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「菊川宿」再考

(庭に咲いた萩の花)

今日、9月11日は9.11同時多発テロから10年経った記念の日で、ニューヨークでは式典が行なわれている模様が放映されていた。あの日、自分は九州のホテルで、夜テレビを見ていて、大きな衝撃を受け、9.11以前と以後では時代が変わったといわれるほどの事件だと思った。10年経ってオサマ・ビン・ラディンは殺されたが、どうやらその前にアメリカも世界をリードする強国から転落させられたと、後世の歴史家が論評するような状況になっている。

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(昨日の続き)
小夜の中山から東へ下ると、東海道の間の宿、菊川宿がある。江戸時代には正式の宿場ではないから宿泊は出来なかったが、食事などが摂れて休憩が出来た。鎌倉時代から室町時代までは、街道は小夜の中山から菊川宿を経て鎌塚から大井川を渡河したようで、菊川宿も宿場として機能していたと考えられる。

鎌倉幕府が開かれ、武家が政権を握る時代となって30年、1221年鎌倉幕府の内紛に乗じて、後鳥羽上皇は北条義時追討の詔を出し、公武の最初の衝突といわれる承久の乱が起きた。制圧された公卿側は、後鳥羽上皇が隠岐へ流され、五卿他が捕らわれ、見せしめとして各街道を鎌倉に向けて護送され、鎌倉に至る前に処刑された。

五卿の中で東海道を下った中納言宗行卿は菊川宿にひかれてきた。宿の名前を菊川と聞き、当時の知識層としては当然思い浮ぶ、中国の南陽県菊水で下流の水を汲んで齢を延べたという故事と、我が身を比べて、次の漢詩を宿の柱に書き付けた。

  昔南陽県菊水 汲下流而延齢 今東海道菊川 宿西岸而失命

その話ははるか都にも聞こえ、人々の涙をさそった。柱に残された文字は間もなく火災で失われたが、その後東海道を旅する幾多の文人墨客が所縁の地を訪れて、文や歌を残してきた。

それから百余年後の1331年、日野俊基朝臣が元弘の乱に連座して捕らわれ、同様に鎌倉へ送られる途中に菊川宿に至り、中納言宗行卿の故事に思いを致し、

   古も かゝるためしを 菊川の おなじ流に 身をやしづめん

と歌った。

宗行卿が書いた漢詩が、まるでこだまするように、後世の文人墨客の間を響き渡った。「菊川」と聞けば「菊水」を思い浮かべる、昔の知識人たちの共通の素地があったらばこそ、一連の逸話が生れた。

それもそこに菊川という川が流れ、「菊川宿」と呼ばれていたからで、もし「梅川」という名前であったならば、このような逸話が起ることは全くなかったわけで、これも言葉の不思議であると思う。
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