ザイルと焚火と焼酎と

ザイルを使う登山にちょっぴり憧れ、山中に泊まると焚火を囲み、下山後は焼酎でほのかに酩酊。いい加減なのんびり登山の日記です

深沢林道最奥から稜線へ登って、金比羅尾根をのんびりと下山しました

2016年11月10日 | ハイキング/奥多摩

2016/10/21  前回、2ヶ月ぶり以上のブランクがあったS子の山歩きでした。そのブランクの割にはS子にはハードだったようです。山行後、腰痛が出てしまいました。腰痛自体は時折あるのですが、今回の山行では無理は出来ません。様子を見る軽めの山行になります。

H樹さんも参加できることになりました。H樹さんにこの深沢地域のことを知ってもらいたかったこともありましたし、駅からすぐに歩いて行ける気軽さもあって、深沢へ行くことにしました。
深沢を経由するルートもいくつか考えられるのですが、行ってみたかったルートの中で短めのコースを選んだのです。

朝も超のんびりなスタートでした。武蔵五日市駅を11時前ころに歩き始めます。


▲穴澤天神社のすぐ先にこんな看板がありました。初めて見る看板です。この辺りは確かにいろいろと見どころがたくさんありますね。11:28ころ。


▲紫陽花の花が咲いていました。遅咲きなのでしょうか? それともずうっと咲き続けていたのでしょうか? 他にもあちらこちらでたくさん紫陽花は咲いていましたよ。11:29ころ。


▲モミジの木です。色づきが始まっていました。11:31ころ。


▲深沢屋敷跡の入り口です。H樹さんには是非ここを見て欲しかったのです。12:01ころ。


▲深沢家旧宅母屋自体は別の場所に移築され、ここにはありません。この土蔵だけが残っています。あきる野市教育委員会の解説では「昭和四三年、東京経済大学教授であった色川大吉氏らが既に朽ちかけていたこの土蔵を調査し、二階から箪笥や行李、長持などの中にぎっしりと詰まった古文書約一万点を発見しました。草案は今にも壊れてしまいそうな行李の中に、古びた小さな風呂敷に包まれて眠っていました。起草から約九〇年を経た夏の日のことでした」と書かれています。この「草案」こそが「五日市憲法草案」です。
「五日市憲法草案」とは「明治一三年に深沢権八を中心に結成された学習結社五日市学芸講談会の有志と、宮城県栗原郡白幡村(現栗原氏志波姫)に生まれ、五日市勧能学校の教師としてこの地を訪れていた千葉卓三郎が中心となって明治一四年に起草した、自由民権思想に溢れた私擬憲法草案です」と解説されています。
この「五日市憲法草案」は美智子皇后さまが「長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と述べられたことでも有名ですね。12:02ころ。


▲深沢屋敷跡地です。ここに母屋が建っていたのでしょう。12:03ころ。


▲最後の民家を過ぎ、深沢林道に入りました。12:13ころ。


▲セリ科の植物だということは分かりますが、名前までは不明です。12:20ころ。


▲H樹さんが教えてくれました。「あの鉄塔は耐張型だね」と。調べると、送電鉄塔には他に懸垂型があるのだそうです。懸垂型は送電鉄塔が直線的に並んでいる場所で、電線をただ吊り下げるだけの場合に用いるのだとか。地形が複雑な日本ですから、ほとんどは耐張型のようです。送電鉄塔を支点に両サイドの送電線をしっかりと引っ張っておかないと駄目だからです。12:25ころ。


▲シソ科であることは確実です。ヒメジソのようでもあり、ヤマハッカのようでもあります。僕には判別できません。12:29ころ。


▲ヤマシロギクでしょうか。12:31ころ。


▲ショウガ科の植物なのかな、と思って調べましたが違うようです。いろいろ調べると、ヤブミョウガだと分かりました。ミョウガとありますが、ショウガ科ではなくてツユクサ科だそうです。12:39ころ。


▲深沢林道もいったんは土の道に変わりました。再び舗装された道となり、お昼の休憩をとりました。山の奥に入るにつれ、林道も傾斜が急になってきます。13:26ころ。


▲とうとう林道の終点です。13:37ころ。


▲林道の終点からかすかな踏み跡が付いていました。13:39ころ。


▲そのかすかな踏み跡はしばらく進むと右の斜面へと登って行くようです。ただ踏み跡らしきものは他にも何となく見えますから、稜線に出るためにいちばん良さそうな踏み跡を選ぶ眼が必要です。13:45ころ。


▲頭上を見上げると、稜線はすぐそこですね。13:45ころ。


▲ここまで来ると、踏み跡だか何だかよく分かりません。ひたすらに上へ登ります。13:55ころ。


▲やっと稜線に出ました。13:59ころ。


▲さらに進むと主稜線に出ます。その稜線の北側は日鉄鉱業(株)の所有地のようです。北麓には太平洋マテリアルのセメント工場があるようですから、それと関係があるのでしょうか? 14:11ころ。


▲三角点のあるピークに出ました。赤い杭にはここが標高631.7mの白岩山だと書かれています。標高は確かにそうですが・・・・ 14:12ころ。


▲すぐそばの別の板看板に誰が書いたのか白岩山がこのピークの先にあり、標高は640m余であることが記されていました。僕はこちらの方が正しいと思います。ここのピークの北方約300mにあるなだらかなピークが白岩山だと思います。さらに北麓直下には白岩ノ滝もありますから。宮内敏雄氏の『奥多摩』にも白石山642.8mと記されています。14:13ころ。


▲三角点ピークから金比羅尾根に出て来ました。いま僕たちが出て来た山道には「幸神」方面と標識にはあります。真藤ノ峰、勝峰山を経て下山する集落が幸神です。僕も何度も歩いたことがありますが、しっかりと踏まれた良い道です。14:21ころ。


▲中央の山が真藤ノ峰543m、その手前の谷沿いに深沢林道がありました。14:35ころ。


▲コウヤボウキです。高野山で箒の材料だったことからこの名前になったようですね。14:44ころ。


▲山抱きの大カシから登った際にはここに出て来ました。15:04ころ。

その時のブログはhttp://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/55d9c26c929582d5ed27b052585ad5c6
http://blog.goo.ne.jp/1940sachiko/e/4d7f2fcf8adcf6bf9f7d176f00e69377
を参照してください。


▲途中、細い林道が交わっている場所がありました。ルートを間違わないようにとの配慮でしょうか、簡単なルート図がかけられています。そこに「修験道」の言葉が。調べても分かりませんでしたが、この金比羅尾根と修験道とが何か関係があるのでしょうか? 確かに、琴平神社や御嶽神社があるのですが。15:13ころ。


▲下の林道の切株なのか杭なのかに、キノコが生えていました。15:18ころ。


▲ここを右に降りれば横根峠を経て、十里木や養沢方面へつながっています。15:20ころ。


▲山道が林道の上を橋で越えて行きました。15:33ころ。


▲ここで山道が三分されます。右へ行っても左へ行っても武蔵五日市駅へは行きますが、右は金比羅山方面となっていました。僕たちは真ん中の道を行きます。15:58ころ。


▲真ん中の道は「イナカブ岩 巨岩の群」があると書かれています。15:58ころ。


▲巨岩が出始めました。15:59ころ。


▲巨岩群を右に左に抜けていきます。15:59ころ。


▲登ったり下りたりもします。16:02ころ。


▲落ちないように慎重に。16:03ころ。


▲石の祠が置かれた場所に出て来ました。ここが最後の巨岩です。16:03ころ。


▲琴平神社の横にこの山名標識が掲げられています。この場所の標高は440~450mです。468mピークはこの北西250mほどにあるピークのことでしょう。でもそこは金比羅山らしい雰囲気は全然纏っていません。昭文社の地図にも468mピークを金比羅山としてあります。
でも、僕は先ほどのイナカブ岩付近が金比羅山だと考えています。だからその巨岩群を背にして琴平神社が建っているのだと思うのです。16:05ころ。


▲琴平神社。16:05ころ。


▲深沢での紫陽花も狂い咲きでしたが、このツツジもそうですね。ただ、ツツジは少し暖かい天気が続くと、すぐに狂い咲きしますよね。16:19ころ。


▲色は違うのですが、マスタケにそっくりです。16:25ころ。


▲ここにも狂い咲きのツツジが。16:30ころ。


▲山から下りて、五日市の里を歩きます。16:35ころ。

ちょうどいい時間帯での下山になりました。馴染みの『音羽鮨』に入り、3人で下山の打ち上げ。
S子も今日くらいの歩きなら腰はまったく問題ないようです。


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