平成18年に60歳を迎える。六十と縦に書くと傘に鍋蓋(亠)を載せた形である。で、「かさぶた(六十)日録」
かさぶた日録
東海道中膝栗毛を原文で読む
駿河古文書会の次回課題が、東海道中膝栗毛の一部分で、予習で今読んでいる。この一週間の間に予習して置かねばならない。解読した本から現代文に直した本まで、色々な本が出ているから、それを覗けば解読は容易いけれども、そこは見ないで原文を読んでいく。地方文書などはかなり読んできたから、パターンを覚えて、それほど苦も無く読めるようになっているが、この本のように、変体仮名が多用されている仮名文は、読んだ経験が少なくて、自分には難解である。漢字が多用されている文書の方がはるかに読みやすい。だから、ゆっくりと読んでいる。
東海道中膝栗毛は解読した本を拾い読みしたことはあるが、じっくり読むと十辺舎一九の諧謔の一端が解ったように思えた。
その一つは、弥次さん喜多さんの会話の中で繰り返される「詞咎(ことばとがめ)」である。宿に入り、たばこ盆に火を入れて持ってくるように頼むと、たばこ盆に火を入れたら、たばこ盆が焦げる。たばこ盆の中の火入れに火を入れると言え。飯を炊く様子だといえば、飯を炊いたら粥になる。米を炊けと言え。湯が沸いたと言えば、湯が沸いたら熱くては入れない。水が沸いたと言えという。こんな言葉尻をとらえた言葉遊びは、現代でもけっこう多用されている。
次に、会話が交わされる間に、本来の目的からどんどん逸脱していく可笑し味である。宿の客引との会話で、宿の間取りやサービスを質問して確認していく会話で、かみさんはいるか? からずれだして、宗旨はなんだ? お寺は遠いか? などとずれて行き、最後に、それで葬礼は何時だ? と聞いてしまう。こんなやり取り、漫才の中で聞いたことがある。
もう一つ、しくじりがある。早速、宿の上がり口で、足の洗い桶の中に、わらじのまま、足を入れて、湯を泥だらけにしてしまう。
こんな旅のやり取りを続けながら、弥次喜多道中が進んで行く。その中に、道中案内が織り込まれていて心憎い。小田原宿の、宿は小清水や白子屋、名物は梅漬と薬のういろう。まだわずか数ページを読み進んだだけであるが、膝栗毛本の意図が良く分かった。面白可笑しく読ませながら、道中の案内になっている。自分の「四国お遍路まんだら ふたたび」にもちょっと参考になりそうだ。
膝栗毛は、この後、関西より伝わった五右衛門風呂の説明が細かい字で書かれているが、大変に難解で、今日はそこまでにした。この後に、五右衛門風呂を踏み抜く有名な話に繋がっていくのであろう。
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