おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

喜沢追分(JR「小山」駅)~楡木追分(東武「楡木」駅)。その6。(「例幣使街道・壬生道」をゆく。)

2018-10-02 19:48:55 | 日光例幣使街道
                            先に進みます。
小さな祠の前に大きな鉄釜? 

その先、左手奥には酒造会社の煙突らしきもの。廃業に? 

これまでの街道筋で見かけた「馬力神」が。

これもよく見かけるカエルの置物。

こちらは「馬頭観音」。

御殿のようなおうちも見かけます。


遠く正面に「「男体山」(↓)。すっかり晴れてきます。

(13:52)「七ツ石伝承館」案内。
どういう内容の「伝承」なのでしょうか? ところで、
地名の由来
 七ツ石地内にある伊邪那岐命を祀る熊野神社の伝説にちなんでおり、神社の傍らにある丸い石が7度鳴動して現出したという。また、鎌倉時代に日蓮一行7人が布教のためこの地を訪れた際に道端の7つの石に腰を掛け休憩したことから名づけられたという説も伝えられる。(「Wikipedia」より)

先に進みます。

正面に見えていた「男体山」が左手の田んぼ越しに。

(14:03)「鹿沼市」に入ります。

かなり大きな自然石の「馬力神」。

田んぼの向こうに「男体山」。

これは親子のカエル。

しばらく進むと、田んぼの中に「前方後円墳」。

                        
判官(はんがん)塚古墳」。
 判官塚古墳は、南流する黒川と思川に挟まれた台地上に位置している前方後円墳です。市内には数多くの古墳がありありますが、大正年間の耕地整理の際に、付近にあった十数基の小円墳が壊されましたが、この古墳は、それらの群集墳(判官塚古墳群)の中心墳でもあります。
 ・・・古墳時代後期のもので、7世紀前半につくられたものと思われます。
 石室は、後円部にあって南に面して開口しています。両袖型の横穴式石室は全長5.9㍍ですが、現状は羨道(入口)が土砂で埋まっていて、中へ入ることはできません。
 この古墳は、源九郎判官義経の冠を埋めたので冠塚(かぶりづか)と呼ばれ、また、判官の名前をとって判官塚古墳というなど、いくつかの伝説を秘めています。

(14:23)さらにその先に今回最後の「北赤塚一里塚」。

                                

 
「江戸から25里目(約100㎞)」。

塚の西側には「馬頭観音」などの石仏群。 


その先で、本日最後の杉並木に。
   



振り返って望む。 

(14:45)「東北自動車道」をくぐると、「楡木の追分」もいよいよ間近に。
  

左手にこの前歩いた「例幣使街道」の家並みが見えてきます。 

新しく整備された並木道に。

前方に「追分」の道路標識が。  

合流して日光へ向かう道が見えてきます。いよいよ今回のゴール。

(14:56)追分の道標。「右中山道 左江戸道」。

「例幣使街道」を望む。

 ここまでで、「壬生通(道)」歩きは完了。「倉賀野~楡木」(例幣使街道)と「小山~楡木」(壬生通・道)が合流。さらに、下今市で「江戸~日光」(日光道中)と合流して日光・神橋へ。

 これで、「日光道中」(「日本橋」~「日光」)、「日光御成街道」(「本郷」~「幸手」)、「例幣使街道」(「倉賀野」~「楡木」)「壬生通・道」(「小山」~「下今市」)と日光社参にかかわる街道歩きは完結。

 が、実は、まだ日光にまつわる街道があります。「千人同心街道」(「西八王子」~「佐野」)。次回はこの道を歩いてみようかな、と。

 15時10分発の上り電車に乗るため、「楡木駅」へ急ぎます。
(15:06)東武日光線「楡木」駅到着。ぎりぎり間に合いました! 

鹿沼・日光方向。 

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