人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

冬の足音

2016-10-30 05:45:45 | Weblog
 10月も残すところわずかとなった。我が家では長らく裏にあった家内の祖父達が
住んでいた家を取り壊した。

 そして、敷地内が土地だけの空間となり景色が一変した。かなり古い民家であったが
その存在がなくなると、ぽっかりと穴が空いたようで、何となく違和感を感じる。
何となく不思議な空間だ。そしてその存在の大きかったことを今更ながら感じる。
どうやら家にも存在を主張する力があるようだ。

 その家の裏にあった一段と高いところの裏の畑は、まさにむき出しの状態になった。
日当たりも良くなったが、風通しも良くなった。風通しが良くなっただけに、さぞかし
冬は冷えることであろう。

 家に接して掘られていた井戸もむき出しになり、外の水洗い場も取り残されたように
むき出しになった。家が側にあったときは感じなかったものが、何となく違和感を
感じるようになり、思い切って撤去してしまった。さすがに井戸はそのままにしている。

 日本シリーズが終わった。カープファンとしてはいささか不満の残るところだが、
仕方ない。カープは今シーズン快進撃を続けて来た。二位のチームを大きく引き離し
独走態勢の中で単独優勝を飾った。

 黒田が戻り、新井が戻った。二人とも義理堅い男だ。彼らの男気にチーム全体が
まとまって、がんばれたに違いない。本当に良くやった。

 希代の大投手を思わせる日ハムの大谷と去って行くカープの黒田。新旧の入れ替わりも
またドラマだ。ともあれ季節は終わった。ご苦労様。ゆっくりと体を休めて下さい。
そして来シーズンもがんばって下さい。

 シーズンが終わると急速に冬が近くなった。北風が吹き始め、北海道では早くも雪の
季節だという。今年、北海道は少しも良いことがなかった。温暖化による気象異変は
台風のコースを変えてしまい台風とは縁のなかった北海道に相次いで上陸し、大きな
被害をもたらした。

 そしてタマネギやジャガイモなど野菜の価格の高騰をもたらしている。今更ながら
北海道は日本の食料庫だということが良く分かった。そして、その台風によって海にも
異変が生じているようで、北海道は海も山も収穫が激減しているらしい。

 鳥取県では思いがけない大地震。今もなお余震が続いている。地震ってこんなに余震が
続くものだったのだろうか。熊本と言い、今回の地震と言い、何かしら余震の回数が
多すぎるような気がする。

 天変地異は人間社会に大きな影響を及ぼし、更に言えば人間社会の混乱が天変地異を
誘発しているような気がしてならない。子のことは、過去に何度も書いているので
繰り返しになるが、歴史的に見てもその現象は見て取れる。

 一寸先は闇。今の時代はこう断言しても良いだろう。足下でも何が起きるか分からない。



 日本人は勤勉だと言われている。裏を返せば働き過ぎ。それでいてヨーロッパの優秀な
国々と比較したときに、働き過ぎの割にはGDPがそれほど高いとは思えない。資源の
ない国だから。それも理由の一つかも知れない。

 しかし、どうやらそれだけではなさそうだ。働き方に問題があるようだ。広告の大手
電通の若手社員が過労で自殺している。若い社員をそこまで追い詰めたのは何だろう。

 それより何より、人の幸せのためにある会社が過労死させる意味があるのだろうか。
会社は働く人のためにあるものだ。いわば人を養い食べさせていくための手段となるべき
ものだ。そんな役割を担ったものが、人を追い詰め殺してしまうようなものならない方が良い。

 私たち自身も会社と個人の関係を客観的に見直す方が良い。私が勤務していた頃の一般的な
会社の風潮は残業を助長するようなものであった。何かしら人より早く帰ることに罪悪感を
覚えるような風潮さえあった。従って、残っていれば金になるという考えの者もいて
残業はなかなかなくならなかった。有給休暇の消化も良くなかった。

 こうした土壌が今もあるのは日本の悪いところだ。私は管理職になるまで、有給休暇を
一日も流したことがなかった。また、よほどの事情がない限り残業もしなかった。定年近くに
なるまで、それを通した。世の風潮に逆らって生きてきた。風当たりは強かった。

 もっともっと人生を楽しもう。そして効率的な仕事をしよう。そして余裕の時間を作ろう。
過労死などで殺されるな。これからの若い人にはそう呼びかけたい。

 私たちは限られた時間を生きている。だから他人に時間を拘束されるようなことは出来る
だけしたくない。会社に拘束されるということは、言い換えれば自分の命を切り売りしている
ようなものなのだ。こう考えると無性に時間が愛おしいものに思えてくる。
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マネー

2016-10-28 06:08:18 | Weblog
 奇しくもアメリカの大富豪が番組の最期に語った言葉が印象的であった。
老いた大富豪は、自分の大型クルーザーの船上で、港に数多く並んだ大小の
クーザーを見ながら「クルーザーの大小とは関係なく、彼らの方が私より
楽しんでいるかも知れないね」

 妙に印象的な言葉であった。この言葉の背景は大富豪の心の中を覗かなければ
分からないが、大富豪の色んな思いが反映されているに違いない。

 単純に考えれば、楽しむことに於いてクルーザーの大小や豪華さには関係ない
とも受け取れるし、高齢の大富豪にとって残された時間があまりにも少ない
とも受け取れた。

 さてお金、お金とは何だろう。その昔、タカラガイがお金の代わりに使われた
時代から、南太平洋の島では大きな石で作ったお金が使われた。

 いずれも物々交換ではなく、品物に代わるお金というものが、物の価値を
代行するようになった時代から、金や銀と言った希少金属がお金として使われ、
そして今は高額なものは紙で作ったものが使われている。

 その紙切れで出来たお金に振り回され、果ては人の命がお金のために狙われる
ような時代になってしまった。客観的に見れば奇妙な時代である。

 確かに生きて行く上で、この世の中は一部の地域を除けば全てはお金によって
動いている。お金がなくては生きてはいけない。

 そして、ほんの一握りの大富豪と言われる人達が、世界の富の大半を握っている
と言われるような大変な時代になっている。物々交換で成り立っていた時代には
とうてい考えられなかった時代である。

 マルクスは物を作るとき、人の労働力がいくら必要だったかで物の価値が決まると
資本論で説いた。そう全ての生産物に人が関わっている。農産物でも同じ事だ。

 マネーゲームのように、お金を売り買いしてお金を稼ぐなどと言う、まるで
マジックのようなことは、明らかに何かが狂っている。資本論が説くように人が
関わってこその物の価値であり、株価の変動や商品の先物買いや変動する
国際通貨の取引によって差額を稼ぐなどと言うことは、まったくの邪道である。

 オランダでは既に通貨での取引でなく、不要になった物の貸し借りで、必要な
物を手に入れるというシステムが成立し、物を買う必要のない社会が実験的に
進められているという。日本でも都会の駐車場不足などの問題もあってカーシェアリング
なるものが行われている。

 今の消費社会は莫大な無駄を前提にして成り立っている。例えば繊維産業である。
これらはファッションが基本となって成り立っている。メーカーは売れ筋と思われる
ものを準備して店頭に出す。売れれば更に増産を行う。しかし、売れることを
予測して余分に準備された生地は、店頭に並べられた服が売れなければ廃棄物となる。
生地は売れ筋のファッションのためにだけ準備されたものであるからだ。

 この話を業界の人から聞いたときに少なからず驚いた。だから廃棄物となった
生地の焼却のために何億円というお金が必要なのだと言うことも、この時に聞いた。
食品の残り物を衛生上の観点から大量廃棄している話と良く似ている。違うのは
生地は置いておいても腐らないと言うことだ。その生地がファッションのために
準備したものだと言う理由だけで廃棄物になっていく。

 今の社会は少なからず、このような無駄をあちらこちらでしている。廃棄物処理にも
お金がかかり、その上、大気汚染や温暖化にも繋がっている。しかし、このような
無駄を前提にしなければ業界は成り立たない。

 資本主義、長く人々の心をつかんで離さなかった。そして今、地球は瀕死の状態であり
富に大きな偏りが生じている。アメリカのサクセスストーリーにも限界が見えている。
アメリカに行けば夢が実現する。そんなものは、ある時代のほんの一握りの成功事例に
過ぎない。

 多くの人は住む家もなく、路上生活を強いられているのが実情だ。何かいびつで
ゆがんだ世界。それが今のアメリカの実体だ。そのアメリカに不満が充満し、今、新しい
大統領を選ぶことで揺れに揺れている。

 私たちも対岸の火事として見過ごすわけにはいかない。足下にもじわじわと時代の
波が押し寄せているからだ。後期高齢者が増え、少子化が進み、人口は漸減の状態にある。

 今までのシステムの全てが崩壊の危機にある。戦後生まれの若者が多かった一億数千万の
社会と高齢者ばかりが目立つようになった人口漸減の社会とは決して同じではない。
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思いは運命を変える

2016-10-25 04:27:56 | Weblog
 ある人の話によると、失敗は限りなくゼロに近く、本当は成功する確率の方が遙かに
高いらしい。

 しかし、多くの人は成功をイメージするより失敗したらどうしようかと、ついつい
マイナスのことを考えてしまう。これが普通の人の当たり前の姿だ。

 しかし、成功する確率の方が失敗する確率より本当に高いとすれば、どうすれば
マイナスイメージをなくすことが出来るのだろうか。

 特にスポーツ等のような競技には、マイナスイメージは禁物である。マイナスイメージは
心の方から体の動きを硬くしてしまう。持っている能力を十分に発揮できない。

 かくゆう私も何をするにもマイナスイメージが常に先立ち、それが負い目となって
何をするにも消極的になってきた。自信が持てないと結果はますます悪くなり、それが
次の行動を妨げる。こうなると悪循環の繰り返しである。

 自信を付けるためには、これで大丈夫だと確信が持てるようになるまで努力することが
必要だ。努力なくして負のイメージを消し去ることは出来ない。

 しかし、努力にも限界があり、どこまでやれば良いのかさえ分からない。その時は
思い切って開き直るしかない。この開き直りの精神こそ成功の近道だと言えよう。

 もう何もかもやってきた。しかし良くならない。もう限界だ。死のう。そんな気持ちに
なって、首に縄をかけようとしたその時、ふと我に返った時、何かしら今まで自分が
囚われていたものから開放され、心も体も解き放たれている。何で自分は今まで苦しんで
いたのだろう。全てが白紙に返ったように思え始める。

そこからが成功の道への始まりである。こうした現象は全て心の変化によるものである。
心が体を縛っていた。次の行動や違う道を見つけることが出来なかった。自縄自縛の
状態だった。

 言うまでもなく体は心に左右されている。そして心も自分自身に左右されている。
自分で自分を変えなければ何も始まらない。成功も不成功も自分次第なのである。

 心に迷いがあるのは人間であれば当たり前。決して自分だけのことではない。そう考えると
少しは楽になる。そう、失敗する確率よりは成功する確率の方が遙かに高いのだと言うことを。
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鳥取県中部地震

2016-10-23 05:27:40 | Weblog
 地震発生数日前の秋晴れの日、大空にはくっきりと線を引いたように帯状の雲が
横たわっていた。普通の雲にも見えるし、見方によっては地震雲かと思わせる雲で
あった。雲が横たわっていたのは南方方向。

 そして、各地で中規模の地震が相次いで発生する中、気になっていたのは鳥取県の
地震であった。いつか大きな地震になるのでは。そんな気がする地震だった。

 実は、連続して発生する地震はたまった地震のエネルギーが発散されるものと
考えていた。従って、小さな地震が連続して発生すれば発生するほど大地震の
リスクは少なくなるものだと考えていた。少なくとも東日本大震災までは。

 ところが、そんな甘い考えを覆すほどの大地震が起きてしまった。小さな地震が
連続して発生する場合は、逆に決して安心は出来ない。いつ大地震に襲われるかも
知れないから要注意である。

 最近になって地震発生前には成層圏にも異常が現れるということを聞いたばかりで
ある。だから先のブログにも「むくひら虹」について書いた。

 予告なしにやってくるとは言いながら、やはり物理現象である。何らかの兆候は
必ずあるに違いない。それが予兆を思わせるように連続して発生する小さな地震。


 私たちは、大きな変化の時代に生きている。恐らく何世紀か後になったら、そうか
あの時、あの時代はそう言う時代だったんだなと言う時が来るに違いない。
しかし、それは遠い未来のことだ。私たちには明日のことさえ分からない。
分かるのは事象として確認できたことだけが全てである。

 その限りに於いて、少なくとも地球規模の気象異変が続いていること。異変は
ますます猛威を振るっていること。そして地球の内部に何かしら異変が起きている
こと。観測で分かっているのは地磁気が徐々に弱まり、限りなくゼロに近づいて
いるという事実。

 また、太陽活動に大きな異変があったこと。黒点がゼロになり、また元に戻り
つつあること。活動の周期に異変が見えること。太陽に極移動があったこと。

 そして、こうした天変地異に呼応するように人間社会にも変化が現れていること。
目立たない存在だった人間が突然発狂したように隣人を無差別に殺傷すること
行きずりの人に傷を負わせること。全てを精算するために他人を巻き込んで
自殺すること。

 全く非常識な人が増えている一方で、非常にスピリッチャルな人が現れ始めたこと。
反省の見えないマスコミにも多少は良識やマスコミらしい報道が見え始めたこと。

 それでも足りない何かがある。満たされないものがある。そんなとりとめのない
空虚な日々が続いている。

 貧しくとも充実した日々と、明日への希望があったあの時代へ戻りたい。
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宇宙は意識を持っている

2016-10-17 05:38:16 | Weblog
 そのもの達は、今から30数億年ほど前から、この地球で爆発的に増殖し始めていた。
そのもの達は、この広い宇宙のどこにでも存在する普遍的なものであった。 そして、
環境さえ整えば、いくらでも仲間を増やすことが出来た。

 そのもの達は、まるで意思あるもののように行動し、原始地球の環境をある方向に
形作りつつあった。初めに始めたのは、宇宙線が降り注ぐ厳しい環境の中で、自らの
使命のように強力な酸や硫化水素、炭酸ガスなどを糧としながら増殖を続けた。

 気が遠くなるような時間が過ぎた。その間に、そのもの達は膜を持った細胞としての
形を整え、更には膜の中に遺伝情報なるものを蓄えるようになった、クローンのように
同じ仲間達を何倍にも増殖できるようになったのだ。

 それは爆発と言っても良いような増えようであった。こうして、また気が遠くなるような
時間が過ぎた。その間に、そのもの達の周辺の環境が劇的に変化し始めたのだ。
それは、今までこの天体に存在しなかった酸素というものが、溢れるほどに増えてきた
ことによるものだった。そのもの達が炭酸ガスなどを消化分解し酸素を作ってきたからだ。

 この酸素は、実に強力なある種の破壊物質でもあった。何にでもくっつきやすいと言う
酸化という化学反応は、くっついたものをたやすく劣化させてしまう。そのもの達は
自らが、このように強烈な物質を作り出しておきながら、その物質によって自らも壊されて
しまうと言う予測もしなかった矛盾を産むことになった。

 そのもの達は、酸素による酸化という思いがけないものを突きつけられ、やむなく自らの
身体の構造の作り替えを迫られた。一方、そのもの達とは異なる新しい世代が誕生し
始めた。それが酸素を巧みに利用するもの達の誕生だった。彼らは積極的に酸素を取り込み
更にはブドウ糖などを利用して身体の中に熱エネルギーを作り出すことに成功したのだ。

 酸素を大量に作り出してきた光合成細菌達の第一世代、そして、作り出された酸素を
巧みに利用できる第二世代。第一世代は、後から誕生した第二世代との結合によって
自らの弱点を補強し、進化の大きな足がかりを作ることになった。劇的とも言える飛躍的な
変化であった。

 その頃になると、第一世代と第二世代は、それぞれの特徴を有しながら、次第に大きな
集まりへと変化し始めた。もはや単細胞生物ではなくなったのだ。構造も今の生物たちと
同じような細胞構造を有するようになった。

 細胞膜の中には更に強化された膜を作り、その中に大切な遺伝情報を保管する構造を作り、
更には、取り込んだ第二世代(ミトコンドリア)が作り出す熱エネルギーを活用して
活発な行動が取れるようになっていった。細胞内で出来た活性酸素というやっかいなものは
酵素というものを作り出すことによって解消していった。

 更に進化した細胞は、海中に無限にあった鉄イオンを利用し血液を作り、積極的に
酸素を身体全体に行き渡らせるようにした。こうして細胞は更に大きな集まりとなり
多くの機能を有する生物へと進化を遂げていった。

 原始的な生物とは言え、今の地球上に生息している生き物達と寸分違わぬ細胞構造が
それぞれの機能を分担し、身体の各部分を形作り、取り込んだ餌を消化分解し、自らの
身体を作るために利用出来るようになっていた。現世生物の誕生であった。

 そして、進化は更に続き、生物進化の頂点として人間を作り、人間には進化した脳を与え、
ものを考える力を与えた。

 そして人間という存在は、30数億年前に、ある意思が働き始めた時と同じような事を
自らの手で行おうとしている。試験室で生命誕生を試み、細胞操作を行っている。

 こうしたことは、進化の原点にあった原始細胞を作り出すことが可能な限り、宇宙が
有している意思を普遍的に反映する手段としての人間のような存在を作り出すことが
可能だと言うことを示しているとも言えよう。


 また、この宇宙にとって生命というものは、希なものではなく、不変のもののように
思えてくる。以前から地球に降ってきた隕石に生命誕生に繋がる物質が含まれていたと
いうニュースが度々報道されている。

 また、地球の思いがけないような環境の中にも微生物がいるらしい。とうてい常識では
考えられないような場所からでさえ、次々に新たなる微生物がはっけんされている。今では
マグマの中にさえ微生物はいるのではないかとさえ言われている。

 また、強力な放射能の環境を好むような微生物も発見されている。こうした微生物は通常の
方法ではなく、常識では考えられないような方法でエネルギーを自らのものとして生きている。

 南アフリカで発見された放射性ウランからエネルギーを得る微生物は、宇宙生物学者たちに
「宇宙線を食料にしている宇宙の微生物が存在する可能性があるのではないだろうか」という
考えをもたらしている。

 南アフリカのムポネン金鉱の地下3キロメートルから発見された真正細菌「デスルフォルディス
・アウダクスヴィトール(Desulforudis audaxviator)」のような微生物の発見は
高エネルギーの宇宙線の中でも同じ種類の生物が生き続けられる理由となり得ることを
証明している。

 この南アフリカのデスルフォルディス・アウダクスヴィトールは、鉱物同士の化学反応や
放射線による物理的な作用で生じる無機物を取り込み生きていると推測されている。

 この事実が示すところは、この宇宙にあるいかなる惑星であろうと、宇宙線からの防御が
弱くても、デスルフォルディス・アウダクスヴィトールの「いとこのような生命」が存在する
可能性があるということになる。

 繰り返せば、生物の誕生や進化は決して一様ではなく、更に言えば、惑星上でなくても
この広大無辺の大宇宙のどこでも、生物の生息は可能だと言うことになる。

 いずれにせよ宇宙は、ある意思を持って持続的に生命の維持存続を図り、持って自らの
意思を反映させるような仕組みを作ってきたのではないだろうか。少し哲学的になって
しまった。
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AI

2016-10-13 05:43:54 | Weblog
 いよいよ、こんな話題も私たちの視野に入ってくるようになった。2001年宇宙の旅、ターミネーター
マトリックス等々、いわば人間の知能を超越したものたちとの闘いの話だ。

 2020年頃までには自動運転車が現実のものとなる。かつてのテレビドラマに「ナイトライダー」なる
ものがあって、私立探偵機関の調査員、マイケル・ナイトが、人間の言葉を話し特殊装備を搭載した
ドリーム・カー『ナイト2000』とともにさまざまな事件を解決する。そんなドラマだった。

 遠い未来の話のように思っていたが、それが現実のものになろうとしている。それも遠い未来のこと
ではない。「ナイト2000」は、まさに夢のような乗り物だった。それがまさか現実のものになろうとは。
高齢化社会には、なくてはならない乗り物になりそうだ。私は、ひたすらその日が来るのを待ち望んでいる。

 一方、映画の中のAIは人間のより良きパートナーではなく、人間を愚かなるものとして、自らの理想と
する社会を作ろうとする。そこに人間との軋轢が生じ、ついには闘いとなる。

 人間は、言うまでもなく人工知能のように理想主義者でもなければ正確無比な存在でもない。実に矛盾に
満ちた生き物である。自分で自分の制御さえ出来ない。だから矛盾に満ちた行動を戒めるために哲学や宗教
なるものがあり、矛盾に満ちた愚かなる行為について、常に歯止めをかけ続けてきた。それは人類が誕生し
社会というものを形成し始めてからの永遠のテーマとなっている。

 冷徹無比で研ぎ澄まされた人工知能にとって、人間という存在は理解しがたい存在であろう。当然、無駄な
もの、あるいは理解しがたいものは、AIにとって排除の対象でしかない。

 AIも人間のような喜怒哀楽を持つことが出来るのだろうか。いや、そんな無駄なものは持たない方が
良いのだろうか。冷徹だからこそ、あるいは感情を持たないからこそAIと言えるのかも知れない。

 ともあれ、より良き友として、あるいは人間の足らない部分を補足するものとしてのAIの存在は
大歓迎だ。そして何よりも高齢化社会の良きサポーター役として人手不足の一助になり、更には
自動運転車の登場によって補助者なしに何処へでも行くことが出来るようになると、この上うれしい
ことはない。
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彼岸の彼方に

2016-10-08 06:00:59 | Weblog
 あの世とこの世。あの世とは想像の中でしか知り得ない世界だ。この世を去ってから行く世界。
いつか行く彼岸の彼方。そこは光溢れるところだという。暗いトンネルを抜けるとやがて大きな川の
流れが見えてくる。川の畔にはきれいな花が咲き乱れている。三途の川と呼ばれている場所のことだ。

 決して寂しくはない。三途の川を渡りきると、もう引き返せない。そこは全くの別世界だ。そう、
私たちがこの世に生まれて来るまで住んでいたところ。

 そこへ行ったらこの世で言う身体と言う実体はない。他にも形あるものは何もない。ただ感じることが
出来れば、ものの形は見えてくる。

 しかし、感覚が遠のくと、また元の静寂と快い光溢れる世界へと戻っていく。光溢れているとは言え
決して眩しくはない。ほどよい明るさだ。この心地よさは誕生前の子宮の中の心地よさに似ている。

 私は問われるままに応え、この世を選んで生まれてきた。冒険を楽しむために生まれてきた。この世へ
生まれ来るときは、みんな同じように希望を聞かれる。

 選ぶのはあくまで自分自身だ。強制的に送り出されたわけではない。大抵のものは、以前、この世に
住んでいた時の環境を希望する。周辺にいた人達との関係を、もう一度やり直したいと思うからだ。

 親だったものは、今度は子どもに、子どもだったものは、次は親に産まれて、繰り返し親子の関係を
やり直したいと希望するからだ。

 しかし、中には全く異なる環境を選んで生まれて来るものもいる。更なる冒険を楽しんでみたいと希望
したもの達だ。

 この世における時間は長いか短いかはっきりしているが、実際は瞬間的なことも百年という長さも
関係ない。それは、この世では時間を基準にしているからだ。

 10年でもその人にとっては十分過ぎるほどの時間だ。逆に100年生きたからと言って100百年分
の経験をしたわけではない。

 この世での様々な経験は、その人にとっての感覚に過ぎない。見たことも聞いたこともゲーム上の
駆け引きのようなもので、その時だけの空虚なるものに過ぎない。

 私たちは個々それぞれの人生を生きている。それぞれの人生は置かれた環境の中で様々に絡み合って
複雑な様相を呈しているが、紐解けば実にシンプルな姿形をしている。

 しかし、絡み合った糸を解きほぐすのは容易な事ではない。時には糸が絡み合ったまま切れてしまう
こともある。命に関わるような何らかのトラブルや事件が発生したときだ。

 人と人の関係は、ふれあえば共鳴するものもあれば、不協和音を生ずるものもある。また、現世で
感じる意識にはレベルの高いものもあれば低いものもある。意識の高いものは他のものからぬきんでた
経験を積むことが出来るし、低いものは低いものの経験しか出来ない。

 だからといって諦めることもがっかりすることもない。繰り返し、やり直すことの出来る人生だからだ。
何度も繰り返し体験することによって、少しずつ自分を高めていくことが出来る。それこそが現世での
様々な体験であり学びなのだ。 決して悲観することはない。人生は楽しめば良い。

 人は一人で生まれ一人で死んでゆく。あの世へ旅立つとき持って行けるものは何もない。この世に生を
受けた時のように丸裸のままである。この当たり前の事があまり理解されていない。

 また、親子であっても人格は全く異なる。人はそれぞれの人生を選んで、この世に生を受けた。そして
生まれた環境の中で、お互いの人生を生きてゆく。そこには様々なドラマがあり、愛憎が繰り返される。
時には親が子を、時には子が親を死に追いやることもある。昨今増えている骨肉の争いと言うものだ。
こうした出来事も形の上では親子であっても、人それぞれの人格であり、肉体の繋がりとは全く異なる
ものだからである。

 親子であっても理解し合えないのは当たり前。互いに理解し合えるような努力が必要だ。人はみんな
この世では個という存在。そして、この世は波乱に富んだ冒険の世界だ。
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台風と地震

2016-10-03 04:46:37 | Weblog
 いつ何が起きるか分からない。そんな時代に私たちは生きている。台風18号が強い勢力を
保ちながら沖縄地方を通過し、少なからぬ被害を出している。そして、その後のコースは
山陰地方をかすめながら日本海を北上という中国地方にも何らかの影響は及びそうなコースである。

 ここのところの秋の長雨と台風、このまま推移すれば野菜の被害は更に大きくなりそうだ。
我が家の冬野菜の苗も何度植え直しをしただろうか。未だ畑の水が抜けていない。これで台風
の影響でもあれば壊滅かも知れない。

 そして一昨日などは夏を思わせるような暑さだった。湿気を含む南からの温かい風。一気に夏へ
逆戻りしたような感じであった。

 さて、日本各地や諸外国で地震が発生し被害が出ている。どうやら地球全体を覆う地殻で大きな
変化が始まったようだ。これから大陸移動のような劇的な変化が起きるのだろうか。地球の中から
異常な音がするとか、シンクホールと呼ばれる大きな穴が空いただとか、湖の水が急に消えて
しまったなどという話題をネット上で目にすることが多い。

 確かにネット上の書き込みだけでなく何かが始まっている。そんな気がしてならない。そんな
最中に京大の研究グループが地震予知に活用出来るかも知れないという研究結果を発表している。

 地球表面の出来事とはるか彼方の空の上、一見何の関係もなさそうに思われるが、古くから
その繋がりが指摘されていた。その一つが大地震発生前の地震雲、異常に赤い夕焼け、電離層の
異常、そして古くは「むくひら虹」などなど。

 また、宏観現象と言われる井戸の水や動物たちの異常行動。上げれば切りがないほど色んな
ことがある。しかし、こうした現象について学会と呼ばれるところでは、まじめに取り上げられて
こなかった。研究の対象にはならなかった。

 どうやら学会と呼ばれるところは非常に閉鎖的なところらしく、突飛とも思えるような発想には
目もくれず、挙げ句の果てには、よってたかってそのような研究をつぶしてしまうようなところが
ある。その一例が先のSTAP細胞の研究であろう。細胞に酸のショックを与えると簡単に細胞が
万能細胞に変わりうると言う研究。可能性としては、ゼロとは言えない研究が何故取り上げられて
こなかったのだろう。

 また、EMという光合成細菌などを中心とする微生物集団が放射能の強度を著しく低下させると
いう事実に何故目を向けようとしないのか。癌の治療に何故、自己免疫機能を殺してしまうような
抗がん剤を使うのか。考えて見れば自分たちが有する権益を守りたいが故に、そうしたことに目を
向けてこなかった。そう思えてならない。

 挙げ句の果てに学会の重鎮と言われる人の意見を撤回させ、血液製剤による被害(エイズ感染)
を食い止めることが出来なかった。

 最近、盛んにコマーシャルで流れるのは抗菌という考え方だ。いつの頃から抗菌と言われるように
なったのか。そもそも人間の身体はその昔、人類が誕生する以前から、多くの微生物の中で生を受け
人生を全うするまで菌と共に暮らしてきた。

 今更、何が抗菌だというのだろうか。一兆個とも言われている人間の細胞と同じくらい、いや人間の
細胞の数以上の微生物と共生しているのが私たちだ。そして、これら微生物が食べ物の消化吸収に深く
関わっており、人間の性格まで左右しているのではないかとさえ言われている。

 確かに微生物や細菌の中には、身体をむしばむものもいる。しかし、人類も他の動物もこういった
微生物や細菌と戦いながら免疫というシステムを作り上げ、更には弱いものが淘汰され、強い遺伝子を
持つものが残ってきた。だから人類は、ここまで生きながらえ進化してきたと言える。そのシステムを
根底から断ち切ろうとしてきたのが、実は人類の今日までの歩みであった。

 もはや最期だと言われるほどの抗生物質が効かない菌が生まれていると言われている。菌は進化
し続けている。耐性菌の誕生である。しかし耐性菌を生み出したのも人間の所行による。

 こうして人間がコマーシャルに踊らされている間に菌の方は生き残るための進化を続けている。
これが本来の自然の姿だと言うことに早く気付かなければならない。かつて、進歩だと言って喜んでいた
洗濯機とともに誕生した界面活性剤が水を汚し、回復不可能なまでに河川の自然体系を壊し続けて来た。

 その結果、清流はどぶ川と化した。子どもの頃は泳ぐことが出来たほどの川が見る影もなく汚れて
しまった。あるものを得て、あるものを失ったと言う典型的な例であろう。とても進歩とは呼べない
愚かな行為であった。これが人間と言うものが築いた文明というものの実態ではなかろうか。

 不便でも貧しくても自然に生きることの大切さを考え直すべき時に来ているのではないだろうか。
何かをすれば次の何かをしなければならなくなる。言わばドミノ倒しのようなことを繰り返し繰り返し
やって来た。

 そして台風、大地震。人間の淺知恵をあざ笑うかのような自然が猛威が振るっている。そして私たちを
襲ってくる。今はそう言う時代だ。また、気付きのチャンスでもある。そう思えてならない昨今である。
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