人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

尾道そして鞆

2010-12-31 17:13:50 | Weblog
鞆と尾道、いずれの地も私にとっては思い出多き土地である。神辺という内陸部の盆地で育った
私にとって海が見える景色はあこがれであった。住んでいた神辺の山深く緑山という小高い山に
登ると遙か遠くに海が見えた。福山沖の瀬戸内海であった。

 私が子どもだった頃、鞆や尾道からおばさん達が魚の行商に来ていた。従って、鞆や尾道と言った
土地の名前だけは良く知っていた。しかし、鞆がどんなところなのか尾道がどんなところなのか
まったく知らなかった。そもそも隣町の福山市へ行くことすら大都会に出ていくような気持だった
時代のことである。

 子煩悩な両親は夏になると必ず近隣の海へ海水浴に連れて行ってくれた。その最初の場所が鞆近く
の田尻という海水浴場であった。さしてきれいな海ではなかったというのが幼い私の感想であった。
福山駅近くから鞆鉄道という軽便鉄道が走っていた。

 この鉄道のことを、その姿形からマッチ箱と呼んでいた。それほど小さな車輌であった。戦後の
燃料不足の時代、この鉄道は木炭を炊いて走っていた。木炭が発する一酸化炭素を燃料にしていた。
従って馬力は著しく弱かった。坂道にさしかかると、それ以上は走れなくなり乗客は仕方なく降りて
車輌を押したり歩かざるを得なかった。

 近くの駅で下車し目指す海水浴場までは畑の中の道を歩いた。いたるところに爪の赤いカニがいて、
それが珍しく炎天下を歩くことも、さして苦にはならなかった。田舎は戦争で疲弊していたが故に、
今のような開発もなく自然が十分すぎるほど残っていた。

 だから、こうした生きもの達も溢れるほどに群れていたのだ。今の海岸にこのようなカニを見かける
ことがあるだろうか。どこにでも海近くの海岸にいたこのカニを最近ではほとんど見かけることはなく
なってしまった。

 父も母も若く、幼い私達兄弟は何の憂いもなく、ただただ喜んで走り回っていた。田尻にも飽いて
きた頃、次に連れていって貰ったのは尾道沖の百島(ももしま)や岩子島(いわしじま)であった。
神辺から福塩線で福山へ出て、そこから山陽本線に乗り換えて尾道へ向かう。

 沿線には松永という町があった。ここは下駄の産地として有名であったが、山陽本線沿いは延々と
続く塩田でもあった。瀬戸内海でも有数の塩の産地であった。

 尾道駅から歩いてすぐのところが渡船場であった。ここから沖の島々を渡船が結んでいた。さすがに
尾道を離れると沖の島の海水浴場の水はきれいに澄んでいた。

 百島だったか岩子島だったか記憶は定かではないが、夥しいクマゼミを見たことがあった。海には
死んだクマゼミがたくさん浮かんでいた。子どもにとってクマゼミは珍しい蝉であった。その蝉が
海近くの竹藪の中に黒くなるほど群れていたのだ。当然の事ながら幼い私達にも素手でつかまえる
ことが出来た。何故これほどまでのクマゼミが群れていたのか、いまもって謎である。

 ずいぶん興奮して父母に報告したことを今でも思い出す。親達にとって蝉など別に珍しいことでも
何でもなかったのであろうが、昆虫好きだった私にとって興奮すべき事だったのだ。

 尾道の思い出と言えば毎年開かれていた菊人形展であった。菊人形の美しさもさることながら、
ここで見たカラーテレビには驚いた。白黒のテレビさえ普及していなかった時代にカラーテレビを
見たのである。それはテレビ画面の前で画像に同期させるように三原色のカラーフィルターを回転
させていたのである。どのような原理にもとずいたものだったのだろう。

 尾道は「てっぱん」というテレビドラマの舞台になっている。古くは文人墨客も多々この地を
訪れている。当時から何となく小説の舞台にしたくなるようなノスタルジックな雰囲気のある街で
あった。その面影は50数年を経た今も色濃く残っている。

 しかし、坂ばかりのこの街は高齢者にとっては誠に住み辛い街でもある。次第に空き家が増えて
いるらしい。そして千光寺などお寺の多い町でもある。お寺が多いこともこの街の懐かしい雰囲気
を作り上げているのかも知れない。

 また、古くから色んな映画の舞台となってきた。近くは大林宣彦監督の尾道三部作などがある。
小津安二郎監督の「東京物語」にも尾道が登場する。狭い海峡とせり出すように立ち並ぶ住宅地、
すべてが絵になる景色である。

 また、海岸には「てっぱん」の舞台にもなっているような鉄工所や造船所が建ち並ぶ。ここは
鉄の街でもあるのだ。

 その鉄の街は鞆にも通じるものがある。鞆の街に入る頃から海辺に各種の鉄工所が建ち並んでいる。
船に必要な部品や漁船に必要な機材を作っている工場群である。

 そして海岸にはサヨリや小魚を開いて干している。この地を訪れた人達のおみやげに売っている
ものである。先日、私達は久々にこの地を訪れた。同行したのは備中國地域づくり交流会の仲間で
あった。

 この街も古い町である。そして、そうした文化遺産とも言うべき町屋が住む人もなく朽ちて崩れ
ようとしている。これらを再建し観光に生かそうという取り組みが行われている。その中心になって
いるのがNPO法人「鞆まちづくり工房」である。私達がこの街を選んだのも、ここを訪ねるのが
目的だった。

 この建物は「御舟宿 いろは」として活用されている。坂本龍馬ゆかりの建物であった。この建物
の再建に当たって宮崎駿監督が設計したというガラス窓が珍しい。

 「坂の上のポニョ」、そして「龍馬伝」、ここ二年間ほどは鞆には観光客がとぎれるなく訪れて
いたようである。やっと落ち着いたという12月、その日はお休みの日であったが、私達を招き入れ、
色んな話を聞かせて貰った。また、龍馬が一時期潜んでいたという古い商家の一室を見学することも
出来たのである。

 尾道、そして鞆、このような歴史と伝統のある街を訪ねてみるのも悪くはない。消えていこうと
している建物を守る活動は、全国幾つかの街において行われていることであり、街おこしを目指そう
としている私にとって、先進地として大いに参考になる場所である。

 そして、懐かしさと新鮮さ、そんな感じの同居した街、それが鞆や尾道である。
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ミュージカル「最後の五匹」合宿始末記

2010-12-30 06:10:16 | Weblog
 合宿が終わり、翌日、私は次のようなメールを合宿参加者に送った。以下、メールの文章を転記する。

 「最後の五匹」の皆さん矢吹です。二日間の合宿、ご苦労様でした。大変、寒くて眠れなかった
という人や体調不良の人もいましたが、早く治して良いお正月を迎えてください。この経験も若い人達
にとっては貴重な青春の一ページになることでしょう。
 芝居には全くの無縁だった素人の私にも舞台とはこのようにして作られていくのだと言うことを
間近に経験させていただき、ただただ感心するばかりです。
 人生もまた大舞台です。人生という大舞台でミュージカルという舞台を演ずる、作り上げていく、
素晴らしいことだと思います。
 祈願に詣でた蓮台寺では思わぬ話をお聞きました。ここのお札には75隷という文字が書かれており
この75隷とは「きつね」そのものだそうです。お坊さんの話にもあったように「隷」とは権現様の
お使いのことです。
 こうしてみると、私達は大変、意味のあるミュージカルを経験しているわけで、それだけでも意義
深いものを感じます。今回は出演者だけでなく、多くのスタッフにも練習風景を間近で見ていただき
年明けから取りかかる準備にも何となく明るい展望のようなものを感じています。
 スタッフを代表して皆さんに心からお礼を申し上げます。3月20日に向け素晴らしい舞台を作り
上げて行きましょう。ご苦労様でした。良いお年をお迎え下さい。


 実は先のブログでも紹介したように「最後の五匹」とは狐のことである。今は瑜加山蓮台寺と言って
いるが少なくとも江戸時代の末までは瑜加大権現として多くの信者を集めていた。向かいの四国にある
金比羅大権現はあまりにも有名だが、瑜加大権現も金比羅大権現と並び称されるほどの名刹であった。

 しかし、明治維新になり神仏は分離され、寺院は寺院、神社は神社として祀るように法令で定められ
以来、瑜加大権現は信仰の対象としての地位を著しく失墜してしまった。大権現の「権現」とは仏が
神の姿で現れたものであり、ご神体は盧遮那仏(るしゃなぶつ)と薬師如来(やくしにょらい)の
二体の仏である。

 この仏に仕えているのが75隷と称されている75匹の狐である。狐は多くの場合、お稲荷さんと
して祀られていることが少なくない。岡山県にも有名な高松稲荷がある。しかし、神仏の使いとして
の狐は珍しいのではないだろうか。瑜加大権現のお札にも明らかに75隷と書かれている。

 合宿を行った日はクリスマスの25日と翌日の26日であった。折からクリスマス寒波と言うことで
小雪さえもちらつくような寒さであった。ただでさえ、「由加少年自然の家」がある場所は気温が低い。
真夏でさえも夜間は寒さを感じるような場所である。ましてや、よりによってクリスマス寒波が押し
寄せた日であった。

 私達は由加山に伝わる伝説を元にしたミュージカルに取り組んでいる。と言うことで、せっかく
この地で合宿をするのであればお参りをと考え、仏の前で手を合わせたのではあるが、図らずも
寺院側の配慮で本堂にまで通され、瑜加山蓮台寺の霊験記や狐のお使いのお話を聞かせて頂いた
後でお払いをしていただいた。

 本堂に響き渡るほどの太鼓の音に、あたかもお使いのお狐さんが現れ出でたたような感じがしたのは
私だけであったろうか。そして、このミュージカルが何かに導かれているような気がしてならないので
ある。そして、必ず成功するという思いは、今や漠然たる思いから確信へと変化しつつある。

 標高はさして高くはない。しかし、常に平地より気温は低い。参加者の中には寒さで眠れなかった
と言う人も少なくなかった。宿舎の各部屋に置かれている暖房器具は石油ファンヒーターが一台だけ
であり、火災のことを考えてストーブを切って寝た部屋も少なくなかった。そんな事から睡眠不足
になった人もいたのではないだろうか。

 この日は多くの出演者が参加して、日頃にない猛練習であった。3月20日までと言えば、さして
練習できる時間はない。まして出演者の多くは仕事を持っている。こんなわけで濃密なスケジュールと
特訓になった次第である。

 参加者の中には子ども達もいる。聞けばこの子達は演出者のM先生の教え子達の子どもさんだとの
事であった。実に親子二代にわたってM先生の指導を受けているわけである。

 だから25日のクリスマス会もこの子達にとっては家族だけで過ごすクリスマスとはまた違った
楽しい思い出になったのではないだろうか。翌日は無邪気にサンタさんが来たと言って喜んでいた。
きっとクリスマスプレゼントが枕元にあったに違いない。

 
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だっぴ50×50

2010-12-21 06:56:51 | Weblog
 「だっぴ50×50」なるイベントが岡山の国際交流会館で行われた。「だっぴ」は平仮名で表記
されているので、どういう意味なのか不明なのだが、漢字に書き直すと「脱皮」なのだろうか。

 「脱皮」と言うからには、さなぎから抜け出して蝶やトンボとして飛躍したいという願望を込めて
の事なのかも知れない。ともあれ、言葉の意味を詮索するのは止めて、この会に参加しての感想を
述べておこう。

 主催したのは、私の知人でもあるK君ら若い世代の仲間達である。彼らが岡山県下の色んな人達に
呼びかけて開催した実に珍しい催し物であった。

 50人は社会人として第一線で活躍をしている人、他の50人は社会人もいれば学生さんもいた。
いわば、これから社会で大きく羽ばたいていこうという新進気鋭の若者達であった。中には再就職を
したいと考えている人もいた。

 私は社会人として参加させて貰った。何故か私のような年代の人はほとんどいなかった。同年輩の
人と言えば岡山大学の教授と友人のH氏ぐらいであったろうか。大半は20代から40代にかけての
若い世代の人達であった。

 しかも、彼らはそれぞれの分野で活発に活動をしている人達であった。団体に所属している人も
いれば、自営業の人もいた。また、NPOを立ち上げて、これから活動を始めたいと考えている人
など多種多様の人達であった。

 従って、人生観も主張も様々であった。しかし、大半の人に共通した思いは、今までの時代から
決別し、これからの世の中を何とかしたい、何とかしなければならないと言うことであった。

 幾つかのサークルに分かれ、私達社会人は次々と別のサークルへと移っていく。そこでまた質問を
受け、それに応え、自己紹介を行い、自分の考えを述べていく。こんな形で幾つかのサークルを回り、
私も私の経験してきたこと、考えてきたことなどを述べてきた。アンケートによれば私の話した言葉
の幾つかが印象に残ったと書かれていたようで、それなりのお役には立ったようであった。

 それにしても、良くもまあこれだけの人材が集まったものだと感心したものである。決して日本は
捨てたものではない。それどころか県内の一部の人だと思われる範囲からだけでもこれだけの人材が
集まったのである。

 これを全県下、あるいは日本全国に拡大してみると、どれだけの人材が集まるか分からない。想像
を絶するような数の人に違いない。

 世の中を動かし、変えるのは人の力である。人の力には、お金だけでは決して実現できない力が
ある。この世の中に於ける事象の全ては人のパワーによるものである。このすごい数の人間のパワー
を日本は秘めている。それも良い方向を目指した新しい時代のパワーである。

 私は久々に日本の底力を感じた。決して日本は捨てたものではない。マスコミはつまらない芸能界
のゴシップやマイナスイメージの強い政治報道ばかりしているが、何故、このような人達のことを
取り上げないのでだろうか。マスコミの果たすべき使命を見失っているような気がしてならない。
伝えるべき事、果たす役割は、もっと他のところにもたくさんあるように思うのだが。
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自然の恵み

2010-12-19 06:28:09 | Weblog
 庭に出ると山の畑のミカン類が黄色く光っているのが見える。これら柑橘類の収穫が終わる1月末頃
まで見られる毎年変わらぬ景色だ。

 我が家の畑には冬野菜の他、収穫前の柑橘類が多々ある。種類の多さは他にひけを取らない。柚子
ダイダイ、ハッサク、夏みかん、温州みかん、伊予かん、ネーブルオレンジ、土佐文旦、少しマイナー
な安政柑、そしてレモンと言ったところであろうか。

 日当たりの良い南向きの畑は海からの風を受けるには都合良く出来ている。瀬戸内海地方は昔から
日本でも有数の柑橘類の産地である。従って、海から多少離れている我が家の畑でも良くできる。

 但し、一頃までは何とか栽培出来ていた梨や林檎は昨今、急に出来が悪くなった。夏場の異常高温
と昼夜の寒暖の差がなくなったことが原因と思われる。異常高温は柑橘類以外の果樹に影響が大きかった
ようだ。

 以前にも紹介したように、我が家の果樹栽培は無農薬、無化学肥料、無除草剤の自然農に限りなく
近い栽培である。このような栽培方法を初めて既に7年以上が過ぎようとしている。従って、一部
野菜を植えている場所以外、土の表面は笹が覆っている。良くもまあ、こんなところでと思うような
作り方である。

 しかし、意に反して果樹の玉太りも良く味が実に濃い。これが特徴である。肥料は年に一回だけ
冬場にヌカと油粕を入れている。それも土に鋤き込むような面倒なことはしていない。ただ笹や下草
の上からばさばさと撒く程度である。これでも肥料の与えすぎではないかと思うほど木の勢いは良い。

 だから冬場の剪定は欠かすことの出来ない作業の一つになっている。近隣では一番高い場所にある
果樹畑は高いが故に水位が低く、その上、土の保水力も良くない。従って、乾燥しやすい。夏場の水やり
が大仕事である。

 それを除けばさして手間のかかるようなことはない。後は自然に任せておけばよい。自然は人間の
手を借りなくても、それなりの力で生育するようになっているものらしい。

 やがて、年末になると柑橘類の収穫が始まる。夏みかん、ハッサクなどは収穫し一ヶ月ほど寝かせて
置く。そうすると程良く酸味が抜けて甘みが増してくる。夏みかんの場合は更に一ヶ月ぐらい置いて
おくと、これがあの酸味の強かった夏みかんかと思うくらい甘くなる。夏みかんはハッサクに比較すると
ジューシーである。果汁が多いから余計に甘く感じるのかも知れない。

 伊予かんはかなり個数を減らしたと思ったのに色付き始めると、その数の多さに驚いている。青い
ときには数の多さを感じないのだ。思い切って摘果する方が良いらしい。その点、裏年に当たるネーブル
オレンジはほどよい数である。家族の少ない我が家ではこれくらいで十分だ。

 さて、葉もの野菜の季節である。夏の高温期が長く続いたため野菜の価格が高止まりしているようだ。
しかし、露地物はこれからが旬である。多少は価格も下がるのではなかろうか。我が家は例年になく
多くの葉もの野菜が出来ている。高菜、水菜、チンゲンサイ、ホウレンソウ、白菜、キャベツ等である。

 また、ブロッコリーも大きくなり始めた。心なしか例年より成長が遅く、お正月には少し間に合い
そうにもないが、何とか冬の食卓には乗りそうである。山芋を掘り、里芋を掘った。食べるには困らない
だけの量がある。後は必要に応じてニンジンの収穫と秋植のジャガイモを掘るだけである。

 畑仕事に、これで終わりと言うことはない。冬場には冬場の仕事がある。一年中、何らかの仕事が
あり、手間をかければ手間をかけるほど出来は良くなる。これからエンドウなど豆類の支柱が必要に
なってくる。そして、柑橘類の収穫。これが終われば年内の畑仕事は一段落か。
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ミュージカル「最後の五匹」チケット販売開始

2010-12-13 06:37:26 | Weblog
 来年の3月20日、児島文化センターで開催予定の「最後の五匹」の練習が、いよいよヒートアップ
している。

 これは金比羅大権現と並び称された瑜加大権現に伝わる「鬼」伝説を元にしたミュージカルである。
瑜加大権現は古くから神仏が宿る場所として、日本全国から多くの参詣者を集めてきた。少なくとも
明治の初め頃までは、こんな山中に、このような賑やかなところがあったのかと、この地を訪れた
人々を一様に驚かせるような場所であった。人々の信仰心がことのほか篤かった頃までの話である。

 今回のミュージカルの主人公「阿久良王」は、この地に流され「鬼」にされてしまった天皇家の
血を引くものだと言われている。この阿久良王の反逆を恐れた朝廷は、鬼退治と称して「坂上田村麻呂」
をこの地に遣わした。

 こうして哀れにも阿久良王は坂上田村麻呂の刃の元に倒れてしまう。しかし、阿久良王の命が尽きる
とき、彼の魂は75匹の白狐になって散っていった。これら75匹の白狐は歴史に残るような様々な
人物に取り憑き、その人をして世のため人のために尽くすことになる。

 ここまで書いて妻からストップがかかってしまった。何もかも書いてしまうとミュージカルを
鑑賞する価値が半減してしまうと言う理由からであった。と言うことで時代は1300年の後の
近未来の事になるのだが、それは見てのお楽しみと言うことにしておこう。

 このミュージカルのテーマは人の心の有り様を問うものである。悪の化身と闘うとき、我と我が
身を縛っていたのは他でもない、我が心の中にあった様々なわだかまりであり憎しみであった。
絶対に相手を許す事など出来ないと言う強い思いであった。自らがこの思いを断ち切らない限り
悪の化身と化した阿久良王の中に我が心も取り込まれてしまうことになる。

 激しい心の葛藤と闘いながら、ついに五人の若者全てが「ありがとう」と、許し難い過去や
こだわりを捨て、感謝の心に変わった時、悪の化身「阿久良王」は目の前から消えていく。

 この作品は伝説を元にしながらも近未来を舞台にした非常にメッセージ性の高いミュージカルに
なっている。その点に於いても特筆すべき作品だと思っている。

 更に繊維の街、児島を色濃く反映した舞台設定になったいる。日本一のジーンズの生産地として
舞台の一シーンには縫製工場が登場し、その場面で歌われる歌はご当地ソングにしても良いような
素晴らしい曲になっている。

 その歌「たてぬきの歌」はジーンズそのものを歌っている。布を織り上げる縦糸と横糸の綾と人の
心と心が織りなす綾を掛けている。実はその綾が時として、もつれもつれて様々な事件を生じている
のでもある。また、海の交通の要衝であった児島という地を縦糸と横糸になぞらえている。

 脚本を書き下ろしたのは江戸川乱歩賞受賞作家の石井敏弘氏である。12月に入り、ますます稽古は
本格化している。本番までに残された日は少ない。ポスターやチラシ、チケットも出来上がった。
残り少ない日数を追いながらも、来る日の来ることを期待しながら待っている昨今である。
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喜んでくれてありがとう

2010-12-08 05:43:46 | Weblog
 冷え込みは一段と厳しさを増してきた。そして、庭の景色は一変して冬模様に転じてしまった。
それもそのはずで、暦の上では「大雪」とある。いつ大雪が降っても可笑しくはない季節なのである。

 さて、今日は地元のデイケアセンター「しおかぜ」で約束をしていた活弁口演を行ってきた。
この施設は妻の母が日頃からお世話になっているところであり、私達が活弁士になって初めて招いて
いただいた施設でもあった。久々の訪問であった。

 私達夫婦が活弁士となって丸三年が過ぎ、それなりに私達も成長したと自負している。その成長の
証を見て頂きたいという思いもあった。

 午後13時15分開演、皆さんがカラオケなどを楽しんでいる大広間の一角を仕切って作った
会場だった。会場には備え付けのプロジェクターとスクリーン、音響設備があった。

 一度、映像と音響のテストを行って控えの間で着替えを行った。ささやかながらも持参した私達
の舞台衣装である。

 こうして、司会者に紹介されスクリーンの前に立った。簡単な自己紹介と挨拶の後、上映開始。
最初の映画は「突貫小僧」、誘拐したはずの子どもに、誘拐犯達が手玉に取られ持てあますという
喜劇である。

 引き続いて「子宝騒動」、貧乏人の子沢山を絵に描いたような家庭、それでも笑えるのは古き良き
時代なる故か。ともあれドタバタ劇。

 この映画に入ると「突貫小僧」の時の含み笑いは爆笑へと変わっていった。繰り返しの爆笑また
爆笑。こうなると弁士も乗ってくる。語るものと聞くものと、そして映像が一つになって会場は
作られていく。

 「子宝騒動」には会場のお年寄り達が一様に体験してきた過去の姿が映し出されていた。今とあまり
にもかけ離れた過去の姿。しかし、その姿は紛れもなく自分たちが過ごした思い出深い過去であり
貧乏人の哀感をそのままに写し描いた映画であった。

 そして、その時代の子沢山は軍国主義時代の生めよ増やせよの国策に沿ったものであった。出生率
などと統計を気にしなくても、子どもは次々に生まれた時代であった。

 この時代に子ども手当も社会保障のかけらもなかった。貧乏も子沢山もみんな自己責任であり
生んだ子どもは責任を持って自分で育てなければならなかった。それでも至って明るい時代であった。

 「子宝騒動」は、そんな社会的な風潮を見事に捉えた映画である。ぜひとも夫婦活弁士の掛け合い
漫才ならぬ、掛け合いの活弁をお楽しみ願いたい。
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対米従属は続くのか

2010-12-06 05:50:57 | Weblog
 私達が自民党を見限って民主党に一票を投じたのは何故かを思い出してみたい。それは戦後一貫し、
連綿として続いてきた対米従属から良い加減に抜け出したいという思いがあったからではないだろうか。

 また、元自民党の幹部だった人までもが我が身を捨てて郵政改革法案に反対の一票を投じたのも同じ
思いだったからに違いない。莫大な郵便貯金や簡易保険の保険金が全てアメリカの銀行資本の手中に
握られ、日本の国家予算の裏付けがなくなってしまうことを懸念したからではないだろうか。

 戦後一貫して行われて来たことに、一般的にはあまり知られていないアメリカからの諸要求がある。
これが独立国に対するものかと我と我が目を疑うような要求内容である。その一つが沖縄の基地問題
であり、日本国内に点在する基地問題である。

 どうやら表向きはともかく、アメリカ政府は日本を独立国だとは見なしていないようだ。だから
中国が尖閣列島は自国のものだと主張するのであり、ロシアの大統領が北方四島は自国のものだと
臆面もなく主張するのである。アメリカと真の意味での対等な国にならない限り、領土問題は続く
であろうし、郵政民営化による金融不安も解決しない。

 過去の自民党政権ではアメリカよりの外交姿勢を保った人は長期政権であったが、田中角栄氏の
ように真の日本の自主独立を望んだ人は闇から闇へと葬り去られてしまった。先の検察庁の一連の
不祥事が物語るように、政治的な事件の多くは故意に作られてきたものが少なくない。

 そして、今もまたウイキリークスの主催者は「婦女暴行」という不名誉な罪を着せられ当局に
追いかけられている。闇の権力者にとって人一人を葬り去ることは実に簡単な事なのである。

 今の民主党に政権を握らせたのは他でもない小沢さんである。如何に野党よりの風が吹いていても
戦略がまずければ大量得票は難しい。ましてや政権など手中に出来はしない。その点に於いて
小沢さんは優れた戦術家であり戦略家であった。

 検察とマスコミが作り上げた世論の中で、功績のある小沢さんを民主党は冷たくあしらってきた。
こんな情けない人情味のかけらもない党に将来はない。政治も政党も人の世も「人の血」が通った
ものでなければならない。

 奇しくも小泉ジュニアが告白していたように、国民の間には自民党に対する不信感が根強く残って
いる。その上、小泉パパがやってきた郵政改革や一連の社会保障制度の改悪によって、多くの人が
塗炭の苦しみを味わっている。とても素直に自民党が復権するとも思えない。

 しかし、万が一、連立という中で自民党が復権したらどうなるのだろうか。対米従属はより鮮明に
なるであろうし、むろん郵便貯金はアメリカのものになってしまうだろう。そうなってしまえば
国家財政は完全に破綻し、私達には惨めな生活が待っているに違いない。

 私達はマスコミに踊らされることなく自分自身の考えを持たなければならない。今のマスコミに
期待は出来ないのだが、ウイキリークスの主催者である ジュリアン・アサンジュ氏に見られるような
良心的な人も少なからず出現してくるに違いない。

 こうしたリーク情報を見るとき、私達が如何に軽く扱われている存在であり、愚かな存在であった
かが良く分かるのである。私達は真の情報とはほど遠いところで、権力者達のためにかろうじて
生かされているだけの存在だと言うことを悟らなければならない。彼らにとって国民は主権者ではなく
実は奴隷に等しい存在なのかも知れない。無視すればよい、邪魔になれば消せばよい。

 マスコミは多くの時間を割いて歌舞伎役者「市川海老蔵」の暴力事件に関する報道をしている。
そんな報道に終始していて良いのだろうか。今、北朝鮮の延坪島の砲撃事件以来、日本周辺に大きな
変化が生じようとしている。ますます軍事力を強化する中国と北朝鮮を封じ込めようと言う作戦である。

 これを新たな冷戦体制だとアメリカのマスコミは報じているようだ。アメリカのオバマ大統領は
国内政治に行き詰まり打つ手を欠いている。何とか政権浮揚を図ろうと懸命になっている。点数稼ぎ
の外交問題で新たに生じた一連の事件はもってこいの事件だったと言えよう。

 これで沖縄の基地問題の解決は一段と難しくなり、日本外交もアメリカ依存を強くするのではない
だろうか。
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お洒落な活弁を貴方に

2010-12-05 06:45:37 | Weblog
 私達夫婦は活弁士をしている。つい最近、中国勝山で活弁口演を行った時の経緯については
先日このブログにも書いたので良かったら読んで欲しい。

 一昨日、メールボックスを開くと主催者の一人、Kさんからメールが届いていた。そのメールには
勝山での活弁口演に関する詳細なアンケートが添付されていた。この中に、二、三、私が日頃思って
いることと似通った感想が述べられていたので紹介したい。

 曰く、とても鮮明とは言えない白黒画面なのに何故か新鮮さを感じた。昔の映画なのに生き生きと
していて、とてもお洒落に感じた。等々である。

 これは私が初めて活弁なるものを観たときに感じたことと同じ感想である。実は古めかしい映画
なのに現代にも十分通用するくらいおしゃれで新鮮に感じるのだ。あでやかな色使いのアニメ映画を
見慣れているはずの小学生達が一様に良かった面白かったという感想を聞かせてくれたときにも
感じたことである。

 それは先日の「メトロポリス伴奏付き上映会」でも感じたことである。当時のモノクロ映画は今の
映画とはまるきり作り方も異なっているので同次元で語ることは出来ないかも知れない。でもあえて
今の映画を台詞なしにして音楽や活弁付きで上映してみたらどうだろう。これら一連のモノクロ映画
のように感じられるのだろうか。

 昨日も地元の名士の方から活弁のお礼を頂いた。「滝の白糸」に関するものであった。わざわざ
感想を述べて下さるほど感銘を受けられたようである。主催者としてはうれしい限りである。

 そう、活弁は決して古くない。フィルムそのものは古くても、とてもおしゃれで現代向きな映画
鑑賞法なのである。とても贅沢な映画鑑賞法なのである。生演奏や活弁士の生の声がすぐ側で
聞こえるのである。

 マイクを通して聞こえてくる活弁士の息づかいまでも身近に感じながら活動写真を見る。そこには
生身の人間同士の心の通い合いがあるからではないだろうか。俳優達の多くが舞台が良いという
言葉に通じるものがあるのかも知れない。

 最近まで活弁は映画と弁士と演奏との三位一体の芸術だと思っていたが、今は、三位一体ではなく
鑑賞者と一緒になって作るものだと感じている。特に活弁士は観衆の反応を間近に敏感に感じながら
演じている。観衆の反応が良ければ語りにも熱が入る。活弁士の語りに熱が入れば演奏者の方も
負けじとばかり演奏に熱が入る。こうして活弁は観客と舞台と映画が一体となって感動を作り上げて
いくのである。

 貴方の街にもぜひ一度活弁士を呼んでいただきたい。お待ちしています。
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ウイキリークス

2010-12-02 05:40:36 | Weblog
 ウイキペディア、ウイキリークス、このウイキとはいったい何を意味するものなのだろうか。

 それはさておきウイキリークスが25万件にも及ぶアメリカの外交文書をネット上に公開し
始めている。先にはアフガンやイラクに関する軍事情報を公開したばかりである。

 日本では公安警察の情報が何ものかの手によってネット上に公開された。そして、尖閣列島沖
で違法操業中の中国漁船拿捕時の映像が流された。いま様々な形での秘密情報がネット上に流れ
始めている。

 こうした情報を見るとき、私達は如何に情報を知らぬままに生きていて、知らない情報によって
時には生死までもが左右されているように思えるのである。今も昔も情報とは特権階級のみが独占
しうるものであることに変わりはないようだ。

 その最たるものは戦争に関わるものではないだろうか。不幸な太平洋戦争では一部の特権階級と
軍人だけの情報独占によって始められた。日本人は頭にたたき込まれた軍事教育と不十分な外交情報
の中で戦争は不可避と判断し戦争へと突入していった。

 アメリカ人は時の政府が日本軍の真珠湾攻撃を知っていて太平洋戦争突入の口実にした。日本を
悪者にするために、自国の軍隊を見殺しにしたのである。それぞれの国民が事の真実を知っていたら
果たして戦争に突入したであろうか。

 全ては一部の特権階級や軍人と戦争屋が仕掛けた「ぼろ儲け」の為であった。彼らは、むざむざと
流されていく多くの血を見ながら、関係のないところでほくそ笑んでいたに違いない。

 私達には知る権利がある。知ったことによって不幸になることがあるかも知れない。知らない方が
幸せだったということがあるかも知れない。しかし、それ以上に知ることによって我が身を守る
進むべき方向を自分の意志で決めることが出来る。

 天才ハッカーであったウイキリークスの創始者ジュリアン・アサジン氏は面白半分で行っていた
行為の中で色んな情報を知り得たに違いない。その内容は自分の想像を遙かに超えたものだった
のではないだろうか。

 様々な情報を得るに連れ、自分たちが如何に情報のらち外に置かれていたかも感じたに違いない。
もう彼は知り得た情報を隠したままには出来なかった。そう思うのである。

 盗んだ情報が犯罪である前に、自分の良心の呵責に苦しんだのではないだろうか。そうでなければ
自分の身に危険が及ぶようなことをあえて行うはずがない。

 さて、彼が教えてくれた情報をどのように考えれば良いのだろうか。情報の全ては英語である。
多くの日本人には理解できない。マスコミがあえて流さなければ真相や事の全ては闇の中である。
ところがマスコミは今のところ差し障りのない部分しか報道していない。

ここにも知る権利に対する厚い壁がある。日本のマスメディアも情報を隠している。事の全てを
報道していない。彼らは報道に携わる者としての良心の呵責に苦しんではいないのだろうか。

 今、世界は大きく変わろうとしている。既に企業は国家という枠を超えて海外に進出している。
グローバル経済や長引く経済不況が否応なく海外進出を後押ししている。また、国家が経済破綻
するという前代未聞の出来事が生じている。

 ギリシャやアイスランドの経済破綻が終わったわけではない。新たな経済破綻が始まろうとして
いる。また、日本やアメリカの経済も然りである。今の国家は国民の要求やそれに応えるだけの
力を有していない。

 中国では経済的に解放された人民の欲望を抑えきれなくなっている。まるで堰き止められた
水が一挙に解き放たれたような勢いである。最早、国家という枠が機能しなくなり始めている。
そして一部の人の中には狂奔する人の動きの中に危険なものと、新しい時代の幕開けを予感し
始めている。

 かつての国家のように偉大な指導者の下に止まる時代は終わりを告げているようだ。新しい
秩序が出来はじめているようだ。既成の枠に囚われたくないと思うような人が知り得た情報を
流し始めている。

 こうした情報は劇薬のような効き方はしないだろうが、ボディブローのように徐々に利き始めるに
違いない。

追記

 この記事を書いている間にも大きな変化が生じている。ウイキリークスはサイバー攻撃とサーバー
から追い出させるという厳しい局面に立たされている。そして、主催者のジュリアン・アサジン氏
自身にも逮捕状が発せられている。権力による押さえつけに違いない。

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が終わった。龍馬は、ほぼ為すべき事を成し、あえなく凶刃の元に
息絶えた。一代の英雄のドラマであった。このドラマが全てであったか定かではない。しかし、龍馬と
いう人間はこのためにだけ生まれてきた人だったのではないだろうか。これはこれで面白かった。

 さて、龍馬が関わった明治維新は武士という特権階級によってなされた不完全な形での革命であった。
革命と言うより一部の武士階級によるクーデターと言うべきかも知れない。

 当時、多くの人民には外国艦船が日本に来て開国を迫っているという正しい情報が流されなかった。
鎖国であり、知り得る情報はわずかばかりの特権階級によって封じ込められていたからである。

 明治維新以降に生じてくる不幸な問題の多くは、この時点から始まっていたと言っても過言では
ない。その上、明治維新時には武力によって形作られた身分制度があった。多くの人民は世の変革
という動きのらち外に置かれていた。

 今の中国は情報も言論の自由も厳しく制限されている。天安門事件も軍事力によって封じ込められて
しまった。また、北朝鮮は完全な鎖国状態にある。国民の目には世界がどのように変化しているのか
知らされていない。独裁国家というものはとかくこのようなものであろう。

 そして、自分の運命までもが隠蔽されたままの情報によって左右されてしまうのだ。これ以上の不幸は
ない。
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自然に生きる

2010-12-01 06:10:11 | Weblog
 簡単な事のようで、いざ実行となるとなかなか出来ないのが「自然に生きる、あるがままに生きる」
と言うことではないだろうか。

 誰しもそのようにありたいと思いながら、自分の思いや我(が)に勝てなくて、あらぬ生き方をして
いる人が少なくない。かくゆう私もその一人である。

 動物の多くは本能のままに生きている。食べたいときに食べ、眠りたいときに眠る、欲もなく
あるがままを生きている。従って、死に対する恐怖もない。病気になればひたすらじっと耐えて
回復を待つ。そして寿命が尽きれば死んでいく。

 私達はなまじ智恵というものを得たが故に、様々な悩みや苦しみを抱えることになってしまった。
ひたすら生き続けたいと願っている。死に対する恐怖心も強い。

 人間には本能に基づく欲以外に様々な欲を持っている。それが物欲であり金欲ではないだろうか。
持って死ぬことも出来ないのに、いつまでも物欲は絶えない。土地は自分のものだと主張する。本当に
そうなのだろうか。土地は誰のものでもない。地球自身のものである。そこには境界線も国境もない。
あるのは自然の広がりだけである。その空間に鉄条網を張り巡らして国境を主張している。滑稽以外の
何ものでもない。

 ましてや個人の土地所有など、今が暮らせていけばそれで良いではないか。孫子に残すべきものでも
ない。孫子は孫子の力で生きていけばよい。なまじ財産など残すから兄弟げんかや関係のない親族まで
入り乱れての争いになってしまう。それまでの人間関係が脆くも崩れてしまうことになる。お金も物も
土地もこの世の約束事に過ぎない。

 かつての高僧は畳一畳ほどの小屋に寝起きしたという。持ち物は身につけている衣と托鉢用のお椀が
一つだけ。飢えと雨露さえしのげれば良いと畳み一畳ほどの小屋住まい。庭はなくとも窓を開ければ
目の前の景色全ては自分のものである。四季折々の変化を間近に感じながら生きていたという。まさに
究極のエコな生き方だと言えよう。持ち物は何もないのだから盗まれる心配もない。鍵も必要はない。

 なまじ蔵など建てるほどの財産を持っているから心配で枕を高くして寝ることも出来ないのでは
ないだろうか。隠し持っていた虎の子の財産を庭に埋めていたら、いつの間にか誰かに盗まれたと
言う笑えない事件がある。誰が盗んだのだろう。いずれ身近な人の仕業に違いないと思うのだが
家人にも知られたくない金欲とは何なのだろう。

 人は裸で生まれ裸で死んでいく。地位の高い人もお金持ちもみんな一緒である。人は死の前には
平等に出来ている。何一つこの世で得たものは持っていけない。地位も名誉も財産もこの世だけの
約束事に過ぎない。全ては夢幻なのである。

 従って、この世で得たものはこの世で使い切る方が良い。それも人に喜ばれること感謝されること
に使いたい。その方が孫子に残すより遙かに価値があるように思うのだが。
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