「若鮎橋」からスタート。正面奥に「子持山」。
この先、「子持山」が目立つ歩きとなります。
最寄り駅はJR。前回からJR上越線が頼りの「利根川」歩き。今回は、「白井宿」に立ち寄っため、距離はかせげません。
快晴ですが、「上州空っ風」が冷たく感じます。
「大正橋」。
ちょっぴり赤城山が。
「利根川自転車道」は、この先、左手の「吾妻(あがつま)川」沿いに進み、「吾妻川公園」で終点(起点)となります。
久喜市栗橋からここまでほぼ「利根川自転車道」(67.7km)を歩いてきましたが、ここでお別れ。
「吾妻川公園」(「Wikipedia」より。
流れは「利根川」ではなく、「吾妻川」。
「上越線」をくぐるため、「国道17号線」へ。さらに右折して、利根川に向かい、「吾妻川」に架かる「落合橋」へ。
「落合橋」から。
「吾妻川」と「利根川」との合流地点。
「吾妻新橋」(「国道17号線鯉沢バイパス」)。
「吾妻川」。
「榛名山」。
「上越線鉄橋」方向。
この装置は? 「Wikipedia」で上空から見ると、船の形をしている。
周囲を厳重に金網で囲んでいる。
「国道17号線」に戻ります。
遠くに「子持山」。
「白井下宿」交差点。ここを左折。
案内板。
その手前のおうち。ピラカンサが見事。
「白井宿」。常夜燈。
中世、子持村白井には白井長尾氏の居城白井城があり、近世初頭には本多・戸田・西尾・本多などが入った白井藩が置かれたが、寛永元年(1624)廃藩となり以後幕府領に組み込まれた。 江戸時代子持村の南部・西部を三国街道が通り、北牧・横堀は宿として、又白井は六斎市の立つ市場町として栄えていた。 白井は利根・吾妻郡地方と中毛地方の物資交流地で、利根川左岸への渡河点でもあり、白井藩廃藩後の寛永元年(1624)以後5日・10日を市日とする六斎市が立てられた。白井は道路中央に悪水処理の排水路があり、この水路に沿って共同井戸があった。 寛永11年(1634)の名寄帳によると、西町・東町と大ざっぱに区画され、その後新田町・八軒町・上ノ町・中ノ町・下ノ町と整備されている。南北路の道幅は、北端で8.7メートル、南端で8.3メートル、中央の最高幅員は20.15メートル。真ん中に悪水を処理した溝があり、町の長さは945メートルであった。 町の地割りは南北の主要道を挟んで,道路に直角に短冊形に設定されていて、東側は長く、西側は城郭の役目をした段丘に制約されて短い。地割りは3間幅から最高36間幅まであり、5間幅・6間幅・7間幅が最も多い。 利根川の河岸段丘にある為、地下水は低く飲料水の確保には苦労を極めた。 元禄13年(1700)の村明細帳では、火山灰土で水田に向いてないため全て畑であった。同年の家数は150・人数749。安政6年(1859)横浜開港以後は繭・生糸の生産が活発になり、活発に取引が行われた。 前述のように白井は宿場町でないのに、白井宿と呼ばれている。寛永元年(1624)の廃城後は城下町から市場町になったのだが、町並の形態は宿場町そのもので、街道の真ん中に宿場町特有の用水路まであったためだろうか。 町並は明治31年の大火後に建てられた家屋が多く、古い家屋は少ないが、道路中央に流れる用水路が当時の町並を彷彿とさせているようだ。そんな中で一部であるが土蔵造りの家屋も残り、共同井戸や路傍の石造物など、昔の佇まいを今に残していた。 群馬県の歴史散歩 山川出版社 群馬県高等学校教育研究会 1998年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63 群馬県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1987年 |
(「」HPより)
※「六斎市」(ろくさいいち)
六斎日は1か月のうち8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日で、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称した。
六斎日にちなんで月に6回行われる定期市を「六斎市」(ろくさいいち)と呼ぶようになった。室町時代ころから行われるようになったといわれ、月に3回行われるものは「三斎市」(さんさいいち)と称される。六斎市が行われる日は、例えば2と8が付く日(2日・12日・22日と8日・18日・28日)など定期的な日に行われた。
応仁の乱後は六斎市が一般化され、当時の荘官や農民たちは、これらの市で農産物を売却して、貨幣を入手した。これにより、それまで年貢として領主におさめられていた農産物の多くが商人の手に渡り、商品として流通するようになった。
(この項、「Wikipedia」より)
さて、これからじっくりと見学です。
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