おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その5。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-10-01 18:40:18 | 日光例幣使街道

 壬生の町を出ると、田園風景が広がります。食事処は見当たりませんが。左側には用水が流れていてのどかな道筋。
 


一面の蕎麦畑。

来た道を振り返る。右手に水路。

 街道沿いに「蕎香」の看板や幟が。期待して立ち寄ってみよう、と街道からはずれて向かいます。ところが、「臨時休業」!
 
                                (12:34)残念! 街道に戻り、先へ。

杉に混じってバショウの木。 

「北関東自動車道」の高架下を過ぎると

 道の正面遠くに「男体山」が姿を見せます。けっこう見応えのある山容。
           

(13:05)その先、コンビニの隣には「金売り吉次の墓」がぽつんと。
 
金売り吉次の墓(伝説)
 金売り吉次は、鎌倉時代の始めに源義経に仕えた金売り(砂金などの売買を商売とした者)です。
 義経は平家を壇ノ浦に滅ぼした後、兄頼朝と不仲になり、奥州平泉へ逃れました。吉次は義経の伴をし、この稲葉の地まで逃れてきましたが、病にたおれこの地で生涯を終えました。里人たちにより、吉次の墓とともに吉次の守護仏である観音像を祀ったお堂(ここより約20m東に現存)が建てられたといわれています。
 また、江戸時代の「奥の細道」で知られる松尾芭蕉に随行した曽良の日記に、

「壬生ヨリ楡木ヘニリミフヨリ半道ハカリ行テ吉次カ塚右ノ方 20間ハカリ畠中ニ有」

と記されています。

 「金売り吉次」の墓は「奥州街道」・「白河」の手前にもあります。(訪問時の記録。吉次三兄弟の石塔と解説板。)

 林の中に三基の石塔。 

市指定重要文化財(史跡) (伝)金売吉次兄弟の墓 
 三基の石塔は、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられています。
 石塔は、白河石(安山岩質凝灰岩)で作られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)ですが、後世に積み替えられたため、別種の石造塔の一部が混ざっています。紀年銘などがみられず、明確な製作年代は特定できませんが、製作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されます。
 承安4年(1174)吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京都を往来する途中、ここで盗賊に襲われて殺害され、里人がそれを憐れみこの地に葬り供養したと伝えられています。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、近くの八幡宮に合祀したと伝えられています。
 石塔の石囲いは、元治元年(1864)7月の建立です。この三基の石塔は、本来の形状を完全には留めていませんが、土地の人々から「 吉次様」の墓として信仰されてきた石造文化財です。

 白河市教育委員会

「奥の細道」の頃も今も畠中(田んぼの中)。


1880年代のようす。街道の左に用水。左右が並木道。


2010年代のようす。
            「北関東自動車道」の先、コンビニの脇に金売り吉次の墓が見えます(↓)。


すぐ先に「稲葉の一里塚」が見えてきます。

左の塚。

右の塚は一部が住宅地の一角に保存されている。
 稲葉一里塚は、国指定史跡の壬生一里塚と同様に、日光道中壬生通り(日光西街道)に設けられた一里塚です。
 江戸日本橋から数えて24里目にあたり、江戸時代の古文書によれば塚の上には松が植えられていました。
[壬生通りの一里塚]
  壬生通りには、小山の喜沢から今市の間(約45km)に、次の11ケ所の一里塚がありました。
喜沢の一里塚(小山市・市指定)  ・鹿沼の一里塚(鹿沼市・消滅)
飯塚の一里塚(小山市・市指定)  ・富岡の一里塚(鹿沼市)
壬生の一里塚(壬生町・国指定)  ・小倉の一里塚(今市市)
稲葉の一里塚(壬生町・町指定)  ・板橋の一里塚(今市市)
赤塚の一里塚(鹿沼市)       ・室瀬の一里塚(今市市)
・奈佐原の一里塚(鹿沼市・消滅)

 今回の歩きでは、このうち、5つの一里塚が残されています(赤字)。

その付近から先を望む。

(13:12)右手に「鯉沼九八郎翁」の碑。

                          
 明治維新後、自由民権運動が盛んになり本県では県南を中心に運動が起こり、その一翼をになったのが下稲葉の鯉沼九八郎でした。
 明治17年(1884)、栃木県庁が栃木市から宇都宮市に移され開庁式が行われることになり、九八郎を中心とする急進的な民権論者たちは、この機に県令三島通庸をはじめ政府要人の暗殺を計画し、騒乱を起こそうとしました。しかし、失敗し自分自身も爆裂弾の暴発により左腕を失いました。また、この事件は「加波山事件」の引き金となりました。
 これにより、九八郎は投獄されますが、明治26年(1893)出獄し、その後県会議員となり「加波山将軍」とも称され県議会で活躍しました。
 九八郎は大正13年(1924)、73才をもって波乱の一生を終えました。

注:加波山事件とは (以下、「日本大百科全書(ニッポニカ)」の解説)
 1884年(明治17)9月、栃木、茨城、福島3県下の急進的自由党員が明治政府を転覆しようとした事件。
 1882年以来のいわゆる松方デフレ政策は米価の暴落と増税をもたらし、中・貧農層の急激な没落を招き、84年には最悪の状態となった。関東、東海地方では没落農民たちが借金党や困民(こんみん)党を結成して蜂起(ほうき)した。
 加波山事件は、群馬事件、秩父(ちちぶ)事件、飯田(いいだ)事件など、この年に起こった事件とともに、農民の窮乏状態を背景としていた。
 福島事件で弾圧されたのち83年4月に釈放された河野広体(こうのひろみ)、小針重雄(こばりしげお)、三浦文治(ぶんじ)らは、宿敵の福島県令三島通庸(みちつね)を暗殺しようと計画して上京した。
 10月、三島は栃木県令をも兼務することになり、ここでも早速に奥羽街道の開削と栃木町から宇都宮への県府移転にとりかかった。こういう情勢のなかで、栃木県下都賀(しもつが)郡の自由党員鯉沼九八郎(こいぬまくはちろう)らも同志を集め、83年末から政府転覆を企てて爆裂弾の製造に着手していた。この二つのグループは84年の初めに連合して三島の暗殺をねらったが好機を得ず、その後7月に東京で開かれる授爵祝賀会の際政府高官の暗殺を企てたが、会が延期されたため志を遂げえなかった。
 そこで、9月に宇都宮で行われる栃木県庁の落成式に出席予定の太政(だじょう)大臣三条実美(さねとみ)以下の顕官暗殺を計画し、茨城自由党員富松正安(とまつまさやす)らを同志に引き入れた。彼らは落成式が9月15日に行われるという情報を得、計画実行のために、一方では河野らが東京・神田神保(じんぼう)町の質屋に強盗に押し入って資金を得ようとして失敗し、他方では鯉沼が爆裂弾の製造中に誤って重傷を負った。そのうえ、落成式は延期された。
 官憲は強盗に押し入った河野、横山信六(しんろく)らを追い、下館有為館(しもだてゆういかん)に潜伏していることをつきとめた。事態が急迫するなかで、彼らはついに茨城県の加波山に兵をあげた。9月23日のことである。挙兵参加者はわずか16名であったが、専制政府の転覆を掲げた最初の挙兵であり、爆裂弾を使用した点でも初めてであった。
 同志は各地で逮捕され、富松、保田駒吉(やすだこまきち)、琴田岩松(ことだいわまつ)、小針、杉浦吉副(きちぞえ)、三浦、横山の7名が死刑、河野ら7名が無期徒役(とえき)、ほか戦死1名、公判前死去1名であった。[後藤 靖]

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