人生いろは坂

人生は山あり谷あり、そんなしんどい人生だから面白い。あの坂を登りきったら新しい景色が見えてくる。

家族は作るもの(朝の連ドラ「瞳」より)

2008-09-16 22:20:48 | Weblog
 先日、ラジオを聴いていて驚いたことがある。学校給食に関し親が
「いただきます」と子どもに言わせるのはやめて欲しいと申し入れて
来たというのだ。
 早速、聴いたことを家内に話すと同じようなことが新聞にも書いて
あったと言っていた。本当なら我が耳を疑うような話である。理由は
給食費をきちんと納めているから「いただきます」と言うのは変だと
言う事らしい。

 給食費を払わない親や給食費を払っているのだから「いただきます」
と言う必要がないという親など、この国はいつからこんな変な国に
なってしまったのであろうか。
 まったく恥を恥とも思わないような破廉恥な親が増えていることに
驚かざるを得ない。そして「いただきます」「ありがとう」「おはよう」
「こんにちわ」「こんばんわ」「ありがとう」、こんな当たり前の挨拶
さえ出来ないような子どもが増えている。

 電車に乗ればあたり構わず大声で話したり笑ったりしている高校生達。
鞄を乗降口に投げ出したまま携帯に夢中になっている男女の高校生、
座席を独り占めしたうえ、靴のまま座席に投げ出している高校生。
 こんな高校生達の親の顔が見てみたい。誰がこんな子ども達を育てた
のだろうか。化粧をして外見は大人ぶっているが中身はまるで発達
していない女子高生達。こんな大人になりきれないような子ども達が
赤ちゃんを産んで親になっていくことを考えると実に空恐ろしい。

 先日、NHKの朝ドラを見ていて考えさせられたことがある。離婚
した両親に主人公の瞳はこう言う。「お父さんやお母さんは自分たちの
結婚は失敗だっだと言うけれど、お父さんとお母さんが結ばれたから
こそ私が生まれたのだ」と。「その私の前で軽々しく失敗だったと
言わないで欲しい」「お父さんやお母さんは失敗だったと言う前に
どれくらい努力したのか、家族は努力して作るものだと」。
 この言葉の意味は重い。昨今のように簡単にひっつき簡単に別れて
しまう親たちに、この言葉を聞かせたい。二人の間に生まれた子ども
こそ良い迷惑である。

 簡単に一緒になり良い家族を作る努力もしないままに簡単に別れて
しまったことから家族を失った子供は実に多い。そんな家庭に家族
らしい会話はあるのだろうか。親から子へ子から親へと多くの教訓が
受け継がれていくのが家庭である。近頃の若者は常識的なと思われて
きたことをほとんど知らない。それは親たちが教えて来なかったから
である。

 「いただきます」は誰から強制されたわけでもなく、食べ物を作って
くれた人や命あるものを頂いているいることへの感謝の言葉である。
私達人間は他の生き物の命を頂いて生きている。穀物も野菜も肉も
卵もみんな生き物の命そのものだ。
 それを「給食費は払っているから」と言うのは、あまりにも無知
すぎると言わざるを得ない。

 食の安全に関し国内外共に騒がしい。米は日本人にとって一番大事
な食べ物である。生産力の低かった頃は白米を食することの出来ない
人が大勢居た。
 お百姓さんの多くは米を作りながら、自分たちは食べることが出来
ないまま、ヒエやアワや芋と言った代用食を食べていた。だから今でも
お米を炊いたものを「銀しゃり」と呼んでいる。「銀しゃり」とは炊きたて
のきらきら光るご飯のことである。

 日本人の多くが「銀しゃり」を口に出来るようになったのはやっと
戦後のことである。その大切なお米を利用して金儲けをたくらむなど
もっての他である。それも農薬やカビに汚染された米である。

 販路がどこまで広がっているか検討がつかないほど汚染米は様々な
ところで使われているようだ。汚染米だと知って売った業者も悪いが
その危険性を知りつつも監督を怠ってきた農林水産省も悪い。
 食は国民の生活の根幹をなすものである。また、健康や生死に関わる
ものである。監督官庁の「たが」のゆるみは想像以上に根が深い。
端的に言えばまったく当てにならない状態である。

 さて、農薬の混ざった餃子問題が中国側に起因するものだと認めた
ばかりの中国では、こともあろうに赤ちゃんに飲ませる粉ミルクに
メラミンという化学物質を故意に混ぜていたという実にショッキング
なニュースが連日報じられている。
 農家から買い取った生乳にメラミンを混入したようだ。中国のモラル
の低下は、そこまで来たかと驚かざるを得ない。もともと儲けのため
ならなりふりを構わないと言うのが中国商人のたくましさであるが、
ことは人が口にするものである。それも幼い命が食するものであって
みれば、その罪は重い。

 日本と言い中国と言い、儲けのためなら何をしても構わないと言う
この仕組みが恐ろしい。そして今はアメリカ経済の破綻である。金が
金を生むという、このシステムこそ問題だ。そして環境問題を犠牲に
してまで自動車のGMは大量消費型の大型車を作る続けてきた。それが
ガソリンの高騰で経営に行き詰まりが生じている。
 アメリカも儲けのためなら何をしても構わないと言う点においては
中国や日本と変わらない。

 今の経済システムは既に破綻している。行き着く先は見えている。
今の経済システムの先に私達人類の幸せはない。環境問題も結局は
経済問題だと言い切る人も多い。私もそう思っている。
 環境問題を考えるとき、今の経済システムの方向転換なしには
考えられない。儲けるためにものを売る、売るためには目新しいもの
を作らなければならない。目新しいものが出来れば古いものは必然的
に捨てられてゴミになる。

 戦後一貫して企業が取ってきた姿勢は、いかにして消費者の購買心
をあおるかと言うことであった。こうして買うと言うより買わせられる
システムが作られてきた。それにはテレビが大いなる力を発揮して
きた。使えば何十年でも使えるようなものが簡単に捨てられ新しい
ものに置き換えられていった。

 反省の意味を込めて言うなら私もその一人であったことは間違いない。
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経済破綻

2008-09-16 07:03:05 | Weblog
 いよいよアメリカの経済破綻が本格化してきたようだ。リーマン・
ブラザーズという大手証券会社がサブプライムローン問題に絡む巨額
損失で倒産寸前だと報じられている。

 メリル・リンチの名前は日本でもお馴染みだが、ここも経営難と
なりアメリカの大手銀行バンク・オブ・アメリカに買収されることに
なったようだ。

 こうした一連の事態はサブプライムローンというアメリカの住宅
バブルによるものだ。低所得者向けに回収が難しいことを知りつつ
資金を貸し続け、その結果返済不可能に陥った事が発端であった。

 日本のバブル崩壊も不動産バブルが原因であった。土地転がし等と
いう非人間的な事をしてまで、土地価格を上昇させ、税金の納入さえ
出来ない人をたくさん作ってきた。
 一見、合法的に見えるが明らかに地域住民の追い出しであった。
その結果、長らくその土地に暮らしてきた人達は払えない高額の
固定資産税のために住み慣れた土地を手放し、遠くの安い土地へ
移らざるを得ない人が続出した。国は見て見ぬ振りをしていた。

 本来は動かすことも出来ない土地が、まるで商品のように扱われ
高額になりすぎて買い手がつかなくなった。とどのつまり資金繰りが
難しくなり急激な破綻へと繋がっていった。バブルの崩壊であった。

 土地を基調にした不動産バブルは他の金融市場にも広がり、デフレ
スパイラルという、かつて世界のどこの国も経験したことがない長い
経済不況に陥ってしまった。
 むろん大手の金融機関までもが経営に行き詰まり、国の資金を大量
に注ぎ込まなければならなくなった。並の資金ではなかった。何兆と
いう救済資金がまるで湯水のように注ぎ込まれたのである。
 それは金融の混乱を避けると言う理由からであった。全ては国民が
稼ぎ国に納めた税金であった。

 かつて救済を受けた金融機関が事もあろうに今回のサブプライム
ローンにも関わっていたと言うから、あきれてものが言えない。自分
の手で苦労して立て直した会社であれば、こうもたやすく他国の住宅
バブルに手を貸すことはなかったであろう。

 それにしても疑問なのは、失った何兆円や何千億円という気の遠く
なるようなお金はいったいどこに消えたのであろうか。実に不思議な
ことである。一方で失ったものはどこかに行っているはずである。
我々の知り得ない経済のからくりであろうか。

 さて、今日は世界同時株安という結果に終わったようだ。しかし、
これだけでは終わりそうもない。かつて山一証券が倒産し、大手銀行
が倒産寸前に追いやられた日本のバブル崩壊を考えれば、アメリカの
巨大資本がこれでおしまいと言うことはないだろう。
 結局、アメリカのどこかに巨額の金は吸い込まれ表舞台から姿を
消したに過ぎない。どこかに、ほくそ笑んでいる人物がいるに違い
ない。

 それにしても影響は大きい。今のようなグローバル経済下では、
ますますこのたぐいの事件が生ずる危険が潜んでいる。競争は競争を
生み、更に競争へと続く。この経済競争から離脱しない限り永遠に
続く事である。

 原油価格は一時、150ドル近くまで上昇したが、今は100ドル
を割るところまで下落している。しかし、原油産出国はこの間、濡れ
手に粟の如く金を儲けてきた。
 その結果、稼いだ金による不動産投資も盛んのようだ。摩天楼の
ように高層の奇抜な建物が建ち並ぶドバイ、そこには世界の不動産
投資家が群がっているようだ。しかし所詮は砂上の楼閣であり、
夢幻に過ぎない。

 土地は全て地球のものであり、建物の全ては人のわずかばかりの
人生の仮住まいに過ぎない。この現実に早く気付き、人の幸せとは
何なのか、人は何のためにこの世に生を受け生きているのかを
考えなければならない。
 しかし、その渦中にある人には見えないことかも知れない。所詮、
人は愚かなるものであろうか。
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