人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

近況報告

2011-09-25 06:08:38 | Weblog
 月日のたつのは早いものである。月日の「たつ」とはどのような漢字を当てはめればいいのだろう。
調べてみると「経つ」と書くようだ。「月日が経つ」とは、歳月が流れていくことのようである。

 歳月の流れは早い。光なるものが最速なのかと思っていたら、つい最近の観測ではクオークなる
ものの方が早いと言う。その早さはどのようなものだろうかと興味が湧くし、その早さから見た歳月
とは、どのようなものなのだろう。その早さで見た宇宙はどんな姿なのだろうと興味は尽きない。

 ともあれ宇宙も地球も私達の周辺は謎だらけである。そもそも私達人間そのものも謎多き生きもの
である。自らの解明も十分ではないのに半ば何でも分かったように誤解しているのも私達人間である。

 そして分かったことの全ては今まで気が付かなかっただけのことであり、広大無辺なる宇宙の中では
当たり前のことばかりなのである。私達は存在するものの全てを追っかけながら追認しているに過ぎ
ない。

 さて、児島市民交流センターに勤務し始めてやがて二ヶ月になる。実に慌ただしい二ヶ月であった。
しかし、追われているような気がしなかったのは何故だろう。気持にゆとりがあるからだろうか。
それとも慌てても仕方がないという開き直りなのであろうか。

 そして様々に多くの出会いがあり、出会いの中から新しいものが始まっている。そもそも私は人が
好きである。そして人に喜んで貰えるようなことをするのが大好きである。従って、今の仕事は苦に
ならない。仕事ではあるが、単なる仕事とはとても思えない。

 私のポジションは設備の管理ではなく児島市民交流センターを活発に活用して貰うためのソフトの
部分である企画運営である。いわば人と人を結びつけること、人と一緒になって何かを計画し実行する
ことである。

 今までの私は何もかも自分のものとして抱え込んでしまうことが多かった。これでは何事にも限界
がある。私がやるのではなく誰かにやって貰う、そのための働きかけや根回しをするのが私の役目だと
思っている。

 多くの人に企画立案者になって貰いたい。そして実行して欲しい。その援助や仕掛け作りをしていく
のが私の役目であろう。

 そんなことを考えながら日々を過ごしていると不思議なことにいつの間にか現実のものになっていく。
この不思議さは何だろう。体験しているものにしか感じられないことばかりである。これも引き寄せと
言うのであろうか。会いたいと思っている人が難なく自分の前に現れてくる不思議さ、そして話して
いると、その人が私の知っているある人へと繋がっている不思議さ。

 いよいよ10月1日のオープンに向けて秒読み段階に入ったようだ。全ては上手く行く、そう確信
している。

 私はこの度の役目を引き受けるときに大きなものを捨てた。それは自分自身の自由だ。何ものにも
縛られない自由を定年後の七年間満喫してきた。その気楽さを捨てた。

 もう自分でも人生の何回目の新しいステージに立っているのか分からないくらい多くの体験をして
いる。一人で一生の内一つのステージしか体験しない人も多いが、私の場合は人が体験し得ないほど
様々な人生を体験しつつある。

 これが人生で最後のステージになるのかどうかは分からない。ともあれ一つを得ようとすれば
一つを捨てなければ得られない。観音様でもない限り手は二本しかないのである。二本の手に何かを
握ったまま、更に何かを拾うことは出来ないのである。

 人はその限りにおいては実に平等に出来ている。有名人になればなるほど行動の自由は制限されて
くる。それと同じ事である。私の場合は定年後の自由気ままな時間を捨てた。好きだった農作業も
制限されることになる。旅行も自由気ままに出来なくなるだろう。

 その代わり夢に見ていた街づくりの一端を担うことになる。描いていた街づくりを自分の手で作って
いくことになる。さて、新しい職場は私に何をさせようと言うのであろうか。興味は尽きないのである。
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プラス思考で

2011-09-14 05:34:12 | Weblog
 世の中、物情騒然として落ち着かない日々である。そして、遠く過ぎ去った幼き日々が無性に
懐かしい昨今である。そう、あの幼かった子どもの頃の穏やかだった日々。一日が何となく始まって
何となく静かに終わっていく。あの、心安らかな日々はどこへ行ってしまったのだろう。

 あの頃は、さして変化のない同じ日々の繰り返しであった。娯楽と言うほどのものは何もなく
ラジオがあればあるくらいで、テレビもなく日常茶飯事のようなお祭り騒ぎもなかった。賑やか
だったのは年に一度の秋祭りと正月、ついでに言えばお盆くらいのものであった。

 誰が呼んだのか時々、お薬師さんの境内で伊勢の大神楽があった。そして子ども達の唯一の
楽しみは紙芝居であった。朝から晩まで山や川や路地裏で遊び回っていた。

 今の世は便利になった豊になったと喜んでいるが失ったものも少なくない。いつの頃からこんな
世の中になってしまったのだろう。少なくともテレビが大きな陰を落としているような気がして
ならない。

 不安の上に不安をかき立てるものがいる。それがテレビを初めとするマスコミではないだろうか。
ニュースという域を超えてマスコミが世論操作をしているような気がしてならない。これでは言論
統制をしている中国などと何ら変わらない。表に現れないだけに質(たち)が悪いと言えよう。

 知らぬ方が幸せであることも少なくない。知っていても心配の種を増やすだけである。原発の
被害がそうである。わずかばかり明らかにされたことで大騒ぎをしているが、明らかになっていない
ことや明らかにされていないことも実はたくさんある。

 知ってどうしようというのだろう。人は原発だけでなくとも死ぬときは死ぬ。原発事故は免れても
交通事故で死ぬことだってあるだろう。人の運命や命などというものは、おおよそ知ることの出来ない
ものである。

 たとえば台風が来ると言っても個人レベルで何が出来ると言うのだろうか。一時しのぎの対策を
しても想定以上のものがやってくれば今回のような大惨事になってしまうのである。知っていても
知らなくても被害を受けることに変わりはない。

 どんな手を打ってもどうにもならないものもたくさんある。どうにもならないものは、どうにも
ならないのである。ましてや人の生き死には神のみぞ知ることである。

 禅宗の総本山である永平寺の高僧は「人はどのように死ぬかが問題なのではなく、どのように
生きるかが問題」だと言っている。

 もう不安をかき立てるのは止めよう。マイナスイメージはますますマイナスを呼び寄せるだけだ。
もっと明るい未来を展望してみよう。そんな未来がきっとあるはずだ。

 最近、盛んに論じられていることに「引き寄せの法則」なるものがある。幸せを引き寄せようと
しても一方で過去に捕らわれていたのでは幸せにはなれない。楽しいことだけを考えていれば良い。
マイナスイメージに繋がるような言葉も禁句である。人の悪口を言うのも良くない。

 全ての不幸や災いは自らの思考が作り出したものが映し出されたものである。悪口やマイナス
イメージは天に向かって唾を吐くようなものなのである。人を喜ばせるような言葉や人を喜ばす
ような言葉を発していれば必ず自分にも良いことが返ってくる。それが「引き寄せの法則」なの
である。

 何も事新しいものではない。これら全て先人達が教訓として私達に教え伝えてきたものである。
多くの事故や自然災害は物理的な観点からの説明も可能であるが、反面、私達の何となく落ち着か
ないという不安な心がこれらを引き寄せていると言えはしまいか。

 いっこうに景気が良くならない。これもマスコミの宣伝が行き渡りすぎているような気がしてならない。
開発途上国と頂点を極めた経済大国日本が同じように行かないのは当たり前のことである。成熟した
経済社会だと考えれば納得の行く話である。

 かつて日本も天井知らずのバブル経済に浮かれた時代もあった。その時、既に経済崩壊の兆しは
あったのだが、誰も気付かず気分だけは妙に明るく高揚していた。経済も気分次第で変化するという
事例であろう。

 全ては私達の思いが反映したものである。私達の見ているものは現実に思えて、あるいは幻想かも
知れないと言うことである。マイナスに繋がるようなものは全て捨て去ろう。明るい未来が待っている。
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喜びも悲しみも幾年月

2011-09-03 11:02:04 | Weblog
 「喜びも悲しみも幾年月」これは数十年前に大ヒットした映画のタイトルである。灯台守夫婦の愛の
姿を描いた映画であった。

 その頃の灯台といえば必ず人がいて、そこで働く幾人かの人が管理していた。こうした場所は街から
遠く離れた半島や離島が多かった。仕事上の苦労だけでなく生活そのものにも想像以上の苦労が伴った。
大げさに言えば生死をかけた仕事であったようだ。

 こうした灯台守のモデルはきっと幾組もあったに違いない。こうした灯台守夫婦の生涯を描いたのが
木下恵介監督による「喜びも悲しみも幾年月」という映画であった。

 この映画を思い出すとき私達の苦労は苦労に入らないと思うのである。さて、今の時代、何かと騒然
として心落ち着かない日々である。しかし、おおよそ人の歴史の中で何の憂いもなかった時代はない。

 先の世界大戦の時などは、いつ召集令状が来るか分からない時代であった。男は二十歳になったら
徴兵検査を受け、いつでも出征できる準備を整えていた。家族共々心休まることのない時代であったに
違いない。出征したら最後、生きて帰れるかどうかすら分からなかった時代である。

 現に私の父などは戦地に赴き200人の内、帰国したのはたった2人から3人という状況だったと
言われている。むろん国内向けの戦況報告では全滅であった。私の叔父はニューギニアの方に飛ばされ
以来消息は不明である。人の命が非常に軽かった時代である。


 何も心配するなと言っているのではない。心配してもきりがないものをいつまでもくよくよ考えない
方が良いと言っている。今まさに原発問題から派生した放射能の問題が非常に懸念されている。おおよそ
一年や二年の単位では解決できない問題である。

 そして一つ解決した先に更に新たな問題が立ちふさがっている。また、解決できたと喜んでいたことが
必ずしも正しい対処法だったという保証はない。全ては時が過ぎてみなければ分からないことばかりで
ある。今はただ一生懸命、命のある限り生きていくだけである。

 「貧すりゃどんする」という言葉がある。落ち込んだままでいると更に不幸が襲って来るという戒め
の言葉である。どうにもならないことをくよくよ考えるのではなく笑っていこう。不幸を引き寄せない
ようにしよう。

 「禍福はあざなえる縄のごとし」、同じような言葉は「人間万事塞翁が馬」と中国では伝えられて
いる。つまり今の幸せは少し先では不幸になり、その不幸の先にはまた幸せが待っている。誠に今の
世の中は「禍福はあざなえる縄のごとし」なのである。

 塩害で稲作が出来なくなった土地で綿が稔り始めていると言われている。綿は比較的塩害に強い作物
であることは昔から良く知られていた。従って倉敷周辺でも干拓された土地に盛んに植えられた。
そのような実績のある作物である。無農薬で作られた綿はオーガニックコットンとして珍重されている。

 そして、塩害に強いと言われている稲作を作付けした農家はどのようになっているだろうか。台風の
被害を受けることなく収穫の日を迎えることが出来るように祈っている。

 この世の中は自分の思いがそのまま反映されるもののようです。従って、くよくよしていれば良い方
には向かず悪い方に向かうのは明かです。笑顔の人の元に人は集まってきますが、苦虫をかみつぶした
ような人の元へ寄ってくるような人がいるでしょうか。

 全ては上手く行く、ハッピーな心で日々感謝の心を持っていれば必ず幸せは訪れてきます。振り返っても
どうにもならないことは潔くあきらめよう。そして明日を明るく生きていこう。これは私からの提案です。
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友人の死を悼む

2011-09-03 10:26:31 | Weblog
 友人が亡くなった。縁浅からぬ友人であった。水島に工場が出来て以来、初めての新卒者として
入ってきたのが私より五年後輩の彼らであった。それまでの沈滞ムードが一挙に解消し、工場は急に
賑やかになった。

 と同時に私達も自動的に工場の先輩となった。その頃は今と違い、先輩と後輩のけじめは比較的
はっきりしていた。従って、後輩が入って来ると言うことは、自動的に下っ端としての立場から
抜けられるということであった。

 その頃、我が組織内では労働運動が高揚期にあった。そして青年婦人部の活動も活発であった。
大半の従業員が二十代から三十代という若い工場においては、みんなが青年婦人部のようなもの
であった。しかし妻帯者の男性は青年婦人部から除外されていた。

 そうした青年婦人部層をまとめていたのが私であった。私は組織外の活動もしていた。反戦青年委員
や社会主義青年同盟の活動であった。大いにこれらの薫陶を受け組織内にもそれらの活動を持ち込み
たいと考えていた。

 そのために作ったのがフォークグループ「すかんぽ」であった。その仲間の一人に先日亡くなった
T君がいた。彼は楽器こそ弾かなかったが、縁の下の力持ち的存在であった。歌集を作り定期公演の
度ごとに入場整理券等を作っていた。いわばグループのムードメーカー的存在でありグループのまとめ
役でもあった。

 ある日、彼が私達夫婦の前に神妙な顔で現れた。仲人をして欲しいという要望であった。結婚して
日も浅く、ましてや年齢もさして離れていないT君達の仲人は無理であった。しかし他に頼める人は
いないと言うことでやむなく引き受けることにした。実は私達の結婚の際には祝賀会まで催してくれた
他ならぬT君の頼みでもあった。こうして私達夫婦は若くして仲人になった。T君は私達夫婦の共通の
友人でもあった。

 以来、変わらぬ交流関係が続いてきたのがT君ともう一人M君であった。私が定年を迎えたときにも
心のこもった退職祝いをしてくれたのが彼ら二人であった。そしてピースボートでの地球一周の旅の
帰国後、帰国祝いをしてくれたのも彼らであった。

 T君、M君と私達四人はお互いに何かあればこうした集まりを繰り返していた。私が定年になって
間もなくT君が癌になり入院したという話を聞いた。しかし、その時すでに他へ転移していたようだ。
抗ガン剤治療をするのだと話していた。命さえ繋いでおけば今の医学の進歩からきっと完治する日が
来る。意外にT君の電話口の声は力強かった。この調子ならきっと完治の日も近いと思われた。

 そうして私達夫婦の地球一周の話が印象に残っていたらしく、やや健康を取り戻したとき80日間の
地球一周の旅へ夫婦で旅だった。私達と同じピースボートによる旅だった。やはりケニアのマサイマラ
自然保護区の動物たちが印象に残ったらしく、帰国後編集したというビデオには多くの動物の姿が収録
されていた。

 彼らのこの旅から帰国後一番に会ったのも彼の家族ではなく他ならぬ私であった。偶然と言うには
出来すぎた偶然であった。その日、帰りましたという電話を受けた。私は同じ日に岡山で所用があり
出かけた。そしていつもは通らない駅の表玄関へ降りた。そこへ帰国したばかりの二人が立っていた。
元気そうな二人の笑顔があった。縁浅からぬものを感じた出会いであった。

 今はただ安らかに眠って欲しい。壮絶な癌との闘いだったようで死に顔には苦闘の後が残されていた。
本当によく頑張ったと思う。神は何故かくも心優しく気遣いの行き届く彼にこのような試練を与えた
のであろうか。彼こそもっと穏やかなる人生を送る権利を得た人間ではなかったのか。

 葬儀は主義主張に生きた彼らしく無宗教の告別式であった。ピースボートの旅の思い出や数々の家族
との思い出がたくさんの写真やDVDで映し出され、彼と家族の思い出深いお別れの会であった。私は
その日の朝、奥さんから頼まれて弔辞を述べることになった。さすがに何度も言葉が詰まって弔辞に
ならなかった。

 それにしても亡くなる前に一度だけでも会えて良かった。お盆に帰ったM君から電話を貰い、彼が
重症であることを知った。翌日、なにわともあれと思い病院を見舞った。その日はお盆だったことも
あって子どもさんや親戚の方々も大勢見舞いに来られていた。彼も体を起こして喜んでくれた。
そうして旅の思い出がいっぱい詰まったDVDや写真を見せて貰った。そしてご家族と一緒に写真まで
写した。その写真も告別式でも写されていた。

 今は共に釣り竿を伸ばしサヨリを釣った日が懐かしい。サヨリが釣れる季節が近くなった。しかし、
もう彼の姿はない。
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