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金谷宿近江屋の手紙四通 その3前半 - 古文書に親しむ

(庭のシモクレン満開)

3通目の手紙はいささか長いので、前後半2回に分けて掲載する。この六郎さんからの手紙3通が、何時出されたものなのか、解る記述がこの手紙の中にある。

手紙に、一橋様の上洛後、上様の上洛が続くように書かれている。徳川家茂の初上洛は文久3年の3月で、徳川将軍が上洛するのは229年振りのことであった。その露払いとして、一橋慶喜(後の15代将軍)が上洛しているが、慶喜はその後、ずっと京に滞在しているから、将軍の露払いはこの時だけである。

従って、この手紙の日付は文久2年(1862年)の暮れ12月と考えられる。明治維新の6年前、世の中が騒がしくなっていて、物価の値上がりが続いていた。

この手紙にはネズミが齧ったような跡があり、欠落が見受けられるが、前後関係から大胆に推定して読んで行く。

厳寒の節、益(ますます)健安欣懌奉り候。留主中何角(なにかと)御厄介相願い候義にこれ有るべく、有り難く存じ奉り候。最早時分柄、差迫り、嘸々(さぞさぞ)繁火(華)、殊に御供方御通行にて、日々御通りと、遙察仕り居り候。
※ 健安(けんあん)- 健康で平穏なこと。
※ 欣懌(きんえき)- 喜ぶこと。欣喜。欣悦。
※ 繁火(はんか)- 繁華。人が多く集まり、にぎわっていること。
※ 遙察(ようさつ)- はるかに思いやること。書簡でよく用いる語。


今朝もさる筋へ御伺い候所、当月廿七日御出城と、一旦仰せ出され候所、又々御先供の分、来る正月二日立ちと相成り候間、上様にも、春の御出城に相違これ無し、との御事に御座候。
※ 上様(うえさま)- 第十四代将軍徳川家茂。

今般、御上洛に付、一宿金三百両ずつ、壱ヶ年、延べ三ヶ年賦にて御渡しに相成り候よし、定めて相廻り候義と存じ奉り候。一橋様御上りにて、御手当これまた去る暮れ御上りの節の分よりは、多分のよし、御入手相成り候義に存じ奉り候。人馬五倍□□御渡残金も宿方の分、七百両余□□□御下げ相成るべき候よし。もっとも助郷へ多く、割り合い申すべき義に候えども、先ず以って、有難き事に御座候。
※ 一橋様(ひとつばしさま)- 後の十五代将軍慶喜。

右は昨廿一日、京屋弥平へ御渡しに相成り候よしにて、多分、暮の間に合い候様には、御下げこれ有るべく存じ奉り候。飛脚便にては、御代官様御指し合い、弐拾六、七両、飛脚賃に御損相立て候よし。しかし、宿(しゅく)の難儀、御救いの御趣意に付、御損を厭わず、暮れの間に合い候様にとて、御差し立て相成り候との御咄しに御座候。
※ 京屋弥平(きょうややへい)- 飛脚問屋。
※ 指し合い(さしあい)- さしさわり。

(この手紙、明日へ続く)
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金谷宿近江屋の手紙四通 その2 - 古文書に親しむ

(散歩道のスズランスイセン)

午前中、女房の在所のお墓参りに行く。今日は彼岸の中日であった。5月に義父の七回忌を行なうと聞く。もうそんなに経つのかと、改めて思う。

近江屋の2通目の手紙には、江戸で調達予定の品々が例示されている。近江屋は旅籠と薬屋だったというから、それぞれ商売ものではない。江戸に行くならついでにと、色々なものを買ってくるように頼まれている。六郎さんの本来の用件は何だったのか。それは三通目の手紙をみると、推定できる。

甚寒、益(ますます)安健喜び述べ奉り候。
※ 安健(あんけん)- 安らかで健やかなこと。

然らば、先便も申し上げ候通り、当表へ久々にて出張致し、見候所、諸色存外の高直にて、先ず、なくて叶わざる品、雪駄、下駄、傘などは直(ちょく)に相求め候所、平の下駄壱足、金弐朱と弐百文、誠に呆れ申し候。安き品々一度にて積み候様、成品ばかりにて、これ程高くても買い候様、相成り候。
※ 成品(せいひん)- 既製品。

その外、御支配様御注文物、並び一同の御頼みなどにて、金七両余の取り替し相成り、龍吐水も調え申したく候えども、最早、懐中空嚢に相成り、実に当惑仕り、殊に臨時も存外相掛り候に付、何とぞ早々金子差し下し下さるべく候。

当暮の所は、御指し合い須く御察し申し上げ居り候間、実に御気の毒には候えども、遠方出張にては、金子のみが便りにて、空手にては一日も居られ申さず、もっとも原叔父、只今にては少々の貯えは持ち居り候間、弐拾両や三拾両は、急場繰り替えも出来候えども、暮に差し迫り候事ゆえ、長く借金をも計り申さず、何分御勘考下さるべく候。
※ 指し合い(さしあい)- さしさわりがあること。
※ 須く(すべからく)- 当然。
※ 空手(くうしゅ)- 手に何も持っていないこと。
※ 繰り替え(くりかえ)- 振り替え。
※ 勘考(かんこう)- よく考えること。思案。


御使い間のしくじりわび、忠郎よりこそにも、余程相掛り申し候。御察し下さるべく候。脇差、柏屋殿へ御歳暮に差し送り申し候。御一覧下さるべく候、以上。
※ 柏屋(かしわや)- 金谷宿一の本陣。(一応、柏屋と解読したが、確証はない。固有名詞は解読に難しい。)

   十二月十日夜、紅屋     六郎

     左一郎兄契 御許
※ 兄契(けいけい)- 義兄。
※ 御許(おんもと)- 書状の宛名の左下に書き添えて敬意を表す語。「侍史」「机下」「御中」などがある。


   尚々
※ 尚々(なおなお)-(手紙などで)付け加えて。なお。(書き足す部分を「尚々書」という)ここでは、「尚々」とは書かれているが、そこで終わっている。
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金谷宿近江屋の手紙四通 その1 - 古文書に親しむ

(裏の畑のボケの花)

「古文書に親しむ」講座の、今年度最後の講座2月と3月で、金谷宿近江屋の御子孫から出た、手紙4通を解読した。手紙の解読は難しいけれど、古文書解読をやっておれば、避けては通れないものなので、敢えて最後に挑戦した。

その中3通は、近江屋のおそらく番頭さんが江戸から出した手紙であった。年末に、色々と頼まれて、買い付けに行ったところが、世は幕末であらゆるものが値上がりして、用意したお金ではとても目的が達せられない。そこで、送金の催促をした手紙で、年末が近付いて気が急くのであろう、立て続けに3通出したものである。

一筆啓上仕り候。甚寒の節、益々御安全欣仰奉り候。随って、少子無事罷り過し候。御放念下さるべく候。
※ 欣仰(きんぎょう)- よろこびあおぐこと。
※ 少子(しょうし)- 末子。(自分のこと)
※ 放念(ほうねん)- 気にかけないこと。心配しないこと。


然らば、先日も一同への書中、定めて御覧下さり候義と存じ奉り候。段々日々夫々、廻勤致し弥(いよいよ)当五日、御奉行所へ御差出し相成り申し候。御安心下さるべく候。この度の願いは村々より一札受取り候義、大いに都合に相成り、多分相貫き申すべく存じ奉り候。
※ 都合(つごう)- やりくりをすること。

さて、御注文物なども、中々未(いま)だ相整え候隙(ひま)、少しもこれ無く、決して等閑(なおざり)候義には御座なく候間、宜しく御察し下さるべく候。この節は火の元大廻りも御加勢御座候よし、御苦労の至り存じ奉り候。龍吐水買入れも手立て仕り候。
※ 龍吐水(りゅうどすい)- 消火用具の一。箱に入れた水を手押しポンプで噴出 させる装置。

さて出立候節、申し上げ候入用の義、見込候ては日々信約いたし候わば、左程の事もこれ有るまじくと存じ、罷り出で候所、毎物高直の上、願い向きに御廻勤の方々、存外の相場にて、殆んど当惑、驚き候ばかりに御座候。もっとも日々の暮し明しは、極く手堅(てがた)に相慎み居り候間、その段は御安心下さるべく候。
※ 信約(しんやく)- 約束。誓約。

右に付、廿日前までの内、是非金弐拾両御下(くだ)し下され候様、仕りたく、何分にも出先空嚢にては、諸所内願の働き出来難く候間、正味御下し下さるべく候。国元にての了簡とは、大相違の義にて、呆れ果て申し候。
※ 空嚢(くうのう)- 財布がからであること。からの財布。
※ 了簡(りょうけん)- 考え。気持ち。思案。


黒田より頼み状も、出立前失念仕り候。何とぞ壱通、御認めさせ、御遣わし下され候様、願い上げ奉り候。近日の内、安平相返し申すべく、その節、委細申し上ぐべく候、以上。
※ 黒田より頼み状 - 後の手紙を読むと解るのだが、この頼み状は江戸でお金を出すように依頼した、多分為替に当るものと思われる。
※ 失念(しつねん)- うっかり忘れること。


  十二月六日             六郎

  左一郎様

尚々、御家内様御一同へ、宜しく御伝言下さるべく候。留主宅の義も、何分よろしく願い上げ奉り候、以上。
※ 留主(るす)- 留守。
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道聴塗説 その七 2

(散歩道のカラシナ)

午後、「古文書に親しむ(経験者)」に出かけた。近江屋への手紙2通を読み、今年度の講座を終る。一年目は何とか終えることが出来た。2年目も同じ顔触れだが、続けて行く。

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「道聴塗説 その七」の解読を続ける。

答う。口伝鈔の意は、初心の機の、臨終など悪相あらん事を危ぶみて、本願の強縁を疑うものに対して、凡計のありたけの障縁を挙げ、それにもさえ(添え)られざるは、他力の不思議なる事を示し、往生を決定せしむるなり。

かく仏知の不思議を信じて、安心決定して念仏する人は、愛別離苦等の悲歎もなく、往生浄土の果報近付くを、歓喜して念仏すること、かの覚信房の如し。然れば、臨終に至りて、妻子など引裂くるなどは、その往生する人の信心の浅深によるべし。決定心得たる人は、恩愛離別の障りもあるまじ。初心の人は過つことあるべし。
※ 恩愛(おんあい)- 夫婦・肉親間の愛情。また、それに対する執着。

口伝鈔の次文に、「別離等の苦に遇うて、悲歎せん族(やから)は、仏法の薬を勧めて、その思いを教誘(きょうゆ)すべき事」とある。一章によるに、これは往生の人に非ず。跡に残りし人の、死したる人を悲しむなり。されば、その悲歎する人をば、種々に諭して、悲歎の惑(まど)いも晴るゝようにすべしと示し給う。この意にて見れば、死に臨む人の恩愛などに引かれて悲歎せんをも、種々に諭して、惑いを解くべし。

何にもせよ、初心の人は死に臨みては、かかる悲歎あるべしと思えども、本願の強力は少しも障(さわ)られずして、往生すと信じたらば、大悲の仏恩を存じて念仏すべし。かく念仏するほどならば、臨終の悲歎の惑いも、仏智不思議の方より、除き給いて、めでたき往生を得べきなり。

さもなからん、初心の機、その惑いも見えたらば、跡に残る人を弔(とむら)う如くに、種々に法味を説いて、悲歎を除き、往生を喜ぶ様に勧むべきなり。ただに本願を募りて、悪に誇るは流義の旨に非ず。逆謗闡提、皆な往生すと募るは、仏智を信ずるなり。もし悪を募りて本願を頼みにするは大邪見なり。
※ 法味(ほうみ)- 仏法の深い味わいを、食物の美味にたとえていう語。
※ 募る(つのる)- ますます激しくなる。こうじる。
※ 逆謗闡提(ぎゃくぼうせんだい)-五逆謗法闡提の事です。これを「難化の三機・難治の三病」とも言う。
※ 五逆(ごぎゃく)- 五種の最も重い罪。一つでも犯せば無間地獄に落ちると説かれる。
※ 謗法(ほうぼう)- 仏法をそしり、真理をないがしろにすること。
※ 闡提(せんだい)- 一闡提。仏法を信じることなく、成仏の素質を欠く者。
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「当丑御仕法帳」、会長講義  駿河古文書会

(散歩道のツクシ)

午後、駿河古文書講座で静岡へ行く。今日は、年一度の川崎会長の講義である。演題は「旗本財政について、天保十二年二月、『当丑御仕法帳』と百姓らの訴え」

ここで取り上げた「御仕法帳」とは、清水と焼津の一部の村々を主たる知行とした、旗本大久保氏が領民に向けて出した、一年間の予算書のことである。一年間の収納米(年貢として集める御米)が合せて5900俵。その内訳として、

     御膳米并御家中飯米      1000俵
     御納戸御入用振向米       550俵
      (但、御奥様、御子様方御雑用、呉服代共見込)
     新御殿清之進様・伊郷院殿御分米 500俵
     ‥‥‥‥

などと、16項目にわたり内訳が並んだ書類である。旗本は知行の領民に、こんな書類を出していたとは驚きであった。

さらに驚かされのは、その予算書に対して、領民から28ヶ条の願書が出されていた。天保の改革に伴う倹約令が出されている時に、それに準じ「御減方」を各条に渡って願うという願書であった。それぞれの項目について、それぞれ意見を述べ、入用の半減などを求めた文書であった。

例えば、御飯米は「御膳米并御家中飯米」千俵と定めているが、五百俵にしてほしい。御納戸金は格別掛からないので減らし、御三方様も150俵減じ、これを御仕法に加えてほしいなどと、細かく意見を述べている。この願書は庄屋、組頭ではなくて、百姓代、長百姓名で出されている。庄屋、組頭は、半分支配側に立って村政にたずさわっているので、名前を出すのを遠慮したのだろうと思われる。

この「御仕法帳」は清水から出た古文書で、「28ヶ条の願書」は焼津から出た古文書である。たまたま、それぞれを川崎氏が見つけたものだという。それぞれ似た文書は、バラバラではいくつか発見されているが、その両方が見つかり、照合出来たのは初めてのことだという。

江戸時代の支配関係を、もう一度見直すべき古文書だと、驚きをもって講義を聞いた。

最後の質問で、「御仕法帳」はいわばP/Lであるが、B/S、つまりバランスシートに当たるものは無かったのか、と言うものがあった。講師と話が食い合わず、うやむやに終わったが、専門外の学者にP/L、B/Sと質問しても無理だろうと思った。もちろん、バランスシートがあれば、借金の内訳なども解って、より旗本の財政が解ると思うが。自分が持っていて、解読順を待っている古文書(コピー)の中に、武家の借金の明細表のようなものがあったが、借金の管理はその程度の書類で行われていたのだろうと思う。

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家へ戻ってから、しばらく置いてあった「はるみ」二株を畑に植えた。そういえば、植えた後、水をやっておくのを忘れていた。明日、忘れずにやろうと思う。

読書:「吾輩のそれから」 芳川泰久 著
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道聴塗説 その七 1

(散歩道のコメザクラ)

散歩道に、コメザクラが咲きだした。ソメイヨシノの咲き始めるにはまだ一週間ほど掛かりそうだと、ニュースは報じていた。

午後、掛川文学鑑賞講座で掛川に行く。今年度最後の講座で、今日は「渋沢栄一」がテーマで、彼を扱った歴史小説が数冊紹介された。来年度の受講の申し込みもしてきた。来年度のテーマは、「井上靖」である。彼も静岡県にはゆかりの多い作家である。

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今日より「道聴塗説 その七」の解読を始める。

その七
一 問う。口伝鈔に、「されば常の人は、妻子眷属愛執深きをば、臨終の際には、近付けず見せんと、引き裂くる習いなり。それと云うは、着相に引かれて、悪道に随(ずい)せしめざらんがためなり。この条、自力聖道の常の心なり。
※ 眷属(けんぞく)- 親しく従う者、妻子や従僕をいう。
※ 愛執(あいしゅう)- 愛するものに心がとらわれて離れられないこと。
※ 着相(ちゃくそう)- 特定の物事に心がとらわれている状態。
※ 聖道(しょうどう)- 仏の教え。また、悟りを開く道。仏道。


他力の真宗には、この義有るべからず。その故は、如何に境界を絶離すと云えども、保つ処の他力の仏法なくば、何を以ってか生死を出離せん。仮令(たとい)妄愛の迷心深重なりと云えども、これがために、設けられたる本願なるによりて、至極大罪の五逆謗法等の無間の業因を重(おも)しとまし、まさざれば、まして愛別離苦に耐えざる、悲歎にさえ(添え)らるべからず。
※ 出離(しゅつり)- 迷いを離れて解脱の境地に達すること。
※ 五逆(ごぎゃく)- 五種の最も重い罪。一般には、父を殺すこと、母を殺すこと、阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけることをいい、一つでも犯せば無間地獄に落ちると説かれる。
※ 謗法(ほうぼう)- 仏法をそしり、真理をないがしろにすること。
※ 愛別離苦(あいべつりく)- 親愛な者と別れるつらさ。親子・夫婦など、愛する人と生別または死別する苦痛や悲しみ。仏教でいう、八苦の一つ。


浄土往生の信心成就したらんに付いても、この度が輪廻生死の果てなれば、歎きでも、悲みも、最も深かるべきに付いて、跡枕に並び居て、悲歎嗚咽し、左右に群衆して恋慕涕泣すとも、更にそれに依るべからず。さなからんこそ、凡夫げも無きて、ほとんど他力往生の機には、不相応なるかやとも、嫌われつべけれ。されば、見たからん境界をも、憚(はばか)るべからず。歎き悲しまんをも、忌むべからず」と云々とあれば、流義の意は臨終の行儀など別の設けるにも非ずと聞こえたり。
※ 跡枕(あとまくら)- 後枕。横たわった人の、足の方と頭の方。
※ 涕泣(ていきゅう)- 涙を流して泣くこと。
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道聴塗説 その六 2

(今夕の夕焼け)

夕方、雨戸を閉めに出たら、辺りが真っ赤になるほどの夕焼けに、急いでデジカメを持ち出し撮った。みるみる赤みは薄らいで、青い闇が空を覆い始めた。その後、夕食後には、昨日に続いて雷雨となった。目まぐるしい天候の変化は、まるで寒気の断末魔のようである。(昨日気になったクリスマスローズは無事だった)

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「道聴塗説 その六」の解読を続ける。

先徳たちの教えにも、臨終の時に阿弥陀仏を西の壁に安置しまいらせて、病者その前に西向きに臥して、善知識に念仏を勧められよとこそ候えば、それこそあらまほしき事にて候え。(これ往生要集の臨終行儀の旨により給う。臨終の知識なりて、叶わぬ事には非ず。但し、知識を用い候は、観経の下品下生の人は、誰も念仏勧むる人なき時は空しく、阿鼻に随(ずい)すべければ、かかる罪人の臨終まで、往生の法を聞かぬものには、是非に知識を請ずべし。)
※ 先徳(せんとく)- 前代の有徳の高僧。また、祖師。
※ あらまほし - ありたい。あることが望ましい。好ましい。理想的だ。
※ 臨終行儀(りんじゅうぎょうぎ)- 死の間ぎわの病の床にあって、どのように死を迎え、死んでいったらよいかを教えるテキスト。
※ 阿鼻(あび)-(サンスクリット語、「無間」と訳す)阿鼻地獄。無間地獄。八大地獄の第八。地下の最深部にある最悪の地獄。五逆などの大悪を犯した者が落ち、火の車・剣の山などで絶え間なく苦しみを受ける所とされる。


但し、人の死の縁は兼ねて思うにも叶い候わず、俄かに大路にて終る事も候。また大小便利の所にて、死ぬる人も候。前業逃れ難くして、太刀、刀にて命を失い、火に焼け、水に溺れて命を滅ぼす類い多く候えば、左様にて死に候とも、日頃に念仏申して、極楽へ参る心だにも候人ならば、息の絶えし時に、阿弥陀、観音、勢至来たり、迎え給えしと信じ、思し召すべきとて候なりと仰せられたれば、臨終の知識は、生涯逆悪の人、念仏も申さず、本願をも信ぜず故に、臨終に知識の勧めなくば、永劫を失わん。
※ 大小便利(だいしょうべんり)- 東司において大小便を行うこと。
※ 知識(ちしき)- 仏法を説いて導く指導者。善知識。
※ 逆悪(ぎゃくあく)- 主君にそむくなど、道理や秩序に反する悪。
※ 永劫(えいごう)- きわめて長い年月。永久。永遠。


これ故に知識を請(しょう)ずべし。また日頃、念仏者たりとも、臨終に知識を請ずるほどの暇もあり、知識も近くあらんに、流儀には入用無きとて、わざと知識を用いぬと申すことには非ず。なることならば、臨終には知識などの念仏を勧め、自他ともに本願の誤りなき事を信じて、称名すべきなり。

(「その六」おわり)
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道聴塗説 その六 1

(鉢のクリスマスローズ)

夜、帰ってきた息子が雹(ひょう)が降っているという。夜には所によって、雷を伴って荒れるとは聞いていたが、雹は予想していなかった。昼間写真に撮ったクリスマスローズはどうなっただろうかと心配する。雹では一たまりもないだろう。

追い打ちをかけるように、9時過ぎに停電した。すぐ回復して一度電気が点いたがすぐに消えた。息子がスマホで、中電から出る情報を確認している。スマホが唯一の情報源であった。原因不明のまま、回復には一時間以上かかった。便利な時代、便利さの大半を電気に頼っていることを思い知る。石油ストーブの暖房も停電すると消えてしまう。結局、暗い暖房のない部屋で毛布にくるまっていた。

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今日より「道聴塗説 その六」の解読を始める。

その六
一 問う。臨終に善知識を請して念仏を勧むる事、他流にはあれども、当流に用いずと申すは、如何が。
※ 善知識(ぜんちしき)- 正法を説いて人を導き入れ、仏道に精進させて解脱させる賢人のこと。真宗で法主(ほつす)のこと。

 答う。他流に限らず、当流にも用否は時宜によるべし。黒谷(法然)往生浄土用心の法語に、「日頃念仏申せども、臨終に善知識に逢わずば、往生し難し。また病(やまい)大事にて、心乱れ、往生し難しと申し候わんは、さも言われて候えども、善導の御意にては、極楽へ参らんと心ざして、多くも少なくも念仏申さん人の、命尽きん時は、阿弥陀仏(あみだほとけ)、聖衆とともに来たりて、迎え給うべし」と候えば、日頃だにも御念仏候わば、御臨終に善知識候わずとも、仏は迎えさせ給うべきにて候。(臨終知識なくとも、弥陀仏の他力ほど、善き知識はなし。これ故に、平生の念仏を勧め給う。仰ぎて信ずべし。)
※ 時宜(じぎ)- 時がちょうどよいこと。適当な時期・状況。
※ 往生浄土用心の法語 - ある人が往生するということに関して、はっきりしないことを尋ねたことに対する法然上人の解答としての法語。


また善知識の力にて往生すと申し候事は、観経の下三品(げさんぼん)の事にて候。下品下生の人などこそ、日頃念仏も申し候わず、往生の心も候わず、逆罪の人の臨終に、初めて善知識に遇いて、十念具足して往生するにてこそ候え。日頃より他力の願力を頼み、思惟の名号を唱えて、極楽へ参らんと思い候わん人は、善知識の力、候わずとも、仏は来迎し給うべきにて候。(この旨なれば、臨終の知識なくとも苦しからず。)
※ 十念(じゅうねん)- 浄土教においては、「南無阿弥陀仏」を十回称える作法のひとつ。
※ 具足(ぐそく)- 過不足なくそろっていること。
※ 思惟(しゅい)- 対象を心に浮かべてよく考えること。また、浄土の荘厳を明らかに見ること。


また云う。さればとて、徒(いたずら)に候わぬべからん。善知識にも向かわで終らんと思し召すべきにては候わず。
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道聴塗説 その五 2

(庭のシュモクレン)

今年もシュモクレンが咲く。考えてみたら、毎年、同じ写真を撮っている気がする。

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「道聴塗説 その五」の解読を続ける。

直に浄土宗に就て本願の機を論ずれば、観経の疏に「弘願と言うは大経に説くが如く、一切善悪の凡夫、生ずることを得る者は、皆な阿弥陀仏の大願業力に乗じて、増上縁と為さずということ莫きなり」とある如く、願文の十方衆生は、善悪の凡夫なり。何ぞ偏えに悪機を正として、善人を傍にせんや。
※ 大願業力(たいがんごうりき)- すぐれた願によって成就された阿弥陀仏の救済のはたらき。
※ 増上縁(ぞうじょうえん)- 浄土教で、三縁の一。名号を唱えれば、罪障が消滅し、臨終のときには必ず阿弥陀仏が来迎し、往生できること。


されば、口伝鈔に、「然れば、機に生れ付きたる善悪の二つ、報土往生の、得とも失ともならざる条、勿論なり。されば、この善悪の機の上に保つ処の弥陀の仏智をつづりとせずより外に、凡夫、如何でか往生の得分あるべき」云々とあるにて、合点すべし。
※ 得分(とくぶん)- 物を分配する際,その人がもらう分。分けまえ。取りまえ。

また、善導の疏に、機法二種の信あり。愚禿鈔に「信機を自利信心とし、信法を利他信海」と判じ給う。ただ悪機ばかりを信じて、弘願を信ぜざれば、往生の因を成せず。
※ 善導の疏(ぜんどうのしょ)- 中国浄土宗の僧で、「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した、善導大師が撰述した「仏説観無量寿経」の注釈書。
※ 機法二種の信 - 機の深信と法の深信の二種。自己の素質や能力は劣っており、阿弥陀仏の本願でなければ出離できないと深く信じることと、そのような者を救うのは阿弥陀仏だけであると深く信じること。
※ 愚禿鈔(ぐとくしょう)- 親鸞の著作で、浄土教の先徳の教えを通して親鸞自身の信心 の立場を明らかにした論書である。
※ 自利信心(じりしんじん)- 自力の信心の意。
※ 利他信海(りたしんかい)- 他力回向の信心のこと。


しかるを悪機の上を以って、臨終正念を疑い、宿因を信じて水火等の縁を思いて、臨終如何と疑うは、我が機の上を沙汰して、弘願の不思議を信ぜぬなり。これ信機にて信法に非ず。故に初心の行者なり。

かの法を信ずるに至りては、既に悪機の往生を信ず。往生を信ずれば、臨終正念も信ずべし。共に自力に就いては、往生も不定なれば臨終正念も不定なるべし。他力に就いては、現世の利益に信ずべし。何ぞ臨終正念を疑わんや。ただ嫌い給うは、臨終正念のとき往生と心得て、平生の念仏を不定に思う故なり。

(「その五」おわり)

読書:「書楼弔堂 破暁」京極夏彦 著
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道聴塗説 その五 1

(散歩道のヒマラヤユキノシタ)

午後、金谷宿大学の28年度の閉講式と29年度の開講式が夢づくり会館であった。式の直前まで、理事の役割で、駐車場の整理をしていたので、直前にホールに入った。教授席は最前列の2列がそうであった。空席を見付けて着くと、事務方の女性が理事は演壇に上がるようにと言いに来たので、回り込んで脇から入り、演壇上の席に着いた。偉い人の挨拶の後、理事が紹介されて、立ってお辞儀をした。色々あって、もう一年理事をやることになった。語学・教養学部では、70歳でも若手の教授のようで、仕方がなくと理事を受けていた。

開講式のあと、展示の後片付けをした。大人数ですったもんだあって、色々もめることもあったが、随分早く終えることが出来た。講座からは3人片付けに出てくれた。

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今日より「道聴塗説 その五」の解読を始める。

その五
一 問う。上件の如く、口伝鈔の意は、初心の行者に示し給うならば、かの鈔には本意、凡夫の御誓いなれば、悪人を正機と判じ給う。鈔に曰く、「縦令未来の生処を弥陀の報土と思い定め、共に浄土の再会を疑いなしと期すとも、遅れ先立つ一旦の、悲しみ惑える凡夫として、何ぞこれ無からん。」云々。
※ 口伝鈔(くでんしょう)- 浄土真宗本願寺第三代覚如の著作。覚如が、親鸞の孫にあたる如信より、口授された教義を記した。
※ 一旦(いったん)- ひとたび。 一度。


これを思わずんば、凡衆のに非ざるべし。けなりげならんこそ、誤って自力聖道の機たるか。今の浄土、他力の機に非ざるがとも、疑うべけれ。愚かに拙(せつ)げにして、歎き悲しまん事、他力往生の機に相応たるべしなど仰せられて、誠に
他力の深趣とするに似たり。何ぞ初心の機とは申すぞ。
※ 摂(せつ)- いろいろ合わせ取り入れること。取り込むこと。
※ けなりげ - 態度がしっかりしているさま。頼もしいさま。
※ 深趣(しんしゅ)- 物事のふかい意味あい。


答う。本願の機を、ただ悪人と判ずる事は、諸経論等に多く、悪人を非機、傍機などする事ゆえに、如来の大悲弘願は諸経の傍機を正機とし給う旨を示して、他力真宗の深趣を明す。
※ 弘願(ぐがん)- 広く人々を救 おうとする願のこと。
※ 傍機(ぼうき)-「機」とは対象の意味で、正機は真ん中の対象であり、傍機は中心を外れた対象。他力の仏道においては、悪人こそが正機であり、善人は傍機であるとする。
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