鞆と尾道、いずれの地も私にとっては思い出多き土地である。神辺という内陸部の盆地で育った
私にとって海が見える景色はあこがれであった。住んでいた神辺の山深く緑山という小高い山に
登ると遙か遠くに海が見えた。福山沖の瀬戸内海であった。
私が子どもだった頃、鞆や尾道からおばさん達が魚の行商に来ていた。従って、鞆や尾道と言った
土地の名前だけは良く知っていた。しかし、鞆がどんなところなのか尾道がどんなところなのか
まったく知らなかった。そもそも隣町の福山市へ行くことすら大都会に出ていくような気持だった
時代のことである。
子煩悩な両親は夏になると必ず近隣の海へ海水浴に連れて行ってくれた。その最初の場所が鞆近く
の田尻という海水浴場であった。さしてきれいな海ではなかったというのが幼い私の感想であった。
福山駅近くから鞆鉄道という軽便鉄道が走っていた。
この鉄道のことを、その姿形からマッチ箱と呼んでいた。それほど小さな車輌であった。戦後の
燃料不足の時代、この鉄道は木炭を炊いて走っていた。木炭が発する一酸化炭素を燃料にしていた。
従って馬力は著しく弱かった。坂道にさしかかると、それ以上は走れなくなり乗客は仕方なく降りて
車輌を押したり歩かざるを得なかった。
近くの駅で下車し目指す海水浴場までは畑の中の道を歩いた。いたるところに爪の赤いカニがいて、
それが珍しく炎天下を歩くことも、さして苦にはならなかった。田舎は戦争で疲弊していたが故に、
今のような開発もなく自然が十分すぎるほど残っていた。
だから、こうした生きもの達も溢れるほどに群れていたのだ。今の海岸にこのようなカニを見かける
ことがあるだろうか。どこにでも海近くの海岸にいたこのカニを最近ではほとんど見かけることはなく
なってしまった。
父も母も若く、幼い私達兄弟は何の憂いもなく、ただただ喜んで走り回っていた。田尻にも飽いて
きた頃、次に連れていって貰ったのは尾道沖の百島(ももしま)や岩子島(いわしじま)であった。
神辺から福塩線で福山へ出て、そこから山陽本線に乗り換えて尾道へ向かう。
沿線には松永という町があった。ここは下駄の産地として有名であったが、山陽本線沿いは延々と
続く塩田でもあった。瀬戸内海でも有数の塩の産地であった。
尾道駅から歩いてすぐのところが渡船場であった。ここから沖の島々を渡船が結んでいた。さすがに
尾道を離れると沖の島の海水浴場の水はきれいに澄んでいた。
百島だったか岩子島だったか記憶は定かではないが、夥しいクマゼミを見たことがあった。海には
死んだクマゼミがたくさん浮かんでいた。子どもにとってクマゼミは珍しい蝉であった。その蝉が
海近くの竹藪の中に黒くなるほど群れていたのだ。当然の事ながら幼い私達にも素手でつかまえる
ことが出来た。何故これほどまでのクマゼミが群れていたのか、いまもって謎である。
ずいぶん興奮して父母に報告したことを今でも思い出す。親達にとって蝉など別に珍しいことでも
何でもなかったのであろうが、昆虫好きだった私にとって興奮すべき事だったのだ。
尾道の思い出と言えば毎年開かれていた菊人形展であった。菊人形の美しさもさることながら、
ここで見たカラーテレビには驚いた。白黒のテレビさえ普及していなかった時代にカラーテレビを
見たのである。それはテレビ画面の前で画像に同期させるように三原色のカラーフィルターを回転
させていたのである。どのような原理にもとずいたものだったのだろう。
尾道は「てっぱん」というテレビドラマの舞台になっている。古くは文人墨客も多々この地を
訪れている。当時から何となく小説の舞台にしたくなるようなノスタルジックな雰囲気のある街で
あった。その面影は50数年を経た今も色濃く残っている。
しかし、坂ばかりのこの街は高齢者にとっては誠に住み辛い街でもある。次第に空き家が増えて
いるらしい。そして千光寺などお寺の多い町でもある。お寺が多いこともこの街の懐かしい雰囲気
を作り上げているのかも知れない。
また、古くから色んな映画の舞台となってきた。近くは大林宣彦監督の尾道三部作などがある。
小津安二郎監督の「東京物語」にも尾道が登場する。狭い海峡とせり出すように立ち並ぶ住宅地、
すべてが絵になる景色である。
また、海岸には「てっぱん」の舞台にもなっているような鉄工所や造船所が建ち並ぶ。ここは
鉄の街でもあるのだ。
その鉄の街は鞆にも通じるものがある。鞆の街に入る頃から海辺に各種の鉄工所が建ち並んでいる。
船に必要な部品や漁船に必要な機材を作っている工場群である。
そして海岸にはサヨリや小魚を開いて干している。この地を訪れた人達のおみやげに売っている
ものである。先日、私達は久々にこの地を訪れた。同行したのは備中國地域づくり交流会の仲間で
あった。
この街も古い町である。そして、そうした文化遺産とも言うべき町屋が住む人もなく朽ちて崩れ
ようとしている。これらを再建し観光に生かそうという取り組みが行われている。その中心になって
いるのがNPO法人「鞆まちづくり工房」である。私達がこの街を選んだのも、ここを訪ねるのが
目的だった。
この建物は「御舟宿 いろは」として活用されている。坂本龍馬ゆかりの建物であった。この建物
の再建に当たって宮崎駿監督が設計したというガラス窓が珍しい。
「坂の上のポニョ」、そして「龍馬伝」、ここ二年間ほどは鞆には観光客がとぎれるなく訪れて
いたようである。やっと落ち着いたという12月、その日はお休みの日であったが、私達を招き入れ、
色んな話を聞かせて貰った。また、龍馬が一時期潜んでいたという古い商家の一室を見学することも
出来たのである。
尾道、そして鞆、このような歴史と伝統のある街を訪ねてみるのも悪くはない。消えていこうと
している建物を守る活動は、全国幾つかの街において行われていることであり、街おこしを目指そう
としている私にとって、先進地として大いに参考になる場所である。
そして、懐かしさと新鮮さ、そんな感じの同居した街、それが鞆や尾道である。
私にとって海が見える景色はあこがれであった。住んでいた神辺の山深く緑山という小高い山に
登ると遙か遠くに海が見えた。福山沖の瀬戸内海であった。
私が子どもだった頃、鞆や尾道からおばさん達が魚の行商に来ていた。従って、鞆や尾道と言った
土地の名前だけは良く知っていた。しかし、鞆がどんなところなのか尾道がどんなところなのか
まったく知らなかった。そもそも隣町の福山市へ行くことすら大都会に出ていくような気持だった
時代のことである。
子煩悩な両親は夏になると必ず近隣の海へ海水浴に連れて行ってくれた。その最初の場所が鞆近く
の田尻という海水浴場であった。さしてきれいな海ではなかったというのが幼い私の感想であった。
福山駅近くから鞆鉄道という軽便鉄道が走っていた。
この鉄道のことを、その姿形からマッチ箱と呼んでいた。それほど小さな車輌であった。戦後の
燃料不足の時代、この鉄道は木炭を炊いて走っていた。木炭が発する一酸化炭素を燃料にしていた。
従って馬力は著しく弱かった。坂道にさしかかると、それ以上は走れなくなり乗客は仕方なく降りて
車輌を押したり歩かざるを得なかった。
近くの駅で下車し目指す海水浴場までは畑の中の道を歩いた。いたるところに爪の赤いカニがいて、
それが珍しく炎天下を歩くことも、さして苦にはならなかった。田舎は戦争で疲弊していたが故に、
今のような開発もなく自然が十分すぎるほど残っていた。
だから、こうした生きもの達も溢れるほどに群れていたのだ。今の海岸にこのようなカニを見かける
ことがあるだろうか。どこにでも海近くの海岸にいたこのカニを最近ではほとんど見かけることはなく
なってしまった。
父も母も若く、幼い私達兄弟は何の憂いもなく、ただただ喜んで走り回っていた。田尻にも飽いて
きた頃、次に連れていって貰ったのは尾道沖の百島(ももしま)や岩子島(いわしじま)であった。
神辺から福塩線で福山へ出て、そこから山陽本線に乗り換えて尾道へ向かう。
沿線には松永という町があった。ここは下駄の産地として有名であったが、山陽本線沿いは延々と
続く塩田でもあった。瀬戸内海でも有数の塩の産地であった。
尾道駅から歩いてすぐのところが渡船場であった。ここから沖の島々を渡船が結んでいた。さすがに
尾道を離れると沖の島の海水浴場の水はきれいに澄んでいた。
百島だったか岩子島だったか記憶は定かではないが、夥しいクマゼミを見たことがあった。海には
死んだクマゼミがたくさん浮かんでいた。子どもにとってクマゼミは珍しい蝉であった。その蝉が
海近くの竹藪の中に黒くなるほど群れていたのだ。当然の事ながら幼い私達にも素手でつかまえる
ことが出来た。何故これほどまでのクマゼミが群れていたのか、いまもって謎である。
ずいぶん興奮して父母に報告したことを今でも思い出す。親達にとって蝉など別に珍しいことでも
何でもなかったのであろうが、昆虫好きだった私にとって興奮すべき事だったのだ。
尾道の思い出と言えば毎年開かれていた菊人形展であった。菊人形の美しさもさることながら、
ここで見たカラーテレビには驚いた。白黒のテレビさえ普及していなかった時代にカラーテレビを
見たのである。それはテレビ画面の前で画像に同期させるように三原色のカラーフィルターを回転
させていたのである。どのような原理にもとずいたものだったのだろう。
尾道は「てっぱん」というテレビドラマの舞台になっている。古くは文人墨客も多々この地を
訪れている。当時から何となく小説の舞台にしたくなるようなノスタルジックな雰囲気のある街で
あった。その面影は50数年を経た今も色濃く残っている。
しかし、坂ばかりのこの街は高齢者にとっては誠に住み辛い街でもある。次第に空き家が増えて
いるらしい。そして千光寺などお寺の多い町でもある。お寺が多いこともこの街の懐かしい雰囲気
を作り上げているのかも知れない。
また、古くから色んな映画の舞台となってきた。近くは大林宣彦監督の尾道三部作などがある。
小津安二郎監督の「東京物語」にも尾道が登場する。狭い海峡とせり出すように立ち並ぶ住宅地、
すべてが絵になる景色である。
また、海岸には「てっぱん」の舞台にもなっているような鉄工所や造船所が建ち並ぶ。ここは
鉄の街でもあるのだ。
その鉄の街は鞆にも通じるものがある。鞆の街に入る頃から海辺に各種の鉄工所が建ち並んでいる。
船に必要な部品や漁船に必要な機材を作っている工場群である。
そして海岸にはサヨリや小魚を開いて干している。この地を訪れた人達のおみやげに売っている
ものである。先日、私達は久々にこの地を訪れた。同行したのは備中國地域づくり交流会の仲間で
あった。
この街も古い町である。そして、そうした文化遺産とも言うべき町屋が住む人もなく朽ちて崩れ
ようとしている。これらを再建し観光に生かそうという取り組みが行われている。その中心になって
いるのがNPO法人「鞆まちづくり工房」である。私達がこの街を選んだのも、ここを訪ねるのが
目的だった。
この建物は「御舟宿 いろは」として活用されている。坂本龍馬ゆかりの建物であった。この建物
の再建に当たって宮崎駿監督が設計したというガラス窓が珍しい。
「坂の上のポニョ」、そして「龍馬伝」、ここ二年間ほどは鞆には観光客がとぎれるなく訪れて
いたようである。やっと落ち着いたという12月、その日はお休みの日であったが、私達を招き入れ、
色んな話を聞かせて貰った。また、龍馬が一時期潜んでいたという古い商家の一室を見学することも
出来たのである。
尾道、そして鞆、このような歴史と伝統のある街を訪ねてみるのも悪くはない。消えていこうと
している建物を守る活動は、全国幾つかの街において行われていることであり、街おこしを目指そう
としている私にとって、先進地として大いに参考になる場所である。
そして、懐かしさと新鮮さ、そんな感じの同居した街、それが鞆や尾道である。