おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

「天平の丘公園」。その5。「万葉歌碑」、「平成の丘」・・・(「日光例幣使街道」番外編。)

2018-10-15 21:30:51 | 日光例幣使街道
    「明日香川」に架かる「子宝橋」を渡って広場に出ます。ヒカンザクラが咲き始めています。
                

咲き満ちて なほ咲く桜 押し合へる 剛一

今瀬 剛一(いませ ごういち、1936年9月15日 - )
 茨城県出身の俳人。少年時代の1944年、父の生地である茨城県小松村(現・城里町)に疎開し、以後同地に住む。1959年より高校教諭として勤める。1961年、「夏草」入会。1971年、「沖」創刊とともに参加し能村登四郎に師事。1975年、沖賞、1979年、茨城文学賞受賞。1986年、「対岸」を創刊・主宰。2008年、句集『水戸』により第47回俳人協会賞を受賞。他の句集に『対岸』『約束』『高音』『仲間』『新船』『地力』など、俳書に『芭蕉体験・三冊子をよむ』『能村登四郎ノート』などがある。俳人協会副会長、日本現代詩歌文学館評議委員、大子町観光大使などを務める。日本文藝家協会会員 日本ペンクラブ会員。NHK俳壇講師なども務めていた。俳人の今瀬一博は息子。


「明日香川」。山上憶良の「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」にあやかって、順に「銀橋」、「金橋」、「宝橋」、「子宝橋」があります。


川のほとりには「犬養孝先生 万葉歌碑」。



                            

下野火長 物部真嶋
麻都能氣乃  奈美多流美礼波  伊波妣等乃  和例乎美於久流等  多々理之母己呂

松の木の 並みたる見れば 家人の 吾れを見送ると 立たりしもころ


(訳)松の木の並んでいるのを見ると、家の人達が私を見送って立っているようだ。

 防人として九州・太宰府に赴く途次、松並木を見る度に、見送ってくれた家人との別れの情景を思い浮かべ、故郷・下野にいる家族への思いをいっそう深くする。 

防人(さきもり)
 646年(大化2年)の大化の改新において、即位した孝徳天皇が施政方針となる改新の詔で示した制度のひとつである。
 663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された。「さきもり」の読みは、古来に岬や島などを守備した「岬守」や「島守」の存在があり、これに唐の制度であった「防人」の漢字をあてたのではないかとされている。
 大宝律令の軍防令(701年)、それを概ね引き継いだとされる養老律令(757年)において、京の警護にあたる兵を衛士とし、辺境防備を防人とするなど、律令により規定され運用された。中国同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。大宰府がその指揮に当たり、壱岐・対馬および筑紫、肥前の諸国に配備された。
 当初は遠江以東の東国から徴兵され、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かったと考えられている。徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。
 ・・・
 院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、10世紀には実質的に消滅した。
 防人が東国から徴兵された時期、その規模は2000人程度を数えた。

『万葉集』には、こんな歌も残されています。

韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母なしにして
(訳)すそにすがりついて泣く子どもを置いてきてしまったなぁ。母親も(死んでしまって)いないのに。
 
林の中にある小高い丘は、
 
                             オトカ塚古墳 古墳時代後期6世紀後半に築造された帆立貝形前方後円墳。

 前方に芝生の小高い丘が見えてきます。
「平成の丘・国見山」。

 空撮では「前方後円墳」の形をしています。
 
 「解説文」によれば、この土地の西側は谷筋のため、耕作地としては適せず、植林もしにくい所だったようです。そのため、誇れる町の子孫に残さんとして古墳の形を擬した。さらに、小金井区画整理事業の残土を運んで谷を埋め、頂上を国見山と呼んだ、とのこと。
 また、筑波山より双石を移し、その石の下にはこの地より発掘した五百年前の古銭を埋めて「銭成石」と名付けたようです。

銭成石の鳴き竜
 平成2年7月20日、この塚の造成中に地下に眠っていた渡来銭、開元通宝など59種12,441枚が出土した。
 この塚の銭成石の下に古銭百枚が埋めてある。階段下の石畳にある白線の上で拍手をすると鳴き竜がする。

 確かに辺りに響くようないい音がします。頂上にある解説文では、「銭成石」とは「銭鳴石」とのことです。

「サルスベリ」。右下に「銭石」。

渡来銭及び常滑壺
 この渡来銭は、天平の丘公園整備工事中に発見されたものです。出土した渡来銭は合計12,441枚で、唐の開元通宝(初鋳621年)から明の宣徳通宝(初鋳1426年)までの59種類で、中国の北宋・南宋時代のものが約77%を占めています。埋められた年代は、宣徳通宝の初鋳年から考えて、遅くとも15世紀前半の室町時代中期と考えられます。この渡来銭が入っていた壺は、器高41cmの常滑焼(愛知県知多半島)で、中世の六古窯のひとつとして有名です。この壺の生産年代は15世紀前半から半ばと推定されます。
(「」HPより)

南を望む。

西を望む。急な谷になっています。

2010年代のようす。公園として整備されています。

1970年代のようす。公園が造成される前。

 関連する万葉歌。
君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く 額田王

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉(あきつ)島 大和の国は 舒明天皇 

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