと
のない眺めであった。

 こうして私達の二日間の活弁の旅は終わった。この宿でも新しい出会いがあった。女将さんとの
出会いである。また、市民交流センターを通じて産直市などを計画していきたいと思っている。
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明るく生きる

2011-05-28 06:24:40 | Weblog
 福島県の原発事故は発表の度毎に驚くような新しい事が明らかになっている。しかし、全てのことは
大津波後、短時間の間に始まり最悪の経過をたどっていた事である。私が事故の報道を聞いて、心凍る
思いを抱いていたことの全ては事実であった。

 核燃料棒は冷却機能を失ったときから猛烈なスピードで温度上昇を続け、自らも溶解し更には圧力
容器自体にも穴が開き、冷却水、核燃料もろとも落下を始めたようである。それがあの水素爆発に
繋がったのである。

 たとえ外部電源が失われていなかったとしても、あの大津波で冷却水の循環ポンプも制御設備も、
場合によっては冷却水の循環ラインそのものが損傷をしていたかも知れない。最悪の結果は時間の
問題であったに違いない。

 そもそも原発のような危険きわまりない設備を大津波の来襲があるかも知れないような海岸近くに
作るべきではなかった。私のブログに何度も書いたように明治29年、昭和8年と、地震とそれに
伴う大津波を経験している地域だからである。どんな防波堤を築いても防ぎきれないことが今回の
大津波で明らかになった。人の知恵や力とはそのようなものである。

 人間の生涯は、平均寿命が長くなったとは言えたかだか百年である。今回の大地震や大津波の
後遺症は長く孫子の世代に引き継がれていくことになる。戦後の復興を私達世代が背負ってきた
ように、これからは震災世代が新しい時代を作っていくことになる。

 私達世代は少なくとも彼らの邪魔者にならないよう、邪魔をしないようにしなければならない。
それが今日のような時代を作り出してきた私達の責任だと思う。国会での議論のように、海水の
冷却を止めたとか止めなかったとか、いまさら追求しても意味のないような不毛な議論は止めて
貰いたい。

 もっと復興に向けた前向きな話をすべきではなかろうか。ましてや原発問題はこれからの問題で
ある。事故処理は始まったばかりである。

 全てが夢であればいい、そんな思いは東北地方の被災者だけではない。私自身もそのように思って
いる。大災害前までは何だかんだと言いながらも平和であった。それが、あの大災害で一挙に変化
してしまった。何をしていても、ついつい思いは東北地方の方に向いてしまう。それは人情という
ものであろう。

 起きてしまったことをいまさら悔いてもしようがない。生きている限り現実に目を背けて過ごす
わけにはいかない。ましてや住み慣れた日本を離れるわけには行かない。ではどうしたら良いか。
せめて心だけでも明るく保つ他はない。心まで涙で曇っていては体まで傷つけてしまう。心と体は
ひとつのものである。ましてや病は気からと言うではないか。だったら気持だけでも切り替えて
明るく生きていきたい。そう思うのである。

 被災地の子ども達の溌剌として明るく屈託のない姿には癒される。ましてや無心に眠る幼子の
姿には心温まるものを感じる。彼らには生きる力が満ち満ちているからだ。私達に出来ることは、
彼らの心を曇らせるような姿だけは見せないことだ。子は親の姿を見て一喜一憂しているからだ。

 さて、今日は活弁をしに鏡野町へ行く。台風二号がこちらへ向かっている。台風に負けたくない。
自然現象をも我が心の持ちようで変えて見せたい。そのように思っている。意志強く持つことこそ、
今の私達に強く望まれることである。

 私達夫婦が活弁で見せる映画は屈託がない。実に明るい。貧乏を笑い飛ばしている。映画自体が、
そのように作られているからだ。人はそのようにして苦しく貧しい時代を生きてきた。

 全ての出来事は自分の意識の中に生じていることだ。昨今はより強くそのことを感じるように
なったし意識するようになった。思いは通じるものである。

 先日の活弁は私の父方の祖母が生まれた場所で行った。神辺町を出るまで近くに住んでいながら
訪れた事のない場所であった。まして、今日まで幾らでもその機会があったはずなのに訪ねようと
しなかった。不思議と言えば不思議であった。

 それが思いがけず活弁を通じてそのチャンスを貰い、つい先日ついにその地を訪ねることになった。
そのことに付いては次回に譲りたい。
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食べると言うこと

2011-05-21 05:59:06 | Weblog
 先にユッケを食べた人の中に病原性大腸菌0111に感染し死亡人まで出てしまいました。そもそも
肉食自体が贅沢なのに、ましてや生肉を食べるとは、私達世代には考えられない事でした。

 私達現代人は食に関し異常なまでの執着心を持っています。テレビの番組を見ても食に関する番組は
非常に多く日常茶飯事放映されています。料理番組から果ては大食いまで様々です。

 幕末にも同じような現象が見られたようです。一方では食に飢えて死んでいく人達がたくさんいると
言うのに、日本人は同じような罰当たりなことを繰り返しているのかも知れません。

 ある意味、ものが豊で平和だから出来ることなのかも知れません。あの忌まわしい東日本を襲った
大震災と大津波、同じような事は昭和8年にも生じています。昭和8年頃と言えば5.15事件などが
起き、時の宰相犬養毅などが暗殺されています。軍部の台頭と暴走が始まった時代です。そして政治的
にも混乱をしていた時代です。

 その上、東北地方一帯は冷害で米が不作だった事など社会的な混乱期でもありました。日常的に
貧しかった農村部に冷害が追い打ちをかけたのです。当時の農村地帯に於ける生活は、大地主が広大な
農地を所有し、多くの農民は小作に甘んじていました。いわば特権階級だった大地主と小作に苦しむ
農民に二分されていました。

 NHKの連続テレビドラマ「おひさま」を見ていただくと戦前の農家の様子が良く分かると思います。
冷害に遭った農家は娘を売りに出し、娼婦に身を落とした少女達も少なくないと聞いています。

 戦前の日本人の多くは長く食べられない時代が続きました。貧乏人は麦飯を食えと揶揄された事も
ありました。白いご飯は食べられず稗や粟、豆や芋など代用食が常習的だったようです。それでも
食べるものがあれば良い方だったのかも知れません。

 私の幼少期である戦後にも一時期そんな時がありました。まして農家でもないものに、まともな食事
など望むべくもなかったのです。学校へ弁当を持って来ることが出来ず、昼食時になるとそっと教室を
抜け出して行くような子もいました。

 サツマイモだけの弁当が恥ずかしくて隠すようにして食べていた子もいました。冬休みの後、お餅を
焼いて弁当代わりに持ってくる等と言う子は良い方だったかも知れません。その頃は学校給食なども
なく、おかずと言えば卵焼きと梅干し一つという粗末な弁当が当たり前でした。

 牛肉などと言うものを食べることが出来るようになったのはいつの頃からだったでしょう。鶏の肉
だって肉そのものは買えないからアラと言って骨の部分を買ったり、モツと言って内臓を買って食べて
いました。それでもとても美味しいものだと思っていました。

 今は牛肉も豚肉も鶏肉も日常当たり前のことになっています。この日々大量に消費されていく肉類は
どのようにして作られているのでしょうか。多くは輸入した配合飼料を使い、肥え太らせたものです。

 母方の祖父の家では、あの有名な松坂牛を育てていました。三重県でしたから正真正銘の松阪牛
でした。それらの牛も餌はというと麦を炊いたものなどを食べさせていました。非常に贅沢をさせた
牛たちだったのです。

 大量に消費されている牛乳も同じようにして作られています。いわば自然の中で育てたものではなく
人工的に肥え太らせたものなのです。更に鶏肉は狭い場所に押し込められ、まるで工場生産されている
ような環境で育てられた鶏たちのものなのです。

 そこには、命というものの存在をほとんど感じることが出来ません。しかし、牛や豚や鶏たちは、
命を持ったもの達です。みんなが愛しているペットと同じ仲間です。人間と同じほ乳類なのです。
遺伝子の大半は私達人間と共通のものを有しています。

 肉を食べると言うことは、ある意味、生き物たちの命を頂いていることです。その命に対し、この
ような扱いで良いのでしょうか。

 一部の野菜はハウスの中で作られています。季節はずれのトマトやキュウリ、様々なものがあります。
果物も同じです。これらは莫大なエネルギーを消費しながら作られています。旬のものを旬に食べる。
これが食べると言うことなのではないでしょうか。

 その上に大量の化学肥料と農薬、果ては除草剤まで使われています。あのホームセンターの店頭に
並んだ夥しい除草剤はどのように使われているのでしょうか。岡山の穀倉地帯と言われている農道の
ほとりにはほとんど草が生えていません。地面が露出しています。草を刈るのが面倒だからと言って
常習的に除草剤を使った跡です。草の生えない農地で作られたものが安全だと言えるのでしょうか。

 私達は便利さに流されて何か間違った道を歩いているのではないでしょうか。大量のエネルギーを
湯水のように使っています。

 原発事故後の電力需要が懸念されています。何から何まで電気に、あるいは石油に依存するような
生活が今も続いています。季節はずれの野菜や果樹、日々大量に消費される肉類、こうした生活を
見直せば十分すぎるほどの電力だと思われるのですが。

 ましてや都会のビルなどは、窓はあっても開けることの出来ない窓です。誰がこんなものを作って
しまったのでしょうか。原発問題を論ずるとき、経済と私達、私達自身の生活を見直さない限り必ず
愚かなことの繰り返しになる事が懸念されます。
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環境問題は終わっていない

2011-05-17 06:14:43 | Weblog
 ネット上の記事によると、アメリカでは多数の竜巻が大きな被害をもたらしたばかりだが、今度は
中西部から南部にかけての広大な地域で、先月からの大雨の影響による大規模な洪水が起きている。
今後、製油所が操業中止になる可能性が出るなど、アメリカ経済への影響も懸念されているようだ。
 
 ミシシッピ川で起きた洪水は、水位が最大18メートルに達し、テネシー州など4つの州で非常
事態宣言が出されている。この地域には10か所の製油所があり、被害が拡大すればアメリカ経済
への深刻な影響も懸念される。今週に入って原油価格が一時高騰した他、被害の拡大が予想される
南部の製油所では操業を中止する可能性も出てきている。また、全米第3位の規模を誇るカジノ街
ではホテル周辺が水没し、営業中止に追い込まれている。

 このように異常気象によると思われる天災が相次いで生じている。地球温暖化による気候変動は
決して終わってはいない。むしろ被害は大きくなり、発生頻度も加速しているように思われる。

 近頃、日本では5月に入っても黄砂が飛んでくるようになった。中国内陸部の乾燥化が更に進んで
いるのだろうか。また、この黄砂、公害物質と思われるものから、微生物、果ては核物質まで含まれて
いると言うから物騒だ。

 いま韓国内では黄砂の中の核物質が大きな問題になっている。隣国日本の原発が水素爆発、メルト
ダウン、海洋汚染と相次ぐ報道で、かつてないほど神経質になっているようだ。今まで考えた事も
なかった核問題が大きな社会問題と化しているのだ。

 それだけに他国から飛んでくる核物質には必要以上に神経質になっている。その一つが黄砂に
混じって飛来する核物質である。これらの多くは新疆ウイグル自治区内ロプノール周辺で行われた
40数回にも上る大気圏内の核実験によるものだと言われている。

 中国国内では報道管制により明らかになっていないが、周辺住民に大きな被害が生じているのでは
ないかと言われている。ここで行われた核実験による核物質が海を越えて日本まで漂着している。
このことは早くから専門家の間で問題視されながら何故か報道されて来なかった。

 さて、今回の東日本を襲った大地震と大津波は私達に何を警告しているのだろうか。吉村昭氏の
記録的小説「三陸海岸大津波」によれば過去の度重なる教訓が全く生かされていないことに愕然と
せざるを得ない。

 その悲惨な経験は、そう遠い昔のことではない。明治29年、昭和8年と言うから時間軸で言えば
つい最近の事である。記憶の風化だけでは済まされない、人間のとんでもない勘違いや思いこみ、
「おごり」だとしか思えない。

 「おごり」と言えば原発の問題もある。大津波の報道があって間もなく原発の冷却系統が完全に
失われたという報道があった。私は瞬間にメルトダウンを想像し、津波の被害もさることながら、
その報道の方に心震えた。

 ついに来るべきものが来たと感じたからである。いつかこの日が来るのではないかと言う漠然たる
思いは常にあった。あってはならない事ながら、私の経験上から人がやることには必ず手落ちがある
ことを考えていたからである。これら全て人間の「おごり」によるものである。俗な言葉で言えば、
なめてかかったことによるものである。

 私達は太平洋戦争戦前の貧しい生活と抑圧された軍国主義から一挙に解き放たれ、その開放感と
さあこれからだという思いで戦後めまぐるしいほどに経済発展を成し遂げてきた。

 この間、大国の核実験による大量の核物質が降り注いだことも意に介する事もなく、更にはビキニ沖
で操業中だったマグロ漁船「第五福竜丸」の久保山愛吉さんらの被爆問題も瞬く間に忘れ去られてきた。

 あの忌まわしい水俣病の被害でさえ経済発展を止めさせるものにはならなかった。経済という化け物
は社会の様々な芥(あくた)をどん欲にも飲み込みながら大きくふくれあがってきた。その姿は「千と
千尋の神隠し」に出てくる「くされの神」にも似ていた。

 会社にあっては右肩上がりが当たり前で、他社の動向が常に目の前にあった。これら経済発展が
何をもたらして来たのか。その結果、家庭は崩壊し、人と人の関係がいびつなものになり、欲望の
おもむくままに行動するもの、欲望から遁走し家族も家も捨てたもの、精神的な病に苦しむもの、
自ら死を選んだもの、社会のアウトローと化し罪を犯したもの、数え上げれば切りがないほどの
社会現象を生み出してきた。

 更には低開発国や発展途上国などを犠牲にし、自国のみ、あるいは自社のみの経済発展を目指し
続けている。それが莫大な石油や石炭、あるいは天然ガスの消費となって環境破壊をもたらしてきた。
今もひとときの休みもなく続いている。いったいこの先に何があるというのであろうか。

 原発一人を悪者にすることはたやすいことである。しかし、それだけで良いのだろうか。その恩恵
を甘んじて受け入れてきた私達に責任や罪はないのだろうか。あまつさえ今も休みなく二酸化炭素は
大量に吐き出され、地球温暖化とそれに伴う気候変動は激しさを増している。

 原発に代わる手段がないとすれば大量の電気エネルギーを使うこと、それ自体を見直すしかない。
それにも関わらず社会には不平や不満が満ち満ちている。これではあの忌まわしい教訓が生かされて
いない。私達はいつになったらそのことに気が付くのだろうか。それとも気付かないまま行くところ
まで行くしかないのだろうか。

 私達は質素で慎ましく、自然の恵みをほんの少し分け与えて貰いながら生きていくべき存在では
なかったのか。不遜にも自然を克服する、自然を制覇する、自然環境を変えていく、そんな生意気な
ことが言えるような存在なのだろうか。どこかで何かを間違えたような気がしてならないのである。
とんでもない勘違いをしているような気がしてならないのである。

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原発の運転停止に向けて

2011-05-08 06:15:53 | Weblog
 菅首相が唐突とも受け取れるような静岡県の御前崎にある浜岡原発の停止要請に踏み切った。
一般的には人気回復のためのジェスチャーだとか、さしたる議論もせずに唐突にとか、様々に批判も
あるようだ。

 しかし、私には「英断」とも受け取れるような停止要請だと思う。どう考えても、こんな方法でしか
原発を止めることは出来ないと思うからである。議論すれば議論するほど色んな意見出て結論
など出るとは思えない。

 その間に、またもや大地震でも起きたら、いったい誰が責任を取るのか。それより原発を暴走から
守ることが出来るのか。産業だ経済だと言っている時ではない。一日も早く原発の停止が望まれる。

 あの環境先進国ドイツでさえも原発から自然エネルギーへの全面移行は難しかったと聞いている。
ましてや自民党と産業界とマスコミが共同歩調で勧めてきた原発政策を変えることなど至難の事で
あろう。民主党に政権が代わったからこそ出来たことである。

 そして、今回の東日本大震災、こんな不幸な形でしか結論を出すことが出来なかった。しかし、
いずれ不幸な出来事を幸いだったと思えるような日が来るに違いない。また、日本の貴重な経験が
世界の模範となる日が来るに違いない。

 私達は戦後60数年間、ひたすら経済最優先で今日まで歩んできた。常に右肩上がりが常識で
毎年の経済成長が至上命令であった。その結果、何が生まれたか。人の心を大きく損なうような
出来事や犯罪が多発するようになった。私達はお金のために一番大切な心なで失ってしまった。
膨大なコマーシャル費用によって中立であるべきマスコミもが操られるようになった。

 そして、エネルギーの消費は年を追う毎に増加し、今や地球規模の気象異変を引き起こすことに
なっている。何かが起きなければ、この状態を抜け出すことは出来なかった。誠に大きな犠牲を
強いて気付きのチャンスを与えられているような気がするのである。

 原発を止めて経済が落ち込むのなら自らのものとして受け止めれば良いのではないか。不便な
事が生ずれば、あえて不便を楽しめば良いのではないか。約60数年前、私達は何もかも失った
事から全てを始めてきた。そのことを思えば今はもっと幸せである。

 不幸な出来事を不幸なままに止めてはいけない。越えられないような試練はないと言われている。
この試練とも思えるような不幸な出来事も、いつかは克服出きる日が来るに違いない。

 運命とは流されるものではない。さりとて立ち向かうものでもない。さらりと受け流してこそ
人生の達人と言えよう。私達の身辺に生ずることの全てに意味があると言われている。

 そもそも私達がこの世に「生」を受けたことは単なる偶然なのだろうか。私にはそうは思えない。
何か意味あることと思っている。今は「意識」を強く持って、この困難な時代を生き抜く勇気こそ
必要だと思う。

 結局、原発を安全に止めることが出来るのも機械ではない。人間にしか出来ない事だ。人間が作った
ものは人間にしか対処できないと言うことを強く意識して貰いたい。

 あの戦後の混乱と困難を克服できたのも人間の生きるという強い意識があったからだ。今の時代だけ
でなく、その時代その時代に色んな困難はあった。天災で打ちひしがれた時代も少なくない。

 しかし私達の祖先は生き続けてきた。何も今の時代が特別な時代ではない。乗り越えられないような
困難はないと言うことを、もう一度噛みしめてみたい。人の世は人の手で変えるしかないのである。
克服するしかないのである。肩の力を抜いて、さらりとこの世を変えていきたい。乗り切っていきたい
と思うのである。
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新緑の季節

2011-05-03 06:35:46 | Weblog
 朝日の中で生け垣のウバメガシの葉がキラキラと輝いている。この季節を季語の一つでは「風光る」
という。別に風が光っているわけではないのだが、季節感を表す言葉としては最適の表現のように思える。

 庭ではブルーベリーの花が最盛期を迎えようとしている。ここ数年の土壌改良の効果があってか、
ことのほか花の付き具合が多い。その他、ツツジ、オオデマリ、モッコウバラなど初夏の花が満開だ。

 全てが光り輝くように見えている。近くの山は新緑の季節。色とりどりの緑が美しい。先日、同級生
が竹の子を届けてくれた。初堀だと言っていた。今年は気温が低いのか例年より遅いようだ。さっそく
二晩、季節の料理が食卓に並んだ。竹の子の柔らかい皮の梅肉和え、竹の子の煮付け、竹の子の炊き込み
ご飯、そして竹の子の木の芽和え等である。

 ここ、二、三日黄砂がひどい。四国が霞んで見えない。何故、今の季節に。ここのところ季節を
問わず隣国中国から黄砂が飛んでくるようになった。温暖化によるものだと言われている。実は
この黄砂、とんでもないものだと言うことをご存じだろうか。中国国内の公害などによる有害物質と
カビや細菌などを大量に運んでくる。

 その上、放射性物質まで運んでくると言うから困ったものだ。お隣の韓国では今回の原発問題で
にわかに放射性物質に目が向くようになった。その中で隣国中国からの放射性物質にも目が向けられる
ようになったらしい。

 日本では比較的、以前から注目されていたようであるが、ほとんど報道されることなく、一部の
学術的な研究対象になっていただけのようである。しかし、その汚染状況はすごい。今回の原発問題
だけでなく、広く大気汚染の見地から放射能問題を議論する必要があるのではないだろうか。

 黄砂によって運ばれてくる放射能汚染は慢性的に続いている。そして、主食であるお米なども汚染
されている。これら黄砂によって運ばれてくる放射性物質であるセシウムやストロンチウム、もっとも
毒性の強いプルトニウムなどは中国内陸部で行われた核実験によるものだ。

 中国の新疆ウイグル自治区ロプノールで行われた核実験により19万人もの人が死亡したと言われて
いる。しかし、厳重な報道管制の中で事実は明らかにされていない。

 さて、原発問題を巡って小佐古さんが辞任の記者会見を行っていた。涙を流しながらの会見だった。
原子力発電所の安全神話を覆すような出来事に日本国内だけでなく世界が揺れている。過去、原発問題
に関しては大半の人が無関心か問題はあるけれど仕方がないものと考えてきたように思える。原発反対
の立場の人は少数派で異端視されてきた。

 日本は世界でただ一つの原爆による被爆国として非核三原則を堅持してきた。しかし、それは表向き
の話であってアメリカの核の傘の下に置かれて来たことに間違いはない。一方、原発は核兵器問題とは
切り離され推進されてきた。

 不幸なことに日本では核と言えば核兵器のことであり、保守と革新という政治的な対立軸の中でしか
議論された事がない。核兵器反対も革新側は総評、社会党系と共産党系と二つに分かれ、決して足並み
は揃っていなかった。

 しかし、本来、核に兵器も平和利用もない。程度の差こそあれ放射能による被害は同じである。何か
あれば放射能という目に見えないものを相手に対処しなければならないからである。

 私達は今回の原発事故を契機に真摯に原子力利用と言うものの在り方を議論してみる必要があるのでは
ないだろうか。本当に必要なのか。必要ならどのような設備にしなければならないのか。人間という
不完全なものが扱うものに完全と言う言葉は当てはまらない。

 だったら、どうするべきなのか。本当に電力は足らないのか。原子力に依存しなくても良い方法は
ないのか等、議論すべき事は山ほどある。

 自然に対し人が手を加えれば加えるほど、破壊は進み後始末は難しいものになる。それがものの通り
なのである。今回の原発事故は限りなく難しい後処理問題を私達に残してしまった。それは本来、手を
付けてはいけないものに手を付けてしまったからだ。
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