おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR「倉賀野」駅~東武「境町」駅。その6。(「日光例幣使街道」第1日目。)

2018-07-02 18:40:20 | 日光例幣使街道
                           (14:31)旧「下蓮町稚蚕共同飼育所」。

 「下蓮町」交差点で、左「忠治茶屋」方向から来る「県道142号線(「日光例幣使街道」)」と合流してまっすぐ進みます(「県道142号線」はここで左折となる)。
 が、雨も本降りになって「コースメモ」を取り出すのも面倒で、そのまま旧道(県道142号線)は直進すると勘違いし、右折してしまいます。晴れていれば、太陽の位置などで確認できますが、この状態では西も東もまったく見当がつきません。傘を差しても足下がずぶ濡れのまま。
 そして、しばらく進み、「下蓮町稚蚕共同飼育所」という建物のところに。
 さすがかつて養蚕の盛んだった土地柄を示す建物だと(現在は既に役目を終えてどこかの会社の倉庫となっています)思っていると、ガイドメモではまったくふれられていない建物なので、ここで道を間違えたことにはじめて気づき、それでもまだ進んでから「下蓮町」交差点へ引き返します。
 その信号機に「右 境町」という標示があります。そこで、右折。やっと本来の旧道に戻ることができました。ロスタイム約25分。
 雨は降り続ける。かといって、ここではバスなど交通手段は、なし。家並みもひっそり。「境町駅」まで歩くしかありません。
 萎える気持ちを奮い起こして、「広瀬川」に向かいます。
(15:03)

 県道は右に曲がって「武士橋」を越えますが、旧道はまっすぐ広瀬川の土手に。「武士橋」のたもとに「竹石の渡し」跡の解説板と「日光例幣使道」の案内板。


                          
竹石の渡し
 上野国の日光例幣使道の渡し場は、利根川の五料の渡し場と、広瀬川の渡し場の二ヶ所でした。この竹石の渡し場の渡船役は、主に下武士村名主がつとめ、渡船や川止めなどを管理していました。
 記録によると、舟賃は一人銭三文、荷物一駄が十二文と決められており、村が所有する舟一艘で渡しを行っていましたが、日光例幣使通行の際は、隣村から二艘の舟を借り受け三艘、荷駄積み降ろし人足二〇〇人を出して渡船役をつとめました。明和2年(1765)日光大法会や元治2年(1865)勅使である梶井宮が通行した際には、さらに多くの舟や人足が必要でした。明治に架橋され、渡し場は廃止されました。 

※「竹石」=「武士」 

「広瀬川」。

(15:09)渡り終えると、「境宿」へ。

一つ目の交差点を左に折れ、すぐに右折して細い道に入ります。これが旧道。

(15:13)右手に「乳母の懐」という案内板。
日光例幣使道「乳母の懐
 広瀬川にあった「竹石の渡し」の東詰から境宿に至る間で、境下武士の500㍍は一間幅の細い道路ですが、日光例幣使道の面影を今によく伝えています。
 江戸時代の絵図に描かれた武士村には、村の高札場がありました。現在は大きな桧が植えられていることで「一本桧稲荷」と呼ばれ、地元で親しまれています。
 例幣使が武士村を通過するのは旧暦4月12日頃でした。武士の古老の言い伝えに、お輿に揺られ居眠りをしていた勅使が、武士村との境まで迎えに出ていた境宿の町役人に起こされて「乳母の懐に抱かれていたようじゃのう」といった場所は境萩原の付近でした。

 「境萩原」はこの先を行ったところ。「高札場」はこのすぐ先。

今度は左手に「八海山」と呼ばれる築山があります。 
 この場所は、江戸幕府の公式記録である『中山道例幣使道分間延絵図』に、禁令などを人々に掲示する下武士村の高札場が示されており、また稲荷祠も記されていることから、稲荷社はそのころからありました。
 また、遠方まで出掛けなくとも信仰ができるようにと、越後三山や木曽御嶽山の修験者の霊場を分祀した築山が築かれ、八海山と呼ばれるようになりました。
 その築山に桧が植えられていることから、日光例幣使道の一里塚であったという説もありますが、正式な記録は無いため、真実は定かでありません。
 現在、この場所は、稲荷社もあることから通称を一本桧稲荷とも言われています。

 
(15:21)県道に合流し、左折します。                   来た道を振り返る。

右手に残る旧道に入る。


(15:29)「境萩原」のところで県道と合流し、右折すると「境宿」の中心部。

(15:30)りっぱな「織間本陣跡」碑。

                    
 旧例幣使街道、境宿織間本陣は寛文2年(1662)に伊勢崎藩士鶴田弥太夫の家を当地に移築したものである。茅葺き平屋建ての主屋と片袖付き門構えは古い建築様式をそのまま残しており、本陣として旧境町の町指定史跡であった。本陣跡の建物は門をくぐり大玄関を上がると9部屋を配し、広い土間(ダイドコ)や貴賓の上段の間を有した。
 上段の間から見る中庭には見事な松樹があり、来遊した江戸の学者古賀洞庵は織間本陣を蒼松軒と命名した。また文学の名をもって有名な安中城主板倉甘雨亭侯は、ここに御小休されたときこれをほめ讃えて蒼松軒の軒記を書き与えたのである。
 本陣は例幣使街道を上下する諸大名をはじめ、特に毎年4月京都より下向する例幣使や公卿門跡衆の休憩を主とした。そのとき関札と呼ばれた休憩時の札が下賜され、門前に掲げられた。
 寛政3年(1791)4月12日、小林一茶は江戸から信州へ行く途中、織間本陣の家主である俳人専車を訪ねたが不在で会うことができなかったので
ー時鳥 我が身ばかりに 降る雨かー
の一句を残して立ち去ったことが一茶の帰郷日記に書きとめられている。 


道路をはさんで斜め前には「飯島本陣跡」の標柱。

 なんとか「境町駅入口」交差点までたどりつきます。今回はここまで。駅に向かいます。

(15:37)駅に向かう右手に煉瓦造りの建物。 

                        

 次回、ゆっくりと宿内を見て回ることにします。

(15:39)東武伊勢崎線「境町駅」。

 この先は、ほぼJR両毛線、東武線沿いの歩きとなります。
                       

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