ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

五日市憲法ゆかりの地から真藤ノ峰、梵天山経由で金比羅尾根下降 2/2

2015年02月22日 | ハイキング/奥多摩

2015/2/3  昨年は雪の積もったこの尾根を下山しました。そして、今日は登っています。

その日のブログをもう一度、
http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/de812464c06d6c807b59a6817cc99092
読み直してみたいと思われる方はどうぞ。

その時も、あきる野市と日の出町の境界尾根を小机あたりから登り、本当は金比羅尾根まで行って下降したかったのですが、思いのほか時間がかかり、途中のこの尾根を下降したわけです。
僕が持っていた登山地図にも二万五千図にも、この尾根に山道があるようなことは出ていません。
この尾根を下降路と決めた理由はふたつあります。
まずは傾斜がなだらかな尾根であること。次に、送電鉄塔が立っている尾根であること。
里山ですから、歩きやすいなだらかな尾根には山里に住んでいる人が使う山道があるものです。それに、送電鉄塔があれば、鉄塔の保守管理用の山道も必ずあるのです。
案の定、歩き易い立派な山道がついていました。

ですから今日は、去年見つけたこの山道から登ることにします。


▲このあたりがこの谷最奥の民家だと思います。脇道に入っていきます。10:26ころ。


▲先ほど見えていた送電鉄塔は「新所沢線16号」なんですね。10:27ころ。


▲おそらく右の鉄塔から「新所沢線15号」「新所沢線14号」「新所沢線13号」なのだと思います。10:36ころ。


▲こんな立派な山道が続いています。10:49ころ。


▲「新所沢線16号」の鉄塔です。10:57ころ。


▲鉄塔のそばの日蔭にはまだ雪が残っていました。数センチ残っています。10:59ころ。


▲クマの爪跡でしょうか? クマにしてはキズが深い気がします。シカが角で付けたキズ跡でしょうか? 11:03ころ。


▲あきる野市と日の出町との境界尾根に出ました。尾根上に立っている送電鉄塔は「新所沢線17号」です。本当に今日は穏やかな晴天ですね。風もないので、ここで昼食にしました。11:10ころ。


▲境界尾根を歩き始めます。ほとんどが杉の植林です。11:41ころ。


▲優しい丸いカーブを描いた山容の真藤ノ峰543m。美しい名前の山ですよね。11:48ころ。


▲ときおり、落葉広葉樹林が現れると、明るく、暖かくなります。11:54ころ。


▲急登です。写真の見た目よりも急な斜面。12:04ころ。


▲ロープまで設置されています。でも、さっきの斜面の方が急でした。12:06ころ。


▲梵天山607mです。近くには金比羅山もありますし、仏教がらみで付けられた山名ですね。12:11ころ。


▲杉の植林の中を歩きます。12:20ころ。


▲山道の右側に柵が出て来ました。採石場でもあるのでしょうか? この尾根の南東部末端にある勝峰(かっぽ)山の麓にはセメント鉱山があるようですから、その関連でしょうか? 12:23ころ。


▲この柵は日鉄鉱業のもののようですね。まだこの付近には石灰岩の採掘場などはないようですし、将来のために山を買って、囲い込んでいるのでしょうか?
ところで、このピークの山名はいったい何なのでしょう! タルクボノ峰はこの西にある680mピークです。この看板は最初はそう書いてあったのに、誰かが白岩山640mと上書きしたようですね。でも、白岩山はここの北北西のなだらかなピークのことだと思います。そこがおよそ640m。白石山って何? 白岩山の別名なんでしょうか? 僕には分かりません。
そこで奥多摩の山のバイブル宮内敏雄著『奥多摩』を調べてみました。そこでは「タルクボノ頭から東するとすぐ三角点六四二米の白石山の小尾根をけ蹴出し」とありますから、白岩山の別称なんでしょうね。
結論は山名不詳の631.7mピークだということ。12:30ころ。


▲柵は続いています。このあたりの尾根は一日中日当たりが悪いのでしょう、標高はさほど高くありませんが雪が残っています。12:33ころ。


▲右に見えている雪のない登山道が金比羅尾根の登山道。左がここまで二人で歩いてきた境界尾根の山道です。隣り合っている山道なのに、雪のあるなしが何故にこんなに異なっているのでしょう? 12:37ころ。

 
▲写真の左に見えるピークが梵天山。その隣り、中央に見えるピークが真藤ノ峰です。その真藤ノ峰の右下の谷あいに深沢集落があるのです。12:44ころ。


▲登山道に霜柱が出て来ました。雪が融けて、土にしみ込み、それが凍ってできているのでしょう。12:49ころ。


▲ほとんどが融けている尾根道の雪も日陰の山道になると、まだ少し残っていました。S子の左方に見える丸いカーブの山は真藤ノ峰。12:56ころ。


▲朝方、深沢集落を歩いているときにも、「あじさい山」や「山抱きの大カシ」の標識は見ました。いつかそちらからも登ってみたいと思います。13:55ころ。


▲日本人の習性です。富士山が見えると喜びます。14:00ころ。


▲林道と登山道が立体交差している珍しい場所。14:28ころ。


▲少し前からこうなんですが、登山道がぐちゃぐちゃの泥だらけです。さっきまでは凍っていた霜柱が標高が下がって、融けてしまっているのです。おかげで、靴底は泥まみれ。14:39ころ。


▲本当に今日の山名看板は訂正・修正ばかりですね。金比羅山の標高は何メートルなんですか? 420mと470mでは50mもの差があります! 14:46ころ。


▲金比羅山の山名標識はこの琴平神社が建っている横にあります。ここの標高はおよそ450m。14:46ころ。

ということは、この山名標識が付けられている場所が金比羅山ならば450mの標高表示であるべきです。470とか420とかの標高になるピークはこの近辺にはありません。
つまり、金比羅山の場所はいったいどこなのか? そこに集約されるようです。ここからは300m以上離れた468mピークが金比羅山なのか、それともこの琴平神社があるところが金比羅山なのかどちらかでしょう。


▲眼下には武蔵五日市の街並み、その向こうには秋川や昭島や立川、さらに先には東京の都心部も見えているはず。家で写真を拡大して見てみると、我が家のある団地も写っていました。14:50ころ。


▲金比羅山山頂付近はサクラやツツジやツバキなどの花木が植えられ、公園になっています。僕が来るのはいつも花のない時季ばかり。そのうちお花見にも来てみたいものですね。15:00ころ。


▲あきる野市役所五日市出張所に立ち寄ってみました。二階の展示コーナーではあきる野市ゆかりの人物が紹介されていました。16:00ころ。
なかでも五日市生まれの萩原タケを詳しく紹介しています。明治6年(1873年)に生まれ、20歳の春に日本赤十字社看護学校に入学。その後、数多くの災害・救護派遣に携わり、1900年の北清事変では看護婦長となり、フランス兵をはじめ多くの外国人を救護、その献身的看護を評されフランス政府からオフェシェー・ド・アカデミー記章を贈られました。
その後も国内外で活動を続け、1920年には第1回フローレンス・ナイチンゲール記章が授与されたのです。

五日市憲法と言い、萩原タケと言い、五日市の町にはただの山里ではない歴史と文化が根付いた土地柄だったのでしょうね。


▲展示コーナーの一角には映画『五日市物語』もありました。ひとりの女性が五日市の町や人々と深く関わりを持っていく中で、五日市の魅力をさりげなく紹介するそんな内容の映画になっています。あきる野市のHPでは平成23年に立川シネマシティで公開されたことになっていましたから、僕とS子はそのとき観たはずです。16:01ころ。


▲五日市出張所を出ると、萩原タケの胸像が立っていました。胸像下のプレートには「人道のために国家のために」と刻まれています。この言葉は萩原タケがヨーロッパ滞在中に訪れたナイチンゲールから贈られた言葉なのだそうです。16:09ころ。

今日は短いハイキングでしたから、以前から気になっていた場所を山の前後に訪れました。こんな山行もいいものですね。

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