ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

五日市憲法ゆかりの地から真藤ノ峰、梵天山経由で金比羅尾根下降 1/2

2015年02月18日 | ハイキング/奥多摩

2015/2/3  昨年の二度の大雪のあと、2月21日に単独で奥多摩を歩いて来ました。その時、下山して来たのが深沢集落だったのです。興味引かれる点があったので、近いうちに来てみようとは思っていたのですが、思いのほか早く来ることになりました。

その昨年の記録がこちら。
http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/de812464c06d6c807b59a6817cc99092
興味のある方はちょっと目を通してみてください。


▲写真の向きを変更できませんでした。悪しからず・・・・
武蔵五日市駅の北口へ出ると、すぐに深沢方面への標識が立っていました。9:09ころ。


▲いつも出る南口とは違って、北口には何にもありません。今日もS子と二人です。9:10ころ。


▲葉の落ちた木に小鳥の群れがとまっていました。家に帰って写真を拡大してみると、カワラヒワのようでした。9:13ころ。


▲このような立派な標識が、要所要所に設置してあります。深沢集落の幾つかの名所案内ですが、町としても力を入れている証拠ですね。9:26ころ。


▲穴澤天神社です。稲城市の穴澤天神社が有名みたいですが、ここも同名です。9:36ころ。


▲ミツマタです。まだ花には早く、蕾の奥の黄色ものぞいていません。9:51ころ。


▲深沢小さな美術館の入り口です。でも、今は冬期休館中。この丸太ん坊の土筆のような人形がここまでもずう~っとところどころにあるのです。何かこの地域独特の謂れある人形なのでしょうか? 調べても分かりません。9:56ころ。


▲ロウバイが咲いていました。田舎を歩いていると、庭の手入れもよくされていて、いろいろな花や木に目が行って楽しいですね。10:00ころ。


▲深澤家屋敷跡入口。10:04ころ。


▲深澤家の屋敷の門です。右奥に見えるのが土蔵、その手前は何かしら倉庫のような感じです。10:05ころ。


▲屋敷の門をくぐると、説明板がありました。昔はこの写真の建物がここに建っていたそうです。戦前に小金井市に移築されたそうです。現在のことはネットで調べても出て来ませんから、空襲で焼失したのでしょうか?


←←写真をクリックして拡大してください。
▲土蔵は昔のままここに残っています。手入れは加わっているとは思いますが、ここからあの素晴らしい「五日市憲法」の草稿が発見されたのですね。地元にとってどころか、日本人にとって誇るべき遺産だと思います。
明治憲法に直接反映されることはありませんでしたけれど、この自由民主主義思想は現代につながる思想的土壌となっていたことは確かでしょう。


://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/hyouka.html

このホームページの最後から「五日市憲法」全文を読むことができます。でも、よほど関心がある人でないと、そこまでは読みませんよね。

そこで、僕が調べた際に役立ったのがここ。
http://home.interlink.or.jp/~jho-masa/ituka1.htm
この草稿作成の中核となった人物・千葉卓三郎が若くして戊辰戦争に幕府方として参戦した仙台藩の下級武士出身であること。
彼のような幕府方(負け組)の武士たちが学制令による全国的な公立学校設立の際に必要な教師として活用されたこと。千葉卓三郎がそのために勧能学校(現・五日市小学校)に赴任したこと。
その五日市で千葉と深沢が出会ったのです。
五日市の町は江戸時代から炭と木材の供給地として繁栄していたようです。5のつく日に市が開かれていたことから五日市という地名になったというほどですから、人や物の交流する要所であったのでしょう。
そんな五日市深沢村の名主であった家柄の深沢家ですから、山持ちであり、材木も扱っていたようです。深沢名生(なおまる)は千葉を高く評価し、その息子・権八は惚れ込み傾倒していきます。名生は商用で上京するたびに書籍を大量に購入する蔵書家としても大変なもので、当時東京で出版された新刊の7~8割は揃っていたというのですから驚きです。その中には、欧米の先進的な自由民権思想の著作も数多く含まれていたようです。

その後、もうひとつよくまとまったHPを見つけました。あきる野市役所の公式サイトですから、よくまとめられていると思います。
http://archives.library.akiruno.tokyo.jp/about/about02.html


▲これが「五日市憲法」の草稿が見つかった土蔵。10:14ころ。


▲敷地から背後の山の斜面を見上げると、お墓が並んでいます。深沢家代々のお墓のようです。10:13ころ。


▲左が父、右は息子のお墓ですね。「故深澤名生之墓」「権八深澤氏墓」と記されています。10:17ころ。


▲墓地のある場所から屋敷の敷地跡を見下ろしました。10:17ころ。
谷あいの最奥にある小さな集落に住む人物が、世界に誇れるような憲法草案を生み出した一人となっているのは素晴らしいことだと思います。


▲深澤家屋敷跡地を後にし歩くと、すぐに前方の鉄塔が見えてきます。今日登る尾根はあの鉄塔が立つ尾根です。10:24ころ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 第12回山行μ 3/3―――白岳を後... | トップ | 五日市憲法ゆかりの地から真... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ハイキング/奥多摩」カテゴリの最新記事