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事実証談 巻之三 異霊部16 疫病神の告げ

(菊川市 大頭龍神社 /2014.4.14撮影)

午後、「古文書に親しむ」講座に出席した。今期最初の講座である。今年は13人の出席で、昨年メンバーより、高齢で一人減っただけの顔見知りのメンバーである。先生に断わって、全員に「再び」の本をもらって頂いた。

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第33話
城東郡加茂村に、清九郎という者の家に、文化七年と言いし年の九月の比より、薬売人宿りたるに、疫病を煩い付きしかど、為方(せんかた)なく宿さしめ置きたるに、十一月の初めよりかつがつ快く、十日比には労(つかれ)のみにて、疫病の気、退きたれば、主の衣服を重ね着せて、寒さをしのがせ、清九郎付き添いて、凡そ二里ばかりなる道を、かろうじて掛川駅に至れる比は、日も西に傾きて風吹まさりて、寒かりければ、病人に着せたりし衣服を、重ね着て帰りし故にや、
※ かつがつ(且つ且つ)- 不十分ながら成り立つさま。どうにか。ともかく。

清九郎をはじめ、家内四人疫病を煩いしのみならず、本家勘七が許にても、家内、親類、西方村の縁者、奥野村の縁者までも、一同に煩いし故、そのわたりなる者、恐懼(おじおそ)れて近寄る者、かつてなかりしを、同村なる医師ばかり、せん方なく病者に近寄り、とかくせしに、これもその気をうけて、煩い付きしかば、いよ/\人々恐懼れたりしに、

翌年の正月八日比にて有りし由、疫病神や着きたりけむ。勘七女房、譫言の如く言いけるは、我ら四人新野原へ行かむと思い立ちしが、一人は老人なれば馬にても行くべきかと言いけるを、人々怪しみ狐にても着きしにやと窺えども、然にもあらず。それより、かつがつ皆快方せしに、実は疫病神の告げにや有りけん。
※ 譫言(せんげん)- うわごと。病気で熱の高いときなどに無意識のうちに口走る言葉。

同村大頭龍権現(こは上に云へる疫病除けの神なり)の神主、白松丹後守の家に、先年仕えし女、新野原の者なるが、正月廿日比、神主の許に来て言うよう。この五、六日比より、近隣四軒にて俄かに疫病煩うにより、大頭龍権現の御社参詣に参りつと云うに、さては過ぎし日、勘七妻の譫語の如く言いしことは、正しく疫病神の告げにて有りしにこそと、人々疫病神の有る事を語りて恐懼(きょうく)せりと、則ち丹後守の物語なり。


第34話
豊田郡中泉村に、秋鹿立也(あいかりゅうや)という医師有りしが、寛政年中の比、磐田郡見付駅にて疫病煩う者有る時、治療に行きしに、譫語(うわごと)の如く、我らは二宮村に立ち越えむと云いしが、怪しとも思わず帰りしに、それより四、五日ばかり過ぎし比、俄かに二宮村にて疫病煩うにより、また秋鹿立也行き見るに、同症にて有りつと、立也の物語なり。

第35話
駿河国三軒屋にても疫病煩う者、兵太夫新田へ立ち越さんというに、果してかの方にて煩いたりと、その村の近きわたりなる僧の物語なり。
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事実証談 巻之三 異霊部15 野弧(やこ)が憑いた話(後)

(散歩道のルドベキア)

午後、駿河古文書会に出席した。8月に、当番が回ってくるので、そろそろ準備をしなければならない。

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第32話(後)
世に鎌鼬というはこれなり。また毒風となりて、その形躰(かたち)を隠し、後、形躰を結びて緋狐となる。則ち神にて奇怪の所行測るべからず。その緋狐、屋根の上に落ちたりし障(さわ)りなり。その時、家の棟低ければ即死すを、家の棟高きによりて、その死を逃れたり。この故にその家をだに廃(こぼ)ちなば、その障り退(しりぞ)きて全快する事はあらん。
※ 鎌鼬(かまいたち)-体を物にぶつけても触れてもいないのに,鎌で切ったような切り傷ができる現象。厳寒時小さな旋風の中心に生じた真空に人体が触れて起こるといわれる。かつては,イタチのような魔獣の仕業とされた。

その家に住居せん程は、医療手を尽すとも快気することあらじと言いて、時移りぬと両人ともに西をさして出で行きしが、女の事にしあれば、その物語を聞きしのみにて、何国の人ということも聞かず。主にその由物語れども、たゞ怪しみ思うのみにて詮方なし。かくて五兵衛は、十四、五年の難病にて、家業もならず、ただ人の介抱を頼みにて有りける故、朝夕の煙りも立てかねければ、家をこぼち新たに造らんたづきもなく、ただ歎きつゝ、また三年ばかりの月日を送りたりしに、
※ 時移りぬ - 長い時間が経過した。長居をしてしまった。
※ 煙り - 炊飯の煙り。
※ たづき(活計)- 生活の手段。生計。


文化二年にてか有し、上土町、界屋藤四郎とかいう者の家のわたりより火が出て、数多焼けたるに、かの五兵衛の家近くなりぬる故、家族を始め、人々寄り集まり、五兵衛を外に出し置き、家財を運ぶ程に、五兵衛が家も焼け失(うせ)ぬるに、棟焼落ちると均しく、五兵衛の難病、忽ちに全快し、十六、七年以前の如く、身躰健(すこやか)になりしは、いとも/\怪しくなん。

されど年久しく家業怠りし故、聊かの貯えもなきに、家さえ焼けしかば、作らむ力もなきにより、同宿上土町、江戸屋直右衛門とは、幼きとき手習いの友にてありければ、持高少々残れるを、則ち江戸屋方へ譲り、その代金を以って家を作り、六、七年ばかり有りしが、文化八年の四月、疫病を煩いて、五十歳にて死(うせ)たりと、則ち江戸屋直右衛門の物語なり。
※ 持高(もちだか)-江戸時代、高持百姓がもつ石高の量をいう。抱高ともいうが、持高に応じて年貢・諸役の負担量が決められた。

さて,かの二人の侍は如何なる人にかありけん。狐の化けたるかなど、五兵衛快方の後、人々噂せしが、その実を知る者、かつてなしと言えり。
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事実証談 巻之三 異霊部14 野弧(やこ)が憑いた話(前)

(裏の畑のジャガイモの花)

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第32話(前)
駿河国沼津駅新田町に、江戸神田和泉町四方(よも)の出店に、四方彦兵衛という酒店あり。主彦兵衛妻の姉は、浅間町飴屋五兵衛妻にてぞ有りける。頃は天明年中の事にて有りしよし。五兵衛俄かに中風の如く煩い付きしを、神仏に祈願し、医薬手をつくせども、そのしるしなく、既に十六、七年自由ならず。人の助けを得て起き臥しし介るまゝ、世わたり乏しく、姉娘をば彦兵衛方に預け置きたり。

享和年中の事にて有りしよし。或る日、三嶋駅に宿りし侍二人、朝とく彦兵衛方に立ち寄り、酒飲むに、五兵衛娘の酌しける顔を、つら/\見て言いけるは、汝が父は難病にて有りけり。薬を用うとも治るべき病にあらず。父の住家は高き家ならん。その高き棟だに廃(こぼ)ちなば、全快すべしと言いけれども、若年の娘なれば、答(いら)えもなく、さしうつむきて居たるを、主の妻、その物語を聞いて、言いけるは、彼が父は十四、五年以前、俄に中風の如く煩い付き、年月経れども聊か快氣なく、明け暮れ人の介抱にて、たゞ世に有るのみにて、家業のなりがたく、妻の手わざもてその日を送りけるまゝ、娘の養育も出来難く、我方に居りまする。

その娘の顔を見給いて、父の病を知り給うは、如何なる故ぞと問いければ、我ら人相を学びたる故、人の顔をだに見れば、その者の父母、妻子の事までも相するに、聊か違わずと言いけるにより、五兵衛は姉の夫なれば、なお委しく聞きまほしく、側にさし寄り尋ねけるは、只今娘に宣(のたま)いつるは、家の棟高からば取り捨てよ。それをだに廃(こぼ)ちなば快方せんとか。この娘の家は並々よりも高き方にて侍るが、如何なる故にて、さは宣(のたま)うぞと問いければ、
※ 相する(そうする)- 物事の姿・ありさまなどを見て、そのよしあし・吉凶などを判断する。また、人相・手相・家相などを見て占う。

その由聞かむとならば物語りて聞かすべし。この娘の父の病というは尋常の病にあらず。これは、野狐年を経て、白狐となり、黒狐となり、風狐となる。
※ 野狐(やこ)- 九州地方に伝わるキツネの憑き物。これに憑かれることを「野狐憑き」という。野狐の姿は伝承ごとにほぼ一致しており、実在のキツネと違って色が黒いとも白いともいい、ネズミより少し大きい、あるいはネコよりも小さいとされ、本来の野狐は目に見えないともいう。野狐に憑かれた者は病気のような症状が現れるといわれる。この話は西国の伝承が紛れ込んだものと考えられる。

(次回へ続く)
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事実証談 巻之三 異霊部13 狐着きと稲荷社

(散歩道のノイチゴ)

毎年、同じところにノイチゴが赤い実をつける。普通なら次の瞬間摘んで口に入れる所であるが、この土手道は頻繁に散歩の犬が通る場所だから、取るのは写真だけにした。

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第30話
長上郡美薗庄、小次郎という者の下女、文化二年十月廿八日、狐着きて言いけるは、我こゝに来れるは悩まさんとにはあらず。我れ実は稲荷なるが、今まで定れる社なければ、せん方なく取り付きたり。社をだに造りて祭らば、永く守護神となり、家内繁昌を守らんと言いて、ふつに退かざれば、為方(せんかた)なく、十一月の初め、俄かに小祠を造り、屋敷に稲荷明神と祭りたれば、速やかに退きたるは、実に野狐の業とも見えざりけり。
※ ふつに(都に)- 全然。まったく。

さて、それよりそのわたりなる人々、稲荷幸いを守ると言い伝え、聞き伝え、参詣する者数多なり。かくて或者、小次郎の門の前に土場を設けたるを(地に莚を敷き博奕春るを、俗に土場という)、禁制なりと制しけるを、その設けたる者の所業にやあらん、その夜、稲荷の小祠を人知れず他境に持ち行き捨てたるを、主はかくとも知らず、小祠失せたりと、驚き尋ねけれども、あらざりければ、また新たに造立して祭りけるを、さて、後は参詣の人はさらに無かりしかども、稲荷明神の着いて、行末繁昌を守らんと告げたる故にや、則ち下女を妻とせしと、そのわたりの人の物語なり。
※ さらに - いっこうに。まったく。少しも。


第31話
寛政年中、周智郡犬居庄にて、新治郎という者に狐着きたるを、手を尽くして退けんとすれども、さらに退かず、狐のために遂に新治郎は死(うせ)たるに、また円之助という者に付いて、言いけるは、われは新治郎に付きし狐なるが、日を経たりしほどに、毛袋を失いて、帰らむすべなきまゝ、またしも取り付きたり。我を新治稲荷と祭りなば、速やかに退くべし。さらぬ限りは退かじと言いけるに、為方(せんかた)なく、川中なる小山に小祠を建て、その狐の霊を祭りたれば、速やかに退きつとなん。

さて、それより遠近の人、その社に参詣し祈願するに、その験(しるし)有りとて、とりどりに赤幡、白幟を立てたるに、その数、百本に余れりとぞ。またその頃、天宮郷、市之助という者に狐着きて、新治稲荷を信仰せざる故なりと言いけるにより、如何なる崇りかあらんと、俄かにとりどりに紙幟を造り、かの稲荷の社に立てたるを、甚(いと)数多く、参詣の人の目を驚かすばかりなれば、領主より新規の勧請勝手ならずと、その社を青竹にて結(ゆ)い、参詣を許さゞりしが、忽ち参詣止みにきと言えり。
※ 勧請(かんじょう)- 神仏の分霊を他の場所に移しまつること。
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事実証談 巻之三 異霊部12 狐の兄弟恩返し(後)、狐の霊あれこれ

(これも散歩道のガクアジサイ)

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第27話(後)
さて、平右衛門はその日暮方より、近きわたりに霊祭有りて行きたるに、日暮るゝ比、急用有りとて僕迎いに来たれども、帰らざるゆえ、三度までぞ迎いには行きたりける。平右衛門の如何なる用が有ると、帰りて尋ぬるに、家族も知らず、僕も迎いに行きし事なしと言えるにぞ。
※ 霊祭(れいさい)- 先祖の霊をまつる行事。たままつり。

さては狐、久次郎の帰りしを告げしならんと、即ち久次郎方へ行きしかば、未だ衣服も脱ぎあえざる程にて、娘の口ばしりつる事どもを、具(つぶさ)に物語り、両人ともに怪しみ、さては先年、狐の死(うせ)たるを稲荷明神と祭りしが、この比その祠の損じたるを、其許と繕(つくろ)いつる礼にこそ来たりつらめ。さらば、ともかくも乞い願う事のまゝに号(なづ)け祭らんとて、福徳稲荷、安平稲荷と並び祭りたりければ、人々聞き伝え/\詣る者も多かりしかど、人目如何と参詣を断りとゞめ、ただ屋敷の守護神とのみ祭れりとなん。

さてまた、久次郎は、教えしまゝに娘、聟諸共に迎え返し、家督を譲りしかば、両家ともに幸い有るのみか、平右衛門の養子は医を業としたりしが、年老いて嫡子に世業を譲り、隠居したるに、ある夜更けて外より呼ぶ者有り。老翁目覚めて誰ぞと問えど答ざりける故、夢にて有りしかと、眠らんとするに、またしも先の如きを怪しみ、起き出て廻り見れば、湯殿に火の光り有るを、風呂の火のなごりの燃えるにやと、家人ども呼び立てけるに、起きるほどに燃え上りしを、人々疾く打ち消したる故、いさゝかの過ちにて鎮まりぬるによりて、思えば老父を呼びしは、実に稲荷の呼びしならんと、則ちかの家の主の物語りなり。
※ 世業(せいぎょう)- 先祖から代々受け継いできた仕事・事業。


第28話
豊田郡笹原島村、佐右衛門という者、明和年中の比にて有りしが、屋敷にて、ある夜、故なくて狐死にたりし故、その所に埋めつゝ言い含めけるは、我慈愛を以って汝が亡骸を隠し、今より稲荷と祭らむに、屋敷守の神となれと掘り埋め、則ち稲荷と祭りしを、幾年経れども、何のしるしもなしと。則ち佐右衛門物語りき。

第29話
同郡池田庄なる氏神八幡社にて、狐死(うせ)たりしを、権十という者見付け、その侭捨て置かむも如何と亡骸隠しけるに、その狐の霊、かの権十に着きて、あらぬ事のみ口ばしりけるにより、僧修験に乞いて退けんとすれども退かず、果ては権十、狐の為に死せりといえば、何事も一方には定めがたき物になん有りける。
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事実証談 巻之三 異霊部11 狐の兄弟恩返し(前)

(6月のウェルカムデコ)

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第27話(前)
山名郡飯田村に、安間平右衛門という人有りけり。元文、宝暦の比とかや。ある時、狐一疋来りて庭に入りたりしに、甚(いた)く悩(病)める形状なれば、あるじ労わりて、薬など与えたれど、そのしるしなく、三日ばかり悩みて死(うせ)たりしを、古き衣類にてまとい、屋敷の内に掘り埋め、修験を招きて稲荷明神と祭れるより、

三十六年後、その祠の破壊(はえ)したるを、隣りなる鍛冶屋、久次郎という者を雇いて、主ともに修理したるに、その比、久次郎方にては娘に聟をとりしかど、故有りて娘諸共、婿の里一色村に立ち越して、離別ともなるべかりしを、その娘に狐着きたる故、家族驚きせめ問いければ、娘言いけるは、甚くな驚き給いそ、我今こゝに来て着きたるはあだなう心にあらず。
※ 甚(いた)くな驚き給いそ - ひどく驚かないでくれ。
※ あだなう(仇なう)- あだをなす。敵対したり害を与えたりする。


そも/\我は関東の狐なるが、平右衛門殿、久次郎殿、我が兄の祠を造り給いしを歓び、謝せんためなりと言うによりて、よし平右衛門方へ告げたりければ、平右衛門も怪しき事に思い、久次郎を遣して、何事をか言うと聞かせけるに、かの娘、我こそ三十六年以前、平右衛門殿の家にて死(うせ)たりし狐の弟なるが、兄死たりしを、平右衛門殿、慈愛の志深く、懇ろに取り納め給いしのみか、その所に小祠(ほこら)を建て、稲荷明神と祭り給い、屋敷守りの神となし、今その祠の雨風に損なえるまで、繕い給えれば、そを歓び謝せんため、こゝには来たれり。
※ よし(由)- 物事の理由や事情。

また其許(そこもと)の御為、よからん事を申すべし。そは聟、娘諸共家出し給える事を怒り給い、帰さじとのたまうは、あまりに御心強き方にて、御為悪(あ)しかりなん。御身怒りをのどめ給い、速やかに帰し給え。しかし給わば、行末栄えまさむ。必ず我言にな違(たが)い給いそ。
※ のどむ - 落ち着かせる。静める。
※ しか(然)- そのように。


また平右衛門殿には今一つの願い有り。我兄の亡きあとを稲荷明神とは祭り給えども、何稲荷とも号(なづ)け給わず。ただ稲荷とのみ祭りては不足事なり。兄をば福徳稲荷と号け、我をば安間平右衛門という頭字二つ取りて、安平稲荷と号けし。屋敷守りの神と祭り給わば、今より盗人の害、火の災いなく、家繁昌を守るべしとぞ言えりける。久次郎その事どもを諾(うべな)い帰りたれば、即ち狐は退きぬとなん。
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事実証談 巻之三 異霊部10 愛染明王、童と遊ぶ神様

(25話、静岡曲金、軍神社/2012.11.13撮影)

69歳誕生日の祝い。まーくん一家が来て祝う。同日生まれのまーくん、同月生まれのあっくん合せて祝う。

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第23話
敷智郡浜松庄に、浅田立軒という医師有りけり。居住遠近に転じて、医業専らと勤めけるに、寛政年中の比にて有りしよし。紺屋伝右衛門という者の家に病人ありて行きたるに、暑氣強き比にしあれば、木陰にて沐浴するに、その所より窪かなる、いぶせき地に地神というべき祠有り。沐浴する水、その祠の方に流るゝ所のさまなれば、地神にてはよもあらじ、如何なる祠にかと主に尋ぬれば、愛染明王なりと答う。立軒密かに思いけるは、紺屋なれば清地を撰びて祭るべきを、かくいぶせき所には祭れる事と思いしかども、身に預らぬことにしあれば、さて帰りしを、
※ いぶせき - むさくるしい。きたなくて不快だ。

その後また行きたるに、かの祠有りし所を払い清め、石にて畳み、その上に新たなる祠建て有るを見て、かくてこそ、その職繁昌すべき事なれと思いつゝ帰りしに、その後つてに聞くに、しかせしより、藍皆くさりて、凡そ二十両ばかりの損失にて、紺屋もしあえずなりはてしこそ、怪しけれ。こはかの祠を新たに造り、地を祓い清めたること、愛染明王の御心にかなわず崇り給うにより、然(しか)はありつというと、則ち、浅田立軒の物語なり。
※ 畳む(たたむ)- 道に敷石などを敷く。


第24話
豊田郡赤池庄、於呂明神社は、社領拾石目ありて、宮造りも並々ならざれども、往昔より扉に掛金、錠もなきゆえ、明和年中の比とかや、そのわたりなる童ども、御社に寄り集りて戯れけるに、何時しか社内なる木像を取り出し弄びとするを、祠官中村山城、見付けて大きに驚き、童どもを追い退け、祓い清めて迁(うつ)し鎮めまつりて、俄かに錠を造りてかためければ、

祠官に神着きて、乱心の如く怒り、訇(ののし)りけるは、我れ童と遊びて楽しかりしを、その童を追い退け、我を童の寄ることなり難く、なぞ錠を造りて籠めたるぞ。我が心に違(たが)う者は、皆殺しにせんと、踊り上り/\怒りけるに、人皆神の荒びと、畏こみまつり、造り固めたる掛金を取り放ち、鎮めまつりしかば、速やかに神着き鎮まれりと、則ち中村家の親族の物語なり。


第25話
駿河国曲阜村に軍陣坊という堂あり。これも童ども木像を取り出し、弄びとせしを、持主海野氏、童を制し、祓い清めて安置し、童の近寄り難くしたりければ、忽ちに崇り有りしかば、また童の近寄り安く、もとの如くになしつと言えり。
※ 曲阜村軍陣坊 - 現、曲金の軍神社。


第26話
同国府、御徒町稲荷社にても、安永年中の比とかや、童ども寄り集まり、木枝を以って仮輿を造り、社の(しるし)を迁(うつ)して、祭礼の真似して、川原に持ち出でしを、鍵取り小嶋屋の某、見付けて、童を制し社内を祓い清め、御璽を迁し鎮め奉りたれば、崇り有りし故、観伝という僧を以って、和(なご)め奉りたりければ、速やかに鎮まりつと、そのわたりなる神職大藪美作、物語り。
※ 璽(じ)- 印章。
※ 鍵取り(かぎとり)- 村落の旧家などで、鎮守の社殿の鍵を預かって祭りのときに扉を開閉したり、賽銭の保管をしたりする役の者をいう。鍵預り、鍵持ちなどともいう。
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事実証談 巻之三 異霊部9 阿閦仏、十二神

(浄光寺本堂)

午後、「駿遠の考古学と歴史」講座へ出席する。今年度の初回講座である。受講者は17名。

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第21話
豊田郡野辺郷、常光寺の本尊は阿閦仏なるよし。人々祈願するに、その験有りしにや、参詣する者多かりつと言い伝えたるを、何時の比にか有りけむ、その寺は外に移したれども、その所はなお常光寺谷と云える故にや、その寺の本尊に祈願する事なく、誰も/\その寺跡をのみ尋ねて祈願するは、まこと験こそ有るならめ。
※ 阿閦仏(あしゅくぶつ)-大日如来のもとで発願・修行して成仏し、現在もその国土で説法しているとされる仏。

さてその寺跡は、同村才兵衛という者の持にて有るよし。近き年比、才兵衛の弟久治郎という者、信仰してその寺跡に小祠を建立して、足場神と称して祭るよし。腰より下の病有る者、腰蓑を奉納して祈願するに、その験有りとぞ。すべて事ある節はそのわたりなる者なべて祈願すと言えり。



(浄光寺の阿閦如来を祭ったお堂)

磐田市敷地に浄光寺というお寺を道路地図で見つけた。常光寺とは字が違うが、読みは同じである。そばに野辺神社があり、隣りの集落は下野部である。おそらく21話はこのお寺の事だろうと見当をつけて出向いた。この頃は行き先はカーナビ任せで、迷うことなく付いた。一段高い、ぽっかり開いた敷地に、本堂らしき一棟の建物と、少し離れてお堂が一宇在るだけで、何もない。木の一本、石塔の一つも立っていない。本堂にも生活感もないから無住なのだろう。お堂に参ると、阿閦如来が祭られていた。この浄光寺が21話の常光寺なのは間違いはなさそうだが、21話とどのように絡んでくるのかは判らなかった。

第22話
駿河国府のわたりに、真言宗の寺に十二神の木像を安置したるに、信仰して常に参詣の人数多(あまた)有りしを、明和年中の比とかや、その十二神の木像を、有りし像よりも大きに造りて、取替えたる故、その寺より十丁余隔だたれる曹洞宗の寺ある、その寺の住僧、十二神の古き木像を真言宗の住僧に乞い受けて、曹洞宗の寺に安置したるより、かの真言宗なる十二神に参詣する者、まれになりて、なべて曹洞宗の寺なる古十二神を尋ね行きて、信仰する事となれりと、そのわたりの人の物語なり。こは常光寺の僧とは反対の説にぞ有りける。
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事実証談 巻之三 異霊部8 士石山、瘡薬師

(静岡城北公園のカルガモ親子)

午後、駿河古文書会で静岡へ行く。城北公園のカルガモの雛が三羽しか見えなかった。

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。


(士石山林昌寺)

第19話
豊田郡岡本郷小立野村、富石山林昌寺の門前なる鎮守の祠に、富士形の石有りけり。こは三代目の住僧、月澗洲舩和尚と云いし僧、富士浅間に参詣せんとて、行く道にて三角なる石、草鞋(わらじ)の中に入れるを取り捨てけるに、その石草鞋に入る事、すべて三度、取り捨てる度に見るに、皆同じ形の石なりければ、富士山近き所は石角有るにやと思いしが、三度目に心付いて、他の石に合わせ見るに、さる石、かつてなきにより、さては神の賜物ならんと、持帰りて鎮守の祠の鍵穴より入れつるを、後に出し見れば、いつしか大きになりたるを、和尚怪しみ、神石と尊信して、士石山と言いしを、また富石山と改めつと、かの寺の云い伝えなり。

6月10日、19話、20話、21話の現地を取材して来た。19話の富石山林昌寺は磐田市の天竜川に近い、国一沿いにある。山号は現在は士石山となっていた。寺守の熟年男性が見えたので、山号由来の富士山形の神石の所在を聞いた。僧侶ではないので詳しくはない。その住職も雇われで、よく知らないと思う。檀家総代は郷土史を熟知した人で、大学の先生が聞きに来る位だから、詳しいと思うが。「事実証談」のその部分を見せたけれども、結局、そんな石の話は聞いたこともないという。お寺の山号の謂れなのだから、惣代さんにまた聞いておいて下さいと、未練がましくお願いして、林昌寺を後にした。


(瘡薬師金西寺)

第20話
佐野郡原川村、金西寺の本尊は、往昔、原川村の南、平野村と篠場村との境なる、田中の沼より堀り出せしを、その時、如何なる故にか、その仏像を槍もて突きたりとて、その痕有るよし。そは阿弥陀如来の像なるを、始め、いささかなる堂を建立(たて)て安置せし故、諸人、金阿弥陀堂と称(い)いしを、また、かなみ堂と称い、また転じてかなめ堂と称い、またかさみ堂と称いしより、を病む者祈願するに、その験有りつと見えて、何時しか瘡薬師と称い慣わせし故、世人阿弥陀なる事を知らず。ただ薬師如来として祈願するに、その験有るにや。今は遠国往来の旅人までも、祈願する者多かりとぞ。かく段々繁昌まさりければ、近き年比、大きなる堂を建立して、常に参詣の人絶えずと言えり。
※ 瘡(かさ)- 皮膚のできもの、はれもの。また、傷の治りぎわに出来るかさぶた。梅毒の俗称。


第20話の金西寺は、旧東海道の掛川宿と袋井宿の、間の宿原川の旧街道沿いにある。今は「笠薬師」と呼ばれている。瘡を病むひとに霊験あらたかで、往時は東海道の旅人を含めて、参詣人が絶えなかった。「瘡薬師」が実体に合っているのだろうが、「瘡」では生々し過ぎるというのであろうか。笠地蔵、笠寺など、本来は瘡地蔵、瘡寺なのかもしれない。栄養面も、衛生面も良くなかった往昔、「瘡」は厄介な病気だった。罹る人も多かったに違いない。「笠」に名前が変わったのは、「瘡」がそれ程深刻な病でなくなった時代のことであろう。

ちなみに、当ブログの「かさぶた」は「傷の治りぎわに出来るもの」である。「かさぶた日録」も始めて九年半となった。目標の10年に近付いている。10年経てば、現役時代に出来た数々の傷の「かさぶた」も、ポロリと取れて、痕形もなくなるのではないかと期待している。
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事実証談 巻之三 異霊部7 五輪塔ならぬ橋杭の頭の信心

(散歩道のイトバハルシャギク)

今日は69歳の誕生日である。60代最後の一年の始まりである。祝いは同じ誕生日の孫のまーくんと一緒に、次の日曜日に祝ってくれるらしい。

「事実証談 巻之三 異霊部」の解読を続ける。

第18話
豊田郡向笠郷に、向笠伯耆守の屋敷跡と言い伝えし所有り。その所は川沿いの処なるを、寛政元年と言いし年、その辺りを切り開いて川となし、かの屋敷に沿いたる川跡を田畑とせるに、地中より種々の形に造れる石、十ばかり出でしを、皆新たに造れる堤の上に並べ置きしを、何時しか失いて、二段になれる石のみ残れるを、

文化十一年と言いし年の冬、同村七右衛門という者、腰痛み起居なり難くて引き籠れるを、誰かは言い出しけん、新堤なる五輪の片破(かたわ)れに花を奠(たむ)け祈願すれば、萬験(よろずしるし)有りというを聞いて、七右衛門、堤なるかの五輪の片破れに花を立て、洗米など奠けて祈願したりければ、腰の痛み、速やかに平癒せるにより、人皆不審ながらも聞き伝えて、その石に萬(よろず)を祈願するに、まことに験こそ有りつらめ。
※ 起居(ききょ)- 立ったり座ったりすること。立ち居。
※ 五輪(ごりん)- 五輪塔。地・水・火・風・空の五大をそれぞれ方形・円形・三角形・半月形・宝珠形に石などでかたどり、順に積み上げた塔。平安中期ごろ密教で創始され、大日如来を意味したが、のちには供養塔・墓標などとされた。
※ 洗米(せんまい)- 神仏に供えるために洗った米。


そのわたりは更にも言わず、隔(へだた)れる所よりも、詣でる者いと多く、日毎に賽銭五、六貫文に余れども、誰取る者もあらざりければ、賽銭を積み置きて一宇の堂を建立して、片破石を安置したりければ、いよ/\群集(ぐんじゅ)する事、なみ/\ならず。
※ 更にも言わず - 言うまでもなく。


(五輪塔の片破れ、実際は、橋杭の頭)

同十二年の春夏の比(頃)には、はるばると尋ね来て、祈願する者も多かるにより、そのわたりの者、茶店、酒店を出したるに、いと賑いければ、次々に七、八軒、町屋の如く立ち並びたり。かくて夜な/\通夜する者も多かりければ、二間四面の参籠屋を建立(たて)たる比、立ち寄り見しが、その形(上図)の如く、この丈八寸ばかり、周廻(めぐり)およそ尺余りと見えたり。そのわたりの人に尋ぬるに、往昔この所に石橋有りけむを、その橋杭の頭ならんといえる。実に橋杭の頭というべき石のさまにぞ有りける。

さばかり繁昌しつるを、かゝる物は久しからぬ習いにて、幾程もなく音絶えて、たゞ一時の流行(はやり)物には有りしかど、その程祈願するに、そのしるし有りつるは、その時の神の心とは知られぬ。すべてかゝる物の時々に出で来る事多く、その物の流行る比には、その験有るを以って思い合わすれば、神仏なる事はさらなれど、三年に過ぐるは大方無けれど、まれには五年、十年、或は百年に過ぐるもなきにしもあらず。そが中に、いと長き流行物は儒仏の道にぞ有りける。
※ 儒仏(じゅぶつ)- 儒教と仏教。(著者は天宮の神主だから、儒教も仏教も一時の流行りと言い放つ)
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